弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2010年4月15日
灘校
社会
著者 橘木 俊昭、 出版 光文社新書
日本の現代貧困を分析する第一人者である著者がかの灘高校出身とは……。そして、灘高校を卒業して東大に入らなかった人は人生の落後者ではないのか、という疑問にこたえるのが、本書です。灘高校を出て東大に入らなかった自らの体験もふまえていますので、ともかく実証的ですし、説得力があります。
私の中学の同級生にも一人だけ、灘高校に入った男がいました(石田君は、いま、どうしているかな…?京都大学に入ったことまでは知っていますが…)。
1968年、私が大学2年生のときです、灘校はそれまでナンバーワンだった日比谷高校(都立校)を抜いて、東大合格者132人と、全国1位になった。これは、絶対数でも全国1位になったというのですから、すごいものです。
灘校では、1年生の時から成績順にクラスを編成する。これは毎年変わることになる。徹底した競争主義を実践することで、生徒に努力を喚起するのだ。
教師の配置も、上位のA・B組には優秀な教師の授業を多く、C・D組にはそれなりの教師を配置し、教材や進度にも変化をつける。
成績に応じて差を設けるのには、メリットとデメリットがある。メリットは、一部の優秀者と努力家の学業成績がますます上昇すること。デメリットは、差別的な教育を嫌う生徒からやる気を次第に失わせ、勉強をしなくなっていくこと。遠藤周作は、その落ちこぼれ組だった。教師は、ずっと生徒と一緒に持ち上がる。これは、先生のあいだで、学年をグループとした競争意識を生み出す。
良い生徒がいれば、良い先生も集まる。灘の教師は、出来のいい子を邪魔しないことが責務である。
灘校の東大合格者の8割は現役生だった。ある学年では、220人ほどの卒業生のうち、東大へ進んだのが150人を超した。7割の生徒が東大に合格するというのは、驚異的な数字である。しかし、多数派の150人と少数派の70人という2組の間に溝があるのでは……?
勉強ができると言うレッテルを貼られた生徒は、学校生活でも活発だが、できないというレッテルが貼られると、ずっとおとなしくしている。
灘校には、入試科目に社会がない。無味乾燥な暗記科目は不要だというわけだ。そこで、灘校の生徒の7割強は理科系である。
灘校の卒業生は、大半が大企業に勤めていて、社長・重役・部長に就いている。卒業生に官僚は意外に少ない。国会議員も少なく、2010年時点で6人しかいない。
ところが、医師は多い。これは、学生の親の4割が医師ということにもよる。東大理Ⅲ(医学部)90人(1学年)のうち、20人ほどが灘校出身。1962年から2009年までの灘校出身の累計は588人。2位のラ・サール校の292人の2倍という断トツの1位。
中高一貫校は、良いことづくめなのか?
高校の時から入ってくる新高生のなかに、潜在能力・学力の高くない生徒が入学してくる。そのため、新高生の募集を停止したところがある。その一方、中学校から入った生徒のなかに伸び悩む生徒が少なからずいる。小学生のときに塾などで過度に受験勉強をやりすぎて、燃え尽きてしまったということである。
そして、中高一貫校に入ってしまうと、生徒の育った家庭環境も生徒もかなり均質であるため、世の中の現実を知る機会が限定される。世の中には、貧乏人や勉強の不得手な人など、いわゆる弱者がいる。それらの人の存在を知る機会がなくて大人になると、偏った人生観をもつ危険がある。
いろいろなことを深く考えさせる、良い本でした。私は市立中学、県立高校の出身ですが、とりわけ市立中学での経験は、今となっては得難いものだと考えています。殺傷事件を起こして少年院に入った同級生がいて、勉強より歌唱力を伸ばすのに必死の同級生がいました。1クラス50人以上で1学年に13クラスもありましたので、騒然とした雰囲気でした。すぐ隣にある中学校の生徒との番長同士の対決も身近なものであり、暴力事件は日常茶飯事だったのです。世の中の荒波に少しはもまれていたのかな、と今は思うのです。
そして、それは弁護士になってから、世の中にはさまざまな生き方、考えの人がいることを多少なりとも受け容れることにつながっていて、役に立っています。
(2010年3月刊。760円+税)
2010年4月14日
鳥羽伏見の戦い
日本史(明治)
著者 野口 武彦、 出版 中公新書
幕末に起きた戦争のうち、禁門の変というのは少し知っていましたが、鳥羽伏見の戦いについては、その実相をまったく知らなかったことを、この本を読んでほとほと実感させられました。
この本は、「幕府の命運を決した4日間」というサブタイトルをつけて、激戦だった鳥羽伏見の戦いを忠実に再現しようとした画期的な労作です。
幕府軍は決して一方的に敗退していったのではなかったのです。フランスからヨーロッパ最新式の銃を大量に仕入れていて、それが戦場で大活躍したのでした。そして、両軍は白兵戦の前に大砲で撃ち合い、銃を活用して戦ったのです。
幕府軍が決定的に敗北したのは、何より将軍慶喜の日和見にありました。やはり、戦争では司令官の姿勢はきわめて大きく、選挙区を左右するのですね。
明治になってからも長生きした最後の将軍慶喜に対して酷評が加えられています。しかし、それも考えようによっては、それだからこそ、明治維新が早まったといえるのです。ただ、それは、上からの革命を推進してしまったことにつながっているから、下からの民衆主体の革命にならなかったという弱点をともなったという著者の指摘は鋭いと思いました。
慶応4年(1868年)1月3日から6日までの4日間、京都市南部の鳥羽と伏見で、薩摩軍を中心とする新政府軍と徳川慶喜を擁する幕府軍が激戦を交えた。両軍合わせて2万人の兵士が激突する。戦死者は幕府軍290人、新政府軍100人。戦闘は、武力討幕派の圧勝に終わった。幕府軍にはフランス伝習兵と呼ばれる最新装備の部隊がいた。伝習隊には2大隊があり、1大隊800人として、1600人が訓練されていた。そして、シャスポー銃という元込式の最新式をもっていた。
大政奉還は、将軍職を差し出すのと引き換えに、徳川家の実験を残しておこうという捨て身の業だった。
シャスポー銃は、1866年にフランスで制式歩兵銃に採用され、1870年の普仏戦争で活躍した。敗戦後のパリ・コミューンで反乱兵鎮圧に使われた悪名高い銃である。射程距離600メートル、充填は速く、1分間に6回発射できました。
鳥羽伏見の戦いで幕府軍が負けたのは銃砲の性能が悪かったからというのは、間違った俗説である。著者は、しきりにこの点を強調していますが、なるほど、と思いました。
戦いの当初、徳川慶喜の脳裏には、先発勢が優勢な兵員数で薩摩藩を威圧しつつ二条城に入り、下地を整えたところで自分がおもむろに上京すると言うイメージがあった。その幻想がもろくも崩れてしまった。
戦局の大勢を決したのは、大砲である。戦場の主役は、大砲対大砲の砲戦になっていた。
弾丸が命中して倒れた兵士は、たいがい短刀で自決した。この時代は、腹に銃創を受けるとまず助からない。たとえ即死しなくても、腹膜炎を発して苦しんだ末に絶命する。なまじ苦痛を長引かせるよりはと潔く自刃するのである。沼へ飛び込んでノドを突く姿は悲壮だった。
徳川慶喜には、頭脳明晰、言語明瞭、音吐朗々と三拍子そろっていながら、惜しむらくはただ一つ、肉体的勇気が欠けていた。一陣の臆病風が歴史の流向を変えてしまった。
慶喜がいなくなったと知った大坂城は、上を下への大混乱に陥った。それは260年ものあいだ、維持されてきた徳川家の権威が超スピードで消散していく数時間であり、とうに形骸化していた政治権力が屋体崩しのように自己解体していく光景でもあった。置き去りにされた将兵を支配した感情は、怒りでも悲しみでもなく、集団的なシラケだった。自分たちは、こんな主君のために我が身の血を流していたのか、という何ともやりきれない徒労感だった。
徳川慶喜は大阪湾から船に乗って江戸に向かった。このとき、まずはアメリカの軍艦に乗り込んでいるが、これもあらかじめ用意されていた。つまり、徳川慶喜はアメリカの庇護のもとに逃亡したのだった。うへーっ、今も昔もアメリカ頼みなんですか……。
そして、日本の軍艦「開陽」に乗り込んだあと、徳川慶喜は「自分は江戸に戻ったら抗戦せずに恭順するつもりだ」と初めて引き連れていた重臣たちに本心を明かした。
そしてこのとき徳川慶喜は愛人まで連れて船に乗り込んでいたのです……。
江戸に着いても、徳川慶喜はすぐには江戸城に乗り込まなかった。なぜなら、将軍になってから一度も江戸城に入ったことがなかったので、旗本たちの気心が分からず、不安だった。身辺の安全を確保できると慎重に見極めをつけてから入城した。
なんとなんと、自分の身の安全しか考えていなかったというわけです……。いやはや、大した徳川将軍ですね。
徳川慶喜は、12月16日に、英・仏・蘭・米・プロシア・伊の6国代表と謁見し、外交権は手放していなかった。そして、旧幕府から国体を引き継つぐのを忘れていた新政府は無一文であり、徳川慶喜に泣きついて5万両を引き出した。
明治維新の成り立ちを知るうえでは、欠かせない本だと思いました。一読をおすすめします。
(2010年1月刊。860円+税)
2010年4月13日
人は愛するに足り、真心は信ずるに足る
世界(アラブ)
著者 中村 哲・澤地 久枝、 出版 岩波書店
実にタイムリーな、いい本です。たくさんの日本人に読まれることを私からも望みます。私からも、と書いたのは、この本の聞き手である澤地久枝さんが、はじめにのところで、アフガニスタンで一人がんばっている中村哲医師のために何か役に立ちたいと考えて、中村哲医師の本をつくり、その本がよく売れるようにつとめ、その印税によって若干なりとも助けたいと思ったからだと書いていることによります。
そう言えば、私は最近とんとペシャワール会へのカンパをしていないなと反省させられたことでした。
この本を読んで、初めて知ったことが3つありました。
その一は、中村医師は最近、流れ弾に当たって負傷したということです。幸い足のけがですんだそうです。しかも、自分で足のケガを2針縫ったというのです。アメリカ軍の「誤爆」という危険もありますよね。中村医師の無事を改めて祈りたいと思います。
その二は、有名な作家である火野葦平との関係です。中村医師は火野葦平の甥にあたるのでした。中村医師の母は、火野葦平の妹なのです。
中村医師の父親は戦前の社会主義者で、刑務所にも入れられたことのある人です。そのことは、前に、この欄で紹介したことがあります。
火野葦平も一時期はマルクス主義に傾倒していたようです。その後、「転向」して戦記作家として有名になりましたが、戦後、そのことを気に病んで、53歳のとき自決したようです。
その三は、中村医師のプライバシーにかかわることなので伏せておきます。別に変なことではありません。私生活を世間にさらしたくないというご本人の意向を私も尊重したいと思います。
日本人は、自分の身は針で刺されても飛び上がるけれど、相手の身体は槍で突いても平気だと言う感覚をしている。これをなくさないとだめだ。
