弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年7月29日

われら青春の時

社会

著者 佐藤 貴美子、 出版 新日本出版社 

 1950年代、名古屋における学生セツルメント活動、そして、元セツラーが医師となって地域に定着し、民主診療所を切り拓いていく話です。
セツル、というのは住みついてという意味。困っている人たちのために、住みついて医療や教育を提供しようという運動。日本では関東大震災のあと、東京帝国大学の心ある学生たちが、診療所・託児所・法律相談などを実施したのが最初。
私が学生セツラーであったのは、それより15年あとの1960年代後半のことでした。それでも、かなり似たところはありますので、大いに共感・共鳴しながら読み進めていきました。学生セツルメント活動が全盛期を迎えたのは、私が大学を卒業したあと70年代はじめで、その後急速に衰退していったと私は考えています。
大須事件に学生セツラーが巻き込まれて刑事被告人となってしまいます。このころはまだGHQがいて、朝鮮戦争のあと、政治活動が禁止されていた時代でもありました。それにも負けず、セツラーたちは神社の境内で、納涼映画会を計画します。原爆映画を上映しようというのです。当日、トラック2台で警察の機動隊員数十人が襲いかかってきて、上映会はつぶされてしまいました。このころは、むきだしの弾圧があったのですね。
主人公の女性は、医学部生でした。医師国家試験になんとか合格し、地域に飛び込み診療所を開設します。そのとき、指導教授に会いに行って言われた言葉がすごいものでした。
「やるなら、大物になりなさい。目立つようにすることです。大物になるのです。さもないと、○○君のように、名無しにされ、行方知れずにされてしまいます。やる以上は強気で行くのです。大物になって目立つのです」
なーるほど、ですね。
このころは、『君の名は』に続く『笛吹童子』というラジオドラマ全盛の時代だった。うーん、なつかしいです。私も『笛吹童子』のメロディーは、今でもはっきり覚えています。それこそ、ラジオにしがみつくようにして聴いていました。
セツルメント診療所を案内するチラシはガリ版印刷だ。ガリッ、ガリッと音がしはじめた。ガリ切りという作業には、根気とコツがいる。鉄筆に込める指の力が強いと、紙が破れてしまう。用心して力を弱めると、蝋紙が切れないので文字が出ない。そのころ合いが微妙である。すべての文字を均等な力で書かねばならない。強調したい言葉について力を込めようものなら、そこだけ早く破れて、ビラ全体がダメになってしまう。
そうなんです。私も大学1年生の4月からセツラーとなってガリ切りを始めました。四角いマス目に字をおさめ、なるべくなるべく読みやすいように丁寧にカッティングするうち、それまでと比べて格段に読みやすい字が書けるようになったのです。
ガリ切りをした蝋紙を謄写版にセットする。これにもコツがあって、原紙をピーンと張らねばならない。しわがあると文字が歪んでしまう。ローラーにインクが平均につくようにならしたうえで、印刷していく。体重を全部ローラーにかけ、加圧するように回転させ、印刷された紙を一枚ずつめくっていく。
この作業を2人1組でするようにこの本では描かれていますが、私たちは1人でしていました。そのほうがよほど早かったように思います。右手でローラーを押しまわして、指サックを左手の親指にはめてザラ紙をめくっていくのです。
学生セツルメントでは、実は異性と知り合えることも大きな魅力だった。
いやあ、ホント、そうなのです。たくさんの出会いがありました。
セツラーたちは山道を歩くのにも歌いながら行くので、長い道のりも苦にならない。
セツルに入って歌う楽しさを始めて知った者が多かった。何かにつけて歌が出る。歌いながら、楽しく作業をすすめる。
生来音痴の私も、みんなの邪魔にならないように気をつけながら楽しく歌っていました。
 60年代の学生セツルメントを知りたい人には、『清冽の炎』1~5巻(花伝社)をおすすめします。あわせて、当時の東大駒場の状況もよく分かる本です。
 
(2009年6月刊。2000円+税)

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