弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年12月15日

絵で読む歌舞伎の歴史

社会

著者:服部 幸雄、 発行:平凡社

 山田洋次監督のシネマ歌舞伎『人情噺・文七元結』を見ました。帰りに買ったパンフレットのなかで、山田監督が「あんまりハッピーなんで涙が出てしょうがないというニュアンスのものにしたい」と語っていますが、まさにその通りで、人情物の落語であり、私もうれし涙が止まりませんでした。映画が終わってスクリーンが真っ暗になり、また明かりがついて映画館を出るときには、すっかり気持ちが明るくなっていました。いい映画が見れて、なんと今日は幸せなんだろう。そんな気分で歳末を迎えて気ぜわしくなった町を歩いて帰宅することができました。
 主人公の中村勘三郎の顔が本当に生き生きしています。舞台と違って映画ですから、ド・アップの迫力があります。汗たらたらの役者の顔を大画面で見れるというのは本当にいいものです。昨年10月、東京は新橋演舞場で本当に上演されたものをカメラで撮影したもののようです。観客席、しかもド・アップで役者の顔が見れる超特等席に座っているかのような気分に浸ってあっという間に時間がたってしまいました。まだ見ていない方は、ぜひ映画館に足を運んでみてください。なぜか、いつもなら1800円で見れるのに、2000円となっていましたが……。
 この本は、江戸時代の歌舞伎をたくさんの浮世絵とともに紹介したものです。歌舞伎の語源となっている「かぶく」というのは、オーソドックスなものに反抗し、異端の思想・ふるまいをすること。
歌舞伎の歴史は、慶長5年(1600年)、宮中に参上した一座から始まる。お国のややこ踊りである。お国は男装していた。相手として登場した茶屋の女性は、むくつけき男性の狂言師が扮していた。
 その後、寛永のころ(17世紀前半)、遊女歌舞伎が流行した。このころ新しく渡来した三味線を主要楽器として使用したのが成功した原因の一つだった。
 そのあと、若衆歌舞伎が流行する。しかし、男色趣味と一体となって展開したことから、男同士のケンカ争論そして女性同士の嫉妬争いが日常的に起きて、風俗が乱れ、幕府は承応元年(1652年)、全面的に禁止した。ただし、翌年には復活・再開した。これを野郎歌舞伎という。
 初代の市川団十郎は「曽我物語」で荒事(あらごと)をはじめた。正義と勇気、そして超人的な怪力でもって悪鬼などを徹底的にやっつけてしまうのである。
 元禄時代、近松門左衛門は、歌舞伎の狂言役者として活躍した。「曽根崎心中」は実際に起きた事件を題材としたもので、興行的に大成功した。
 大坂(大阪とは書かない)の観客は、歌舞伎と人形浄瑠璃の両方を見ていた。相互に手ごわいライバル同士だが、もちつもたれつの影響関係をもっていた。そして、人形浄瑠璃は歌舞伎を圧倒してしまった。そこで、人形浄瑠璃であたった狂言をすぐに歌舞伎化して上演するようになった
 「花形」(はながた)という言葉は、本当は「花方」という。「実方」(みかた)に対して、芸に「花」のある役者をさす。初代の菊五郎は、「芝居が細かすぎるのだけが欠点だ」と言われるほど、演技の工夫をした実事仕(じつごとし)でもあった。
 江戸時代の中ごろ、役者の顔の特徴をつかんだオールカラーの似顔絵(錦絵)が流行し始めた。このころ、江戸の大衆は、大まかな荒事芸にあきたらず、内容のある芝居と屈折した人間の心情表現を求めるようになっていった。
 今、日本全国200ヶ所で地芝居が行われている。芝居は、その村を守る神社の行事として開催されることが多く、そして役者は、土地の素人である。
 多くの地芝居は、江戸の寛政から文化・文政時代に始まった。為政者による厳しい弾圧や膨大な出費を覚悟しても、毎年、奉納芝居をしたくてたまらない人が日本全国に無数にいる。都会でも農村でも、日本人は本当に歌舞伎が好きだ。明治末期から大正・昭和初期までが地芝居の最盛期だった。
 私も、父の伝記をつくる過程で、出身地である大川における農村生活の様子を聞いたとき、芝居興行が盛んだったことを聞かされました。父の本家前には、いまもクリークがありますが、そこに芝居小屋を造って父の子どものころまで芝居が演じられていたというのです。歌舞伎のことが視覚的にわかる楽しい本です。
 福島の知人から今年も「ラ・フランス」が届きました。A農園特産なのですが、ともかく美味しいのです。みずみずしく、柔らかくて甘い洋梨です。ほかのものは少し果肉が固かったり、ゴワゴワしているのがありますが、このA農園産は絶品です。いつも晩秋、冬到来の時期に贈られてきますので、「ラ・フランス」が来ると、冬到来になります。
(2008年10月刊。2600円+税)

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