マドラッサというのは、地域の共同体のカナメである、マドラッサで学ぶ子どものタリバンと政治勢力としてのタイバンは違う。国連も、欧米そして日本も、マドラッサつまりモスクを中心にして行われている学校教育は危険思想の中心だと考えている。しかし、地域のアイデンティティのもとなのである。
マドラッサがないことには、アフガニスタンの地域共同社会というのは成り立たない。いま、ペシャワール会はマドラッサを建てている。そこで、ペシャワール会はタリバンのシンパじゃないかと偏見を持つ人がいる。しかし、イスラムの過激論者は、農村部には発生する土壌がない。ほとんど都市部である。自分の生きる根拠を失った人々が極端な行動に走りやすい。
ペシャワール会の職員で、日本人の伊藤さんのほかに5人が亡くなった。弾にあたって死んだ人のほかは、事故死。
ペシャワール会のかんがい事業は、150人の従業員と数十万人の命を預かっている。
62歳になって、体力の限界を迎えているが、「身から出たサビ」と考えて、一人、アフガニスタンに止まっている。代役は、そう簡単に見つからないと思う。
アメリカ軍は、アフガニスタンに十万人派兵すると言う。しかし、襲撃されるから地上移動を極度に制限している。そこで、アフガニスタン国軍を育てようとしている。
ところが、アフガニスタンという国は、イラクより二枚も三枚も上手である。遠からず、自分が育てたアフガン国軍兵士がアメリカ軍と対決する構図になることが大いにありうる。
中村さん、ぜひ、安全と健康に気をつけて、今後とも大いに頑張ってください。心より応援しています。
ぜひ、あなたも、この本を買って読んでください。それが、ペシャワール会を助けるのですから……。
(2010年3月刊。1900円+税)
2010年4月12日
象虫
生き物
著者 小檜山 賢二、 出版 出版芸術社
コクゾウムシ。幼いころはコクンゾムシと呼んでいました。米びつにわく小さな虫です。つまんで外に捨てていました。今は昔の話です。
ゾウムシは、このコクゾウムシの一つです。すごい写真集です。圧倒されます。体長3~6ミリの小さなゾウムシなのですが、それをくっきり鮮明なまま、超拡大写真で見せてくれます。怪獣です。それも、想像を絶する怪獣たちのオンパレードです。ヘンテコリンな顔や形。鼻も目も不気味な形をしています。色は怪しげに光り輝いています。
ゾウムシは世界に6万種いる。恐らく20万種はいるだろう。日本では1300種が確認されている。日本の蝶が200種なのに比べて、いかにゾウムシの種類が多いか分かる。ゾウムシは生物界でもっとも種数の多いグループなのである。
ゾウムシは1億年1上の年月にわたって命をつないで進化してきた、進化のトップランナーである。ゾウムシのキーワードは、多様性。色、形、大きさ、ともに多様性に富んでいる。ゾウムシは高度に進化した昆虫なのである。
この写真集を見れば、まさしくそのことが実感としてよく分かります。
長い鼻を持っているように見えるが、実は鼻ではなく、口。口吻(こうふん)という。
ゾウムシの仲間は飛ぶことが苦手だ。飛ぶことをあきらめて、身体を鎧で固めたのが、カタゾウムシである。
大部分のゾウムシは、死んだふりをして敵をやり過ごそうとする。
擬死は、あくまで死んだふりである。地上に落ち、やがて動き出して逃走する。
まず、カブトムシとかクワガタムシを想像して下さい。そして、派手な色をその体にペインティングします。さらに鼻(口吻)を長く伸ばします。眼はトンボやハエのような複眼です。背中はカミキリムシのようなスッキリしたものもあれば、毛がふさふさ生えているものもあります。その部分を拡大した写真があります。色つき真珠を背中にちりばめたような情景です。
いやあ、この世にはこんな生きものが無数にうごめいているのですよね。生命の神秘をひしひしと実感させてくれる、素晴らしい写真集です。
(2009年7月刊。2500円+税)
玄関脇に赤いチューリップが10本咲いています。一番遅いグループです。夜帰ったときは静かに迎えてくれますし、朝出かける時には元気ハツラツで行ってらっしゃいと見送ってくれます。奥の方には黒いチューリップも咲いています。真っ黒ではありませんが、かなり黒っぽいのです。アレクサンドルの小説「黒いチューリップ」を思い出します。
昔、オランダというかヨーロッパでチューリップの球根が投機の対象となったことがありました。
アイリスがたくさん咲いています。甘い芳香を漂わせるフリージアのほか、イキシアやシラーも咲いています。春の花園に入ると、身も心も軽く、浮かれてしまいそうです。
2010年4月11日
日本でいちばん大切にしたい会社2
社会
著者:坂本光司、出版社:あさ出版
鳩山首相が国会の所信表明演説で引用・紹介したこともあって、大変人気を呼んでいる本の第2弾です。
トヨタやキャノンのような、労働者を人間(ひと)と思わず使い捨てにすることしか考えない経営者にこそ、ぜひ読んでもらいたい本だと思いました。
この本の良いところ、読んで感動を呼び起こすところは、日本はアメリカのように株主優先であってはいけない、社員とその家族、今と将来のお客さん、そして地域住民とりわけ障がい者や高齢者を大切にするのが本当の企業経営だと実例をあげて力説しているところです。
株主(出資者)の幸福・満足は結果としてもたらされるものであって、追及する必要はないものなのだ。本当にそうですよね。株主へ高配当しようとして短期の業績を追い求めると、ろくなことは起きません。
もうかっていない会社は、例外なく本社機能が大きい。総務・人事・経理の社員が多すぎる。本社の社員は、社員が多すぎると思わせないように、「管理」という仕事を考え出す。管理しようと、本社がいろいろと口出しをしたり、手を出しすぎたりすると、現場の思考能力が停止する。すると、社員は自発的にものを考えなくなり、モチベーションが下がって、結果としてもうからなくなる。
二流、三流の会社は本社が大きく、一流の会社は本社が小さい。本社が小さいと、よけいな口出しができなくなるため、自然に分権がすすむ。何より、本社部分のコストが下がり、低コスト経営ができる。
ホウ(報)レン(連絡)ソウ(相談)をもてはやす企業は多いけれど、ホウレンソウを禁止し、なにより自分の頭で考えろという会社がある。
うへーっ、ホウレンソウというのは経営向上マニュアルのなかでも必須のものだと思っていましたが、企業によっては禁止しているところもあるのですね。
たしかに、社員一人ひとりが自分の頭で意欲的に考えたほうが企業の業績を上げ、その長続きに貢献する結果を生み出すだろうことは大いに賛同できます。
第3弾にも、大いに期待したい本です。
(2010年2月刊。1400円+税)
2010年4月10日
負けない議論術
司法
著者 大橋 弘昌、 出版 ダイヤモンド社
アメリカ(ニューヨーク州)の弁護士が、アメリカで鍛えた議論術を紹介しています。
アメリカと日本はまるで違うかと思うと、そうでもなく、意外なことに似たところ、共通するところが多いようです。
相手を説得したいときは、自分と相手の共通点を探してみる。出身地、学校、職業、家族構成、趣味など、何かひとつくらいは共通点があるはず。相手にその共通点を示し、同類の人だと思われるように議論を進める。そうすると、相手は賛同しやすくなる。
自分の誇らしい話をしたいときには、自分の失敗談や弱点をまじえて話すのが良い。
大きな目的を達成するためには、小さなことには目をつぶることも必要。すべてが自分の思い通りに動くとは考えないことである。
陪審員のいる法廷では、法律理論をふりかざしたからといって裁判に勝てるわけではない。むしろ優れた弁護士は、クライアントを有利に導く証拠をストーリー仕立てにして、陪審員の心の中に植え付けていく。陪審員の心に染みいる話を聞かせるのだ。
人間の判断は感情によって大きく左右される。合理的かつ論理的に判断しなくてはいけないときでも、実は感情にしたがって判断している。感情に訴えることは、議論に負けないための大きな力となる。
アメリカには、ルール・オブ・スリーという言葉がある。物事を説明するときに三つの要素で構成すると説得力が増し、受け手に覚えられやすくなり、スムーズに受け入れられる。
私は、いつも「2つあります」といって、指を2本たてて、「一つは……」、「もう一つは……」と話すようにしています。そして、これをたいてい2回は繰り返します。このとき、相手の顔つき、表情を見て、本当に分かってもらえたか、測りながら話をすすめるのです。
日本の弁護士にとっても、大変役に立つことが、たくさん書かれている本でした。
(2009年11月刊。1429円+税)
2010年4月 9日
江戸府内・絵本風俗往来
江戸時代
著者 菊池貴一郎、 出版 青蛙房
江戸時代の人々の生活をビジュアルに知ることのできる貴重な本です。
明治38年に出版された和本を昭和40年に復刻したものを、2003年5月に新装版として刊行されました。こういう企画の本は貴重ですね。これも大いに期待します。
明治38年本は、古書店で2万円ほどするそうですが、この本は4300円です。
江戸時代の人々の生活というと、士農工商、切り捨て御免、男尊女卑、大飢饉、身売り、一揆など、否定的かつ暗黒のイメージばかりが強いのですが、実は案外、町民たちはおおらかに生きていたという実態があったようです。
それは、この本に描かれている絵をみると、よくわかります。
この本を読んで、私が一番驚いたのは、私の趣味と一致するからかもしれませんが、江戸市中で、植木や花売りがとても多かったということです。虫かごに入れたキリギリス売りも歩いていました。朝顔売りは、毎朝、未明のころから売り歩き、昼前には売り切っていた。
牡丹は珍しく、牡丹屋敷と呼ばれるところがあった。かきつばた(杜若)は、名所が江戸のいくつかにあった。
ホタルの名所もある。町には、金魚売も通ります。
子供たちは学校(寺子屋)で勉強し、別の町内の子たちと勇ましくケンカもしていました。
4月になると、行商の魚屋は初ガツオを売ります。江戸の人たちは厚切りのさしみで食べるのを好んでいたようです。現代人と同じです。
夏には花火も楽しみ、春の花見など、江戸の人々が四季折々の風流を味わっていたことがよく分かります。
江戸時代に人々がどんな生活を送っていたのか、具体的ん飽イメージを掴むためには、この本のように目で見てみるのも不可欠だと思います。
(2003年5月刊、4300円+税)
江戸府内・絵本風俗往来
江戸時代
著者 菊池貴一郎、 出版 青蛙房
江戸時代の人々の生活をビジュアルに知ることのできる貴重な本です。
明治38年に出版された和本を昭和40年に復刻したものを、2003年5月に新装版として刊行されました。こういう企画の本は貴重ですね。これも大いに期待します。
明治38年本は、古書店で2万円ほどするそうですが、この本は4300円です。
江戸時代の人々の生活というと、士農工商、切り捨て御免、男尊女卑、大飢饉、身売り、一揆など、否定的かつ暗黒のイメージばかりが強いのですが、実は案外、町民たちはおおらかに生きていたという実態があったようです。
それは、この本に描かれている絵をみると、よくわかります。
この本を読んで、私が一番驚いたのは、私の趣味と一致するからかもしれませんが、江戸市中で、植木や花売りがとても多かったということです。虫かごに入れたキリギリス売りも歩いていました。朝顔売りは、毎朝、未明のころから売り歩き、昼前には売り切っていた。
牡丹は珍しく、牡丹屋敷と呼ばれるところがあった。かきつばた(杜若)は、名所が江戸のいくつかにあった。
ホタルの名所もある。町には、金魚売も通ります。
子供たちは学校(寺子屋)で勉強し、別の町内の子たちと勇ましくケンカもしていました。
4月になると、行商の魚屋は初ガツオを売ります。江戸の人たちは厚切りのさしみで食べるのを好んでいたようです。現代人と同じです。
夏には花火も楽しみ、春の花見など、江戸の人々が四季折々の風流を味わっていたことがよく分かります。
江戸時代に人々がどんな生活を送っていたのか、具体的ん飽イメージを掴むためには、この本のように目で見てみるのも不可欠だと思います。
(2003年5月刊、4300円+税)
2010年4月 8日
民主主義がアフリカ経済を殺す
世界(アフリカ)
著者 ポール・コリアー、 出版 日経BP社
アフリカの現実は今もってなかなか厳しいようです。どうして光明が見えてこないのか、不思議でなりません。一刻も早く、南アメリカのような大きなうなりのなかで、人々の安定した生活が平和のうちに確立されることを願います。
この本は、アメリカの国々のかかえる現実を冷静に分析し、その対処法について考えています。
1945年以降、全世界で成功したクーデターは、357件。その陰には、多くのクーデター未遂がある。アフリカでは、成功したクーデターは826件。未遂は109件。未然防止が145件もあった。アフリカでは一つの国で7件の「外科手術」が試みられたことになる。
民主主義は貧しくない社会では安全を強化するが、貧しい社会をいっそう危険に陥れる。その分かれ目は、一人当たり年2700ドル、1日7ドルの所得ラインだ。最底辺の10億人の住む国の所得は、すべてこれを下回っている。民主主義は、これらの国では暴力の危険性を高める。
これらの国では、有権者は自分たちの目の前にある選択肢について、ほとんど情報を持っていない。得られる情報が杜撰なうえ、有権者は民族的アイデンティティーによって支持するかどうかを決める。有権者は、民族的忠誠の殻に閉じこもり、候補者がたとえ犯罪者でも支持する。このとき、犯罪者だけが腐敗という機会を活用する。
シエラレオネは安定している。これは、常駐するイギリス軍兵士はわずか80人にすぎないが、何か問題が発生したらイギリス本土から一夜にして部隊が飛来するという10年協定が結ばれていることによる。
国際的な援助のうち11%が軍事費に流れている。そして、軍事費は暴力の抑止力になっていない。むしろ、紛争後の政府による高額の軍事費は逆に暴力を誘発している。
正規軍が使用するために購入された銃が、反政府勢力に流れている。
政府軍の兵士の給料が低いので、兵士たちは武器庫から盗んで売ろうとする。安価に手に入る銃が内戦リスクを高めている。
最底辺の10億人の国々の全体の軍事費は、合計90億ドルだが、そのうち最高40%が援助金によって賄われている。そして、越境が容易な地域では、一国の政府が購入した大量の銃が徐々に近隣諸国の闇市場に漏出している。闇市場で取引される安価な銃が内戦リスクを高めている。紛争後の国はたいてい軍事費大国になるか、軍は逆効果をもたらしており、抑止力になるどころか、まさにリスクを誘発している。軍事費は過剰であるばかりか、援助費がそれを支えている。
若い男性は非常に危険だ。全人口に対する若い男性の割合が倍増すると、内戦リスクは5年間で5%から20%まで増える。ただし、エリトリア人民解放戦線の3分の1は女性だった。
最底辺の10億人の国々の大半では、公共監視システムはその最上階から解体されている。その結果である巨大な腐敗は、公的資金を浪費したばかりか、政治的詐欺師たちに力を与えた。こうした国では、横領によって資金を調達する利権政治が権力維持の標準的な手法だった。
いやはや、アフリカの再生にはまだまだかなりの時間を必要としているようです。残念です。暴力によらない再生を目指す人々の集団がうまれ、その集団がうねりを起こしていってほしいものです。
(2010年3月刊。2200円+税)
2010年4月 7日
美しい家
朝鮮(韓国)
著者 孫 錫春、 出版 東方出版
戦前から戦後の朝鮮戦争を経て、金日成と金正日政権下を生き延びてきた北朝鮮の活動家の日記です。北朝鮮の「労働新聞」の記者として、晩年は活躍していました。
日記は戦前、1938年4月に始まります。朝鮮が日本の植民地として支配されていたころの状況が描かれています。このころ、金三龍、朴憲永という著名な活動家とも親交を持っていました。著者は日本に渡り、東京で中央大学哲学科に編入します。
1940年8月22日、メキシコで、スターリンの放った刺客によってトロツキーがピッケルで刺殺されたことが書かれています。私は、これを読んで、このころこんなに詳しく背景事情から何まで判明していたというのはおかしいと感じました。あまりにも出来すぎています。もちろん、今となっては真実のことですが、スターリン崇拝の熱が今では想像できないほど強かった戦前に、スターリンをこれほど客観的にとらえることのできた日本人や、朝鮮人の活動家がいたなんて、とても信じられません。私は、ここで、この「日記」の信ぴょう性を疑ってしまいました。
日本の敗戦後の朝鮮半島で、金日成が朴憲永を追い落としていく過程が批判的に記述されています。
常識を逸脱したとんでもない話だ。金日成同志に少々失望した。あまたの共産主義運動の先輩を押しのけ、弱冠33歳の金日成が革命の最高指導者になろうとしている野心を露骨にさらけ出している。
どうでしょうか。こんな金日成批判を書いた手帳を、北朝鮮のなかで後生大事に隠し持っていたなどと考えることは、とてもできません。朝鮮戦争がはじまり、やがてアメリカ軍が仁川に上陸して、反転攻勢が開始します。
目の前で愛する妻と子が爆死してしまうのです……。
停戦後の北朝鮮の日々です。
個人英雄主義として朴憲永同志が批判されている。しかし、それなら金日成首相のほうこそ……。
ええーっ、たとえ日記であっても、ここまで書いて大丈夫なのかしらん……!
今日の我が党の現実は、人民大衆中心の党ではない。党の中心には、人民大衆ではなく、首領がいる。首領中心の党である。うむむ、本当なんですか……
朝鮮戦争は全面戦争への転換が不適切な時期に冒険的に起きてしまった。
金日成同志は、朴憲永同志が南労党同志たちの決起が必ずあると誇張し騒ぎたてたとし、失敗の責任の矢を南労党の同志たちに向けている。しかし、もっとも重大な判断ミスは、老獪な米帝を相手に戦わなければならない事態になりうることを、まったく想定していなかったところにあるのではないか……。
「日記」の最後の日付は1998年10月10日になっています。60年間にわたって北朝鮮内で活動家として生き抜いた人の日記が残っていたというわけです、私には、まったくのフィクション(小説)としか思えません。ただし、はじめから小説として読むと、朝鮮半島を取り巻く情勢、そのなかで生きていた人々の息吹を身近に感じることのできるものにはなっています。
(2009年7月刊。2500円+税)
チューリップはほとんど全開となりました。横にアイリスが咲き始めてくれています。茎の高い、黄色と白色の気品のある貴婦人のように素敵な花です。毎年ほれぼれと見とれます。私のブログでちかく紹介します。
2010年4月 6日
阿片王
日本史(近代)
著者 佐野 眞一、 出版 新潮社
満州そして中国で日本が何をしたのか。そこでうごめき甘い汁を吸っていた人間が戦後の日本で素知らぬ顔で政財界などでのさばっていた、なんていうことを知ると、背筋に虫酸が走ります。つくづく日本って嫌な国だなと思います。そんな史実には目をつぶったらいいんだよというのが、例の自虐史観です……。でも、そんなわけにはいきませんよね。
生アヘンには、平均8~12%のモルヒネがふくまれ、これが人間の神経を麻痺させて、肉体的苦痛を鎮静させる。アヘン煙膏を吸引すると、モルヒネの麻薬作用で、あたかも桃源郷に遊んでいるかのような幻覚に襲われる。
ペインは、無色の結晶状のモルヒネを加工し、純度を上げたもの。
アヘン中毒者は共通して、果物が猛烈に欲しくなる。
アヘンが厄介なのは、性欲という人間の本能と分ちがたく結びついていること。アヘン常用者の性交時間の調査によると、最高17時間も陶酔感にひたっていた。その結果、男は精力を使い果たして腹上死する例が多かった。
日本は幕末以来、アヘンを国家の厳重な管理下に置いた。日本がアヘンを禁制品としたのは、亡国に直結する隣の中国のアヘン禍に衝撃を受け、これを反面教師としたから。
そして、それを承知の上で日本は、アヘンを中国に売り込んでいった。中国の奥地に日の丸の旗が翻っていたが、それはアヘンの商標だった。関東軍が中国の熱河に侵攻したのは、実はアヘン獲得作戦だった。
日本軍は満州から金塊数十個、時価にして数百億円を上海に運び込み、これでペルシャ阿片を輸入した。
ペルシャ産アヘンの海上輸送には危険がともなったため、日本の外務省と軍の保証がなければ不可能だった。上海には、常に阿片を必要とした人間が人口の3%、実数にして十万人いた。
里見甫はアヘン取引で莫大な利益を上げ、軍の情報工作に欠くべからざるものとなった。アヘン売買による利益は日本の興亜院が管理し、3分の1が南京政府の財務省に、3分の1がアヘン改善局に、残りの3分の1が安済善堂に分配された。
アヘン王の里見がGHQから起訴されなかったのは、当時の国際状況の生み出したパワーポリティクス力学が複雑に絡んでいる。里見が極東国際軍事裁判で裁かれることになれば、その過程で「戦勝国」中国の阿片との深いかかわりが必然的に明るみに出てくる。そうなると蒋介石政権も無傷では済まなくなる。蒋介石の率いる国民党軍の資金の少なからぬ部分がアヘンによってまかなわれていたことは、いわば公然の秘密だった。
アヘン売買は割のいい商売だった。アヘン1両が内蒙古で20円、天津で40円、上海で80円、それがシンガポールでは160円に跳ね上がった。
日本軍は南京攻略後、南京市財政の立て直しのためにアヘン売買を利用した。そのおかげで、たちまち南京市の財政は好転した。
里見の前では、東条英機も岸信介も頭が上がらなかった。佐藤栄作も同じで、頭が上がらなかった。うひゃあ、恐ろしいことですね。戦時日本の首相を務めた兄弟が、中国で飽く逆の限りを尽くしたアヘンのおかげを蒙っていたとは……。アヘンは中国の人々をダメにしただけでなく、その経済もめちゃくちゃにしたのですから、責任は極めて重大です。こんな事実を覆い隠そうと言うのは、間違っています。やっぱり、悪いことはきちんと糺されなければいけません。青臭いと言われるかもしれませんが、私は本心からそう思います。皆さんは、どう思いますか?
440頁もの労作なので、いくらか、冗長すぎる気はしました……。すみません。でも、労作です。
(2005年9月刊。1800円+税)
2010年4月 5日
森の奥の動物たち
生き物
著者 鈴木 直樹 、 出版 角川学芸出版
ロボットカメラを日本の森に仕掛けて撮った夜の動物たちの素顔です。よくぞ撮れたと思うほど、くっきり鮮明な写真のオンパレードです。お疲れ様でした。
自分の匂いを消し、木々のあいだに姿を消すことに関してはジャングルで修練を積んだ。ジャングルに適応すると、人間を遠くからでも感知できるようになる。現代人が近づいてくると、足音がする前に、地面がわずかに振動をはじめる。続いて足音と話し声。そして極めつけは匂いである。姿を見せる前に、猛烈な文明人の匂いが雲のように押し寄せる。シャンプー、香水、ビール、肉の脂などの匂いが合わさって、波のように押し寄せてくる。これでは動物に見つからないわけはない。ましてや、人間より嗅覚も聴覚も鋭い動物たちは、これらが千倍もの強さの五感への雑音として伝わるであろう。
うへーっ、す、すごいことですね。著者は森の奥へ、それも夜の森の中へ入ろうというのですから、とても私にはできません。そして、雪山用の迷彩服というのはドイツ軍製のものが一番実用的なようですね・・・・。
ロボットカメラといっても、写真に紹介されているのは、とても小さくて、えええっ、こんなものでちゃんと取れるのかしらん、と思ったほどです。
一日中、森の中をはいまわってロボットカメラを設置した夜、遠くの山並みをみわたしながら、こちらの山脈で一つ、向こう側の森の奥で二つと、ストロボで梢がかすかに光るのを確認するのは、苦労が報われる幸せのひとつでもあった。
いやはや、お疲れさま、としか言いようがありません。でも、その苦労のおかげで、こんなにくっきり、すっきりと鮮明な写真が拝めるのですから、ありがたいことです。
登場するのは、テン、タヌキ、リス、ネズミそしてモグラとハクビジンまで姿をあらわします。みんな可愛いです。
夜の森では何が起きているのか、自分で行く勇気まではないけれど、知りたいという人には、うってつけの写真集です。ぜひ、手にとって見てみてください。でも、同じように夜のゾウを撮影しようと思っても、なかなかうまくはいかなかったようです。それでも成功したと言えるのでしょうか。ゾウが侵入者(ロボットカメラ)に怒って、あの巨体で踏みつぶしてしまったというのですから。
ゾウの怒る気持は分かりますが、人間としては、ぜひ知りたいところではあるんですよね。殺すわけではありませんから・・・。ゾウさん、許してね。
(2009年7月刊。2800円+税)
阿蘇の猿まわし劇場に久しぶりに立ち寄りました。春休みとはいえ、平日午後だからやってるのかしらん、やってても閑散としているだろうなと心配していましたが、駐車場にはなんと大型の観光バスが何台も停まっています。会場に入ると、そこそこの観客がいました。演じてくれるお猿さんは、2頭です。6歳と9歳のオス猿君たちでした。猿の年齢は3倍すると人間の年齢になるそうですから、青壮年の猿君です。
2本足ですっくと立ち、ポーズをとる様は、誇りをもって演じていることがうかがえます。
いろんな芸ができるので、感心、感嘆して見とれていると、40分があっという間にすぎてしまいました。私が何より感心したのは、天井まで届きそうな2本の竹竿を床から一人で立ち上げて。それを竹馬として舞台を上手に歩き回ったことです。すごくバランスを取るのが上手なのに感動してしまいました。
大勢いた観客は、実は韓国人でした。そのなかの一人が、ビデオ撮影禁止という提示があるのを無視して舞台近くまで迫って撮影していたので、さすがに係員から制止されていました。でも、その後も動きまわることは少なくなりましたが、撮影自体は最後まで止めませんでした。こんなに面白いものなので、家に帰って家族に見せてやりたいと思ったのでしょう。その気持ちは分かりますが、それにしても、ちょっと目ざわりではありました。おばちゃんにはかないません。
2010年4月 4日
すきやばし次郎、鮨を語る
社会
著者 宇佐美 伸、 出版 文春新書
いやあ、とても美味しそうな話です。今すぐにでも鮨屋に飛んでいきたくなるような本でした。もちろん、そこらの回転鮨ではありませんよ。残念なことに、この店には行ったことがありません。1コース3万円という高さもさることながら、3ヶ月先まで予約で満杯だというのです。
ミシュラン三ツ星を獲得した日本を代表する鮨屋の大将の話ですから面白くないはずがありません。うむむ、なるほど、なるほど、そうだったのかと、ついつい何度もうなりながら、実際に鮨をつまんで味わうことのできないもどかしさを感じつつ、読みすすめていきました。
84歳でありながら、毎日800貫、40人分も鮨を立って握り続けているのです。もう、それだけで恐れ入りますよね。
「すきやばし次郎」はビルの地下にある。テーブル席は3つあるけれど、つかわれていない。つけ台の10席のみ。10坪ばかりの店に3人の職人が10人の客と相対する。
本日のおまかせを一気呵成に腹へ詰めこむ時間は、なんと20分足らず。ここではアルコールは主体ではないし、そのための刺身も出ない。この店では、居心地の良さを期待してはいけない。ダラダラと話をするところではないのです。ひたすら、鮨を堪能する店なのです。
店は狭いし、トイレも自前ではなくビルの共用。支払いにカードは使えないし、ワインも置いてない、お酒をすすめることもしない。
お鮨は握り立てが一番おいしい。握ったら、すぐに食べてほしい。鮨ダネはいいものを河岸(かし)の言い値で仕入れる。握りの良さは、酢飯に負うところが大きい。客が来客する二十分前に羽釜で炊き上げ、半酢、塩、少々の砂糖と手早く合わせて仕上げる。客がつけ台に座るころに、ちょうど人肌の温かさに落ち着いている。
鮨は人を食うものだ。なにしろ鮨職人という赤の他人が素手で酢飯をとり、握り、そのまま置いたものを手にとって食べるわけである。
40歳を過ぎてから、外出するときには真夏でも手袋を欠かさない。 鮨職人にとって、手は命より大切なものだ。
お客にまず出すおしぼりは、持つとやけどするんじゃないかと思うくらいの熱々のものを出す。
「すきやばし次郎」で働いた鮨職人は150人になる。このうちモノになったには9人。そのうち2人は息子。はっきり卒業生といえるのは7人だけ。
いやぁ、これには厳しいですね。残る141人には「次郎」で修行したとは言わせないというのですから、大変なことです。鮨職人の世界がこんなにも厳しいとは・・・。
いいマグロがなかなかない。欲しいマグロは、とにかく香り。鮨職人にとって嗅覚がまず大切だ。一口かむと、ふっと艶めかしい香りがツーンと鼻を抜けて、力強いのに押し付けがましくない脂や甘み、酸みや渋みがジワッと口に広がっていく。大海を巨体で悠々と泳ぐ。王者の鮮烈な血の香り。ただし、脂がしつこくてはいけない。しっかり脂が回っているけれど、サラッとしている。そんな軽快さが欲しい。蓄養マグロは生臭みばかり残っていて、マグロ本来の香りがない。だから、輸入マグロは使っていない。
いやはや、ぜひ一度、この店で食べてみたいものだと思いました。
(2009年10月刊。700円+税)
2010年4月 3日
欧亜純白(Ⅰ)
社会
著者 大沢 在昌、 出版 集英社
世界の麻薬ビジネスを扱った、スケールの大きな小説です。小説と言っても、単なる想像による創作ということではなく、統計的な事実も踏まえたフィクションですから、正直言って怖い話のオンパレードです。途中で読むのを止めようと思ったほどです。
それにしても麻薬ビジネスといい闇の世界といい、次から次に人が殺されていくシーンは気持ちのいいものではありません。ソ連からロシアに移行して無法地帯となった国の状況を描いているように思いますが、いやいや、アメリカだってマフィアが裏社会を支配してきたじゃないかと思いなおしました。
ところが、これを書いているとき、新聞を見ると、元警察官で暴力団対策の仕事をしている大牟田市の職員が、オートバイに乗った二人組からピストルで足を撃たれた事件が起きたことを知りました。つまり、暴力団対策なんてほどほどにしておけよ、深入りしたら命の保障はないぞという警告を暴力団がしたというわけです。
暴力団抗争事件がまだ終結もしていないのに、一方を賛美する映画がつくられてDVDで大々的に売られています。しかも、主役は有名な俳優とか歌手です。日本の社会は、暴力団追放を叫びながらも、裏では暴力団をのさばらせているという現実があります。そうでありながら、死刑制度に国民の9割もが賛成するというのは、矛盾そのものではないでしょうか……。
ロシア。この国の犯罪者には、無限の可能性がある。社会機構が安定していない国には、普通犯罪者がお金を稼げるほどの旨みのある産業は確立していないものだが。この国はそうではない。近代国でありながら、社会機構が混乱しているのだ。人類の歴史のなかで、敗戦を経験したわけでもないのに、このような混乱に陥った国はない。表舞台にあるべき産業と犯罪が直結している。この国では、アメリカで必要な偽装や取り繕いは必要ない。
人とものを動かせる組織ならば、それが犯罪者の集団であっても、代替機関が存在しない以上、産業は手を組まざるを得ない。国家が敵にまわる心配もない。それどころか、この国では、犯罪者が国家そのものを動かす可能性すらある。
麻薬がこの地上から消えてなくならないのには快楽とは別の理由がある。現金に代わる決済の手段となることだ。武器取引や反政府組織への援助物資として、麻薬が使われるのは常識である。
麻薬は、現金と違ってその流れが発覚しにくく、金のように価値が下落することもない。しかも、インフレにも強いという利点がある。そのため、CIAはアメリカ国外での非合法な取引の支払い手段として麻薬を使うことがたびたびあった。
麻薬犯罪の捜査において、密告はもっとも大きな情報源である。麻薬犯罪の摘発は、常に物(ブツ)の存在がものをいう。誰それが麻薬をやっている、という情報は、それこそ腐るほど入ってきても、実際に麻薬を所持しているところを押さえなければ、立件は難しい。そして、所持している麻薬の量が多ければ多いほど、捜査官の功績となる。
密告をもとに内偵を進め、容疑者がもっとも大量の物を所持していているときを見計らって踏み込むのが麻薬捜査の基本である。だから、麻薬捜査官は一度でもひっかけた容疑者を決して手放さない。すべてを密告者に仕立て、利用する。というのも、麻薬中毒者の周囲には、潜在的な中毒者が必ずいるからだ。
10年前に『週刊プレイボーイ』に連載されていたものですが、今日なお、状況にそれほど変化はないのではないかと思いつつ(実のところ変化があってほしいと願いはしましたが)読みすすめ、読了ました。背筋の凍る思いのする犯罪小説でもあります。現実から目をそむけたくない、勇気あるあなたにおすすめします。
(2009年12月刊。1700円+税)
2010年4月 2日
タイ 中進国の模索
東南アジア
著者 末廣 昭 、 出版 岩波新書
タイには一度だけ行ったことがあります。かつて一度も他国の植民地になったことのない安定した王国です。僧侶の多い、微笑みの農業国という印象も受けます。ところが、バンコクに行ってみると、すごい渋滞の国です。
高層ビルが立ち並んでいて、高架鉄道が走っています。治安は良いので、私も一人で高架鉄道に乗って、シルクの店に出かけたのでした。
ところがタイは、農業国ではなく、工業国である。輸出額のトップはコメではなく、コンピューター部品なのである。大学生は一握りのエリートではなく、在籍者は180万人にのぼる。増加するストレスに直面して、微笑みを失った国になっている。
1973年に軍事政権が倒れてから2008年末までの35年間に、クーデターが4回、憲法制定が6回、総選挙は14回、政権交代は27回も経験している。首相の平均在任期間は1年半という短さである。 タイは決して政治的に落ち着いた国ではない。黄色シャツは反タクシン勢力、赤色シャツは親タクシン勢力である。この対立を民主主義を推進する勢力と阻害する勢力の対立、王制を守るグループとないがしろにするグループの対立、都市の中間層と農村の貧困層の対立というとうに、国を二分するグループ間の衝立という構図に読みかえるのは適切でない。国民の大多数は黄色にも赤色にも、そのなりふりかまわない実力行使にうんざりしている。
タクシン元首相は1949年生まれですから、私と同じ団塊世代ということになります。警察中佐でしたが、コンピューターのレンタル事業に乗り出し、またたくまにタイ最大の通信財閥に発展させた。1998年、51歳の若さで首相に就任し、2006年9月のクーデターまで5年8ヶ月、政権を維持した。
タクシン首相による「国の改造」は国王と王室の威信と権威を傷つけ、国軍の人事や国防予算といった軍の聖域を土足で踏み荒らし、官僚を政策決定機構から排除していった。当然、そこに反発と不満を引き起こした。
タイという国を多角的に分析していて大変分かりやすく読みすすめることができました。
(2009年8月刊。780円+税)
2010年4月 1日
がん患者、お金との闘い
社会
著者 札幌テレビ放送取材班、 出版 岩波書店
がんにかかったときの治療費がこんなに高いということを改めて認識しました。そして、がん保険があまり役に立たないことも知りました。
がん保険は入院に対しては手厚いが、通院治療はほとんど対象としていない。1日の通院保障は最大1万円までが多い。この金額では、1回の通院で3万5千円とか5万円かかるのに対しては十分ではない。がんといえば。手術と入院だった時代から、化学療法による通院が増える時代となった今日、がん保険も入院を保障するだけでは、ニーズにこたえられない。そうなんですか……。ちっとも知りませんでした。
抗がん剤の開発は日進月歩。ここ10年で種類が一気に増えた。北大病院に常備されている抗がん剤は、120種にのぼる。
治療費が100万円かかっても健康保険をつかって自己負担が9万円ですむのはありがたい。4回目からは1回あたり5万円ほどの自己負担になる。これは高額医療費の支給を受けているとき。ところが、高額医療費は、なんと3ヶ月後に払い戻されるもの。それまでは自己負担を強いられる。なんと患者に冷たい医療行政でしょうか……。せめて窓口で利用できるようにすべきだと思います。スペインやイギリスのように窓口負担なしにすべきです。
日本にお金がないわけではありません。1隻1000億円を超すヘリ空母を作ったり、日本に駐留しているアメリカ軍への思いやり予算をはじめ、ムダな軍事予算を削るべきではないでしょうか。
がん患者の年間の自己負担額は、平均101万円である。
がん患者にも、障害年金の支給がありうることが意外に知られていない。これは20年以上も前、1980年からのことである。
日本でも、かつては、健康保険の自己負担は初診料200円だけという時代があった。ところが、1984年に1割負担、1997年に2割、2003年に3割へと、患者の自己負担はどんどん引き上げられていった。家計の負担が増えたにもかかわらず、国の負担は1980年度の30.4%から24.7%へと、6%も削減されている。
アメリカのマイケル・ムーア監督の、『シッコ』を思い出しました。同じ資本主義国でも、イギリスは病院での窓口支払いはゼロ。それどころか、病院の窓口では通院費用を支払ってくれるというのです。ところがアメリカでは、オバマ大統領が国民皆保険を目ざすと、たちまち、社会主義者、アカというレッテルを貼られ、けたたましい非難を浴びせられかけているのです。もちろん、その背後には、高額の収益を上げている民間医療保険会社が潜んでいるわけです。それにしても、まだまだアメリカの国民の少なからぬ人々が、自己責任の原則を信奉し、弱者切り捨ての論理にどっぷり浸っていて、哀れとしか言いようがありません。
日本はアメリカを手本にするのではなく、イギリスやフランスなどを見習うべきです。
(2010年2月刊。1600円+税)
2010年4月30日
生き残る判断、生き残れない行動
アメリカ
著者 アマンダ・リプリー、 出版 光文社
9.11のとき、ワールド・トレード・センタービル(WTC)にいた人々がどんな行動をとったのか。助かった人と助からなかった人に違いはあったのか、究明されています。たしかに違いはあったようです。
生存者900人に聞くと、平均して6分間は、廊下に出て行動するまで待っていた。沈黙、笑いは、立ち遅れと同じく、典型的な否認の徴候である。
危機に直面すると、人々は、一様にのろい反応を示す。無関心な態度をとり、知らないふりをしたり、なかなか反応しなかったりする。
この否認の段階では、不信の念を抱いている。我が身の不運を受け入れるのには、しばらく時間がかかる。
人間の脳は、パターンを確認することによって働く。現在、何が起こっているかを理解するために、未来を予測するために、過去からの情報を利用する。この戦略は、大抵の場合、うまくいく。しかし、脳に存在していないパターンに出くわす場合も避けられない。つまり、例外を認識するのは遅くなる。
WTCから脱出したと推定される1万5千人あまりの人々が各階を降りるのに平均して1分かかっている。これは標準的な工学基準にもとづく予測の2倍の時間がかかっている。
災害に直面すると、群集は概して、とてももの静かで従順になる。災害時の人間の反応のなかで、逃げることと同じくらい「凍りつくこと」という現象がみられる。
危機に直面した群集に対しては、大きな声ではっきりした指示をすることが大切だ。
年輩の人は避難するのが好きではない。年老いた人は変化を好まないからだ。そして、人はしばしば自分の能力を過大評価する。
車を運転中にケータイで話すと、視野は著しく狭くなる。ところが、よく見かけますよね。夢中で会話している人を……。とても危険なんですから、止めてほしいですよね。
脳は、一生を通じて人間の行動次第で構造も機能も文字どおり変化する。点字を読んでいる目の見えない人々は、触覚を処理する脳の部位が大きくなる。
回復力のある人には、三つの潜在的な長所も備わっている傾向がある。人生で起きることに自らが影響を及ぼす事ができるという信念。人生に波乱が起きても、そこに意義深い目的を見出す傾向。いい経験からも嫌な経験からも学ぶことができるという確信。このような信念は、一種の緩衝材として、いかなる災害の打撃をも和らげてくれる。こういう人々にとって、危険は御しやすいものに思え、結果として、よりよい行動をとることになる。
強い自尊心を持っている人たちは、比較的たやすく元気を回復した。IQ値の高い人のほうが、心的外傷を受けた後もうまくやっていく傾向がある。しかし、IQに関係なく、誰もが訓練と経験で自尊心を生み出せる。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)の罹患者は、ただ変わった振舞いをするだけでなく、脳そのものが実際に変わっている。脳の奥深く扁桃体の近くにある海馬が、PTSDの罹患者のものは少し小さくなっていた。
危機に直面し、パニックになったときに、どうしたら助かるのか、実例をふまえて分かりやすい教訓を導き出している本です。大変参考になりました。
(2009年12月刊。2200円+税)
連休初日、午後から庭の手入れをしました。よく晴れて気持ち良く作業していると、頭上の樹でウグイスが景気よく大きな声でホーケキョと鳴いてくれました。私が下に居るのに気付かなかったようです。私がびっくりして見上げていると、見つめられたのに気がついて飛んで行ってしまいました。地味な色の小鳥です。
ジャーマンアイリスの青紫色の花の第一号が咲きました。華麗な花弁に見とれます。アイリスの最後は真っ黄色の花です。いくつか咲いてアイリス軍団フィナーレを飾ります。
今年はサクランボの赤い実を全く見かけません。天候不順のため、例年だとヒヨドリが見向きもしないのに、食べつくしてしまったのでした。野菜が高値となっていますが、小鳥たちには生存がストレートにかかっているのですね。それにしても、サクランボの実がまったくないというのは異変です。
2010年4月29日
山田洋次を観る
社会
著者 吉村 英夫、 出版 リベルタ出版
日本の大学生も、まだまだ捨てたもんじゃないなと安心できる思いのする本です。
山田洋次監督のつくった映画を大学の教室で見て、教授からその解説を聞き、さらに学生同士でディスカッションできる。なんてすばらしい授業でしょう。羨ましい限りです。この学生たちはみな幸せです。
この本には、授業に出た学生の感想文が紹介されていますが、それがまた実によく出来ています。なんといっても感受性が鋭いのです。感嘆、感心、感激というしかありません。その学生たちの前に、本物の山田洋次監督が登場し、対話形式による公演が展開します。
山田監督のつっこみが実に鋭い。学生たちがオタオタするのも無理はありません。うーん、私だったらなんて答えるかなあ……。自信ないなあ、と、つい頭を抱えてしまったことでした。
映画『男はつらいよ』は、観客を教化するという姿勢をもたない。人間は善なる存在であり、人と人とはつながっており、家族の絆が人間社会の原点であり、仲間たちがいつくしみ信じあうところから、心休まる世の中は生まれてくるという作者の心情がにじみ出ている。
映画は、もちろん楽しむために観る。音楽は楽しむために聴く。小説は楽しむために読む。これは当たり前のこと。でも、どういうふうに楽しいかという問題がある。楽しみの質の問題がある。そして、人を楽しませるには、すごい才能と努力と修練がいる。
『男はつらいよ』の第1作で、さくらが兄に対して結婚したいと言ったときの渥美清のシーン。最初は10秒だったのを、2秒のばすためだけで大騒ぎして撮影した。
この2秒にこめられたさまざまな思い。ああ、妹が俺に許可を求めている、俺が妹にいったい何をしたのだろうという、そんな寅の後悔と悲しみと、もう一つは喜び、ああ、妹がこんあ幸せな顔をしている、ああ、よかったんだ、そんな内面の葛藤をこの12秒の画面で表現した。
映画は、そんな想像力を観客に伝える芸術なのである。
うむむ、たしかに、寅の顔はすごく微妙な表情です。なんとも言えません……。
大学生の反応が生き生きと伝わってくる本です。それ自体に感動します。良い映画は、10年とか20年たっても、感動があせて消えてしまうことはないのですよね。
私が『男はつらいよ』第一作を観たのは1969年5月のことでした。五月祭のとき、大教室で観たのです。大爆笑でした。1年近くの大闘争後、まだ殺伐とした雰囲気の色濃い大学で、清涼感あふれるさわやかな風が吹き抜けていきました。
良い本です。一気に読みました。
(2010年1月刊。2200円+税)
2010年4月28日
スターリン、赤い皇帝と廷臣たち(上)
ロシア
著者:サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、出版社:白水社
スターリン。バラとミモザを何よりも愛したこの男は、同時に、人間のあらゆる問題を解決する唯一の手段は死であると信じる人物であり、憑かれたように次から次へと人々を処刑した独裁者だった。
息子たちにかけるスターリンの期待は大きかった。自分自身の流星のような出世を基準にしていたとすれば、それは過剰な期待だった。しかし、娘に対しては甘い父親だった。
妻ナージャは、深刻な精神的疾患にかかっていた。娘は、母について統合失調症だったと述べている。妻ナージャは、年中、スターリンをガミガミ叱りつけ、恥をかかせていた。
スターリンは、生まれつき、左足の2番目と3番目の指が癒着していた。天然痘にかかったため、顔はあばたで、左腕も馬車事故による障害があった。
スターリンを帝政ロシア(ツァーリ)の秘密警察「オフラーナ」のスパイだったという人がいる。たしかにオフラーナのスパイが革命運動に無数に入りこんでいたが、その多くは、二重スパイどころか三重スパイだった。スターリン(当時はコバ)も同志の中に敵対派を喜んで警察に売り渡したのかもしれない。しかし、スターリンは一貫して狂信的なマルクス主義者だった。
スターリンは、レーニンの隠れ蓑だった。レーニンはスターリンを窓口にして外部と接触していた。1918年、ソヴィエト政権は存続の危機に瀕し、ボリシェヴィキは悪戦苦闘していた。この事態を救ったのは、赤軍を創設し、装甲列車に乗って指揮をとった軍事人民委員のトロツキーとスターリンの2人だった。この2人だけが事前の許可なしにレーニンの執務室に入ることができた。
トロツキーの尊大な態度は、実直な地方出身者である「地下活動あがりの党員」たちの反感を抱いていた。彼らは、むしろスターリンの泥臭い現実主義に共感していた。
スターリンは無慈悲であり、情け容赦なく圧力をかけた。それこそレーニンの望んだことのすべてだった。
1924年当時、衆目の見るところ、レーニンの後継者はトロツキーだった。しかし、スターリンは、書記局長の絶大な権限を利用して、盟友のモロトフ、ヴォロシーロフ、セルゴ、オルジョニキゼを昇進させることに既に成功していた。
ジノヴィエフとカーメネフは、トロツキーからその権力基盤である軍事人民委員の地位を奪い、その追放に成功したあと、今や2人と並んで三巨頭の一人となったスターリンこそが真の脅威であったことに気づくが、すでに手遅れだった。スターリンは、1926年までに、この2人をまとめて打倒してしまう。
ブハーリンは、「スターリン革命」に抵抗したが、面倒見のよさと人間的魅力の点では、ブハーリンやルイコフは、とうていスターリンにかなわなかった。
スターリンは、腹心たちの暮らし向きにも、みずから気を配った。
