弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年12月26日

プルーストとイカ

著者:メアリアン・ウルフ、 発行:インターシフト

 サブ・タイトルは、読書は脳をどのように変えるのか?です。
 人類が文字を読むようになってわずか数千年しかたっていない。ところが、これによって脳の構造そのものが組み直されて、考え方に広がりが生まれ、それが人類の知能の進化を一変させた。読むというのは、歴史上もっとも素晴らしい発明のひとつだ。
現在のヒトの脳と四万年前の文字を持っていなかったころのヒトの脳に、構造的な違いはほとんどない。なーるほど、字を読むというのも大きな進化だったのですね。
 アルファベットは、文字数を節約したことで、ハイレベルの効率性を手に入れた。楔形文字は900字、ヒエログリフは数千字を数えるのに対して、アルファベットはわずか26文字である。今日、世界にある3000言語のうち、文字をもっているのはわずか78言語でしかない。
 日本語の読み手は、漢字だけを読むときには中国語と同様の経路を使う。ところが、規則性が高く平明なかな文字を読むときは、むしろアルファベットの読み手に近い経路を使う。かたかなとひらがな、そして漢字との間を行き来しながら読み進める能力を備えた日本語の読み手の脳は、現存するもっとも複雑な読字回路のひとつを備えていると言える。     
アルファベット脳は、左半球の一部の領域のみを賦活させているのに対し、中国語脳は左右両半球の多数の領域を賦活させる。その結果、脳梗塞になったとき、中国語は読めなくなったけれど、英語は読めるということが起きる。
 ですから、日本人の多くが英語を苦手としているのは、脳の回路の運用が異なるからだという説には合理性があります。
 脳は、自らの設計を順応させる驚異の能力を備えているので、読み手はどんな言語でも、効率性を極めることができる。
言語の発達にとって大切なことは、子どもに対する話しかけ、読み聞かせ、子どもの言葉に耳を傾けることである。
 幼児期に身につけた語彙が少ないと、その後の成長過程で大きな差となって現れる。親との接触に乏しい子どもが多いせいか、アメリカの子どもの40%が学習不振児である。
 文章を追う目の動きは、一見すると、単純のように見える。いかし、実は、眼球は絶えずサッカードと呼ばれる小さな運動を続けており、その合間にごく瞬間的に停留と呼ばれる眼球がほぼ停止する状態が起こる。読んでいる時間の10%は戻り運動という、既に読んだところに戻って、前の情報を拾い上げる運動にさかれる。
いやあ、そうなんですか。目の働きと視野って、単純ではないのですね。
大人が読むときにサッカードでとらえられる文字数は8文字ほどで、子どもはそれより少ない。このおかげで、文章の行にそって周辺領域まで先読みすることができる。このようにして、常に先にあるものを下見しているので、数ミリ秒後に行う認識が容易になって、自動性が一層高まる。
 ディスレクシア(読字障害)を持つ天才・偉人は多い。トーマス・エジソン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、アルベルト・アインシュタインなどである。彼らは小児期に読字障害を抱えていた。
 ところが、ディスレクシアの人々の大半は、非凡な才能に恵まれている。なぜか?
 ディスレクシアの人々の脳は、左半球に問題があるため、右半球を使わざるをえなくなり、その結果として、右半球の接続のすべてが増強されて、何をするにも独自のストラテジーを展開するようになった。文字を読むには不向きでも、建築物や芸術作品の創造やパターン認識には不可欠なものがある。
ディスレクシアは、脳が、そもそも文字を読むようには配線されていなかったことを示す、もっとも分かりやすい証拠である。
日本人が英語を長年にわたって勉強していても、ちっともうまく話せないのは、決して日本人が他の国の人より劣っているからではなく、脳の回路の使い方なんだということがよくわかる本でもあります。
 東京にあるちひろ美術館に行ってきました。高田馬場から西武新宿線に乗って各駅停車で20分ほどの上井草の駅で降ります。駅前に案内表示がありますので、それを見て踏切を渡ります。両側が小さな商店街になっていて、昔懐かしい駄菓子屋もありました。電柱に案内が出ていて、迷うことなく右折し、左折し、また右折するといった具合に住宅街のなかを歩きます。土曜日のお昼前、11月上旬の陽気でしたから、ちょうどいい散歩です。ちひろ美術館は、元は松本善明代議士(弁護士)の自宅をそっくり改造した新しい建物です。すぐ前にマンションも建っていますが、まったくの住宅街です。高級住宅地というのではありません。昔は練馬大根でもとれていたのではないかという感じです。
 空調のよくきいた部屋にちひろの絵があります。やわらかい、ふっくらした子どもたちの顔がなんとも言えず心を落ち着かせます。昔からちひろの絵は大好きなので、うちの子どもたちにもたくさん童話を読み聞かせしてやりました。
 ちひろの絵は、幼い子の小さな手指までしっかり描かれているうえ、ボカシが見事だったり、色彩感覚にも素晴らしいものがあります。絵の中の子どもたちは、動きはありますがどちらかというとじっとたたずんで、こちらを見つめています。変に胸騒ぎのする絵ではありません。
 ただ、戦火の中の女の子は、厳しく、寂しげな表情をしています。視線はあらぬ方向を見ていて、決して私たちと目線をあわせようとはしません。目線をあわせてニッコリ微笑んでくれるなんて期待できないのです。みている人の気持ちを悲しませます。戦争反対とただ叫ぶのより、よほど気持ちがひしひしと伝わってきます。
 たくさんのちひろの絵を眺め、ちひろのアトリエをのぞいて、すっかり満ち足りた思いで、また住宅街のなかをゆっくり駅に向かいました。いい一日でした。
 今度は長野にあるちひろ美術館にもぜひ行ってみたいと思います。
(2008年12月刊。2400円+税)

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2008年12月25日

ランド、世界を支配した研究所

アメリカ

著者:アレックス・アベラ、 発行:文藝春秋

「研究と開発」Research and Development から来ているランド研究所は、カリフォルニア州の海岸沿いの都市サンタモニカにある。
どのように戦争を展開し、どのように勝つかについて、政府、なかでもアメリカ空軍に助言すること。これがランドの設立目標だ。
ランドは、その時代とともに、その本来の使命を巧妙に隠していった。
ランド出身は多い。ノーベル賞経済学賞受賞者のポール・サミュエルソンもその一人。
私は、大学1年生の時、このポール・サミュエルソンの大都市経済学の本を手にとって、途方に暮れました。さっぱり分からないのです。まるで理解できませんでした。なにやら数値と数式がたくさん書いてありますが、それらが何を意味するものか、全然理解できません。よほどの名著だと言われていたわけですが、なにしろ全く理解できないのですから、悲しくなってしまいます。マルクスの『資本論』は、同じく難解でしたが、こちらのほうは何回か読み直すと、少しは理解できました。ですから、ポール・サミュエルソンという名前を聞くと、私は大学時代の悲しいショックがまざまざとよみがえってきます。
この本ではランドで中心的に活躍してきたウォルステッターが焦点にすえられています。ウォルステッターは1930年代にトロツキー派の革命労働者党同盟の一員だった。1920年代のアメリカには、大学生の中に、ボルシェヴィキ派とトロツキー派とが競合していた。まるで1960年代の日本の大学のような雰囲気があったようです。そして、そのトロツキー派だった学生たちが、ネオコン(新保守主義)の理論家になっている。うひゃあ、これまた日本と似てますね。西部すすむとか青木なんとか、いろいろいますよね。
ウォルステッターは、古いトロツキー主義にとらわれ、ソ連は、完全に思想統制されており、世界征服を目指しているという国家信念にこり固まっていた。そうではないという事実があっても、思いこみは終生変わらなかった。
ウォルステッターは、1950年代以降ランドの教祖的な存在だった。
1979年、電話交換手のミスによって、アメリカが核攻撃を受けているとの誤情報が流れ、三つのアメリカ空軍基地から戦闘機10機が緊急発進した。翌1980年にも、コンピュータの誤作動で、ソ連がアメリカを攻撃中という情報が流れ、危うくB52爆撃機100機が出動、ICBMが反撃準備に入ろうとした。うへーっ、これってケネディのキューバ危機より怖いですよね。
ユダヤ人のハーマン・カーンは、話好きだった。カーンは次のように力説した。
核シェルターは、物理的に民間人を守るだけでなく、ソ連に対する抑止力にもなる。たとえば、アメリカ人2億人のうち、核戦争によって3000万人が死んでも、まだ、1億7000万人が生きている。核シェルターによって死者を1000万人減らせば、国を再建するのに十分な数のアメリカ人を確保できる。核攻撃を受けてもアメリカ人が生き残って反撃に出るとわかっていたら、ソ連は先制攻撃を仕掛けては来ない。
うひょう。こ、これって、中国の毛沢東の「ハリコの虎」理論とウリ二つではありませんか。毛沢東は中国人の1億人か2億人が死んでも、まだ3億人も4億人も残っていると言い放ちました。どちらも人命軽視です。とんでもない連中ですよね。
アメリカの核戦争の発射ボタンは大統領が一つ持っているはずだった。ところが、アイゼンハワーは、核攻撃開始の権限を作戦現場の司令官に委譲していた。そして司令官は、直属の部下へ委譲していた。だから、ちょっとした間違いや職権乱用によって核攻撃が始まる危険は高かった。
ペンタゴン・ペーパーをマスコミに流したダニエル・エルスバーグは、ランド研究所のホープだった。アメリカがベトナム戦争で負けたら東南アジア全体が共産主義化し、最悪の専制政治と国民抑圧体制を招くと信じ込んでいた。ところが、ベトナムへ実情視察に行ってみると、ベトナム戦争が間違いであることをたちまち気づかされた。無意味な領土拡大、 汚職、殺人。そして、ベトコンとは熱烈な愛国者たちであることを深く実感した。
1969年10月10日、エルスバーグはペンタゴン・ペーパーをランド研究所から持ち出した。たとえ売国奴として有罪判決を受け、残りの人生を監獄で暮らすことになってもいいと決意していた。
ダニエル・エルズバーグの行動がなかったら、ニクソン大統領のウォーターゲート事件は起きなかった。そして、民主党の支配する国会はベトナム戦争拡大への歳出をストップした。その後、2年たたないうちにサイゴンは陥落し、ホーチ・ミンは勝利した。
レーガン大統領はランドの進言に沿って個人所得税率を70%から28%へ、法人所得税率を40%から31%へと一気に引き下げた。最大の減税効果を受けたのは高所得者層だった。自由主義の成長と合理的選択の普及を促すレーガンの改革路線は、ランドの改革路線であり、これは現在も続いている。
そうなんです。今世界に金融危機をもたらしている新自由主義経済。なんでも自由にして、強い資本を思うままに野放しにする政策です。今まさに、それが世界市場を滅茶苦茶にし、私たち市民の生活を破壊している元凶となっています。
ベトナム戦争の時、当時の北ベトナムに激しい爆弾の雨を降らせたカーチス・ルメイ将軍もランド研究所に深く関わっていました。ベトナムを石器時代に戻すとうそぶいた男です。そして、このカーチス・ルメイこそ、日本に焼夷爆弾攻撃を仕掛けた張本人です。軍隊や兵器工場だけでなく、一般民間人を無差別に殺しても構わないと指令したのです。戦後、日本政府はそんなカーチス・ルメイに対して、なんと勲章を授与しています。とんでもないことではないでしょうか
ランド出身者のリストを見ると、いやはや、すごいものです。ウォルフォウィッツもコンドリーザ・ライスも出身者ですし、古くは、マクナマラやキッシンジャーもそうです。
日本がアメリカのようになってはいけないと強く思わせる本でもあります。
朝、雨戸を開けると、鮮やかな紅葉が目に飛び込んできます。目が洗われる思いのするほど、輝くばかりの紅色です。かすみの木とも言われますが、スモークツリーの木が紅葉しているのです。そばにある小さなモミジの木も顔負けです。道ぎわにあるロウバイも見事に黄変しています。冬至は過ぎ、春が待ち遠しくなりました。


(2008年10月刊。2095円+税)

