弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年6月29日

米原万里を語る

社会

著者 井上 ユリ・井上ひさし ほか、 出版 かもがわ出版

 1950年生まれというから、私より2歳も年下なのに、残念なことに米原万里は3年前に亡くなりました。この本を読むと、本当に惜しい人を亡くしてしまったという思いに改めて駆られます。
 九条の会の事務局長をつとめている小森陽一東大教授が、ロシアで米原万里の弟分だったことをこの本を読んで初めて知りました。
 米原万里は、ロシア語はロシア人よりもよくできた。そして、なにより日本語がとても上手だった。だから、ロシア語の同時通訳は素晴らしかった。通訳の仕事は、言葉の勉強と、さらに通訳そのものの勉強をしない限り出来るものではない。
 そうなんです。通訳はなにより日本語ができないとダメなのです。アメリカで日常会話レベルの英語が話せるというくらいでは、通訳はつとまりません。私も何回か、しどろもどろ、まったく趣旨不明の通訳に出会い、メモをとることが出来なかったことがあります。私のフランス語もそうです。なんとか聞き取れる程度ですから、通訳なんて、とてもとてもできるものではありません。いえ、私に冗談半分でしたが、通訳しろと言った友人がいたのです。
 米原万里は、服装も派手で、化粧も香水もきつく、飾りもジャラジャラジャラジャラつけて、すごく大胆で、思いきっていて、力強いひとだという印象を与える。しかし、本当はずいぶん慎重な性格で、臆病なところがあった。なーるほど、ですね。
 米原万里の父親は、米原いたるといって、共産党の幹部で、衆議院議員もつとめている。戦前、一高を放校になり、終戦まで地下に潜っていた。その実家は鳥取の大富豪、名家だった。だから、戦後、公然と活動を始めて選挙に出ると、鳥取で最高点で当選した。プラハに家族を連れて常駐したのです。
 米原万里は、やっと小説を一作書いただけで、あの世へ旅立ってしまった。
 米原万里は、小学生のときにプラハ(チェコ)へ行き、日本語が全く通用しない場所にいきなり放り込まれた。そこでは、ロシア語をしゃべれないと、自分が誰であるか何者であるかということも分からない状況があり、言葉がいかに重要なものであるか理解していった。若いころに、自分の言葉の危機を迎えた人は、言語に対してとても敏感になる。アイデンティティの危機と言葉の危機は密接につながっている。
 しみじみと心に残るいい本でした。井上ひさしと奥さん(万里の実妹)の対談がとても面白く、興味をそそられました。 
 久しぶりに神戸へ行ってきました。
 土曜美の夕方でしたが、三宮駅前の商店街の人の多さに圧倒されました。まっすぐ進めないほどの人出です。日本って景気いいのかなと思いました。
 新神戸駅前に超高層マンションがいくつも建っていました。高所恐怖症の私には、とても住めません。値段も高いのでしょうね……。
 
(2009年5月刊。1500円+税)

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