弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年12月 7日

百姓たちの江戸時代

日本史(江戸)

著者 渡辺 尚志、 出版 ちくまプリマー新書

 江戸時代の人口は、17世紀に急増した。1600年に人口は1200万人から1500万人のあいだと推定される。それが18世紀はじめには3000万人を突破した。100年間で2倍に人口が急増した。その背景には、新田開発による耕地面積の急増と、農業生産力の増大があった。この本には書かれていませんが、戦争がなくなり、平和な時代となったことがその前提として大きかったのではないでしょうか。
 ところが、18世紀から19世紀にかけて、人口は停滞・安定してしまう。
 18世紀に人口増加がストップしたのは、少子化と晩婚化が進んだこと、耕地面積の増加が頭打ちになったこと、飢饉や疫病の影響もあった。
 江戸時代の後期、一家の子どもは2,3人程度だった。子だくさんではなく、人々は少なく生んで、手間ひまかけて子どもを育てるようになった。
 江戸時代の百姓は、一般に苗字をもっていた。百姓に苗字がなかったというのは誤解である。ただ、公的な場で名乗ることを許されていたのは、ごく一部の特権的な百姓に限られていた。
 江戸時代は、百姓が一般的に家を形成したという点で、日本史上画期的な時代なのである。それ以前には、家が成立していなかった。なーるほど、そうだったのですか……。
 江戸時代の庶民の衣料事情は、2回の大きな変化を見せる。1回目は、江戸時代前期に起きた木綿の普及。2回目は、19世紀に入って、庶民がファッションに敏感になり、10年周期で流行が変遷していったこと。
江戸時代の百姓は、米を食べていた。年間1石(150キロ)以上の米を食べていたと思われる。絶対量でみると、今日の日本人(60キロの米を食べる)を上回る米を食べていた。日常的には、米と麦、雑穀を混ぜて炊いた「かてめし」や、かゆ、雑炊を食べ、婚礼などの晴れの日には米だけの飯を食べた。
 江戸時代、介護は女性の役割という観念はなく、介護は家の責任で行うものとされていた。家長が家族の中心になって介護にあたるべきだと考えられていて、家長の統率のもと、家族が協力することが求められた。
 江戸時代の歌舞伎は、村人自身が演じたところに特徴があった。村人が自ら役者となり、歌舞伎を村の鎮守に奉納し、村全体でそれを楽しんだ。
 19世紀の村には、常に誰かしら寺子屋の師匠がいた。
 農家が米をつくるとき、早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)を組み合わせ、収穫時期をずらし、風水害のリスクを回避し、多収穫をバランスよく実現しようとした。
 一家の財布を握り、一家を牛耳るのは、妻だ。妻は家庭内で尊重された地位を占めている。彼女の生活は上流階級の婦人より充実しており、幸せだ。なぜなら彼女らは、生活の糧の稼ぎ手であり、家族の収入の重要な部分をもたらしていて、その言い分は通るし、敬意も払われるからだ。夫婦のうちで、性格の強いものの方が性別とは関係なく家を支配する。
 江戸時代にも、たくましく生きる女性たちが確かに存在していた。
 江戸時代の村の生活の様子が、イメージをもって伝わってくる貴重な新書です。日本は古来、女性は強いのですよ。今の日本を見たら、よく分かることです。

 アメリカはアフガンに増派するということですが、失敗するに決まっていますよね。かつてのベトナム戦争、そしてソ連のアフガン敗退の二の舞を演じるだけでしょう。
 勝てる見込みがまったくないのに、それでもあえて増派するのは、タリバン政権の復活を恐れているからとのことです。アフガニスタンにタリバン政権ができたら、パキスタン政権も危うい。そして、そうなったら、核の管理が心配になり、核兵器をテロリスト集団が持つ心配がある。こんな心配をしないように、アメリカはともかくアフガニスタンに増派するようです。これは、渡辺治教授の話の要旨でした。
 
(2009年6月刊。760円+税)

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