弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年6月24日

裁判員制度と報道

司法

著者 土屋 美明、 出版 花伝社

 ジャーナリストの立場で、一貫して裁判員制度に関わってきた著者が、自戒の念をこめて報道の在り方について整理し問題提起しています。次々と出版していく著者のバイタリティーには改めて感銘を受けました。
 国民が司法に参加する意味は主として三つある。第一に、国民の間に主権者としての意識が育っていくこと。第二に、自ら犯罪を裁くという体験を通じて国民に法的な意識が高まることが期待できること。第三に、これまでプロの法曹によって動かされてきた司法に国民の常識・感覚が生かされ、司法が国民に身近な存在に変わること。
 アメリカの新聞社では、経営権と編集権は区別され、経営者は編集に口出しできない慣行がある。しかし、日本では編集権は経営権に従属している。取締役会など、経営管理者の意向に従わなければならない構造ができている。それで、日本には自由なジャーナリストとしての職業観が育たず、また、現場記者の発言権が弱い状況を生み出している。
 日本には、EUから強く廃止を求められている記者クラブという制度があり、その結果、日本の新聞はどれをを読んでも変わり映えのしない記事が載っていて、画一性が強すぎる。記者クラブも最近は、かなり開放度がすすんだとは思いますが…。
 そして、メディア・スクラム(集団的過熱取材)という現象がある。大きな事件や事故が起きると、その当事者や関係者のもとへ多数のメディアが殺到し、それらの人々のプライバシーを不当に侵害し、社会生活を妨げ、あるいは多大な苦痛を与える状況を作り出してしまう。そうなんです。しかも、一過性の集中豪雨型の報道です。後追いの報道がサッパリありません。
 アメリカには、国民の中に、刑事裁判は常に正しいとは限らず、不公正なものでもあり得るという一種の皮膚感覚がある。アメリカの陪審制度は、国家権力は時に市民的自由を侵す危険性があるという裁判への不信感を背景にもっている。では、日本では、どうか?
 マスコミは、事件についての加害者報道に関し、前科・前歴は抑制的に扱う、事件や疑惑との極めて密接な関連性、読者の理解に不可欠で報道すべき特段の事情がある、必要最小限度の範囲という条件を課している。
 具体的には、情報の出所を示す。弁護側への取材につとめ、その言い分を報道し、できるだけ対等な報道を心がける。被疑者・弁護側の言い分を安易に批判・弾劾しない。しかし、弁護士のなかにも、情報提供に消極的な姿勢を見せる人がかなりいる。ただ、これには法律改正によって、開示証拠の目的外使用を処罰する規定が置かれたことも影響している。
 著者は、メディアも『真相解明幻想』から卒業することを提唱しています。
刑事事件の捜査・裁判は、刑事訴訟法のルールに従い、その限りで被疑者・被告人の犯行を立証する手続にすぎない。刑事裁判には、もともと限界がある。捜査当局による真相解明に期待しすぎると、かえって検察主導の司法を容認することになりかねない。かといって、裁判官の訴訟指揮による真相解明を期待するのも、被告人の起訴事実の有無を判断するという刑事訴訟法本来の趣旨から少し外れてしまう。真相解明は、刑事事件の法廷とは別の場で行うものと考えるべきではないか。
 著者の最後の指摘が私には強く印象に残りました。ともあれ、マスコミ報道の洪水のなかで、市民参加型の裁判員裁判がやがて実際にスタートします。私は、ぜひ成功させ、刑事手続きの画期的改善につなげていきたいと考えています。たとえば、被疑者段階の取り調べ過程を全部、録画するのです。これによって、弁護人は無用の争点にしばられることが少なくなると思います。司法改革が全面的改悪だというのは、いくらなんでも大げさすぎると私は考えています。

(2009年5月刊。2000円+税)

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