弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2010年2月 6日
超訳 古事記
日本史(古代史)
著者 鎌田 東二、 出版 ミシマ社
うひゃあ、こ、こんな本の作り方があるなんて……。信じられませんよ。畳に寝そべって話す人がいて、それを聴きとる人がいて、そうやって本を作ったというのです。
バリバリと雷鳴が轟き、ピカピカと稲妻が走り、激しい雨音がザアーッと地面を打ち続けているなか、寝そべって話したんだそうです。それも、目をつぶって、なのです。もちろん、参考文献も何も持たず、ひたすら記憶とイメージを頼りに、心の中に浮かんでくる言葉の浮き出るままに語り、録音していったのです。さすがに学者ですね。大したものです。
この本は、「古事記」の上巻の神話を口語に訳したものです。そして、原文に沿った通語訳ではありません。「古事記」自体が古くからの口承伝承にもとづいているので、それにもとづいてつくったというのです。
私は、過去、何度も「古事記」に挑戦しましたが、思うように理解できませんでした。今度の本は、リズム感もあり、なるほど、こういう内容の本だったのかと、すんなり腑に落ちてくれました。とても面白い本です。
(2009年11月刊。1600円+税)
2010年2月 5日
戦国大名と一揆
日本史(戦国)
著者 池 亨、 出版 吉川弘文館
越前朝倉氏の拠点であった一乗谷に行ったことがあります。山の谷間の平地に小京都がありました。発掘が進んでいて、屋敷のいくつかが復元されていますので、往時を十分しのぶことができます。
京文化の影響が強いとされていますが、文化的な成熟度の高いことを実感しました。
応仁の乱(1467年)が起きたころ、家臣は主人の家督問題に積極的にかかわるようになっていた。もはや主人に一方的に隷属する「家の子」ではなく、自前の「家」を持つ国人領主だった。主人に求めたのは「家」の存続を保証できる政治的能力(器量)であり、それにもとづく家臣の指示が家督決定の鍵となった。
山城国一揆や一向一揆などを通じて、江戸時代の百姓一揆とは異なる。一揆の正確で重要なのは、構成員が原則的に対等な立場から参加していること。一揆の構成員が約束を結び、「一揆契状」を作成するとき、上下の序列がない傘(からかさ)連判(れんぱん)形式で署名することが多いのは、そのためである。つまり、一揆の構成員になる条件は、自立をした主体であることだった。
将軍・足利義政の妻の日野富子は、「まことにかしこから人人」(一条兼良)と評価された。当時の武家の妻は、単なる「お人形」ではなく、家政を取り仕切る立場にあり、夫に問題があれば子を後見するのも当然の役割だった。これは、この時代では珍しくはない。
応仁の乱による室町幕府の全国支配の崩壊が、天皇や公家の経済的基盤に打撃的被害を与えた。その影響は、朝廷の儀式(朝儀)の衰退として表れた。伝統的儀礼の遂行こそ、朝廷のアイデンティティとなっていたから、これは深刻な問題だった。国家的祈祷が中絶するか簡略化された。
代替わり儀礼である大嘗祭に至っては、江戸時代まで200年余も断絶した。
それどころか、天皇の葬式を行うのも大変で、遺体が2カ月以上も放置されたことすらあった。
重要な朝儀の場である紫宸殿は破損したままで、周囲の築地は崩れ、警備も手薄のため、人の出入りは簡単で、たびたび盗賊に襲われた。
各地に誕生した戦国大名は、自らを「大途」(だいと)、「公儀」などと称した。公権力の担い手としての立場を表明したわけである。
戦国大名には、領国を統治する公権力の側面と、主従制によって官臣を編成する家権力の側面があった。この両側面を統一的にとらえることが重要である。
分国法の核心は喧嘩両成敗法にあった。
中世社会では、国家権力の力が弱く、地方の紛争はほとんど自力救済によって解決が図られていた。
室町幕府も、自力救済を規制しようと「故戦防戦法」を制定していた。その内容は、「故戦」(最初に喧嘩を仕掛けた側)と「防戦」(それに応じた側)とで刑罰に軽重があり、また「防戦」側は正当性があれば罰は減じられるというもの。これでは決しがたく、結局、中途半端なまま実行性を持たなかった。
それに対して、今川氏の喧嘩両成敗法は、紛争解決における実力行使を一切禁止し、今川氏の裁判権に服することを強制したものとして画期的意義を持つ。裁判制度の整備、充実は、まさにこれと表裏一体の関係にあった。
なるほど、そういうことだったのかと思い知らされることの多い本でした。
(2009年8月刊。2600円+税)
2010年2月 4日
岩盤を穿(うが)つ
社会
著者 湯浅 誠、 出版 文芸春秋
日本中を震撼させた年越し派遣村の村長だった著者は、民主党政権の下で、内閣府参与となり、ホームレス等の対策にあたっています。著者には私も大いに期待しています。これは、決して皮肉ではなく、本心からの言葉です。皮肉なんて言っていられないほど、事態は深刻かつ急迫していると思うのです。
著者は活動家を募っています。そこで求められている活動家は次のようなものです。従来のものとはかなりイメージが異なります。
活動家は、夢見る権利を擁護し、夢見る条件を作ろうとする。認定された夢だけを夢とする社会の岩盤にぶち当たらざるをえない。
お金がなければアウト、非正規だったら負け組、恋人ができなければ人間失格、マイホームにマイカーがなければ甲斐性なし、病気をすれば自己管理が不十分、老後の貯蓄がなければ人生のツケ。いやはや、なんと寂しい日本の現象でしょうか……。
国が企業を守り、企業が男性正社員を守り、男性正社員が妻子を守る。そのルート以外の守られ方は、自堕落、怠惰、甘え、努力不足、負け犬……。いい加減にしてほしい。
この「いい加減にしてほしい」に形を与えること。形を与えるための“場”をつくること。そして、他なる社会を夢見る条件を作ること。それが活動家の仕事だ。
なるほど、こんな言い方もできるのですね。こうやって運動の輪を大きく広げていって、現代日本の社会を少しでも良い方向に、みんなで少しずつ、一歩一歩、変えていきたいものです。
私も日比谷公園にはよく行きます。有楽町駅から歩いて日弁連会館に行く途中にあるからです。そこにできた年越し派遣村に来た人は、5日間で500人を超したのでした。そして、ボランティア登録をした人は1800人、のべ5000人となった。寄せられたカンパは2300万円。ちなみに、今年の公設派遣村は昨年を上回って、800人でしたか、1000人でしたか……。
多くの人にとって、「見たくない現実」だった。忘れてはならないのは、「その現実を生きている」人たちがいること。この現実を直視できるかどうか、そこに日本社会の地力が現れる。そうなんですよね。貧困は目をそむけたら見えなくなるものです。
かつての日本では、山谷(東京)や釜ヶ崎(大阪)の寄せ場に日雇い労働者はいた。しかし、今では日本全国に広がっている。貧困の問題は、フツー、目に見えないという特徴がある。貧困が見えにくいのは、アメリカでもイギリスでも同じで、これは世界共通のものだ。野宿の人たちは、炭鉱のカナリアのような存在だ。
日本では、まわりの人から「簡単に人に頼っちゃいけない」と言われて育っているので、SOSの出し方が分からない。
企業の多くは「地球を大切にしています」などと広告・宣伝している。しかし、「私たちの企業は、非正規労働者の命などなんとも思っていません。そんな私たちですが、良かったら商品を買ってください」と言うべきだ。
ふむふむ、なるほど、なるほど、そのとおりですよ。日本経団連の露骨な、あまりに金儲け本位の姿勢を少しでもまともなものに改めようと考える資本家はいないのでしょうか……。
国がセーフティネットを確立しようとするのは、実は19世紀のビスマルクの時代に始まったのだそうです。人間がボロ雑巾のように使い捨てにされる社会は弱くなるにきまっている。これが理由です。そうなんですよね。弱者をどんどん切り捨て、排除していく社会は、全体的な力も弱めてしまうのです。お互い、明日は我が身ですよ……。
ホームレスの人数確認が困難なのは、夜は寒さをしのぐために歩きまわり、昼間は図書館などの公共施設に入って仮眠を取る人が捕捉できないから。なーるほど、そういうことなんですね。
政治不信は言われ始めて久しい。しかし、本当に深刻なのは、むしろ社会不信ではないのか。どうにも這いあがれない状態に追い込まれながら、そのこと自体が「努力が足りない」と叩かれる理由になっている社会では、何かを言ったところで、誰もそれを受け止めてくれるとは思えなかったとしても不思議ではない。
自己責任論は、人を黙らせるもの。活動は、人を喋らせるもの。
著者の提起を受け止め、私も著者のいうような活動家になりたいと改めて思いました。
(2009年11月刊。1200円+税)
2010年2月 3日
山田洋次
社会
著者 新田 匡央、 出版 ダイヤモンド社
映画『おとうと』を見ました。世間から鼻つまみ者にされている弟を姉が最後まで面倒みるストーリーです。笑いながらも涙を流してしまいました。すごいものです。山田洋次監督の技のすごさに、今さらながら感嘆しました。『母べえ』と同じく、心が洗われ、すっきりした思いで雨のなか帰路につきました。
この映画には「みどりのいえ」というホスピスが登場します。ほとんどボランティアで運営されている施設のようです。私は申し訳ないことに知りませんでした。こんな施設が存在すること、そして、それを大勢のボランティア・スタッフが支えていることは、もっと世の中に知られていいことだと思いました。その点でも、山田監督はすごいと思いますし、この映画を見る意味があります。ぜひ、みなさん映画館に足を運んで見てください。
せめて映画館に入る時くらい、このむごい世の定めを忘れたい、と観客は願っている。そんな思いに応える映画をつくるためには、スタッフは皆仲良くなければいけない。仕事を楽しくしなければならない。
山田監督の映画作りのときには、出演を予定していない人もふくめて、みんなで芝居を見て、役者を励まそうと呼び掛けられる。出演しない人が、外でタバコを吸って一服しているということはない。
山田監督は、脚本に描かれたことだけを撮影すれば事足りるという姿勢に与しない。
山田監督の指示どおりにスタッフが動くことを、山田洋次は嫌う。
監督から言われたとおりにはするな。いや、だったら、こうしたほうがいいんじゃないかと提案すべきなんだ。山田洋次は提案者を待っている。ただし、悩みに悩んだ提案者だ。単に、「いまどきの若者はそんなことは言わない」と批判するのでは足りない。山田洋次はそれでは絶対に納得しない。なぜ言われないのか、どうして昔のような言い方がいけないのか。現在の社会はどういう状況にあるのか、そのなかで若者の生態はどうなっているのか。そして、観客が何を求め、観客に何を伝えるのか。理由とともに具体的な提案をすれば、山田洋次は決して否定しない。採用しなくても、なぜ提案を採用しないのか、必ず考える。