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2008年12月24日

われとともに老いよ、楽しみは先にあり

アメリカ

著者:リング・ラードナー・ジュニア、 発行:清流出版

 タイトルの文句はロバート・ブラウニングの言葉である。著者は、80歳になっても、自分を年寄りだとは考えていない。その理由の一つは、生涯を通して、どのようなグループ属していても、いつも最少年者だったという感覚が残っているから。また、自分が余計ものであるとか、他人の邪魔になっているとか、そういう感覚がないからだ。なーるほど、ですね。
 この本は、ハリウッド・テンの一人として、アメリカの強烈なアカ狩り時代の犠牲者となったシナリオ・ライターが、自分の一生を振り返ったものですが、その楽天的ともいえる処世観には感嘆するほかありません。すごいです。その才能も偉大なものです。というのも、著者とその友人たちがシナリオをつくったという映画は、いずれも私たちもよく知る、今も見たい映画として必ず登場するようなものばかりなのです。そんな才能のある人々を、アカ狩りの対象としてハリウッドから追放しようとしたなんて、狂気の時代のアメリカとしか言いようがありません。著者の映画として有名なのは、1942年の「女性No,1」と1970年の「M☆A☆S☆H」です。残念なことに、私はどちらも見ていません。
 著者はアメリカの国会に喚問され、当時6万4000ドルと言われた質問を次のように投げかけられた。
「あなたは、今、共産党員ですか。あるいは、これまでに共産党員であったことはありますか?」
その答えは、「質問に答えようと思えば、答えられるでしょう。でも、答えてしまえば、あとで自分が嫌いになる」というものだった。トーマス委員長は、著者に退廷を命じた。
著者はアメリカ共産党員だった。しかし、ソ連のスパイでは決してなかった。そして、アメリカをソ連の路線にそって再建させようとは考えてもいなかった。アメリカにおいては、合理的な経済システムへの転換は、選挙によって平和のうちに成し遂げられるものと信じていた。むしろ、ソ連のスパイにとって愚行中の愚行は、アメリカ共産党に入ってFBIの対象となることだった。
 ところで、著者に退廷を命じたトーマス議員は、3年後、連邦刑務所で著者と同じ受刑者仲間として顔を合わせた。著者はトーマス委員長の質問に答えなかった罪で1年の服役を命じられていた。そして、トーマス議員は部下の職員をでっちあげて給与を着服したとして、横領罪で刑務所に入って来た。なんということでしょう。皮肉ですね。
 それまで、ハリウッドでは、共産党員の脚本家ほど、高い生活水準を維持し、社会と融合で来ていた者はいなかった。共産党員であることに伴う不文律のひとつに、党員であることを喧伝しないという暗黙の了解があった。
 著者は、プリンストン大学に入ると、社会主義研究会に入り、活動を始めた。著者が共産党に好意を寄せたのは、ファシズムに対して、真っ向から反対の姿勢を守り通していたからである。
著者は、ハリウッドで共産党に入党した。その当時、25人ほどの党員が、5年後には200人をこえていた。25人の半数は脚本家で、ほかは俳優、監督、スクリプト・リーダー、事務職員だった。党活動には、やたらと時間を奪われた。出席しなければならない夜の会合や行事などが週に4回も5回もあった。
 ただし、誰もソ連と同じ政治体制をアメリカに持ち込もうとは考えていなかった。独裁判はごめんだったし、批判者に対する圧政も、ごまかし選挙も、芸術のプロパガンダ化も、みなお断りだった。アメリカを社会主義に変えられると確信していたが、それは現在もっているアメリカの自由を損なわず達成できるものであり、ロシアにはそもそもそんな自由がなかった。
スペイン市民戦争の激化とナチスの強大化にあわせて、ハリウッドの共産党は党員を増やし、勢力を拡大した。党員は、いわゆるリベラリスト・確信主義者と良好な関係にあった。ところが、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、翌月、第二次世界大戦が勃発すると、左翼リベラル連合はまっぷたつに引き裂かれた。
 この困難な時期に共産党を離れる者は増え、新しく入党する者は少なかった。その入党者の一人に、著者の友人のドルトン・トランボがいた。
 トランボは、『ジョニーは戦争へ行った』の作者である。私も、この映画を見ましたが、強烈な印象を受けました。
 戦争中、アメリカ国民に同盟国ロシアの美点を理解させるための映画がつくられた。ローズベルト政権の肝入りで、ワーナーとMGMが映画を作った。
 うひゃあ、そうだったんですか……。
戦後、アカ狩りが始まったとき、共産党員であるか否かの質問にどう答えるのかが問題だった。トランボと著者は、唯一悔いを残さない答え方は、質問に答えないことだと主張した。
 ところが、カリフォルニア州の前検事総長だったロバート・ケニー弁護士は、証言拒否に反対した。それぞれの方法で、質問に答えるべく努力したと主張できるようにすべきだというのである。ケニー弁護士の策戦に従った結果、同情的だった第三者には、ハリウッド・テンの狡猾でがさつな姿を印象付けただけだった。そのため、応援していたリベラリストたちに深い落胆を与えてしまった。このとき、一切の質問に答えないという単刀直入の姿勢のほうが、もっと威厳を得たし、著者たちの主張をはっきりさせるうえで、もっと効果的だった。
うむむ、なるほど、なるほど、そうでしょうね。でも、当時のアドバイスとしては難しい判断だったろうとしか、言いようがありません。
著者を含めたハリウッド・テンは刑務所に入り、やがて1951年に出所した。戻っていった先のハリウッドは、まだパニックの渦中にあった。著者もゴースト・ライターとして生きるしかなかった。ゴースト・ライターとしてハリウッド・テンの人々が脚本を書いた映画の題名がすごいんです。『戦場にかける橋』『スパルタカス』『アラビアのロレンス』『野生のエルザ』『M☆A☆S☆H』などなど。
ハリウッド内のアメリカ共産党の影響力の大きさとその活動の実情がてらいなく紹介されている本として特筆されます。それにしても、彼らの才能のすごさには脱帽します。
東京・四谷にある小さなフランス料理店で食事してきました。筑後市出身のシェフががんばっていて、本で紹介されていましたので、一度ぜひ行ってみたかったのです(北島亭)。ついた時は先着の客は1組のみでしたが、やがて6つほどあるテーブルが全部埋まりました。オードブルは生ガキでした。ほっくり身の厚いカキを久しぶりにいただきました。口中に入れてとろけると、うむ、今夜の食事はいけそうだと幸せな予感で一杯になります。ワインはこの夏にはるばる行ったシャトー・ヌヌ・デュ・パープです。05年のハイ・ベルナールを注文します。見事に大きなワイングラスにワインの赤い色がよく映えます。おいしいワインは料理とともに舌になじみ、食欲をそそります。お任せコースで次々に魚料理、そして肉料理が出てきます。しっかりした味付けでした。ああ、おいしい……。
(2008年5月刊。2500円+税)

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2008年12月23日

プラネット・グーグル

アメリカ

著者:ランダル・ストロス、 発行:NHK出版

 グーグルの収入は2002年に4億ドル、2003年に14億ドル、2005年に61億ドル、
2007年に165億ドル。純利益のほうも、2002年の1億ドルから、2007年には42億ドルになった。収入の99%は、例のシンプルなテキスト広告によるもの。
 といっても、グーグルの規模はマイクロソフトには遠く及ばない。2007年にマイクロソフトは510億ドルの売り上げ額があったのに、グーグルは165億ドルでしかない。
 グーグルが業務につかっているコンピューターは100万台にも及んでいる。これが世界最大規模のスーパーコンピューターを形成している。
 グーグルの求めている人材は、単に高い教育を受けた人ではなく、きわめて高い教育を受けた人。採用した100人のうち40人は、博士号取得者だ。
 グーグルは16億500万ドルでユーチューブを買収した。
 グーグルは地球の全人口の3分の1をカバーする地域では、住宅や自動車までも認識できる写真を提供する。グーグルアースそしてストリート・ビューの出現だ。
 ユーチューブは、2007年末の時点で月に30万本の動画を提供している。そしてグーグルは、その運営によって、それなりの収入得たとは言っていない。
グーグルを使って個人情報を調べてみると、アメリカでは個人の純資産・政治献金・趣味などが簡単に見つかった。
 グーグルって、怖い存在なんですね……。

(2008年9月刊。2000円+税)

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2008年12月22日

「声」の秘密

人間

著者:アン・カープ、 発行:草思社

 声は人間が持つきわめて強力な道具であり、意思の疎通において何より重要なもの。声は体の一部であると同時に、心の一部でもある。
 誰かのことを本当に知りたいなら、その人が話すのを聞いた方がいい。
 いやあ、本当にそうですよね。聞いているだけでうっとりする声ってありますよね。その点、アソー氏なんて最悪です。聞いていると、悪代官かギャングを連想させてしまう悪声です。
 声は聴診器でもある。体の異常を絞り出し、病名まで教えてくれる。疲れも確実に声から聞き取れる。声はコミュニケーションのカギを握っている。にもかかわらず、その大切さをほとんど気づいていない。
 映画の吹き替えは、どんなにうまくやっても肝心の効果が薄い。私は映画は字幕版しか見ないようにしています。
海外に出かけて困ることの一つは、自分の国にいるのと違って、声から情報を引き出せなくなること。
 耳は1400種類の周波数(ピッチ)を聞き分ける。声の周波数と大きさとをさまざまに組み合わせると、耳は30万~40万の音を聞き分けている。
 自分の声の録音を聞かされると、自分の声とは思えないのは、自分の声を聞くときには、空気を解す(空気伝導)ではなく、骨を介して(骨伝導)聞いているから。いわば、自分の頭の中を通った音を聴いているから。
 胎児は、妊娠14週で音に反応しはじめ、28週で聴覚刺激に反応し、声を識別している。母親の声は胎児の心拍数を大幅に遅くする。心を落ち着かせるということだ。新生児は、生まれたその日から大人の話す言葉に合わせて体を動かしている。なーるほど、すごいですね。
 大人が年をとるにつれ、声は同性の親に似てくる。そうなんですよね。良かれ悪しかれ……。
 法廷で一番重要な道具は声だ。その使い方を心得ている者こそ偉大な弁護士と呼ばれる。場の雰囲気を声で自在に作り出せない弁護士は成功しない。いやあ、そういわれると、そうなんでしょうが……。
 失語症グループにアメリカのレーガン大統領(当時)の演説を聞かせると、腹を抱えて笑いだした。わざとらしさや嘘を声から感じ取ったのだ。ふむふむ、なるほど、ですね。
女性の声帯は1日に100万回以上も振動する。男性だと50万回ほど。男女の声が違うのは、咽頭・喉仏の違いによる。
 男性の方が声が低いのは、女性よりも咽頭が大きく、声帯も長く厚いから。思春期に体が変化した少年の声帯は1センチも大きくなり、喉仏が出るのに対して、少女の声帯は3、4ミリしか大きくならない。男性の声の平均ピッチ(周波数)は120ヘルツ。女性の方は225ヘルツである。
 生後6か月までは男児も女児も声の高さは85~97ヘルツ。生後1年たつと、女児は110ヘルツに上がるのに、男児は80ヘルツに落ちる。
 日本人女性ほど高い声で話す女性は世界のどこにもいない。日本人女性が丁寧にしゃべっていると、450ヘルツという異常なほどの高音になる。イギリス人女性は320ヘルツを超えることはない。
 ヒトラーは、書き言葉より話し言葉を好んだ。話す言葉には魔力があると考えていた。ヒトラーは洗練された演説手法を慎重に計算して用いていた。原稿を読むのではなく、主な項目とキーワードを記した大まかなメモを見ながら演説した。そうすると、自分の心の赴くままに話しているような自然さと親しさが感じられる。ヒトラーは野次を飛ばす人間にもうまく対処できたし、喝采を浴びたときには、拍手が収まりかけた絶妙のタイミングで口を開くコツを心得ていた。
 ヒトラーは会場のホールにわざと遅れて入っていく。そして、耐えがたいほど長く間をとった。それから、ゆっくりと語りだす。滑り出しの調子を低く抑えることで緊張を高めるのだ。次第に声を大きくしていき、野次を受けて口調も戦闘的になって、痛烈な皮肉を織り交ぜていく。叩き潰す、力、容赦なく、憎悪といった言葉を意図的に繰り返しながら自らを叱咤激励していき、ほとんどヒステリックといえる領域まで声を高くして強い憤りを吐き出す。最高潮になるとヒトラーの声はかすれる。だが、決して我を忘れることはない。
 普通の人が怒ったときの声は200ヘルツであるのに対して、ヒトラーの演説は228ヘルツもあった。この高い声と声にともなう感情が聴く者を受け身の状態に置く。
 ヒトラーの大演説はあまりに攻撃的だったので、聴衆が選べる選択肢は一つしかない。自分が攻撃されたくなければ、攻撃者に賛同するほかないのだ。
 いやあ、大変勉強になりました。学者って、ホントすごいですね。

(2008年10月刊。2200円+税)

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2008年12月21日

日本の原像

日本史(古代史)

著者:平川 南、 発行:小学館

 5世紀の倭国王は、稲荷山古墳出土鉄剣や江田船山古墳出土鉄刀の銘文にみられるように、仕え奉っている人からは「大王」と呼ばれていた。しかし、鉄剣銘に「王賜」と見えるように、倭国王自身は日本列島の内外で「王」と名乗っていた。王の一字だけでもオオキミと読まれる。
 607年に派遣された小野妹子が携行した国書を見て隋の煬帝は怒った。それは、中国の皇帝と同じ「天子」を蛮夷の国である倭国王が名乗っているのを無礼としたのである。煬帝は、「天子」という対等関係を記した国書を許さなかった。つまり、煬帝は「日出づる処」とか「日没する処」というのに怒ったわけではないというわけです。
 推古朝のときは、国内的には「王」か「大王」を、対外的には「天子」を用いていて、まだ「天皇」という言葉は使っていなかった。
 日本の君主の称号が公式に「天皇」と定められたのは、「皇后」の呼称と同じ飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)によってのこと。(689年)。
中国の唐朝において、高宗を「天皇」、武后を「天后」と称した。天皇というのは、本来、宇宙を統治する天帝という意味である。武后は皇帝より一階級下げた意味で「天皇」号を定めた。つまり、中国では「天皇」号は「皇帝」の称号より下位に位置づけられていた。したがって、日本が「天子」「大王」にかわって「天皇」号をつかっても中国にとって何ら不都合はなかった。
 天皇の和訓はスメラミコトである。スメラとは「澄む」に由来し、聖別された称号である。ヤマトの大王は天子またはアメタリシヒコと称していたが、天武朝に至って、このアメタリシヒコから「清浄な神」スメラミコト=天皇へと昇華した。
 古事記には一例も「日本」が出てこない。日本書紀の「日本」に対して、古事記は「倭」と呼んでいた。「天皇」号も「日本」国号も、その大前提として中国の承認が必要だった。中国にとって不都合でないと認められたものを選ばなければならなかったのである。
 日本は、仏典の説く「日出ずる処は是れ東方」という位置づけに置いた。あくまでも中国的世界像の東方に位置づけたことから、中国側も容認したのであろう。
 うむむ、日本という国名も、天皇という称号も、ともに中国の許容しうる範囲内のものであったというわけなんですね。驚きました。知りませんでした。
 稲の品種名は、古来、和歌や農書など、さまざまな文献に記されてきた。国家経済の根幹である稲作に対して、人々が常に関心を寄せてきたことの表れである。
 出挙(すいこ)は、毎年、春3月と夏5月に国家が農民に稲を貸し付けて、秋の収穫時に普通は5割の利息とともに徴収する制度である。この5割の利息は、国家財政にとって魅力的なものであった。
稲の品種改良が多かったことは、品種ごとの成長時期のずれによって、風倒などの被害の危険性が分散されるわけである。風水害だけでなく、病害虫に対する備えとしても多品種の作付けは有効である。
 古代日本と中国の関係について、さらに認識を深めることができる本でした。

(2008年9月刊。933円+税)

