弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2009年12月 4日
癌ノート
人間
著者 米長邦雄、 出版 ワニブックス新書
かの有名な勝負師が、癌と宣告されてからの体験記です。かなり赤裸々に書かれていますので、ここで紹介するのもはばかられるほどです。ガンに関心のある人はぜひ現物を手にとってお読みください。きっと参考になると思います。
著者のガンは前立腺癌ですから、女性には無縁です。でも、まったくなんの自覚症状もなかったそうです。
ところが、ある日突然、「あなたは癌です」と宣告されたのでした。男性機能が喪失する。セックスができなくなる。著者はこの点を大いに心配します。私より5歳も年長ですが、さすが週刊誌を騒がせたこともある勝負師ですから、その点こそまさしく一大事なのでした。
前立腺肥大症と前立腺癌は違う。場所から違います。尿道を取り囲んでいる部分が大きくなるのが肥大症。尿道から離れた外側にできやすいのが癌。前立腺は、胃とか肺と違って、取ってしまってもあまり困らない臓器。前立腺を取ってしまうと、射精できないし、子どもも出来なくなる。前立腺癌になるのは比較的高齢者に多い。
前立腺癌の治療法として小線源療法がある。これは、前立腺の中に放射線が出る線源を埋め込む手法。その線源から1年くらいの時間をかけて放射線を放出し、癌細胞をやっつける。体内の線源は永久に残るけれど、別に困らない。
小線源治療の中に、低線量率組織内照射と、高線量率組織内照射がある。低線量率組織内照射のとき、挿入する線源1個が6000円。それを70個ほど入れる。入院費を含め100万円かかる。患者負担を3割として、35万円かかる。
医師を選ぶときは、運の良い医師を選ぶ。
ねたみ、そねみ、うらみ、ひがみを持つと、その人の人生は終わる。そして、そういうものを持っている人と付き合うと、自分の運気も落ちる。運が良い人とつきあうのは大切だ。もう一つは、謙虚さがある人。医師を選ぶときには、絶対的な自信があって、しかも謙虚な人であること。なーるほど、ですね……。
自分で納得のいくまで、よくよく調べつくして悔いのない選択をしたこと、手術のあと便漏れに悩んだことなどが率直に紹介されています。
術後に、将棋連盟の会長に再び立候補するなど、以前と変わらぬ活躍をしています。たいしたものです。
前立腺癌は自分で治療法を決められる。誰だって、「あなたは癌です」と言われたら嫌だし、落ち込む。でも、そんなときだからこそ笑いが必要である。治療を楽しむというわけではないが、医師や看護師と仲良くして、男の命をかける一局の治療にのぞむのがいい。
なかなか実践的な本です。癌家系の私にも大変教訓に満ちた本でした。
全国クレサラ集会のとき、帚木蓬生氏と身近に話すことができました。氏の最新作『水神』は先日ご紹介しましたが、本当に感動的なものでした。氏は年間1作を書くとのことで、5,6年先までテーマが決まっていて、その5年ほどのあいだに資料を集め、1年かけて書き上げるとのことです。資料集めには神田の古書店が一番だということでした。一つのテーマで100冊の本を読むそうです。
朝4時に起きて6時までの2時間を執筆時間にあてておられるとのこと。ですから夜は8時に就寝。
そして、氏は、私と同じ手書き派です。清書する人がいて、出版社とも5回以上、校正段階でやりとりするとのことでした。
大変勉強になりました。
(2009年10月刊。700円+税)
2009年12月 3日
鉄の骨
社会
著者 池井戸 潤、 出版 講談社
ゼネコンと政治家は談合罪で何度となく逮捕されています。ゼネコンによる談合絶滅宣言は聞き飽きた感があります。それでもなお、談合はなくなりません。
談合しなかったら業者がたたきあって次々に倒産していき、社会不安を抱いてしまうから、談合は必要悪だというのが業界サイドの考え方です。しかし、本当にそれで良いのか、中堅ゼネコンで談合を扱う業界課に配属された主人公の悩み多い生活を通して、この問題をともに考えさせられていきます。
この本の著者が、前に書いた『空飛ぶタイヤ』を読みましたが、そのときも自動車事故の原因を分かりやすく一歩一歩掘り下げて行く手法に驚嘆しました。今回も談合必要悪説に立って話は展開していき、あっという結末を迎えるのです。よくよく考え抜かれた本だと感心しました。談合と政治家の役割に少しでも関心のある人には一読を強くお勧めします。
この日本に建設業の関係者は、就業者12人に1人、540万人ほどいる。その多くが中小零細で、体力のない土建業に従事して細々と食っている。なんとか食えるのは、談合があるからだ。もし談合がなくなり、自由競争になってたたき合いが始まれば、体力勝負の消耗戦で、中小零細なんかあっという間に倒産する。大手も危ない。大量の失業者が出て、経済は大混乱に陥るだろう。
自由競争になれば最低落札価格に近い札を手に入れる業者は必ず現れる。なりふり構わず、採算度外視で取りにくる会社がある。多少の赤字でも仕事がないよりマシだという会社は今やゴマンとある。そういう腐りかけの会社によるダンピングが続くと、いずれ健全な会社までおかしくなる。そうなれば、建設業全体がおかしくなり、ひいては日本経済の大混乱は必至だ。
どこのゼネコンでも、談合は業務課が担当する。脱談合なんて世間向けのプロパガンダで、真っ赤なウソにすぎない。
建設業界は必要悪だなんて言って、今も、ちまちまと談合を続けている。そして、役人も談合を利用している。談合がなくなって困るのは、実は役人のほうだ。予算を執行しなければならない役人にとって、もっとも困るのはお金を支払ったのに工事が完成しないこと。倒産したり、前渡し金をもらって逃げ出したり。そんなときには、予算不足のなかでどこかの業者に頭を下げて赤字で仕事をしてもらうことになる。
政治家が談合を取り仕切り、そこから甘い汁を吸う仕掛けを地検特捜部が追いかけて行く様子も活写されています。談合罪は昔かられっきとした犯罪です。いつもやられているのに、たまにしか捕まらない不思議な犯罪です。談合について実感を持って知ることのできるよい本です。
全国クレサラ集会に韓国の弁護士と司法書士(法務士)が参加していました。韓国でもサラ金被害は深刻です。そして、そのサラ金は日本から武富士などが進出しているのです。
韓国では、破産すると公務員資格が取り消され、会社では当然退職という就業規則が多いので、失業してしまうとのことでした。医師の資格まで取り消されるそうです。
日本では公務員が破産しても、それだけで退職することはありませんし、弁護士はともかく医師の資格の取り消しもありません。また、会社の退職理由にも基本的になりません。
(2009年11月刊。1800円+税)
2009年12月 2日
ゲバラの夢、熱き中南米
中南米
著者 伊藤 千尋、 出版 シネ・フロント社
『君の夢は輝いているか』のパート2です。著者は私と同じ団塊世代です。朝日新聞の記者でしたが、ついに定年退職したようです。こればかりは、どうしようもありませんよね。
学生時代にキューバに行き、記者として中南米で特派員として活躍しました。
中南米の変わりようは、驚くべきものがあります。かつてのアメリカ言いなりの軍部独裁政権が次々に倒れ、庶民が大統領にのぼりつめました。ブラジルのルラ大統領がその典型です。今どき、真面目に社会主義を目ざすと言っているベネズエラのチャベス大統領もいます。今や南米大陸は「反米大陸」となったのです。それほど、民衆のなかにアメリカの反発は強いわけです。やはり、武力で抑えつけるだけの政治は長続きしないのですよね。
チェ・ゲバラがアルゼンチンに生まれたのは、1928年6月14日。ということは、私より20歳だけ年長です。日本にも来たことがあるそうです。が、そのときには、こっそり広島に来たということです。1959年7月でした。
ゲバラはボリビアの山中でつかまり、1967年10月9日に銃殺されました。これは、私が大学1年生の秋のことです。そのころ、私はセツルメント活動に励んでいる、18歳でした。ゲバラは享年39歳です。
ゲバラはボリビアの山中でゲリラ戦を展開しようとしたが、ボリビアの農民はゲリラを支持しなかった。農地改革で農地を得ていたからだ。そして、ラテン系のキューバ人と違って、アジア系の先住民が主体のボリビア人は性格が暗い。
ええっ、そう言われると……困ってしまいますよね。
ゲバラの人気は、今や世界的なものがある。アメリカでも、ゲバラはファッションにさえなっている。
ゲバラは理想を抱き、理想に生き、理想に死んだ。次の言葉は、ゲバラの言葉です。
もし我々が空想家のようだと言われるなら、救い難い理想主義者だと言われるなら、できもしないことを考えているといわれるなら、何千回でも答えよう。そのとおりだ、と。
いやあ、こんなことはなかなか言えませんよね。すごい言葉です。初心忘れるべからずといいますが、まさしくそのことを文字どおり実践したのですね。
最近、ゲバラを描いた映画2本が上映されましたが、本当にいい映画でした。見ていない人はDVDを探し出してぜひ見てください。ゲバラの生きざまを通して、我が身を振り返ることができます。
革命後、キューバは中南米一の教育・福祉先進国になった。革命前は国民の3分の2が文盲だったのに、今や字が読めない人は1.5%しかいない。授業料は幼稚園から大学まで完全に無料。病院で治療費を支払う必要もない。
平均寿命は革命前の50歳から74歳にまでなった。
キューバは平等で、スラムがない。治安の良さと清潔さは中南米一。アメリカの映画『シッコ』を見ると、いかにアメリカの医療制度が貧乏人に冷たく、キューバが優れているか、一目瞭然です。
アメリカという国は、国民を切り捨てて、ひらすら「自己責任」を押し付ける国である。
まったく同感ですね。機会の平等を奪っておいて、その結果に甘んじろというのが「自己責任論」です。そして、機会を奪われたという自覚のない大勢の人が「自己責任」論に共鳴しているという悲しい現実が今の日本にあります。
北九州で全国クレサラ交流集会があり、参加してきました。参加費5000円(懇親会つき。弁護士・司法書士だと1万円)と高いのに、全国から1500人も集まり、大盛況でした。
このとき二宮厚美教授の話を聞きました。東京には裕福な階層が140万人もいて、彼らは1杯1万円のコーヒーを飲み、一泊150万円のホテルに泊まったりするそうです。
ワーキングプアが増えている一方で、スーパーリッチも増えているのですね。格差の増大は健全な日本社会を壊してしまいます。セーフティネットを構築し、福祉と人間にもっとお金をつぎこみ、大切にしようとの呼びかけがありました。まったく同感です。
(2009年10月刊。1500円+税)
2009年12月 1日
若者と貧困
社会
著者 湯浅 誠・富樫 匡孝ほか、 出版 明石書店
年末年始の日比谷公園での「年越し派遣村」は、今の日本に貧困が誰の目にも見える形で存在することを強く印象づけました。
ところが、このとき、派遣切りにあった若者だけでなく、前からいるホームレスまで対象としたことについて文句を言った人がいたのだそうです。なんと了見の狭い人でしょうか。ホームレスは自己責任の問題であって、単に努力の足りない連中が好きでやっているのだという、冷めた見方をする人が意外に多いような気がします。
後期高齢者医療制度も同じです。
ターゲットになった75歳以上の人たちは、早めに死ねというのかと反発し、政府の意図を敏感に感じ取る。しかし、対象以外の人々は、他人事(ひとごと)としか思わず、かえって、対象者層が反発するのを見て、被害妄想・わがまま・身勝手とうつる。誰でも、結局は後期高齢者になるわけですが、そこまで思いが至らないのですよね。
高いリスクを背負った若者を大量に生産し続けると、いずれはそうした感覚を持つ30代、40代を増やしつづけることになる。結局、それは社会統合、国民統合の基盤を掘り崩すことにほかならない。いや、実は、すでにかなり掘り崩してしまっている。いやはや、実にそうですね、としか言いようがありません。
一人息子が親からの自立を図るときに母親に言ったコトバを紹介します。
「ぼくとあなたは、今後は他人だ。たとえぼくが野たれ死んでも、関知しなくて良い。たとえあなたが死んでも、ぼくに知らせてくれる必要はない。いままで、ありがとう」
むむむ、これって、実に悲しい、寒々としたコトバですよね。
親にできうる最大のことは、求められない限りはできるだけ、手も口も出さずに、肯定的に見守ることではないか。
干渉を受け、守られる状態から、見守られながら自分で挑戦をし、段階的に自分のやり方、信念、アイデンティティを見つけていく。それが大人になるということではないか。
いまは「もやい」にお世話になっている若者が、ホームレスになるまでの過程を紹介しています。それを読むと、家庭がよりどころとならず、学校からも社会からも受け入れてもらえないとき、ホームレスへの道しかないということが実感として伝わってきます。
日本の社会ってそれほど冷たいものなんですね……。
派遣切りにあったとき、不正受給を防止するという大義名分から、失業保険をすぐに受給できないことが問題とされています。なるほど、そうですよね。失業したときに備えて掛け金を支払っていても、いざ本当に失業してもすぐにはもらえない失業保険制度って、仕組みそのものが間違っている気がしてなりません。ヨーロッパでは、失業保険を1年も2年ももらえ、その間にきちんとした職業訓練をじっくり受けられるといいます。日本も、本当に若者を大切にするのなら、そのように改めるべきです。