映画の成否はシナリオの出来が6割を占める。次いで俳優のキャスティングで、これが3割の重要性を持つ。だから映画監督のできることは実は微々たる割合しかない。
ぼくたちは全部ウソをついている。これが映画の極意。何のためにウソをつくか。映画を見る人達も騙されようと思って騙されている。でも、上手く騙してくれないと怒る。ありえないウソだといって……。
より真実を描くためにウソをついている人だ。
これは山田洋次の言葉です。なるほど、そうなんですよね。
著者はこの本が初めての単行本だということですが、映画『おとうと』の出来上がる過程をよくとらえています。凄い技を持っていると感嘆・感激・感謝します。これからも大いにがんばってください。
(2010年1月刊。1500円+税)
2010年2月 2日
公事師公事宿の研究
司法(江戸)
著者 瀧川 政次郎、 出版 赤坂書院
レック大学の反町勝美学長が最近出された『士業再生』(ダイヤモンド社)を読んでいると、江戸時代の公事師について不当に低い評価がなされていると思いました。そこで、私が改めて読みなおしたこの本を、以下ご紹介します。私のブログでは3回に分けましたが、ここでは一挙公開といきます。ぜひ、お読みください。
いつもと違って長いので、特別に見出しを入れます。
民事裁判と刑事裁判
江戸時代には、公事訴訟を分って出入物と吟味物との二としたが、この区別は大体今日の民事裁判、刑事裁判の区別に等しい。公事も訴訟も同じ意味であるが、厳格に言えば白洲における対決を伴うものが公事であり、訴状だけで済むものが訴訟である。江戸時代に於いて公事師が取り扱うことを許されたのは出入物だけであって、吟味物には触れることを許されなかった。是の故に公事師は又一に出入師とも呼ばれた。
公事は江戸時代には訴訟の意味であるから、訴訟のことを『公事訴訟』とも言った。しかし、公事と訴訟とを対立して用いるときには、公事は訴が提起せられて相手方が返答書(答弁書)を提出してから後の訴訟事件を言い、訴訟は訴の定期より訴状の争奪に至るまでの手続きを言う。即ち訴訟というのは、まだ相手方の立ち向かわない訴えであり、公事というのは対決する相手のある訴訟事件である。
江戸時代においては、行政官庁と司法官庁との区別はなく、すべてのお役所は、行政官庁であると同時に裁判所であった。
江戸時代の法定である『お白洲』に於いて『出入』即ち民事事件が審理せられるときには、原告即ち『訴訟人』とその『相手方』である被告とが『差紙』をもって『御白洲』に召喚せられて奉行の取調べを受けたのであって、『目安』即ち訴状の審理だけで採決が下されたのではない。必要があれば、奉行は双方の『対決』即ち口頭弁論をも命じたのである。…公事師が作ったのは願書にあらずして『目安』すなわち訴状である。願書の代書もしたが、公事師の作成した文書のすべてが願書であるわけではない。願書と訴状とは明瞭に区別されていた。
江戸時代の庶民は、決して『裁判所を忌み、訴訟を忌み』嫌わなかった。江戸時代の裁判所は、権柄づくな、強圧的なものではなく、庶民の訴を理すること極めて親切であって、時に強制力を用いることもあるが、それは和解を勤める権宜の処置であって、当事者間に熟談、内済の掛け合いをする意思があれば、何回でも根気よく日延べを許し、奉行は時に諧謔を交えて、法廷には常に和気が漂っていた。
江戸の庶民は、裁判を嫌忌するどころか、裁判所を人民の最後の拠り所として信頼して、ことあればこれを裁判所に訴え出て、その裁決を仰いだ。
徳川時代奉行所や評定の開廷日に於ける、訴訟公事繁忙の状は、全く吾人の予想外に出でている。水野若狭の内寄合日には、『公事人腰掛ニ大余り、外ニも沢山居、寒気も強く大難渋』であり、評定所金日には、『朝六ツ半(午前七時)評定所腰掛へ行候処、最早居所なし』、『朝六ツ半時分に御評定所へ出。今日は多之公事人ニつき、都合三百人余出ル』とあるほど、多人数が殺到している。此事は徳川時代の民衆が、奉行の『御慈悲』に依頼して、相互の争を解決することが最良の方法であることを、充分に知覚していたことを意味すると同時に、幕府の裁判が民衆の間に、如何に多くの信頼と『御威光』とを、有していたかを物語るものである。
2010年2月 1日
つぎはぎだらけの脳と心
脳
著者 デイビッド・J・リンデン、 出版 インターシフト
人間の脳にはすごく関心があります。人間ってなんだろう、心はハート(心臓)にあるのか、脳にあるのかなど、知りたいことだらけです。
脳の設計は、どう見ても洗練などされていない。寄せ集め、間に合わせの産物に過ぎない。にもかかわらず、非常に高度な機能を多く持ちえている。機能は素晴らしいが、設計はそうではない。脳やその構成部品の設計は、無計画で非効率で問題の多いものだ。しかし、だからこそ人間が今のようになったという側面がある。我々が日頃抱く感情、知覚、我々の取る行動などは、かなりの部分、脳が非効率なつくりになっていることから生じている。脳は、あらゆる種類の問題に対応する「問題解決機械」だが、そのつくりは何億年という進化の歴史のなかで生じた種々の問題に「その場しのぎ」で対応してきた痕跡を、すべて、ほぼそのまま残している。そのことが人間ならではの特徴を生み出している。
海馬には、事実や出来事に関する記憶を貯蔵するという独自の役割がある。海馬に貯蔵された記憶は、1~2年くらいの間、海馬にとどまった後、他の組織に移される。
軸策末端と樹状突起のわずかな隙間は、塩水で満たされており、「シナプス間隙」と呼ばれる。このシナプス間隙を5000個並べても、ようやく髪の毛の太さくらいしかない。シナプス小胞から放出された神経伝達物質が、シナプス間隙を通って渡されることで、信号が隣のニューロンに伝えられる。
各ニューロンが対応するシナプスの数は、5000ほど(0~2万の範囲)。ニューロンごとに5000のシナプスが存在し、脳に1000億のニューロンが存在するとすれば、概算で、なんと500兆のシナプスが存在することになる。即効性の神経伝達物質は、何らかの情報を運ぶのに使われ、遅効性の神経伝達物質は、情報が運ばれる環境設定をするのに使われる。一つのニューロンが1秒間に発生させることのできるスパイクは、最大でも400回。スパイクの伝達速度は、せいぜい時速150キロメートル。
個々には性能が悪いとはいえ、脳にはプロセッサが1000億も集まっている。しかも、なんと500兆ものシナプスによって相互に接続されている。多数のニューロンが同時に処理し、連携することで、さまざまな仕事をこなしている。脳は非常に性能の悪いプロセッサが多数集まり、相互に協力しあって機能することで、驚異的な仕事を成し遂げるコンピュータなのである。うへーっ、そ、そうなんですね……。
人間の遺伝子は、その70%までが脳を作ることに関与している。人間は1万6000の遺伝子で、1000億個のニューロンをつくっている。遺伝子は、個々のニューロンを、具体的に、どのニューロンに接続するかまで逐一指示したりはしない。
人間の脳が高度な処理をするためには、多数のニューロンを複雑に相互接続せざるをえない。個々のニューロンは、状態、信頼性が低いからだ。脳が大きくなると、産道をとおれなくなる。そして、シナプスの配線の仕方をあらかじめ遺伝子に記録するのが難しくなる。500兆もあるシナプスを、どのように相互接続するかを逐一記録していたら、大変な情報量になってしまう。このため、遺伝子は脳の配線をおおまかにだけ決めるようにするしかない。そして、本格的に脳を成長させ、シナプスを形成するのを、誕生後まで遅らせるようにする。そうすれば、胎児の頭が小さくなり、産道をとおりぬけられるようになる。脳の細かい配線は、感覚器から得られる情報にもとづいて行う。
記憶の書き換えは、驚くほど簡単に起こる。書き換えは、過去についての記憶を現在の状況に合うように歪めてしまうこと。子どもが自発的に話してきたときには、それは本当であることが多い。しかし、そうするだけの社会的誘因さえあれば、子どもは嘘の証言をする。子どもは嘘をつかないというのは、事実に反する。
脳のことを図解しながら、かなり分かりやすく説明してくれる本です。
(2009年9月刊。2200円+税)
2010年2月28日
歴史と花を巡る旅
世界史(ヨーロッパ)
著者 福山 孔市良、 出版 清風堂書店
大阪の先輩弁護士による旅行エッセーですが、なんと『弁護士の散歩道』シリーズの第5弾なのです。実は、私も同じようなものを書いていますが、最近は文章より写真を主体にしています。ちなみに、私の方は、『スイスでバカンスを』(1999年2月)、『北京西安そしてシルクロード』(2004年8月)、『サンテミリオンの風に吹かれて』(2005年12月)、『南フランスの夏』(2008年11月)、『ちょこっとスイス』(2009年12月)です。いずれも16頁の大判で写真を主体とする旅行記です。その前は文章を主体とする新書版の旅行記でしたが、写真で知ってほしいという思いが強くなったのと、文章を短くしたいという手抜き発想から変えています。
著者の福山弁護士は、遺跡をいくつも歩いているようです。私もこのなかの三内円山遺跡(青森)と、菜畑遺跡(佐賀)だけは行ってきました。そして、遠野には花巻に行ったときに出かけたのです。途中で時間がなくなって引き返してしまいました。残念です。日本にも、まだまだ生きたいところはたくさんあります。それにしても、弁護士はその気になれば、いくらでもあちこち全国どこへでも行けるので、本当にいい職業です。ありがたいことです。
著者はスペインの旅に何回も挑戦しています。私はスペインは行ったことがありません。やっぱり少しだけ話せるフランス語を頼りにフランスに行きたいと思います。なんといっても言葉が通じるというのは安心なのです。
奥付を見ると、ちょうど私より10歳だけ年長だと言うことがわかりました。まだまだ大変お元気のようです。今後とも大いに旅行して下さい。
花の名前を実によく知っておられるのにも感心しました。山を歩いていて、咲いている花を見て、ただきれいだねというだけでなく、花の名前を言えて、少しくらい花について開設できること。これが旅行の楽しみを深めるものです。
著者はアルコールを卒業されたようです。私はまだ卒業はしていませんが、美味しい赤ワインを少々飲めればうれしいというところです。ビールのほうは私も卒業しました。ビールはもう2年ほど飲んでいません。
(2010年1月刊。1429円+税)
2010年2月27日
カメムシはなぜ群れる?
