弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2009年6月 8日
マラーノの武勲
アメリカ
著者 マルコス・アギニス、 出版 作品社
17世紀、南米はアルゼンチンにおけるカトリック教会の異端審問の実情、そして、それに耐え抜いたユダヤ教徒の生涯を描いた本です。上下2段組みで、500頁を超す大作。決して読みやすい本ではないのですが、辛抱して読んでいると、実にすばらしい、知的刺激にみちみちた本だということが分かって、読書の楽しみを堪能させてくれました。
武勲という言葉からは、戦場で騎士が華々しく刀剣をかまえて戦うという内容を想像してしまいますが、この本では、その期待はあっさり裏切られます。いつまでたっても戦闘場面は出てきません。そうではなく、すさまじいばかりの精神的たたかいが親子二代にわたって繰り返されるのです。それは、新カトリック教徒、実は偽装転向したユダヤ人の、生存をかけた戦いなのです。その凄まじさには思わず息をのみます。アルゼンチンのユダヤ人である著者が、17世紀の実録をもとに小説化したものだけあって、すごい迫力にあふれています。
異端審問所の職権濫用は目に余った。巧みな策略と恐怖を武器に、王の勅令を手にして、次から次へと排他的利権を獲得していった。その横暴ぶりは度を越している。異端審問所は、組織の一員となるだけで、天使の位につけるという、盗賊のような集団であった。
イエスやパウロ、その他の使徒はみなユダヤ人であった。キリスト教徒はそのことに耐えられず、認められない。だから、イエスたちがユダヤ人であることを忘れて崇め、ユダヤの血を尊ぶ人々との間に眩惑の境界線を引いて差別し、絶滅させようとする。
自分の意志に反して洗礼を受けさせられた者は、心からその信仰を信じられるものではない。まるで、誰かに対して忠誠を誓うことを要求するようなもの、それも、本人の代わりに他人がそれをするようなものだ。それなのに、一度たりとも忠誠を誓った相手に忠実でなかったという理由で、今度は背信者と呼ばれる。
ユダヤ人として生きることは、徳の道を歩むのと同様、容易なことではない。ペルー副王領内では、多種多様な権力、世俗、教会、異端審問所、修道会のあいだに皮肉な抗争が繰り広げられていた。これは万人周知の事実だった。
ユダヤ人は、死者の遺体をぬるま湯で洗い、可能なら純粋なリンネルの白布でくるむ。埋葬後には手を洗い、塩をかけずに固ゆでの卵を食べる。卵は生命の象徴とされているからだ。ゆで卵は移りゆく生命とユダヤ民族の抵抗の象徴である。ほかのものと違って、ゆでるほどに固くなるからだ。同時に、卵は服喪に欠かせない要素であり、近親者を埋葬したあとにも、これを食する。
ユダヤ人は、敵すら憎んではならない。なぜなら、すべての人間は神の姿を映しているという前提があるから。
イエス・キリストは生粋のユダヤ人だった。母親がユダヤ人で、何世紀も続いた純粋なユダヤ人の子孫で、ユダヤの割礼を施し、ユダヤの習慣を身につけ、ユダヤ人のあいだで暮らし、ユダヤ人たちに説教をし、ユダヤ人の身を弟子にした。だから、キリストは、まさにユダヤの王に他ならない。
改宗の強要は道徳上の暴力である。考えたり、信じたりする権利は、みな同じはず。その信念が神に対する罪なら、それを裁くのは神の仕事のはず。異端審問所はそれを横取りし、神の名のもとに数々の残虐行為を働いている。恐怖に基づいた権力を維持するために、改宗したと装うことさえ強要する。
人間としてのキリストには心が動かされる。犠牲者であり、従順な神の子羊であり、愛であり、美でもあったキリストには。しかし、神であるキリストは、ユダヤ人を迫害の対象とし、その名のもとに不公平な扱いを受けている者にとっては、猛威をふるう権力の象徴としか映らない。兄弟たちを密告し、家族を見捨て、祖先を裏切り、自分の信条をも焼きつくすことを強要する象徴にしか。
唯一の真理なるものを強制するのは、傲慢で無益な行為ではないか?
主人公は、キリスト教会に対して、このように問いかけるのです。すごい問いかけです。
そして、主人公は1639年1月23日、リマの異端審問所の主催によって、他の囚人10人とともに火刑に処せられたことが記録に残っています。このリマの異端審問所は、1569年から1820年までに1442人を処罰したのですが、そのうち32人に死刑を執行しています。この建物は今も現存していて、いまでは宗教裁判所博物館として一般公開されているそうです。
キリスト教が博愛の宗教だなんてとても思えない、すさまじいばかりの迫害の歴史がいやになるほど語られています。
(2009年2月刊。4800円+税)
2009年6月 7日
江戸の絵師、暮らしと稼ぎ
江戸時代
著者 安村 敏信、 出版 小学館
この本の初めに、カラー図版の絵があり、江戸時代の豊かな文化を堪能することができます。ここでは、上方と江戸の元禄期を代表する2人の絵師、尾形光琳と英(はなぶさ)一蝶(いっちょう)が紹介されます。
尾形光琳は、その生涯のうちに正妻をふくめて6人の女性に7人の子どもをもうけた。2番目の子を生んだという女性から、光琳は認知を求める訴えを起こされた。それで、家屋敷1ヶ所と銀10枚のほか、前年の「飯料」として銀500匁、諸道具・畳などを差し出して示談にし、そのかわり子が成人しても光琳の息子と主張しないことを認めさせた。
うむむ、江戸時代にも認知請求の訴が起こされていたのですね。
英一蝶は47歳から12年間、三宅島に流罪となった。しかし、江戸での人気は高く、江戸商人が島へ画材を送り込んで、さまざまな風俗画を描かせて、江戸で売りさばいた。
江戸では流人となった一蝶の絵を求める人々がいた。絵具や紙・絹は江戸から送り込まれた。利にさとい江戸商人は、三宅島に一蝶画を買い付ける手を伸ばしていた。
一蝶は江戸に戻ると、最上層の町人である樽屋新右衛門の字での振舞いに招かれ、また、お大尽の奈良屋茂左衛門の吉原遊興につきあい、幇間として完全復帰している。さらに、伊紀国屋文左衛門にも取り入っていた。
すごいですね。江戸の町人文化のたくましさを改めて実感させられます。
円山応挙(まるやまおうきょ)も日銭を稼ぐため、見世物小屋の眼鏡絵(めがねえ)を描いた。ふむふむ、武士も町人もそれなりにのびのび活動していたのです。
江戸時代、女性も多くが絵筆をとっている。そうなんですか……。
葛飾北斎は、生涯に93回の引っ越しをした。身なりも気にせず、粗末な家に住んだ。江戸時代の私生活を知る上で、視覚的にも参考になります。江戸時代の人々が必ずしも生活に窮々としていたわけではないというイメージを具体的に持つことのできる本です。
(2009年2月刊。1600円+税)
2009年6月 6日
平壌で過ごした12年の日々
朝鮮
著者 佐藤 知也、 出版 光陽出版社
戦前、4歳のときに朝鮮にわたり、戦後、16歳のときに日本に帰国した日本人が、最近77歳になって過去を振り返った本です。しみじみとした口調で朝鮮における少年・青年記の生活が語られています。
日本の敗戦後、朝鮮の求めに応じて、1000人もの日本人技術者が北朝鮮に残留していた。彼らは真面目に北朝鮮の産業復興につとめ、技術協力した。しかし、アメリカ軍と対峙して緊張をつのらせていたソ連占領軍から睨まれ、ついには反ソ運動を名目として幹部が逮捕された。
著者は、朝鮮にいて、日本の敗戦まで、ほとんど朝鮮人と交流することはなかったと言います。そして、敗戦後の朝鮮に突如として気高く気品ある美女があちこちにみられたことに腰を抜かさんばかりに驚くのでした。日本人少年は、朝鮮人に対して根拠のない差別意識、優越感に浸っていたわけです。
終戦までの朝鮮における生活の日々そして敗戦後の大変な生活の様子が淡々と描かれていて、状況がよく理解できました。
玉名市であっている「しょうぶ祭り」を見てきました。玉名を流れる大きな高瀬側の北側に、細い流れがあって、そのそばがしょうぶ園のようになっています。川面に板で歩道ができていますし、古い石橋など大変風情があります。
肥後しょうぶは江戸時代、武士たちが丹精こめてつくり上げたものだと聞いています。薄紫色の花が多いのですが、白に薄紫色の筋が入った花など気品あふれる美しさです。
しっかり堪能してきました。
(2009年2月刊。1524円+税)
2009年6月 5日
戦争詐欺師
アメリカ
著者 菅原 出、 出版 講談社
イラク侵攻作戦を指揮したトミー・フランクス中央軍司令官(当時)は、ダグラス・ファイス国防次官(当時)について、「地球上で最低のくず」と自伝の中でののしった。このようなブッシュ政権内の対立は、単なる路線対立ではなく、血なまぐさい内部抗争だと言った方がいい。
うひゃあ、す、すごいですね。ここまで言うか、と思うほどの悪罵が投げつけられたんですね。それほどの怒りとストレスがブッシュ政権内にわだかまっていたのでしょう。
コリン・パウエルはアメリカ陸軍の正統的な考え方の持ち主である。現代アメリカ陸軍の考え方は、ベトナム戦争の教訓を色濃く反映しており、軍事力の行使には非常に消極的である。軍事力の行使には明確な政治目標があること、国民の広い支持があること、そして何より圧倒的な兵力を投入することを原則とする。アメリカ陸軍の主流は、日本人が考える以上に、軍事力の行使に消極的である。なるほど、そうなんですね。
ネオコンとは、もともと、1960年代に極端に左傾化した民主党についていけなくなり、共和党の保守陣営に鞍替えしたタカ派の旧民主党員のことをさす。
超タカ派のネオコンにとって、CIAのイメージは、軟弱、敵の脅威の見積もりが甘い、リベラルな学者、危険を犯さず、リスクをとらない官僚集団、という非常にネガティブなものばかりである。
イラク戦争の前にパウエルもブッシュもイラクに大量破壊兵器があると高言した。しかし、まったくの間違いだった。なぜか?