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2008年12月20日

中国社会はどこへ行くか

中国

著者:園田 茂人、 発行:岩波書店

 中国の階層形成にとって、教育はもっとも重要な要素の一つになっている。幼稚園や小学校のレベルでも階層分化の問題が顕在化している。幼稚園や小学校のあいだで序列化が進んでいる。よい幼稚園や小学校は、しばしば政府機関の肝いりでできる。政府部門から支援されているため、設備や教員の資質がきわめて高いものの、学費は安く抑えられている。一種の特権である。
 最近、経済力と学歴取得が結びつつある。
 生活費や住宅費が上昇しているので、中産階級では子どもに教育を与えるのが徐々に苦しくなっている。農村では、子どもが中学や高校に通っているときには、世帯収入の半分が教育費にかけられている。
 中国政府は、みずからの政治理念を広く普及させようとしているが、共産主義教育は明らかに失敗してしまった。文革中の理念を紹介しても、誰も聞こうとはしない。中国の多くの市民は、社会主義の理念を信じていない。
中国の三大問題は、教育費の高騰、不動産価格の上昇、医療費の高額化である。これにもっとも敏感に反応しているのが、中産階級である。なかでも、もっとも深刻なのは不動産価格の上昇だと考えられている。
 インターネットでの議論をリードしている若者たちは、一定の教育水準があり、中産階級予備軍である。
人々の多くは現在の中国の指導者である胡錦濤、温家主の悪口を言うことはほとんどない。なぜか、大変に良いイメージをもっている。
 私営企業家は、共産党員にならなくても政治に参加できるルートが広がっている。現在の中国で、富を生み出す最大の源泉は土地である。
 中国の今の青少年は、労働者になりたがらない。若者たちは、お金持ちになりたい気持ちと、金持ちになるのはいけないことだという気持ちを同時に抱いている。つまり、ニューリッチは裕福な人として人々の羨望の対象となっている。しかし、同時に、人々には「金持ちは汚い」という感情が渦巻いている。
 家庭教育の貧困がもっとも深刻な問題である。汚職でも、住宅問題でもない。受験勉強しか生み出さない家庭教育こそ、中国社会のかかえる最大のアキレス腱である。
 イデオロギーとしてのマルクス主義は生命を失ってしまった。一般庶民も共産主義の理念を信じていない。だからといって、共産党は自由主義的価値観を受け入れることはできない。となると、どうしても伝統的な価値観を利用せざるをえない。そこで、儒教が登場してくる。共産党の統治を正当化するイデオロギーは儒教しかあり得ない。儒教抜きに共産党の存続は不可能である。
 中国の行方を中国人の若手学者がいろんな角度から指摘している本です。いろいろ考えさせられました。
(2008年5月刊。1800円+税)

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2008年12月19日

在日米軍最前線

社会

著者:斉藤 光政、 発行:新人物往来社

 ミサイル防衛とは何か。それは敵国から飛んでくる弾道ミサイルをいち早く高性能のレーダーでキャッチし、着弾前に撃ち落とす防空システムのこと。日本が仮想敵国としているのは、もちろん北朝鮮と、その背後に控える中国だ。
 日本版ミサイル防衛網は、とりあえず、PAC3を4個高射群、SM3搭載のイージス艦4隻、FPS-5を4基調達することにした。その費用総額は1兆円に達する。
 しかし、その信頼性や命中精度などに多くの問題点を抱えている。実際、弾丸を弾丸で撃ち落とすようなものだ。本当に当たるのか?
 ミサイル防衛は、高価な割に実用性がほとんどない(アメリカ物理学会)。PAC3のカバー範囲は、現用型(PAC2)の4分の1程度(航空自衛隊幹部)と厳しい指摘がなされている。システム全体の命中率は、50%かもしれないし20%以下かもしれない。
 ええーっ、1兆円もかける事業なのに、はじめから2割以下の命中率だろうというのですから、呆れてモノが言えません。
 日米安保条約にある「極東条項」は、在日米軍の基地使用を「フィリピン以北の韓国と台湾地域」に限定したもので、アメリカ軍の暴走を防ぐためにもうけられた。しかし、アメリカ軍は、第5空軍と第13空軍の担当エリアをアラビア海にまで広げた。統合司令部をこれまで通り横田に置いておくと、この「極東条項」に抵触してしまう。
もともと、アメリカのミサイル防衛はアメリカ本土と日本にあるアメリカ軍基地を守るためにある。日本の防衛は二次的なものにすぎない。
 北朝鮮の軍事力は、資金不足から、この10年間、まったく近代化していない。頼りは、世界最大規模の特殊部隊と化学兵器などの大量破壊兵器だ。
 ノドンの精度は低い。国会議事堂を目標にして、2発中1発が山手線内に落下するレベルでしかない。ミサイルに搭載できるほど核弾頭の小型化には成功していないと見られる。北朝鮮を軍事力で追い詰めてしまうと、かえって危険なように思います。
 三沢基地から飛び立ったF16はすでに11基が墜落した。2年に1機の割合で墜落している。事故の要因は、安全性を犠牲にしても性能を第一とする戦闘機の特性にある。
 イラク戦で対地上部隊用に使われた高性能爆撃クラスター900発のうち、1割を投下したのは三沢発の機体だった。
 私たちは、いま日本にいるアメリカ軍、そして自衛隊の装備やその実体について、あまりにも知らない、知らされていないということがよく分かる本です。

(2008年9月刊。1600円+税)

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2008年12月18日

強い会社は社員が偉い

社会

著者:永禮 弘之、 発行:日経BP社

 成果主義制度は、実は人件費削減の方便だった。日本企業は正社員を重用するどころか、正社員を減らす方向に進んでいる。派遣社員やパートに仕事を任せ、業務の多くをアウトソーシングし、コストダウンを徹底的に行うことで、短期的な利益を確保していく。そして、仕事のやりがいや雇用の安定に対する労働者の満足度は長期的にみて下がっている。
 この底流には株主資本主義という考え方がある。株主は短期的な株価上昇を求め、短期的な利益追求に走りがちである。そんな企業は、社員を資産として見ず、コストとみなして切り捨てる。その結果、会社と社員は友好関係から敵対関係になった。
キャノンは大分だけで1200人もの従業員を首切るそうです。赤字どころか、この1年間で2800億円の余剰金を出していながら、です。日本経団連の御手洗会長の会社ですから、日本の企業の将来はない。というか、日本の若者の未来を奪う経済界は、自分さえよければいいと考え、日本の将来をダメにしています。そのくせ、若者に対して愛国心の欠如を云々というのですから、まさしく噴飯ものです。プンプンプン。
 著者は、短期的利益だけを追求し、個人をないがしろにする経営は間違いだと断言します。そして、会社の中でのびのびと、しかし厳しく仕事をする正社員。彼らこそ日本企業の明日をつくるのだと強調します。まったく同感です
 社員を人件費というコストとして見るのではなく、顧客への価値、バリューを生み出す源泉としてとらえ、社員の活用を第一に考える経営が今こそ必要なのだ。本当にそうだと思います。
 差別的な扱いを受け、低賃金に甘んじる非正規社員が増える一方で、正社員は人員削減のしわ寄せによる仕事量の増大と成果主義の導入による目先ばかりの社内競争によって、心も身体も疲れている。
 顧客や社会に役立つという視点を第一にすることで、仕事への使命感が芽生え、そこにリーダーシップが生まれる。リーダーシップという土台の上に、仕事に必要な経験やスキル、知識を身に着けていく。
 気分障害(うつ病など)の患者は、1999年から2005年にかけて、20代で3万1000人から8万9000人に、30代で5万6000人から16万2000人に、それぞれ3倍も増えている。いやあ、これって大変なことですよ。次代を担う世代がこれでは、本当に日本の将来はありません。
 偽装請負までしてワーキングプアの非正社員を増やす一方で、最高益を更新し続けることが「優良企業」と言われる会社の望ましい経営の在り方なのか、考え直すべきだ。まったくそのとおりです。日本経団連は根本的に間違っています。無責任ですよ。
 日本企業の若手社員は、自分の勤める会社を見限り始めている。2000年以降、大卒新入社員全体の3分の1が、入社3年内に会社を辞める。
 短期の業績に振り回される成果主義人事制度は、高い能力を活かせる仕事があるからこそ会社に長くコミットしたいという人にとっては魅力的でない。
 顧客への高い価値を創造できるような優秀な人は、会社が短期の成果に右往左往しないで、自分の得意技を信じて、魅力的な仕事を任せてくれることを望むものだ。
 仕事をワクワクしたものにするには、中身も大事だが、自分の意思で選ぶことができるかが効く。社員の働く意欲と能力を高めるには、本人がやりたいことをやってもらうのが一番の近道である。人間の創造性を伸ばすには、自発性が大切なのだ。
 社員を評価するときのポイントは、あくまでもチームの業績への貢献度に置く。
 昔と比べて、上司と部下との濃密なコミュニケーションが少なくなっている。
 実は、この本に書かれていることは、弁護士にとっても大いに参考になる内容でした。

(2008年10月刊。1600円+税)

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2008年12月17日

ブログ論壇の誕生

社会

著者:佐々木 俊尚、 発行:文春新書

 私も遅ればせながら、ブログを開設しました。実名で、顔写真も入っていますので、この書評以上に慎重に書いています(ゴメンナサイ)。
 いま、日本でブログを開設している人は868万人もいるそうです。全人口の7%というのは驚異的な数字です。おかげで、2006年末、日本は世界でブログの多い言語のナンバーワンで、37%占める。1位は英語で36%、3位は中国語。
 これも、日本人の日記好きに源流がある。なーるほど、そうかもしれません。紫式部日記、更級日記、土佐日記。いろいろ有名な日記が古来たくさんありますね。そんななかで、私のブログもスタートしたわけです。大海の一滴という心境です。少しでも反応があったらいいなと思っています。
 ウィキペディアは2001年に英語版がスタート。今では、250以上の言語でサービスが提供されている。利用者はアメリカで1400万人。日本でも700万人。書かれている項目は、英語で200万、日本語で40万ある。
 ウィキペディアには、誰でも匿名のままで参加できる管理者の承認は不要。
 私もセツルメントをウィキペディアで引いてみましたが、実体験のない人が想像をまじえて書いたような不正確な内容になっていました。そこで、私のブログに引用ものですが、もう少しましな紹介をしておきました。
 情報操作と公平な書き込みは紙一重だ。主観によって、どちらにも簡単に振れてしまう。
 インターネット空間では、左翼に対する拒否反応がものすごく強いそうですが、信じられません。ネット右翼が幅をきかせているというのは、なぜなんでしょうか。それって弱い者いじめと同じレベルのものではありませんか?たとえば、今の麻生首相のKYぶりだって、あまりにもひどすぎると思いませんか。その場の空気が読めないKY、漢字が読めないKY、そして人の気持ちを逆なでして怒らせてしまう政治家。こんなひどい政治家を首相にしている日本の現状をネットの上で大いに叩くべきなのではないでしょうか。
 この本には、日本共産党の志位委員長が国会で質問したときの様子が動画としてユーチューブにアップされ、大変な数の若者たちがアクセスして絶賛したことが、大変肯定的に紹介されています。3万回も閲覧されたというのですから、日本も捨てたもんじゃないと救われた気になりました。
 ニコニコ動画には、2ちゃんねるにはない特徴がある、コメントの文字数が制限され、しかもコメントはどんどん流れて行ってしまうため、2ちゃんねるのような誹謗中傷のコメントが発生しにくいメカニズムが働いている。
 これからはケータイの時代です。私の事務所では、いち早くケータイHPを開設し、毎週更新しています。そして、1週間に250前後のアクセスがあるのです。
 ケータイからのインターネットの利用者は7000万人近い。パソコンからのネット利用者は6600万人なので、パソコンからを大きく上回っている。ケータイ・インターネットの時代が本格的に到来しつつある。
 思春期の若者は、パソコンよりもケータイに親和性を感じる。ケータイ料金に定額制が導入されてから、ますますそうなった。
 日本では、ケータイから見られるウェブの世界と、パソコンから見られるウェブの世界はまったく異なった世界である。
 中学・高校でいじめられ続けて、人付き合いの仕方を教わる経験のない人は、ますます孤立してしまう。彼らが社会との細いつながりを維持するために利用しているのが、ケータイ・インターネットなのだ。
 日本のブログは、左翼への反発はしても、韓国のような政治運動の主体にはなりえないようです。でも、これって本当に残念なことですよね。
 だって、日本の若者が韓国の若者に劣っているなんて、そんなことは考えられませんよね。日本の若者には何かが欠けているのでしょう。それって一体、なんなのかなあ……。
 朝、庭に出て、桜の木に半分に切ったミカンを突き刺します。メジロがすぐに寄って来て食べ始めます。ピチピチ鳴きながら一心不乱に食べているメジロは可愛いですよ。ヒマワリの種をエサ入れに入れるのですが、こちらは誰が食べているのか分かりません。以前はキジバト向けのアワ・ヒエをやっていましたが、メタボちっくになりましたので、やめました。昼食のとき出るパンは、半分持って帰って庭に撒きます。大きなものはカササギが飛んできて食べますし、パンくずはスズメのエサになります。家を出ると、隣家のハクモクレンが白いツボミをふくらませています。冬来たりなば春遠からじ、です。


(2008年9月刊。760円+税)

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2008年12月16日

思いやり予算と米軍天国

社会

著者・出版社 安保破棄中央実行委員会

 わずか60頁あまりの薄いパンフレットなのですが、読めば読むほど腹のたつ本です。いえ、書いてある内容が、です。日本って、アメリカにこんなに尽くさなければいけないのかとムラムラと怒りがこみあげてきます。
 日本に駐留するアメリカ兵は4万人。日本にあるアメリカ軍基地は134か所。日本は駐日アメリカ軍のために年6000億円をつかっている。これはアメリカ兵一人当たり1300万円となる。すごい金額ですよね、これって。これを減らそうという話が起きないって不思議です。
日本地位協定では、アメリカ軍基地はタダで提供するか、基地内の費用はすべてアメリカが負担することになっている。しかし……。
 金丸信防衛庁長官が、「思いやりの精神があってもいいじゃないか」と言って、1978年に62億円で始まったアメリカ軍のための「思いやり予算」は、2008年度は2083億円にまでふくれあがった。そして、この30年間で34倍という急膨張をとげた。この31年間を累計すると、なんと5兆3711億円にもなる。
 うひゃあ、す、すごーい。すごい税金のムダづかいです。だって、法的根拠は何もないのに、私たち日本国民の税金がアメリカ軍のために5兆円も使われているなんて、許せませんよね。世界の他の国で、こんな日本のようなことをしている国はありません。だから、アメリカは日本を手放さないのです。日本って、本当にアメリカのいいなりなんですね。日本外交に自主性がないのも、ここらに根拠があるのでしょう。
 結局、日本にあるアメリカ軍基地で、アメリカ軍人の給与以外はすべて日本が負担するようになっているようです。こんな馬鹿なことがあるでしょうか。それほど日本の国って豊かなのですか。お金がないからといって福祉の切り捨てはどんどん進んでいっているじゃありませんか。消費税を10%に上げるという話すら出ているのですからね。ひどいものです。プンプンプンプン。
 世界でアメリカ軍を一番受け入れているのはドイツだが、その111倍も日本はアメリカ軍の駐留経費を負担している。お隣の韓国と比べても、その6.6倍を負担している。在日アメリカ軍基地内の施設は、次々に新しく作られているが、それはすべて日本国民の税金によるもの。うへーっ、ひ、ひどいひどーい。
 たとえば、アメリカ軍人用の住宅が1万1295戸が作られた。1戸あたりの平均価格は土地代で4830万円。うひょーっ、これはぜいたく。
 アメリカ軍司令官用住宅は、243平方メートル。4つの寝室、3つの浴室、リビングは32畳敷、ダイニングは18畳敷、こ、これって、ちょっとした運動会でもできそうな広さですよ。浴室が3つもあって、どうするんでしょうかね。
在日アメリカ軍基地で働く日本人従業員は2万5000人。このうち2万3000人分の労務費は全額を日本が負担している。
 アメリカ兵が基地の外に居住しているときでも、その光熱水道料は日本負担。えーっ、な、なんで……。
 広大なアメリカ軍基地は、地代がタダ。アメリカ兵は税金も支払わなくていい。有料道路だってタダで通行していい。これは公務中だけでなく、レジャーのためでも同じ。
 アメリカ兵が日本で犯罪を引き起こした時の賠償金も日本が負担している。
 アメリカ軍が犯罪をおかして刑務所に入れられても特別待遇を受ける。昼からステーキ、昼食にフルーツ、夕食にはデザートがつく。カフェテリア方式で、自由に献立が選べる。
 また、毎日シャワーが浴びられ、居室にはスチーム暖房が付いている。
 な、なんということでしょう。ここまで日本人はアメリカに馬鹿にされているのです。こんな屈辱を味わわされながら、政府が国民に対して愛国心をもてなんていうのは、まるで信じられません。日本政府こそ、もう少し自分の国を愛する自覚を持って、アメリカと対等にモノを言えるようになってほしいものです。
 先日受けた仏検(準1級)の結果がはがきで通知されました。合格していました。基準点68点を2点オーバーした70点でした。合格率は24.5%ですから、4人に1人が合格したわけです。実は自己採点ではもっと甘くしていたのですが、仏作文の採点が辛かったのでしょう。自分でも不出来でしたので、仕方ありません。ともかく、第1問の名詞が全滅ですから、合格したのが不思議なほどです。準1級の筆記テストに合格したのは、もう5回目か6回目です。
 1月下旬に口頭試問を受けます。これは、まだ1回しかパスしたことがありません。


