弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年4月21日

ノモンハン事件

日本史(近代)

著者 小林 英夫、 出版 平凡社新書

 今から70年前の1939年、満州国とモンゴルの国境線上にあるノモンハンで、日本軍とソ連軍が戦い、日本軍は壊滅的な敗北を蒙った。
 日本にとって、航空機や戦車が戦場を駆け巡った最初の近代戦であった。このとき、圧倒的な物量を誇り、爪の先まで鋼鉄で武装したソ連・モンゴル軍を前にして、肉弾で対抗した日本軍は粉砕されてしまった。
 1939年時点で、ソ連を100とした時の日本軍の兵力は、師団数で37、航空機で22、戦車で9に過ぎなかった。
 ソ連軍にはスターリンの大粛清の嵐が吹いていて、指揮系統は一時的に不能な状況にあった。しかし、ジューコフ元帥は健在だった。ところが、関東軍は、スターリンの大粛清によって、ソ連軍・モンゴル軍が弱体化していて、一撃で打倒できると踏んでいた。つまり、ノモンハンにソ連は大軍を繰り出すことはできないと想定していた。関東軍にとって、ノモンハンは200キロの地点にあるが、ソ連にとっては750キロも離れているので、輸送力の点でも関東軍が圧倒的に優位だと考えていた。
 しかし、ジューコフ司令官の指揮するソ連軍は、兵力的に日本の1.5倍、砲は2倍、戦車・装甲車で4倍の兵力を集めていた。ソ連軍は、軽戦車に代わる中戦車の投入と火炎放射戦車の登場で、日本軍陣地を蹂躙し、焼き尽くした。
 航空線でも、ソ連軍が日本軍を圧倒した。量的に優れていただけでなく、ソ連の航空機には防御についていろいろ改善され、戦法においても日本の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱戦法が一般化するなど、質的向上を遂げていた。
 ノモンハンにおける日本軍第24師団の死傷率は、兵員1万5975人のうち、死傷・行方不明ふくめ1万人以上と、消耗率は7割を超え、ほぼ全滅状態となった。
 そして、ソ連軍に捕虜となった日本兵は、帰還したあと、軍法会議にかけられ、将校には自決勧告、下士官兵には免官、降等、重謹慎、重営倉となった。
 こんなむごいことはありませんよね。日本軍が人間の生命をいかに軽んじていたか、良く分かります。そして、日本軍はこの重大な敗北から何も学ばないまま、太平洋戦争に突入していき、さらに大きな過ちを繰り返したわけです。たとえ悲惨な過去であっても、目を閉ざすわけにはいきません。
 
(2009年8月刊。760円+税)

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