弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年12月26日

マッカーサー

アメリカ

著者 増田 弘、 出版 中公新書

 マッカーサーの率いるアメリカ軍は1941年末、フィリピンのマニラからコレヒドールへ拠点を移して籠城したが、日本軍の猛攻を受けると、マッカーサー自身はごく一部の側近を連れてフィリピンから逃亡した。同胞を見殺しにしたわけである。有名なアイ・シャル・リターンは、このときの言葉だが、それはIであってWeではない。つまり、我々ではなく、あくまで私、なのであった。そして、このあと、日本軍による「バターン死の行進」と呼ばれるものが起きる。マッカーサーの脱出劇は、本人たちが助かったものの、屈辱と汚点を残したことは間違いない。
 しかし、マッカーサーはフィリピンに再上陸した。そして、フィリピンで占領改革を実験することができた。つまり、日本占領の前にマニラである程度の予行練習をしたのである。
マッカーサーのフィリピン脱出を支えた陸軍将兵15人は、バターンボーイズと呼ばれた。
 歴代の数ある司令官の中でも、マッカーサーほど部下との間に強い関係を築き上げ、他者に排他的で大きな派閥をつくりあげた人物は類例がない。
マッカーサーは、アメリカ陸軍史上最年少の44歳で少将となった。1930年、第八代目の陸軍参謀総長に就任した。50歳の陸軍大将は最年少記録だった。
保守主義者のマッカーサーは、社会主義的なニューディール政策を掲げる民主党のルーズヴェルトとは合わなかった。
 マッカーサーは決して自己の非を認めず、絶えず責任を他者に転嫁する。そのためには強弁や虚言も辞さない。うへーっ、嫌ですね、こんな人物には近づきたくありません。
 アメリカで弁護士であったホイットニーが、マッカーサーの心証を良くしたのは、法律業務に精通していたから。ホイットニーは、たたき上げの経歴や山師的な性格、目的のためには手段を選ばず、直感鋭くマッカーサーへ接近する露骨な姿勢を示した。
 マッカーサーが戦後、厚木基地に飛来してくる直前、その先遣隊に対して日本側の対応役を務めた有末精三中将は、「芸者は何人いるか?」と尋ねた。マッカーサーが芸者など決して許さないことを知っていたアメリカの大佐は、「芸者はいらない」と返事した。
 9月2日、東京湾上のミズーリ号の甲板上で、日本降伏調印式が挙行された。この情景をハルガー大将は、「ちっぽけな国の形容しがたいほどちっぽけな代表団11人が、まるでチンパンジーが人間の服を着た格好で調印した」と書いた。
 アメリカ映画の『猿の惑星』で登場する『猿』のモデルは日本人だそうです。いやはや、なんということでしょう……。ちなみに、この原作はフランス人作家が書いたものと聞いています。
 ホイットニー率いるGSは、占領行政の心臓部である第一生命ビルで、マッカーサーやサザーランドと同じ6階に居を定める栄誉を与えられた。
 1945年9月27日、昭和天皇はアメリカ大使館にマッカーサーを訪問した。決してマッカーサー側から天皇を招いたのではなく、天皇側から自発的に会見を望んだ結果であった。マッカーサーは誰も会見に参列させず、天皇と天皇の連れてきた通訳を挟んで2人きりで話し合った。しかし、カーテンのうしろに隠れて盗み聞きしたものが二人いた。ジーン夫人と副官エグバーグだった。
 マッカーサーは、天皇が戦争犯罪人として起訴されないように単眼するのではないかとの不安を持っていた。しかし、天皇は命乞いするどころか、戦争遂行の全責任を負おうとする潔さを示したため、マッカーサーは感動する。マッカーサーは、日本の歴史に通じ、天皇制に好意を寄せ、天皇の権威を利用して円滑な占領行政を企図した。
 GSのホイットニーに激しい敵愾心を燃やしたのがG2(参謀第二部)部長のウィロビー少将である。ウィロビーは、バターンボーイズの威光を背景として、参謀部の生粋の軍人グループを統率し、GSの実施する非軍事化・民主化政策を徹底的に批判した。
 ウィロビーは、ソ連との対決に備えることを最優先するよう主張し、この観点から、日本の旧軍人や政治家・財界人らの保守勢力を根こそぎするようなパージ政策に強く抵抗した。ウィロビーは、日本の旧軍要人と緊密な関係を結ぶ一方、日本の警察に対しても影響力を行使した。片山・芦田の二代にわたる中道政権を支えるGSに打撃を与えるため、情報と公安警察を握るウィロビーG2が水面下で動いたことは間違いない。
 マッカーサーは1949年7月4日のアメリカ独立記念日に際して、「日本は共産主義進出の防壁である」と声明し、翌1950年1月の年頭の辞において、「日本国憲法は自己防衛の権利を否定しない」と声明した。日本は再軍備してはならない、日本は太平洋の中立国となるべきであると強弁していた一連の発言とは、明らかに矛盾する。
 いずれの場合にも備えて、わが身に保険をかけるのがマッカーサーの本性なのである。
 マッカーサーは、朝鮮戦争の緒戦で、情勢判断を誤った。そして、海・空軍を持って中国全土を攻撃する権利をアメリカ政府に要求し、さらには蒋介石総統が申し出た3万3000人の台湾軍を朝鮮で使いたいと要請した。トルーマンは、いずれも拒否した。
 マッカーサーは、国際的な司令官という立場を過信しており、誰からの忠言ももはや耳に入らなかった。
 マッカーサーがトルーマン大統領によって司令官を解任されて日本を離れるとき、日本人が20万人以上も道を埋めて見送ったそうです。そして、サンフランシスコでは50万人ものアメリカ人が出迎えました。ところが、やがてマッカーサー熱は急速に冷めていったのです。結局、マッカーサーはアメリカ大統領にはなれませんでした。
 490頁ほどの新書版ながら、マッカーサーという尊大かつ矛盾した「偉大な」司令官について、とても勉強になりました。

 
(2009年3月刊。1100円+税)

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