生き物
著者 藤崎 憲治、 出版 京都大学学術出版会
ホオズキカメムシは成虫が体長1センチほどの黒褐色をした地味な色合いのカメムシ。ホオズキという植物の語源は、ホウがつく植物のこと。ホウというのは、カメムシをさす古語。私の家の庭にもホズキがありますが、それがカメムシ由来の名前だと言うのには驚きました。
ホオズキカメムシは、幼虫のとき、強い集合性を持っている。寄り集まって、みな外側を向いた円陣隊形をとる。
ホオズキカメムシが襲われたとき、その個体が警報フェロモンを発するため、他の個体は速やかに逃避する。自らが犠牲になることによって兄弟が助かると、遺伝子は兄弟経由で次世代に受け継がれていく。利他的な行動のように見えて、実は利己的な行動なのである。
ホオズキカメムシは成虫になっても初めのうちは幼虫のときと同じく、オスもメスも一緒に仲良く集合して吸汁している。ところが、性的に成熟し、繁殖期が始まると様相が一変する。オス同士が互いに排斥しあうようになる。
ホオズキカメムシのオスはハレムをつくり、10匹のメスを占有する。
カメムシたちが群れることには意味があることを、実証的に明らかにした面白い本です。学者って本当に偉いですね。こんなことをじっとじっと見つめていて、その違いを掘り下げて研究し、論文を書いていくわけなんですからね。たいしたものですよ。
(2009年10月刊。1800円+税
2010年2月26日
江戸の本屋さん
日本史(江戸)
著者 今田 洋三、 出版 平凡社ライブラリー
江戸時代には、大量の本が出版されていて、本の買えない庶民には貸本屋があって、大繁盛していたのでした。
そうなんです。日本人は、昔から本大好き人間が多かったのです。今の日本と同じです。
江戸時代に出版業者は刊行物の目録を作るようになった。1670年の目録には3900点の書物が登録されており、1692年には7200点にも達している。元禄時代の日本に刊行されていた書物は、1万点にものぼる。流通していた冊数は1千万冊にも及ぶものとみられる。
うへーっ、す、すごいですよね。私も読書家の一人ですが、蔵書は1万冊あるでしょうか。年間500冊以上の本を読み、購読して読んでいない人も相当ありますので……。
江戸時代、書物の読者が増え、劇場の観客が激増したのは、都市の発達と関連していた。京都も大阪も30万都市であり、江戸には武士と町人あわせると100万人に達した。この時代に人口100万人を超える都市は、世界中探しても他に見つからない。
文化・文政期は三都がかつてなく繁栄した。江戸では文化の享受層が、田沼時代の上層町人中心から、中下層の町人・職人層に拡大し、文化の大衆化が進行した。都市における読書人口は、かつてなく増大した。毎年40種近く発刊される合巻は、それぞれ5千部から8千部も売れた。近世前期に、上方中心であった出版界は、完全に江戸中心となった。
江戸時代には、どの地方にも貸本屋があった。大坂には300人の貸本屋がいて、江戸の貸本屋は800軒と言われていた。江戸だけで10万軒に及ぶ貸本読者がいた。こうなると、有料図書館とでもいうべき存在である。
貸本屋は出版統制・言論統制のまことに厳しい江戸時代にあって、とくに政治批判や政治の実態を曝露する文献を、読者にひそかに貸し出す人々でもあった。
江戸の講釈師・馬場文耕は、金森氏が藩政不行届のかどで改易されたのを講談にしたところ、浅草で獄門に処された(1758年)。
日本人の読書好きには歴史があり、権力への反骨精神も太々としたものがあったことが、よくわかる面白い本です。
(2009年11月刊。1300円+税)
2010年2月25日
戦場の哲学者
アメリカ
著者 J・グレン・グレイ、 出版 PHP研究所
第二次大戦にアメリカ軍の少尉として従軍した著者が、戦場体験をふまえて、戦争で人がなぜ平気で人を殺せるのかを考察した本です。
無数の兵士たちが程度の差はあれ進んで命を投げ出してきたのは、国、名誉、信仰、あるいはそのほかの抽象的な善のためではなく、持ち場を捨てて己が助かろうとすれば、仲間をより大きな危険にさらすはめになるのをよくよく心得ていたからである。
まとまりのない大集団内にいる者は、小規模ながらも組織化された集団に対しては自分たちの分が非常に悪いことに、常々気づいているものである。捕虜からなる巨大な群集がいくつも、ライフルを背中に下げた数名の監視員によって捕虜収容所へと移動させられている光景は、哀感に満ちている。これらの捕虜たちが監視員を前にして無力なのは、武器を携帯していないせいではない。共有の意思が欠如しているため、すなわち、ほかの者も自分と協同して征服者に対するはずだとの確信を持てないためである。
戦闘中にともに奮闘する経験は、条件の変化した近代戦においてさえ、兵士たちの生涯で最高のときである。恐怖や疲労、汚れ、憎悪などがあるにもかかわらず、ほかの者とともに戦闘の危険に加わることには忘れがたいものがあり、その機会を逃したことはなかったはずである。
自由をわくわくするような現実、つまり真剣だが喜びに満ちたものとして経験できるのは何か具体的な目標に向かって他者と一致して行動しており、しかも、その目標は絶対的な犠牲を払わねば達成できないような場合に限られる。男たちが真の仲間となるのは、互いが相手のために熟考することも個人的な損失を考えることもなく、自らの命を投げ出す覚悟がある場合のみである。自分の命を仲間と共有している者にとって、死はいくぶん非現実的で信じがたいものとなる。
破壊の喜びには、ほかの二つと同様に人を有頂天にさせる性質がある。人間は破壊行為に圧倒され、外部から羽交い絞めにされ、これを変えたり支配することなどとてもできないと感じる。これは一体化なしの忘我状態なのである。
これが軍隊仲間の戦友会(同窓会)の盛んな理由なのですね。初めて分かりました。
戦時下には性愛が優先時となる。多くの女性が偶然出会った兵士への激しい思いに突如として駆られる。性的な表現に対する抑制が弱まるのみならず、互いのなかに相手の性への強烈な興味が存在し、それは平時の場合よりはるかに激しいものがある。通常なら他の関心事に心を奪われている男女が、気がつくと性愛の渦に巻き込まれていて、この愛が現下の優先事となる。戦時中は婚姻数が増加し、出生率が上昇する。
兵士は故郷の精神的なよりどころや、地域社会といった背景から引き離されて、どこにも所属しなくなり、心配、脅威、孤独、寂しさにさらされる。男ばかりの敵意に満ちた環境にあって、兵士が切望するのは、自分を保護してくれる穏やかな存在であり、その象徴が女性であり、家庭なのである。兵士が性行動にのめりこむのは、失ったものに対するある種の埋め合わせとなる。いうなれば、不適応状態の表れである。戦争でぞっとするような、あるいはなにもこれと言って特徴のない昼夜を何日も過ごした後で、従順でやさしく愛撫してくれる女性を腕に抱くことは、報いのないことに慣れきっていた兵士にとっては途方もなく素晴らしいことだった。
女性は、自分の親兄弟と戦いを交えて殺戮していた敵(連合軍)の兵士を愛することができた。もっとも自明なのは、基本的本能と言われている自己保存の本能や、利己心、自己本位の動機すべてに反して、人間は行動できるということである。
死に直面して臆病になるものと、生来の臆病者を区別しなければならない。ほぼ誰にでも、ときには臆病者になる自分が潜在している。臆病者は戦闘中に何度も死ぬ思いをする。そのたびに計り知れないほどの精神的な辛さを味わう。
戦争は人間を人間でない存在にするのですね。体験にもとづいての考察ですので、言いたいことがよく伝わってきます。
(2009年9月刊。1700円+税)
2010年2月24日
朝鮮戦争(下)
朝鮮
著者 デイヴィッド・ハルバースタム、 出版 文芸春秋
アメリカからすると、ソ連と中国は一枚岩のように見えた。しかし、スターリンは実際には、毛沢東を信用していなかった。それで、中国とアメリカとの緊張が最大限になることを願った。両者が敵対しあう戦争はスターリンに有利に働くはずだった。
1948年末、毛沢東は何回にもわたって、モスクワでの会談を求めたが、スターリンはその都度ためらいを見せた。毛沢東はスターリンが自分に疑いを抱いていることを十分承知していた。1949年12月、毛沢東はついにモスクワを訪れた。スターリンはすぐに毛沢東と会おうとせず、何日も待たせた。毛沢東の訪問によって得られたソ連からの経済・軍事援助は、わずかなものでしかなかった。
毛沢東は、あとで「虎の口から肉を取るようなものだった」と言った。ソ連の対応は、本質的には侮辱にほかならなかった。
1950年10月、毛沢東は朝鮮戦争への参戦を決めた。中国軍部隊を義勇軍としたのは、アメリカとの全面戦争を防ぐための選択だった。中国軍部隊が派遣されるのは、単に 朝鮮を救うためだけではなく、より大きな世界革命、とりわけアジアの革命を促すためだった。
金日成は、中国が中国軍の指揮を自分に任せるものと思っていた。しかし、中国が軽蔑しきっている金日成に中国軍部隊を任せることなど、ありえなかった。むしろ金日成には再教育が必要だと考えていた。冒険主義以外の何物でもない。軍の統制も子ども並み。このように中国軍を指揮する彭徳懐は言った。
20世紀のアメリカ軍の誤算の中で突出しているのは、マッカーサーが鴨緑江にまでアメリカ軍部隊を北上させたこと。中国軍は高い山の中にこもって、アメリカ軍の北上を見守っていた。このあと、アメリカ軍を徹底的に叩いた。不意打ちだった。
マッカーサーの職業的な罪の中の最大のものは、敵を完全に過小評価したこと。
マッカーサーは、アジアを知らず、敵について驚くほど無関心だった。
ウィロビーは陰謀好きだった。ウィロビーは総司令部内のニューディール系リベラルを共産党シンパないし共産党員そのものだと見なして一掃しようとした。
現場で戦うものたちにとって、ウィロビーの存在は危険なまでに悪に近いものだった。ウィロビーは、戦闘部隊レベルの情報機関がきわめて重要な最高の情報を在韓司令部に送るのを阻止しただけでなく、他の情報源も封鎖した。ウィロビーは共産主義と中国の危険について喚き散らしながら、最後には国連軍部隊が大規模な待ち伏せ攻撃のえじきになるように仕組んでやり、共産主義者たちの仕事をずっと簡単にしてやったのである。
司令官の至上任務は、兵士の恐怖を抑えることである。偉大な司令官は恐怖を逆手にとり、それが常にあると言う認識を強みに変えることもできる。弱い司令官は兵士の恐怖を昂じさせる。ある司令官の下で勇敢に戦う兵士が、自分の恐怖を投影するような司令官の下では逃げ出してしまう。
偉大な司令官とは、賢明な戦術的動きが出来るだけでなく、兵士に自信をあたえ、それをやることができる。その日に戦うのは、自分たちの義務であり、特権であると感じさせるような人物である。
中国軍においては、普通の兵士でも、政治委員の講義を通じて戦闘命令について非常に多くのことを知っている。
中国軍が初期にえたアメリカ軍との戦闘における異例の成功は、彭徳懐の重荷になった。毛沢東の決めた目標が中国軍の能力を上回りがちとなった。毛沢東が勝利に酔ってしまった。中国軍の重火器用弾薬が明らかに不足していた。
中国軍の命令構造の硬直性は大きな弱点だった。上から下に伝わるだけで、下の水準にはほとんど融通性がなく、個人的な創意の余地も皆無に近かった。それは勇敢かつ頑丈で、信じられないほど責任感の強い歩兵を生み出した。だが、彼らを統率する中間レベルの指揮官は、戦闘の最中に戦場の変化に応じて重要な決定を下すべき権限も通信能力ももっていなかった。
これはアメリカ軍とは対照的な違いだった。アメリカ軍では有能な下士官の創意が評価され、戦闘の展開に応じて調整していく能力が重要な長所となった。
中国軍はせいぜい3日間は強烈に戦うことができた。しかし、弾薬、食糧、医療支援、そして純然たる肉体的持久力の限界、それに巨大なアメリカ空軍力のために、有利な条件や局面突破があっても、有効に活用できず、挫折や敗北が増幅された。どの戦闘でも、3日目になると、すべてのものが不足し、はじめ、敵との接触を断つことが必要になってしまう。
マッカーサーが解任されてアメリカに帰国したとき、アメリカ市民は熱狂的に迎えた。しかしその熱狂はマッカーサーの政策に対する支持を意味するものではなかった。つまり、アジアでの戦争拡大を支持するものではなかった。マッカーサーへの熱狂的な歓迎は、その政策への支持とは、まったく別物だった。
マッカーサーに長年接してきた人たちを苦しめた大きな問題の一つは、マッカーサーが必ずしも真実を語らないことだった。自分に都合のよいときには真実を利用したが、邪魔になると、すぐに真実から離れた。
マッカーサーは、議会の演説で恥知らずな嘘をついた。
マッカーサーは、ペンタゴン(国防総省)で、ほとんど支持を得ていなかった。マッカーサーの命令無視、中国軍参戦についての責任を認めないこと、軍に対する文民統制を故意に無視したことにペンタゴンの士官たちは激怒していた。朝鮮戦争の前線で死傷したのは、多くの場合に、若手士官の同期生や友人たちだった。マッカーサーは、ペンタゴンのいたるところで多くの若手士官たちから嫌われ、憎まれていた。彼らは、上院議員たちにマッカーサー攻撃の論拠を与えていた。