(2008年2月刊。400円+税)

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2008年12月15日

絵で読む歌舞伎の歴史

社会

著者:服部 幸雄、 発行:平凡社

 山田洋次監督のシネマ歌舞伎『人情噺・文七元結』を見ました。帰りに買ったパンフレットのなかで、山田監督が「あんまりハッピーなんで涙が出てしょうがないというニュアンスのものにしたい」と語っていますが、まさにその通りで、人情物の落語であり、私もうれし涙が止まりませんでした。映画が終わってスクリーンが真っ暗になり、また明かりがついて映画館を出るときには、すっかり気持ちが明るくなっていました。いい映画が見れて、なんと今日は幸せなんだろう。そんな気分で歳末を迎えて気ぜわしくなった町を歩いて帰宅することができました。
 主人公の中村勘三郎の顔が本当に生き生きしています。舞台と違って映画ですから、ド・アップの迫力があります。汗たらたらの役者の顔を大画面で見れるというのは本当にいいものです。昨年10月、東京は新橋演舞場で本当に上演されたものをカメラで撮影したもののようです。観客席、しかもド・アップで役者の顔が見れる超特等席に座っているかのような気分に浸ってあっという間に時間がたってしまいました。まだ見ていない方は、ぜひ映画館に足を運んでみてください。なぜか、いつもなら1800円で見れるのに、2000円となっていましたが……。
 この本は、江戸時代の歌舞伎をたくさんの浮世絵とともに紹介したものです。歌舞伎の語源となっている「かぶく」というのは、オーソドックスなものに反抗し、異端の思想・ふるまいをすること。
歌舞伎の歴史は、慶長5年(1600年)、宮中に参上した一座から始まる。お国のややこ踊りである。お国は男装していた。相手として登場した茶屋の女性は、むくつけき男性の狂言師が扮していた。
 その後、寛永のころ(17世紀前半)、遊女歌舞伎が流行した。このころ新しく渡来した三味線を主要楽器として使用したのが成功した原因の一つだった。
 そのあと、若衆歌舞伎が流行する。しかし、男色趣味と一体となって展開したことから、男同士のケンカ争論そして女性同士の嫉妬争いが日常的に起きて、風俗が乱れ、幕府は承応元年(1652年)、全面的に禁止した。ただし、翌年には復活・再開した。これを野郎歌舞伎という。
 初代の市川団十郎は「曽我物語」で荒事(あらごと)をはじめた。正義と勇気、そして超人的な怪力でもって悪鬼などを徹底的にやっつけてしまうのである。
 元禄時代、近松門左衛門は、歌舞伎の狂言役者として活躍した。「曽根崎心中」は実際に起きた事件を題材としたもので、興行的に大成功した。
 大坂(大阪とは書かない)の観客は、歌舞伎と人形浄瑠璃の両方を見ていた。相互に手ごわいライバル同士だが、もちつもたれつの影響関係をもっていた。そして、人形浄瑠璃は歌舞伎を圧倒してしまった。そこで、人形浄瑠璃であたった狂言をすぐに歌舞伎化して上演するようになった
 「花形」(はながた)という言葉は、本当は「花方」という。「実方」(みかた)に対して、芸に「花」のある役者をさす。初代の菊五郎は、「芝居が細かすぎるのだけが欠点だ」と言われるほど、演技の工夫をした実事仕(じつごとし)でもあった。
 江戸時代の中ごろ、役者の顔の特徴をつかんだオールカラーの似顔絵(錦絵)が流行し始めた。このころ、江戸の大衆は、大まかな荒事芸にあきたらず、内容のある芝居と屈折した人間の心情表現を求めるようになっていった。
 今、日本全国200ヶ所で地芝居が行われている。芝居は、その村を守る神社の行事として開催されることが多く、そして役者は、土地の素人である。
 多くの地芝居は、江戸の寛政から文化・文政時代に始まった。為政者による厳しい弾圧や膨大な出費を覚悟しても、毎年、奉納芝居をしたくてたまらない人が日本全国に無数にいる。都会でも農村でも、日本人は本当に歌舞伎が好きだ。明治末期から大正・昭和初期までが地芝居の最盛期だった。
 私も、父の伝記をつくる過程で、出身地である大川における農村生活の様子を聞いたとき、芝居興行が盛んだったことを聞かされました。父の本家前には、いまもクリークがありますが、そこに芝居小屋を造って父の子どものころまで芝居が演じられていたというのです。歌舞伎のことが視覚的にわかる楽しい本です。
 福島の知人から今年も「ラ・フランス」が届きました。A農園特産なのですが、ともかく美味しいのです。みずみずしく、柔らかくて甘い洋梨です。ほかのものは少し果肉が固かったり、ゴワゴワしているのがありますが、このA農園産は絶品です。いつも晩秋、冬到来の時期に贈られてきますので、「ラ・フランス」が来ると、冬到来になります。
(2008年10月刊。2600円+税)

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2008年12月14日

オバマ、勝つ話術、勝てる駆け引き

アメリカ

著者:西川 秀和・池本 克之、 発行:講談社

 オバマ大統領が誕生することになりました。その大統領就任式には300万人がワシントンに集まるだろうと言われているそうです。アメリカが軍事優先の国家から少しでも平和志向の国へ変化することを願うばかりです。
 この本は、はじめヒラリー・クリントンより劣勢だったオバマがなぜ逆転勝利へ駆け上がることができたのか、その秘密を明らかにしています。読むと、なるほど、と思います。インターネットを使って膨大な資金カンパを集め、惜しみなくテレビCMなどに注ぎこんだという物量作戦もバックにあって支えたのでしょうが、やはりオバマ自身の演説のうまさは決定的だったようです。
 リーダーとなる者は、人の心を動かす言葉を持っていなければならない。とくに政治家は、自らの理想を、自らの信念を、人々に明確に伝えなければならない。まさに、言葉は人なのである。記憶に残る一言と明確なコンセプトがもっとも求められる。
 漢字が読めず、空気も読めない麻生さんは、首相として失格と言うだけでなく、そもそも政治家になったのが間違いなんですよね。
 オバマの演説には、信じること、希望など、人々に勇気と自信を与える言葉が随所に散りばめられている。不信に凝り固まった人々の心をほぐすためには、大ゲサでしつこいほど、そうしたポジティブな言葉を繰り返す必要がある。
 オバマは、ネガティブ・キャンペーンに対して反撃はできるだけせず、希望と連帯を前面に打ち出すことで勝利した。ネガティブ・キャンペーンに対していちいち反撃すれば、相手のペースに巻き込まれるし、きりがない。相手を落としめ自分を上げようとすると、心ある有権者は言葉に耳を傾けてくれなくなる。ネガティブ・キャンペーンが行き過ぎれば、いずれ自滅する。
 オバマは、過去の政治からの脱却と未来の新しい政治の導入を約束して多くの人々の支持を集めた。過去対未来という2項対立は、連帯を呼びかけるのに好都合なのだ。
 オバマが有権者に黒人の代表だと判断されたら、幅広い得票ができない。オバマは白人と黒人の連帯を訴えかけ、圧倒的な黒人票に加え、一定数の白人票も集めることに成功した。
 オバマとヒラリーの両者には政策の面で根本的な争点があまりないため、イメージ戦略の勝負だった。「経験のヒラリー」対「変化のオバマ」というイメージがすっかり定着した。
 変化、きっと私たちは出来る、そして過去対未来という人々の脳裏に強烈に刻まれるイメージ戦略で、オバマは支持層の急拡大に成功した。
 重要なことは何度でも繰り返す。どんなことでも一度聞いたくらいでは、記憶には残らない。訴え掛けるテーマがいけると思えば、くどいと言われようが中身がないと批判されようが、とにかく繰り返す。そうすれば、多くの人々に浸透する。
 ヒラリーは理性に訴えかけ、オバマは情勢に訴えかけた。
 多くの人々が今のままではダメだという漠然とした不安を抱いていたが、何をどうすればよいのか分からないでいた。そんなときには、まずは希望を与えることが大事だ。不安で心がいっぱいのときに理性に訴えかけても効果がない。オバマは情勢に訴えかける言葉で人々の不安を行動に変えさせた。人々の持つ不安を汲み取り、それを打ち消す力強い言葉の力を発揮することこそ、オバマの真骨頂だった。自分の思いを語るだけではダメ。人々が待ち望む言葉、そして人々が待ち望む物語を語らなくてはならない。
 そうなんですよね。不況のとき、ヒットラーのようなデモゴギーではなく、素直に現実を直視しつつも明日への希望を持たせる呼びかけのできる政治家が日本にもいてほしいですね。
 オバマのカリスマの秘密は、人々の心を代弁することに、そして人々に夢と希望を与える救世主というイメージをつくることに成功したことにある。
 オバマが人々の心をぐっと掴む演説のうまさに、日本人とりわけ弁護士は大いに見習うところがあると思いました。
 先週の日曜日、庭の一隅を半畳分ほど掘り上げ、水仙などの球根類を植えかえてやりました。掘り上げたところには近ポストに入れていた枯草などを埋め込みます。球根を植えているうちに陽が落ちてしまいました。夕方5時です。急に冷え込み、背中に冷気さえ感じるようになり、しばらく辛抱して夕方5時半まで頑張りました。庭仕事を終えて空を見上げると、天高く半月が煌々と輝いていました。
 今日は私の誕生日です。ついに還暦を迎えてしまいました。20代のころ、自分が60代になるなんて考えたこともありませんでした。先日、依頼者の方から、「まだ40代に見えますよ」と言われましたが、私の頭のなかはまだ20代のままなのです。といっても、身体の方は確実に老いを実感させてくれます。そこがつらいところです。
(2008年10月刊。1400円+税)

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2008年12月13日

荷抜け

江戸時代

著者:岡崎 ひでたか、 発行:新日本出版社

 信濃(しなの)、安曇(あずみ)地方に実際に起きた牛方集団の「荷抜け」事件を題材として書かれた小説です。青少年読書感想文全国コンクールの高校生向けの課題図書となっていますが、なるほど、とうなずける内容です。
 文政7年、信州・松本藩では、戸田氏が藩主になって100年の祝いを華やかに行った。松本城の城門前には、祝いの品を山と積み、家臣には紋付袴、裃、真綿などを下賜し、町は芝居や踊りに興じた。下されものの酒樽を町中に置き、誰にも自由に飲ませた。
 地主層は、より財を蓄えるため、飢饉で困窮した農民から高利貸しで稼ぎ、米・麦を買い占め、売り惜しみして値を釣り上げた。食うに困った農民の怒りが爆発したのは当然のこと。それが赤蓑騒動だった。3万の群衆が松本城へ押しかけた。藩の鉄砲隊によって解散させられたものの、それ以降、藩は農民たちの力を恐れるようになり、農民の要求は無視できず、力関係が逆転しはじめた。
 犠牲者は農民4人が永牢を命じられただけで、見せしめの磔(はりつけ)はできなかった。これが世直し一揆のはしりだった。3万人が起ち上がったこの百姓一揆にも、首謀者名を残さない工夫などがしてあった。
 「荷抜け」とは、荷主に頼まれた送り荷を横領すること。もちろん、発覚したら厳罰に処せられる。それが、牛方26人衆が集団で荷抜けしたという。その総額は76両にもなる。
 牛方26人衆は、問屋とかけあい、借用したことにして、年賦返済を承知させた。半分にもならないうちに、荷主問屋側はあきらめ、事件の幕を引いた。
 牛方の10歳になる子どもを主人公として話は展開します。次はどうなるのか、ハラハラドキドキの展開です。やがて、牛方は一揆勢の情報伝達などの役割を担って活躍していきます。百姓一揆は、きわめて組織的に、百姓の知恵と力を総結集して長い準備期間をかけて取り組まれていったことが分かる本でもあります。
 島根の弁護士から待望のノドグロが到来しました。干物なのですが、軽く焼くと、ねっとり柔らかい白身で、淡白な味というより、もちっとした味わいがあります。信じられないほどのおいしさです。一度食べると、病みつきになってしまう魚ですよ。まだ食べていない人は、ぜひ食べてみてください。
(2008年6月刊。800円+税)

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2008年12月12日

筑紫の磐井

日本史(古代史)