ゼロゼロ物件、貧困ビジネスのしくみをやっと理解しました。ここでは、通常の賃貸借契約ではないのですね。施設付き鍵利用契約というのだそうです。貸借権はないから、居住権や営業権は発生しないと契約書に明記されているとのこと。鍵を貸しているということは、ホテルみたいなもので、家賃を一日でも遅れると、部屋はロックアウトされる。鍵が変えられているから入れない。入るためには、再契約料3万円を別に支払わなければいけない。
うへーっ、すごいことですね。
その後、1年間の定期借家契約に切り替えられたとのこと。「頭の良い人」はいるものです。でも、貧困者を食い物にするビジネスって、暴力団と同じですよね。
東京で、首都圏青年ユニオンががんばっています。ユニオンって何かというと、要するに労働組合のことです。でも、ネーミングから変えないと若者が近寄らないわけです。そして、会議や集会のときにはまずみんな食事することからはじめるというのです。
一人暮らしをしている組合員も少なくなく、みんなで料理をし、食事をすることが喜びになる。若者に居場所を提供することからユニオンは始めるわけです。
若者とは、不安や戸惑いに翻弄されながらも、これから始まる人生をいかようにも形造ることができる希望にみちた存在である。
これが、これまで長い間の若者のイメージだった。しかし、今は違う。仕事が切られるとともに住む場所を奪われて、路上に放り出される存在が今の若者の現実である。
うひょー、そ、そうなんですね……。
しっかり、現実の若者と向き合って考えて行くしかありません。
「派遣村」の村長だった湯浅誠さんが、このたび内閣府参与として政府のなかに入って活動されています。大いに期待しています。皮肉ではありません。本心です。
庭仕事に精を出しています。庭がすっきりするのが楽しみです。球根から芽がぐんぐん伸びています。いつものことながら、水仙が一番伸びが早いですね。
(2009年2月刊。1600円+税)
2009年12月30日
朝鮮戦争(上)
朝鮮(韓国)
著者 デイヴィッド・ハルバースタム、 出版 文芸春秋
かつては朝鮮動乱とも呼ばれていましたが、今では朝鮮戦争という呼び方が日本では定着しています。
1950年6月25日、北朝鮮軍の精鋭およそ7個師団が、南朝鮮との軍事境界線である38度線を突破した。兵士の多くは中国の国共内戦で共産軍側についてたたかった者たちで、3週間で朝鮮半島南半分を征圧する目論見だった。
たしかに、当初、金日成の号令一下、怒涛のように朝鮮半島を一気に征圧してしまう勢いでしたが、やがて釜山の手前で立ち止まり、ついにはマッカーサーによる仁川上陸作戦で形勢が大逆転してしまいました。
朝鮮戦争については、かつてアメリカ軍が挑発して、北朝鮮がやむなく反撃して侵攻したのだと言われたことがありましたが、今では金日成がスターリンと毛沢東の了解を取り付けて、無謀にも武力による全土統一を企て南部へ侵攻したことが明らかとなっています。
この本は、アメリカが朝鮮半島をいかに軽視し、手抜きしていたか、アメリカの内部資料によって余すところなく明らかにしている点に大きな意義があります。北朝鮮軍が攻めてきた当時のアメリカ軍の哀れな状態を知って、朝鮮に送られてきた多くの将兵が憤った。定員も訓練も足りない部隊。欠陥だらけの旧式装備。驚くばかりに低水準の指揮官層。
戦車への依存度の高いアメリカ軍にとって、朝鮮半島は最悪の地勢だった。
山岳地帯は、装甲車両の優位性を損ない、逆に敵には洞窟その他の隠れ家を提供した。朝鮮戦争によるアメリカ軍の死者は、3万3千人。負傷者10万5千人。韓国軍の死者41万5千人。負傷者42万9千人。これに対して、中国・北朝鮮の死者は公表されていないが、150万人と推計されている。
マッカーサーは、韓国に関心がなかった。朝鮮はアメリカ人の心をひきつけず、関心さえ引かなかった。初代アメリカ軍司令官のホッジ将軍は、韓国も韓国人も好きではなく、「日本人と同じ穴のむじな」と書いている。アメリカ軍の韓国駐留はおざなりそのものだった。
金日成はカリスマである必要はなかった。スターリンにとって衛星国にカリスマ的人物は不要だった。ユーゴのチトー、中国の毛沢東のような人物では、かえって危険だと考えていた。
なーるほど、そういうことだったんですね。それで、まだ若くて、ソ連軍に入って行動していた金日成が選ばれたというわけなんですか……。
金日成が登場してきたとき、集会での初めての演説において、スターリンとソ連へのお追従を言って、朝鮮の人々をがっかりさせたが、それは理由のあることだった。
金日成が6月25日に南へ侵攻したのを知ったとき、アメリカ当局の反応が面白いのです。
アチソンは、韓国への侵攻は見せかけで、次に来るのはソ連の支援を受けた中国軍による台湾の蒋介石攻撃、あるいは、同じように危険なのは、蒋による挑発の後の共産側の反撃だと考えた。トルーマン大統領は、そうではなく、次の矛先はイランと予想した。マッカーサーも同じ意見だった。
なるほど、これではアメリカの反撃が後手に回ったのも当然ですよね。
上巻だけで500頁にのぼる本です。アメリカ内部の動きとあわせて、最前線での戦闘の様子が活写されています。さすがとしか言いようがありません。
(2009年10月刊。1900円+税)
武装親衛隊とジェノサイド
ドイツ
著者 芝 健介、 出版 有志舎
パウル・カレルという有名な戦記作家がいます。『バルバロッサ作戦』などの著者です。このカレルが、元ナチ党員で、親衛隊(SS)の中佐だったということを初めて知り(認識し)ました。
このカレルは独ソ戦を戦い抜いたドイツ国防軍は、戦争犯罪を犯しておらず、軍兵士とまったく変わらなかった武装親衛隊(SS)兵士も同様にユダヤ人大虐殺などの犯罪にコミットしていないという伝説をまき散らした。
この本は、その伝説がまさしくウソであることを克明に明らかにしています。
独ソ戦開始後、ソ連にいたユダヤ人に対してジェノサイドを初めて展開したのは、フューゲライン(ヒトラーの妻となったエーゲ・ブラウンの妹の夫となった。終戦直前にヒトラーを裏切った罪によって銃殺された)麾下の武装親衛隊騎兵旅団だった。文字どおりユダヤ人専門の射殺部隊だった行動部隊の構成員のなかでもっとも多かったのは、武装親衛隊兵士だった。絶滅収容所への強制移送作業の中心を担ったのも、収容所での殺戮に直接関与したのも、圧倒的に武装親衛隊だった。
ツィクロンB(毒ガス)によるアウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人などのガス殺作戦も、武装親衛隊が決定的に関わっていた。武装親衛隊は、ユダヤ人ジェノサイド実行部隊の中核をなしていた。これらの事実は打ち消し難い。
アメリカは、初めナチスドイツ軍の戦争犯罪追及に熱心ではなかった。しかし、1949年、ナチスドイツ軍の最後の大反攻中、ベルギーのマルメディで捕らえたアメリカ兵71人を射殺した事件を知って、ナチスドイツ軍のイメージを大転換し、ニュルンベルグ裁判へと進めて行った。そうなんですか……。そういえば、ユダヤ人を絶滅収容所でナチスが大量虐殺しているのを知りながら、アメリカは何の手もうちませんでした。
親衛隊に入るためには、身長170センチ以上、30歳まで、身体適格を証明する医療証明が必要であった。
自らの軟弱さが暴露されるのを恐れ、昇進のチャンスがなくなることを恐れるために、命令を実行し続けるSS隊員は多かった。除名、追放という代価を払ってまで、忠誠義務・服従義務を疑ってみるだけの自発性を持ち合わせた隊員はほとんどいなかった。
1941年6月22日、ナチスドイツ軍は宣戦布告なしにソ連へ攻め込んだ。ドイツ軍の捕虜となったソ連軍兵士350万人の6割が死亡したが、これは異常に高い、高すぎる。
アスファルト兵士という言葉があるそうです。ヒトラーを前にパレードしかやらない。血を流す経験もせず、ただ綺麗な舗装道路を行進するだけの存在。ドイツ国防軍が武装親衛隊を揶揄した言葉のようです。でも、事実はそんなものではなかったのです。ユダヤ人大虐殺の実行犯の集団だったのです。ただ、その点はドイツ国防軍も責任を免れないわけです。
国民大衆に情報が行きとどかないときには、大変な惨禍が生じるものですよね。
(2009年6月刊。2400円+税)
2009年12月29日
歴史家の仕事
日本史(現代史)
著者 中塚 明、 出版 高文研
日本の近代でもっとも大きいウソの一つに、天皇は平和主義者だったというのがある。
昭和天皇は戦後、こう語った。
近衛文麿に話して、蒋介石と妥協させる考えだった。これは、満州は田舎なので事件が起こってもたいしたことはないが、天津や北京で事件が起こると、必ず英米の干渉がひどくなり、衝突の恐れがあると思ったからだ。
このように、昭和天皇が恐れたのはイギリスやアメリカの干渉であって、満州が田舎なら、朝鮮は我が家の裏庭くらいにしか考えず、中国や朝鮮を侵略することには何のためらいもなかったことが、その言動から明らかなのである。
私も、この指摘にまったく同感です。昭和天皇が根っからの平和主義者だとしたら、太平洋戦争が起きたはずはありません。
日清戦争の直前、日本軍が朝鮮王宮に攻め入って朝鮮王妃(閔妃)を虐殺した。このとき、日本軍は外部への通報を恐れて、まず王宮の電線を切断した。
ところが、対外発表では雷雨によって電信線が不通になったなどと嘘をついたのです。そして著者は、日新戦争のとき、日本の軍艦が中国側の目をごまかすために、外国の軍艦旗を掲げて行動したことも、軍部のマル秘戦史に書かれていたことも掘り起こしました。日本の軍艦が、アメリカやイギリスの軍艦旗を掲げて中国領海内に入り、港の状況を偵察していたのです。
日清戦争の講和会議がなぜ下関で開かれたのかについても解明されています。
下関の春帆楼に行くと、関門海峡が良く見える。日本軍を乗せた輸送船が続々と戦地に向かう状況を、日本は中国側の全権大使であった李鴻章に見せつけたかったのである。
盧溝橋事件についても、当時、そこら一帯は日本軍が抑えていた。中国軍に残されていた唯一の出入口は、盧溝橋であり、ここを失うと北平(北京)を中国側は失い、北平を失ったら、華北全体が危うくなると中国側は認識していた。
その中国軍の目の前で、その抗議を無視して連日、日本軍は夜間演習をしていたのであるから、計画的な挑発であることは間違いなかった。
これも、現地に行って立ってみないと分からないことである。なるほどですね。
歴史学は、過去の事実を科学的に分析することによって、現在がどういう時代なのかを、私たちに教えてくれる。絶望したり、あるいは理由もなく楽天的になったりする誤りを正してくれる。すなわち、歴史学とは、私たちの歴史的な生き方の理論なのである。
歴史の好きな私にとって、大変勉強になりました。
(2007年7月刊。2000円+税)
2009年12月28日
トイレの話をしよう
社会
著者 ローズ・ジョージ、 出版 NHK出版
イギリスの若い女性による、トイレに関するまじめな本です。とても勉強になりました。ともかく、毎日お世話になるトイレですが、世界を見渡すと、家にトイレがない家庭のほうが圧倒的に多いのですね。日本のホームレスがなんとかやっていけるのは、日本では公衆トイレがかなりいきわたっているからだとも言われています。世界の都市の大多数が公衆トイレをもっていません。
これを読んで、20年以上も前にニューヨークに行った時のことを思い出しました。弁護士のツアーで、市内を見学してまわったのですが、現地のツアーコンダクター(若い日本人男性でした)に、手を挙げて「トイレに行きたいんですが……」と言うと、すごい剣幕で怒られてしまいました。「アメリカに来て、トイレがどこにでもあるなんて思わないでください」。うへーっ、そ、そうなんだ……と慌てました。でも、仕方ないですよね、行きたくなったのだから……。ガイド氏は、なんとか近くのビルにトイレを見つけて案内してくれました。そのときトイレに行きたかったのは私だけではなかったようで、何人もの人がトイレにいって利用していました。
日本なら、トイレはビルのあちこちにあるわけですが、アメリカでは、ビルの中にあるトイレであってもトイレに入るドアには安全上の理由からカギがかかっていることが多いのですよね。日本のように気軽に利用することはできません。
中国だったか、ヨーロッパだったか、おそらくその両方だったと思いますが、デパートのなかに入ってトイレに行こうとして、なかなか見つからずに焦ったこともありました。日本だったら、トイレはほとんど各階にあり、絵入りの表示・案内があって、すぐに場所がわかります。ところが、デパートのなかのどこにあるのか、さっぱりわかりません。ともかく、日本と違って絶対数が足りないのです。
トイレから人間の尊厳を回復しようというスローガンが紹介されています。まことにもっともな訴えです。その意味では、日本は世界の最先端を行っているのでしょうね。我が家にもあり、毎日愛用しているウォシュレットです。終わったあと、温水でお尻を洗ってくれる爽快感は何とも言えません。
日本は、世界でもっとも進歩した驚くようなトイレを製造している。TOTOの総売上高は42億ドル。従業員2万人、国内に7つの工場を持ち、日本のトイレ市場の3分の2を独占している。INAXは市場シェア30%にすぎない。
ノズルの発射角度がINAXは70度、TOTOは43度。この27度の違いは……。
ところが、日本の革命が世界には驚くほど広がっていない。なぜか?