拷問によって特定の「証言」を引き出そうとした尋問官、ねつ造情報を売却して一攫千金をもくろんだ情報詐欺師、アメリカに恩を売って政治的立場の強化を図ろうとした外国情報機関、裕福な亡命生活を夢見て嘘に嘘を重ねたイラク人亡命者、自分たちの存在意義と自己正当化に固執した情報分析官など、「インテリジェンス」(情報)の世界でうごめく人間たちの実に生々しい、そしてきわめて人間的な営みが、そこにあった。
イラク侵略戦争のとき、アメリカ軍の制服組は40万人の兵力の投入が必要だと考えた。そこでは戦闘と、その後の占領も考慮に入れられていた。しかし、ラムズフェルド国防長官(ネオコン)は、アフガン戦争型の小規模で機動的な部隊の運用、早さと奇抜さにもとづいた作戦に必要な7万5000人の兵員と考えていた。
そして、将来のことなんて、誰にもわからないのだから、いちいち計画を立てていても仕方がないという乱暴な議論が横行していた。
今なお、自爆テロの絶えないイラクの状況を考えると、アメリカによるイラク侵攻作戦と、それに加担し続けている日本政府の誤りは、ひどいものがあると思うのですが、日本の世論もマスコミも、その点では、あきらめが先行しているせいか、ほとんど盛り上がりません。残念です。
東京に行ったとき、珍しく空き時間ができたので、有楽町近くの地下街に地方物産展があるのを見つけて、ふらふらと入ってみました。さすがは東京です。全国のちょっと気の利いたものが所狭しと並べられています。そんななかに、生せんべいというのを見つけました。なんだろう。そんなもの食べたことないぞ。手に取って見ると、ずっしりとしています。お餅みたいです。値段は手ごろですので、迷わず買いました。
自宅で食べてみると、ちまきと同じ味がしました。もち米ではないので、生せんべいと名付けたのでしょうか……。
愛知県半田市の特産品と書いてありました。
(2009年4月刊。1800円+税)
2009年6月 4日
島津久光・幕末政治の焦点
日本史(江戸)
著者 町田 明広、 出版 講談社選書メチエ
島津久光こそ、幕末の中央政局に絶大な影響をあたえ、回天の梃子を演じていた。
この本は、このスタンスで島津久光にスポットライトを与え、その実像を浮き彫りにしています。
江戸幕府創世記を除き、三代将軍家光以降の将軍家は、御台所を基本的には皇族ないし摂関家から迎えており、大名からの入輿は2例しかなく、そのどちらも外様大名である薩摩藩・島津家からである。この事実は、薩摩藩の勢威・家格を著しく高めた。島津斉彬の権勢の源泉は、将軍家との縁威にあった。
文久期以降、薩摩藩が幕府以上に調停工作を得意としていたのは、近衛家との濃密な関係を前提として、絶対的な利益代表を有していたからである。
島津久光は、藩主の座に就いたことはなく、藩主茂久の実父でしかなかった。つまり、久光の政治的基盤は、実は非常に脆弱だった。当時の薩摩藩は、島津家一門が家老職を頂点とする要路を占めており、必ずしも宗家の意向通りに反省は動いていなかった。斉彬といえども、彼らの意向を完全に無視して藩政をすすめることはできなかった。
久光は国父となって人事権を掌握すると、藩内基盤強化に向けて島津豊後派、日置派要路の更迭を繰り返した。その一方、久光四天王を登用し、側近体制の確立につとめた。なかでも、小松帯刀(たてわき)は驚異的な出世を続け、家老となり、御側詰となって、薩摩藩の軍事・外交・財政・産業・教育等の指揮命令権が小松に集中した。
小松28歳、青年宰相が誕生した。小松は幕末期、大久保・西郷以上の存在であり、両雄は小松の指揮下にあった。中央政局においては久光の名代として活躍した。
文久2年(1862年)、久光は1000人の兵、野戦砲4門、小銃100挺とともに京都に上った。無位無官で、藩主でもなく、対外的には無名に近い久光自身の権威発揚の意図もあった。藩主の参勤交代並みの威儀を正して、しかも江戸ではなく京都を目指したことに特異さがあった。
久光の京都滞在を許すにあたって、朝廷は浪士鎮撫を条件とした。寺田屋事件(1862年4月23日)は、久光を擁して統幕挙兵を西国志士らと画策する有馬新七らの薩摩藩尊王志士を、久光によって派遣された鎮撫使が寺田屋において鎮圧した事件であり、これによって朝廷における久光の声望は大いに高まった。
寺田屋事件は、単なる薩摩藩内の抗争事件でも、久光による示威行動でもない、非常に重要な要素をさまざまに含んだ幕末政治史そのものである。
西郷隆盛は、久光が上京する直前に久光に会っている。復職が認められたうえでのことではあるが、このとき久光に対して、「地五郎」(田舎者)であると言い放った。殿様育ちの久光が、この無礼で歯に衣着せぬ西郷の言動に堪えたのは、西郷の誠忠組における声望の高さ、誠忠組のリーダーでもある側近・大久保の推薦を無視することは、誠忠組の勢威を利用しようとする久光にとって得策ではないこと、それ以上に率兵上京そのものに悪影響を与えかねないとの判断によろう。
長州藩にとっては、この寺田屋事件こそが藩是を破約攘夷に転換し、中央政局進出への発火点となったし、薩長両藩が反目する直接的起因ともなった。
寺田屋事件を契機に、天皇の絶大な久光への信頼が確立し、中央政局におけるその存在感は一躍すべての勢力から無視できないレベルに達した。これ以降、久光の意向や動向を気にしなくては、どの勢力も政治的には身動きが取れなくなった。久光時代の到来である。
しかしながら、久光は京都に長く滞在することはできず、江戸に行った。そして、同年8月、生麦事件が発生した。江戸から京都へ戻ろうとした久光一行の行列に対して、リチャードソンら英国人4人が、非礼であることを承知のうえ、乗馬のまま久光の駕籠近くまで乗り入れたことに起因する。当然のことながら、主君を守ろうとして、久光の家臣たちが英国人を斬りつけた。久光が命じるまでもなかった。しかし、このことによって、意に反して久光は攘夷の権化のように世間から祭り上げられることになった。
そして、イギリス軍が薩摩を攻撃するとの情報を得て、久光は江戸にも京都にもおれず、薩摩に戻らざるをえなかった。文久3年(1863年)7月に、薩英戦争が勃発した。
以下、省略しますが、久光に焦点をあてた幕末史として、目新しい視点があり、大変興味深く最後まで読みとおしました。
(2009年1月刊。1600円+税)
2009年6月 3日
セブン・イレブンの真実
社会
著者 角田 裕育、 出版 日新報道
私はビジネス書にも関心があり、セブン・イレブン躍進の理由を知りたいと思って、鈴木敏文会長の本を何冊も読み、ここでも紹介してきました。この本は、逆にセブン・イレブンの闇をあばくことを企図した本です。
実は、私の実家も小売酒屋をしていましたが、父が病気になって引退したとき、若い人に営業権を譲ったのですが、その若い人は数年後にセブン・イレブンに転身してしまいました。
小売酒屋のときには好きな釣りに行くヒマがあったけれど、コンビニのオーナーになったら、とてもそんなヒマはなくて大変だ、とボヤいているという話を間接的に聞いたことがあります。なるほど、聞きしに勝るすさまじい労働実態です。
前職は酒販店などの自営業者だった人たちが昔は多かったが、バブル崩壊後は脱サラ組が主流だ。
オーナーたちの労働形態でオーソドックスなのは、夫婦ふたりで、奥さんは昼間、御主人は夜中に入るというパターン。コンビニの従業員は大半がアルバイトだが、無断欠勤する不届き者もいるし、急に休む人間もいる。そんなときにはオーナー自らレジに立たざるを得ない。
もうかっていない店でも、最近では43%のチャージ(ロイヤルティ)を取られる。もうかっていると、最高76%ものロイヤルティーがとられる。
店を辞めたいと言い出すと、契約(15年契約が多い)途中なら赤字店で数百万円、黒字店だと数千万円の違約金が請求される。うへーっ、す、すごい大金です。これではうかうか止められませんよね。
セブン・イレブンで出店するのには、AタイプとCタイプがある。Aタイプは、ロイヤリティは43%と低いが、それは最初に5000万円ほどの出資が必要だから。
Cタイプは脱サラ組に多く、初期投資は300万円で済む。本部が店舗の土地・建物を用意してくれる。ただし、ロイヤリティ(チャージ)は月56%~76%と高い。
そして、ここでロスチャージがのしかかる。ロスチャージとは、廃棄や万引きなどでロスになった商品も帳簿上の「売上総利益」という利益項目に組み込まれて、実際に売れた商品と同様のチャージ(ロイヤリティ)が引かれるという仕組み。これが、セブン・イレブンの異常な高収益の秘密の一つとなっている。
コンビニの日販(一日の売り上げ)は、低いところでは20~30万程度。60万円とか70万円を超える店は少ない。
オーナーの親が死んでも店は閉められない。
賞味期限切れ間近の商品をオーナーの独自の判断で値引き販売することは認められていない。
後入れ、先出しを鈴木会長は提唱するけれど、それで成功している店はない。
おでんは5時間くらいで期限が切れることになっているが、実際には守られていない。そして、8時間ごとに容器を洗浄することになっているが、実行している店はほとんどない。
たしかに、レジの隣にあるオデンはむき出しですから、不衛生といえば不衛生ですよね。余計な添加物がたくさん入っている気もしますし……。
コンビニだらけの日本ですが、本当にそれでいいのか、この本を読むと改めて疑問を感じてしまいました。といっても、もはやコンビニしかない、選択の余地はない、という現実があるのですよね。悩ましい現実です。
東京に泊まって、ホテルの近くにある洋風居酒屋で一人夕食をとりました。6年前、この店は私の行きつけの店でした。久しぶりに行ったのですが、当時も今もサラリーマンでいっぱいです。はじめにタコのカルパッチョを頼みました。さっぱりした味わいです。次に、細切りジャガとチーズ焼きを注文します。店の女性が一人前だと多すぎるでしょうから、半人前にしますかと訊いてきましたので、そのようにしてもらいます。やがて熱々の皿が運ばれてきました。ピザに似てますが、もっとボリュームです。赤ワインをちびりちびり飲みながら食べます。一息ついたところで持参した『源氏物語』を読みすすめます。次に、同じようなものになってしまいましたが、チヂミを頼みました。これも半人前です。チヂミを食べると、つい釜山で食べた有名な店を思い出します。少しずつ注文していきます。ワインの方もちょびちょび飲んでいきます。
メニューを眺めると、なんと梅干しのカラアゲというのがあります。食べたことがありません。えい、チャレンジしよう。運ばれてきたのはまさしく唐揚げです。タネがありますのでガブリとしないでくださいと注意されました。ハチミツ味で肉厚の大粒紀州梅を薄ころもに包んでカラリと揚げています。甘酸っぱく美味しい梅干しを4個も食べて、すっかり腹がくちくなりました。仕上げはサラダです。
冷たいのより、温かいものはないかとメニューを探してみると、ありました。ベーコン入りキャベツの温サラダです。これまたアツアツのキャベツいためにベーコンが混じり、たっぷりマヨネーズがかかっていて、うひゃあ、いけますね、これって……。それでも、カラフェの赤ワインを少し残すたしなみはわすれることなく、店をあとにしました。ごちそうさま。
(2009年2月刊。1400円+税)
2009年6月 2日
ホーチミン・ルート従軍記
東南アジア
著者 レ・カオ・ダイ、 出版 岩波書店
ある医師のベトナム戦争(1965~1973)というサブタイトルがついています。私が高校生、大学生そして司法修習生であったころ、あの過酷なベトナム戦争に従軍医としてジャングルのなかで戦った体験記です。先に紹介した「トゥーイの日記」(経済界)は若くして戦死してしまった女医の従軍日記でしたが、著者は幸いにもベトナム戦争を生き延びました。
400頁近い大作ですが、東京そして秋田へ向かう飛行機のなかで、私は一心不乱に読みふけり、いつのまにか目的地に着いていたのでした。
本書の全体を知るために、オビの解説をまずは紹介します。
ハノイ第103病院に医師として勤務していた著者は、1965年、南の最前線であるラオス・ベトナム・カンボジア国境にまたがる中部高原戦線に特別の病院を建設する任務を命じられた。翌1966年、ホーチミン・ルートを行軍し、広大なジャングルに潜む野戦病院で医療行動を始めた。そこには、食糧・物資の欠乏、膨大な病死者そして戦死者、敵の猛襲のなかで、頻繁な病院の移転。これまで知られてこなかったホーチミン・ルートにおけるベトナム戦争の真実、ベトナム解放を戦った側の苦難の日々を卓越した観察力で描いた驚異のドキュメント。いやあ、本当に苦難、苦悩の日々です。たまりません。
兵士が誇らしげに「インドシナを貫く戦略道路」と呼ぶホーチミン・ルートは1000キロメートルをこえる道路網からなる。ベトナム・ラオス・カンボジア国境にまたがるチュオンソン山脈の森林を縫う。1959年5月に貫通した。自動車道路があり、徒歩ルートが数キロメートル離れて並行して走っている。中継所キャンプの間隔は、徒歩で8、9時間だったが、その後5,6時間に短縮された。兵士は、自分の食べるお米を7日から12日分も携帯する。荷物を軽くしたいが、食べるものがなくなったときのことが心配だ。腹いっぱい食べたければ、重い米袋を担ぐしかない。そして、追わねばならない米があるのは幸せなのだった。
ジャングルのなかには毒キノコがあり、空腹のあまりに食べて喚き狂いながら森の中へ走り入る兵士がいた。
ホーチミン・ルートの山と谷は、有毒な化学剤で裸になったものが多い。見事な緑の葉が数日のうちに褐色になって落ちる。
徒歩旅行は、通常4、5日続け、その後一日休息する。休息日は水浴と洗濯だ。そのときの楽しみは将棋とラジオだ。ラジオは親友のようなもので、戦場で置き去りにすることはできない。早朝から寝るまで、誰もがラジオを終日聴く。どんな番組でも、選り好みはしない。
ジャングルにはダニがいる。ダニを引き抜かず、尻を火に近づけると、ダニが熱さのために這い出て来る。それをつかむ。皮膚を焼かずにダニを焼くのがコツだ。
森で道に迷うのは、初めて中部高原に足を踏み入れた者にとって恐怖の的だ。
ジャングルが空襲されたとき、倒れていると、黒い大蛇が一匹、太さは腿ほど、竹のように長い奴が、頬をするすると這って森の中へ逃げて行った。
ジャングルでは食料が乏しい。一か月以上も肉を食べていない。猿(テナガザル)や象を仕留めて食べる。環境保護を尊重するより、野生動物は貴重な栄養源だった。ニワトリを飼っているが、森一帯に響く雄鶏の鳴き声は、敵の注意を引くので、注意を要する。
病院の設営にあたっては、居住部の部屋は少なくとも30メートルの間隔をとる。そして、一軒の丸太小屋に人々は6人をこえない。各科主任は別々の小屋に住む。一発の爆弾で、指導部全員を失わないための配慮だ。病院は患者で満員で、常時600人から800人いて、毎日増える。そして、マラリアで毎日4.5人ずつ死んでいく。
食料を入れた倉庫は、20日行程も離れている。指揮官は、階級に応じてミルクと砂糖を配給された。歩兵大隊長あるいはそれ以上の中級将校はミルク2缶と砂糖0.5キログラム。中隊長以下の下級将校はミルク1缶と砂糖300グラム。普通兵士はミルクや砂糖がなく、他の品も配給が少ない。
直面する最大の難問は、爆弾や銃弾による負傷ではなく、病気だ。中部高原はマラリアの風土で加えて食糧不足、引き続く重労働、それにアメリカ軍による有毒枯葉剤撒布の影響もあって、健康を損ねる。著者自身、マラリアにかかって震えながら外科手術を執刀した。戦場で死はたやすく忍び込む。中部高原での死因には32種類あった。多いのは、病気、爆弾、銃弾、倒木、溺死、毒蛇、毒キノコ、象、味方同士の誤射だった。爆弾、銃弾による負傷兵は、病院の患者の10%にすぎない。食糧不足とマラリアのはびこる環境による病気が多い。
ハノイから送った1028個の梱包のうち、前線で受け取ったのは、わずか100個ほどにすぎなかった。しかも、なんと小説とか子供服といった不要不急の物が多くあった。
森の中の少数民族は、「刀手二つの距離だ」と言う。これは、一方の手で刀を持っている間が距離を測る単位だということ。つまり、刀を一方の手で長くもっていて疲れると、一方の手に変える。これが距離の一単位となる。うへーっ、な、なんという距離の測り方でしょうか……。
ジャングルの中でも、恋は芽生える。しかし、恋愛も結婚も、出産も、みんな延期すべし。これが政策だ。妊娠したら中絶するしかない。それでも、認められて結婚式をあげるカップルもいた……。
「さらし者の子牛たち」。南の戦場へ行く途中で脱走し、後方へ戻される途中の若者たちを指す言葉。生涯を戦争に捧げる者がいる一方、嘘をついて逃げ、病気を過度に重くいう者がいた。うひゃあ、私なんか、この「さらし者の子牛」になった組ではないかと恐れます。
カルテの紙がなければ、缶詰のラベルをはがして使う。竹の薄皮もつかえる。部品を集めてX線装置を組み立てる。自転車を看護師の女性がこいで、その灯で手術をする。発電機を動かすガソリンがないから、水力発電所をつくる。注射器やアンプルが欠乏したので、ガラス工場をつくる。敵の武装ヘリコプターをライフルで撃ち落とす。負傷兵に医師が自分の血を輸血する。
すさまじいジャングルのなかの戦いが生々しく描かれています。ホーチミン・ルートの実情が、先の『トゥイーの日記』とあわせて、よくよく理解できました。よくも、こんな過酷な戦場から生還できたものです。ベトナム戦争に関心のある方に一読をおすすめします。
(2009年4月刊。2800円+税)
2009年6月 1日
カラカウア王のニッポン仰天旅行記
日本史(明治)
著者 荒俣 宏(訳)、 出版 小学館文庫
ハワイの王様が、明治時代の日本を訪問したときの見聞録ですが、目新しい話が盛りだくさんでした。
ときは明治の初めころです。ハワイにとても陽気で学問好きの王様がいました。カラカウア王といいます。いまも日本で流行のフラダンスを復活させた王様でもあります。
カラカウア王は、カメハメハ大王によって成立したハワイ王国の最後の王です。その死後、妹のリリウオカラニ女王が誕生したのですが、アメリカ人がクーデターを起こし(1893年)王位を追われ、ハワイはアメリカ合衆国に併合されてしまいました。
そして、このカラカウア王は世襲で王様になったというより、議会の投票によって民主的に選ばれた王様なのでした。ちなみに、先代のルナリロ王も選挙で選ばれています。日本でも幕末のころは、選挙でこそありませんが、将軍は有力幕臣が話し合って決めていたことを思い出します。
投票したのは立法府の議員、場所はホノルル市裁判所。カラカウアが39票対4票の大差でアメリカべったりのエマ妃を破ったのでした。
白人が持ち込んだ病気によって、ハワイに住んでいたポリネシア人が次々に亡くなり、1778年に38万人いたのが、100年後には4万5000人になっていたのです。
1881年(明治14年)3月、カラカウア王様御一行は江戸湾に入り、明治政府から盛大なる歓迎を受けたのでした。
日本人は、フランス人のシェフがつくる料理なら何でも真似てつくれる。ただ、肉と野菜はヨーロッパのよりも味が落ちる。
むふふ、これって、なんだか現代日本のフランス料理ブームを皮肉っているように聞こえてきますよね。つい、おかしくって笑ってしまいました。
カラカウア王は、明治天皇と会い、肩を並べて歩いたりしています。
明治政府がハワイの王様を最大限のもてなしで処遇したのは、欧米列強に押しつけられていた不平等な条約を改正したいという願望があったからでした。そして、日本政府の願望をハワイの王様はいち早く受け入れてやったのです。
ハワイ政府は、条約問題に関して、日本帝国の主権を十分に理解し尊重し、現在の条約における治外法権的権利から生じる特権を、すべて放棄する。
明治政府は、この対応に大喜びしたのです。そして、カラカウア王は、明治天皇に対して、縁結びを提案したというのです。王の姪で、王位継承者であるカイウラニ姫を、明治天皇の親戚の親王の一人(東伏見宮彰仁親王)と結婚させようとしたのです。
明治天皇は返事を保留して、御前会議を開いて検討しました。賛成意見が大勢を占めた時期もありましたが、天皇家に国際結婚の例がないこと、アメリカとの関係悪化を恐れて、翌年、正式に断りの返事を出しました。
このとき、ハワイの王家と日本の皇室との結婚が成立していたら、ハワイ王国がアメリカに併合されることはなかったかもしれない。著者はこのように書いていますが、果たしてどうでしょうか……?
日本の政治家は、世界に出しても立派に通用する能力を持っているなどと高く評価されています。この点は、現代日本とまるで違いますね。
ろくに漢字も読めず、一時的なバラまきはしても、相変わらずアメリカのいいなり、というか、アメリカが核廃絶を提唱しても、それに賛成するどころか、唯一の被爆国であることも忘れて、アメリカに核の傘をなくさないようにと、ひたすら嘆願しつづける哀れな政府です。日本政府が世界平和のためのリーダーシップを発揮するのは、いつのことでしょうか。こんなていたらくなのに、常任理事国にだけは立候補し続けようというのですから、呆れたものです。絶版になっていた本なので、インターネットで注文して入手しました。
歩いて5分とかからないところにホタルが飛び交うところがあります。今年はそこがホタルの里と名付けられて整備され、土曜日の夜、ホタル祭りがありました。
行ってみると、例年以上に人が出ています。子ども連れの家族が押し寄せてきていました。携帯でパシャパシャとフラッシュをたきながら写真を撮っています。ホタルはうつらないんじゃないかなと心配もします。それより、ホタルがフワリフワリと明滅しながら空中を漂っている様を味わうべきと思うのですが、これは独りよがりでしょうか……。
ホタルより見物の人間のほうが多いかなという冗談が冗談でないほどの人出でした。
ホタルの里と整備されたというのは、道の両側に切った竹筒を並べ、その中にローソクを灯しておいたり、昼間は花壇をととのえていたり、という環境がつくり上げられたということです。私の好みにはまったく合いませんが、地元の人たちが良かれと思ってやったというのなら、黙っているしかありません。
でも、あんまり人工的に整備しすぎるのは、大自然のなかをたゆたうホタルに似つかわしくない気がするのは私だけなのでしょうか……。
(2000年7月刊。676円+税)
2009年6月30日
日本大使公邸襲撃事件
社会
著者 ルイス・ジャンピエトリ、 出版 イースト・プレス
事件が起きたのは、今から13年前の1996年12月です。それから4か月(126日)後に、軍隊が突入して占拠集団は全員殺害されたのでした。この本は、人質となり、今やペルー政府副大統領となった人物が書いたものですから、占拠集団をテロリストとし、日本政府、そして人質となった日本人の行動を厳しく批判しています。占拠集団をテロリストと呼ぶのについては、私も否定するつもりはありません。しかし、果たして彼らの交渉の余地はなかったのか、また、逮捕して裁判にかけることをしなかったわけですが、本当にそれで良かったのか、という疑問があります。
それはともかくとして、この本は、フジモリ大統領の強引な救出作戦の内幕を肯定的に紹介しています。
公邸に監禁された人質のなかには、ポケベルを持ちケータイを隠し持っている人たちがいた。もちろん、それで外部とひそかに連絡をとった。
公邸の人質のなかには、フジモリ大統領の母や姉などの親族もいたが、MRTAは早々と解放した。フジモリ大統領は、初めから軍を突入させる作戦を考えていた。ただし、人質の予測死亡数が多い作戦は、政治的配慮から却下した。
赤十字が人道的見地から公邸内に運び込んだものには、盗聴用マイクが仕込まれていた。人質は当初600人ほどいたが、女性や公邸使用人など、150人が一番に解放された。次々に解放されていき、最終的に人質は106人になった。フジモリ大統領は公邸内の人質が減りすぎるのが面白くなかった。MRTAの負担は重い方がいいと考えていたからだ。
赤十字のほか、マスコミが公邸内内にやってきて、ひそかに盗聴器をあちこちに仕掛けた。いよいよ人質は72人となり、グループ別に部屋が指定された。著者たち軍人グループは、ひそかに脱出計画を立てた。しかし、テロリストに同調的な日本人たちがいるのを気にした。
MRTAのなかに、16歳と20代前半の女性もいた。彼らが人質と親しくなりすぎたことから、リーダーは警戒した。
フジモリ大統領は、公邸の地下トンネルを掘り進める作戦を許可した。鉱山の町から60人の坑夫を集め、8時間ずつ3交代制で作業を続けた。1月1日に掘削をはじめて、3月15日に完成を予定した。900トンの土地を地上に運び出すため、夜に少しずつトラックで運んだ。そのトンネル掘削音をごまかすため、公邸に向けて、4台の巨大スピーカーを休みなく大音量で流しつづけた。そして、公邸の実寸大のレプリカを作り上げ、公邸突入作戦の訓練を繰り返した。
地中にトンネルを掘りすすめていたところ、その地上部分に緑の帯がつくられていった。トンネル内の大壁に水を補給していたのが、地表面にまで浸み出して、雑草を育ててしまったのである。
うへーっ、そういうこともあるのですね。MRTAはこの地表の異変には気がつかなかったようです。
公邸に突入する突撃部隊は3つの支援班そして2つの後方支援班で構成された。それぞれ4人1組のエレメントである。合計して140人の兵士から成る。
特殊部隊はトンネルに入って2日間、待機させられた。総勢90人。腐った野戦食にあたって、ひどい下痢をする者が出た。そこで、トンネル内には湿気を防ぐカーペットが敷かれ、扇風機がまわされた。
4月22日。フジモリ大統領は、前妻から起こされた慰謝料請求の裁判のため、裁判所にいた。アリバイ作りである。そのとき、突入作戦が始まった。
ペルー国家側の言い分としては、そうなんだろうなと思いながら読みました。でも、本当に、降伏したMRTAを問答無用式に射殺したことはなかったのでしょうか。フジモリ大統領の強権的手法を考えると、やっぱり大いに疑問です。
この本のなかで、名指して批判されている元人質の小倉英敬氏の本『封殺された対話』(平凡社)もあわせて読まれることをおすすめします。
(2009年3月刊。1800円+税)
2009年6月29日
米原万里を語る
社会
著者 井上 ユリ・井上ひさし ほか、 出版 かもがわ出版
1950年生まれというから、私より2歳も年下なのに、残念なことに米原万里は3年前に亡くなりました。この本を読むと、本当に惜しい人を亡くしてしまったという思いに改めて駆られます。
九条の会の事務局長をつとめている小森陽一東大教授が、ロシアで米原万里の弟分だったことをこの本を読んで初めて知りました。
米原万里は、ロシア語はロシア人よりもよくできた。そして、なにより日本語がとても上手だった。だから、ロシア語の同時通訳は素晴らしかった。通訳の仕事は、言葉の勉強と、さらに通訳そのものの勉強をしない限り出来るものではない。
そうなんです。通訳はなにより日本語ができないとダメなのです。アメリカで日常会話レベルの英語が話せるというくらいでは、通訳はつとまりません。私も何回か、しどろもどろ、まったく趣旨不明の通訳に出会い、メモをとることが出来なかったことがあります。私のフランス語もそうです。なんとか聞き取れる程度ですから、通訳なんて、とてもとてもできるものではありません。いえ、私に冗談半分でしたが、通訳しろと言った友人がいたのです。
米原万里は、服装も派手で、化粧も香水もきつく、飾りもジャラジャラジャラジャラつけて、すごく大胆で、思いきっていて、力強いひとだという印象を与える。しかし、本当はずいぶん慎重な性格で、臆病なところがあった。なーるほど、ですね。
米原万里の父親は、米原いたるといって、共産党の幹部で、衆議院議員もつとめている。戦前、一高を放校になり、終戦まで地下に潜っていた。その実家は鳥取の大富豪、名家だった。だから、戦後、公然と活動を始めて選挙に出ると、鳥取で最高点で当選した。プラハに家族を連れて常駐したのです。
米原万里は、やっと小説を一作書いただけで、あの世へ旅立ってしまった。
米原万里は、小学生のときにプラハ(チェコ)へ行き、日本語が全く通用しない場所にいきなり放り込まれた。そこでは、ロシア語をしゃべれないと、自分が誰であるか何者であるかということも分からない状況があり、言葉がいかに重要なものであるか理解していった。若いころに、自分の言葉の危機を迎えた人は、言語に対してとても敏感になる。アイデンティティの危機と言葉の危機は密接につながっている。
