弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年3月 8日

若者の労働と生活世界

社会

著者 本田 由紀、 出版 大月書店

 非典型雇用ないし失業や無業の状態にある若者は3人に1人に達している。非典型雇用の規模は、他の先進諸国と比較しても相当に大きい。
 しかも、典型雇用と非典型雇用のあいだの賃金格差が他の先進諸国と比べても著しく、また『典型雇用への参入』が新規学卒時に限定されがちであることから、いったん非典型雇用・失業・無業の状態に陥った若者は、ほぼ永続的に困窮状態に置かれる確率が高くなっている。
 なぜ若者が自らフリーターや無業の状態を選び取っていくのか?
 その答えの一つは、若者たちが生きる文化に見出すことが出来る。中学時代の友人関係をベースにした場所・時間・金銭の共有を重視する文化的態度(地元つながり文化)の存在こそが、現在の状態を積極的に選び取る背景となっている。
 コンビニ店の売り上げは、1992年をピークとして、対前年比マイナス傾向にある。セブン・イレブンの加盟店の平均日収は1992年の68万2000円をピークとして、2005年の
62万7000円というように低下傾向にある。
 高齢者介護の現場にあっては、気がきくことが良い介護とは限らない。利用者の考えることに気づき、先回りして次々と用事を済ませてしまう。これは、利用者の「主体性」を奪うことでもある。そうではなく、介助者はあくまで利用者の「手足」でさえあればよい。
 うーん、これは難しいことですね……。
 現在の生徒には、自己肯定感が欠如している。生徒一人ひとりが自分を価値ある者にする。世の中に役立つ、自分はこれでいいんだという自信、その自己肯定感が発達させられていないことがあまりにも多い。自己肯定感を通じて社会に飛び込んでいける存在として、生徒を育てることが現在の学校に求められているものだ。
 大学入試と違って、就職採用という選抜システムは騙し合いである。うひょーっ、そ、そうなんでしょうか……。
 過食症が増加している。10年間で5倍にも増加した。過食症は女子中学生の300人に1人、女子高校生の50人に1人、女子大学生の50人に1人と推定される。一般の人が無理したところで食べきれないほどの量を食べる。過度な減量の反動としての過食である。
 身体に食べ物が入っていない状態が基本になっている。過食症者は過食をしていないときには、食事をほとんどとっていない。
 多くの過食症者は、過去にダイエットに成功している。意思の力で食欲を抑えることのできた経験があるからこそ、その後、過食症者は過食を身体的な問題ではなく、精神力や意思の弱さの現われとして受け止める。
 だから、その克服にあたっては「頑張らないこと」の重要性が指摘されている。接触層会社は、自分をコントロールしようとしすぎることで、摂食障害という状況に陥っている。
 摂食障害者は、ダイエットを継続する過程で、痩せている自分には価値があるが、痩せていない自分には価値がないと感じるようになっていく。それとともに、過食や嘔吐を繰り返すなかで、自分はだめだという気持ちを募らせていく。摂食障害の状況が自己否定を生み、自己否定が強くなるからこそ、なおさらに痩せることに固執するという悪循環がある。
 過食を治すために行うものに、食事を抜かず、規則正しく一定量を食べるという食事訓練がある。拒食症や過食症の人にとって、吐かずに普通に食べること、食事の量を増やしていくことは、非常に難しいことである。
 貧困を、経済的貧困、つまりお金がなく貧乏なこと、と素朴に考えている限り、「意欲の貧困」は貧困概念の中に自らの位置を持たず、常に自己責任論の餌食になるほかない。したがって、貧困とは「意欲の貧困」を含むものだと貧困論を構成する必要がある。非根を経済的生活困窮状態(所得や貯蓄)の問題に還元すべきではない。
 「意欲の貧困」とは、自分の限界まで意欲を振り絞ったとしても、それが多くの人たちが思い描く「当然ここまでは出せるはず」という領域にまで到達できない、という事態である。
 「意欲の貧困」は、もはや自己責任論の彼岸にある。そして、自己責任論は、つきつめれば死の容認へと至る。しかし、それは、「社会」という存在の自己否定である。
 現代日本における若者たちの置かれている状況について、現実をふまえて理論的にも深めることのできた本でした。
(2008年6月刊。2400円+税)

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