朝鮮戦争を中国軍の内情、そしてアメリカ内の政治状況と結びつけながらとらえた、最新の研究を踏まえた傑作です。
(2009年12月刊。1900円+税)
2010年2月23日
チェチェン
世界(ロシア)
著者 オスネ・セイエルスタッド、 出版 白水社
ロシアでチェチェン人というと、いかにもテロリスト集団というイメージです。
1989年のチェチェン人は人口100万人。戦争が始まって5年間に10万人のチェチェン人が殺された。
1991年12月にソ連が崩壊したとき、チェチェンは自治共和国としてロシアからの離脱が認められなかった。ドゥダーエフ大統領はかつてソ連軍でただ一人のチェチェン人の将校だった。ところがエリツィンとドゥダーエフは憎い敵同士となった。
ロシアからの財政支援が大きく削減されたため、チェチェン国内には混沌と腐敗がはびこった。チェチェンの犯罪者集団はモスクワ銀行を襲撃し、10億ドルを強奪してチェチェンに持ち去った。チェチェンの首都であるグローズヌイは、密輸・詐欺・マネーロンダリングのセンターとなり、共和国における政府の権威は失墜していった。
ドゥダーエフはモスクワに衛星電話をかけていたところ、その信号をキャッチされ、対地ミサイルによって襲撃・暗殺された。ロシア政府が殺したわけです。
やがて紛争はチェチェン化した。粛清する側もされる側も、ともにチェチェン人なのである。ただし、チェチェンで誰が権力を握るのかを決めるのは、クレムリンだ。クレムリンの忠実な僕(しもべ)たちが暗躍している。白昼堂々、活動することもある。
2002年10月、モスクワの劇場で、覆面姿の男女40人がステージに飛び乗り、天井に向けて実弾を打った。この犯人グループに共通していたのは、全員が戦争で身内を亡くしていたこと。16歳の少女も2人いた。劇場には観客として800人がいた。3日目の明け方、ロシア軍がテロリスト制圧のためガスを噴射した。占拠犯は全員殺されたが、200人の人質も、銃撃戦に巻き込まれて死んだ。まさしく凄惨なテロでしたね。
チェチェンのカディロフ大統領は、スタジアムの自分の席で爆殺された。そのスタジアムは、式典のためにつくられたもので、治安部隊が人員と資材のすべてを監視し、エックス線検査もしていた。爆発物は、当日、カディロフが座るはずの席にコンクリートづけされていた。それが出来るのは、防犯手続きを迂回できる人間だけ。つまり、権力当局が容認しなければありえない爆破だった。
ロシアでは、毎年、人種的な動機による襲撃が5万件も発生している。しかし、襲撃された側が通報するケースは少ない。警察が、被害者より襲った側に同情することがよくあるからだ。記録に残るのは、毎年わずか300件ほどで、人種的動機による殺人事件は50件。加害者はめったに起訴されないし、有罪判決が出るのはもっとまれだ。襲撃の大半は若い男性による。外国人嫌悪に関連する事件の2分の1は、被告が18歳未満のため密室審理となっている。
コーカサス出身者は全体としてそうなのだが、とりわけチェチェン人は一般のロシア人の憎悪と軽蔑の対象にされている。チェチェン人は、ロシアの年に住民登録したり、子どもを学校に入れたり、仕事を見つけたり、住居を探すのが難しい。
チェチェン紛争の現地に入りこんでの報告です。まさに憎悪の果てしない連鎖がそこにあります。ぞっとする事態です。チェチェンとロシアの正常化を願うばかりです。
(2009年9月刊。2800円+税)
2010年2月22日
思考する豚
生き物
著者 ライアル・ワトソン、 出版 木楽舎
つい先日も豚シャブを食べたばかりです。豚肉でも、ときには牛肉のようにシャブシャブで食べられるのですよね……。この本を読んで、そんな身近な豚について、認識を改めました。
豚は根っからの楽天家で、ただ生きているというだけで自らわくわくできる生きものだ。
猫は人を見下し、犬は人を尊敬する。しかし、豚は自分と同等のものとして人の目を見つめる。
豚は独特だ。考え、働き、囲いの外で遊ぶ。この4000万年のあいだ、豚の姿形や基本的な構造はほとんど変わっていない。
豚はとても社会的な動物である。楽しげに寄り集まり、身体にふれあいながら、家族集団で暮らしている。若いオス豚たちは、成熟すると自発的に群れを離れるか、群れから追い出される。
オス豚は年をとると、いつしか自分から群れを離れていく。一方、年老いたメス豚が一頭だけで暮らすことは決してなく、いつまでも社会集団のなかに留まり、女家長的存在になる。集団がどこで食糧をあさり、いつ移動するのかは、しばしばこの女家長に合わせて決定される。ちょうど象の社会集団のようである。
豚は恐ろしいほどよく眠る。一日の半分はゆったりと身体を横たえて静かに動かずに過ごす。そのうち半分は、時々いびきもかく深いノンレム睡眠だ。
豚は本来、昼行性である。
豚の行動圏において欠かせない目印は、糞をする場所である。
豚の鼻がユニークなのは、鼻で地を掘る習慣に負うところが大きい。鼻先は平たくなっていて、軟骨組織の丈夫なパッドが詰められているため、かなり硬い地面でも掘ることができる。
野生の豚は、トカゲ、ヘビ、ヒナドリ、小型の哺乳動物など、捕まえられるものならほとんどんなんでも殺して食べる。
豚は、あらゆる意味できれい好き、かつ、繊細である。どの豚も匂いに対する鋭い感覚を持っている。豚は匂いを嗅ぎ分けるのに最適な身体をしている。鼻は同時に腕、手、鋤(すき)、主要な感覚器官でもある。
豚の社会は匂いにしばられている。豚の行動はおおむね匂いによって決定される。
豚は決して縄張りに固執する動物ではなく、季節に合わせて移動できる行動圏を持っている。
豚の新生児は数分で母親の声を認識しこれに反応する。生まれて1時間もたたないうちに、子どもたちは母親の声とそれ以外のメス豚の声を聞き分けられる。
豚は人間の指図を受けるのがあまり得意ではない。そうなるには頭が良すぎるのだ。だから、同じことを繰り返す退屈な作業を快く感じない。
いま、何千頭もの豚が生物医学の研究に従事している。いくつかの解剖学的構造において、豚はどの動物よりも人間に近い。
週に何回も食べている豚が、こんな動物だったとは……。
(2009年11月刊。2500円+税)
2010年2月21日
タイガとココア
生き物
著者 林 るみ、 出版 朝日新聞出版
釧路市動物園で産まれた、後ろ脚に障がいをもつアムールトラ2頭の生育日誌です。残念なことに、そのうちの1頭は1年あまりで死んでしまいました。でも、動物園の飼育員の皆さんの懸命な飼育状況がたくさんの写真とともによく伝わってきます。
私も、今や日本一有名な旭山動物園に見学に行ったことがあります。広々とした大自然のなかで、アザラシやペンギンなど、たくさんの動物たちが生き生きと生育しているのを見て、心を打たれました。この釧路市動物園には行ったことがありませんが、釧路には3回ほど行きました。今度行くときには、この動物園に立ち寄ってココアちゃんを拝んでこようと思います。
アムールトラの赤ちゃんは、3頭生まれましたが、1頭は間もなく死んでしまいました。残る2頭も、後ろ脚に障がいがあり、ちゃんと立てません。その2頭が生まれてから大きくなるまで、飼育員の皆さんが手塩にかけて育てる様子が伝えられます。
ともかく、この本のいいところは、産まれ落ちたところ(母アムールトラは産みっ放しで、赤ちゃんの面倒を見なかったのです)から、2頭が徐々に大きくなっていき、飼育員が抱えきれなくなるまでの様子が克明に写真で紹介されていることです。大きくなったら怖いばかりのトラも、小さいときには子猫そのもので、ともかく可愛いのです。
生後まもなくのとき、授乳は1日6回、2時間ごと。そのたびに排便の世話をし、足のマッサージもする。排便させるためには、ミルクを飲んだあと、必ず濡らした紙でお尻をふき、うんちをさせる。本当は母トラが赤ちゃんトラのお尻を舐めてやる。
ミルクを誤って飲み込まないように注意深くしないといけないし、感染症にかからせないように、授乳時は飼育員も手の消毒を念入りにする。
大きくなって、毛が抜け変わるときには、抜けた毛を飲みこみ、毛玉が胃の中にたまらないよう排出させるために、ネコ草を与える。
ええっ、ネコ草って何ですか?知りません。どなたか、教えてくださいな。
毛は内臓の鏡。動物は毛並みに体調が出る。うひゃあ、これも知りませんでした。そうなんですか……。
100年前は10万頭いたと言われる野生のトラは、現在では多く見積もっても6000頭しかいない。アムールトラは絶滅の危機に瀕している。これも人間のせいですよね……。
とても可愛らしいトラの赤ちゃんの写真が満載の本です。どうぞ手にとって眺めてみてください。心が癒されますよ。
(2009年11月刊。1400円+税)
2010年2月20日
エレーヌ・ベールの日記
世界(フランス)
著者 エレーヌ・ベール、 出版 岩波書店
『アンネの日記』のフランス版ともいうべき本です。アンネ・フランクと同じころにアウシュヴィッツ強制収容所に入れられ、終戦によって収容所が解放される直前(5日前)に殺されてしまった若いユダヤ人女性の書き遺した日記です。24歳でした。顔写真を見ると、いかにも知的な美人です。日記の内容も実によく考え抜かれていて、驚嘆するばかりでした。
訳者あとがきに、戦争を引き起こし、「愛国心」やら「勇敢」の名のもとに踊らされる人間の愚かさに絶望しつつも、「公正」を求め続ける。身の危険が迫るなか、文学を糧にして哲学的な思索を深めていく精神性の高さに、読者は深い感銘を受けるだろう、と書かれています。まさにそのとおりですが、フランスでは、以外にもかなりのユダヤ人が生き残ったことを知りました。
1940年にフランスに住んでいたユダヤ人35万人のうち、75%が大虐殺のなか生き延びた。ポーランドは8%でしかなく、オランダの生存率は25%だった。
このフランスにおける高い生存率は、国内でユダヤ人をかくまい助けたフランス人(「正義の人」と呼ばれた)のおかげである。そして、ユダヤ人の子どもの85%が生き延びることができた。有名な歌手であるセルジュ・ゲンズブールも、子ども時代にユダヤ人であることを隠して生き延びた。ええっ、そうだったんですか……。ちっとも知りませんでした。
ああ、でも、私はまだ若いのに、自分の生活の透明さが乱れるなんて不当だ。私は「経験豊か」になんてなりたくない。しらけて幻想なんか捨てた年寄りなんかなりたくない。何が私を救ってくれるのだろうか。
私は忘れないために急いで事実を急いで記している。忘れてはならないから。
人々に逃げるように警告した何人かの警官は、銃殺されたという。警官たちは、従わなければ収容所送りだと脅された。
勇気を持って行動すると、生命を失う危険のある日々だったわけです。
結局のところ、書物とは、平凡なものだと理解した。つまり、書物の中にあるのは、現実以外のなにものでもない。書くために人々に欠けているのは、観察眼と広い視野だ。
私が書くことを妨げ、今も心を迷わせている理由は山ほどある。まず、無気力のようなものがあって、これに打ち勝つのはとても大変だ。徹底的に誠実に書くこと、自分の姿勢を曲げないために、他の人が読むなどとは絶対に考えずに、私たちが生きている現実のすべてと悲劇的な事柄を言葉で歪めずに、その赤裸々な重大さのすべてを込めながら書くこと。それは、たえまない努力を要する、とても難しい任務だ。
要するに、この時代がどうであったか、あとで人々に示せるように、私は書かなければならない。もっと重要な教訓、さらに恐ろしい事実を明るみに出す人がたくさん出てくることは分かっている。
私は臆病であってはならない。それぞれ自分の小さな範囲内で、何かできるはず。そして、もし何かできるなら、それをしなくてはならない。私にできることは、ここに事実を記すこと。あとで語ろうとか書こうとか思ったときに、記憶の手掛かりとなる事実を書きとめることだけだ。
人生はあまりに短く、そしてあまりに貴重だ。それなのに今、まわりでは犯罪的に、あるいはムダに、人生が不当に浪費されているのを私は見ている。何をよりどころにしたらいいのだろうか。絶えず死に直面していると、すべては意味を失う。
今、私は、砂漠の中にいる。「ユダヤ人」と書くとき、それは私の考えを表してはいない。私にとって、そんな区別は存在しない。自分が他の人間と違うとは感じない。分離された人間集団に自分が属しているなんて、絶対に考えられない。
人間の悪を見るのは苦しい。人間に悪が降りかかるのがつらい。でも、自分が何かの人種や宗教、あるいは人間集団に属しているとは感じないために、自分の考えを主張するときに、私は自分の議論と反応、そして良心しか持たない。
シオニズムの理想は偏狭すぎると私には思える。
きのう(1944年1月31日)は、ヒトラー政権が出現して11年目の日だった。今では、この体制を支えている主要な装置が強制収容所とゲッシュタポであることが良くわかった。それが11年も…。一体誰が、そんなことを賞賛できるのだろうか。
エレーヌ・ベールの知性のほとばしりを受け止め、私の心の中にある邪心が少しばかり洗い清められる気がしました。一読をおすすめします。
フランス語を勉強している私としては、原書に挑戦しようという気になりましたが……。
(2009年10月刊。2800円+税)
2010年2月19日
回想の松川弁護
司法
著者 大塚 一男、 出版 日本評論社
松川事件が起きたのは、1949年8月17日のこと。私は生まれたばかりで、まだ1歳にもなっていませんでした。今では完全な冤罪事件であり、被告人とされた人々が無実であることは明らかなのですが、警察は事件直後から共産党の犯行だと大々的に宣伝したのでした。これによって、当時の国鉄や東芝の組合運動、当時は今と違って労働運動に力があったのです、は大打撃を受けてしまいました。
そのデマ宣伝をした新井裕・福島警察隊長(今で言う県警本部長)は、その後、左遷されるどころか、ついには警察庁長官にまで上り詰めた。もう一人。被告人からデタラメな「自白」調書をとった辻辰三郎検事も、検事総長にまでなった。
これって実に恐ろしいことですよね。これでは警察も検察も反省するはずはありませんね。シロをクロと言いくるめた人間が、それが明るみになっても出世していくという組織では、自浄作用を期待するのが無理でしょう。問題は、それが60年も前のことであって、今では考えられもしないことだと言いきれるかどうかです。私は言いきれないように見えます。最近のマンションへのビラ配布をした人を捕まえて23日間も勾留したというのも恐ろしいことではありませんか。
松川事件について、警察庁(当時の国警本部)は、盗聴器を警察署内の弁護人接見室にすえつけたが、弁護人らに警戒されてはっきり聞き取れず効果がなかった、と反省する報告書を部外秘で作成した。
ええーっ、と思いました。今でも、警察の面会室において、否認事件のときには立ち聞きされているんじゃないかと心配することがあります。留置所は弁護人にとって夜でも面会できるし、被疑者も煙草を吸わせてもらえるなど便宜の良い半面、こんな怖さがあるんですよね。
最近でも、全国刑事裁判官会同をやっているのか知りませんが、かつてはよく開かれていて、法曹会出版として公刊もされていました。
1954年に松川裁判で第二審・有罪判決を出した鈴木禎次郎裁判長が丸一日、裁判官合同で報告したということです。この鈴木裁判長は、有罪判決を言い渡すとき、「本日の判決は確信をもって言い渡す」との前口上を述べたことでも有名です。ところが、被告団が猛烈に抗議すると、たちまち、「真実は神様にしか分かりません」と逃げたのでした。実のところ、主任裁判官は無罪の心証を持っていて、もう一人の裁判官と鈴木裁判長も、有罪とする被告人の数が異なっていたというのです。ここまで評議内容が外部に漏れるのもどうかと思いますが、それはともかく、当時のマスコミは鈴木裁判長をあらん限りにほめたたえたそうです。マスコミもひどいとしか言いようがありません。権力迎合のマスコミほど、情けないものはないですよね……。
被告・弁護団が不当な有罪判決に対して即日上告したのに対して、当時のマスコミが「望みなきもの」と非難し、松川裁判を批判していた広津和郎氏などを揶揄していたというのも許せません。マスコミの事大主義的な態度は、今もときどき露見しますよね。
無実の人々が14年間も戦い続けて、やっと無罪判決を勝ち取った事件を弁護人として担当した著者が振り返っていますが、今日なお大いに学ぶべきものがあると思いました。
(2009年10月刊。2500円+税)
2010年2月18日
須恵村の女たち
社会
著者 ロバート・J・スミス、エラ・L・ウィスウェル、 出版 御茶の水書房
戦前、日本語のできるアメリカ人の学者夫婦が、熊本県人吉市近くの須恵村で1年間にわたって生活して、村の生活実態をじっくり観察した記録ですが、驚くばかりの内容になっています。驚嘆したという言葉こそ、この本の読後感にふさわしいものはありません。
須恵村の人口1663人、285世帯からなっていた。
女たちは従属的な地位を占めていたが、女たちは必ずしも、彼女らがそうすると思われていたようには行動しなかった。たしかに、女たちは村の行政のことには、なんら役割を持っていなかったし、家庭でも夫に仕えるという標準的な型に従っていた。しかし、男たちとの日ごろの付き合い、労働の分担、社交的な集会、飲酒、おしゃべりでの役割において、須恵村の女たちは確かに、日本のどんな都市に住む女性よりも、はるかにずっと自由に行動していた。
その関係はより平等であって、女性は農民、漁民、商人、職人の家という経営体への直接的な貢献ゆえに、はるかに力を持っていた。
男性がいるときでも、話には制約はない。まったく奔放で、好奇心が強く、物おじせず、はっきりものをいう点で、須恵村の女たちは、強く自分の意見を主張し、外の世界の生活のある特定の側面について好奇心を持ち、噂話をするのに熱心で、若い外国からの訪問者に、養蚕の技術から夫婦生活のもっとも個人的な詳細にいたるまで、すべてのことを教えることに興味を持つ人たちとして現れる。
かつて花嫁が処女であることに重要性がおかれなかった。昔は多くの離婚や再婚があったが、いまでは事態は変わってしまった。かつては、結婚式は極端に簡素で、それ自体あまり意味をもたなかった。女の子は新しい家でなにか気に食わないことがあれば、家に帰ってやり直すことができた。花嫁の純潔は重要なこととはみなされていなかった。これが、何回も結婚した年寄りの女性が多い理由である。しかし、今では結婚は丹念に作られた事柄になり、女の子もそれを軽く見なくなり、また、簡単に離婚しなくなった。
昔は結婚はどちらかといえば簡単に行われるものだったので、離婚もそんなに深刻な問題ではなかった。持参金の額もすごく大きくなり、結婚式の費用も多額になったので、離婚についても、夫と妻の両方がその手順をそんなに軽々しく考えなくなり、その解決のために二人が深くかかわるべき問題である、と広く認められるようになった。昔は、一家族に七度または八度くらい離婚があっただろう。以前は婚礼は極めて簡単で、人は五円で結婚できた。それが離婚がそんなに多かった理由で、5円あれば料理屋か、売春宿に行くか、あるいは結婚することができたのだ。その結果、人々はそれほど考えもせず、結婚を破棄した。しかしいまでは、極めて多額の金を結婚に注ぎ込むので、離婚する前に、長い間考えることになる。
女が肉体的に強く、良い働き手であるならば、前の結婚で生まれた小さな子どもたちを持っているという事実でさえ、再婚にとっての打ち勝てない障害ではなかった。
女性主導型の離婚が多いことの背後には、別の夫を見つけることが極めて容易だということがある。たびたび結婚する女性の多くは、嫌いだと言うことで簡単に男を見捨てた。その男とは過度の酒飲みか、妻を虐待するか、その母親と彼女がうまくやっていけない、という人であった。
女たちの何人かは、自らの資産を持っていたが、それは彼女たちに、財産を持たない人々を拒否する自由を、ある程度与えた。しかし、家庭内の諸条件のために我慢しなければならない限界を知っている、自立心があり、意志の強い女性が多くいるという事実は、無視できないものである。そして、その限界が踏み越えられたとき、彼女たちは夫のもとを去るか、夫を見捨てたのである。
居心地のよくない結婚生活の環境にもかかわらず、そこにとどまっているものは、夫の領分に侵略することで家を支配していた。結局のところ、強い女たちと同様、弱い男たちがいたのである。男が無能で、先見の明がなく、怠け者であるか、さもなければ家族の中の 事態を管理するのに適していないことがはっきりしたときは、妻がとってかわって、大変うまくやることがある。
われわれは、酒をたくさん飲む妻、意地悪ばあさんである妻、あるいは姦婦として広く知られている妻に出会ったが、これらの妻は、長い間それを耐え忍んできた夫によって離婚されることはなかった。
彼女たちは、タバコ、酒、性に楽しみを見いだしていた。性的な関係についての話は率直で、隠しだてのないものだった。結婚した女性はときどき不貞を働いたが、それは、そのような行為をするのは通常、夫だけだと言うこの時代の日本において一般に承認された認識ときわだった対照をなすものだった。さらに注目すべきことは、不貞の関係を知った夫によって、妻が離婚されるとは限らない。
寡婦たちは、恋をあさる夫たちと未婚の若い男たちにとって、いいかもとみなされ、またそうであることが証明されていた。
なぜ男たちは不貞の妻を我慢したのか。どのようにして、離婚した女性は、別の夫をそんなに簡単に見つけられたのか。その解答は、少なくとも部分的には、当時の小さな小売商の家や農民の家が要求していた労働力の性格のなかにある。後者にとっては、協同的な労働集団や労働の協同は、たしかに田植や稲刈りのような忙しい季節には、きわめて重要であった。
離婚、再婚の非常に多くが、とても狭い地理的範囲で起きていること。近くの隣人同士である人々は、驚くほど多様な組み合わせで、一度またはそれ以上結婚している。
年とった男女は、しばしば、自分たちだけで結婚を取り決めていた。
仲人の役割は結婚の取り決めにとって極めて重要であるが、同時に離婚の解決においても大変重要だった。花嫁ないし婿養子の持ってきた全財産は返される。結婚後、夫婦で手に入れた財産は分けられる。
婚礼も盛大で費用がかかるので、離婚による解決もずっとむずかしくなった。今日、離婚率は1935年のそれよりは少し高いが、須恵村の老婦人の若いころに比べればずっと低い。1883年に人口千人あたりの離婚率は3.39だった。1935年にはそれは0.70に下がった。1884~88年の結婚に対する離婚の比率は1:0.37であり、1934~35年には1:0.08だった。1978年の離婚率は1:0.87だった。
貧しい家や結婚を急がなければならない理由のある家でおこなわれる、もっとも一般的な結婚の形式は、最小限の費用とおひろめですますものだった。それは三日加勢(三日間の労働)と呼ばれる、一種の試験結婚である。
妻は、夫からの財政的自立を、文字通りまったく認められていなかった。夫は家計のほんの一部を除いて、すべてを管理した。しかし女たちはあきらかに、いくらかの個人的な現金を所有している。女たちは、絹の家内生産から得た収入のいくらかを自由にできる。
女性およびほとんどの男性が子どもを寛大に扱っている。二人は、日本にいる外国人のほとんどがそうであるように、子どもに対する過度の甘やかしにしばしば驚かされた。少年も少女も、少なくとも就学年齢に達するまでは、目をつけて、欲しいと思ったものは、なんでも男女の成年から手にすることができた。
日本の女性が、身体的・精神的エネルギーの多くを子どもの世話に費やしていることは、いつでも認められることである。女は子どもがいたら、夫と別れると子どもを失うという恐れから、困難な結婚英勝野状態を我慢する。子どもたちはほとんどの大人―男であれ女であれ―によって甘やかされ、かわいがられ、大事にされた。
結婚は、若い女と男のすべてにとっての目標であり、須恵村の女たちが子どものために負う、最後の大きな責任は、その結婚の取り決めであった。その家の男たちも、その過程のある段階ではつねにまきこまれていたし、ほとんどの場合に拒否権を持ってはいたが、交渉を担当するのは、主として女たちであった。
最後に、戦前の庶民の天皇観を紹介します。外国人(ガイジン)に対して、次のように述べたというのを知って、私など腰が抜けるかというほど驚きました。
天皇陛下は神様のようにしとりますが、本当の神様ではなかとです。天皇陛下は人間で、とても偉か人です。
(1988年5月刊。3800円+税)
2010年2月17日
戦争の記憶、記憶の戦争
朝鮮(韓国)
著者 金 賢娥、 出版 三元社
アメリカのベトナム侵略戦争に韓国軍が加担して兵を送り、ベトナム人を大量に虐殺していた事実は知っていましたが、最近、改めてベトナム現地に訪問して、このことを確認した韓国人団体の活動記録です。
1965年から1973年までの9年間に韓国軍のべ32万人がベトナムで戦争に従事し、5千人以上がなくなった。
1965年、アメリカは25ヶ国に参戦を要求したが、それに応じたのは韓国を含めて7ヶ国だけだった。しかも、韓国のほかは砲兵隊や工兵隊など、実際の戦闘とは関係のない部隊を派遣した。イギリスに至っては、わずか6人の儀仗隊を派遣しただけで、名目的な参戦でしかなかった。それだけ名分のない戦争だった。そのとき韓国軍は、のべ32万人もの兵を派遣し、実際に戦闘行為をすすめた。
この本を読んで、なぜ韓国軍がベトナムに送られたか認識することができました。要するに、当時の韓国の朴正煕政権が、アメリカの支援に政権の存亡をかけていたのです。
朴政権は、ベトナムへの軍事支援によるベトナム特需という経済的効果と、派兵の対価としての援助を獲得するという目的を設定した。当時の韓国は、外貨不足と物価高による経済的危機が蔓延している状態だった。そのなかで、朴正煕に対する12回もの逆クーデターの試みがあり、しかもクーデター指導者間の内部軋轢が朴政権を脅かしていた。朴正煕は、ベトナム派兵を一つの政治的突破口と考えた。つまり、アメリカから経済的軍事的援助を得て、ベトナムで外貨を獲得しようとした。結果として韓国はベトナム戦争で10億ドルを稼ぎ、おかげで韓進などが大企業に成長することができた。
朴正煕が32万人もの兵力をベトナムに派遣できたのは、韓国人の協力と黙認があってのこと。メディアと知識人は、政権維持のために韓国民の生命を担保とした朴正煕と暗黙の共謀をしたことになる。ベトナム戦争は、危機に瀕していた朴政権を盤石なものにした。ベトナム戦争で政権の基礎を固めた朴正煕は、長期政権の道を歩み、暗うつな暴圧政治が始まった。この暴圧政治の実現には、大多数の韓国民の手助けがあった。朴正煕の三選のための改憲と維新憲法による暴圧政治の基礎を作ったのが、まさにベトナム戦争だった。
たとえば、1966年1月にヒシディン省で1200人のベトナム民間人が殺され、同年11月にもクアンガイ省ソンティン県で青龍部隊がベトコン掃討作戦を行い、多くの民間人を虐殺した。韓国軍には現地のベトナム人がみなベトコンに見えた。根絶やしするしかないと考えたのです。恐ろしいことです。
朝鮮戦争を経て、韓国軍兵士にはアカは殺してもいい、いや殺さねばならないという意識が染みついていたこともその背景にあった。
非武装の民間人が虐殺されたのです。これは、やりきれなく悲しい。どちらからも認められない死だから。遊撃隊員の死だと、ベトナム政府から烈士補助金が支給されるのに……。
忘れてはならない戦争の記憶を掘り起こした貴重な本です。『武器の影』(岩波書店)も、小説ですが、同じテーマを扱っていて、大変重たい本でした。
左膝を痛めて、いろいろな治療を受けました。まず湿布です。ホッカイロで温めてみましたが、痛みは止まりませんでした。整体師に見て貰ったところ、鯨飲不明と言われてしまいました。外科医で痛み止めと湿布をもらいましたが、あまり効き目がありませんでした。別の外科医に行って膝にヒアルロン酸の注射を打ってもらい、強力な痛み止めの薬を飲み始めたところ、かなり痛みは和らぎました。もう一回注射してもらおうと思ったところ、知人から注射はよしたほうがいい、それよりカイロプラティックに行って整骨・整体してもらったらどうかとアドバイスされたので行ってみました。1時間ほどの整体を受け、翌日からすっかり痛みがなくなりました。人体の自然治癒力を高めるのが整骨・整体だということで、そのおかげだったのでしょうか。それにしても、足をひきずってしか歩けないため、バリアフリーの必要性を痛感しました。階段の上り下りが大変なのです。エレベーターのないところでは泣きたいほどでした。わが身になって自覚したわけです。
(2009年11月刊。2700円+税)
2010年2月16日
金融大狂乱
アメリカ
著者 ローレンス・マクドナルド、 出版 徳間書店
リーマン・ブラザーズの元社員が、その内情を曝露した本です。サブプライム・ローンの実態を知るにつけ、アメリカは狂っているとしか言いようがありません。
頭金の確保や月々のローン返済もままならないような人々が、銀行から住宅ローンを提供された。クリントン大統領によって住宅都市開発相の次官補に抜擢されたロバータは、全国的に体制を整備し、各地の出先機関に弁護士と調査員を配置した。この配置の目的は、差別禁止の法律を銀行に対して適用すること、アメリカ国民に住宅ローンの資金を供給することにあった。1993年から1999年までのあいだに、200万人以上の人が新たに住宅の所有者となった。
2004年の末、不動産の世界には、新たな文化が生まれていた。住宅ローン会社は、自社の資本をリスクにさらしていないため、将来の返済状況を気にする必要がなくなった。
カリフォルニアで働くセールスマンは、無理やり中低所得者にまで顧客層を広げ、相手が大喜びする条件で見境なくローンを売りまくった。ここには規範もなければ、責任もなければ、非難もなかった。結果を気にする者は皆無だった。いや、結果を気にする必要自体がなかった。
このころ、カリフォルニア州だけでも、毎日50万人ものセールスマンが住宅ローンを売り歩いていた。サブプライムローンの貸し手の40%以上は、カリフォルニアで設立された企業だった。当時は、新車のローンを組むよりも、新居のローンを組むほうがたやすく、マンションを借りるよりも、住宅を買う方が安くついた。住宅ローンのセールスマンは、史上空前の報酬を得ていた。
収入も仕事も資産もない人が借りられるローンを、ニンジャ・ローンと呼ぶ。
買い主は代金の支払いを心配する必要はなかった。ニンジャ・ローンは、お金に困っている多くの家族にとっては奇跡以外の何物でもなく、たいてい住宅価格より10%増の融資が行われた。契約書にサインした人々は、100%分をローンの支払いに充て、10%分を自分のポケットに入れて新居での生活を始めた。
住宅ローンのセールスマンの顧客の半分は、契約書を理解するどころか、読むこともさえできなかった。ニンジャ・ローンは当初の金利が1~2%と不自然なほど低いものの、数年後には5~10倍に跳ね上がる。これが、結局、住宅ローンの債務不履行の微増に繋がる。
フロリダのマイアミ地区で10年間に建てられたコンドミニアムはわずか9000棟だった。ところが。最近たったコンドミニアムは2万7000棟。このほか、建設許可待ちが5万棟もある。
ウォール街の労働者が受け取ったボーナスは、ニューヨークの非金融系労働者の2.5倍。年収額で見ると、2003年に比べて1.5倍となっていた。
リーマンブラザーズの社員にとっては、ボーナスが至高の重要性を持っていた。なぜなら、給与体系上、報酬の大部分がボーナスだったから。しかも、報酬の半分は自社株で支給されているため、生きていく糧を確保するには、会社に収益をあげさせ、株価を高く保たせる必要があった。そうなって初めて、自分たちの財政状況が向上する。
社員はほぼ同水準の固定給をもらっていた。差がつくのはボーナスの部分だ。たとえば100万ドルのボーナスをもらうためには、会社に2000万ドルの収益をもたらさなければならない。
倒産した会社の取締役たちが、とてつもない高額をとっていたことが何度も明るみに出ました。まさしく狂っているとしか言いようのないアメリカです。そのせめてもの救いは、こんな本で実態を教えてくれる人がいることでしょうか……。
庭の紅梅が先に咲き、遅れて隣の白梅も咲き始めました。紅白の花は春の到来を告げてくれます。隣家の庭のピンクの桃の花も盛りで、メジロがチチチとせわしく鳴きながら花の蜜を吸っています。
(2009年9月刊。1800円+税)
2010年2月15日
からだの一日
人間
著者 ジェニファー・アッカーマン、 出版 早川書房
人間の体は、ほんの1%がヒトで、あとの99%は微生物から出来ていることが分かった。
朝。人間は心にセットされた小型の目覚まし時計を体内にもっている。寝ている間も体内で無意識のうちに注意深く時間が計られており、脳は起きているときと同じように、起床など時間の決まっている予定を予期して、化学物質を放出し、私たちが起きて活動し始めるように動く。そのせいで、決まった時間になると目覚める。
私は7時に妙なるシャンソンが聞こえるようにセットしています。先日コンセントを差し込むのを忘れてしまい(ボケが始まったのでしょうか……?)、7時40分に起きました。おかしい、おかしいと思いながらそれまで寝ていたのです。
起床後30分内の脳の能力は、24時間使った後より劣る。
アメリカ空軍は1950年代にジェット戦闘機のなかにパイロットを待機させ、睡眠をとらせた。パイロットは睡眠中を叩き起こされて離陸を命じられた。しかし、事故率が激増したので、これは禁止された。睡眠慣性の影響は、2時間後にまで及ぶ。
レム睡眠と呼ばれる段階で目覚めた人は、周りの状況にすぐなじみ、心の動きも俊敏で、話にも活発に応じる。レム睡眠は覚醒にいたる導入部であり、目覚めをより円滑にしてくれる。
大抵の人は、目覚めてから2時間半から4時間のあいだが一番頭がさえている。ということは、早起きの人は注意力のピークが午前10時から正午になってくることになる。この時間帯には、論理的な推論能力や複雑な問題を解く能力が高まる。
体温は1日のうちに2度近く変動する。平均体温は女性36度9分、男性は36度7分である。
慨日時計の遺伝子の持つ僅かな違いによって、早朝に目覚める人と、フクロウのように夜が好きで、朝のうちは頭がすっきりせず、真夜中に一番ノリのいい人とに分かれる。
私は、どちらかというと朝方ですが、かといって早朝型でもありません。
カフェインは、人間のニューロン(神経細胞)を興奮させるのではなく、沈静化プロセスを阻害することで覚醒作用を発揮する。
人間は、350種にものぼる異なる受容体が、数千もの匂い物質をかぎわける。匂い
の記憶は、他の感覚に比べてなかなか薄れるということがない。匂いの中には、かつての記憶そのままの世界にどっぷり浸らせるものがある。
そうですよね。たとえば古い麦わらの匂いをかぐと、子どものころ田んぼに積み上げてあった麦わらの山を思い出し、それは魚釣りとか田舎のおじさんの顔を連鎖的に思い出させます。
話すなり歌うなりして声を出すとき、人間の脳は聴覚ニューロンの発火を停止し、耳の中で自分の声で大騒ぎにならないようにしてくれる。
時間間隔タイマーを撹乱するものは、なんといっても集中力の欠如だ。何かの作業をしながら60秒を数えるよう指示されたとき、その精度はとんでもなく低くなる。
なにかに没頭していると、時間は長く感じられる、一方で、二つのことを同時にしようとすると、時間は短く感じられる。脳が体内時計のカチコチと刻むパルス音を一部聞き逃してしまい、時間が短くなるのだ。運転中に携帯電話をかけるのは危険だと言うのは、まさしく、この理由による。
ケータイで話しているときの事故の確率は1.3倍。電話番号を入力していたりすると、そのリスクは3倍にもなる。いやはや、すごいことですね。そうなんですか。でも、ケータイで話しながら車を運転しているのはよく見かけますよね。
脳の細胞は10%しか使われないというのは間違いである。ニューロンのほとんどは一日のうちのどこかで活性化する。
あくびに、どのような機能があるのかは、いまだに大きな謎のままである。
あくびは、社会的な信号でもある。あくびは自分の考えや状態を言葉以外の手段で知らせる原始的な方法なのである。
離婚、失業、家族を亡くしたといったストレスに1ヶ月以上もさらされた人は、そうでない人に比べて風邪をひきやすい。ワクチンを打っても免疫反応が弱いことが多い。蓄積したストレスは、創傷の治癒も遅らせる。不断のストレスと不眠は、学習、記憶力、そして脳の構造そのものに悪影響を与える。
ストレス緩和方法のうちでもっとも有効なのは、ユーモアと仲間づきあいの二つだ。強い社会的なつながりを持つ人は、ストレスにうまく対処できる。楽しい笑いもそうだ。
交代勤務する労働者の乱れた時計は、記憶力、認知能力、その他さまざまな身体部分に影響を与え、高コレステロール他、高血圧、気分障害、不妊、心臓発作やがんの高罹患率につながる。
正しい慨日リズムの位相で寝ることが肝心で、体温が下がってから、生物学的な昼に寝ようとすると、睡眠の質は低くなる。
睡眠中の修復は脳に取ってとても重要である。脳は睡眠によって自信を修復し、タンパク質の再貯蔵やシナプスの強化などの身体維持機能をする機会を得る。これらの作業をするためには、脳は休止してニューロンの代謝活動が作業の邪魔をしないようにせねばならない。深い眠りになると、脳の温度と代謝率が下がるために、酵素が修復を行って細胞を回復させることができる。
すぐに寝付けないのは、主として不安感とストレスによる。よく眠るためには、決まった時間にベッドに入り、時計を覆い隠し、夜遅くに運動しないこと。寝る前に頭を酷使してはいけない。
人間の一日を振り返りながら、人体の構造と生理をとても分かりやすく解説してくれています。還暦を過ぎた今、私の身体は30代、40代とはずいぶん違うという点をいろんな形で自覚せざるをえません。たとえば、今、左膝が痛くてたまりません。かなり良くなりましたが、まだびっこをひきいながら歩いています。若いころには考えられもしないことです。老化現象って、つくづく嫌なものです。
(2009年10月刊。2200円+税)
2010年2月12日
セブン・イレブンの罠
社会
著者 渡辺 仁、 出版 金曜日
最近はコンビニ神話にも少々かげりが出ているようです。私は原則としてコンビニを使わない主義ですが、出張したときには水と朝食用の野菜ジュースを買うために利用せざるをえません。
このコーナーでたびたび鈴木敏文会長(創設者であり、CEO)の本を好意的に紹介しましたが、この本は、セブン・イレブンの裏の貌(かお)を鋭く暴いています。なるほど、というより、ええっ、まさか……と驚いた点がいくつもありました。セブン・イレブンって、前近代的な圧政支配で成り立っているんですね。ほとほと嫌やになってしまいました。
セブン・イレブンは日本全国に1万2000店舗あり、本部直営店は、そのうち1000店しかなく、残る1万1000店はフランチャイズ加盟店。だから1万1000店はオーナー経営者が存在しているはずです。ところが、ところがです。
第1に、毎日の売上金全額をセブン本部の指定口座に送金する。
第2に、オーナー経営者には仕入原価が知らされず、知る手段もない。
第3に、たとえ親が死んでも24時間365日、営業しなければならず、閉店することは許されない。
ええっ、ええっ、これではオーナーなんてものじゃありませんよね。売上金の一定割合をロイヤリティーとして本部に送金するのなら分かりますが、売上金全額を毎日、本部へ送金するというのでは、まるで直営店ではありませんか。どこが違うのでしょうか?