しみじみと心に残るいい本でした。井上ひさしと奥さん(万里の実妹)の対談がとても面白く、興味をそそられました。
久しぶりに神戸へ行ってきました。
土曜美の夕方でしたが、三宮駅前の商店街の人の多さに圧倒されました。まっすぐ進めないほどの人出です。日本って景気いいのかなと思いました。
新神戸駅前に超高層マンションがいくつも建っていました。高所恐怖症の私には、とても住めません。値段も高いのでしょうね……。
(2009年5月刊。1500円+税)
2009年6月28日
マルクス資本論
社会
著者 門井 文雄、 出版 かもがわ出版
理論劇画。はじめて聞く言葉です。つまり、単なるマンガ本ではないということです。うむむ、あの難解なことで有名な資本論をマンガに出来るのか。そして、マンガにしたら理解できるのか。ハムレットのような問いを突き付けられます。
まあ、でも、マンガだとたしかに分かりやすいかな。そんな感触は得られます。
私も資本論には、これまで少なくとも3度、挑戦しました。大学生時代に一度、そして弁護士になって時間をおいて二度、挑んでみました。でも、やっぱり私には難しい本でした。頭にするするっと入ってくるような本では決してありません。著者が、思いっきり、渾身の力をふりしぼって語っている。そんな迫力にみちみちた文章が、はてもなく切りもなく続くのです。ですから、私も意地になって、少なくと3度は全巻を読みとおしたわけです。だけど、残念ながら理解できたとはとうてい思えませんでした。
マルクスが、生涯の友となったエンゲルスに出会ってまもなく書いた『共産党宣言』、これは私も大学1年生のときに読んで、なるほどと感心した覚えがあります。こちらは分かりやすい本でした。世の中の矛盾に目をつぶることなく、万国の労働者よ、団結して立ち上がれと呼び掛けていました。ぶるぶるっと、体中が震えてしまいました。非力でも、何とかしなくては、そう思いました。
この理論劇画は、資本論第1巻の大意をなんとか伝えようと奮闘努力しています。それでも剰余価値とか、等価交換とか、やさしいようで難しい言葉が出てきます。そして、労働力と労働の違いが語られます。この点は、なんとなく分かった気になります。
大洪水よ、我が亡きあとに来たれ。資本家は、ほおっておくと強欲な論理をむき出しにして、労働者を老いも若きも、女性までも非人間的扱いにして、踏みしだいてしまう。
まるで、今の日本と同じように、マルクス時代のイギリスでは、労働者の生命、身体が悲惨な状態に置かれていました。そして、御手洗氏の率いる日本経団連は、イギリスの強欲資本家の完全な直系の子孫です。ともかく、我が身の繁栄しか考えていません。いったい、キャノンの製品を買うのはロボットだとでも考えている人でしょうか……。せめてヨーロッパ並みの、ルールと節度をもった資本主義社会であってほしいものです。老後は年金をもらって、ゆったり生活できる。これを望むのは当然のことではありませんか。それをできなくする社会を生み出している今の日本の政治は根本的に間違っています。プンプンプン。
(2009年4月刊。1300円+税)
2009年6月27日
回復力、失敗からの復活
社会
著者 畑村 洋太郎、 出版 講談社現代新書
自滅パターンにはまりこんだ人には、ある共通点がある。それは、人は弱いという認識が欠けていること。窮地に追い込まれて大変な状況のときに心がけるべきことは、自分の出来ることをただ淡々とやり続けること。ただ、それがまた難しいのですね。心が乱れていますから……。
組織運営に外部の人間を参画させると、硬直した雰囲気を壊すひとつの有効な手段になりうる。内部の人間だけだと、どうしても客観性に乏しい。社会とズレた見方になってしまう。そうなんです。私の参加する会議の一つに、たまらなく暗くてかたい雰囲気のものがあります。お互い、けなしあうだけで、相手の成果を認めようとしないのです。いるだけで、くたびれる会議です。出なくて済むときには、心底ほっとします。
ピンチのときのポイントは、ひとりだけで荷物を背負ってはいけないということ。
私は、やったー、失敗したー……というときには、それを誰か、気の置けない友人に話して吐き出してしまうようにしています。自分のうちにうつうつと籠らせないようにするのです。
自分のやっていることに自信を持つ。自信のない人は、ちょっと困難なことがあると、すぐに撤退してしまうので、結局は目標を達成できない。自信をもっていると、ちょっとくらいの困難ではめげないで、再チャレンジする。その差が、最後に結果として現れる。そして、この自信は根拠がなくてもかまわない。
大切なことは、失敗を前にして、自分が何をどう考えて、どう行動したかを後々までしっかり覚えておくこと。それが出来たら、自分の判断や考え方、それにもとづいた行動がどんなふうに間違っていたか、後で確認することができる。これは失敗を正しく理解するための基本である。そのようなことのできる人のみが、失敗に学ぶことができる。
手助けを受けられるのは、おそらく日ごろから愚直かつ丁寧に努力を続けている人である。うむむ、けだし至言だと思います。何事も謙虚であり、持続したいものです。
失敗なんかで死んではいけない。まさしく至言です。いい本に出会いました。
(2009年1月刊。720円+税)
2009年6月26日
ミレニアム2 火と戯れる女(上・下)
世界(ヨーロッパ)
著者 スティーグ・ラーソン、 出版 早川書房
スウェーデンの暗部をえぐり取る画期的なミステリー小説です。すでにスウェーデンでは第1部が映画化されているそうですので、一日も早く日本でも上映してほしいものです。上下巻の2巻を3日間、片時も離さず読みふけった、と言いたいところですが、そうもいきませんでした。それでも、3日間、片道1時間の電車がいつもよりずい分と早く目的地に着いてしまったと思わせるほど、本の世界にのめりこんでいて、時のたつのを忘れていました。目的地に着いて、なお読み終わっていないのです。そのまま喫茶店に入って、好きなカフェラテでも味わいながら、じっくり読みふけりたかったのですが、そうもいきません。何しろ、メシの種である裁判を放っぽらかすわけにもいきませんでしたし、主宰すべき会議もあったのです。それで、泣く泣くカバンの底に本を沈めて、真心を入れ替えて正業に就いたのでした。トホホ・・・男はやっぱりつらい。
開巻有得(かいかんゆうとく)
本を読めば、得るところがある。確かに、この本を読んで小説とはかくあるべしと思いました。いたるところに張られている伏線が、次々に生きて動きだし、話に膨らみを持たせるのです。
容貌魁偉(ようぼうかいい)
顔つきが大きく、立派なさま。この本でも、金髪の巨人、という男性が登場します。
勇猛果敢(ゆうもうかかん)
猛猛しく、大胆に事を行うさま。主人公の一人として名探偵カッレくんが登場し、大胆に犯人捜しにふみこみ、危険にさらされます。
駑馬十駕(どばじゅうが)
才能の乏しいものも、努力を怠らなければ、才能あるものと同じ実績をあげることができる。惜しくも若くして死んでしまった著者の才能は、まさしく天才的なものがあります。複雑に入り組んだ謎をひとつひとつ、無理なく、しかもスピード感たっぷりに解明していくのです。次の頁をめくるのがもどかしくなったほどです。私には、とてもこんな才能はありませんが、それでも、目下挑戦中の小説については、この様式を取り入れるべく、必死に挑戦しているところです。
嚝日弥久(こうじつびきゅう)
無駄に日をすごすこと。私も還暦を迎えた身ですので、これからは一日一日を大切にして、無駄に日をすごすことのないようにしたいと考えています。もちろん、たまに息抜きするのは当然のことです。それって、決してムダな時間の使い方ではありませんからね。
スリラーものの性格上、この本のアラスジを書くわけにもいきませんでしたので、手元にあって日頃あまり使っていない『四字熟語辞典』をパラパラとめくり、目についたものを引用してみました。今年最大の収穫となりそうな本に出会った気がします。
火曜日午後、一泊の人間ドッグを終えて雨の中を帰宅していると、あちこちで田植えそして田のすき起こし作業がすすんでいました。今年は雨が少なくてカラ梅雨になるのかなと心配していましたが、久しぶりに雨らしい雨が降ってくれました。
雨に打たれて一段と美しく映えるのがアガパンサスの青い花火のような花です。紫陽花の花とは少し趣が違って、うっとうしい梅雨を心軽やかにしてくれる大好きな花です。
(2009年5月刊。1619円+税)
2009年6月25日
アイヒマン調書
ドイツ
著者 ヨッヘン・フォン・ラング、 出版 岩波書店
ナチス・ドイツが何百万人ものユダヤ人を強制収容所へ連行して、ガス室などで抹殺していった過程で、アイヒマンは実務的な官僚としてそれに深く関わり、遂行していた。
アイヒマンは、アウシュヴィッツとマイダネック強制収容所を視察し、そこでのユダヤ人抹殺工程を考えだした人物である。ただし、アイヒマンは他人が苦しむのを見て快楽を覚えるサディストではなかった。
アイヒマンは、ほとんど事務所の中で自らの仕事に専念し、結果として数百万の人間を死に追いやった。一官僚として、アイヒマンは死に追いやられる人間の苦痛に対して、何の感情も想像力も有してはいなかった。
アイヒマンはドイツの敗戦後、1950年春まで偽名と偽の身分証明書でドイツ国内に潜伏していた。アメリカ軍の捕虜となったこともあったが、2度も逃走に成功した。逃亡資金を貯め、バチカンルートでアルゼンチンへ逃亡した。バチカンのカトリック関係者によって元ナチ戦犯の海外逃亡支援が行われていたのだ。多くの元ナチ親衛隊員がこれによって旅券の交付を受けた。アイヒマンを支援したのは、ローマのカトリック司祭、アントン・ヴェーバーだった。1950年から、アイヒマンはアルゼンチンに居住し、偽名で働いていた。そこでは、ユダヤ人の大家に助けられていた。なんという皮肉でしょうか……。
1960年5月。アイヒマンはイスラエルのモサドの手によって、イスラエルへ連行され、警察による取り調べが始まった。このとき取り調べにあたった警察官の第一印象は、次のようなものでした。
目の前に現れた人物は、自分より少し背が高いだけの、細身というよりやせぎすで、頭の禿げあがった平凡な男に過ぎなかった。フランケンシュタインでも、角の生えたびっこの悪魔でもなかった。外見だけでなく、そのきわめて事務的な供述は、事前に抱いていたイメージとかけ離れたものだった。
アイヒマンにはユーモアが完全に欠如していた。その薄い唇に何回か笑いが浮かんだことはあったが、目は決して笑わない。その眼は、いつも嘲笑的で、同時に攻撃的だった。
とくに印象的だったのは、アイヒマンが自分の犯した凄惨な罪に対して明らかに何の感情も持っておらず、まったく悔恨の情を示さないことだった。自分のなした行為について、まったく鈍感だった。ふむふむ、ユダヤ人を大量殺害する機構の歯車は、こんな人物だったのですね。ということは、隣人がいつ大量殺人鬼になるかもしれないということです。
アイヒマンは、取調の途中、いつも食欲旺盛だった。アイヒマンは、ヒトラーの主張に賛成はしていたが、『わが闘争』を通読したことは一度もなかった。実のところ、アイヒマンは読書をしない人間だった。犯罪小説も恋愛小説も読んだことがなかった。
アイヒマンは、自分はユダヤ人の殺害とは何の関係もない、一人のユダヤ人も殺していない。ただ、ユダヤ人の移送に関与していただけだと言い張った。アイヒマンは、ユダヤ人を安住の地へと移住させることに専念していたと何度となく主張した。
実際には、アイヒマンは当時30代であり、非常に活動的でエネルギッシュな人物だった、ユダヤ人絶滅のために常に新しい計画を考案し、方法の改良に熱意を示した極めて勤勉な男だった。アイヒマンは、ユダヤ人問題の最終解決に関する命令を受けていた。
アイヒマンの尋問はすべて録音され、その反訳調書は本人がチェックして間違いないことを確認した。275時間、3564枚の調書がある。その一部が再現されていて、大変興味深い内容となっています。日本でも、戦犯に対しこのような責任追及がきちんとなされたのか、心配になりました。
(2009年3月刊。3400円+税)
2009年6月24日
裁判員制度と報道
司法
著者 土屋 美明、 出版 花伝社
ジャーナリストの立場で、一貫して裁判員制度に関わってきた著者が、自戒の念をこめて報道の在り方について整理し問題提起しています。次々と出版していく著者のバイタリティーには改めて感銘を受けました。
国民が司法に参加する意味は主として三つある。第一に、国民の間に主権者としての意識が育っていくこと。第二に、自ら犯罪を裁くという体験を通じて国民に法的な意識が高まることが期待できること。第三に、これまでプロの法曹によって動かされてきた司法に国民の常識・感覚が生かされ、司法が国民に身近な存在に変わること。
アメリカの新聞社では、経営権と編集権は区別され、経営者は編集に口出しできない慣行がある。しかし、日本では編集権は経営権に従属している。取締役会など、経営管理者の意向に従わなければならない構造ができている。それで、日本には自由なジャーナリストとしての職業観が育たず、また、現場記者の発言権が弱い状況を生み出している。
日本には、EUから強く廃止を求められている記者クラブという制度があり、その結果、日本の新聞はどれをを読んでも変わり映えのしない記事が載っていて、画一性が強すぎる。記者クラブも最近は、かなり開放度がすすんだとは思いますが…。
そして、メディア・スクラム(集団的過熱取材)という現象がある。大きな事件や事故が起きると、その当事者や関係者のもとへ多数のメディアが殺到し、それらの人々のプライバシーを不当に侵害し、社会生活を妨げ、あるいは多大な苦痛を与える状況を作り出してしまう。そうなんです。しかも、一過性の集中豪雨型の報道です。後追いの報道がサッパリありません。
アメリカには、国民の中に、刑事裁判は常に正しいとは限らず、不公正なものでもあり得るという一種の皮膚感覚がある。アメリカの陪審制度は、国家権力は時に市民的自由を侵す危険性があるという裁判への不信感を背景にもっている。では、日本では、どうか?
