弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年2月 5日

戦国大名と一揆

日本史(戦国)

著者 池 亨、 出版 吉川弘文館

 越前朝倉氏の拠点であった一乗谷に行ったことがあります。山の谷間の平地に小京都がありました。発掘が進んでいて、屋敷のいくつかが復元されていますので、往時を十分しのぶことができます。
 京文化の影響が強いとされていますが、文化的な成熟度の高いことを実感しました。
 応仁の乱(1467年)が起きたころ、家臣は主人の家督問題に積極的にかかわるようになっていた。もはや主人に一方的に隷属する「家の子」ではなく、自前の「家」を持つ国人領主だった。主人に求めたのは「家」の存続を保証できる政治的能力(器量)であり、それにもとづく家臣の指示が家督決定の鍵となった。
 山城国一揆や一向一揆などを通じて、江戸時代の百姓一揆とは異なる。一揆の正確で重要なのは、構成員が原則的に対等な立場から参加していること。一揆の構成員が約束を結び、「一揆契状」を作成するとき、上下の序列がない傘(からかさ)連判(れんぱん)形式で署名することが多いのは、そのためである。つまり、一揆の構成員になる条件は、自立をした主体であることだった。
 将軍・足利義政の妻の日野富子は、「まことにかしこから人人」(一条兼良)と評価された。当時の武家の妻は、単なる「お人形」ではなく、家政を取り仕切る立場にあり、夫に問題があれば子を後見するのも当然の役割だった。これは、この時代では珍しくはない。
 応仁の乱による室町幕府の全国支配の崩壊が、天皇や公家の経済的基盤に打撃的被害を与えた。その影響は、朝廷の儀式(朝儀)の衰退として表れた。伝統的儀礼の遂行こそ、朝廷のアイデンティティとなっていたから、これは深刻な問題だった。国家的祈祷が中絶するか簡略化された。
 代替わり儀礼である大嘗祭に至っては、江戸時代まで200年余も断絶した。
 それどころか、天皇の葬式を行うのも大変で、遺体が2カ月以上も放置されたことすらあった。
 重要な朝儀の場である紫宸殿は破損したままで、周囲の築地は崩れ、警備も手薄のため、人の出入りは簡単で、たびたび盗賊に襲われた。
 各地に誕生した戦国大名は、自らを「大途」(だいと)、「公儀」などと称した。公権力の担い手としての立場を表明したわけである。
 戦国大名には、領国を統治する公権力の側面と、主従制によって官臣を編成する家権力の側面があった。この両側面を統一的にとらえることが重要である。
 分国法の核心は喧嘩両成敗法にあった。
 中世社会では、国家権力の力が弱く、地方の紛争はほとんど自力救済によって解決が図られていた。
 室町幕府も、自力救済を規制しようと「故戦防戦法」を制定していた。その内容は、「故戦」(最初に喧嘩を仕掛けた側)と「防戦」(それに応じた側)とで刑罰に軽重があり、また「防戦」側は正当性があれば罰は減じられるというもの。これでは決しがたく、結局、中途半端なまま実行性を持たなかった。
 それに対して、今川氏の喧嘩両成敗法は、紛争解決における実力行使を一切禁止し、今川氏の裁判権に服することを強制したものとして画期的意義を持つ。裁判制度の整備、充実は、まさにこれと表裏一体の関係にあった。
 なるほど、そういうことだったのかと思い知らされることの多い本でした。
 
(2009年8月刊。2600円+税)

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