本部には、全国から毎日76億円ものお金が送金されているとのことです。これって、おかしな仕組みだと思います。しかも、商品の仕入れ原価は公表されていないというのですから、経営者がオーナーだなんて、とてもとても言えません。
セブン・イレブンは売上5407億円で、営業利益1780億円(2009年2月)というのです。3割もの粗利なんて、これまたびっくりですね。
年間2兆7626億の総売上高を本部がどう運営しているか、ブラックボックスだというのですから、これではまるで江戸時代の鈴木敏文商店ですとしか言いようがありません。21世紀の日本で許されていい商法とは思えませんね。
セブン・イレブンの客単価は平均700円。客一人当たりの粗利は150円ほど。
一店舗の売上高は、1日でよくて80万円、悪いと40万円。それでオーナー夫婦は年収1000万円。日販40万円だと、わずか2~300万円にしかならない。24時間、年中無休でこれでは、泣けてきます。
ところが、セブン本部には、日販80万円だと年4000万円、日販40万円でも年1200万円ものチャージ収入が入ってくるというのです。これでは、あまりに不公平です。他人事(ひとごと)ながら、読んでいて腹が立ちました。
便利なコンビニですが、こんな不法な商法は、長続きさせてはいけないのではないでしょうか・・・・・・?
(2009年10月刊。1500円+税)
欠陥捜査
司法
著者 三浦 良治、 出版 毎日新聞社
実際に起きた交通事故について、警察の捜査がいかに杜撰であるか、また、検察庁はそれを追認するだけのお粗末なものだということを、なんと現職の検察事務官が告発している本です。
この検察事務官は、大学生の息子さんがオートバイに乗って走行中にバスにはねられて即死したのです。その事故で、息子さんは一方的に悪い、バスに対して加害者だと決めつけられ、バスの運転手は何のおとがめもなかったことに憤慨しておられます。
この本を読むと、なるほど、オートバイに乗っていた息子さんだけが『死人に口なし』として一方的に加害者だと決めつけられるのは納得できないと思います。
警察の交通事件捜査についての対応は、事件処理を急ぐあまり、十分な捜査をしないことがある。殺人事件や汚職事件などに比べて、交通事件は件数が多いこともあるが、どうしても軽んじられる傾向が強い。
この事故では、死亡したオートバイの運転者のみを被疑者とする実況見分調書が作成された。しかも、調書の作成は、実況見分をした日のうちに終わっている。通常なら、数日から数週間たってから完成されるものであるのに……。
しかしながら警察官は、刑事訴訟法によって、罪とならないことが明らかな事件であっても、犯罪の嫌疑がないことが明らかになった事件であっても、これを検察庁に送付することになっている。ところが、バス運転手については、被疑者として扱われておらず、その結果として、当然のことながら検察官に送致もされていないため、捜査に不服があってもそれを訴える手段はない。
ないと言われても、著者はめげることなく民事訴訟を提起しました。バス会社を訴えて敗訴し、さらに県警(つまり国)を捜査不十分で訴えたのです。すごい執念です。しかし、残念なことに結局のところ、民事裁判で認められることはありませんでした。
私もオートバイに乗っていた青年の死亡事故を頼まれて2件ほど担当したことがあります。どちらも東京での事故でした。オートバイというのは、ちょっとしたはずみで死亡などの重大事故になると、刑事記録を読みながら思ったものです。
その事件では、遺族が1億円を請求していました。私はそれを知って、とてもそんな金額は認められません。印紙代がもったいないので、3分の1くらいにしましょうと提案しました。しかし、遺族からは即座にノーという返事が返ってきました。
そうなんです。遺族にとってはゼニカネの問題ではないのです。この検察事務官の指摘するとおり、原則として、刑事記録を誰でも(訴訟関係者は当然のこととして)見られるようにしてほしいと思います。
陽の暮れるのが遅くなり、日曜日は膝の痛いのも忘れてジャーマンアイリスの植え替えに励んでいたところ、なんと夕方6時を過ぎていました。
ジャーマンアイリスはいつも華麗な花を見事に咲かせてくれますが、とても丈夫で世話要らずの花です。球根がどんどん増えていきますので、株分けして知人に配って歩きました。
いま、庭にはたくさんの白水仙のそばに黄水仙が咲き始めました。ネコヤナギの白い綿毛のような花がつくと、春到来を思わせます。
チューリップの芽が少しずつ出ています。
(2009年11月刊。1500円+税)
消えた警官
司法
著者 坂上 遼、 出版 講談社
これは警察小説ではありません。実際に起きた事件を丹念に追って再現した本です。菅生事件についての本は何冊も読みましたが、私にとって決定版と言える本です。
1952年6月1日の深夜、大分県菅生村(現竹田市)で駐在所が爆破され、現場付近で地元の共産党員ら3人が逮捕された。しかし、新聞発表によると現場で逮捕されたのは2人だけ。1人が消えていた。実は、この1人こそ現職の警察官であり、「爆破」事件を企図した張本人であった。駐在所の「爆破」自体が警察の仕掛けた「内部」犯行であり、共産党員2人はシンパを装った警察官に騙されて現場におびき寄せられただけだった。
この本は、当時、中国共産党にならって無謀な軍事路線をとっていた日本共産党の内情をあきらかにし、裁判所の法廷において弁護人たちが苦しい尋問を続けていたこと、そして、犯罪を引き起こした張本人である警察官(市木春秋こと戸高公徳)を潜伏中の東京で発見するまでの経過が生々しく語られていて、実に読み応えがあります。
いま、大分県弁護士会会長である清源(きよもと)善二郎弁護士の父親の清源敏孝弁護士が、地元の弁護人として登場します。まだ40歳の青年弁護士でした。私がUターンして福岡県弁護士会に登録したころも、かくしゃくとしてお元気でした。お酒が入ると、地元の神楽だったのでしょうか、見事な踊りを披露されていました。初めてお会いしたのは60代後半だったのではないでしょうか。
もう一人、福岡の諌山博弁護士も登場します。諌山弁護士と一緒の法廷に立ったのは数回しかありませんが、それはみごとな、堂々たる尋問でした。諌山弁護士が法廷にいると、それだけで裁判官もふくめて緊張するのです。たいした弁護士でした。
清源弁護士(父親)と一緒に羽田野忠文弁護士も弁護人として活動しましたが、この羽田野弁護士はあとで自民党代議士になったと思います。そして、検察官として鎌田亘検事が登場します。この鎌田検事は退官したあと福岡で弁護士になり、私も話したことがあります。温厚な人柄でした。
駐在所「爆破」事件があると予告されていて、毎日新聞の記者は警官隊と一緒に現場付近で張り込んでいました。そこへ共産党員が2人やってきたわけです。
ところが、この記者は、法廷ではあいまいな証言に終始してしまいます。
駐在所「爆破」といっても、犯人とされた一人は背が小さくて、背伸びしても門灯に届かず、その電灯をとりはずすことはできなかったことが現場検証で明らかになった。
さらに、「爆発」状況をよく見ると、内部に置いたものが爆発したとしか考えられないことが学者の鑑定によって明らかにされた。
つまり、警官隊や記者を待機させていながら爆発が起きなかったというのでは警察に取って具合が悪いので、確実に爆発する仕掛けがなされていたのでした。
市木春秋が実は戸高公徳という警察官だと判明するにいたった経過も面白いのですが、潜伏中の東京のアパートを見つけて張り込みをする状況も手に汗を握ります。
このとき共同通信のキャップとして指揮した原寿雄記者には先日お会いしましたが、今なお元気にジャーナリズムの第一線で活動を続けておられます。
戸高公徳の住んでいたアパートの電話番号は、警察幹部の女性秘書がこっそり教えてくれたというのです。人目をひくハンサムな斉藤茂男記者が得た情報でした。斉藤茂男の本もたくさん読みましたが、いつも感銘を受けました。
戸高公徳は、事件後は潜伏していたが、それでも手厚い保護を受け、表に出てからはホップ・ステップ・ジャンプの上昇階段を駆け上がった。警察大学校研修所教官、四国管区警察局保安課長、警察庁人事課長補佐、警察大学校教授、警視長、警察共済組合常務。ノンキャリア組にはありえない異例の大出世です。共産党を「ぶっつぶした」ことをこんなに高く評価する日本の警察って、いやはや恐ろしいですね……。ただ、本当に幸せな人生を過ごしたのか疑問だと著者は指摘していますが、私も同感です。戸高公徳の顔写真がなかった(黒く塗りつぶされています)のは残念です。どんな顔をしていたのか知りたいと思いました。
(2009年12月刊。1700円+税)
2010年2月11日
人間力の磨き方
司法
著者 萬年 浩雄、 出版 民事法研究会
弁護士にとって実務に役立つ心がまえやヒントがたくさん盛り込まれている本です。
弁護士費用を値切る人は無責任な人間であることが多い。
これは、私も同感です。なんでも値切るような癖のついた人は、要注意です。
打ち合わせ中でも、電話には出るようにしている。目の前にいる客には失礼になるが、短時間で解決できるときは電話に出て解決するのがいい。
まったく同感です。下手すると1日に何本どころか何十本も電話がかかってくるのに、それをすべて「あとでこちらからかけなおします」なんて対応していたら、とても事件がまわりません。打合せ中や相談を受けているときには、かけて来た人の名前は目の前にいる客には分からないよう、事務局の書いたメモに従って対応します。事務員が依頼者の名前を呼ぶことは極力ないようにすべきです。
電話は相手の姿こそ見えないが、相手の品格はよく見える。
電話するときの姿勢は、そのまま相手に伝わるものだという指摘はあたっていると思います。
損保会社の顧問弁護士として、被害者本人の直接折衝にあたる。その示談交渉で駆け引きはしない。支払うべき賠償を事前に、または本人の面前で一気に計算し、そのメモを示して示談を迫る。
示談交渉は、相手の顔の表情を見ながら、一気に示談する。
示談交渉は、いかに相手方を説得するのか、まさに人間性の勝負なのである。
電話交渉は難しい。とにかく、弁護士も若いうちは電話で商売してはいけない。足を運んで、相手方と交渉する。そうすると、その人の熱意に打たれて協力する姿勢に変わる。面識のない人が電話で請求してくるときには、適当にあしらったらよい。
弁護士には、役者の要素がなければいけない。頭を下げたり、怒鳴ったり、ひたすら哀願したり、交渉のシナリオの展開を考えながら、計算して演ずる必要がある。
交渉は人間性の勝負である。人間性で勝負しながら、計算された演技をするのが交渉術の要諦である。
刑事弁護人は、被告人を裁いてはいけない。被告人を裁くのは裁判官である。しかしながら、刑事弁護人は常に被告人の言いなりになる必要はない。不合理な弁解に対しては、それでは裁判所に通用しないよと言いながら、法廷では被告人の言うとおりに弁論する。これは、被告人の納得感を満足させるためである。
民事事件については、基本的に和解で解決すべきものだと考えている。
この点、私もまったく同感です。
著者は証人尋問にあたって、もちろん証拠・記録を全部読みなおしたうえでのことでしょうが、メモなしで承認を尋問する。そのほうが躍動感があるからであると強調しています。これは言うは易く、行うは難しです。
弁護士への誘惑の実情、そして危険な落とし穴も紹介されていて、改めて大変勉強になりました。ただ、司法改革やロースクール(法科大学院)についての考え方には賛同できません。そこで優秀かつ真面目な若手がどんどん生まれています。
なにはともあれ、先輩弁護士としての教訓に満ちた本として一読をお勧めします。
著者は、全国に先駆けて当番弁護士を実施した福岡県弁護士会のなかで、その必要性と意義を真っ先に提唱した弁護士でもあります。まさしく先見の明がありました。
(2009年3月刊。2800円+税)
2010年2月10日
職業・振り込め詐欺
社会
著者 NHKスペシャル取材班、 出版 ディスカヴァー携書
私も振り込め詐欺の被害にあった人の依頼を受けて回復に取り組んだことがあります。2日間で350万円を騙し取られてしまった。被害者は20代の独身女性でした。架空請求のハガキが来たのです。身に覚えのないことながら、何かしら不安にかられて電話したところ、「弁護士」が出てきて、「それは大変なことだ」と脅され、「弁護士」の指示どおりに「示談のため必要」と言われ、50代の母親に相談し、生命保険を解約してまでお金をつくって、2日間にわたって振り込んだのでした。
