弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年8月 7日

紫式部日記

日本史(平安時代)

著者 山本 淳子、 出版 角川ソフィア文庫

 紫式部が初めて職場に出たとき、誰も声をかけてくれず、仲良くしてくださいと歌を贈ってもはぐらかされる始末。結局、欠勤し、こじれて5か月も引きこもってしまった。
 そこで紫式部は、「ぼけ演技」作戦をとった。どんなことでも、「さあ、知りません」「わたくし、何も存じませんの」という顔をして話をかわしてしまう。
 これで、同僚の紫式部を見る目が変わった。それまで、紫式部って高慢ちきで怖い才女だと思いこんでいたのだと告白し、仲良くなれることができた。
 それから、紫式部は、「おいらか」を自分の本性にしようと決意した。おいらかとは、角を立てない、人当たりの穏やかさのこと。その努力が報われて、やがて主人の彰子(しょうし)にも心を開いてもらえるようになった。
 ふむふむ、これってなんだか、今日の職場における出来事のようですよね。
 上達部(かんだちめ)とは、朝廷につかえてまつりごとにかかわる議事に参加する貴族たち(公卿)のこと。一条天皇の時代には20~30人いた。貴族とは、朝廷から5位以上の位を授けられた高級官僚を言う。100~200人はいた。
道長の孫が誕生したときのお祝いの場で、貴族たちが双六(すごろく)に打ち興じた。その商品は、紙だった。当時、紙は大変な貴重品だった。平安時代、内裏に盗賊が入ることは、数年に一度の頻度であったことが記録上で確認できる。むむむ、宮中の警備って意外にも手薄だったのですね。
 紫式部日記にも、宮中に強盗が入り、2人の女房が身ぐるみ剥がれた事件の発生が書かれている。紫式部は清少納言を、「得意顔でとんでもない人だった」(したり顔にいみじう侍りける人)と非難している。紫式部が彰子に勤め出したのは、清少納言の使えていた定子が亡くなり、宮中を去ってから5年か6年あとのこと。したがって、2人が顔を合わせたはずがない。それでも、紫式部の仕える彰子の前時代、定子(ていし)文化を代表する女房であったから、批判せざるをえなかった。
 彰子の女房である紫式部にとって、『枕草子』は、目の前に立ちふさがる大きな壁だった。紫式部にとって、清少納言と『枕草子』は、度を失わせるほど手ごわい存在だったのである。
 この本は、紫式部は藤原道長の愛人だったという説を打ち消しています。もちろん、真相は分かりませんが、道長からかなり目を掛けられていたことは日記からも裏付けられています。
 水鳥を水の上とやよそに見む われも浮きたる世をすぐしつつ かれもさこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど 身はいとくるしかんなりと思ひよそへらる
 言葉は難しくても、昔も今も日本人の気持ちってあまり変わらないものだと改めて思い知らされたことでした。
 
(2009年4月刊。667円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー