弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年7月28日

世界史の中の日露戦争

日本史(明治)

著者 山田 朗、 出版 吉川弘文館

 私は旅順に行き、203高地にのぼったことがあります。何の変哲もない、低い灌木のまばらに生えた丘のような山でした。203高地というのは、高さが203メートルということから名付けられたものです。
 そして、ロシア軍の築いた堅固な要塞である東鶏冠山堡塁の内部にも足を踏み入れました。とても頑丈な作りでした。フランスの築城技術に学んで、ロシア軍が念入りに作り上げた要塞です。日本軍はこの要塞を攻めあぐねて、大変な死傷者を出しています。
 1904年(明治37年)2月9日、日本軍は旅順軍港にいたロシア軍艦に奇襲攻撃をかけた。日露戦争の始まりである。欧米の新聞は、この戦闘を翌2月10日の新聞で詳しく報道した。今から100年以上も前なのに、どうして可能だったのか。それは、海底ケーブルと電話線によって、世界の主要な都市、軍事拠点が接続していたから。というのも、イギリスは、50年かけて世界を結ぶ海底ケーブル網を完成させていた。
 海底ケーブルの敷設と地上優先通信網の整備、無線電信の導入は、日露戦争における情報力において、日本がロシアに対して優位に立つ大きな要因となった。情報戦の分野では、日英同盟にアメリカが加わり、それと露仏同盟が戦っていた。
 日露戦争のとき、日本軍は機関銃を持っていなかったという俗説は全くの間違いである。日本は、すでに日清戦争のときにイギリス式のマキシム式機関砲を保有していた。日露戦争のときには、フランス式のホチキス式機関銃を保有していた。ただし、日本軍はあまり最前線の陣地では使用しなかった。
 日露戦争で使用された日本の戦艦6隻、装甲巡洋艦8隻は、戦艦はイギリス製、装甲巡洋艦はイギリスやイタリア・フランス・ドイツ製であった。日本はまだ自国で建造する能力がなかった。
 ロシアは、新旧雑多な軍艦で編成されていたのに対して、日本側は新鋭艦を中心に構成されて連合艦隊として佐世保に集結していた、
 ロシアと日本と、戦力はほぼ互角で、総合砲戦力では日本がやや劣るが、快速性の点では日本側が優勢だった。
 日本軍は旅順要塞の総攻撃で大損害を被った。5万7000人が参加して、1万6000人ほどの死傷者を出した(戦死者5000人)。ロシア側の野砲や機関銃に対して、ひらすら白兵攻撃を敢行して人海戦術で突破口を作ろうとするばかりだったからだ。ロシア側の火力にさらされたときの防御陣地や遮蔽物の構築がまったくできていなかった。日本側は、本格的な要塞攻撃のノウハウを知らなかったし、旅順要塞の堡塁の構造やロシア側火器の配備状況の情報収集も十分ではなかった。
 203高地をついに占領したとき、日本軍は6万4000人の参加人員のうち、1万7000人もの死傷者(戦死5000人)を出した。結局、日本側はロシア側の総兵力をはるかに上回る6万人に近い死傷者を出した。ロシア側は4万7000人の兵力で防衛し、2万8000人の死傷者を出した。
バルチック艦隊が今どこにいるのかというのは、マスコミによって刻々と伝えられていた。
 日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に大勝利したのは、双方の戦力データを比較検討したら、日本側の勝利は順当なものだったといえる。日本艦隊にとって有利な条件がそろっており、逆にロシア側はきわめて不利な状態で戦闘に突入した。
 ロシア艦隊はのべ3万キロ、7ヶ月の航海を経て、極度に疲弊しており、途中に寄港できる同盟国もなく、将兵の士気は低下し、小暴動が頻発していた。日本側は、いつごろロシア艦隊が到着するかつかんでおり、鑑定の整備と将兵の訓練を十分に行うことができ、準備万端整えたうえで海戦に臨むことができた。
 日露戦争、そして日本海海戦の実相をよく知ることができる本です。
 よく雨が降りました。
 日曜日、昼から雨が止んだので、少し庭の手入れをしました。ネムの木がピンクの花を見事に咲かせています。誰かがネムの花は水彩画がよく似合うと書いていましたが、なるほど、そのとおりですね。ボワボワとふくらみのあるピンクと白の混じった花で、見ているだけでも心が浮き浮きしてきます。
 連日の雨で鳴くヒマがなかったせいでしょうか。セミが薄暗くなった7時半まで鳴いていました。
 
(2009年4月刊。2500円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー