弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年12月 1日

江戸城

江戸時代

著者:深井 雅海、 発行:中公新書

 江戸時代は格式社会である。
 大名も江戸城に入ると、下乗橋(げじょうばし)の手前で駕籠から降りなければならなかった。御三家は、その先の中之門の手前まで駕籠に乗ることができた。玄関からは大名一人の行動になる。数千人の家臣を持つ大大名に対しても、登城時から将軍の威光を示し、将軍家の臣下であることを実感させる工夫がなされていた。
 一般的な大名は刀を玄関に持ち込むことができなかった。それに対して、御三家は玄関式台より奥の大広間溜(たまり)まで刀を持ち込むことが許されていた。
殿中儀礼に参加することにより、大名は、大名同士の競争意識を植え付けられていた。
江戸幕府が大名を親藩・譜代・外様の三つに分けていたという史実はない。大名の家格としては存在しなかった。これは『武鑑』を見れば明らかである。
有力外様大名は正月2日に大広間で将軍に謁見している。それだけ将軍にとって遠く、煙たい存在であったことを示している。
 国持大名は、幕府役職の信任から排除されていたため、自分自身の序列を上げるには官位昇進しか途がなかった。国持大名とは、律令の国郡制の一国一円以上を領する前田や島津などの大名(9家)と、それに近い規模をもつ伊達や細川などの大名(9家)をさし、十八国主と称された。
 旗本の場合は、どんなに高い家禄をもらっていても、諸大夫役に任命されないと官位は与えられなかった。
老中は、毎日九ツ時(午後0時)ごろに執務室を出て、近くの部屋を一巡する「廻り」という行事を行っていた。老中の執務時間は、四ツ半時(午前11時ころ)から八ツないし八ツ半時(午後2時から3時ころ)まで。つまり、老中の御用部屋での執務時間は3〜4時間と、限られていた。
 老中は通常4〜5人、若年寄のほうは3〜5人。ともに大事は合議で、日常的なことは月交代の月番制で処理していた。老中の合議は、書付を扇子にはさんで回覧するという、書類による稟議だった。
 将軍綱吉の時代に、老中の御用部屋が将軍の御座所から遠ざけられた。真の理由は、老中合議制から将軍独裁制への転換を図ったものである。
 寛政の改革、天保の改革は、いずれも主導者の松平定信、水野忠邦が老中を解任されて改革は終了した。松平と水野がだんだん独裁的になり、幕閣内で孤立化したことが要因とみられている。つまり、老中数人の合議を基本とする老中合議制という仕組みの中では、改革を長期間持続することが困難なことを意味している。
 なーるほど、ですね。
 歴代の将軍のうち、正室の御台所の子は三代家光だけ。世嗣をもうけるうえで、側室は不可欠だった。
 家綱・綱吉・家継の生母の父は、農民・町民・僧である。吉宗の生母の父も農民である。庶民の出身であっても、将軍の生母となれば、本人のみならず、親族の栄達も約束された。ただし、八代家斉の側室は全員が旗本の娘である。この時期に、側室は女中の中?から選ぶという制度がほぼ確立した。
 側室は、たとえ将軍の世嗣を産んでも、女中身分のまま。わが子が将軍職を継ぐと、はじめて家族の構成員となり、多くの女中がつけられた。
将軍の娘は、大名家などに嫁いだのちも、あくまで将軍家の「姫君」として遇された。この点、将軍の息子が大名家に養子に入ると、基本的にその家の人間になる。両者の扱いは大きく違っている。
 将軍家の娘が大名家に嫁ぐと、大名家の江戸屋敷地に別棟の住居が建築された。その住居を、御三家・御三卿など三位以上に昇進できる家に嫁いだときは「御守殿」他の大名家に嫁いだ場合は「御住居」(おすまい)と称した。そして、幕府若年寄の一人が「御掛」を命じられ、幕府から一定の「賄料」(まかないりょう)、つまり、生活費を支給され、女中と広敷役人が付けられた。
 将軍家御成、つまり、将軍の外出先として定められていたのは、上野の寛永寺と芝の増上寺、そして江戸城内にある紅葉山のみ。それ以外は個人差がある。将軍が大名の屋敷に出かける時には、たった一日の御成であっても「御成御殿」を造営して将軍を迎えた。将軍がたとえ一日移動するときであっても、幕府政庁の中枢が一緒に移動した。つまり、御用人、老中、若年寄などの執務室や奥右筆の部屋も一緒にもうけられたのである。
 江戸中期以降、将軍が外泊することはほとんどなかった。その例外が日光社参である。
 江戸時代の将軍とその取り巻きの人々の生活の一端を知ることができました。
(2008年4月刊。760円+税)

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