地球上の26億人は満足な衛生設備をもたずに暮らしている。下痢が原因で15秒に1人が死亡している。下痢の90%は糞便で汚染された食べ物や飲み物によって引き起こされている。1グラムの便は1000万個のウィルス、100万個のバクテリア、1000の寄生虫、そして100の寄生虫の卵を含有している。
トイレは人間の寿命を延ばす唯一最大の可能性である。衛生設備の向上は、人類の平均寿命を20年も延ばした。
人は一生のうち3年間をトイレで過ごす。
人間は平均で1年間に35キロの便と500リットルの尿を排出する。水洗トイレの水が加わると、総量は1万5000リットルにもなる。
下水道を詰まらせるのは、レストランから出る油だ。
インドには40万から120万人のトイレ清掃にあたる人々がいる。ダリットと呼ばれる人々は名前まで差別される。ふつうの名前をつけようものなら、それだけで身のほど知らずとして虐待される。ところが、一方ではダリット出身の裁判官や上院議員もいる。といっても、やはりカースト制は健在で、ダリッドはダリッドとして扱われる。マハトマ・ガンジーはそれを非としてたたかった。自らトイレを掃除する姿を公開したほどだ。
宇宙飛行士の宇宙船内の糞尿始末記まで紹介されています。トイレの問題は依然として今日の世界における最優先課題の一つだということがよく分かる本です。
(2009年9月刊。1800円+税)
2009年12月27日
中国・文化大革命の大宣伝(上)
中国
著者 草森 紳一、 出版 芸術新聞社
すごい本です。上巻だけで600頁近くあります。たまがりました、と書こうとしたらこれは方言でした。辞書を引くと、たまげる(魂消る)とあります。いずれにしても、よくぞこれだけの資料を集めて描いたものだと思います。
私にとって、中国で起きた文化大革命は高校生のころにはじまり、大学生そして弁護士になってしばらくまで続きましたから、大いに関心があり、それなりに関連する本を読んできました。ところが、この本は資料の集め方が半端じゃありません。恐れ入るばかりです。蔵書7万冊だということです。私も蔵書は1万冊くらいにはなるのかなあと思っていますが、数えたことはありませんので、よく分かりません。ただ、私個人のブログに『私の本棚』シリーズで写真付きで蔵書の紹介を始めています。すでに30号以上になるのですが、1回10冊ほどですし、まだまだほんの序の口程度でしかありません。ついでのときに、私のブログものぞいてみてください。
毛沢東は自己宣伝に天才的才能を発揮した。
ヒットラーは、オープンカーで全国の都市の中を疾走してみせた。「見たか」「見た」の効果は、「疾走」がポイントである。顔を群集に見せるためにゆっくりではダメなのだ。見えたか見えなかったか分からぬ、この危うさがヒットラー神話を作りだすのに大いに貢献した。同じように天安門上の毛沢東は、豆粒のように見えるところに大きな効果がある。天安門広場を埋める百万の群集に対して、見えたと言えば見え、見えないと言えば見えない。人間の視力では無理である。この無理が「接見効果」なのである。クローズアップはテレビにまかせればいい。テレビの中で動く毛沢東効果よりも、テレビに映る豆粒のような百万の紅衛兵に若者はしびれ、同化する。
ふむふむ、これって、なんとなく分かりますよね。
当時、中国の青少年は、子どものときからその頭の中に「毛沢東崇拝」の心がしみこむように絶え間ない洗脳を受けている。途中で権力を把握した劉少奇のグループも、その方針を変えなかった。統治の便法として、毛沢東を崇拝させておいたほうが良いからである。
実際には、紅衛兵の独走も多かった。彼らを操ろうとする江青らの文革小組も、指示どころか彼らの行動の後を追っかけるかたちにしばしば陥り、困惑していたのも事実である。つまり、指示による行動と独断による行動とが、見極めにくかった。独走したとき、宣伝に逆利用もできるが、逆宣伝にもなりうる。逆利用できなければ、後手に回るだけである。
破壊という自分たちの仕事をしている紅衛兵たちは、とても幸せそうだった。
造反という文字は従来の伝統的な漢語にはなかった。白話運動がおこってからの中国でつくられた新しい言葉である。有理も同じで、慣用の熟語ではない。このような、分かりにくい耳慣れない言葉は、かえって利用価値が高い。大衆は暴力に弱いからだ。革命とは造反のことである。造反は毛沢東思想の塊である。
下放は都会青年にとって地獄であり、食糧を配分しなければならない農民にとっては歓迎すべからざる客でしかなかった。そして、下放青年たちは豊作踊りを余儀なくされた。この豊作踊りとは、自給自足が原則の知識青年たちが飢えをしのぐため、生産隊の食糧を盗むこと。いやはや、餓死寸前にまで都市青年は追いやられたのですね……。
毛沢東の死の直後、その遺体を前にして江青と秘書兼愛人だった王海容が取っ組み合いのケンカをしたことが紹介されています。恐らく本当のことでしょうが、ひどいものです。
中国の文化大革命の真実は、もっと日本人も知ってもいいように私は思います。
(2009年5月刊。3500円+税)
2009年12月26日
マッカーサー
アメリカ
著者 増田 弘、 出版 中公新書
マッカーサーの率いるアメリカ軍は1941年末、フィリピンのマニラからコレヒドールへ拠点を移して籠城したが、日本軍の猛攻を受けると、マッカーサー自身はごく一部の側近を連れてフィリピンから逃亡した。同胞を見殺しにしたわけである。有名なアイ・シャル・リターンは、このときの言葉だが、それはIであってWeではない。つまり、我々ではなく、あくまで私、なのであった。そして、このあと、日本軍による「バターン死の行進」と呼ばれるものが起きる。マッカーサーの脱出劇は、本人たちが助かったものの、屈辱と汚点を残したことは間違いない。
しかし、マッカーサーはフィリピンに再上陸した。そして、フィリピンで占領改革を実験することができた。つまり、日本占領の前にマニラである程度の予行練習をしたのである。
マッカーサーのフィリピン脱出を支えた陸軍将兵15人は、バターンボーイズと呼ばれた。
歴代の数ある司令官の中でも、マッカーサーほど部下との間に強い関係を築き上げ、他者に排他的で大きな派閥をつくりあげた人物は類例がない。
マッカーサーは、アメリカ陸軍史上最年少の44歳で少将となった。1930年、第八代目の陸軍参謀総長に就任した。50歳の陸軍大将は最年少記録だった。
保守主義者のマッカーサーは、社会主義的なニューディール政策を掲げる民主党のルーズヴェルトとは合わなかった。
マッカーサーは決して自己の非を認めず、絶えず責任を他者に転嫁する。そのためには強弁や虚言も辞さない。うへーっ、嫌ですね、こんな人物には近づきたくありません。
アメリカで弁護士であったホイットニーが、マッカーサーの心証を良くしたのは、法律業務に精通していたから。ホイットニーは、たたき上げの経歴や山師的な性格、目的のためには手段を選ばず、直感鋭くマッカーサーへ接近する露骨な姿勢を示した。
マッカーサーが戦後、厚木基地に飛来してくる直前、その先遣隊に対して日本側の対応役を務めた有末精三中将は、「芸者は何人いるか?」と尋ねた。マッカーサーが芸者など決して許さないことを知っていたアメリカの大佐は、「芸者はいらない」と返事した。
9月2日、東京湾上のミズーリ号の甲板上で、日本降伏調印式が挙行された。この情景をハルガー大将は、「ちっぽけな国の形容しがたいほどちっぽけな代表団11人が、まるでチンパンジーが人間の服を着た格好で調印した」と書いた。
アメリカ映画の『猿の惑星』で登場する『猿』のモデルは日本人だそうです。いやはや、なんということでしょう……。ちなみに、この原作はフランス人作家が書いたものと聞いています。
ホイットニー率いるGSは、占領行政の心臓部である第一生命ビルで、マッカーサーやサザーランドと同じ6階に居を定める栄誉を与えられた。
1945年9月27日、昭和天皇はアメリカ大使館にマッカーサーを訪問した。決してマッカーサー側から天皇を招いたのではなく、天皇側から自発的に会見を望んだ結果であった。マッカーサーは誰も会見に参列させず、天皇と天皇の連れてきた通訳を挟んで2人きりで話し合った。しかし、カーテンのうしろに隠れて盗み聞きしたものが二人いた。ジーン夫人と副官エグバーグだった。
マッカーサーは、天皇が戦争犯罪人として起訴されないように単眼するのではないかとの不安を持っていた。しかし、天皇は命乞いするどころか、戦争遂行の全責任を負おうとする潔さを示したため、マッカーサーは感動する。マッカーサーは、日本の歴史に通じ、天皇制に好意を寄せ、天皇の権威を利用して円滑な占領行政を企図した。
GSのホイットニーに激しい敵愾心を燃やしたのがG2(参謀第二部)部長のウィロビー少将である。ウィロビーは、バターンボーイズの威光を背景として、参謀部の生粋の軍人グループを統率し、GSの実施する非軍事化・民主化政策を徹底的に批判した。
ウィロビーは、ソ連との対決に備えることを最優先するよう主張し、この観点から、日本の旧軍人や政治家・財界人らの保守勢力を根こそぎするようなパージ政策に強く抵抗した。ウィロビーは、日本の旧軍要人と緊密な関係を結ぶ一方、日本の警察に対しても影響力を行使した。片山・芦田の二代にわたる中道政権を支えるGSに打撃を与えるため、情報と公安警察を握るウィロビーG2が水面下で動いたことは間違いない。
マッカーサーは1949年7月4日のアメリカ独立記念日に際して、「日本は共産主義進出の防壁である」と声明し、翌1950年1月の年頭の辞において、「日本国憲法は自己防衛の権利を否定しない」と声明した。日本は再軍備してはならない、日本は太平洋の中立国となるべきであると強弁していた一連の発言とは、明らかに矛盾する。
いずれの場合にも備えて、わが身に保険をかけるのがマッカーサーの本性なのである。
マッカーサーは、朝鮮戦争の緒戦で、情勢判断を誤った。そして、海・空軍を持って中国全土を攻撃する権利をアメリカ政府に要求し、さらには蒋介石総統が申し出た3万3000人の台湾軍を朝鮮で使いたいと要請した。トルーマンは、いずれも拒否した。
マッカーサーは、国際的な司令官という立場を過信しており、誰からの忠言ももはや耳に入らなかった。
マッカーサーがトルーマン大統領によって司令官を解任されて日本を離れるとき、日本人が20万人以上も道を埋めて見送ったそうです。そして、サンフランシスコでは50万人ものアメリカ人が出迎えました。ところが、やがてマッカーサー熱は急速に冷めていったのです。結局、マッカーサーはアメリカ大統領にはなれませんでした。
490頁ほどの新書版ながら、マッカーサーという尊大かつ矛盾した「偉大な」司令官について、とても勉強になりました。
(2009年3月刊。1100円+税)
2009年12月25日
国境なき医師が行く
世界(アフリカ)
著者 久留宮 隆、 出版 岩波ジュニア新書
すごいです。偉いです。勇気があります。感嘆しました。40代の日本人男性医師が国境なき医師団(MSF)に加わり、アフリカに渡ったのです。この本では、アフリカ西海岸にあるリベリアの首都モンロビアに3カ月間あまり滞在したときの体験記がつづられています。いやはや、すごい体験記です。勇気のない私にはとてもまねできそうもありません。
アフリカに渡ると、まもなく(著者は5日目)下痢するとのこと。すると同僚の医師に笑顔で「アフリカへようこそ!」と告げられたそうです。やっぱり、水が合わないのでしょうね。そして、仕事の疲れからか、脱水症状になり、危うく死にかけたのでした。
もちろん、仕事をきちんとこなしています。日本にいるときには、手術は週に3日か4日、そして1日に2例か3例。ところが、リベリアでは、1日に5例か6例、それを週のうち5日間ぶっ通しでこなすのです。門外漢の私にも、そのハードさはなんとなく想像できます。はっきりいって、体力の限界に挑戦しているようなものでしょう。夜に産科の緊急手術が入ることがあるので、昼休みの1時間は貴重な睡眠時間だったというのですから、そのすさまじさが伝わってきます。
そして、英語が十分に話せず、手術器具や薬品も十分ではないなかで、仕事に追いまくられるのですから、それはそれは大変です。
そのうえ、医療チーム内には不協和音が生じます。アメリカやらフランスやら、いろんな国の人々が善意で参加しているのですから、そのまとまりをつくるのにも一苦労だったようです。そんな困難に耐えて、何カ月もよくぞがんばっていただきました。心から声援の拍手を送ります。パチパチパチ……。著者の次の言葉には、思わず襟を正されました。
外科手術そのものに関しては、20年のキャリアを持っているから、どんなケースであっても集中し、あるレベルの精神状態にもっていく訓練はできているつもりだった。高校生のときからずっと剣道をやってきて、現在、五段。手術室に向かう心持ちは、剣道の試合にのぞむときのそれに通じるところがある。
剣道の試合では、いかに自分の気持ちを落ち着かせるかが肝心だ。起こりうるさまざまな場面を想定し、どんな状況にあってもあわてふためくことのないよう、自分の中でシミュレーションして向かう。
手術も同じで、どのような症例に臨んでも、気持ちを落ち着けて精神を集中することが必要だ。
なるほど、なるほど、よくわかります。形こそ違いますが、弁護士にしても同じようなことが言えます。
アフリカで診察したほとんどすべての患者に共通して言えることは、大変たくましいというか、苦悩すべき状況に対して受容する心の準備がとてもよく出来ているという印象を受ける。彼らの経験してきた戦争の悲惨さから比べれば、病気やけがなどは大したことではないのかもしれない。それでも、その気構えは、大したものだと言わざるを得ない。
日本人の男性にも、こんなに勇気のある人がいて、しかも20年ものキャリアを持つ医師がアフリカに飛び込んで行ったというのです。心から敬意を表します。
日本の若者のなかに、続いてくれる人が出ることを願います。
(2009年9月刊。740円+税)
2009年12月24日
忘れられない脳
脳
著者 ジル・プライス、 出版 ランダムハウス講談社
いやはや、こんな人も世の中にはいるのですね。日常のこまごまとしたことまで全部を覚えていて、忘れられないという人がいるなんて、信じられません。
人間は「自分は何者なのか」という自己観念を形成するうえで、記憶は強く影響している。一般的に、人は膨大な記憶のなかから一部の記憶を抽出して、あるいは蓄積した膨大な記憶のかなりの部分を捨て去って、自己を規定していく。そして、その自作の物語を絶えず軌道修正し、巧妙に作り変えながら生きている。
ところが著者は、すべての記憶を忘れることができないため、自在に自己修正することができない。自然な作り変え作業ができないのだ。
その記憶は、さながら生活を再現するホームムービーのようだ。なにかのきっかけで記憶がよみがえる。次にどんなことがフラッシュバックしてくるのかは分からない。そして、走り続ける記憶を制止することもできない。その情景の一つ一つがあまりにも鮮明なので、楽しかったことも辛かったことも、いいことも悪いことも、記憶がよみがえるだけでなく、そのときの自分の感情も追体験させられる。当時の喜怒哀楽がそのまま乗り移ってくる。だから心を落ち着かせて生活するのが、とても難しい。
うへーっ、すごいですよね。こんな人が世の中にはいるのですね……。
著者は、特定の日を示されると、瞬時にその日のある時刻に行くことができる。そのとき、何をしていたか、そのころ何が起きていたか、ぱっと頭に浮かんでくる。
これらの記憶は、日付や曜日と密接に結びついている。
ところが、こんな著者なのに暗記はとても苦手だというのです。
小学2年生のとき、掛け算の九九ができなくて、算数の家庭教師が必要だった。幾何学は特に苦手で、定理はまったく覚えられなかった。暗記が苦手なのは、絶え間なく浮かんでくる過去の記憶が頭の中を常に駆け巡っているため、物事に集中しにくいからだ。だから、成績はほとんど「可」であり、良と優はわずかだった。
何でも忘れられない人が、実は暗記を苦手としているなんて、とても信じられませんよね……。不思議な話です。
著者の記憶力の特徴のひとつは、どんなことでも優劣をつけずに、すべて保存していること。人生における出来事として、すべて同列・同格で記憶にとどめている。
これは困りますね。やはり物事には優劣があるのですよね……。
著者は、実は、忘れるという動作や状態自体を嫌っている。あの日に何をしていたのかをすべて思い出せることが気持ちいい。記憶の正確さは非常に重要なことなのだ。几帳面であることについて、強迫観念のようなものを持っている。
驚異的な記憶力があり、いつでもそれを引き出すことが可能なのに、著者は日記をつけはじめた。それは、紙に書きとめると心が休まるからだ。日記をつけているときは、記憶が暴れまわる状態を自分でも驚くほど制御できる。書くことは、やはり意味があるわけですね。
自分の記憶を他人に話すことによって他人と記憶を共有することになり、それが脳の活性化につながる。
著者は44歳のユダヤ系アメリカ人です。いやはや、この世にはこんな変わった人間がいるなんて……。世界は広いですね。
日曜日庭に出てエンゼルストランペットを根元のところから切ってやりました。霜にあたるとしおれて見苦しくなるのです。
見通しが良くなったらロウバイが花盛りだったことに気が付きました。広い葉も黄色でロウができたとしか思えない小さな花も黄色です。においロウバイですのでふくよかな香りを漂わせています。
玄関脇にチューリップを植えました。去年の球根を掘り上げると分球して小さくなっていました。捨てるのはかわいそうなので別のところにまとめて植えてやりましたが恐らく花は咲かないでしょう。チューリップの球根は10個入り280円と安売り中です。80個ほど植えましたので春が楽しみです。
(2009年8月刊。1900円+税)
2009年12月23日
新・日本のお金持ち研究
社会
著者 橘木 俊詔・森 剛志、 出版 日本経済新聞出版社
面白い本でした。日本の金持ちの実情を知ることができました。
弁護士は、所得という点では意外と冴えないことも分かったとされています。なるほど、それは日頃の実感としてよく分かります。
高額所得者には医師が多いが、それも整形外科、美容外科、眼科などの科目に多いのであって、勤務医の所得はそれほどでもなく、かつ勤務医は所得も高くないうえに労働条件が過酷である。いやはや、実にそのとおりですよね。私は医師にならなくて良かったとしみじみ思っています。
この本には、資産1億円以上の金持ちの居住マップが東京、大阪、愛知、兵庫、福岡などについて示されていて、そこにある高校も図示されているのが大きな特徴です。
福岡には、年収1億円以上の金持ちは200人もいない。これは、愛知県や神奈川県の半分以下だ。なるほど、そうかもしれませんね。
日本の金持ちの二大職業は企業家と医師である。そしてその職業では、同じ職業を子どもも継いでいる確率が高い。
お金持ちは質素で堅実な消費行動をとっている。その3分の2は「こだわり派」である。
一般の日本人の場合、商品のへのこだわりが低い「何も考えない消費者」が圧倒的多数であり、7割を占める。しかし、お金持ちは一般人とは逆に商品に対してこだわる。
お金持ちは商品にこだわるものの、選択に時間はかけない。高価でも、いつもの店でいつもの店員からいつもの決まったブランド品を購入する。うむむ、そうなんですね。私も少しだけ似ています。
高級ブランド品を販売するなら、そのターゲットには、ちょっと背伸びした中流階層向けに販売戦略を練るのが賢明である。
本物の富裕層の圧倒的多数の趣味は、投資・資産運用である。
年収1億円以上の金持ちの平均資産は54億円と巨額である。しかし、親からの相続とは関係がない。日本人は株式への投資が8%と少ない。アメリカでは33%もある。現金預金保有率は53%もある。アメリカは13.5%でしかない。
お金持ちの6割は、子どもを私立に進学させている。
お金持ちを分析すると、日本のもう一面が見えてきますね。
(2009年2月刊。1600円+税)
2009年12月22日
奄美の「借金解決」係長
社会
著者 禧久 孝一、 出版 光文社
先日、北九州で開かれた全国クレサラ被害者交流集会のとき初めて本人にお会いし、少しだけ話させていただきました。実直・頑固な信念の男というイメージそっくりの方でした。この本は交流集会の会場で買い、すぐに読んでしまいました。
実は、私はまだ奄美大島に残念ながら行ったことがありません。一度は行ってみたいと思うのですが、果たせません。ちなみに、石垣島にも屋久島にも行ったことがありません。なんとかして、いずれ行くつもりです。
著者は、奄美市役所で市民生活係の係長をしています。
1日に10~20本の電話相談を受け、3~4人の相談者に対応する。
ケータイは年中無休、24時間体制で稼働している。
いやはや信じられません。超人的な活動です。身体を壊さないようにしてくださいね。
多重債務者は社会構造のなかで生まれた被害者である。誰が好き好んでサラ金やヤミ金に足を運ぶか。そうせざるを得ない状況に追い込んだ元凶は、今日の社会構造にある。それなのに、多重債務者は社会を恨むでもなく、悪いのは自分だと思い込んで、10年も20年もコツコツと違法金利による借金の返済を続けている。
いやあ、この点、まったく同感です。
妻が夫に内緒で借金をしてしまったとき、「まず、ご主人に相談しなさい」と突き放す弁護士がいる。しかし、それは一番やってはいけないこと。なぜなら、何年ものあいだ、ご主人に借金を隠し続けてきたこと自体が大きな苦痛なのに、「打ち明けなさい」と言われると、さらに新たなプレッシャーを与えることになるから。
苦しんでいるときに、そんなプレッシャーを与えると、それが自殺の引き金になりかねない。というより、自殺の確率をぐんと高めてしまうことになる。だから、ご主人に打ち明けることを強要しない。本人が内緒にしたいのなら、その希望に沿うようにする。
実は、私も同じようにしています。もちろん、ご主人に打ち明けることを一応すすめます。それでも内緒にしてほしいと本人が言い張るときには、ファイルに「家族に内緒」と朱書きし、弁護士名での封書は出さず、電話でも弁護士だと名乗らないようにしています。
奄美では、弁護士が問題を起こして裁判にまでなっています。相談者に対して威圧的であったり、冷淡であってはいけない。冷たく居丈高な弁護士では、怖くて近寄ることができない。人格を全否定するような言い方はやめてほしい。
大変もっともなことが極力抑えた筆致で説かれています。耳を傾ける必要があります。
借金整理にあたって、次の三つを約束してもらう。
一つ、ウソをつかない。
二つ、事実を隠さない、
三つ、指示されたことはきちんと実行する。
この三つさえ守っていれば、借金をすっきり綺麗に整理して、人生の再スタートを切ることができる。
まさしく、そのとおりだと思います。すんなり読める、いい本です。
(2009年11月刊。1238円+税)
2009年12月21日
一見落着
司法
著者 稲田 寛、 出版 中央大学出版部
直接の面識はありませんが、著者は日弁連事務総長などを歴任された先輩弁護士ですので、顔と名前は知っています。この本を読むと、そのユーモアと機智人情にあふれた弁護活動が、縦横無尽というか、軽妙洒脱の筆致で描かれていて、うんうんと共感の思いで読みすすめながらも、弁護士として大いに勉強になるのでした。
とりわけ弁護士としての失敗談は大いに参考になります。誰だって失敗するわけですが、それを活字にしてくれる人は案外少ないのです。証人尋問のときの失敗。依頼者に騙されてしまった失敗……。
内容証明郵便を相手方の弁護士に出すときにも、通り一遍の文面ではなく、この手紙が事件を解決する糸口になればという思いで書くように心がけているというくだりには、はっと思い当りました。
そうなんですよね。弁護士から手紙をもらった人の気持ちを考えて起案すべきだと思った次第です。
85歳の男性が、妻の死後、身の回りの世話をしてくれた65歳の女性と再婚しようというとき、決まって子どもたちが反対します。親の財産を自分たちがもらえるはずのものと期待しているからです。でも、本当にそれでいいのでしょうか……。本件では、その障害を弁護士の説得で乗り越えたことが紹介されています。説得できたとは、たいしたものです。
スモン弁護団で活躍し、弁護士会でも活動してきた著者ですが、胃がんが見つかり、切除手術を受けました。幸い術後は順調で、再発の心配もないとのことです。
今後ともお元気でご活躍ください。
弁護士としての活動をすすめるうえで、とても参考になり、また、さらっと読める本です。
(2007年11月刊。1800円+税)
手妻のはなし
江戸時代
著者 藤山 新太郎、 出版 新潮選書
日本の伝統的奇術を奇術師自ら紹介している本です。大変面白く、ぜひとも実際に著者の演じる手妻を見てみたいものだと思いました。
手妻、てづま、と読む。江戸から明治にかけて、日本ではマジックのことを手妻と呼んでいた。手妻とは、日本人が考え、独自に完成させたマジックのこと。
幕末に日本にやってきた欧米人が手妻を見て、その技術の高さ、演技の美しさに驚嘆した。たとえば水芸。水道も電気もない時代に、舞台一面に水を吹き上げる。それも、ただ水を出すのではなく、まるで舞踊の所作のように軽やかな振りによって太夫が自在に水を操るのだ。
蝶の曲。紙で作った蝶を扇の風で飛ばしながら、さまざまな情景を描く。
蒸籠(せいろう)。小さな木箱から、絹帯を次々に取り出し。その絹帯の中から蛇の目傘を何本も取り出す。
いやはや、文字で読むだけでは想像できませんね、ぜひぜひ、現物を見せてください。
手妻とは、手を稲妻の如くすばやく動かすことによる。いや、手のつま。妻は刺身のつまのように、ちょっとしたもの、添えものという意味で、手慰みとか手の綾ごとという意味である。手妻はマジックではない。魔法という意味はない。
朝鮮半島には伝統奇術がない。ええっ、本当でしょうか……?
タネと仕掛けが少しばかり説明されているのも、この本の面白いところです。
刀の刃渡り。刀は引くことによって切れるが、刃の上にまっすぐ足を乗せたときには切れにくい。要は、度胸がすべての術。そうはいっても、素人にはできない技ですよね。
火渡り。初めに地面を少し掘っておいて、そこに水を張って水溜りをつくっておく。その上に薪をはしごのように組んで、水溜りを隠すように並べる。その上に、さらに薪を並べて火をつける。火が下火になってから、上から清めと称してたくさんの塩とカンスイを撒く。これは熱を下げるのに有効。そのうえで、梯子の隙間を縫って水溜りを歩く。火はほとんどないし、下は水だから足は熱くはない。ただし、下手すると、大やけどする。
人間が生きた馬を飲み込んでいく呑馬術というものがあったそうです。その仕掛けが説明されています。
舞台背景は暗幕。舞台前にはずらりと面明かり(ろうそく)を並べる。その明りが眼つぶしとなって、観客には明かりの奥の舞台が一層暗くしか見えない。舞台上には顔まで黒布で隠した黒衣(くろこ)がいる。観客には、まったく見えない。
そして、手妻師(長次郎)は、手足顔すべてに鉛の粉末の入った高級白粉(おしろい)を塗った。光沢のあるものによって、暗い部屋で光を集める。そして、術者が馬を呑む演技をしながら、馬を徐々に黒布で隠していく。そのために、ベニヤ板のような大きな板を用意し、板には黒布を貼っておく。板の一部を三角形に切り取る。その三角形の凹んだところに馬の絵を近づけて、三角の裂け目に馬の顔をはさんでいく。観客から見ると、馬の顔は細くなったように見える。徐々にベニヤ板の裏側に隠していく。馬は三角形の切れ目の裏で黒布で覆っていき、それにあわせて、三角形の切れ目は首から胴と順に包んでいった。
これは口で言うのは簡単だが、演者と表の手伝い、裏の黒衣の3人がよほどタイミングを合わせないと難しい。馬は一切協力しないし、機嫌が悪いと暴れ出すから、演じるのは難しかっただろう。
なんとまあ、そんな仕掛けだったのですか……。それにしても、よくできた仕掛けですね。
手妻師の舞台は、一日の売り上げが40両。今日の400万円だ。当時、小作百姓は1年に1両の貯金がやっとだった。ということは、すごい売上だったわけです。
手妻は不思議なだけでは芸にならない。全体を通してしっかり形がとれていないと芸にはなりえないものである。そうですね。
手妻を覚えたい人のために伝授屋(プロの指導家)がいて、伝授本(手妻の指導書)が売りに出され、手品屋(今日のマジックショップ)まで存在した。江戸時代の人はオリジナリティー豊かであった。ふむふむ、なるほどですね。
江戸町内に、寄席が500軒もあった。江戸の町の2町にほぼ1軒の割合だった。
二羽蝶が生み出され、ストーリーが生まれた。人生を語り込むストーリーだ。二羽蝶になることで、それまでは単なる曲芸でしかなかった蝶の芸が、蝶の一生を語る物語になった。
いやはや、なんとも奥の深い芸なんですね。こんな素晴らしい本を書いていただいてありがとうございます。ぜひぜひ実際の芸を今度見せてください。よろしくお願いします。
(2009年2月刊。1600円+税)
2009年12月19日
ギャンブル依存とたたかう
社会
著者 帚木 蓬生、 出版 新潮選書
現在の日本には、アルコール依存症者が400万人、自己破産者が年間20万人ほどいるので、ギャンブル依存者は200万人はいると見積もることができる。そして、その周囲に、ギャンブル依存者によって苦しめられ、悩まされる家族や親類、知人、友人が、その何倍もいる。
ギャンブル依存の特徴は、現在、ギャンブルを止めているからといって病気が治癒しているとはいえないことにある。再びギャンブルに手を染めると、またたく間に元の状態に立ち戻ってしまう。
日本のギャンブルの最大の特徴は、パチンコ店の存在にある。全国で1万6000軒あり、パチンコ人口は2000万人。パチンコ産業全体の年高は30兆円。出版業界の年商はその1割、3兆円にすぎない。
プロのギャンブラーとギャンブル依存者は違う。どこが異なるのか?プロのギャンブラーは、リスクの高いものには小さく、手堅いものには大きくはるので、丸損しない。そして、勝負の旗色と自分の体調とを天秤にかけつつ、潮時をちゃんと見極める。
ギャンブル依存症は、ギャンブルに対して過度に興奮し、それが持続してノルアドレナリンとドーパミンが脳内で盛んに生成され、セロトニンというブレーキが利かなくなっている状態をいう。
ギャンブル依存症は、氏より育ちであり、環境の要素は大きい。
日本における男女の比率は、7対3で男性のほうが多い。
ギャンブル依存症が自然に治るのは極めてまれで、あとは進行するばかりなのである。
ギャンブル依存症に借金はつきものである。
GAはギャンブル依存症者の立ち直りのための自助グループです。全国に35あり、九州に6つあります。GAに通った効果は1週間。だから毎週通う必要がある。著者は北九州で開かれた全国クレサラ被害者交流における講演で断言されました。なるほど、そうなのかと思いました。大変役に立つ実践的な本です。
12月14日、師走半ばの討ち入りの日は、私の誕生日でした。61歳になりました。まだまだ元気いっぱいですが、さすがに30代、40代のようには身体が動きません。悪徳業者を怒鳴りつける若さも無くなりました……。
(2009年5月刊。1000円+税)
2009年12月18日
来し方の記
司法
著者 松尾 浩也、 出版 有斐閣
著者は私の出身高校の先輩にあたります。そして、大学に入学して1年生のとき、駒場の大教室で法学概論を教えてもらったのでした。といっても、さっぱり理解できなかったのです。このとき、これは教える方が悪いと考えていました。まさに若気の至りです。
父親が三井鉱山に勤める鉱山技術者でしたから、著者は荒尾市に生まれ、高校(当時は中学)は三池高校にすすみました。そして、熊本の第五高等学校から東大へ進学したのです。
三池中学校のとき、校庭から長崎の原爆のきのこ雲を見たそうです。大牟田から雲仙の普賢岳はよく見えるのですが、長崎のきのこ雲が見えたのですね……。
三池中学の卒業生が、五高や七高、佐賀高校を経て毎年4人か5人、東大に入学していたそうです。私の学年からも4人東大に入学しました(下の学年のときに現役2人、浪人2人が合格したのです)。
安田講堂前に制服制帽で三池中学卒業生が8人集まっている写真があります。私が入学したときも、学生服姿で記念写真をとってもらいました。似たような写真なのに驚きました。
著者は2年間のアメリカ留学のあと、「法学」を再び駒場で教えるようになり、そのとき私も授業を受けたわけです。全然面白くない授業でした。さっぱり印象に残っていません。もっとも大教室での法学概論の授業が面白いはずもありませんよね……。専門の刑法でも教わったら、もう少し印象に残ったのでしょう。いま思うと、残念としか言いようがありません。
私は大学生活はセツルメント活動に没頭していて、ゼミに所属したこともありませんので、弁護士になるまで法学部の教授と身近に話をしたことは一度もありませんでした。いつも大教室のはるか遠くの演壇に立っている教授を眺め、初めのうちはぼんやりと、司法試験受験を始めてからは必死にノートを取りながら講義を聞いたものです。
高校の大先輩に敬意を表して読んでみました。
11月に受けた仏検(準一級)の結果が届きました。合格点(73点)に2点不足で不合格でした。私の自己採点どおりでした。準一級のペーパーテストはずっと合格してきただけに、ショックです。語学の才能がないことに愕然とします。それでも、気を取り直して、毎朝の書き取りと車中での発声練習は続けます。フランスに旅行する楽しみのためです。
(2008年11月刊。3200円+税)
2009年12月17日
マネー資本主義
社会
著者 NHK取材班、 出版 NHK出版
NHKスペシャルで放映された内容が本になったものです。それにしてもサブプライムローンの破たんから派生したリーマンショックを引き金とする全世界的金融危機のすさまじさは想像をこえるものがありました。しかし、私にとってなによりショックだったのは、大勢のまじめな市民が生活の本拠である家まで失っているというのに、投資銀行の経営者たちは70億円、30億円、28億円、16億円といった、まさに天文学的なボーナスをもらっていたという事実です。これが資本主義の強欲な本質なのですね。
そして、このことを日本経団連の御手洗会長をはじめとして誰も批判しないどころか、依然としてアメリカのようになりたいと高言してはばからないのですから、とんでもない世の中です。まさに資本家は「我が亡きあとに洪水よ来たれ」という、マルクスが『資本論』で書いたことを文字通り実践しているわけです。ほとほと嫌になります。
この本の最後のところで、原丈人という1952年生まれの日本人実業家が登場して、いいことを言っています。まったく同感です。
金融危機の原因をつくった一番の原因は、株主至上主義と市場原理主義が結合し、会社は株主のために存在するという思い上がった考え方が世界を席巻したから。
会社の目的は利潤の最大化であり、株主の権利を守ることであるという考え方が欧米だけでなく、日本にまで広がっている。
しかし、企業は短期的な利益を求める株主のためにあるのではなく、社会全体の利益を優先させるべきだ。
経営陣と株主が莫大な利益をぬれ手に粟のように手に入れ、多くの従業員はリストラや減俸によって不安定な立場に追いやられ、会社の体力は低下し、社会全体の活力を失わせている。
株主中心の経営が所得格差を広げていった大きな要因となっている。1980年代に一般社員と社長の所得格差は30倍。今では400倍以上になっている。日本は10~15倍。会社の目的は利益を出すことだが、その利益を何らかの形で社会に貢献していく。社会に恩返しすることこそ民間企業の使命とし、そのために経営陣も従業員も、そして資本家が協力する、こんな会社を目指すべきだ。
まったく同感です。著者は、これを公益資本主義と名付けています。
会社の利益が社会に公平に分配されていること、経営が持続すること、改善されていることが大切なのだ。
本当にいい指摘です。
かつて有名なソロモンブラザーズは、1980年代に投資銀行のトップを走り、業界を熾烈な競争に巻き込んだあと、1997年に消滅した。ソロモンブラザーズは、債券発行による売り上げで、並みいる名門企業を追い抜き、2位を大きく引き離してダントツの1位となった。その売り上げは212億ドルだった。
ソロモン衰退と前後して大きく躍進したのがゴールドマンサックスなどの名門投資銀行だった。リーマンブラザーズは150年をこえる歴史に幕を閉じ、それを引き金として全世界で株価が暴落し、市場は無限の信用収縮に陥った。ゴールドマンサックスは銀行に転換、モルガンスタンレーも同じく銀行へ、メリルリンチとベアースターンズは買収され、リーマンブラザーズは倒産した。ところが、2009年夏、ゴールドマンサックスは史上最高益を記録した。
うひゃあ、まったくこりていないのですね……。
年金マネーは巨大だ。2007年に総額2500兆円。世界のGDPの半分にあたる。
こんな無軌道な、ルールなき資本主義が長続きするはずはありませんよね。また、長続きさせてはいけません。日本経団連に怒りをぶつけましょう。
(2009年9月刊。1200円+税)
2009年12月16日
東京大学、エリート養成機関の盛衰
社会
著者 橘木 俊詔、 出版 岩波書店
東大は江戸時代末期に体制派内の学校として誕生した組織に期限がある。当代の歴史は一環として体制派として存続しつづけてきた。もっとも、反体制派ないし反権力派で活躍する卒業生や教員も少なからず輩出しているから、体制派一色ではない。
東京大学の誕生は1877年(明治10年)。教育による階層固定化の現象が著しかったのが戦前の日本である。それを生んだのは森有礼による教育改革だった。