マスコミは、事件についての加害者報道に関し、前科・前歴は抑制的に扱う、事件や疑惑との極めて密接な関連性、読者の理解に不可欠で報道すべき特段の事情がある、必要最小限度の範囲という条件を課している。
具体的には、情報の出所を示す。弁護側への取材につとめ、その言い分を報道し、できるだけ対等な報道を心がける。被疑者・弁護側の言い分を安易に批判・弾劾しない。しかし、弁護士のなかにも、情報提供に消極的な姿勢を見せる人がかなりいる。ただ、これには法律改正によって、開示証拠の目的外使用を処罰する規定が置かれたことも影響している。
著者は、メディアも『真相解明幻想』から卒業することを提唱しています。
刑事事件の捜査・裁判は、刑事訴訟法のルールに従い、その限りで被疑者・被告人の犯行を立証する手続にすぎない。刑事裁判には、もともと限界がある。捜査当局による真相解明に期待しすぎると、かえって検察主導の司法を容認することになりかねない。かといって、裁判官の訴訟指揮による真相解明を期待するのも、被告人の起訴事実の有無を判断するという刑事訴訟法本来の趣旨から少し外れてしまう。真相解明は、刑事事件の法廷とは別の場で行うものと考えるべきではないか。
著者の最後の指摘が私には強く印象に残りました。ともあれ、マスコミ報道の洪水のなかで、市民参加型の裁判員裁判がやがて実際にスタートします。私は、ぜひ成功させ、刑事手続きの画期的改善につなげていきたいと考えています。たとえば、被疑者段階の取り調べ過程を全部、録画するのです。これによって、弁護人は無用の争点にしばられることが少なくなると思います。司法改革が全面的改悪だというのは、いくらなんでも大げさすぎると私は考えています。
(2009年5月刊。2000円+税)
2009年6月23日
不屈、瀬長亀次郎日記
日本史(現代史)
著者 瀬長亀次郎、 出版 琉球新報社
読んでいるうちに、思わず背筋を伸ばし、襟を正して、真面目に生きていこう、元気に生き抜くんだ、そんな力の湧いてくる不思議な本です。
カメジローの日記です。私も、若いころに一度くらい本人の演説を聞いたような気はするのですが、たしかではありません。雄弁というより、とつとつとした語りだったという印象をもっていたのですが、この本を読むと訂正しなくてはいけないようです。
カメジローは、49歳のとき、当時、沖縄にあった地域政党である人民党(のちに共産党と合流しました)公認として那覇市長選に立候補し、保守が分裂していたこともあって、見事に当選しました。しかし、野党が圧倒的多数を占める那覇市議会は、アメリカ軍政府の強力な指示をうけて、「共産主義者」カメジロー追い落としを図ります。しかし、カメジローは粘りに粘り、ついに市議会のほうを解散し、市議会選挙で多数はとれなかったものの、大きく前進しました。
アメリカ軍政府はやきもきしたあげく、ついに民主的に選挙で選ばれたカメジロー市長を一片の指令で追放してしまいます。このあたりの経緯が、当の本人のカメジローの日記、そして、情報公開制度で明らかになったアメリカ政府の動きをふまえて詳しく解説されています。ですから、当時の行き詰る状況が手に取るようによく分かります。沖縄そして日本を知るために、本当にいい本が出版されたと思いました。
カメジローの演説。
異民族の奴隷への道、西へ進むのか、祖国への道、東へ進むのか、の分かれ道に立っている。市民よ。死への道ではなく、日本国民の独立と平和と民主主義の繁栄を保証される道を進もうではないか。
つい最近、赤嶺代議士(共産党)が国会で、アメリカ兵が飲酒運転して事故を起こしても、公務遂行中だとして日本に裁判権がないのはおかしいと追及していました。このことを河野代議士(自民党)が、そのとおりだとブログで紹介しているそうです。
カメジローは、1万6591票を得て、対立候補に1964票差で那覇市長に当選したのです。すごいことですよね、これって。ワシントンのアメリカ国防当局は驚き、重大な関心を示し、ただちにカメジロー落としを指令したのでした。
沖縄の銀行は、市にお金を出さない。アメリカ軍は市に水道を供給しない。まさしく、「火攻め」「水攻め」です。
カメジローの演説。
私は神を信じない。人民の力を信じている。神様は天には居ない。人民の中に、人間の心の中にいる神は、いかなる権力でも粉砕することはできない。
市会議員選挙の演説会は深夜に及んだ。午後8時に始まり、終了したのはなんと午前1時過ぎ。うへーっ、そ、そんな演説会があったなんて、まるで、まったく信じられません。トホホの熱気ですね。沖縄県民の底力は、恐るべきものです。
アメリカの報告書には、瀬長派の選挙活動は57回の政治集会に4万5000人も動員した。反瀬長派は、24回の集会でわずか1万人にとどまった。いやはや、なんともすごいものです。
演説会会場は民主主義実践の場であった。瀬長派は人々の共感を集め、幅広い支持を取り付けることに成功した。
アメリカは、小さなハエをやっつけようとしては失敗する大男のようだ。大男が腕を振り回して失敗すればするほど、こっけいに見える。これはアメリカの新聞に載ったレポートです。
カメジロー市長の在任期間は11ヶ月でしかありませんでした。しかし、大変なインパクトがありました。カメジロー市長の後任の市長を決める市長選挙でも、結局、カメジローの応援した候補が当選したのです。このときの立会演説会には、10万人が集まったのですから、まさに圧巻です。この本に掲載されている写真を見ても、それが嘘でないことはよく分かります。
私が大学生のころ、沖縄を返せという歌をよく歌っていました。福岡の全司法の人たちが作った歌だということでした。オレたちが作ったんだという書記官が福岡におられました。
(2009年4月刊。2190円+税)
2009年6月22日
東大駒場学派物語
社会
著者 小谷野 敦、 出版 新書館
私にとって昔懐かしい駒場の話です。大学2年生のとき、ちょうど東大闘争に突入して授業がなくなりましたから、まともに授業を受けたのは1年と2か月ほど。ところが私自身は、大学で授業を受けて勉強する意義が分からず(と称して)、地域(神奈川県川崎市です)に出かけて、若者(労働者です)たちと一緒のサークルをつくって、しこしこと(その当時の流行語です)活動していました。
翌年2月に授業が再開されてからも、引き続き漫然と授業には出ずに、地域でのセツルメント活動に没頭していました。まさしく、人生に必要なことは、大学ではなく、地域におけるセツルメント活動で学んだという気がします。
それはともかくとして、この本を読むと、駒場での教授生活も、内情はかなり大変だということを知ることができます。それは第一に、この本のように内情暴露する人が出てくる危険性は高い、ということです。この本は、学者のゴシップでみちみちています。
といっても、『源氏物語』だってゴシップを載せているじゃないかと著者は反撃しています。なるほど、そうなんでしょうね。『源氏物語』が世の中に出たとき、この人は誰がモデルなのか、いろいろ話題になったことでしょう。だから著者は、次のように喝破するのです。
文学はゴシップと不可分の関係にある。ふむふむ、そうなのか、うむむ。
私が大学生のころ、渋谷駅から井之頭線に乗り、駒場東大前駅で降りていました。ところが、この駅は、なんと1965年(昭和40年)にできたものだというのです。なーんだ、まだ2年しかたっていないときに私は利用したんだ……。昔から、こんな駅があったとばかり思い込んでいました。
駅の階段を降りると、真正面が駒場の正門に至るのです。回れ右をすると、麻雀屋やラーメン店などの飲食店が混じる商店街になっていました。
駒場の春、という言葉が出てきます。五月病とは無縁な、未来へのなんとはなしの希望を感じさせるものです。しかし、その希望を現実化させた人は、どれだけいたのでしょうか……。
私にとっての救いは、まず第一に駒場寮です。6人部屋でしたが、先輩のしごきなんて、とんと無縁の自由極まりない天国のような生活が、そこにありました。ただし、経済的には楽ではありませんでした。1ヶ月をわずか1万3000円あまりで生活したという収支ノートが今も手元に残っています。もらっていた奨学金は月3000円。学費は年に1万2000円でした。
第二に、セツルメント活動です。ここで、素晴らしい先輩と素敵な女性たちに出会うことができました。残念なことに、私の恋は実りませんでした。
著者は、35冊も著書を出したのに、駒場で不遇な目にあったのを嘆き、攻撃しています。そうなんでしょうが、きっと学者にも求められる協調性に欠けていたのでしょうね。
著者は、本を書かない教授がごろごろしていると手厳しく批判しています。本当にそうです。私も本は何冊も書いていますが、モチはモチ屋で、何を得意とするかの違いがあり、私などは議論のとき、きちんと順序、論理だてて展開するのはまったく不得手のままです。この本を読んで、学者の世界の厳しいゴシップを聞いた気がしました。
それにしても、天皇崇拝論者が駒場の学者にそんなに大勢いたなんて、驚きです。ご冗談でしょ、という印象を受けました。
昨日の日曜日、福大で仏検(1級)を受けました。朝から「傾向と対策」を読んでフランス語の感覚を必死で取り戻す努力をしました。単語がポロポロと忘却の彼方に飛び去っているのです。試験は3時間かかります。1問目2問目と全滅していき、長文読解でなんとか得点して、最後の書き取り、聞き取りで少し点を稼ぎます。100点満点で30点そこそこという哀れな成績がつづいています。我ながら厭になりますが、それでもフランス旅行を夢見て続けています。
休憩時間に庭へ出てみると、色とりどりのバラの花が見事に咲いていました。梅雨空の下で、フランス語にどっぷり遣った苦難の日でした。
(2009年4月刊。1800円+税)
2009年6月21日
ひょうたん
日本史(江戸)
著者 宇江佐 真理、 出版 光文社時代小説文庫
うまいですね。この人の本って、いつ読んでも感心させられます。しっとりした江戸の人情話に、敵味方で争うなかでガチガチになった身と心が、知らず識らずのうちに溶け出していく思いです。そして、下町で夕食を準備する匂いが漂ってきます。
いえ、本当に、書き出しから店の前に七厘(しちりん)を出して大根を煮る風景が登場してくるのです。米の研ぎ汁で下茹でした大根を、昆布だしでさらに煮る。箸を刺して煮崩れるほど柔らかくなったら、さっと醤油と味醂で味をととのえる。それを昨夜からつくっておいた柚子味噌につけて食べる。うむむ、美味しそうですね。思わず舌舐めずりしてしまいます。
五間掘沿いの道を行く人々も、いい匂いを漂わせている鍋に恨めしそうな視線を投げて通り過ぎて行く。うまそうな匂いには勝てませんからね……。
主人公は、しがない古道具屋を営む夫婦。この夫婦をめぐる市井の人々の愛憎つながる話題が転々と展開していくのです。そこには切ったはったの血なまぐさい話はありません。今の日本でもありそうな、身につまされる人情話が繰り返し登場してきて、物語にひきずりこまれてしまうのです。
そして、その気分に浸ると、それがまた浮世風呂にでもつかったようないい按配なのです。そうやって江戸情緒をしっかり味わっているうちに、やっぱり、いい本に出会えるって仕合せだなと思ってくるわけです。
あとがきの解説に、次のような文章があります。
けちな道具屋をしていても、心は錦だ。こんな江戸っ子の矜持(きょうじ)と心意気が表れている。
そうなんです。気風のよさも感じられますので、読後感はあくまで高山の稜線にある草原を吹き渡る涼風のような爽やかさです。
(2009年3月刊。552円+税)
2009年6月20日
源氏物語(上)
日本史(平安時代)
著者 瀬戸内 寂聴、 出版 講談社
少年少女古典文学館として、現代語訳された古典です。古文として断片的には読んだことはもちろんありますが、読みとおしたことがなかったように思いますので(円地文子訳を読んだかな?)、上下2巻にまとまった、少年少女向けの現代語訳で源氏物語を久しぶりに読んでみようと思い立ったのです。
いづれの御時(おほむとき)にか、女御(にょうご)更衣(かうい)あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際(きわ)にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
この書き出しはさすがに覚えていました。私は歴史ものに続いて、高校時代、古文も得意としていたのです。古典文学体系で、原典を一度読んでおくと、全体像がつかめて、断片的に切り出されて問いかけられる設問に対しても余裕を持って回答することができました。この点は、法律の勉強と同じです。やはり、全体のなかの位置づけが欠かせません。
現代語訳だけでなく、欄外に言葉の解説もあり、写真や図もありますので、大いに理解を助けてくれます。いわば、字引つきの古典ですから、なるほどなるほどと思いながら軽く読み進めていくことができます。
それにしても源氏の君はもて過ぎです。どうして、こんなに簡単に女性にもてるのか、いつのまにか中年さえ過ぎてしまった男の私としては嫉妬にかられるばかりです。
紫式部は1014年ごろ、40歳ほどで亡くなったようです。ということは、今からちょうど1000年前ころ、宮中で権力を握っていた藤原道長(直接にはその娘・彰子、しょうし)に仕えて活動していたのです。
今から1000年前の日本に住んでいた人々の気持ちが、生活様式こそ違っていても、現代日本とあまり変わらないことに気がついて、不思議な気持ちに包まれてしまいました。日本人って、変わらないところは、案外、変わっていないのですね。
(1997年6月刊。1650円+税)
2009年6月19日
マンガ蟹工船
日本史(近代)
著者 小林多喜二・藤生ゴオ、 出版 東銀座出版社
30分で読める。大学生のための、という副題がついたマンガ本です。前から読んでみたいと思っていました。白樺湖に出かけたとき、やっと手に入れて読みました。