著者:太郎良 盛幸、 発行:新泉社

 6世紀の初め、北部九州、八女の地に巨大な岩戸山古墳を築いた偉大な王がいました。大和王権に対抗して戦った筑紫の大王(おおきみ)・磐井(いわい)の偉大な生涯を描いたスケールの大きな小説です。
 私は八女によく行きますが、岩戸山古墳は遠くから見るくらいです。この本を読むと、「大和朝廷に反逆した」という通説がいかに間違っているか、再認識させられます。九州には、奈良にいた大王(おおきみ)と対抗していた立派な大王がいたのです。
 著者は岩戸山歴史資料館の館長をつとめる、元は高校教師だった人です。それにしても、よく描けた小説だと感心しました。古代朝鮮半島の状況、そして、大和朝廷における諸勢力の抗争との関連で、筑紫の大王・磐井の活躍ぶりが生き生きと語られていて、一気に読みとおしました。今度こそ、岩戸山古墳にのぼって実見してくるつもりです。著者も、この小説が縁となって、多くの人に八女を訪れていただければ幸いです、と語っています。
 この時期、筑紫・肥・豊国などの北部九州の豪族は、個々には独立した国であったが、筑紫君を盟主として穏やかな連合王国を形成していた。そして、各豪族は、周辺諸国との友好関係と先進文化を求めて、後継者と目される男子を大和王権や朝鮮半島の新羅・百済などに留学させていた。
 筑紫連合王国は、大和王権とは一線を画し、つかず離れずの状態にあった。連合王国にとっては、大和・新羅・百済が対立を強めず、伽耶(かや)諸国が安定していることがもっとも望ましいことだった。
この当時、多数の人に聞こえる大きな声を出すことは、王や将軍にとって欠かせないことだった。磐井は、上に立つ者は、はっきりと大きな声で話すことが大切だ、日頃から心がけておくように、と常日頃から言われていた。
 南九州一円には、大和王権の支配に属さない隼人(はやと)という勢力がいた。その中でも、急速に勢力を拡大しつつあったのが、薩摩隼人だった。今でも、ものすごく毛深い男性を時折見かけます。きっと隼人の血筋を引いているのでしょうね。
 501年9月5日、磐井は筑紫君(つくしのきみ)を襲名した。
 今後さらに筑紫連合国を発展させて、大和王権や朝鮮半島諸国と対等に親交できる国としたい。そのためには、まず、政(まつりごと)の仕組みの充実と、鉄製武器・農具の生産を増加させることだ。磐井は、政を政部(まつりごとぶ)、大蔵部(おおくらぶ)、司法部、戦部(いくさぶ)の4部門に分けた。そして、司法部の充実にとくに力を入れた。
 磐井は、筑紫連合王国全体から大王(おおきみ)と呼ばれることになった。
 奈良では、継体大王の即位に大和豪族が根強く反対したため、継体大王はなかなか大和に入ることができなかった。そうなんです。継体大王とは何者なのか。今も議論が続いています。日本の天皇は万世一系ではないのです。
 岩戸山の古墳が完成したのは518年。墳墓の特徴は別区にあった。別区には、裁判の様子を表すため、中央に解部(ときべ)に見立てた一丈(つえ。3メートル)もある大石人が立てられ、前には盗人に見立てた正座をした石人が置かれ、傍には盗んだものと分かる猪が4頭置かれた。
東側には、2丈四方の石で造った3つの宮殿、北側には1丈半四方の2つの石蔵が置かれた。石殿は、門、階段、しきりのある部屋、屋根など、実物そっくりに造られていた。西側には3体の武装石人、3正の飾り馬が並べられた。また、墳墓の周りには、武装した石人、石盾が120体も並べられた。
墳墓の入口にあたる北と南には、赤・青・白などの顔料で飾った力士に見立てた石人も墳墓の番をするように2体ずつ立てられた。
 526年9月、継体大王は、ようやく大和入りした。そして、磐井を討たなければ大和王権は危うい、として3万の討伐隊を九州に差し向けた。
 このあと、磐井の指揮する連合王国軍が大和王権の討伐軍と果敢に戦う様子が活写されます。この本がどこまで史実を反映しているのか知りませんが、古代日本が奈良の大和朝廷によって一元支配されていたわけではないこと、朝鮮半島と古代日本とは人的にも政治的にも密接な関連があったこと、そして継体大王と戦って敗れた磐井大王が、単なる大和朝廷への反抗児でなかったことは確実だと思ったことでした。

(2008年1月刊。2000円+税)

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2008年12月11日

人が壊れてゆく職場

司法

著者:笹山 尚人、 発行:光文社新書

若者に安定した雇用を保障しないでおいて、「今時の若者には我慢が足らない」なんて言う資格はありません。とりわけ、日本経団連の御手洗会長なんて、まったくもって許し難い存在です。自己保身と自分の取り巻き、そして大株主の利益を守っていたらいいなんていう発想の人物に、日本の将来を語る資格なんてあろうはずがありません。トヨタや日産、そしてイスズなどの自動車産業もそうですよね。
 たしかに、アメリカの金融危機に発した深刻な不況のなかで自動車産業がピンチになっているのは理解できます。それでも、若者の首切りをする前にやるべき企業努力というのがあるのではありませんか。なにより、これまでの貯め込み資産を吐き出し、雇用存続を前提としての知恵と工夫を働かすべきではないでしょうか。
 この本は、若手の労働弁護士の手になる奮闘記ですが、大変、今の若者に役立つ、実践的な内容となっています。
 「管理監督者」とは、経営者に近い立場の実体を有する労働者を指すのであって、「科長」とか「マネージャー」という名前で決まるものではない。「管理職」に祭り上げることによって残業代を払わなくてもよいという会社の取り扱いは、実のところ、残業代を払わないための偽装にすぎない。就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効とする。この場合において、無効となった部分は、就業規則で定める基準による。
 要するに、就業規則の水準に満たない合意は無効なのである。
 裁判は生き物であるから、当初は想定しなかった事情が出現して成り行きが変わっていくことも当然ある。だから、労働者から「不当に解雇されました」と訴えられても、「そうですね。不当ですね」とはうっかり口にすることはできない。慎重に回答せざるを得ない。
 この点は、本当にそうなんです。思わぬ反論が出てくることがあるのが裁判です。
 労働審判は、弁護士にとっても大変使い勝手が良い。
 7割の事件は、申立から3ヶ月以内に話し合い(調停)で事件全体が解決している。
 この本には、労働審判でうまく決着のついた事件が紹介されていて、参考になります。
 録音テープが有効なのか、とくに隠し撮りテープは証拠として使えるか、ということにも触れられています。私も、この本にあるとおり、たとえ相手方の同意のない録音であっても、内容がよれば基本的に証拠としてつかうべきだし、裁判所も採用する(させるべきもの)と考えています。
 著者は、若者たちの非正規雇用をめぐる事件で、弁護士費用がいくらかかるのか、それをどうしたのかについても触れています。たとえば、着手金は実費程度とし、報酬は上げた成果の1割とする、という具合です。
 本当に助けを必要としている労働者を、弁護士の側で拒否することがあってはならない。まったく同感です。
非正規雇用に関わる弁護士の仕事は、実に気持ちがいい。本当に助けを必要としている人の役に立てたという実感があるからだ。そこに非正規雇用の権利問題に取り組む醍醐味がある。
 いやあ、実にそのとおりです。著者には引き続き、大いにがんばってほしいと思います。といっても、先日の相談のとき、まずは自分でやれることをやってから来て下さい、と言ってお引き取り願ったことはありました。なんでも弁護士に任せてしまえば安心だという姿勢でも困るのです。弁護士と一緒になって取り組み、なんとかいい方向で解決を図りたい。そんな若者であれば、私も協力を惜しみません。
 先週、日比谷公園を歩きました。大きな銀杏の木が黄色く輝いていて、つい見とれてしまいました。ところが、あいにくの強風で、黄金の葉が舞い上がります。桐一葉、落ちて天下の秋を知る。ではありませんが、銀杏の木の葉が風で舞うのを見て、秋の終わりを実感しました。銀杏の木のなかに一本だけ緑の濃い葉をつけたものがあり、銀杏でも種類が違うのかなと友人と話したことでした。絵を描いている友人は銀杏の黄色をカンバスに描き出すのはとても難しいという話をしてくれました。それでも、静かに絵を描く時間を持つと、とても心が休まるだろうと思いました。
 翌朝、福岡に帰ると雪が降っていました。いよいよ冬突入です。
(2008年9月刊。760円+税)

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2008年12月10日

浜風受くる日々に

社会

著者:風見 梢太郎、 発行:新日本出版社

 関西の中高一貫の名門高校を舞台として、そこに通う高校生の悩み多き青春の姿が組合活動にいそしむ教師群などを混じえて生き生きと描かれています。私と同世代、団塊世代の話なので、共感を覚えながら読みすすめました。といっても、私は、ここに登場してくる高校生たちほど社会的に目覚めてはいませんでした。
 実のところ、私は自分の卒業した県立高校に、残念ながら、あまり親近感を抱いていません。よほど大学の方に親近感を抱いています。高校の同窓会にも、地元にいながら出たことがありません。というのも、地元の保守系政財界をこの同窓会出身者が牛耳っているとしか思えないからです。また、教師陣もあからさまな右寄り教師が幅をきかせ(例の変な教科書をいち早く採用したり)、生徒指導も自由を奪ってガンジガラメ。その結果、地元の評価は今や見るも無残に低下してしまっています。本当に残念でなりません。
私は学区制を復活すべきだと考えています。また、教師集団がもっと伸び伸び自由に取り組めるように改められるべきだと思います。
私は高校生のとき、生徒会の副会長そして生徒会長も務めました。2年生のとき、昼休みにタスキをかけて全クラスを立候補の挨拶に回りました。派手な選挙活動が流行っていたのです。対立候補も同じことをしましたが、私の方が見事に当選することができました。生徒会役員の他校訪問というのがあって、四国や広島の高校まで見学に出かけたことがあります。生徒会指導の教諭が引率しての旅行でしたが、とても楽しい思い出となっています。こちらは、少し前、一度だけ生徒会役員だった人だけの同窓会を京都でしました。
ところが、生徒会活動に熱中していると成績が下がってしまい、英語の教師から「どうした。最近、ぱっとしないやないか」と苦言を言われ、はっとしました。
 もう一つ、高校生活の思い出といえば、『ぺるそな』と名付けた同人誌を3号まで発刊したことです。私も下手な小説を書いて発表しました。しかしながら、あとは灰色の受験勉強に追われていました。思い出したくもありません。といっても、当時使っていた参考書は今も記念に大切に保存しているのですが……。
 この本の主人公(哲郎)は、中高一貫の有名校に高校から入りました。当初は苦労したのですが、たちまち成績優秀者として頭角をあらわしました。理科系の得意な哲郎ですが、新聞部に入りました。文章もよくしたのです。
 先輩の大学生がセツルメント活動をしているという会話が登場します。
「なんや、そのセツルメントって」
「生活が苦しい人たちが集まっている地域に行って、子どもと遊んだり、勉強を教えたり、法学部の学生は法律相談とか、医学部の学生は健康相談とか、やるんだって」
「ふーん、そんなことする人たちがおるんか」
「どこの大学にもあるようだよ、そういうサークルは」
 この会話はだいたいあたっています。ただ、私はセツルメントに入って青年部に所属していました。若者サークルのなかで、レクリエーションを主体としながら週1回交流するのでした。なんということもない話しかしないのですが、よく考えてみたら、こんな関係がいつまで続くのか、続けられるものなのか、ときどき胸に手を当てて考えざるをえませんでした。
「Kさん、ほら、さっき言ったセツルメント活動なんかやってて、まあ透明無色じゃないんだよ。それで、そういう人がD通信公社みたいなところに就職したことに対して、皮肉っぽくKさんに言う人がいたんだよ」
「D通信公社の中で、思想を貫けるのか。ものすごい弾圧が待っているのに……」
 そうなんです。セツルメント活動のなかで良心を自覚したとき、それが官庁や会社に入ってからも変質しないでいられるのか、私はすごく心配でした。そして、その心配は現実のものでしたし、あたっていたのです。
大学でセツルメント活動をやっていて、就職してからも自分の生き方を貫くのだ、と書いた手紙を同級生から見せてもらった。企業で過酷な差別を受けたとき、果たして乗り切っていけるだろうか……。
 この本には哲郎の独特の勉強の仕方、記憶法も紹介されています。
 世界史や生物のノートの余白に小さなカットを描いた。すると、哲郎は、それぞれの絵がページのどこに位置するかを容易に思い出せた。その絵に照らし出されるように周りに書かれた文字もおぼろげに思い出せた。絵に工夫をこらすと、いっそう文字も思い出しやすくなった。哲郎はノートの1ページを丸々覚えることができるようになった。
 そうなんです。視覚的に、あそこにこんなことが書いてあったというように記憶していくのは、私も得意技の一つでした。
高校では字をきれいに書くことをやかましく言われた。答案の字が汚いと受験のときに損をするという趣旨のようだ。哲郎も、中学時代の癖のある乱暴な字から、きれいな素直な字に変わった。字をきれいに書くということが精神の緊張を要し、それが思考を助けることも経験した。
私の場合、字がきれいになったのは、大学に入ってセツルメントのなかでガリ切りをするようになってからです。大勢の人に読まれる字、読みやすい字を書かなければ何時間も苦労して書いてもムダになってしまいます。一生懸命にきれいに書く練習をしました。
名門高校の授業についていけず、反発してドロップアウトしていく生徒がいた。また、早くも立身出世のみを願う生徒がいた。
「オレはなあ、たった3年間、勉強に専念するだけで、一生莫大な利益が得られる道に進もうとしてるんだ。ほかのことをやってる時間なんかないよ」
「大蔵省やら通産省の役人になるとなあ、自分の娘を嫁にもらってくれって、大会社の社長どもが押し寄せてくる」
「なんでや」
「役人は絶大な権限を握ってるんや。それが娘婿だったら、会社経営に断然有利やないか。娘婿を通じて役人に人脈もつくれるやろ。政府の情報はいち早く入ってくる」
「それは政略結婚やないか」
「別にええやないか。お互いに得になることやし。美しい、性格のいい嫁さんをこっちから選んでやる」
ええーっ、高校生が当時こんな会話をするなんてありえたのでしょうか……。いくらなんでも、私には想像を絶します。

(2008年10月刊。2200円+税)