戦前の日本は階級社会であって、しかもそれは固定化していた。明治11年の東大の在学生の4分の3が士族であった。没落士族の子弟が給費制度を利用して進学していた。授業料を支払う必要もなく、衣食住のための給付金も受けていた。
東京帝大生の高等文官試験合格者に占める比率は常に6割前後だった。
官庁での出世は、本人の能力より東大卒というのがもっとも影響している。それに対して上場企業での出世は、大学名より、本人の能力と努力が死命を制する。
つまり、官界においては東大卒が出世の条件であり、民間においてはそれはさほどの条件にならない。
私も、その点はまったく同感です。弁護士の世界でも実力一本勝負です。東大卒なんて肩書はまったく通用しません。
現代に至って、東大のトップは揺らぎ始めている。
「官僚の東大」という伝統の中にあっても、法学部以外の学部の卒業生は役所ではトップまでほとんど昇進できない。法学部が圧倒的に有利なのである。
社長の輩出率は京都大学がトップであり、東大は4位にすぎない。社長の絶対数で言うと、1位が慶応、2位が東大、3位が早稲田と続く。ただし、現在、東大卒の知事が全国の知事のうち半数ほどを占めている。
国会議員についても、東大出身者が多いが、この30年間に40人ほど減った。かわって慶応大学出身者が24人から75人へと3倍に増えている。
今や、東大出の官僚経験者が首相になる可能性は非常に低い。
東大生の官僚志望の低下、政治の世界における東大卒業生の不振が言える。
東大法科では、司法の世界への人気が高まっている。一番人気は法科大学院、二番人気が外資系企業への就職、三番人気は日本の大企業への就職となっていて、公務員は人気がない。2008年の東大合格者のなかで、東京出身者は3割にまで低下している。
東大に合格するには、慶応大学並みの家庭の裕福さが必要となっている。これは、階層固定化現象を助長する恐れにつながっている。
東大生の昔と今を地道に分析している本です。参考になりました。
(2009年9月刊。2600円+税)
2009年12月15日
時をつなぐ航路
社会
著者 井上 文夫、 出版 新日本出版社
渡辺謙主演の映画『沈まぬ太陽』を見て、久しぶりに日本映画界の良心に触れた気がしました。
今の日本には、これだけ失業と貧困、格差の問題が騒がれているのに、労働組合の存在があまりにも軽く、金持ちとそれをバックとするテレビなどの大手マスコミだけが大手をふって歩いている気がしてなりません。お金のない、力のない弱者はまとまってこそ声が大きくなるのですが……。
この本は、日本航空をモデルとしていると思われる「N航空」が舞台です。航空現場に働く人々の大変な労働環境が詳しく紹介されています。よく飛行機を利用する私としても、実感として分かります。
ファーストクラスは客席こそ11席しかないが、乗客へのサービスも多岐にわたり、豊富な業務上の知識だけでなく、細やかな気配り、乗客へのもてなしにさりげなくのぞかせる教養といったものまで必要とされる。
なーるほど、ですね。といっても私はファーストクラスを利用したことは残念ながらありません。
外国籍の客室乗務員は1年単位の契約社員で、賃金は日本人よりずっと低く、何年働いても最初の契約条件のままである。外国籍の客室乗務員は、コスト削減のために会社が採用した。日本人の客室乗務員に比べ、賃金や労働条件はひどく悪いので、ある程度の乗務経験を積むと、より条件のいい航空会社を探してさっさと転職する。
契約制客室乗務員は、基本給もなく、また正社員に保障されている月間64時間分の乗務手当の最低保障もない。だから、乗務しない限り賃金の上乗せはないし、そのうえ乗務手当の1時間あたりの単価は、正社員の半分程度でしかない。契約制客室乗務員の手取り額は総じて月20万円前後である。有給休暇も、正社員は年間20日なのに、契約制客室乗務員は10日しか与えられない。
航空性中耳炎は、0.8気圧程度で巡航している航空機が着陸する際に、急激な気圧の変化によって中耳に圧力がかかり、炎症を起こす病気である。乗務のたびに離着陸を繰り返す客室乗務にとって、航空性中耳炎は職業病ともいえるものである。
ニューヨークのホテルの部屋に入ると、まずドアを半開きのままスーツケースで止めて、窓の両側に括られたカーテンの裾にじっと目を凝らす。それから、洗面所の扉を開けて中を見回す。次に、上半身を払ってベッドの下をのぞきこむ。これらは北南米のどこのホテルに滞在するにしても客室乗務員が入室の際に行うものだ。不審者がいないことをそうやって確かめる。過去に、部屋で待ち伏せしていた侵入者に暴行を受けた客室乗務員やベッドの下に見知らぬ死体が横たわっているのを翌日になって発見したという事例があるので、慎重にならざるをえない。ルームサービスさえ怖くて頼めないという客室乗務員は多い。
うへーっ、そ、そうなんですか……。ホント、怖い思いをするんですね……。
いま、日本航空の経営危機がさかんにニュースになっています。ともかく、飛行の安全第一を願っています。よろしく頼みます。
(2009年10月刊。2000円+税)
2009年12月14日
漱石の長襦袢
日本史(明治)
著者 半藤 末利子、 出版 文芸春秋
夏目漱石は熊本にいるときに結婚した。妻の鏡子は20歳。漱石は鏡子に対して、こう言った。
「俺はこれから毎日たくさんの本を読まねばならないから、お前のことなどかまっていられない」
それに対する返事は……、「よござんす。私の父も相当に本を読む方でしたから、少々のことではびくともしやしません」。
ええーっ、こんな会話が新婚家庭で本当にかわされたのでしょうか……?信じられません。
鏡子はおおざっぱで、がむしゃらで、尊大であった。それは育った家庭環境によるところが大きい。鏡子の父・中根重一は、東大医学部を卒業して医師になり、その後官吏となってついには貴族院書記官長にまでなった。ただし、56歳で亡くなっている。
鏡子が漱石とお見合い、結婚した頃の明治27、8年ごろは、父・重一の絶頂期だった。鏡子は鹿鳴館の華やかなりしころ、舞踏界にも出席している。
鏡子は小学校を卒業すると、女学校に通わず、全科目に家庭教師がついて自宅で勉強した。だから、友人関係から学ぶところがなかった。鏡子も下の妹たちも、人に頭を下げたり、気兼ねしたりする必要のない境遇で育った。
だから、男性に隷属していない。これが漱石の小説にも反映され、男性と対等に接する女性が登場している。うへーっ、そういうことだったんですか……。なるほど、ですね。
漱石はイギリス留学の前後はひどいうつ状態であり、妻・鏡子や幼い娘2人にまで手を出していた。DV夫であり、父親だった。幼い子供を庭に放り出したほどひどかったというのですから、信じられません。
漱石は、あの明治時代にアイスクリームの製造機を自宅に買い込んで作るほどの美食家だった。対する鏡子は、外食するか店から取り寄せる主義だった。
漱石は、享年50歳で病死した。鏡子は、漱石の死後、ぜいたく好きの妹たちや娘からもあきれ果てられるほどの並はずれた浪費をしまくった。
漱石の弟子たちと折り合いが悪くなってから、鏡子の悪妻ぶりが定着してしまった。
ところで、この本のタイトルです。
漱石が女ものの長襦袢を着た事実はないのに、あたかもあるかのように事実に反する新聞記事が書かれた(朝日。2007年10月17日)からです。
著者は漱石の長女・筆子の娘であり、有名な歴史モノカキの半藤一利氏の奥さまです。明治の文豪・夏目漱石の知らなかった人間性の一面にふれることができました。
(2009年10月刊。1429円+税)
2009年12月13日
エレサレムから来た悪魔(上・下)
世界(ヨーロッパ)
著者 アリアナ・フランクリン、 出版 創元推理文庫
最優秀ミステリ賞を受賞したというだけはある本です。作家の想像力の素晴らしさに感嘆しながら読みすすめました。文庫本2冊で、舞台が中世(12世紀)イギリスなので、よく分かっていない社会状況だということもあって、いつもより時間をかけ、じっくり読み耽りました。
舞台は1171年の中世イングランド。ケンブリッジで4人の子どもが惨殺された。その殺され方が磔(はりつけ)のように見えたため、カトリックの町民はユダヤ人のしわざだとして暴徒と化した。そのせいで、ユダヤ人たちからの税金が激減するのを恐れた時の王ヘンリー2世は、騒ぐ群衆からユダヤ人を守るために、王の保護のもとにおき、シチリア王国から解剖学の専門家を派遣してもらうことにした。そして、やってきたのは、なんと若い女医、死因を探る学問を身につけた病理医学者だった。
当時のイングランドでは、女医などとんでもない、女が医療を施そうものなら、魔女のそしりを免れえなかった。
ヘンリー2世の君臨する中世イギリスの世界が細やかに描写され、法医学を扱う検視官の仕事が見事に融和しています。私は、似たようなイメージだろうと勝手に想像して、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を想像しながら読みすすめました。
4人の子どもを惨殺した犯人は、最後近くまで明らかにされませんが、十字軍に騎士として従軍したことが想定されています。そのなかで、十字軍のひどい実態が暴かれています。それは、キリスト教の輝かしい精神を具現したというより、犯罪者を寄せ集めたゴロツキ集団と化していた面もあったようなのです。
そして、ユダヤ人へのすさまじいばかりの迫害です。ヘンリー2世も、ユダヤ人を保護していたのは、信教の自由を何人にも保障するというより、そこからあがってくる収入をあてにしていた気配が濃厚です。
いずれにしても、12世紀イギリスの寒々とした雰囲気が実によく伝わってくる本でした。
(2009年9月刊。840円+税)
2009年12月12日
ワルシャワの日本人形
世界(ヨーロッパ)
著者 田村 和子、 出版 岩波ジュニア新書
ポーランドの人々は日本に対して親近感を持っているそうです。
第二次大戦前のポーランドで、オペラ『蝶々夫人』が演じられ、プリマドンナをつとめた歌手のテイコ・キワ(喜波貞子)の大ファンとなった女性がナチス・ドイツに捕まり、獄中で可愛らしい日本人形をつくり、今もそれが残っているというのです。不思議ですね。
実は、この女性はナチスに対するレジスタンス運動に加わっていました。レジスタンス組織は後にワルシャワ蜂起に立ちあがったのです。
獄中で親切な女性看守がいて、日本人形をつくるのを援助し、身内に届けてくれました。その看守もレジスタンスの一員でした。あとでつかまりましたが、戦後まで生き抜きました。
ワルシャワ・ゲットーに閉じ込められていたユダヤ人は、1943年4月、3000人の兵士に指令を出して蜂起した。ナチスに包囲攻撃されたからである。1ヶ月後、鎮圧されてしまった。
そして1年後の1944年8月、今度はゲットーの壁の外でワルシャワ市民がドイツ占領軍に対する武力闘争に立ち上がった。ワルシャワ蜂起である。2ヶ月あまりの戦闘の末、蜂起軍は降伏した。ソ連軍は対岸まで進出していにもかかわらず、何の援助もしなかった。
ワルシャワ・ゲットーには、かの有名なコルチャック先生も子どもたちと一緒に生活していた。ゲットー内には14歳未満の子どもが10万人(住民の4分の1)いた。
1942年8月6日朝、ナチスは「孤児たちの家」に押しかけてきて、子どもたちの移送が始まった。200人の子どもはコルチャック先生を先頭にして行進を始めた。
この日、4000人の子どもたちがトレブリンカ絶滅収容所に移送されたのである。
コルチャック先生はナチスによる特赦をはねつけ、子どもたちと運命をともにした。