もちろん、私は原作も読んでいます。でも、マンガって、すごいですね。よく出来ています。映画は前に見たようには思いますが、よく覚えていません。最近、リバイバル・ブームに乗って各地で上映されていますが、まだ残念ながら見ていません。その代わりにマンガを読んだのですが、それなりに視覚的イメージはつかめます。蟹工船のなかの悲惨な奴隷のような労働実態が、それなりに伝わってきます。解説をつけた人は、このマンガを読んでショックを受けた人は、ぜひ一度、一度読んだ人は、もう一度、原作小説をとくと味わってほしい、と注文をつけています。まさしく、そのとおりです。
それにしても、今の日本で多くの若者が自分の置かれている状況は戦前の蟹工船で働かされていた労働者と似たようなものだと受け止めているという事実は、それこそ衝撃的な出来事です。それなのに、政府は、大企業の違法な派遣切りに対して、戸別の企業については論評を差し控えます、などと格好の良いことを国会で答弁して介入せず、野放しのままなのです。権力のやることって、戦前も戦後も変わらないというわけです。
マスコミも、年越し派遣村こそ大々的に報道しましたが、企業で今やられていることについての追跡記事をまったく載せていません。本当に悲しくなります。ソマリア沖に派遣された自衛官の「活躍」ぶりを載せる前に、国内の若者の置かれている深刻な実態を紹介すべきではないでしょうか。そして、このことを総選挙の争点として大きく浮かび上がらせてほしいと思います。日本の若者が将来展望を持てなかったら、日本という国に将来はないと思いますよ。皆さん、ぜひ、このマンガを読んでみてください。
(2008年7月刊。571円+税)
2009年6月18日
トヨタ・キャノン非正規切り
社会
著者 岡 清彦、 出版 新日本出版社
日本の今の深刻な不況の引き金を引いたのは、トヨタであり、キャノンであると私は考えています。もちろん、その背景には、アメリカのサブ・プライムローン危機に端を発した世界的な金融危機があるわけですが……。それでも、トヨタとキャノンの責任は重大です。
トヨタの期間従業員は、最長で2年11ヶ月の有期雇用契約である。最初の契約は4~6ヶ月で、その後も6ヶ月、1年と細切れ契約にして、いつでも期間満了で解雇できるようにしている。トヨタはカンバン方式で有名だが、その「人間カンバン方式」こそ、期間従業員の活動である。必要なときに、必要な労働者を、必要なだけ使う。派遣労働者は奴隷だ。昔、女性は女郎屋に売られたが、いま、オレ達は工場に売られる。
トヨタは、この20年間、正社員を増やさず、期間従業員を増やして日本一の利益をあげてきた。1990年のトヨタの経常利益は、7338億円。2008年には、それが2.3倍の1兆5806年にのぼる。しかし、正社員は7万人から6万9000人に減っている。そのかわり、期間従業員は1万人をこえ、生産現場の3割を占めるようになった。
期間従業員の日給は1万円。年収は300万円。正社員の平均年収829万円の半分以下でしかない。トヨタは、期間従業員のマイカー通勤を認めていない。だから、会社のバスか、自転車で通勤する。
トヨタは株主への配当は継続していて、2037億円も配当した。首切りを宣言した6000人の期間従業員の雇用を守るためには、配当金の9%、180億円あれば可能である。
そして、トヨタの内部留保(貯め込み利益)は、13兆9000億円にのぼっている。
うへーっ、こ、こんな莫大な利益、そして株主配当金があるのに、労働者のほうは平然と首切りするのですね。ひどいものです。血も涙もないとは、このことですよね。
ところで、いったい、取締役のもらう年間報酬額はいったいいくらなんでしょうか?
今の日本経団連会長の出身母体であるキャノンの名前が、観音に由来するということをこの本で初めて知りました。
キャノンでは、ほとんど残業はない。しかし、ノルマ達成まで働くことには変わりない。それは、サービス残業として何の手当てもつかない。
キャノンは大分県から莫大な補助金をもらっている。総額48億円にものぼる。ところが、そこで働く大量の労働者がワーキングプアと呼ばれている。4553億円もの利益を上げていながら、貧困宣言を出す。これって、まったく矛盾そのものです。
キャノン労組は、上部団体に加わらず、賃上げ要求すらしていない。
派遣労働者の時給は1000円。結局、手取り11万5000円になる。正社員だったら、残業や交代制手当がなかったら、月10数万円から20万円程度の手取りとなる。
キャノンそして日本経団連会長である御手洗は、「3年たったら正社員にしろと硬直的にすると、日本のコストまで硬直的になる」と言って開き直り、法律のほうこそ変えるべきだと弁明し、主張している。いやはや、とんだ男です。こんな人物が財界人トップなんですから、日本の将来はお先真っ暗です。
キャノンも、株主への配当は、同じく前期と同水準にしている。
日本経団連って、ホント、自分たち大企業のほんの目先のことしか考えていない強欲な資本家集団なんですね。あきれてしまいます。こんな人たちに今時の若者は日本の国と郷土を愛する心が足りないなんて言われたくありませんよね。守るべき自分の生活があってこそ、守るべき郷土があり、国があるのですからね……。
(2009年3月刊。1400円+税)
2009年6月17日
重慶爆撃とは何だったのか
日本史(現代史)
著者 戦争と空爆問題研究会、 出版 高文研
第2次大戦中、日本は全国66都市がアメリカ軍によってナパーム攻撃を受けたが、その5年以上も前に、日本軍は中国・重慶市民の頭上に200回をこす間断ない空中爆撃を行い、2万人あまりの死傷者を出した。日本は、戦略爆撃の作戦名を公式に掲げて、組織的・断続的な空襲を最初に始めた国なのである。
1937年8月に始まった南京空襲は、12月13日に日本軍が南京を占領するまで繰り返された。日本軍は、空襲36日、回数にして100回をこえ、飛行機はのべ600機、投下した爆弾は300トンだった。
8月26日、南京に駐在していたアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア各国の外交代表が日本政府に爆撃中止を求めた。宣戦布告していない国の首都を爆撃し、しかも民間人を死傷させていることに抗議したのである。
南京爆撃は、民衆の戦意を崩壊させ、中国軍の早期降伏を誘発するためのものであった。しかし、そうはならなかった。日中戦争の行き詰まり打開策として、戦略爆撃に重点が移動した。
そのとき、毒ガス弾の使用も軍当局は認めていた。ただし、目立たないように注意しろという但し書きがついていた。毒ガス弾の使用を認めたのは、中国軍の激しい抵抗を受けて日本軍にも多大な犠牲者を出した上海戦のようにならないためであった。1941年11月、日本軍機はペスト菌を中国にバラまいた。ペストが蔓延して、数千人の死者が出た。しかし、日本軍の毒ガス戦について、戦後、アメリカ軍はそのデータと引き換えに関係者を免責した。
重慶爆撃で最大の死者を出したのは1939年5月のこと。2日間だけで死者は4000人にのぼった。日本軍は武漢を基地として、300機以上を動員した。このとき使われたのはナパーム弾の性質に近い焼夷弾である。日本軍は重慶を無差別・絨毯爆撃した。
ドイツや日本と違って、中国側にはわずかな防空能力しかなかったので、日本軍はほしいままに攻撃できた。
この作戦を主導したのは海軍参謀長の井上成美(しげよし)中将である。井上は「海軍リベラル派」の人物として、ともすれば「反戦大将」の面が強調されるが、重慶爆撃においては一貫して積極派であった。
中国軍ではソ連の飛行機と飛行士が実は活躍していた。1937年から1939年にかけて、ソ連は中国に対して、1000機の飛行機と2000人の飛行士、500人の軍事顧問を送り込み、大砲・高射砲そして石油などの軍需物資を供給していた。しかし、ソ連はドイツとの関係が緊張した1941年7月に派遣を中止して引き上げた。
日本人は、その受けた東京大空襲のみを思い出しますが、実は空襲の点においても無差別・民間人殺傷を始めたのは日本軍であったのです。その意味で忘れることは許されません。
私も一度だけ、武漢そして重慶に行ったことがあります。夏は40度を超す炎暑の土地です。重慶では真っ赤な色をした火鍋をすこしだけ食べました。ともかく辛いのなんの、口が火傷しそうなほどとんでもなく辛いのです。
この本を読んで、日本人はドイツと違って、今なおきちんと戦争責任に向き合っていないことを痛感させられました。
(2009年1月刊。1800円+税)
2009年6月16日
格差とイデオロギー
社会
著者 碓井 敏正、 出版 大月書店
近年、格差は階層化とその固定にとどまらず、貧困階層の中に独特の社会意識を形成しているのではないか。高度成長の背景には、学歴獲得に代表される上昇志向が存在してきた。しかし、今、子どもの教育に関心を払わない「貧困の文化」が日本に生まれているのではないか。そうだとすると、階層化の問題は深刻である。
格差の拡大が許されるのは、社会の中でもっとも恵まれない人々の生活を向上させる限りにおいてのみである。
これは、哲学者ロールズの言葉だそうですが、まことに至言です。
ワーキング・プアなど、社会的弱者は、生活の逼迫のため、他の人々に比べ、社会関係から疎外されやすい立場にある。そのため、その窮状は人々に知られにくく、その結果、余計に精神的に孤立する危険が高い。とりわけネットカフェ難民と呼ばれる若者たちは、社会関係の基点となる固定した住居を欠いているため、その危険性が高い。
したがって、まず何より、住居の保障など、社会関係形成の基礎的条件を提供することである。
「もやい」(湯浅誠事務局長)は、その活動を通じて、孤立した貧困者の社会的関係性を回復することが目的なのである。
現代のあらゆる組織、コミュニティは、コミュニケーション機能をこれまで以上に求められている。格差の存在を知りながらも、日々の個人的満足を重視して、それを問題としないという日本人、厄介なのは、格差で割を食っているはずの下層の若者ほど、この種の感性が強いという事実がある。
最近の若者は、世界に関して無知であることについてストレスを感じていない。それは、自分の知らないことは存在しないことにしているから。ちょうど、弱い動物がショックを受けて仮死状態になることによって心身の感度を下げ、外界のストレスをやり過ごすという生存戦略をとっているのに似ている。おそらく、現代の若者も、鈍感になるという戦略を無意識のうちに採用しているのだ。
疎外感に支配された人間の行動は、格差の解決を目ざす社会運動には向かわずに、犯罪のような社会病理現象として現れる傾向がある。
格差から生まれる社会的疎外感や剥奪感は、強盗や窃盗のような一般的な犯罪として表現されるだけではない。それは、生活など個人的なファクターに媒介されることによって、しばしば世間を驚かすような、特異な犯罪として自己表現する場合がある。
人間は、とりあえず身近な可能性にすがろうとする。あまりにも自分とかけ離れた富裕層や、とりわけ能力のある人間を攻撃のターゲットにはしない。
なーるほど、そうなんですね。
人間は生物的存在であると同時に、社会的存在でもある。貧困の定義のなかに、社会的関係性の維持という条件を加えなければならない。
ネットカフェに居住している日雇い派遣の労働者は、完全に分散し、孤立している。
重要なことは、安定した職場環境を用意することである。労働は生活の手段であるが、同時に人と人を結びつける接点である。人は労働によって人格的に成長し、人との信頼関係や責任感を育むことができる。また、人は仕事を通して社会に貢献し、社会の一員としての自覚と誇りをもつことができる。職場は人間の本質である社会性を確認する重要な場なのである。労働は、生活の手段であるだけでなく、同時に人間の生きがいでもある。
ところが、日雇い派遣労働では、職場での継続的な人間関係を構築することはできない。細切れの労働は、人間関係・社会関係をも細切れにする。期間を限られ、将来が保障されない労働形態は、人間にとってきわめて不自然で非人間的なあり方である。
ヨーロッパでは、日本と違って大学の授業料などの学費はすべて無料である。ヨーロッパの学生が在学中に学費に苦しむことは基本的にない。
金持ち日本の大学生のあまりに高すぎる学費は、あまりに低い文教予算によります。不要不急の港や橋や道路、そして新幹線などにばかり大金をつぎこんでいる自民党政治は、日本人の持っている大切なところを基礎レベルでこわし続けているとしか思えません。ところが、そんな政府が若者に愛国心教育を押し付けようとするのです。まったく世の中、おかしなことだらけ、ですね。
(2009年2月刊。1600円+税)
2009年6月15日
フランスの子育てが日本より10倍楽な理由
世界(フランス)
著者 横田 増生、 出版 洋泉社
子どもにとって、きちんとした食事や十分な睡眠が成長に不可欠であるのと同じように、大人の注目や時間もまた、子どもの大切な栄養分なのだ。3歳までの子どもにとっては、身近にいる人間の注意や愛情を十分に受け取ることが必要なのだ。
私も弁護士になってから35年が過ぎましたが、表情の乏しい大人の顔を見ると、きっと子どものころに親の愛情に満ちた声かけが少なかったのだろうな、と思うようになりました。親から愛情をたっぷり注ぎこまれた子どもは、大人になっても断然、その表情、とりわけ眼の輝きが違います。
日本と違って、フランスでは出生率が再上昇している。それには3つの理由がある。一つは所得格差が小さいこと。二つは職場における男女格差が小さいため、女性が仕事か子育てかの二者択一を迫られることがないこと。三つには、週35時間労働にあらわれているように、労働時間が短いため、男女とも育児や家事に参加できること。
ふむふむ、これはなるほど日本とは大違いです。
フランスでは、女性が難なく仕事と子どもの両方を選ぶことが出来る。女性が子どもを産んでも、それまでとほとんど変わらない生き方をしていけるのがフランスなのである。
うむむ、な、なるほど、ですね。さすがフランスです。
フランスで子育てが前向きにとらえられる理由の一つに、政府の支援策によって子育ての負担が大きく軽減されることがある。とくに子どもが3人以上いる家族は、大家族として手厚い支援を受ける仕組みがある。家族手当の額が増えるだけでなく、交通機関や動物園、美術館、博物館などで割引を受けられる。うひゃあ、うらやましいですよ、これって。
フランスでは、3歳から公立の学校に通える。
ええーっ、保育園ではなく、学校なのですか…?
