弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年8月20日

共依存、からめとる愛

社会

著者 信田 さよ子、 出版 朝日新聞出版
 ながくカウンセラーをしている著者は、ストレスがたまることはないそうです。すごいですね。私より少しだけ年長の団塊世代です。
 カウンセリングで疲れることはあっても、ストレスがたまることはない。この上なく悲惨で奇怪な話を聞くことで、人間の不可思議さに触れ、頭の中を秩序だてていたパラダイムが、音を立てて崩れ落ちる瞬間の解放感を味わう。これ抜きにカウンセラーを続けることはできない。なーるほど、そういうことなんですね。弁護士である私にも少しだけ分かります。
 親から虐待されている子どもが、親から暴力をふるわれて翻弄されながら、「すべて自分のせいだ」と認知する。わけのわからない痛みや混乱を、子どもなりに秩序だてられなければ、子どもの世界はカオスとなる。しかし、カオスの中では生きることができない。そこでシンプルな秩序を編み出すことになる。それが、「すべて自分が悪い」という究極の論理である。この論理で構築できない秩序はない。あらゆる出来事が自分の責任であり、悪い子だからだと認知する習慣は、幼児的万能感の裏返しでもある。それは成人後にも持ち越され、過剰な背負いこみ、過剰な責任感へとつながっていく。ふむふむ、そうなんですね。
 アダルトチルドレンの生きづらさの大半をしめるのが、このわけもなく過剰なままの自己責任感覚、自責感なのである。だから、これから解放されるためには、いったん、「あなたには何の責任もない」として、イノセンス(無罪)を承認される必要がある。うむむ、なるほど、なるほどですね。
 アルコール依存症者の平均寿命は52歳。美空ひばり、石原裕次郎、中島らもの享年は、みな52歳だった。うへーっ、それは知りませんでした。
 アル中の妻は、「私が見捨てれば夫は生きていけない」と考えている。夫の「妻に見捨てられたら生きていけない」というメッセージは、妻の考えとまるで鏡の裏と表のようにぴったり重なっている。妻を満たしているのは、ケアを渇望している存在にケアを与えることで得られる快感である。忍耐と苦労ばかりの生活にあって、この満足感だけが砂漠のオアシスのように感じられる。妻は、夫から振り回される存在から反転し、むしろケアを求めるように夫を操作するようになる。
 カウンセラーは妻に対して、「それは共依存です」と伝える。妻は、自分が良かれと思ってやってきたことが、夫をさらに依存させることになっていたことを自覚すると、長年のケアの与え手としての時間が否定されてしまうような感覚に襲われるだろう。しかし、そのあとに、やがて訪れるのは、途方もない解放感である。
 共依存という言葉は、日本の妻や母たちが当然のようにケアの与え手役割を強制されてきた忍耐の歴史に風穴を開けた。「これ以上ケアをしてはいけません」というシンプルなメッセージは、共依存という言葉に結晶して、多くの強制されたケアの与え手を解放した。
 女性のアルコール依存症者について、次のような指摘があります。 
妻は、夫の関心をおねだりして酒を飲んでいるわけではない。むしろ、人間として扱われなかったことへの怒り、そのような状況を変更する力のない自分への無力感が、妻を飲酒に駆り立てている。妻の冷徹な状況判断力、傷つきやすいプライドが、皮肉にも自らの現実を耐えがたくしている。
 そんな妻を見捨てずにケアをする夫は、妻が崩壊するのと反比例して、より正しく人間的な存在にのぼりつめる。自分が偉い人間になったという気分に浸ることが出来る。
 共依存の特徴は、よりかかる他者が必ず自分より弱者であること。強者であれば単なる依存にすぎない。飲み込まれるどころか、むしろ飲み込むために共依存は弱者を選ぶ。隠れた主体は巧妙に弱者である対象を操作する。
 共依存は、弱者を救う、弱者を助けるという、人間としての正しさを隠れ蓑にした支配である。その多くは、愛情と混同される。
 DV夫は、被害者意識に満ちている。逆にDVを受けている妻は、自分のせいで夫に殴らせてしまったという罪悪感を根深く持っている。これを加害者意識と呼べば、DVの加害者と被害者の意識は逆転している。したがって、DV被害者を共依存と呼ぶのは、逆転した加害・被害の意識を強化することになる。だから、DV被害者に対して共依存という言葉を用いることは、厳に慎まなければならない。
 大変教えられることの多い本でした。長年夫のDVで苦しめられてきた妻が、夫が動けなくなったときに復讐するという話がこの本に紹介されています。私も、そんな妻の弁護人になったことがあります。話を聞くと、実に悲惨でした。
(2009年5月刊。1600円+税)

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