親に相談してもストッパーにならず、かえって一緒にお金づくりに走ったという点でも驚きでした。父親(夫)だけは知りません。ばれたら深刻な家庭騒動になるのが必至なので、黙っておこうという合意が母と娘に成立しました。私は振込先の銀行(なぜか千葉と福岡でした)に連絡して引き出しを止めようとしたのですが、引き下ろされた後のことでした。結局、口座に残っていたのは1万円ほどです。着手金ゼロで始めましたので、実費としてそれを私がいただき、「終了」となりました。本当に残念でなりませんでした。
警察は銀行口座を開設した人間、そして受け取りに来た人間をなぜ捕まえないのか。そこから手繰っていけば、騙し役の連中も捕まえられるはずだと思いました。
この本を読むと、振り込め詐欺の手口は海外の電話まで使うというように極めて高度なテクニックが使われていること、そのため、警察も逮捕が難しいことを認識しました。
一流大学を出た賢い若者たちが、IT技術なども駆使し、企業のウラ情報ネットワークもつかいこなしているというのです。ひどい話です。でも、でも、それにしても、警察には、もっと頑張って逮捕してもらう必要があります。
振り込め詐欺グループの電話かけは、1日に200件~300件。ノルマは1日200万円。朝9時から夜9時まで、1日12時間、地方の年寄りに騙しの電話をかけ続ける。
名簿は、東京の名簿屋から買う。1件あたり10~15円。2万人分だと、20~30万円。
親の年齢は50代後半から60代後半まで。
こっちからは絶対、名前は名乗らない。アポ電は、名簿を見て電話して、その親が騙されたか、騙されてないかを見極める。
振り込め詐欺の拠点を、店舗という。ひと月に1~2億円を荒稼ぎするグループがある。騙すためのストーリーは多種多様。個人でアレンジもする。
同じ人を2回だまし取るのをおかわりと呼ぶ。
電話をかける主要メンバーは、マンションのアジトにこもりきり、人目を徹底的に避ける。その代り、外で手足になって働く人間を雇う。
出し子からお金を受け取るのは、デパートのトイレとかパチンコ屋のトイレとか、人目に付かないトイレで受け渡しする。出し子をマンション(アジト)へ入れることは絶対にしない。出し子は仲間じゃない。コマだ。いざとなれば切ってしまう。お金を引き出すとき、出し子は帽子をかぶりメガネを掛ける。サングラスは逆に怪しまれる。大きめのアメを2つ口に入れて、銀行ATMの前に並ぶ。顔が変わって見える。
飛ばしの携帯とは、他人名義の携帯電話のこと。ケータイを使うのは1回きり。不況のなか、1万ほどの報酬で名義を売る人間は大勢いる。
それまで犯罪に縁のなかった若者が、一攫千金をもくろんで振り込め詐欺にかかわっている。彼等は、世の中がこんなに理不尽なら、オレが復讐してやろうと考えている。
一生懸命にがんばってきた。なのに社会に裏切られた。だったら、社会に復讐してやるんだと、高言している友人がいる。
振り込め詐欺の被害者はのべ10万人を超える。
振り込め詐欺犯たちが容易に捕まらない現状は改められなければなりません。被害者が、息子からオレをそんなに信用できないのかとののしられ、その後、親子関係が断絶したという話もあります。二次被害も深刻です。
(2009年10月刊。1000円+税)
2010年2月 9日
大搾取
アメリカ
著者 スティーブン・グリーンハウス、 出版 文芸春秋
アメリカでは、毎年、4年制の大学に行く資格のあるハイスクール卒業生の40万人以上が、経済的な理由から進学をあきらめている。そのうち、20万人は2年制の短大に行くが、17万人は大学教育をまったく受けない。その結果、10年間で400万人以上のハイスクール卒業生が4年制の大学への入学資格を持ちながら入学できていない。
法律事務所のなかには、25歳の一流法科大学院出身者の初任給が年16万ドル(1600万円)というところもある。退職者の医療保険給付を削減しながら、その一方で、重役たちに対しては、途方もない高額の退職後医療保険給付をおしみなく与えている。役員のための「補足」年金制度を別に設け、しばしば平均的従業員の賃金の40倍という年金を与えている。
多くの企業の取締役会では、CEOの友人が役員報酬決定委員会の委員におさまり、年金をCEOの報酬を増やす手口の一つとみなしている。
アメリカ人材派遣協会によれば、1982年に98万人だった派遣労働者は今日では300万人にまでふくれあがっている。マイクロソフトのような一流の巨大企業でさえ、派遣社員は全従業員の20%を超える。
人材派遣業は、1975年の年商10億ドルから、今や720億ドル産業へと急成長した。今やアメリカの臨時雇用労働者は800万人に達する。正規雇用労働者の64%が、雇用主の提供する医療保険に入っているが、派遣労働者は9%しか入っていない。
ウォルマートが医療保険を提供しているのは、従業員の50%にすぎない。
ウォルマートが地域に参入してくると、その地域の賃金水準が低くなる。
ウォルマートの経営者だったサム・ウォルトンは、合計資産が800億ドルを超え、世界一の富豪であり、その相続人が年に30億ドルを寄付してウォルマートの従業員のためにすばらしい医療保険制度をつくるくらい、わけもないはずだ。
ホントですね。でも、決してそんなことしないんですよね。金持ちはケチですから。
労働組合に加入している労働者のほうが間違いなく経済的に優遇されている。組合のおかげで労働者の賃金は平均20%引き上げられ、医療保険その他の福利厚生を加えれば、総収入で28%も上がっている。組合に加盟している工場は、労働者一人当たりの生産性も高い。
アメリカ人が今ほど借金まみれになったことは、かつてなかった。
底辺から5分の2の世帯では、4分の1近くが月の収入の少なくとも40%を借金返済に充てている。まじめに働けば、その報いとしてまともな暮らしが送れる。日々、正直に働けば、家族に十分な衣食住を与えられるというアメリカの約束は、破られてしまった。
社会は、労働者や労働者が抱えている問題について、もっと関心を払わなければならない。見えないことが無視につながり、逆に関心は尊重につながる。
日本は、アメリカ社会のようになってはいけない、つくづくそのように思わせる本です。
(2009年6月刊。2095円+税)
2010年2月 8日
つながる脳
脳
著者 藤井 直敬、 出版 NTT出版
人間の脳について、また新しい知見を得ました。こうやって学問の進歩を実感できるのも、うれしいことです。
ヒトがユニークでおもしろいのは、複雑な社会を操作してうまく泳ぐことにある。その場の空気に合わせた振る舞いを、脳は実現できる。
私も、たまに大勢の人の前で話す必要があります。そんなとき、あらかじめこれは言おうと考えてはいるのです。でも、その場になって、私を注視している人の顔を見て、それこそ当意即妙に自分でも思わぬ言葉を紡ぎだすことがしばしばです。潜在意識が働き、その場の空気を読んで、こう言ったらいいんだと、脳のなかの言語中枢に何かが指令するのです。実に不可思議なことですが、しばしば、そういうことが現実に起きています。
ですから、マイクを握って話すときには、事前に原稿を用意することは多いのですが、原稿どおりに話したことがありません。ただ、私の特技は、自分で話した内容をあとで文書に書き起こすことができるということです。もっとも、そんなことは滅多にしません。これは、大学生時代に全身全霊をかけて打ち込んでいたセツルメント活動で身につけたものです。
お互いに、見知らぬサルを向かい合って座らせてみる実験が紹介されています。
どちらのサルも、相手を見ようとしない。完全に無視しあう。面白いことに、無視し合っているのに、相手の顔の辺りにはほとんど視線を向けない。つまり、相手の存在を分かった上で、相手が何をしようが気にとめないという態度をとる。
この2頭のサルの中間にリンゴを置くと、どうなるか。2日か3日のうちに、この2頭のうち、どちらかのサルがリンゴを取るようになり、もう1頭は手を伸ばさなくなる。つまり、抑制こそが社会性の基本なのである。衝動を我慢することは、ヒトが生きていくうえでとても重要なことなのである。ふむふむ、なるほど、なるほど、ですね。でも、なかなか我慢できないことって世の中には多いですよね。
基本的に、サルはヒトのような協調行動を自発的に起こすことはない。
グルーミングはサルの生得的な行動の一つである。人間の白衣の裾が少し破れて毛羽立っていると、それを見たサルはグルーミング行動を始める。
賢いサルの眼は、そうでないサルと比べて眼が違う。本当に賢いのは、上位のサルではなく、苦労している下位のサルの方なのである。
人間の脳は、その内部に非常に複雑なつながり構造をもつ情報ネットワークシステムである。しかも、そのネットワークは、脳単位で閉じていない。脳は、常に社会や環境とつながりを持ち、そのつながりの中で働いている。つまり、神経細胞同士、友だち同士、国と国の間まで、そのすべてが異なる種類の多層的ネットワーク構造を介してつながっている。そのような「つながる脳」の仕組みを理解することは、脳だけでなく、脳が作っている社会の仕組みを理解することにもつながっている。
大変面白く、分かりやすい、脳についてのまじめな本でした。
すっかり春めいた陽射しとなりました。早くもメジロが飛び交っています。ウグイス色で、目の周りが白くて、まさに目白です。チッチッチっと可愛い泣き声で来たことを知らせます。桜の木の枝にミカンを半分に切ってさしてやると、すぐについばみにやってきます。
先日から膝が痛くて、びっこをひいて歩いています。外科医に診てもらったところ、老化現象による関節炎だと言われてしまいました。膝の関節のところにあるホネって、老化すると摩耗するのではなく、部分的にとがってしまうのですね。初めて知りました。それが無用に刺激して痛みます。じっとしていたらなんともなく、夜もぐっすり眠れますので、仕事にあまり支障はありません。それでも室内をちょっと歩いただけでも痛いので、悲鳴をあげています。
ヒアルロン酸を関節内に注射してもらいました。とても痛くて泣きたい気持ちでした。
(2009年11月刊。2200円+税)
2010年2月 7日
合戦の文化史
日本史(古代史)
著者 二木 謙一、 出版 講談社学術文庫
日本には、いわゆる青銅器時代はない。木・石器から、いきなり青銅・鉄器がほとんど同時にもたらされ、その後も、超スピードで鉄器時代へと進んだ。
刃が両側についている両刃の武器を剣、片刃のものを刀と区別している。甲はヨロイ、冑はカブト。平安期以降は、鎧、兜の字をあて、上代の遺品については甲冑を用いて区別している。
日本原産の馬は、木曾馬や道産子馬のように小型であったため、乗用としては適さなかった。6世紀ごろになって、大陸や朝鮮半島との交流のなかで騎乗に適した良種の馬がもたらされ、騎馬による戦闘が各地にあらわれた。
6世紀から8世紀にかけて、日本をとりまく東アジアの情勢は、今日の日本人には想像もできないほど緊迫した状況にあった。
6世紀前半には、日本は伽耶諸国(任那)や百済を支援して高句麗に対抗したこともあったが、6世紀後半には、朝鮮半島から手を引いた。
日本国内は、継体天皇以降、皇位をめぐって凄惨な争いが繰り返されていた。
奈良時代の日本の人口は800万人。そのころ、総兵力は12万9000人と想定されている。きびしい徴兵制度がとられていた。1軍団は1000人ほど。国には3ないし4つの軍団があった。
日本の宮廷親衛隊の多くは農民からの徴兵によるものだった。天皇から軍事指揮権の象徴である節刀(せっとう)を受けて、臨時に任命される征夷大将軍が衛府や軍団の集合軍を指揮して軍事行動を行った。1万人以上を大軍と称した。
大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)らの古代豪族の系譜を引く有力氏族の力を無視できない天皇の地位は、中国の皇帝とは大違いであった。今日の『象徴天皇』と同じようなものである。
日本史の古代より明治期までの軍事史を、ざっと見る思いのする本ですが、知らないことがたくさんありました。
(2008年3月刊。960円+税)