フランスでは、ほぼ100%の子どもが3歳からエコル・マテルネルに通う。8時半から4時半まで、学費は無料。ちなみに、公立学校なら、大学卒業まで学費はタダ。
うへーっ、なんと…タダ。しかも、今、2歳からにしたらどうかと議論されているというのです。これには、さすがにまいりました。
フランスでは、日本のように夫が給料袋をそっくり妻に渡すようなことはしない。フランスの男性は、自分で稼いだお金は自分で管理する。だから、専業主婦になると、自分の自由になるお金がないことになる。ふむふむ、だからフランスの女性は働きたいのですね。
子どもに対して支払われる養育手当の財源は、企業が労働者の賃金に5%を上乗せして納める税金である。つまり、労働者に年100万円の賃金を支払っていると、5万円を企業は国に支払うことになる。これって、日本でも考えていい制度ですよね。
フランスの大統領選挙の投票率は、80%を超す。
ここですよね、日本との違いの決定的なところです。日本人の多くが、政治にあきらめてしまっています。フランスでは、そんなことはありません。政府の方針がおかしいと思うと、女子高生が一人で街頭でプラカードを手にしてデモ行進をして意思表示します。やがて、賛同者が増えて、いつのまにか道路を埋めるデモ行進になるのです。日本のような、連帯心の欠如というものがありません。みんな、明日は我が身と考えるのです。デモ行進で一時的な迷惑は受けるけれど、それよりもっと肝心なことがあるので、そちらを考えて連帯するわけです。
私の事務所のホームページのブログで、「私の本棚」シリーズを始めました。私の読んだ本をジャンル別に本棚の写真をあわせて、順次、公開していきます。ぜひ、あわせてアクセスしてみてください。
(2009年3月刊。1400円+税)
2009年6月14日
老後も進化する脳
脳
著者 リータ・レーヴィ・モンタルチーニ、 出版 朝日新聞出版
著者はなんと、1909年生まれ。ええっ、100歳ではありませんか。はじめ目を疑いました。ムッソリーニの反ユダヤ人政策のためにタリアを脱出し、ベルギーそしてアメリカに渡って研究を続けた脳神経の研究家(女性)です。1986年に、ノーベル生理学・医学賞を受賞しています。そして、2001年からはイタリア上院の終身議員なのです。
そんな著者の紡ぎ出す言葉ですから、千釣の重みがあります。
人生でもっとも恐るべき悲哀の時期と見なされている老年期を、いかにして生涯でもっとも晴れやかな、それまでに劣らず実り多き時期にするのか。
人生ゲームに賭けられたものは大きい。人生ゲームにおいて最大の価値をもつ札とは、自らの知的・心理的活動を巧みに運用する能力であり、それは一生、ことに老年期において一層ものを言うようになる。
理屈では、人類のすべての個体にその切り札が備わっていることになるのだが、それを活用できる条件に恵まれているのは、ほんのわずかな人々にすぎない。
人は、60歳、また70歳を超すと、毎年10万単位で脳細胞を失っていると考えられる。この莫大な損失は、老年期の創造的活動などとうてい不可能と考えたくなるほど、ドラマチックに感じられるかもしれない。しかし、脳を構成する神経細胞数がどれほど天文学的数字であるかを思えば、実は、たいした数ではない。すなわち、人間の脳は年齢(とし)をとるにしたがって、一部のニューロンを失い、生化学的に変質するのは事実である。しかし、それにもかかわらず、その変化は多くの個体において、認識能力や想像力の減退をほとんどもたらさない。
人間には死の自覚がある。しかし、それにもちゃんとした対抗手段が存在する。私たちには、とてつもない脳の能力があることを自覚すればいいのだ。この能力は、他の器官とは異なり、いくら使い続けても消耗しない。それどころか、さらに強化され、それまでの人生を営んできた活動の渦の中では発揮しそびれた素質を改めて輝かせてくれるのである。
還暦の年齢になり、この10年間をいかに充実したものにするか真剣に考えている私ですが、この本に出会って、脳こそ疲れを知らず、消耗することもなく、絶えず発展していける存在であることを改めて認識し、自信を持って次に足を踏み出すことができそうです。
蛇(じゃ)踊りを体験しました。見ていると感嘆そうですが、やってみると意外に難しいことがわかりました。
解説によると、龍の尻尾がぴくぴくと動いているのは、龍がいらついていることをあらわしているとのこと。龍の身体がくねくね回るとき、こんがらがらないようにする秘訣があるのですね。
トランペットよりずい分と細長いチャルメラは、物悲しげな甲高い音をたて、ジャランジャランと銅鑼が叩かれるなか、龍が玉を求めてくねくねと踊るのは勇壮なものです。いい体験をさせてもらいました。
(2009年2月刊。1600円+税)
2009年6月13日
悪質商法のすごい手口
社会
著者 国民生活センター、 出版 徳間書店
ようやく消費者庁が設立されることになりました。弁護士会が長年にわたって要求してきた運動の成果でもあります。もちろん、形ばかりでは困ります。実効性のある機関となるように、お金と人員が確保されなければなりません。
しかし、今、国も自治体も財政難を口実として消費生活センターの予算を切り詰めようとしています。福祉・教育とあわせて、国民生活を守る分野に、政府はもっと力を注ぐべきだと思います。ソマリア沖への自衛隊派遣なんて、壮大な無駄遣いでしかありません。そんなお金があるのなら、消費者センターの拡充にこそお金を使ってほしいと思います。
国民生活センターは、毎年100万件以上の消費者からの相談事例を蓄積している。
70歳以上の人が当事者となった相談が急増している。2001年度には5万7000件だったのが、2004年度には10万件をこえ、その後もずっと10万件をこえている。
高齢者を悪質業者から守るには、いくら法律を整備してもそれだけでは足りない。そこには、どうしても周囲の協力が欠かせない。その時のポイントは、次の点です。
・見慣れない人が出入りしていないか。
・見慣れない新しい商品や段ボール箱、契約書がないか。
・かかってきた電話を切れなくて困っていないか。
・いつもより表情が暗く、元気がないということはないか。
・お金は持っているはずなのに、お金に困っていないか。
そうなんです。個別の事案で事後的救済はある程度は効果をあげることが多いのですが、事前予防は本人の心構えだけでは足りないのです。悪質商法に引っかかったという自覚のない人が、あまりに多いのが現実です。
この本は、ありとあらゆる悪質なだまし商法を、マンガ入りで分かりやすく解説し、その対処法を具体的に述べています。まさに救済のための座右の書というべき百科全書です。
ただ、クーリング・オフ期間を過ぎていても、民法上の詐欺・錯誤の主張は出来ることに触れていないのが、いつものことではありますが残念でなりません。
誤認や困惑のときには、6ヶ月以内(契約時から5年内)に取り消せるというのは、だまされたとまでは言えなくても、6ヶ月以内なら取り消せるということなのです。
それはともかくとして、わずか1800円の本ですが、一家に一冊常備してほしい。おかしいぞと思ったら、すぐこの本をひも解いてみる。そんな習慣を、多くの日本人に身につけてほしいものです。
稲佐山に上りました。ロープウェーで見る夜景は久しぶりです。満月の夜でした。地上にきらめく明かりの点の一つ一つが、人の営みを現わしているなんて信じられません。
展望台は風が強くて、体感温度がじっと冷え込みます。だから、周囲は、熱々のカップルばかりです。早く部屋に戻って、バスタブに肩まで身を沈めて温めたいと思いました。
長崎の夜景は、函館のそれより幅が広いように思えます。どちらも港に面しています。百万ドルの夜景というのもあながち嘘とは思えません。一見の価値があります。
(2009年4月刊。1800円+税)
2009年6月12日
中国貧困絶望工場
中国
著者 アレクサンドラ・ハーニー、 出版 日経BP社
チャイナ・プライスはブランドと化している。そのブランド・イメージとは、安価な衣服、アメリカの流通大手ウォルマートの陳列棚に目いっぱい並べられている家電製品、職を失いつつあるアメリカ国内の工場労働者、工場で働く中国人女性などの断片を寄せ集めたもの。
そして、このチャイナ・プライスに対してアメリカの経営者は、東方でたちあがった新興勢力としての脅威を覚える一方で、大幅なコスト削減を約束してくれる頼もしい味方のようにも感じている。ウォルマートは、中国から毎年少なくとも180億ドル相当の製品を仕入れている。韓国のサムスンは中国から150億ドル相当の部材を購入した。
中国はアメリカ向けの輸出シェアを41分野で拡大した。2006年、アメリカの対世界貿易は、全体として1780億ドルもの輸出超過となった。
製造業界に関しては、中国は1億400万人という世界最大の労働力を抱えており、これは、アメリカ・カナダ・日本・フランス・ドイツ・イタリアそしてイギリスの労働力を合計した人数の2倍である。
中国には、「ガン村」と呼ばれる村が点在する。1600万社で働く2億人の中国人従業員は、危険な労働条件の下で働いている。2005年現在、中国には職業病にかかった人が66万5千人と記録されていた。そのうち9割、61万人ほどがじん肺症である。実際には、じん肺症患者は100万人をこえていると推定されている。
中国は職業病の予防と処置に関する法律を2002年に施行している。だが、実際に法を執行するのは、地元の政府である。出稼ぎ労働者の働く工場を監視する人員は絶対的に不足している。2006年末で、7億6400万人の職場を監督するのに、フルタイムの労働検査官は2万2千人しかいない。たとえば、580万人もの人々が働く深圳に、検査官がわずか136人しかいない。
労働争議は増加の一途をたどっている。2005年に、仲裁委員会は前年比20.5%増の31万4千件の申請を受理した。
出稼ぎ労働者は3種類の書類を常時携帯することが求められている。身分証・暫住証・就業証である。これを持たない人は、「三無人員」と呼ばれる。「暫住証」のヤミ市場価格は3万元もする。
1994年以来、深圳の居住者は、郵便局を通じて1600億元もの仕送りをしている。経済成長の早さは全国トップであり、1980年以降は、毎年平均28%もの伸びを示している。深圳の不動産価格は、2006年だけで30%の伸びを示すほど急騰した。
中国の労働市場のすさまじい実情の一端を知ることができました。
浦上天主堂に行ってきました。久しぶりのことです。
ひょっとしたら、中学生以来かもしれません。グラバー邸には何年か前に行きましたが……。浦上駅から歩いて15分。坂を登ったりおりたりして、いい運動になりました。
天主堂の前の花壇に首の取れた聖人像があります。原爆の威力のすさまじさを感じます。聖人像のかたわらに紫陽花の青い花が咲いていました。
天主堂のなかをのぞくと、暗い堂内にステンドグラスが怪しく輝いていました。
オバマ大統領が原爆投下の道義的責任を認め、核廃絶への取り組みを呼びかけました。とても画期的なことです。まさしくチェンジの実践です。日本人として、拍手を送りたいと思います。ところが、なんと日本政府は核の傘をはずさないように申し入れたとのことです。明らかに逆行していると思います。
それどころか、北朝鮮が衛星を打ち上げたり(失敗しました。アメリカはミサイルではなかったとしています)、核実験するなどひどい事をしているのに対して、自民党のなかに北朝鮮の基地を先制攻撃しろという声が出ているそうです。それって、戦争を始めろというのと変わりません。恐ろしいことです。
