弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2009年10月 9日
1968(上)
社会
著者 小熊 英二、 出版 新曜社
1968年というのは、私が初めて東京で過ごすようになって大学生活の2年目でした。安田講堂を突然占拠した学生を排除するために、起動隊が導入されたのが6月のこと。それから長いストライキ闘争が始まりました。翌69年3月まで授業はなくこの年4月に東大は新入生を迎えることができませんでした。
この68年4月から69年3月までの1年間の学生たちの動きを、体験をもとにして丹念に追って小説としたのが『清冽の炎』1~5巻(花伝社)です。残念ながら反響がなく、ほとんど売れませんでした。この本は、その『清冽の炎』も何回となく引用しながら、東大闘争とはなんだったのかを論じています。
しかし、いやはや、さすがは学者です。上巻だけで1090頁もあります。東大闘争の部分だけでも300頁もあります。そして、引用できるあらゆる活字資料にあたったようです。とくにすごいのは、当時の週刊誌にまであたって、引用していることです。
東大全共闘とセクトの関係について、私はセクトの影響力というか支配力は、著者の指摘よりは強かったように見ています。
各セクトの勢力は拮抗状態で、一つのセクトが東大全共闘を支配することはできなかった。東大では支配的セクトがなく、ノンセクト活動家も発言力を持つ柔軟な運動が可能となった。
ここでいう柔軟な運動というのは何なのでしょうか。私には思いつきません。全共闘は全学バリケードストライキを一貫して狙っていました。そして、東大解体をスローガンとして叫んでいたのです。
ノンセクト活動家が中核に位置したことは、セクト嫌いの学生を、東大全共闘に引きつける効果をもたらした。
たしかに、こう言える面はあったかと思います。東大解体、帝国主義大学解体、自己否定しろという叫びを聞いて、胸に手をあてて考えた東大生がいたことはたしかです。でも、東大をやめて行った人は、ほとんどありませんでした。私の知る限り、たった一人だけです。彼は、中退して工場労働者として働きはじめ、組合活動をしていました。やがてバレて経歴詐称として解雇されたので、裁判闘争に持ち込みました。彼はタカ派の自民党代議士の息子でした。いま、彼は一体どうしているのでしょうか……。
東大闘争では、運動の副産物であった「主体性の確立」が目的化したのと似て、「自己の生き方を問う」ことが主題として浮上してくるという特異な展開をとげていった。
「自己否定」とは、エリートによる、エリートのためのスローガンであった。東大全共闘が占拠した安田講堂は、大学側が電気・水道・ガスを供給し、東大の代表電話にかけたら、安田講堂内の全共闘メンバーを呼び出せた。大学当局の保護下での占拠なのは明白だった。
東大全共闘の闘争は、彼らが避難した日本の「大学の自治」の通念に守られていたからこそ可能だった。
日大闘争が終わったとき、日大への絶望感から、1万人の中退者が出たのに対して、東大闘争で東大を中退した学生は少数だった。
宮崎学の『突破者』は、私も面白く読みましたが、図書館前で激突したのが宮崎学の指揮する「あかつき戦闘隊」、著者のいう「共産党の行動隊」というのは、いささか事実に反しています。そこには駒場から駆けつけた大勢の学生が主力だったのです。もちろん民青ばかりではありません。全共闘による占拠に反対する声はかなり強く、身体を張ってでも阻止しようという学生は少なくありませんでした。これは、よく考えてみれば当たり前のことではないでしょうか。
何の手続きも踏まずに一方的に暴力的に図書館などの建物を占拠して、出入りを禁止しようという動きがあるのに怒って、それを阻止しようと考える学生は多かったのです。もちろん、あとで聞いて知りましたが、宮崎学の「あかつき戦闘隊」も背後に控え、ときに前面に出てきていたのかもしれません。しかし、東大全共闘対「共産党の行動隊」という図式で描かれてしまうと、その場に居合わせた多くの駒場の学生は、ええっと驚き、のけぞってしまうと思います。
ただ、東大全共闘が一般学生から指示を失いつつも、3割台で一貫していたという点は、たしかにそうだというのが私の実感でもあります。というのは、69年3月になって、ようやく授業再開しようというときに、まったく新手の全共闘のデモ隊が来るのに驚き、かつ、呆れた覚えがあるからです。でも、本格的に授業が始まると、直ちに平静になり、民青やクラ連だけでなく、全共闘の学生までみんな授業に出て、半年間の遅れを取り戻そうとしていました。もちろん私も、ご多分にもれません。
ともあれ、1968年に何があったのか、そこでは何が問われていたのかを知るためには、必須、不可欠の本だと言わなければなりません。私も大いに勉強になりました。
(2009年7月刊。6800円+税)