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2008年12月 9日

モスクワ攻防1941

ロシア

著者:ロドリフ・ブレースウェート、 発行:白水社

 1612年のポーランド軍も、1812年のフランス軍も、1941年のドイツ軍も、すべて同じルートをたどってモスクワを目ざした。ロシア軍は以上すべてのケースでスモレーンスクで抗戦し、1812年と1941年にはボロジノーで踏みとどまって抗戦した。1941年のドイツ軍は、ナポレオン軍とほとんど同じくらい馬匹輸送に依存していて、モスクワに接近するまでにナポレオンよりずっと長い日数をかけた。ドイツ軍侵攻が違っているのは、快速の機甲戦力を駆使して多数のロシア兵を包囲し、捕虜にする能力を持っていた点だ。
 ドイツ側の数字によると、捕虜にしたロシア兵は、7月10日から10月18日までに225万人をこえる。
 ナポレオンは1812年6月24日にモスクワ攻略を開始し、9月14日にモスクワに到達するまで83日かけた。ヒトラーは1941年6月22日に開始して、12月5日まで166日かかったがモスクワに到達することはできなかった。
 ドイツ軍はモスクワ攻略を目ざすタイフーン作戦を10月初めに開始した。中部軍集団の戦車部隊が北と南から迂回してロシア軍前線に約480キロの突破口をこじあけ、70万以上のロシア兵を捕虜にした。10月末までにモスクワからわずか130キロの地点まで迫り、しばらく停止させたのち、11月15日に進撃を再開した。しかし、ロシア軍が頑強に抵抗し、ついに12月5日、ドイツ軍の最後の総攻撃は阻止され、ロシア軍の反攻が始まった。
 モスクワ攻防戦は、第2次大戦でも、最大の、したがって、史上最大の会戦である。双方あわせて700万を超える将兵がこれに加わった。モスクワ攻防戦はフランス全土に匹敵する広大な地域で戦われ、6ヶ月にわたって続いた。ソ連は、この攻防戦だけで92万6000人もの戦死者を出した。この犠牲者数は第2次大戦全体を通じての英米両軍の犠牲者数の合計よりも多い。
 モスクワに至る道の夏の砂塵はヒトラー軍の戦車や車両のエンジンを摩耗させ、詰まらせ、ついには立ち往生させた。冬の酷寒は夏の炎暑におとらずすさまじい。12月から2月まで、マイナス40度以下に下がることもある。しかし、最悪の時期は秋から冬、冬から春への季節の変わり目だ。このとき近代的に舗装された道路以外は、すべて泥沼と化す。ナポレオンとヒトラーの軍勢を押しとどめたのは、実は冬将軍ではなく、この泥濘だった。
 スターリンは見境のないテロルを発動した。1973年と38年にはソ連全国で250万人もの人が逮捕された。4万人もの人々を刑場あるいは収容所に追いやり、全国で80万人もの人が処刑された。法廷で審理されることなく殺されたり、尋問中ないし獄中で死亡した人はこれよりもっと多い。
 スターリンによる粛清期に、ソ連に5人いた元帥のうちの3人、16人の軍司令官(大将)のうち15人、67人の軍団司令官(中将)のうち60人、師団長(少将)の70%が処刑された。いやあ、何回聞いても信じられない、ひどい、おぞましいスターリンの圧政です。独裁者であるトップが狂うと、こうなってしまうのですね。
 1941年1月、ソ連最高統帥部は2度にわたって国土演習をおこない、赤軍がドイツ軍の攻撃に対処する能力を検証した。いずれのシナリオでも防御側の敗北という判定が下された。赤軍が戦闘準備を完整するまでは、なにがなんでも戦争を避けなければならないことが明白となった。
 独ソ戦争の勃発は、完全にイギリスの思うつぼだった、スターリンは、そんなトリックに引っ掛かるつもりはまったくなかった。スターリンの希望的観測は、破滅的な脅迫観念と化した。ドイツが自らの意思でロシアと戦うなんて絶対にありえない。このようにスターリンは確信していた。
 1941年6月21日の真夜中にヒトラーがソ連国境に投入した兵力はナポレオン軍の6倍、300万の兵員、2000機の航空機、3000両の戦車、75万頭の馬。これらが3個の軍集団の戦闘序列下にあった。これに対して、ロシアは170個師団、400万の兵員を擁していた。ただし、その多くはまだ東部から移動中だった。
 スターリンは開戦後1週間の緊張にすっかりまいってしまっていた。ドイツの意図について途方もなく誤った判断を下し、自らの固定観念にそぐわない助言を拒否したことで、彼の権威はひどく失墜した。その結果、スターリンは虚脱状態になって別荘にひきこもった。6月30日政治局の面々が別荘にやって来たとき、スターリンは自分を逮捕しにやって来たと不安に思い、「君らは何をしに来たのかね?」と問いかけた。ところが、この人々が腑抜け連中であることを見抜いたスターリンは自信を取り戻した。
 この記述に私は眼を開かされました。あの独裁者スターリンも、一瞬、弱気になっていた時期があったのですね……。
 ドイツ軍の進撃に対してロシア軍は意外なほど抗戦した。最後まで徹底して抗戦した。無謀な逆襲を仕掛け、自殺的な波状攻撃を仕掛けた。これはドイツ兵に脅威を感じさせた。結局、これがモスクワを救ったのです。
 モスクワの若い女性たちも、男性にひけをとらないほど熱心に従軍を志願し、前線で電話・通信兵や衛生兵・軍医として活躍した。赤軍の前線勤務軍医の約40%、衛生兵の全員が女性であり、17人がソ連邦英雄の称号をうけた。うち10人は死後の追贈だった。
 実践部隊の戦闘員として従軍した女性も多かった。中央女子狙撃手学校の卒業生は、戦争中に1万2000人のドイツ兵を射殺した。全部で80万人もの女性が戦時中、赤軍に勤務した。この女性兵士たちの活躍ぶりと、それが戦後は評価されなかったことを詳しく語った本は先に紹介しました。
 スターリンは、赤軍将兵の後退を阻止するためにNKVD阻止隊を組織した。阻止隊は2万6000人を逮捕し、1万人を射殺した。戦争中に100万人の軍人が軍法会議で判決を受けた。その3分の1は脱走によるもの。40万人が刑の執行を猶予されて、懲罰部隊に編入された。懲罰部隊の死傷率は異常に高く、通常の部隊の6倍だった。
 ドイツ軍の捕虜となってソ連に送還された元捕虜200万人が「洗い出し」システムにかけられ、34万人が労役大隊に送られ、28万人が逮捕された。
 スターリンの存命中、ロシア人はまともな歴史を書くことができなかった。
 スターリンの致命的な誤りにもかかわらず、ナチス・ドイツ軍のモスクワ信仰を阻止したのは、老若男女を問わないロシア人の自発的な犠牲的行動によるものであったことがよく分かる本です。当時の写真も豊富にあって、状況がよく伝わってきます。なんだか数字をたくさん紹介してしまいましたが、実はモスクワ市民の戦時下の日常生活の様子などもたくさんの写真とともに紹介されていて、興味深いものがあります。
(2008年8月刊。3600円+税)

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2008年12月 8日

チンパンジーの社会

サル

著者:西田 利貞、 発行:東方出版

 アフリカで40年以上も野生チンパンジーの生態を見続けてきた学者が、平易な言葉で写真を示しながら語っていますので、とても分かりやすい本になっています。ヒトとチンパンジーの違いというか、よく似た存在だということがよく分かります。
 長期間ずっと観察する。多くの集団を見て比較する。個体識別する。これがニホンザルでもチンパンジーでも必要不可欠のものだったし、それで成果をあげることができた。
 チンパンジーの性行動は乱交的であり、特定のオスと特定のメスだけが頻繁(はんざつとは読みません。麻生さん)に交尾するのではなく、いろんなオスメスの組み合わせで交尾している。しかも、他のオスやメスがみている前で交尾することが多い。だから、子どもの父親が誰だかまったく分からない。父親も誰がこどもか分からない。
 チンパンジーの集団はニホンザルと違って、メスがよそから入ってくる。オスは動かない。動くのは、まだ子供を産んでいない若いメス。だいたい11歳になると、メスは集団から出ていく。そして出ていったきり、集団に戻ってくることはない。だから、チンパンジーは母系ではなく父系の社会である。ヒトとチンパンジーとボノボは基本的に父系社会である。
 チンパンジーは、ゴリラのように一夫多妻ではなく、ボノボと同じく複雄複雌群だ。
 チンパンジーのリーダーに必要な資質は、ディスプレーの持続力。ライバルと対峙したとき、逃げ出さないこと。恐怖心をおさえて、ハッタリであっても威嚇や攻撃を続けること。リーダーには、恐怖心の克服が何より求められる。
リーダー(第一位)の在位期間は平均して5年ほど。リーダーにとって、2位と3位のオスは自分の一番怖いライバルである。そこで、2位と3位が連合を組むのを絶えず阻止しようとする。トップの獲得は単独で、しかしトップを維持するには連合で、というのがチンパンジーの世界だ。この点をもっと詳しく解説した『政治をするサル』(フランス・ドゥ・ヴァール、平凡社)という、面白い本があります。
 リーダーになるとき、メスの支援はあまりあてにできない。メスは現リーダーを応援する傾向が強い。つまり、現状維持志向が強い。
 リーダーの大きな仕事として、メスの喧嘩を引き分けることがある。しかし、これも、何かをするというより、間に入って走り抜けるだけのこと。リーダーがどちらかのメスを応援することはまずない。
 リーダーが負けてしまうと、村八分のようになって、集団から出てしまう。グループにそのまま残ることは少ない。たまには、あとで返り咲くこともある。
 チンパンジーは、通常は平和に暮らしている。しかし、お互いの順位については非常に神経質だ。順位の低いオスは、高いオスにパント・グラントという挨拶をしなければならない。
 チンパンジーの母親は、子どもに教えるということはしない。子どもが自分で試したり、見て覚えていく。
 チンパンジーの離乳は、おっぱいを吸わなくなるだけではない。だいたい5歳になるまでには、自分で自分のベッドを作り、母親とは別々に寝るようになる。
 ヒト以外の霊長類には、児童期はない。
 大人のオスになる条件というのは、どの大人のメスよるも強くなること。要するに、どのメスにもパント・グラントという挨拶をさせることが、大人のオスの条件である。
 オスと違って、メスの順位はほとんど年齢順。年寄りほど順位が高い。40歳を超えたチンパンジーも出産した個体がいる。ヒトの女性の更年期というのは動物界の例外である。繁殖終了後のチンパンジーの生存率はほとんどゼロ。
 チンパンジーは、夜は必ず木の上で寝る。そのベッドは頑丈にできている。ベッドは寝るためだけで、子育てには使われない。だから、巣ではない。
 チンパンジーの交尾時間は、7〜8秒とすごく短い。それはオスがたくさんいて、競争で交尾するから。
 チンパンジーは詐欺ができる。また、ヒトが赤ん坊を腕と両足で支えて「ヒコーキだよ」と遊ぶように、同じことが出来る。
 チンパンジーは、人間らしい笑顔で笑う。母親は、子どもと遊ぶのが大好きだ。ただし、チンパンジーには人間のような集団対抗遊戯のようなものはない。綱引きはしない。
 ヒトとチンパンジーの違いと似たところがよく分る面白い本です。 
(2008年9月刊。1500円+税)

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2008年12月 7日

なぜ弁護士はウラを即座に見抜けるのか?

司法

著者:佐伯 照道、 発行:経済界アステ新書

 とても刺激的なタイトルのついた本です。大阪の佐伯弁護士は、柔和な見かけによらず、かなりの豪傑です。なにしろ、事務所に押しかけて来た2人組がフトコロにピストルを隠し持っているのに気がついても、ひるまず柔らかい会話を30分間し続けて、2人組の戦意を喪失させ、早々と退散させてしまいました。帰る途中で、2人組はピストルを試射して前を行く通行人をケガさせ、たまたま目の前にあった警察署によって現行犯逮捕されたというのです。これは並みの弁護士には、とても真似のできない話です。
 佐伯弁護士は、妥当な解決、あるべき姿、望ましい結果とは何かを考え、そこから「では、どうするか」を発想する。観念上の理想は追わないが、現実的な理想は希求するのだ。
 相手が大声で威嚇するときに、自分も負けじと声を荒げたりするのは得策ではない。挑発するような言葉や態度は慎む。怒らせないように、暴れさせないように、静かに、ぼそぼそと、言うべきことを言い、主張する。それで十分なのだ。うむむ、なーるほど、ですね。
 暴力団の事務所へも佐伯弁護士は一人で出かけました。私も、30年も前のことになりますが、地元の暴力団組長宅に行ったことがあります。怖いものですから、先輩弁護士に頼んで同行してもらうことにして、二人で行きました。玄関には虎の剥製が置いてあり、見るからにヤクザという若者が応対してくれました。お茶を運んできた女性は、いかにもアネゴ肌で、いやあヤクザ映画そのままなんだと感心してしまったことでした。その人は今やれっきとした市会議員で、公共事業を裏で取り仕切っていて、影の土木部長と呼ばれています。
 脅そうとして、まったく通用しなかった佐伯弁護士に対して、暴力団の組員は内心は強い敗北感を持っていた。夜、自宅前で二人組の男が嫌がらせのために張り番をしている。そこに帰って来ると、佐伯弁護士は「御苦労さん」と声をかけたというのです。
 ぼそぼそと言う。決して挑発するようなことは言わない。絶対に大きな声は出さない。帰ってくれ、とも言わない。何をしてくれ、とも言わない。ともかく淡々と、「お互いの不利益になることはしないようにしよう」と呼びかける。
破産管財人となって在庫一掃セールをやったとき、2億2000万円もの現金を紙袋に入れ、両手にぶらさげて帰って来た。22キロの重さだった。うひょう、私も一度は持ってみたいものです。
 弁護士のスキル・アップに大変役に立つ、しかも面白い本です。ありがとうございました。ぜひ、引き続きご活躍いただき、ご指導いただきますよう、お願いします。

(2008年12月刊。800円+税)