(2008年12月刊。2200円+税)
2009年6月11日
テロルの時代
日本史(現代史)
著者 本庄 豊、 出版 群青社
1929年(昭和4年)3月5日、東京神田の旅館で、労農党代議士山本宣治(39歳。「山宣」やません)がテロリストに襲われ、命を奪われました。この本は、そのテロリスト黒田保久二を追跡しています。最後まで、大変興味深く読み通しました。
なんと、テロリスト黒田は、戦後、北九州で失業対策事業に従事していて、全日自労(全日本自由労働組合)の組合員となっていたというのです。これには驚きました。そして、次のように語っていたそうです。
山宣を刺したのは、ある偉い人から頼まれたもの。成功したら、150円の報酬と、いい身分を約束された。しかし、逮捕されてから、その偉い人は1回しか面会に来ず、服役を終えて面会を求めても相手にされなかった。そこで、新天地を求めて満州に渡った。けれども、うだつは上がらず、敗戦になって引き揚げた。そのときにも偉い人を訪ねたが、門前払いされた。
そこで、この偉い人とは誰なのか、これを著者は追跡していきます。
1928年(昭和3年)2月の第1回普通選挙で、労農党の山本宣治が京都第2区で当選するなど、全国で無産政党から49万票を得て8人が当選した。政府はこれに驚き、同年3月15日、治安維持法違反として一斉捜索・検挙した(3.15事件)。
テロリスト黒田は七生義団の相談役であったが、その前は、大阪や兵庫県で巡査をしていた。そうだったのか……、なんと元警察官がテロリストの正体だったのですね。
山宣暗殺を黒田に直接指示したのは、七生義団総理の木村清。木村はアリバイづくりのため、事件当夜は朝鮮に渡っていた。この木村の後ろには、警視庁特高課がいて、事件のあと黒田を免罪しようと動いた。しかし、本当の黒幕は大久保留次郎であり、事件のとき大久保は台湾総督府の警視総長として台北にいた。なるほど、なるほど、そういうことだったんですか。
自首してきた黒田を調べた警視庁特高課は、山本が先に手を出したから正当防衛だというキャンペーンをはろうとしていた。しかし、これに対して松阪廣政検事が、これは殺人事件だとして、誤ったリークをなした警視庁に厳重抗議をした結果、正当防衛キャンペーンは消え去った。
黒田は殺人罪で起訴されたものの、裁判中に保釈された。えーっ、嘘でしょう。思わず、叫びたくなります。今ならあり得ませんよ、これって。そして、判決は求刑どおりの懲役12年であった。そのうえ、黒田は恩赦を受けて6年後には出獄した。なんということでしょう。
黒田の法廷のほとんどは、七生義団の団員で占められていた。うむむ……。そして、刑務所内で、黒田は河上肇教授と出会った。『貧乏物語』で有名な河上教授です。不思議なめぐりあわせです。
事件の黒幕であった大久保は、千葉県知事、東京市長の要職を歴任し、戦後は代議士に当選して、国家公安委員長にまでなった。これに対して、テロリスト黒田は、1955年、北九州の遠賀療養所で、脳梅毒のため死去した。62歳だった。
よくぞここまで調べたものだと感心してしまいました。山宣に少しでも興味のある人には欠かせない貴重な本です。わずか170頁の本ですし、読みやすいので、すらすらっと読みとおすことができます。
(2009年4月刊。1600円+税)
2009年6月10日
アフリカ、苦悩する大陸
世界(アフリカ)
著者 ロバート・ゲスト、 出版 東洋経済新報社
アフリカが貧しいのは、政府に問題があるからだ。あまりに多くの政府が国民を食い物にしている。政府は正しく統治するためではなく、権力を行使する人間が私腹を肥やすためだけに存在しているように見える。官僚たちは、仕事の見返りに袖の下を要求する。警察官は正直な市民から金品を奪い、犯罪者たちは野放しだ。多くの場合、国で一番の大金持ちは大統領だ。大統領に就任してから、地位にものを言わせて富をためこんできた。
うひょう。すごいですね。これでは政治とか国家とかいうものに対する信頼関係が成り立つはずがありませんよね。
取材に訪れたカメルーンで、ビールを運ぶトラックに同乗した。途中47回も警察の検問で停止を命じられた。そのたびに警官たちにお金をつかませていた。おかげでビールは割高になっていった。賄賂は商売の潤滑油というが、アフリカほど蔓延すると、ほとんど商売にならない。
富を手にするもっとも確実な道が「権力」だとなれば、人々は権力を求めて殺し合う。アフリカではしばしば内戦に悩まされ、おかげで開発もままならない。
今やムガベ政府は、ジンバブエという腹に巣食ったサナダムシ同然だ。他人の労働の成果を食い物にし、国民の活力を吸いつくしている。白人は人口の1%にも満たない。白人よりも象の方が多い。そんな白人に、もはや政治力はない。
アフリカの吸血国家の改革がなかなか進まないのは、多くの場合、必要な改革を断行すれば、国を牛耳っている連中から権力と富を奪うことになるから。彼らは、特権を手放そうとしない。いやはや、どうしようもないという印象を与えます。小泉とか麻生が、まだ善人に見えてくるのですから、やはり異常すぎます。
銃を持った十代の少年兵はいつ見ても恐ろしい。年長の兵士なら、撃ってくる前に撃つべきかどうか自問する。それに比べて、子ども兵士の行動は予測しがたく、説得するのも難しい。酒やドラッグをやっているときには、なおさらだ。
1999年に、アフリカの5人に1人が内戦や隣国との戦争に揺れる国に住んでいた。死傷者の90%が民間人で、1900万人が家を捨てて非難を余儀なくされた。アフリカの土の下には、2000万発の地雷が埋もれていると推定されている。
貧困が戦争を生むだけでなく、戦争も貧困を悪化させる。内戦は、平均所得を毎年2.2%押し下げる。
アフリカでは、2002年までに1700万人がエイズで死亡し、2900万人がHIVに感染している。4600万人ものアフリカ人が死亡あるいは死すべき運命にある。2002年の時点で、エイズで両親を亡くしたアフリカの孤児は推定1100万人。
南アフリカでは、2002年のHIV感染率は15倍に跳ね上がり、世界のトップとなった。450万人の感染者がいた。これはアパルトヘイト廃止までの政治暴力による犠牲者の200倍になる。うむむ、これって、すごすぎますよね。政府がきちんと機能しているとはとても思えません。
カメルーンでは、瓶詰めされた水でも品質は怪しい。しかし、コカ・コーラなら、これを飲んで恐ろしい細菌性の病気にかかることはないという安心感を与えてくれる。だから、アフリカではコカ・コーラを飲むしかない。私は日本では絶対にコーラを飲みませんが、アフリカに行ったら飲むしかないようです。
ダイヤモンドに本質的な価値はほとんどない。だから、デ・ビアス社は価格を維持するために供給量を抑え、常にこの石ころのイメージアップを図ってきた。世間がダイヤモンドを、永遠の愛よりも恐ろしい戦争と結び付けるようになったらイメージ戦略が苦しくなる。
紛争ダイヤモンドとか、血のダイヤモンドというイメージを払拭しようと必死なのは、このためなんですね。むかし、映画館のコマーシャルで、ダイヤの指輪を婚約者に贈りましょう。月給の3倍が標準です。こう言っていましたが、これもデ・ビアス社の単なる広告だったのですね。それを知ったとき、私も欺かれた愚かな大衆の一人であったことを自覚しました。
前途多難なアフリカ大陸ですが、この本の最後のあたりでいくらか光明も見えてきたような気がするのが救いです。
(2008年5月刊。2200円+税)
2009年6月 9日
平和的生存権と生存権がつながる日
司法
著者 毛利 正道、 出版 合同出版
著者は私と同世代の長野の弁護士です。平和運動に挺身し、ブログなどでも積極的に情報を発信しています。そんな著者の熱意にこたえたいと思って、この本を紹介します。
2008年4月17日。名古屋高等裁判所が自衛隊のイラク派兵を憲法違反だと断罪したとき、その法廷に著者は代理人席ではなく、当事者としていたのです。さぞかし感動・感激の一瞬だったろうと思います。
名古屋高裁判決の画期的な意義が、著者自身の言葉で実に分かりやすく語られています。著者の父は寺の住職でしたが、応召して中国戦線に軍曹として従軍しました。しかし、帰国してからは「何人もの人を死なせてきた」というくらいで、ほとんど戦争の実像を語らなかったようです。それだけ重い荷物だったのでしょう。
いま、子どもたちが18歳になると、自衛隊への入隊を勧誘するハガキがどっと送られてくる。就職難ですから、自衛隊にでも入ろうかと思う子どもも多いようです。
一般の自衛隊員の自殺率は38.6(10万人あたりの自殺者数)であり、イラク帰還自衛隊員の自殺率は、その2.2倍となっている。自衛隊員の自殺率は、男性公務員の1.3倍、アメリカ兵の3.1倍である。
アメリカでは自殺率は意外に低いが、実数で見ると年間3万人なので、日本と同じ自殺者数となっている。ちなみに、アメリカには肥満が原因による死者が年間40万人もいる。アメリカで肥満は貧困の象徴なのである。
名古屋高裁判決は次のような憲法判断を示しました。
現在、イラクにおいて行われている航空自衛隊の空輸活動は、政府と同じ憲法解釈に立ち、イラク特措法を合憲とした場合であっても、武力行使を禁止したイラク特措法2条2項、活動地域を非戦闘地域に限定した同条3項に違反し、かつ、憲法9条1項に違反する活動を含んでいる。そうなんです。まったく、そのとおりです。そして、原告になった人々について、次のように温かい目で見ています。
そこに込められた切実な思いは、平和憲法下の日本国民として共感すべき部分が多く含まれているということができ、決して間接民主制下における政治的敗者の個人的な憤慨、不快感または挫折感等にすぎないなどと評価されるべきものではない。
著者は、この判決の価値として、立法行政府の重要施策に正面から司法判断を加えたことにあるとしていますが、まったく同感です。これまで三権分立という建前が、ほとんど生かされることのない司法の消極的な姿勢は、なんのために司法があるのかという疑問を広く抱かせてきましたが、名古屋高裁判決は、それを大きく打ち破ったのです。
そして、この判断は、単なる「傍論」だとして軽んじていけないことは言うまでもありません。当時の福田康夫首相の談話は、根本的に間違っています。
クレジット・サラ金被害者の九州ブロック交流集会が長崎でありましたので出かけてきました。この集会は、年に一回、「しっかり学び、元気に生きよう」をモットーとして、九州各県をまわりながら開かれていますが、今年で22回目です。初めのころは50人ほどのこじんまりした集会でしたが、いまでは300人もの人が参加する大集会となっています。長崎氏の田上市長が来賓挨拶してくれました。
長崎の原弁護士は、これまでの2回の長崎集会では現地実行委員会の中心人物としてになってきてくれましたが、今回は弁護士会長として来賓挨拶をしました。
パネルディスカッションのなかで、五島市の消費相談の課長さんたちのDVDが紹介され、女装までしての寸劇が演じられました。その熱演ぶりは大受けでした。
懇親会のとき、久しぶりに堀江ひとみさんにお会いしました。前の長崎集会のときには、ういういしい市会議員としての参加でしたが、今回はたくましさを感じる堂々たる県会議員としての参加です。その活躍ぶりは新聞でもよく拝見していました。美人のほまれ高い堀江さんに再会できたうれしさから、思わず2度も握手を求めてしまいました。
(2009年3月刊。1500円+税)