重臣たちは、しばしばお金に困った。幹部の給料が、「党内最高賃金制度」によって頭打ちとなっていたからだ。この制限は1934年にスターリンによって撤廃された。もっとも、そこには抜け道があった。
共産党は、自分の力でのし上がった人々の集団というだけでなく、党はほとんど同族企業と言ってもよい存在だった。
スターリンの起床は遅かった。11時ころ起きて朝食をとり、日中は書類の山に埋もって仕事をこなした。書類は、いつも新聞紙にくるんで包んで持ち歩いた。ブリーフケースは嫌いだった。正餐の昼食は午後3時から4時ころ、豪華な「ブランチ」として用意された。昼食には家族全員が勢ぞろいし、いうまでもなく政治局員の半分近くと、その妻たちも同席した。
スターリンの休暇のときの専用列車はOGPUによって慎重に準備されたが、食糧難の時期には、食料を満載した別編成の特別列車が随行した。
幹部たちは、先を争ってスターリンと一緒に休暇を過ごそうとした。それはそうですよね。スターリンの一言で、自分と家族の生死がかかっているのですから・・・。
スターリンは別荘の庭に大いに関心を持ち、レモンの木の枝を這わせたり、オレンジの木立ちをつくったりした。草むしりも自慢だった。
庭いじりは私も大好きなのです。でも、庭いじりしたり花を愛でる人に悪人はいないと信じていましたが、スターリンが庭いじりを好んでいたことを知り、私の確信は大いに揺らいでしまいました。
神学校にいた1890年代以来、貪欲な読書家だったスターリンは1日の読書量が500頁に及ぶことを自慢していた。流刑中は、仲間の囚人が死ぬと、その蔵書を盗んで独り占めし、同志たちがいくら憤慨しても決して貸さなかった。文学への渇望は、マルクス主義への信仰と誇大妄想的な権力願望と並んで、スターリンを突き動かした原動力のひとつだった。この三つの情勢がスターリンの人生を支配している。
うへーっ、こ、これは困りました。スターリンが、私と同じで貪欲な読書家だったとは・・・。庭づくりといい、この本好きといい、私とこんなに共通点があるなんて・・・。まいりました。
スターリンは、ヒトラーが1933年6月30日に党内の反対派を一挙に大量殺戮したことを知って、これを快挙とみなして賞賛した。
「あのヒトラーという男は、たいしたものだ。実に鮮やかな手口だ」
キーロフ暗殺については、スターリンが共犯者だったという気配は今も消えていない。
キーロフを殺害したにせよ、しなかったにせよ、スターリンが敵だけでなく味方のなかの優柔不断な一派を粉砕するために、キーロフ暗殺事件を利用したことは間違いない。
スターリンは、常にロシア人は皇帝を崇拝する国民だと信じており、ことあるたびにピョートル大帝、アレクサンドル一世、ニコライ一世などに自分をなぞらえてきた。
スターリンが、自分をその真の分身とみなしていた師はイワン雷帝であった。
スターリンが拷問や処刑の現場に立ち会ったことは一度もない。しかし、スターリンは囚人たちが最後の瞬間にどう振る舞うかに多大の関心を抱いていた。敵が集められ、破壊される様子を聞くのが楽しみだったのである。
スターリンは、赤軍の忠誠心を疑っていた。参謀総長トハチェフスキーは、1920年来の仇敵だった。だから、有能な将軍たちを根こそぎ虐殺してしまったのですね。
スターリンによる赤軍粛清は、5人の元帥のうち3人、16人の司令官のうち15人、67人の軍団長のうち60人、17人の軍コミッサールは全員が銃殺刑となった。
大虐殺が始まると、スターリンは公開の場に姿を見せなくなった。エジョフの仕業をスターリンは知らないのだという噂が広まった。たしかに首謀者はスターリンだった。しかし、スターリンは決して単独犯ではなかった。
スターリンの本性は当初から明白だった。スターリン自身も数千人単位で旧知の人々を殺害していた。殺人を命令し、実行した数十万人の党員には重大な責任があった。スターリンと重臣たちは、見境のない殺人ゲームに熱狂し、ほとんど殺人を楽しんでいた。しかも、命令された人数を超過して命令以上に多数の人間を殺すのが当たり前になっていた。そして、この犯罪で裁かれた人は皆無だった。
スターリンは、戦争では、ためらうよりも、無実の人間の首をひとつ失う方がマシだと考えていた。この巨大な殺人システムを動かすエンジンは、スターリンその人だった。スターリンは、狙いをつけた犠牲者をいったん安心させたうえで逮捕するというやり方を得意としていた。
重臣たちは、さらに多数の敵を粛清するように絶えずスターリンをけしかけていた。とはいえ、自分の知り合いから犠牲者が出るとなると、重臣たちは犯罪の証拠の提示を要求した。スターリンが犠牲者の書面による自白と署名を重視した理由は、そこにあった。
いやはや、とんだ赤い皇帝です。こんな狂気を繰り返してはいけません。そして、これは社会主義とか共産主義の思想によるものではなく、権力者が歯止めなく肥大したことによる弊害だと思いますが、いかがでしょうか。やはり、何らかのチェック・アンド・バランスがシステムとして確立していないと人間は悪に入ってしまうことを意味しているように私は考えました。
(2010年2月刊。4200円+税)
2010年4月27日
ルポ貧困大国アメリカⅡ
アメリカ
著者:堤未果、出版社:岩波新書
この本を読んでもっとも驚いたのは、アメリカの刑務所のことです。刑務所を出所したときに、元囚人が多大の借金を背負っているというのです。
1年半の刑期をつとめたジャクソンは、出所したとき、訴訟費用の未払い金8900ドル(89万円)、それにともなう利子と罰金が1万3千ドル(130万円)、総額2万1900ドル(219万円)の借金をかかえていた。いやはや、すさまじいことです。
刑務所は、犯罪防止のための場所とか更生の場所ではない。囚人たちは用を足すときに使うトイレットペーパーや図書館の利用料、部屋代や食費、最低レベルの医療サービスなど、本来なら無料のものまで請求される。
重罪で投獄される犯罪者の8割は貧困層で、経済的困難から犯罪に走る。それなのに、その彼らに刑務所のなかで、さらに借金を背負わせるのです。
うひゃあ、これって、あまりにひどいことですよね・・・。
今や、刑務所はアメリカ経済そしてイラク戦争まで支えている。国防総省はサービスの半分以上を刑務所に発注している。兵士たちの食事、生活備品、防弾チョッキなど、など・・・。
アメリカの電話番号案内サービス(日本の104)は、70億ドル規模の巨大市場だが、そこでもオペレーターは囚人が活躍している。
アメリカの囚人は2008年に連邦刑務所で160万人。前年比2万5000人の増。地方刑務所に72万3000人。したがってアメリカの囚人は10万人あたり740人。ロシアは628人である。アメリカの総人口は世界の5%だが、囚人数は世界の25%を占める。カリフォルニア州だけで、1000ヶ所もの刑務所がある。
アメリカは刑務所を運営・維持する費用が年570億ドル(7兆7千億円)。国の教育予算420億ドルを上まわっている。
カリフォルニア州では、この10年間に大学の教職員が10万人も解雇されたのに対して、刑務所の看守は1万人が増やされた。カリフォルニア州政府は、大学生1人あたり年6000ドル(60万円)の教育予算を支出しているのに対して、囚人1人あたりには、6倍にあたる3万4000ドル(340万円)を支出している。
そして、刑務所を民営化して、その会社は、株価を急上昇させています。こんな国に未来のあろうはずがありませんよね。
このほか、学資の問題そして医療・福祉が取りあげられています。「自己責任」の国アメリカでは、弱者は切り捨てられ、金持ちだけが栄えています。にもかかわらず、まだまだ少なくない人がアメリカン・ドリームの幻想に浸っているのです。
日本は決してアメリカの後追いをしてはいけない、せめてヨーロッパ型でいくべきだとつくづく思わせる、いい本でした。一読を強くおすすめします。
(2010年2月刊。720円+税)
久しぶりに朝からよく晴れた日曜日となりました。でも春の陽気というより冬の冷たさを感じます。4月に入って東京で雪が降るなんて信じられない異常気候です。
いま我が家の庭はチューリップ畑が終わり黄色と白色のアイリスの花畑から橙色のヒオウギの畑に移行しつつあります。そして青紫のアイリスから真っ黄色のアイリスへと変わった先に登場するのはお待ちかねのジャーマンアイリスです。昨年のうちに大々的に庭銃を移し替えていた成果があがりジャーマンアイリスはなんと60本ほど期待できそうです。
天候不順のせいで野菜が品薄になり高値傾向にあるというので自給自足を目ざして野菜にも挑戦しました。というのは嘘です。お隣のレストランのシェフからキュウリやトマトの苗を分けて貰いましたので庭の一部を整理して植え付けてみました。久しぶりの野菜ですからうまくいく自信はありませんが、せっかくですのでチャレンジしてみることにしたのです。がんばります。
チューリップ畑だったところの大半を掘り起こしました。球根は小さく分球していますので、来年は使えません。紅白のクレマチスの苗を植えそのそばに朝顔のタネも植え付けて見ました。目もさめるような鮮やかな赤い色の朝顔が私の好みです。
夕方6時に作業を終えて風呂に入って心身をリラックスさせます。早めの夕食をとり薄暗くなってきたので雨戸を閉めました。夜7時15分まで外は薄明るく初夏も間近だと実感します。
蚊や虫のいない今が庭に出て一番楽しい時です。
2010年4月26日
外来生物クライシス
生き物
著者:松井正文、出版社:小学館新書
世界中の生き物たちが、本来の生息地を離れて世界各地に拡散しています。外来生物と呼ばれるこれらの生き物たちは、当然ながら日本にも押し寄せ、私たちを取り囲む環境に入り込んでいるのです。
日本には、2239種の外来生物が定着している。そのうち動物については633の外来種の定着が認められている。
京都の鴨川にはオオサンショウウオがいるが、チュウゴクオオサンショウウオが入り込んでいる。オオサンショウウオの寿命は長く100歳に達する個体もいる。2008年9月の時点の分析によると、111匹のうち中国型が13%、雑種が44%となっていた。幼生の71%が雑種だった。
中国ではチュウゴクオオサンショウウオは珍味として異常な高値で取引されている。そこで日本にも食用に輸入された。その子孫が鴨川に存在するらしい。
外来種のタイワンザルは、姿がニホンザルと見分けにくい。ただ、尻尾が40センチと、ニホンザルの尾が10センチ程度と短いのに比べて、ずっと長い。この2種の交雑が急速に広がっている。
日本のメダカが減少している。それに似ているのがカダヤシ(蚊絶やし)。いずれも3センチほどで、見分けるのは容易ではない。
メダカが減っているのをカダヤシのせいにすることはできない。メダカの棲めない環境が急速に増えていること、それによってメダカの繁殖能力が落ちていることが根本的な原因である。日本各地にメダカを戻したいのなら、カダヤシを駆除するだけでなく、田園環境や、小川のあった自然を復元し、メダカの棲みやすい環境を取り戻す必要がある。
ミツバチを受粉に利用している園芸農家は日本全国で1万ヘクタール。女王蜂の輸入がストップすると、すぐに国内の果物や野菜生産に多大な影響が生じる。国内自給率40%を切っている日本の農業のもう一つの危うい姿である。
2008年、働き蜂の突然の大量死によって、1割ないし2割もミツバチが減った。
アメリカでは、2005年ころから、ミツバチの4分の1が死滅した。
アルゼンチンのミツバチには凶暴なアフリカ系ミツバチの遺伝子が拡散している。欧州系ミツバチに比べて攻撃性が強く、長時間にわたって攻撃するため人や家畜を死に至らしめることがある。
セイヨウオオマルハナバチは、あまりにも強い繁殖力をもっている。そして、花の外側に穴を開けて吸うため、日本固有の植物の繁殖を妨げる心配がある。
なるほど、外来種が入りこんできたって、種が多様化するだけじゃないの、なんて気楽なことは言っておれないようです。人間と違って、混血(ハーフ)というのはいいことだけではないのですね・・・。
(2009年12月刊。740円+税)
2010年4月25日
ゲゲゲの女房
社会
著者:武良布枝、出版社:実業之日本社
「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である水木しげるの奥様による自伝です。NHKで連続テレビ小説になっているそうですが、私はテレビは見ませんので、そちらは分かりません。
しみじみとした、いい本です。人生の悲哀を感じさせます。人生は、終わり良ければ、すべて良し。この言葉は奥様のつぶやきです。なんだかホッとさせられますね。
「少年マガジン」にデビューしたとき43歳、猛烈に忙しくなったのが44歳、それから必死で走り続けて50歳をすぎ、心と体がついに悲鳴をあげた。
水木しげるは睡眠をとても大切にしてきたようです。それでも、モーレツ時代は、さすがにそうもいかなかったようですが・・・。
少し前まで、お金になる仕事がほしいとずっと思い続けてきたけれど、ここまで忙しい事態は想像していなかった。成功しても、水木の体がボロボロになってしまったのでは、幸せとはいえない。
睡眠時間は、すべての健康の基本である。いつもふらふらの寝不足ではいけない。
水木しげるは、心配する奥様に対してこう答えた。
オレも眠りたい。ノンキな暮らしがしたい。でも、また貧乏をするかと思うと、怖くて、仕事を断ったりすることは、とても出来ない。締め切りに追われる生活も苦しいが、貧乏に追われる生活は、もっと苦しい。それに、いまが人生の実りの時期なのかもしれない。だから、後にひいてはダメなんだ。
うむむ、力を感じます。すごい言葉ですよね。
人気商売なので波はあり、1981年(昭和56年)ころ、仕事が急に落ち込んで、連載は一本になってしまった・・・。
うむむ、そういうこともあったのですか。
精魂込めてマンガを描き続ける水木の後ろ姿に奥様は、心底から感動しました。
ひたすらカリカリと音を立てて描く後ろ姿から、目を離せなくなることが、しばしばあった。背中から立ちのぼる不思議な空気、オーラみたいなものに吸い寄せられるような気がした。この人の努力はホンモノだ。
すごい奥様の言葉です。奥様も偉いですよね。
貧乏な生活でした。質屋に次々に身のまわりの品を入れて借金し、そんな生活をしながら、ひたすら売れない漫画を描き続け、それを奥様が支えたのでした。ひたすら真面目に努力を重ね、ついに報われたわけですが、それに至るまでの過程が実に明るく、むしろあっけらかんと書きすすめられていて、心に深い余韻を残しています。
境港にあるという「水木しげるロード」に一度行ってみたいと思いました。
(2009年9月刊。1200円+税)
2010年4月24日
介護の値段
社会
著者 結城康博 、 出版 毎日新聞社
国を守るためと称して軍事予算は惜しみなく使われています。新型戦車、ヘリコプター空母、アメリカ軍のための空中そして海上給油、思いやり予算などなど・・・。ところが、国を構成しているはずの国民生活のほうはちっとも守られていない気がしてなりません。
病院に入院しても、20日以内に退院させられる。入院費の負担額は毎月18~25万円もかかる。個室に入ったら35~50万円になる。リハビリのための入院だったら、3~5ヶ月で転院させられる。なぜなら、病院が減収するから。中小病院は相次いで倒産している。
65歳以上は2900万人。75歳以上の後期高齢者は1300万人いる。一人暮らしの高齢者は433万人、うち男性117万人、女性316万人。在宅介護の対象者は男性28%、女性72%で、3割以上が70歳以上。
高齢者のなかには特養ホームで個室を好む人は多いが、4人部屋を好む人も少なくない。個室だと夜になると、不安になったり新しくなって徘徊してしまう人がいる。有料老人ホームの入居金は数百万~1000万円。そして、1ヶ月に都内では25万円、その他の県で20万円ほど必要となる。
誰だって、みんな老人になっていくわけです。老後が安心して過ごせない日本って、困りますよね。こんな国を愛せなんて押しつけられたら反発する人が出てくるのも当然です。
介護施設にもっと国は投資すべきだと思います。いえ、私が還暦を過ぎたから叫んでいるというのではありませんよ。ほら、あなただって、もういいとしになったでしょ……。
(2009年12月刊。1000円+税)
2010年4月23日
ある明治女性の世界一周日記
日本史(明治)
著者 野村 みち、 出版 神奈川新聞社
すごいです。明治41年(1908年)というと、亡くなった父が生まれた年より1年前のことです。日露戦争のあとで、まだ日英同盟も生きていたようです。
その年(1908年)3月、東京・大阪の両朝日新聞社の主催する世界一周旅行に、56人の日本人団体客が出かけました。そのうち女性は3人。その一人が32歳の主婦であった著者でした。
日本を船で出航して、ハワイ、アメリカ、そして大西洋を渡ってイギリス、さらにフランス、イタリア、ドイツ、ロシア、最後に中国東北部を船と汽車をつかって100日ほどで駆け巡ったのです。著者は、その年のうちに「世界一周日記」として出版したのでした。
主婦と言っても、横浜で外国人相手の古美術店「サムライ商会」を夫とともに営んでいましたし、英語を話せたのです。この本は、現代語に訳されていて、とても読みやすくなっています。日本人女性の勇敢さと行動力には、ほとほと感心します。
幼い子供たちをかかえた母親として、世界周遊に出かけたい気持ちをかかえて迷っていたとき、実家の母は「行って来なさい。あとは全部引き受けるから」と言って励まし、送り出してくれたと言うのです。偉い母親ですね。
そして、著者は、旅行中ずっと和装で通したのでした。そして、またそれが結果的に良かったのです。見なれない服装を見て、欧米人は感嘆したのでした。
このころ、ハワイには日本人が7万人もいた。うち2万人はサトウキビ栽培に従事していた。
アメリカは大変深刻な不景気だった。モルモン教の本拠地であるソルトレイク市にも行っています。そこで、おはぎや鮨を在米日本人からもらったと言うのですから驚きます。
シカゴで劇を見て、ナイアガラの滝を見学したあと、ワシントンに入り、ホワイトハウスに出向いて、ときのルーズベルト大統領と面会して握手までしています。それほどの珍客だったのですね。驚きました。
そのあと、ニューヨークを経て、イギリスにわたります。
今回の旅行で、日本人は共同一致の精神に乏しく、団結力も弱く、公共を重視しないことを深く感じた。
ええーっ、後半はともかくとして、前半の評価は逆じゃないのかしらんと思いました。
イギリスでは、ちょうど、婦人参政権運動が盛り上がっているときでした。
フランス、イタリア、スイス、ドイツと巡って、ロシアにたどりつきます。
この旅行は、イギリスの旅行会社トマス・クック社の企画したもので、団体旅行・パック旅行として世界初のものでした。旅行費用は1人2340円。当時、民間企業の大卒初任給が35~40円だったので、その5年分にあたる。
このように、若いときに世界を知っていただけに、著者は、1941年に太平洋戦争がはじまったとき、「アメリカのような国土の広い、資源豊富な国を相手にしても勝てるわけがない」と家族に小さな声で言っていたそうです。当然ですよね。今読んでも面白い本です。
先日の新聞に、アメリカのハーバード大学に留学している日本人学生が1人しかいないという記事がありました。いま、老壮年はしきりに海外旅行に出かけていますが、むしろ若者ほど国内志向が強く、海外へ目が向いていないと言います。さびしい限りです。
若者は書を捨てて(本当は捨ててほしくはありませんが……)海外へ旅に出かけよう。若い時こそ、何でも見てやろうの精神が大切です。
(2009年10月刊。1400円+税)
2010年4月22日
宇宙で過ごした137日
宇宙
著者 若田 光一、 出版 朝日新聞出版
九大出身の若田光一さん(46歳)は、2009年3月15日から7月31日までの137日間、国際宇宙ステーションに滞在しました。そのときの日記が公開された本です。
宇宙には空気がなく、陽が当たるところは120度、陰に入ると零下150度。大変な温度差がある。
日本人初の宇宙飛行に成功したのは、1990年にTBSの記者だった秋山豊寛さん。その後、毛利衛さんなど、計6人の日本人宇宙飛行士が宇宙に飛び立っている。
宇宙ステーションには、今回初めて日本実験棟「きぼう」が付属し、若田さんはそこで実験を始めた。今回の宇宙滞在には、宇宙ラーメンも持ち込まれた。かなりとろみのあるスープで、濃いめの味付けだ。スプーンですくって食べるといいますから、私たちの食べる普通のラーメンとは違うようです。
電話ボックスくらいの個室に入って寝る。無重力では身体に無理な力が働かないので、寝がえりや寝違えもなく、快適に眠れる。宇宙酔いに悩まされることもなく運動し、食事もしっかり取ることができた。宇宙では体液が上半身に偏るため、とくに滞在初期には鼻詰まりが起きやすい。
宇宙ステーションに滞在中の飛行中が一日に使える水は3.5リットル。衣類は洗濯できない。宇宙普段着は蛍光灯でも反応する光触媒をつかって消臭力を高める仕掛けだ。
おしっこ(尿)を飲み水に変える水リサイクル装置が実用化された。出てくる水は、無色透明で蒸留水と言う感じ。これはNASAが150億円もかけて開発した。トイレから出る尿を集めて、加熱したり、ぐるぐる高速で回して遠心力で分離したりして、飲料水に再生する。
3カ月に一度だけ、プログレス補給船によって新鮮な食べ物が運ばれてくる。若田さんは、新鮮なリンゴを食べることができた。
日本の「きぼう」は、開発と製造に7600億円かかった。
長期滞在する飛行士は、1日2時間の運動が作業予定表に組み込まれている。これを毎日欠かさなくても、一ケ月のうちに下半身は最大2.5%も骨密度が下がる。骨折しやすくなるだけでなく、体内のカルシウムの摂取と輩出のバランスが崩れ、骨から溶けだしたカルシウムが尿に混ざって、尿路結石を引き起こすリスクも高まる。
宇宙ステーション内の写真がふんだんにあって、ビジュアルに宇宙飛行士の活動の分かる楽しい本です。といっても、高所恐怖症に近い私は、宇宙に飛び出す勇気はありません。本を読むだけでガマンしておきます。
(2009年11月刊。1300円+税)
2010年4月21日
ノモンハン事件
日本史(近代)
著者 小林 英夫、 出版 平凡社新書
今から70年前の1939年、満州国とモンゴルの国境線上にあるノモンハンで、日本軍とソ連軍が戦い、日本軍は壊滅的な敗北を蒙った。
日本にとって、航空機や戦車が戦場を駆け巡った最初の近代戦であった。このとき、圧倒的な物量を誇り、爪の先まで鋼鉄で武装したソ連・モンゴル軍を前にして、肉弾で対抗した日本軍は粉砕されてしまった。
1939年時点で、ソ連を100とした時の日本軍の兵力は、師団数で37、航空機で22、戦車で9に過ぎなかった。
ソ連軍にはスターリンの大粛清の嵐が吹いていて、指揮系統は一時的に不能な状況にあった。しかし、ジューコフ元帥は健在だった。ところが、関東軍は、スターリンの大粛清によって、ソ連軍・モンゴル軍が弱体化していて、一撃で打倒できると踏んでいた。つまり、ノモンハンにソ連は大軍を繰り出すことはできないと想定していた。関東軍にとって、ノモンハンは200キロの地点にあるが、ソ連にとっては750キロも離れているので、輸送力の点でも関東軍が圧倒的に優位だと考えていた。
しかし、ジューコフ司令官の指揮するソ連軍は、兵力的に日本の1.5倍、砲は2倍、戦車・装甲車で4倍の兵力を集めていた。ソ連軍は、軽戦車に代わる中戦車の投入と火炎放射戦車の登場で、日本軍陣地を蹂躙し、焼き尽くした。
航空線でも、ソ連軍が日本軍を圧倒した。量的に優れていただけでなく、ソ連の航空機には防御についていろいろ改善され、戦法においても日本の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱戦法が一般化するなど、質的向上を遂げていた。
ノモンハンにおける日本軍第24師団の死傷率は、兵員1万5975人のうち、死傷・行方不明ふくめ1万人以上と、消耗率は7割を超え、ほぼ全滅状態となった。
そして、ソ連軍に捕虜となった日本兵は、帰還したあと、軍法会議にかけられ、将校には自決勧告、下士官兵には免官、降等、重謹慎、重営倉となった。
こんなむごいことはありませんよね。日本軍が人間の生命をいかに軽んじていたか、良く分かります。そして、日本軍はこの重大な敗北から何も学ばないまま、太平洋戦争に突入していき、さらに大きな過ちを繰り返したわけです。たとえ悲惨な過去であっても、目を閉ざすわけにはいきません。
(2009年8月刊。760円+税)
2010年4月20日
趙紫陽、極秘回想録
中国
著者:趙紫陽、出版社:光文社
天安門事件のときに中国共産党のトップ、総書記だった著者が鄧小平によって権力の座から追われ、北京の自宅に亡くなるまでの16年間の軟禁生活を余儀なくされました。
その軟禁生活のなかで著者は、60分テープ30本に回想録を吹き込んでいました。それが2005年に著者が亡くなったあと、文書化されたものが本書です。
趙紫陽は、広東省の党委員会第一書記に1965年、46歳という若さで就任した。しかし、やがて文化大革命によって失脚し、湖南省の機械工場で組立工として働かされた。ところが、1971年に突如として復活した。その行政手腕を周恩来に見込まれたことによる。
胡耀邦と趙紫陽の違いは、胡のほうは政治生活の大半を中央で送ってきた。そのため、中央に多数の後援者や親しい関係者がいた。それに対して趙のほうは、中央ではなく地方の省党委員会で働いていたので、中央には鄧小平以外の後援者はいなかった。