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2008年12月 6日

貧困と怒りのアメリカ南部

アメリカ

著者:アン・ムーディ、 発行:彩流社

 アメリカ南部の黒人(今では、アフリカン・アメリカンと言われていますし、それが正しいと思いますが、ここでは黒人とします)が、公民権を獲得するまでの苦難のたたかいの最前線で活躍していた黒人女性の自伝です。アン・ムーディは1940年9月に生まれました。
 公民権運動の指導者はキング牧師だというのは正しくないという訳者あとがきが、この本を読むと素直にうなずけます。
 白人の女を見つめただけで、黒人の男は絞首刑にされた。エメット・ティルが殺された事件は、ミシシッピ州ではニグロの男が白人の女に口笛を吹くだけで罪となり、死によって罰せられることを示した。
 人というものを私が憎み始めたのは、15歳のころだった。エメット・ティルを殺した白人の男たちを憎んだ。しかし、私は、ニグロたちこそ憎いと思った。立ち上がって、殺人に対し何かしようともしないニグロを憎んだ。ニグロを殺す白人よりも、白人にニグロを殺されてなにもしないニグロに対する憎悪の方が強かった。人生のこの時期に、私はニグロの男たちを臆病者だとみなすようになった。
若い白人夫婦の家庭では、ニグロの少女を家において主婦が出かけることは少なかった。夫がニグロの少女に誘惑されることを心配したからだ。その反対のことは考えられなかった。 
白人男性が黒人奴隷(女性)を犯していたのが、いつも黒人女性が白人男性を誘惑したからだと白人女性も信じていたなんて、とんでもない笑い草ですよね。
 著者は大学生になって、黒人の公民権獲得運動に生命がけで挺身しました。KKKがダイナマイトと鉄砲で運動を圧殺しようとしていた時期のことですから、まさに生命をかけた闘いでした。
 ミシシッピのニグロの将来は年配の人々によって決まるのではないことが明確になっていった。彼らはあまりにもおそれ、疑い深くなっていた。長いあいだ閉ざされてきた心に新しい考えを吹き込もうとするのは絶望的に近かった。
 著者の顔写真もKKKのブラックリストに載った。著者はフリーダム投票に取り組んだ。黒人の投票は8万票だった。これは州の正式な選挙登録者数より6万票も多かった。しかし、ミシシッピ州には21歳以上の黒人有権者が40万人いたから、8万票というのはその2割でしかなかった。
 ミシシッピ州では、経済的に余裕のある白人家庭の子弟は、人種統合に対抗して用意されていた私立高校に通った。子どもたちを通学させる裕福な白人たちが公立学校の教育に全く興味を示さないので、公立学校の基本的資金源として必要な税金が減少した。公立学校は白人貧困層と黒人のための機関だからという理由で見捨てられた。
 アメリカ南部で黒人による公民権獲得運動が進行する過程と軌を一つにして成長していった黒人インテリ女性の自伝ですので、スリルもあり、大変興味深い内容です。白人の黒人に対する強烈な差別意識に今さらながら驚かされます。要するに、白人はインディアンを人間を思っていなかったのと同じく、黒人についても自分とおなじ人間だとは思っていなかったということなのでしょうね。
 アメリカ南部における公民権運動において、キング牧師は指導者の一人でしかなかった。キング牧師を中心として運動がすすんでいたわけでは決してない。
著者は、このことを再三再四強調しています。
 また、公民権運動は「非暴力」ですすめられたというイメージをともなっているが、現実には運動に従事していた人の多くは散弾銃などで武装していた。つまり、公民権運動は自衛のための武装をともなっていた。 
 公民権運動のすさまじい実態を改めて知ることができました。白人には黒人を殺す自由があったのですね……。アメリカのおぞましい真実の一端がここにあります。
(2008年6月刊。3500円+税)

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2008年12月 5日

ユダヤ人財産はだれのものか

ドイツ

著者:武井 彩佳、 発行:白水社

 ホロコーストは史上最大の強盗殺人であった。
 うむむ、な、なるほど、そういうことなんですね。
 ナチス・ドイツにとって、移住とは、無産化したユダヤ人の輸出であった。ヒトラー政権の成立時にドイツに暮らしていた52万5000人のユダヤ人のうち、移住した者は30万人、殺害された者は14万人とされる。その残りは不明ということでしょうか……。
 1933年当時のドイツの民間銀行1060行のうち、ユダヤ系のものが490行もあった。つまり、地方の民間銀行は、著しくユダヤ的な業種だった。大手銀行が、ユダヤ系の銀行を買収していくのがアーリア化の実態だった。
 ドイツにおけるユダヤ人収奪の最大の収益者は、明らかにドイツという国であった。
 1938年、ドイツの国家財政は破たん寸前だった。赤字は20億マルクにまで膨らんでいた。戦争に向けて大幅な増税は避けられないが、ヒトラーはこれを拒否した。
 ユダヤ人社会に10億マルクの弁済額が課せられ、特別税収は国家の収入を一気に6%も押し上げた。また、ユダヤ人の大脱出による出国税の税収増も加わった。戦争が始まる前は、国家予算の9%がアーリア化による収入であった。
 ユダヤ人から奪った物品を無償で分配することは原則としてなかった。収奪品を軍に引き渡すときにも支払いが要求された。盗品にも値札がつけられていた。
 ヨーロッパのユダヤ人から奪われた財産は、ドイツの戦争経費へ転化された。
 そして収奪されたユダヤ人の財産を戦後、どのように被害者へ還付するかというのが問題になったとき、肝心の遺族がいなかったのです。皆殺しにされたのですから、当然といえば、当然の現象ではあります。
 そこで、ユダヤ民族という集合体が、ヨーロッパに残された財産の相続人であるという国際法の常識を覆す主張が登場した。
 しかし、ユダヤ民族とは法的に定義可能なのか。民族というものに個々のユダヤ人の財産の相続権があるのか。つまり、集団全体は、集団の構成者の財産に対して権利を主張しうるのか。いずれにしても、殺して奪ったものによって富むことは許されない。このことは言える。
 では、誰が、相続人不在のユダヤ人財産に対する権利を有するのか。
 戦後ドイツのユダヤ人は2万人ほどでしかない。戦前の52万人ものユダヤ人には、とても匹敵しない。
 ナチス・ドイツが占領国の中央銀行から略奪した金塊を、スイスの中央銀行を含めた銀行が購入していた。
 ナチスに追われた難民がスイス国民で追い返された件数が2万4500件あり、少なくとも1万4500件の入国ビザ申請が領事館で却下された。
 IBMは、ナチ収容所の囚人管理のためのデータ管理システムを提供していた。
 ひえーっ、これには驚きました。あの天下のIBMって、ナチスのユダヤ人殺害に協力していたなんて、まったく知りませんでした。 
 島根の同期の弁護士から、太くて長い立派な長芋をたくさん送ってもらいました。実に見事な山芋で、トロロ汁を美味しくいただきます。でも、ちょっと食べきれませんので、知人にも少しだけ、おすそわけしました。
 トロロ汁もいいのですが、山芋ステーキも腹もちして、いい案配です。そして、梅肉を混ぜ込むと、これまた絶品です。思い出すだけで、口中によだれがたまってきてしまいました。
(2008年75月刊。2600円+税)

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2008年12月 4日

江戸商人の経営

江戸時代

著者:鈴木 浩三、 発行:日本経済新聞出版社

 遅れた封建時代だったと考えられている江戸時代に、実は、高度な市場経済システムが成立していた。さまざまな業種で多様な市場競争が繰り広げられていた。江戸時代は、市場競争と市場メカニズムが機能する資本主義的な側面を色濃く持った時代だった。
江戸時代の商工業者にとって、事業の永続性は最大の経営価値だった。この点は、今の日本でもいえることだと私は思いますが、お隣の韓国ではまったくあてはまらないと聞いて、驚いたことがあります。
 井原西鶴の『日本永代蔵』には、現代の経営にも通じる企業行動と発想が随所にちりばめられている。たとえば、西鶴は烏金(からすがね。1日に限って貸す少額短期の高利金融)でわずかな元本を運用し、銭両替を経て本両替にまでなったひとの話を通じて、「銀(かね)が銀をもうける」という資本観念が当然のものだ、としている。
 また、『日本永代蔵』には、資金が遊休化しないように合理的な投資先やビジネスを探すこと、取引先の借用調査が重要だという認識、知恵や才覚によってビジネスチャンスを開くこと、後継者の指導育成と暖簾わけが重視されていたことが読み取れる。
 江戸の商業では、本業が危機に遭遇したときの保険・補完手段も発達していた。たとえば、多くの江戸の大店(おおだな)では、本店は近江や伊勢などの本国にあって、江戸の店は江戸店(えどだな)という支店の形態をとっていた。
日本列島沿岸に定期・商業航路が開設されたのは、戦国時代末期から江戸時代にかけてのこと。日本海側の海運組織としての北前船と西廻り廻船、そして、瀬戸内水運が、当時の経済先進国だった西国を中心に成立していた。
 そして、日本海沿岸の廻船は買積船(かいづみふね)だった。買積船とは、船主が自己資本で積み荷を買って船に積み、適当な相手に売るというビジネスで、差益商人そのものだった。主な船荷は、ふかひれ・ほしあわび・いりなまこなどの海産物や、金・銀・銅などの鉱産物だった。
江戸時代の貨幣経済の特徴は、金・銀・銅(銭)という3種類の貨幣が、それぞれ対等な本位貨幣として通用していたこと。金極め(きんぎめ)、銀極め(ぎんぎめ)、銭極め(ぎめ)という。金遣いの江戸でも、上等な茶、材木、呉服、薬品、砂糖、塩、職人の賃金などは銀建てだった。そして、吉原での遊興費や大名家で購入する書画・骨董などの高級贈答品は金建て。庶民の日常品、旅籠の宿泊料などは銭建てだった。
 江戸時代の年貢率は、寛文ころまでは7公3民で、農民の生産高の7割を領主が取立て、農民の手元には「もうけ」はほとんど残らなかった。ところが、寛文ころを境として、年貢率は急減して、農民に可処分所得が残るようになった。宝永・正徳期(1704〜16)には、3公7民となっている。
 町人は、信用を得るために両替商に預金した。当時の預金(銀)には当座預金しかなく、利子はつかなかった。しかし、両替高から信用されることは大いに評価された。
 よみ、かき、そろばんができないと丁稚にもなれなかったので、手習い=寺子屋が非常に盛んだった。天保期の江戸では、日本橋や神田といった町人の居住地域には手習い師匠が集中していて、師匠の生計は寺子屋だけで成り立っていた。「手習い師匠番付」まで発行されていた。寺子屋番付によると、221人の師匠が江戸で活動していたことがわかる。
 江戸時代に抜荷取り締まり令や禁止令がたびたび出されていたということは、それだけ抜荷つまり密貿易が頻発していた、ということである。
 江戸時代を新しい目で見ることを促してくれる本です。江戸と明治は切断されているのではなく、実は大きな連続性があるというわけです。
 このところ、曇天だったり小雨が降ったりすることの多い休日が続いていましたが、先の日曜日は久しぶりに秋晴れとなって気持のいい一日でした。選挙突入かと思われていたのに、いつの間にかそれはなくなり、かわって不景気風が吹き荒れています。こんなときには、庭いじりするのが何よりの気分転換です。
 まず、庭の一角を掘り上げ、コンポストの枯葉を取り出して埋め込み、その上にEMぼかしで処理した生ゴミを置き、土をかぶせます。本当はしばらく間をおくべきと思うのですが、師走の焦りから足で踏み固めるとすぐにチューリップの球根を植えこみました。
 そのあと、エンゼルストランペットを根元からバッサリ刈り取りました。コンポストに入れるために小さく切らないといけませんので、大バサミを使う腕が痛くなってしまいました。エンゼルストランペットは土中からすぐ芽を出すほど生命力の旺盛な木です。おかげで庭のあちこちにエンゼルストランペットが咲きます。すっかり見通しの良くなった庭に、ツメレンゲの小さな花がたくさん咲いています。
夕方5時半、暮れなずむ晩秋の夕空を見届けて本日の庭仕事の終了としました。
(2008年7月刊。1800円+税)

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2008年12月 3日

ペリリュー・沖縄戦記

日本史(現代史)

著者:ユージン・B・スレッジ、 発行:講談社学術文庫

 著者はアメリカ第一海兵師団の一員として、中部太平洋にあるパラオ諸島のペリリュー島と、沖縄の攻略戦に参加しました。本書は、その体験記です。戦争の悲惨が惻々と伝わってきます。
 ブートキャンプの典型的な一日は、午後4時の起床ラッパとともに始まる。そして厳しい一日は、午後10時の消灯ラッパとともに終わりを告げる。
 無常で理不尽としか思われない、いじめも同然の「訓練」は、のちに戦場で生命を救った。戦争は、誰にも、とりわけ歩兵には眠ることを許さない。戦闘が約束するのは、永遠の眠りだけなのだ。
 しつこく何度もやってくる訓練教官の足音に聞き耳を立てた。真っ暗な闇の中、忍び寄ってくる教官の気配に絶えず耳を澄ませていたおかげで、聴力が著しく研ぎ澄まされた。
 強いストレスにさらされながらも、命令に従っているうちに、規律を身に着けていった。これがのちに戦場で明暗を分けた。聴力の鍛錬は、夜中に陣地に侵入してくる日本兵の気配を、塹壕の中で聞き分けることができた。
古参兵は言った。弾が飛んでくる音を初めて聞いたときは、クソ恐ろしくて、ライフルも構えていられなかったほどだ。怖気づくのは誰も同じ。怖くないなんて言うやつは、大嘘つき野郎だ。
 生き抜くためにすぐにも身に着けておかねばならん大事なこと、それは敵弾がどんな音を立てながら飛んでくるのか、それがどんな武器から発射された弾なのかを正確に知っておくこと。著者は、この訓練のおかげで激戦のなかを生き延びることができました。
 第一海兵師団の8割が18歳から25歳だった。そして、日本人に対して燃えるような憎悪を抱いていた。海兵隊員は、日本兵を激しく憎み、捕虜にとる気はなかった。
 日本兵は死んだふりをしておいて手榴弾を投げつける。負傷したふりをしてアメリカ軍衛生兵に救いを求め、近づいた相手をナイフで刺し殺す。そして、日本軍は真珠湾を奇襲攻撃した。日本で、鬼畜米英と言われていたことの反対が、ここにあったのですね。
 用を足しておくことがいかに重要なことか、古参兵たちは身をもって学んでいた。激戦のさなかでは、食べたり眠ったりするのもままならないが、排便はなおさらなのだ。
 ペリリュー島に上陸したアメリカ軍はすぐに戦闘は終了すると見込んでいた。ところが、日本軍守備隊1万を率いた指揮官(中川州男大佐)はバンザイ突撃を禁じ、完璧な縦深防御の態勢を築いた。日本軍はバンザイ突撃どころか、戦車と歩兵が協同した、見事な逆襲をしてきた。その結果、アメリカ軍の死傷者の割合は、後の硫黄島でのそれに匹敵する。
 ペリリュー島では、硬い珊瑚の岩盤に深く塹壕を掘るのは不可能に近く、身のまわりに岩を積み上げ、倒木や瓦礫の陰に隠れて身を守るしかしかなかった。
 集中砲火を浴びたときや、長時間にわたって敵の攻撃にさらされているとき、一発の砲弾が爆発するごとに、身心はいつにもまして大きなダメージを受ける。大砲は地獄の産物だ。巨大な鋼鉄の塊が金切り声を響かせながら、標的を破壊せんと迫りくる以上に凶暴なものはなく、人間のうちにうっ積した邪悪なものの化身というしかない。まさに暴力のきわみであり、人間が人間に加える残虐行為の最たるものだった。
 銃弾で殺されるのは、いわば無駄なくあっさりとしている。しかし、砲撃は、身体をずたずたに切り裂くだけでなく、正気を失う寸前まで心も痛めつける。砲弾が爆発するたびに、力をなくしてぐったりし、消耗せずにはいられない。砲撃が長時間に及ぶときには、悲鳴をあげ、すすり泣き、あたりかまわず泣きわめきたくなる。大砲や直撃砲を集中的に浴びせられるのは恐ろしいとしか言いようがない。身を隠すすべもない開けた場所で集中砲火に身をさらすのは、経験したことのない者には考えも及ばない恐怖だ。
 ペリリュー島の日本軍守備隊は全滅した。死者1万900人。生きて捕虜になった日本兵は302人しかおらず、しかも兵士は7人、水兵は12人で、残りはアジア各地出身の労働者だった。これに対して、アメリカ軍精鋭の第一海兵師団は戦死者1252人、負傷者5274人。師団は見る影もなかった。
 ペリリュー島は悪臭の戦場と化した。地面は固く尖った珊瑚礁岩で、土というものが存在しない。日本兵の死体は放置されたままの場所で腐敗していった。そして兵士の多くがひどい下痢に苦しんだが、排泄物に土をかけるという処理ができなかった。屍臭に満ちた熱帯の大気が、筆舌に尽くしがたい悪臭を放った。汚物の山に埋もれたような状況で、ただでさえ熱帯に多いハエが爆発的に繁殖した。大型のクロバエ(アオバエ)で、丸くふくらんだ胴体は、青緑色の金属的な色をしている。ハエは、山地に散らばる人間の死体、排泄物、腐った携帯口糧に飽食して肥り、動作が鈍り、満足に飛べないハエすらいる始末だった。
 戦場のすさまじい悲惨さが異臭とともにひしひしと伝わってくる本でした。
 それにしても、アメリカ軍はこのペリリュー島を本当に攻略する必要があったのか、著者は疑問を投げかけています。同じことは、日本軍にとっても言えることでしょう。
(2008年5月刊。740円+税)