ワルシャワ蜂起には、大勢の若者そして子どもたちが少年レジスタンス兵として参加した。そのなかに孤児部隊という別名を持つ特別蜂起部隊イエジキがあった。部隊長となったイェジは、当時29歳の青年である。イェジはロシア領内のキエフスに生まれ、シベリアで孤児となった。ポーランド人孤児を救済する組織がつくられ、日本赤十字の協力で375人の子どもたちが日本にやってきた(1920~1921年)。そして、翌年までにアメリカ経由でポーランドに戻っていった。さらに、1922年にも同じように390人の孤児が日本にやってきて、健康を回復してポーランドに戻って行った。そのなかに先ほどのイェジがいた。イェジは、ポーランドに戻ってから日本の交流を目的とした「極東青年会」をつくった(1928年)。
イェジは、失敗したワルシャワ蜂起を生きのび、1991年5月に亡くなるまで、日本の歌を覚えていたそうです。ワルシャワ蜂起と日本とのつながりを、こんな形で知ることができました。
(2009年9月刊。740円+税)
2009年12月11日
寂しい写楽
日本史(江戸)
著者 宇江佐 真理、 出版 小学館
東洲斎写楽とは、いったい何者なのか。江戸時代、寛政の世に忽然と現れ、わずか10ヶ月で消えてしまった写楽をめぐって、さまざまな推理がなされています。この本は斉藤十郎兵衛を写楽だとしています。
老中松平定信の行った寛政の改革は、芝居とも無縁ではなかった。市村座、森田座、中村座の座元と関係者が北町奉行所に呼ばれ、芝居興行における厳しい通達を受けた。要するに役者の衣装などを質素にしろということだった。それに反した役者は奉行所に連行され、派手な着衣を没収されたうえ、5貫文の罰金刑を受けた。
また、芝居は午後四時(夕七つ)までとし、明かりを灯しての興業は禁じられた。
東洲斎写楽の本業は能役者だった。名前は出版社である蔦屋の主人がつけた。
刷りは二百枚単位。版木には耐久性が求められる。人物の型紙を置き、にかわにスミと雲母を混ぜた絵具を刷毛で塗る。雲母(キラ)摺りは、絵具が渇くに従い、独特の光を放つ。
9種類にもおよぶ工程は、摺師が長い間に創意工夫をこらしたものである。
滝沢馬琴、山東享伝、歌川豊国など、よく知った人たちが登場してきます。
斉藤十郎兵衛。斎藤をひっくり返せばとうさいとなり、その間に十郎兵衛の「十」を入れると、まぎれもなく東洲斎となる。
乙粋(おついき)という言葉が登場します。初めて聞く言葉でした。写楽の役者絵は乙粋だったが、商売にならなかった。このように語られています。
江戸の文化の香りが、そこはかとなく伝わってくる本です。
(2009年7月刊。1500円+税)
2009年12月10日
「二十歳の戦争」
世界(ヨーロッパ)
著者 ミケル・シグアン、 出版 沖積舎
ある知識人のスペイン内戦回想録というサブ・タイトルのついた本です。
私は20歳のとき、東大闘争の渦中にいて、いわゆるゲバルトの最前線に立っていたことがあります。もっとも、相手も私もせいぜい角材しか持っていませんでした(なかには鉄パイプとか、釘のついた角材を手にしていた人もいましたが、幸いなことに私は見かけただけで、直接むかいあうことはありませんでした)。はじめはヘルメットもかぶっていませんでした。飛んできた小石が頭に当たり、真っ赤な血が出て白いワイシャツをダメにしたことがあります。しばらく頭に包帯を巻いていましたので、過激派学生と間違えられていやでした。
この本を読むと、私たちの学園闘争があまりにも子供じみた牧歌的なものであることを自覚させられ、苦笑せざるをえませんでした。それでも、当時、私たちは真剣でしたし、闘争の渦中に過労のため身近なクラスメイトが急性白血病で亡くなったり、精神のバランスを喪って入院したりということは起きていました。
東大闘争では、ともかく学生に死者を出すなということが至上命題だったことをあとで知りました。東大を舞台とした内ゲバ(全共闘内部のセクトの武力抗争)でも、幸いにして東大では死者は出ませんでした。ただし、あとで内ゲバによって多数の死者が出たのはご承知のとおりです。
この本は、学園紛争どころではなく、スペイン内戦です。ナチス・ドイツの後押しを受けたフランコ軍と、ソ連の後押しも受けた共和国政府軍が戦争したのです。戦争ですから、当然のことながら双方大量の兵士が戦死しています。
スペイン内戦は特異な戦争だった。スペイン人がスペイン人を相手に戦った内戦であり、敵味方の陣営が、それぞれ簡単には説明しきれないほど複雑な構成になっていた。
一方の陣営は反乱を起こした軍人たちで、王制にとってかわった共和制政府に対してクーデターを仕掛けた。それを支持したのがカトリック教会や伝統的な保守勢力。そして、当時台頭しつつあったファシスト勢力のファランヘ党であった。
もう一方の陣営は、共和国の合法性を擁護する勢力と社会革命を標榜する勢力だった。その中には、無政府主義者もソ連流の共産主義者もいた。そのほか、カタルーニャとバスクの自治を求める勢力も一員だった。
20歳の著者は、大学生として共和国軍に身を投じた。1937年12月のこと。軍隊に一兵卒として入隊した。著者は学生のとき、カタルーニャ学生連盟の書記長だった。そして、コミュニスト・グループと戦った。しかし、アナキストは知らなかった。マドリッドから敗退してきた共和国軍がテルエルの戦いで激戦のあげくに敗れてしまった。
そのあとの戦線膠着状況で過ごす日々が淡々と描かれています。兵士の辛さが良く分かります。
そして、テルエルの戦いで敗れたけれど激戦を戦い抜いた兵士たちが後方で休息しているとき、直ちに前線復帰命令が出され、それを拒否した兵士50人が銃殺されたという話が紹介されています。指揮官の命令違反は死刑だというわけです。戦争とはこんなにむごいものなのですね。勇敢な兵士を仲間が処刑してしまうというのはやりきれません。
スペイン内戦の内情を20歳の一兵士の目を通して知ることのできる貴重な本です。
著者は今年91歳で、今なお、お元気のようです。
(2009年9月刊。3500円+税)
2009年12月 9日
憲法9条と25条、その力と可能性
社会
著者 渡辺 治、 出版 かもがわ出版
この本を読みながら、何度も、なるほど、そうなのか、そういうことだったのかと思いいたり、また何かしら元気が湧いてきました。久々に空気の入る思いがしました。空気が入るとか、空気を入れるというのは、私の学生のころに流行していた言葉です。少しばかり元気のない状態にカツを入れて、闘争心を取り戻す、取り戻させることを指す言葉です。
先日、著者の講演を聞き、そのあとにこの本を読んだのですが、とてもよく分かる本でした。さすがだと感心、感嘆してしまいました。
民主党は、かつて論憲から創憲といって、改憲を明記していた。ところが、今回の選挙では争点とすることを避けた。ただ、これは自民党も同じだった。いずれも、今、選挙のときに改憲を打ち出すのは国民受けしないという判断からだった。
鳩山首相は、民主党切っての改憲派であり、祖父鳩山一郎以来の悲願でもあったが、いま改憲を言いだせない状況に置かれている。
ところで、憲法9条や25条は形骸化しているのではないか、役に立っているのか、機能しているのかという疑問を持つ人は多い。9条は日本の自衛隊の海外派兵のときに隠れ蓑として使われているだけではないのか……。
しかし、よく考えてほしい。もし、9条や25条が醜い現実を覆い隠すイチジクの葉の役割しか果たしていないのなら、なぜ、政府・自民党は必死に改正を目ざしてきたのか。やはり、憲法9条が戦争や貧困を拡大するような政治にとって大きな壁になっているから、また25条が醜い現実を変え、人間らしい暮らしを実現するための武器になっているからだ。
現実に起きている権利侵害や不平等を座視しているような市民にとっては、憲法がどうであろうと関係がない。しかし、ひとたび現状に不満をもち、それを直そうと立ち上がろうとしたときには、大きな違いが出てくる。立ち上がった人間にとって9条や25条のあるかないかは、雲泥の差がある。そして、そこで確保された人権は、立ちあがった市民だけでなく、立ち上がらなかった広範な人々にも及ぶのである。
なーるほど、ですね。よく分かる指摘です。
憲法9条は、もともと東アジアの平和保障のためにつくられたものである。マッカーサーは、非武装条項を単なる理想ではなく、平和保障のための実効的な枠組みとして考えていた。
先日、アメリカのオバマ大統領がノーベル平和賞を受賞しました。プラハ演説で核廃絶を呼びかけただけで、まだ何の実績もないのにおかしいと批判する人もいますが、私はそうは思いません。1994年、佐藤栄作首相が日本人として初めてノーベル平和賞を受賞しました。非核三原則を堅持する決意を再三言明したことが評価されたからです。核兵器を造らず、持たず、持ち込ませずという非核三原則が実態にあわないものであることは、ノーベル委員会も認識していたと私は思います。それでも、この非核三原則は大切なことなんだ、それを再三、日本の国会で明言したことは、内実がどうであれ評価すべきことなんだというメッセージが発せられたわけです。私は、大賛成です。これが佐藤首相はからめとられて、建て前どおりの行動を余儀なくされたのです。核密約の内実が今明らかにされていますが、現実に合わせて理想を変えたり、捨ててはいけないのです。
もう一つ。日本の防衛予算は世界の中でも突出して大きいものです。ところが、GNPのなかに占める割合は下がり続けています。そして、海外侵攻用の兵器は持てませんし、軍需産業には大きな制約が課せられています。しかし、このことが日本企業の競争力を強化し、東南アジア諸国の警戒心をゆるめていったという大きな効果もあげたのです。
この本を読んで本当に勉強になりました。一人でも多くの人にこの本が読まれることを心から願っています。
(2009年10月刊。1700円+税)
2009年12月 8日
中流社会を捨てた国
ヨーロッパ
著者 ポリー・トインビー、デイヴィッド・ウォーカー、 出版 東洋経済新報社
イギリスについて書かれた本です。初めにイギリスの富裕層の暮らしぶりの一端が紹介されます。
3675万円の時計、94万円のショール、60万円のバッグなどの広告が富裕層向けの新聞広告にあるそうです。買う人がいるわけです。
1997年に労働党が政権についてから、上位10%のもつ個人資産が全体に占める割合は、47%から54%に増えた。
イギリスとアメリカでは、親が裕福だと子どもも裕福になる傾向にある。
1979年、サッチャー政権は誕生すると同時に、所得税の最高税率を83%から60%へ引き下げた。1988年にはさらに40%へ下げられた。
イギリスの億万長者54人の資産合計は18兆9000億円であるのにもかかわらず、所得税として納めたのは、わずか22億円ほどでしかない。うち32人は所得税をまったく納めていない。高額所得者たちには、自分たちより質素な生活を送っている人々を思いやる姿勢、共感する姿勢が欠けている。資産を持つ喜び、我が子がすくすくと成長を遂げていく喜び、これらを高額所得者のみが独占していいはずがない。
会社の取締役たちは、マリー・アントワネットも赤面するような巨額な報酬を受け取っている。
2007年の会社トップの平均報酬額は1億1055万円。これに、ボーナス・年金・ストックオプションが加わる。だからトータルでは平均4億8000万円になる。
2003年に13%の上昇、2004年に16%増、2005年に28%アップした。2000年から2007年にかけて、実に150%増となった。
トップに高額報酬が支払われると、企業の効率性が上がるというのは事実に反する。かえって、それが知れ渡ることにより、不満が社内に充満する。
報酬引き上げの背後には、自らも莫大な利益にあずかるコンサルタント企業の活躍がある。このような過大な報酬は、1980年代にはじまった。
地位を脅かされた猿が健康を害するのと同じように、おとしめられたものは、猿であれ人間であれ、健康を害する。ですから、ホームレスになった人は長生きできません。あまりにストレスが大きいからです。
貧困線を下回る家庭で育った子どもは、赤ん坊のうちに死亡する率が平均の3倍、事故で命を落とす確率が5倍、心を病むリスクも高く、寿命も短い。