趙紫陽が中国について、結論としてどのようにみていたか、それを紹介したいと思います。驚きました。
われわれ社会主義国家の民主主義は、すべて表面的なものにすぎない。国民が主役の制度ではなく、国民がひとにぎりの、あるいはたった一人の人間に支配されている制度だ。国家の近代化を望むなら、市場経済を導入するだけでなく、政治体制として議会制民主主義を採用すべきだ。
そのためには、複数政党制と報道の自由を認めることだ。
人民解放軍の国軍化という問題もあるが、それよりも重要な、法制度の改革と司法の独立を優先すべきである。
すごいことですよね。中国のトップ(だった人)がここまで考えていたというのは信じられません。
鄧小平は、中国共産党のなかで特別の存在であった。重要な事柄については、すべて鄧小平に助言を求めなければならないということが、正式な党機関で決められた。
まさに、一党ではなく、一人独裁です。信じられない馬鹿げた決定ですよね。
鄧小平は、西側の三権分立を絶対に取り入れてはならないと叫んでいた。
さまざまな制限、そして抑制と均衡がなく、権力が極度に集中している体制はあらゆる時点で優れている。鄧小平は、このように考えていた。
鄧小平は、国民が街頭デモや嘆願書や抗議行動を通じて意見を表明することをひどく嫌った。それどころか、そのような活動を禁じる法律をつくるべきだと考えた。抗議運動が発生するたび、強圧的な手段をつかって鎮圧せよと命令した。鄧小平は、スターリンや毛沢東の晩年から、あるいは文化大革命時代の自分の経営から苦い教訓を学んだ。
党内と社会の民主化拡大、家長制の廃止などの問題を完全に解決するためには、政治体制における過度の権力集中を改める必要がある。しかし、鄧小平は、権力集中と独裁政治を非常に重視して、それを保持すべきだと考えていた。
中国共産党の最上層にいる指導者たちの、実にドロドロした複雑な人間関係、そして泥沼のなかでの息詰まる権力抗争が実に生き生きと描かれています。
一読の価値ある本ですが、惜しむらくは2冊買うと5200円プラス消費税と高価なことです。
(2010年1月刊。2600円+税)
2010年4月19日
時間はなぜ取り戻せないのか
宇宙
著者 橋元 淳一郎、 出版 PHPサイエンスワールド新書
実は大変難しい内容で、私なんかとてもとても理解したとは言えません。でも、難解なことに挑戦するのも刺激があって、迫りくるボケの防止に役にいくらかは立つのではないかしらん。そう思って読みなおしてみました。
著者は私と同じ団塊世代です。京大の理学部物理学科の卒業ですから、話が難しいのも当然です。まあ読んでみてくださいな。
重力は感じる力ではなく、見える力なのである。私たちの生身の身体は、決して重力を感じることはできない。
万有引力とて遠隔力ではなく、光速で伝わる場の振動が重力や電磁気力の正体である。
色は物理的実在ではない。物理的に存在するのは、さまざまな波長の電磁波だけである。可視領域にある電磁波が網膜細胞に電位を生じさせそれが脳を処理する結果、私たちは色を認識する。赤外線や紫外線など可視領域以外の電磁波は私たちの網膜細胞に電位を生じさせない。その結果、赤外線や紫外線が目に入っても私たちは色を見ない。
わたしたちは物体に色がついているものと見ていますが、実は、その色は実体がないのですね。ホント、不思議なことですよね。モノに色がないなんて……。
モンシロチョウの網膜は、可視領域より少し波長の短い紫外線に対して反応する。それゆえ、モンシロチョウのオスはメスの羽に紫外線の色を見る。
電磁波は、空間を伝播する波動であり、原子は狭い一点に存在する粒子である。本当にそういうものが実在するかと言うと、現在物理学はノーと見ている。唯一、確実に言えることは、観測装置との相互作用の結果、電磁波や原子のようにみえる「何か」が存在するだけである。
光合成は1万近い化学反応の組み合わせであり、それらの化学反応のすべてが解明されたら、人工的な光合成システムが作られるかもしれない。生命が進化の過程で生み出した驚くべき能力の一つである。
相対論では、物体が速く動けば動くほど、空間はますます縮まり、時間はますます遅れる。もし物体が光と同じ秒速30万メートルで動くと、ありそうにないことが起こる。そのような物体に乗った人から見た空間は、完全にぺしゃんこであり、宇宙の果てまでの距離がゼロとなる。また、時間もまったく止まってしまう。このとき物体の質量は無限大となる。質量無限大の物体などありえないから、物体は光速と同じ秒速30万キロメートルにまで加速することは原理的に不可能なわけである。
光は物質と違い、秒速30万キロメートルで飛ぶにもかかわらず、質量はない。これは光の特異な性質である。光の立場からみる宇宙はぺしゃんこ、時間は止まったまま、そんな奇妙な世界、時空が縮退した状態である。
私たちは現在見ている外界の光景を現在の光景だと思っているが、それはすべて過去の光景である。1メートル眼前の恋人の姿は10億分の1秒前の恋人の姿であり、大空を飛ぶ飛行機は10万分の1秒前の飛行機であり、眩しい太陽は8分前の太陽であり、望遠鏡にかすかに浮かぶアンドロメダ銀河の姿は230万年昔の姿である。それらが1本の光の世界線として現在の「私」に届いている。現在の「私」が目にしている光景は、このように、すべて過去である。
生命は空間的にはシステムであり、時間的には主体的意思である。時間は内観であり、空間として姿を現さない。
生命は秩序であるが、それは無秩序と常に戦う、もろい秩序である。このもろさが主体的意思を生む。なぜなら、もろいがゆえにもろさを補って、秩序を確実なものにするために、生きる意思が必要になるからである。
みなさん、理解できましたでしょうか?私は理解できないながらも分かった気になったというより、大事なことが解明されつつあるんだなという気になりました。いかがでしょうか……?
(2010年1月刊。800円+税)
2010年4月18日
センゴク兄弟
日本史(戦国)
著者 東郷 隆、 出版 講談社
ときは戦国時代。信長、秀吉につかえて、四国讃岐10万石の領主となった。失態があって浪人。後に戦功をたてて信州小諸5万石の主に返り咲いた。江戸時代になって兵庫県出石5万8千石の領主になるも、江戸末期に仙石騒動という有名な家督争いがあって、3万石に減封された。
青年漫画誌ヤングマガジン掲載の、「センゴク」シリーズの原作本です。
よく出来ています。よく調べています。感嘆しながら、どんどん読み進めました。
越前の一乗谷が出てきます。私も一度だけ行ったことがあります。古い小京都といった趣があります。織田信長がまだ天下を取る前の時代です。美濃には、斉藤道三ががんばっていました。
仙石兄弟が初陣に出かけるとき、旗持ち1人、長柄が6人、弓2人。兵糧運びの軍夫3人、馬上の武者2人。長柄は軍役規程によって2間半が4本、1間半の短槍2本。いずれも穂の長い直槍で、持ち手は自前の具足を身につけているものの、その形は鎧の袖がなかったり、脛当てがなかったりだった……。
桔梗一揆。これは武士団の団結した姿を示すもの。
着到(ちゃくとう)。国主からの催促状を差し出して名簿に記入すること。炭鉱で坑内に入る(下がる)前に点呼を受けるのも、同じく着到と呼んでいました。
詞戦(ことばいくさ)は、慣れたものでなければつとまらない。少しでも言葉に詰まれば、敵味方の笑いものとなり、二度と立ち直れないほどの恥辱となる。これは、単なる悪口合戦ではなく、言葉によって相手を屈服させる呪詛(じゅそ)なのだ。
江戸期と異なり、戦国時代の百姓身分は帯刀が許されていた。
物揃え(ものぞろえ)。軍役ほどおおげさなものではないが、近隣で不意の小競り合いがあったときに備えての予備動員のこと。
懸銭(かけぜに)とは、畑に対する賦課額。
秋成(あきなり)とは、秋の収穫高。
巻数(かんじゅ)とは、年末の特別な祈祷札のこと。
公界人(くがいにん)とは、乞食のこと。浮浪者が多かった。公界人は神の子。これを守るのは神仏を尊ぶものの務めである。
御発(ごはっこう)は出陣。山入りでは大事な家財を村の城に運び込んでいた。
戦国時代について、よくよくイメージの湧いてくる本でした。ところが、参考文献に『武功夜話』が紹介されていますが、これは偽作だと私も思っています。ですから、引用するときには、せめて偽作とも指摘されているくらいのことは触れるべきでしょう。
(2009年12月刊。1600円+税)
2010年4月17日
親鸞(上・下)
日本史(鎌倉時代)
著者 五木寛之 、 出版 講談社
浄土真宗の開祖、親鸞の青年時代の状況が活写されています。作家の想像力のすごさには感嘆するばかりです。こんなストーリーをどうやって思いつくのでしょうか…。モノカキ志向の私は見習いたいと切実に願います。
六波羅ワッパ。ロッパラワッパ。六波羅(ろくはら)という土地は、平家一族の集い住むところであり、平清盛公の邸(やしき)を中心にして出来あがった軍事と政治の本当の舞台である。
六波羅殿といえば、平氏一門を意味し、また平清盛公その人をさす言葉でもあった。
その平清盛公が、みずから京の町に放った手の者たちが、六波羅童(ろっぱらわっぱ)である。すべて14歳から16歳までの少年たちである。その全員に赤い垂直(ひたたれ)を着せ、髪を禿(かぶろ)に切りそろえさせ、手に鞭(むち)をもたせた。総勢300人ほどの数らしい。このロッパラワッパが活躍する京の町で若き親鸞は修行していきます。誘惑も大きい都です。
牛飼童(うしかいわらわ)、神人(じにん)、悪僧。盗人(ぬすっと)、放免(ほうめん)、船頭、車借(しゃしゃく)、狩人(かりうど)、武者(むさ)など、不善の輩(やから)をあつめて、隻六博打(すごろくばくち)を開帳している人間も登場します。
後白河法皇が異例の大法会を催す仏前の大歌合わせである。
表白(ひょうびゃく)願文(がんもん)、讃嘆(さんたん)、読経(どくきょう)、梵唄(ぼんばい)、和讃(わさん)、唱導、教化(きょうげ)、そのほか、あらゆるうたいものをうたい競わせようというもの。
身分の高い僧には、僧網(そうごう)と有識(うしき)とがある。僧網には、僧正、僧都、律師などの位があり、さらに、法印、法眼(ほうげん)、法橋(ほっきょう)などの官職もある。
また、有識のほうには、己講(いこう)、内供(ないじ)、阿闍梨(あじゃり)の職がある。
その他の僧は、凡僧(ぼんそう)と呼ばれていた。
このほか学生(がくしょう)、堂衆、堂僧のほか、稚児(ちご)、童子、寺人(じにん)、商人、傭兵、落人(おちうど)、職人、芸人など、雑学な人々がお山にむらがり住んでいた。したがって、比叡山は、ただの聖域ではない。
親鸞の師であった法然上人が登場します。
本願ぼこりとは、どのような悪人であろうとも、必ず阿弥陀仏は救ってくださるという、おどろくべき考えから生まれてきた異端の信心である。
悪人なおもて救われるという親鸞の教えは、なかなか意味深いものがあります。私は高校生のころにこのフレーズを聞いて、驚き、疑いました。
(2010年1月刊。 1500円+税)
2010年4月16日
城と隠物の戦国誌
日本史(戦国)
著者 藤木 久志、 出版 朝日新聞出版
和田竜『のぼうの城』(小学館)は大変面白い小説でしたが、その素材となった「忍城戦記」が紹介されています。「忍城戦記」は『埼玉叢書』(国書刊行会)にのっているそうです。それによると、忍城に領域の村人がやって来て籠城した様子が、次のように紹介されています。
長野口持ち 足軽30人 農人300人
北谷口持ち 足軽30人 農人200人
佐久間口持ち 足軽40人 農人・商夫430人
忍口持ち 足軽100人 町人670人
行田口持ち 足軽420人 百姓・町人500人
皿尾口持ち 足軽25人 百姓・町人150人
持田口持ち 足軽420人 百姓・町人2627人
15歳以下の童部など1113人、男女都合3740人立て籠るなり。
忍城に緊急避難した周辺の人々のうち、75%ほどの百姓・町人が戦闘要員として諸口に配置された。
そして、石田三成側の水責め工事の土木労働に雇われた周辺民衆の動向についても書かれている。このとき、石田三成は、土木工事の労働の報酬として、賃金(米銭)を「昼の労働には一人当たり永楽銭60文と米一升」「夜の労働には、永楽銭100文と米一升」と、かなりの高額を公約したので、「近隣・近国」の村や町は、ほとんど築堤ラッシュの状況を引き起こした。このころは、一日に米4升が相場たった。水責め工事が1週間で完成したのはそのせいである。
落城したあと、秀吉が石田三成に対して、「避難民を殺したら、隣郷がみな荒廃するだろう。だから助けてやれ」と指示していた。
戦国時代のお城と民衆とのさまざまな関係を実証的に究明している、面白い本でした。
(2009年12月刊。1300円+税)