イギリスの全世帯の中で自前の交通手段を持っていないのは27%。家を持っていない世帯と同じ。26歳を過ぎてバスに頼っているのは、落伍者のしるしである。
かつて公営団地には技能と意欲を持った労働者階級が住み、団地は活気に満ちていた。だが、彼らは金を貯め、他の土地に自分の家を買って出て行った。不動産を保有しているかどうかは、階層を分ける指標となる。
イングランドでは400万人が低所得者用賃貸住宅に住んでおり、その多くを占める団地では貧しい年金生活者と子どもの割合が飛びぬけて高い。賃貸住宅に住む人の3分の2以上は、行政から何らかの援助を受けている。イギリスの人口の5分の1にあたる1300万人近くが、政府のいう貧困線を下回る世帯所得で暮らしている。子どもの貧困の第一原因は、親が結婚していないことではなく、親が受け取る給料が低いことにある。
4歳までに、専門職家庭の子どもなら自分に対して発せられた言葉を5000万語、聞く。労働者家庭の子どもは3000万語、福祉家庭の子どもは1200万語だった。すでに3歳の時点で、専門職家庭の子どもは福祉家庭の両親よりも多くの語彙を持つ。
3歳の時点で、専門職家庭の子どもは肯定的な言葉を70万回かけられ、否定的な言葉は8万回だった。福祉家庭の子どもは肯定的な言葉が6万回、否定的な言葉は12万回だった。
言葉で愛情を注ぎ、きちんと褒め、物事の理由を教え、説明する。これを何百万回と繰り返すことで脳は成長し、心は開く。こうした大切な経験を与えられなかった子供たちの可能性はひからびていく。3歳児の到達度が9歳から10歳にかけての状況をきわめて正確に予言している。
いやあ、なるほど、なるほど、そうだろうなと、つくづく私は思います。それでも、こんな数字をあげられると、思わずわが身も振り返ります。
階層を上昇できるかどうかは、当然ながら、お金のあるなしにかかっている。10代のころに貧しいと、人生の展望は暗い。貧しい10代を過ごした大人は、たとえ30代で貧困から抜け出しても、中年になると貧困状態に戻っているリスクが高い。
今や、人の経済的将来を左右するのは、能力ではなく、バックグラウンドである。どんな能力の子どもでも、その子が学校にとどまり、試験を受け、教育の梯子をあがっていくかどうかは、親の社会階層と密接に関わっている。
イギリスについての本ですが、今の日本にとっても大いに参考になる本だと思いました。
金曜日に日比谷公園を歩きました。前日に雨が降ったおかげで青空は澄み切っていて、黄金色の銀杏の葉が光り輝いていました。大勢の人が写生にいそしんでいました。そのなかの一人の絵描きさんに、見事な出来ですねと声をかけたほどです。
銀杏の葉が道路にたくさん落ちて黄色いじゅうたんとなっていました。紅葉の方は少し色あせていました。
師走にしては暖か過ぎるほどです。
(2009年9月刊。2000円+税)
2009年12月 7日
百姓たちの江戸時代
日本史(江戸)
著者 渡辺 尚志、 出版 ちくまプリマー新書
江戸時代の人口は、17世紀に急増した。1600年に人口は1200万人から1500万人のあいだと推定される。それが18世紀はじめには3000万人を突破した。100年間で2倍に人口が急増した。その背景には、新田開発による耕地面積の急増と、農業生産力の増大があった。この本には書かれていませんが、戦争がなくなり、平和な時代となったことがその前提として大きかったのではないでしょうか。
ところが、18世紀から19世紀にかけて、人口は停滞・安定してしまう。
18世紀に人口増加がストップしたのは、少子化と晩婚化が進んだこと、耕地面積の増加が頭打ちになったこと、飢饉や疫病の影響もあった。
江戸時代の後期、一家の子どもは2,3人程度だった。子だくさんではなく、人々は少なく生んで、手間ひまかけて子どもを育てるようになった。
江戸時代の百姓は、一般に苗字をもっていた。百姓に苗字がなかったというのは誤解である。ただ、公的な場で名乗ることを許されていたのは、ごく一部の特権的な百姓に限られていた。
江戸時代は、百姓が一般的に家を形成したという点で、日本史上画期的な時代なのである。それ以前には、家が成立していなかった。なーるほど、そうだったのですか……。
江戸時代の庶民の衣料事情は、2回の大きな変化を見せる。1回目は、江戸時代前期に起きた木綿の普及。2回目は、19世紀に入って、庶民がファッションに敏感になり、10年周期で流行が変遷していったこと。
江戸時代の百姓は、米を食べていた。年間1石(150キロ)以上の米を食べていたと思われる。絶対量でみると、今日の日本人(60キロの米を食べる)を上回る米を食べていた。日常的には、米と麦、雑穀を混ぜて炊いた「かてめし」や、かゆ、雑炊を食べ、婚礼などの晴れの日には米だけの飯を食べた。
江戸時代、介護は女性の役割という観念はなく、介護は家の責任で行うものとされていた。家長が家族の中心になって介護にあたるべきだと考えられていて、家長の統率のもと、家族が協力することが求められた。
江戸時代の歌舞伎は、村人自身が演じたところに特徴があった。村人が自ら役者となり、歌舞伎を村の鎮守に奉納し、村全体でそれを楽しんだ。
19世紀の村には、常に誰かしら寺子屋の師匠がいた。
農家が米をつくるとき、早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)を組み合わせ、収穫時期をずらし、風水害のリスクを回避し、多収穫をバランスよく実現しようとした。
一家の財布を握り、一家を牛耳るのは、妻だ。妻は家庭内で尊重された地位を占めている。彼女の生活は上流階級の婦人より充実しており、幸せだ。なぜなら彼女らは、生活の糧の稼ぎ手であり、家族の収入の重要な部分をもたらしていて、その言い分は通るし、敬意も払われるからだ。夫婦のうちで、性格の強いものの方が性別とは関係なく家を支配する。
江戸時代にも、たくましく生きる女性たちが確かに存在していた。
江戸時代の村の生活の様子が、イメージをもって伝わってくる貴重な新書です。日本は古来、女性は強いのですよ。今の日本を見たら、よく分かることです。
アメリカはアフガンに増派するということですが、失敗するに決まっていますよね。かつてのベトナム戦争、そしてソ連のアフガン敗退の二の舞を演じるだけでしょう。
勝てる見込みがまったくないのに、それでもあえて増派するのは、タリバン政権の復活を恐れているからとのことです。アフガニスタンにタリバン政権ができたら、パキスタン政権も危うい。そして、そうなったら、核の管理が心配になり、核兵器をテロリスト集団が持つ心配がある。こんな心配をしないように、アメリカはともかくアフガニスタンに増派するようです。これは、渡辺治教授の話の要旨でした。
(2009年6月刊。760円+税)
2009年12月 6日
思い出を切りぬくとき
社会
著者 萩尾 望都、 出版 河出文庫
萩尾望都の漫画家生活はもう40年になるそうです。すごいですね。私の一つ年下のようですが、私の母と著者のお母様は女学校の友だちとして親しかったので、私もお母様とは顔を合わせることが何回もありました。最近、著者の顔写真を新聞で拝見して、私の記憶にあるお母様にあまりに似ているので、びっくりしてしまいました。もちろん、これは我が家のアルバムにあるお母様の顔写真も脳裏に焼き付いているからでしょう。
この本に書かれているエッセーは、実はかなり古いものです。一番古いものは1976年とありますから、昭和でいうと51年です。まだ私が横浜弁護士会に登録していたころです。
私が駆け出しの弁護士になったばかりのころ、既に著者は人気の漫画家でした。それも当然ですよね。『ポーの一族』なんて、すごいですよね。しびれてしまいますね。あとになりますが、『残酷な神が支配する』という漫画は、どうやってこんなストーリーを思いついたのか、不思議でなりませんでした。
著者は、漫画家志望の子に対して、本をたくさん読むように、劇をたくさん観るようにすすめています。その点は、私もまったく同感です。想像力を働かせるには、自分の体験だけでは足りないと思うからです。
そして著者は、何かのストーリーを描いているときにうける「ほんの15分のインタビュー」や「ほんの5分で描けるカット」の依頼をなぜ断るのかについて語っていますが、これまた、弁護士である私にも同感至極です。
頭を切り替えるのは簡単ではない。漫画のストーリーを考えているのを止めて、カットのほうに気を入れなければいけない。この気持ちの切り替えだけで半日かかったりしてしまう。ストーリーを考案しているときには精神を集中する必要がある。その集中力をいったんとかないといけない。
渡部昇一の『知的生活の方法』にも、仕事している最中に電話でそれを中断されると、仕事のボルテージが極度に下がってしまうと書かれている。まさしく、そのとおりなのだ。
そうなんです。だから私は事務所にいても電話で話すのは必要最小限にとどめています。相手によっては私は出ずに、事務局でそのまま対応してもらいます。私はそばにいて、「こう返事しなさい」と耳元でささやくだけです。それでいいのです。私は頭を切り替えるムダを省いて、本来の、やりかけの書面作りに専念できるからです。
著者は福岡県大牟田出身ですが、いまは千葉在住のようです。今後、ますますのご活躍を同年輩の一人として心から祈念しています。
全国クレサラ集会のとき二宮厚美教授の基調講演のなかで印象に残る指摘がありました。
それは日本は経済危機が深刻だといってもアメリカや中国とは決定的に異なっている。つまり日本の国債は日本国民自身が自分の貯蓄の中で買い支え得ているとうこと。
IMFなど外国資金によって支えられているわけではないので自国内で解決できる。だから福祉を充実させて内需を拡大することで解決の展望があるのだということでした。なるほどですね。
(2009年11月刊。570円+税)
2009年12月 5日
三国志談義
中国
著者 安野 光雄・半藤 一利、 出版 平凡社
私は「三国志」も「水滸伝」も大好きです。胸をワクワクさせながら読みふけりました。豪傑たちへのあこがれは、今もあります。
魏の曹操は、徹底的に悪者になっている。しかし、『正史』を読むと、立派な人だということが分かる。人材の使い方にすぐれ、適材適所の登用により各人の能力を存分にふるわせた。感情を抑え、計算をしっかりとし、その人物の過去にこだわらなかった。戦略戦術は実に見事で、天下を大きく動かした。まさに絶賛に価する。
しかも、曹操は大武将であるうえ、息子の曹丕(そうひ)、曹植の親子三人が、いずれもすぐれた詩を残している。そして、曹操は、いつも陣頭指揮の人であった。自分の部下もきちんとほめる。
いやあ、知りませんでしたね、曹操って本当は偉い人物だったのですか……。かの魯迅が曹操を評価しているということも初めて知りました。
曹操は非常に才幹のある人物であり、一個の英雄として、非常に敬服している。
なーるほど、曹操って、実に偉い人なんですね。
うむむ、なるほど、これもたいしたことですよね。
曹操の詩に、人生というものは、日が出るとたちまち乾いて消える朝露のようにはかないものであるというものがある。なーるほど、そういうものなんでしょうか……。
呉の孫権は、人をつかうとき、疑いがあるなら使ってはいけない。しかし、使った限りは疑うな、こう言った。孫権はずっとこれを守った。それで、孫権は19歳のときに王になってから、71歳までの52年間、トップに居続けることができた。
「白浪五人男」の由来。「白浪」というのは盗賊を意味する。これは、「三国志」の冒頭、黄巾の乱で、大将の張角が戦死したあと、残党の白波(はくは)賊が、白波谷に籠って抵抗したことに由来している。つまり、白波を白浪に変えたのだ。
危急存亡の秋(あきではなく、とき)。進退谷まる(たにではなく、きわ)。日本語の読み方はとても難しいですよね。
『三国志』をめぐって、大家の放談を聞くと、いろんなことを知ることができます。
(2009年6月刊。1400円+税)