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2008年12月 2日

自民党政治の終わり

社会

著者:野中 尚人、 発行:ちくま新書

 小沢一郎は、1980年代の終わり、自民党システムが完成した時期にその頂点に立った。しかも、自民党の支配体制が本格的に動揺し始めた1990年代の初期にも主導権を握って、その舵取りを行った。このように、小沢一郎は、かなり長い期間にわたって、自民党システムの中枢にいた。
 その小沢一郎が、小選挙区制の導入を柱とする政治改革を強引に推し進めた。なぜか?
 小沢一郎は、国会議員になってから、佐藤派に入りつつ、実質的には田中角栄に師事した。小沢一郎と田中角栄の関係は極めて緊密だった。小沢一郎の結婚式で、田中角栄は父親がわりをつとめた。田中角栄のロッキード裁判は、6年9ヶ月間、191回あったが、小沢一郎のみ全部を傍聴した。
 金丸信が小沢一郎を重用したため、小沢一郎は1989年8月から1991年4月まで、自民党幹事長として、まさに君臨した。
 その小沢一郎が今や自民党と対立する民主党の党首というのですから、なんだか信じられないのも当然です。2人だけでコソコソ隠れて対話するのではなく、堂々と国会で大いに論争すべきですよね。
 小泉純一郎が「派閥を壊す」というのは、経世会を標的とした攻撃であり、「自民党をぶっこわす」というのは、経世会の支配する自民党は解党的な出直しが必要だということ。
 小泉純一郎は、清和会という自分の派閥を最大限に利用した。つまり、小泉純一郎は、派閥というものを原理的に否定していたとは、とうてい言えない。
 小泉純一郎は、単純小選挙区制には必ずしも反対ではなかったが、少なくとも小選挙区比例代表並立制には強硬に反対していた。
 しかしながら、小泉純一郎によって、結果的に自民党は、全体として、派閥システムが後戻りがきかないほどに崩れた。人材を育成し、難し意思決定を支えるという派閥の役割がなくなった。これまで、当然のように自民党を支持してきた人々が、初めて、そのことに疑いをもつようになった。自民党は、もっともコアな支持層の離反に直面するようになった。決して野党に流れるはずのなかった固い支持層の流動化、これこそが自民党の圧倒的優位が崩壊したことを物語っている。
 自民党の最大の特徴の一つは、巨大な党本部機構である。その巨大な組織が、政策面での役割分担のために、きわめて細かく分化している。自民党内部は、政策を所管する省庁への対応と、外部の利益団体への対応がクロスする形をとりながら、きめ細かい組織を組み上げていた。
 自民党組織のもう一つの大きな特徴は、党自体の地方組織がきわめて脆弱で、事実上ほとんど存在していないこと。
 派閥は、全体として非常に分離的な自民党が最後に統制力を発揮するためのみちでもあった。人事権を握る派閥会長が、自民党システムのなかで、重要な権力核だった。
 自民党は崩壊寸前だと言われながら生き延びている。その理由は2つ。一つは、自民党システムが社会の隅々まで根を張って、きわめて強靭なこと。もう一つは、自民党システムの存続期間が長かったので、そこからの移行プロセスも長くかかるということ。
 国会解散・総選挙という政治日程が、どんどん先送りされています。しかし、ともかく生活再建・景気回復とあわせて、「人間らしい生活を取り戻せ!」ということが主要なスローガンでなければならないと私は思います。 
(2008年10月刊。760円+税)

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2008年12月 1日

江戸城

江戸時代

著者:深井 雅海、 発行:中公新書

 江戸時代は格式社会である。
 大名も江戸城に入ると、下乗橋(げじょうばし)の手前で駕籠から降りなければならなかった。御三家は、その先の中之門の手前まで駕籠に乗ることができた。玄関からは大名一人の行動になる。数千人の家臣を持つ大大名に対しても、登城時から将軍の威光を示し、将軍家の臣下であることを実感させる工夫がなされていた。
 一般的な大名は刀を玄関に持ち込むことができなかった。それに対して、御三家は玄関式台より奥の大広間溜(たまり)まで刀を持ち込むことが許されていた。
殿中儀礼に参加することにより、大名は、大名同士の競争意識を植え付けられていた。
江戸幕府が大名を親藩・譜代・外様の三つに分けていたという史実はない。大名の家格としては存在しなかった。これは『武鑑』を見れば明らかである。
有力外様大名は正月2日に大広間で将軍に謁見している。それだけ将軍にとって遠く、煙たい存在であったことを示している。
 国持大名は、幕府役職の信任から排除されていたため、自分自身の序列を上げるには官位昇進しか途がなかった。国持大名とは、律令の国郡制の一国一円以上を領する前田や島津などの大名(9家)と、それに近い規模をもつ伊達や細川などの大名(9家)をさし、十八国主と称された。
 旗本の場合は、どんなに高い家禄をもらっていても、諸大夫役に任命されないと官位は与えられなかった。
老中は、毎日九ツ時(午後0時)ごろに執務室を出て、近くの部屋を一巡する「廻り」という行事を行っていた。老中の執務時間は、四ツ半時(午前11時ころ)から八ツないし八ツ半時(午後2時から3時ころ)まで。つまり、老中の御用部屋での執務時間は3〜4時間と、限られていた。
 老中は通常4〜5人、若年寄のほうは3〜5人。ともに大事は合議で、日常的なことは月交代の月番制で処理していた。老中の合議は、書付を扇子にはさんで回覧するという、書類による稟議だった。
 将軍綱吉の時代に、老中の御用部屋が将軍の御座所から遠ざけられた。真の理由は、老中合議制から将軍独裁制への転換を図ったものである。
 寛政の改革、天保の改革は、いずれも主導者の松平定信、水野忠邦が老中を解任されて改革は終了した。松平と水野がだんだん独裁的になり、幕閣内で孤立化したことが要因とみられている。つまり、老中数人の合議を基本とする老中合議制という仕組みの中では、改革を長期間持続することが困難なことを意味している。
 なーるほど、ですね。
 歴代の将軍のうち、正室の御台所の子は三代家光だけ。世嗣をもうけるうえで、側室は不可欠だった。
 家綱・綱吉・家継の生母の父は、農民・町民・僧である。吉宗の生母の父も農民である。庶民の出身であっても、将軍の生母となれば、本人のみならず、親族の栄達も約束された。ただし、八代家斉の側室は全員が旗本の娘である。この時期に、側室は女中の中?から選ぶという制度がほぼ確立した。
 側室は、たとえ将軍の世嗣を産んでも、女中身分のまま。わが子が将軍職を継ぐと、はじめて家族の構成員となり、多くの女中がつけられた。
将軍の娘は、大名家などに嫁いだのちも、あくまで将軍家の「姫君」として遇された。この点、将軍の息子が大名家に養子に入ると、基本的にその家の人間になる。両者の扱いは大きく違っている。
 将軍家の娘が大名家に嫁ぐと、大名家の江戸屋敷地に別棟の住居が建築された。その住居を、御三家・御三卿など三位以上に昇進できる家に嫁いだときは「御守殿」他の大名家に嫁いだ場合は「御住居」(おすまい)と称した。そして、幕府若年寄の一人が「御掛」を命じられ、幕府から一定の「賄料」(まかないりょう)、つまり、生活費を支給され、女中と広敷役人が付けられた。
 将軍家御成、つまり、将軍の外出先として定められていたのは、上野の寛永寺と芝の増上寺、そして江戸城内にある紅葉山のみ。それ以外は個人差がある。将軍が大名の屋敷に出かける時には、たった一日の御成であっても「御成御殿」を造営して将軍を迎えた。将軍がたとえ一日移動するときであっても、幕府政庁の中枢が一緒に移動した。つまり、御用人、老中、若年寄などの執務室や奥右筆の部屋も一緒にもうけられたのである。
 江戸中期以降、将軍が外泊することはほとんどなかった。その例外が日光社参である。
 江戸時代の将軍とその取り巻きの人々の生活の一端を知ることができました。
(2008年4月刊。760円+税)

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2008年12月31日

1945年のクリスマス

日本史(現代史)

著者:ベアテ・シロタ・ゴードン、 発行:柏書房

日本国憲法の誕生秘話です。日本で育ったユダヤ人女性が終戦直後、アメリカ本土からGHQの一員として日本に戻ってきました。ピアニストの父と母は、敵性外国人として軽井沢に追いやられ、栄養失調のため倒れていたのです。1941年、第二次大戦が始まると、軽井沢は第三外国人強制疎開地に指定された。300人の外交官が滞在し、5000人の外国人が軽井沢で生活した。
日本をよく知る22歳の白人女性は、日本国憲法の草案を短期間で作り上げるように命じられ、突貫作業に従事します。その様子が生々しく伝わってくる本です。
著者は5歳から15歳まで東京で育ち、日本語は上手に話せた。父シロタはロシア系のユダヤ人だった。親戚には、ナチスのため強制収容所に入れられ、殺された人が多くいた。
両親がキエフ生まれなので、ロシア語を話せる。著者はオーストリアのウィーンで生まれ、日本に来ても少女時代にはドイツ語学校に通っていたのでドイツ語は話せる。フランス語は家庭教師から習った。アメリカの大学ではスペイン語を学んだ。だから、英語と日本語を含めて6カ国語が自由に話せる。これが身を助けた。うむむ、こ、これは、す、す、すごい。すご過ぎる。語学のできない私にはうらやましい限りです。
1945年12月24日、著者はGHQの民間人要員の一人として、厚木基地に降り立った。そのとき、22歳だった。
職場は、皇居の前の第一生命ビルの6階にある民生局。同じフロアーにはマッカーサー元帥の執務室もあった。
GHQの民間人の民政局は、軍服こそ着ていたが、弁護士や学者、政治家、ジャーナリストといった知識人の集団だった。マッカーサー元帥の信任があって、元帥の信奉者だったホイットニー民政局長は、コロンビア・ロースクール出身の弁護士で、法学博士だった。ケーディス大佐もハーバードのロースクール出身の弁護士で、ユダヤ人。
メンバーの多くがルーズベルト大統領のニューディール政策の信奉者であり、アメリカで果たせなかった政革の夢を、焼け野原の日本で実現させたいという情熱を持っていた。
ホイットニー局長はこう言った。
「日本政府の憲法草案は、GHQとしては受け入れることはできない。なぜなら、民主主義の根本を理解していないから。修正するのに長時間かけて日本政府と交渉するよりも、当方で憲法のモデル案を作成して提供したほうが効果的だし、早道と考える」
人権に関する条項は、ロウスト中佐とワイルズ博士と著者の3人が任命された。そこで、著者はジープで都内の図書館や大学をまわり、アメリカ独立宣言、アメリカ憲法、イギリスの一連の憲法、ワイマール憲法、フランス憲法、スカンジナビア憲法、そしてソビエト憲法を集めた。GHQの草案は、日本政府がつくったものとして発表することになっていた。
それまでの日本では、妻は準禁治産者と同じ扱いを受けていた。つまり裁判を起こせないし、遺産の相続権もない無能力者だ。もちろん選挙権もない。しかし、マッカーサー元帥の5大改革の中に婦人解放と参政権は含まれていた。
1946年2月4日から12日までの9日間は、著者の生涯でもっとも濃度の濃い時間だった。GHQがつくった憲法草案は、2月13日麻布の外務大臣で吉田茂外務大臣と松本恭治国務大臣に渡された。
このときホイットニー准将は、これが受け入れられなければ、天皇制は守られないかもしれないと日本側を脅した。
3月4日、GHQ(民政局)は日本政府と草案の逐語的な詰めの交渉をした。これに著者も通訳の一人として参加した。審議は時間がかかり、人権条項に取りかかったのは、午前2時頃。日本側は次のように言った。
「女性の権利問題だが、日本には、女性が男性と同じ権利を持つ土壌がない。日本女性には適さない条文が目立つ」
これに対して、ケーディス大佐が次のように反論した。
「しかし、この条項は、この日本で育って、日本をよく知っているミス・シロタが日本女性の立場や気持ちを考えながら、一心不乱に考えたものです。悪いことが書かれているはずはありません」
冬の夜が明け、およそ終わったのは朝10時頃。全体としては夕方6時まで詰めの作業が続いた。
すごいですね。日本国憲法ができあがるまでの苦労話として、もっと知られていい話だと思いました。
(2003年9月刊。1748円+税)

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2008年12月30日

さらば!同和中毒都市

社会


著者:中村和雄・寺園敦史、 発行:かもがわ出版
 京都の弁護士が京都市のひどい実態を鋭く告発した本です。いやあ、これはひどい。こんなにひどいのか、と改めて怒りがわいてきます。この本を読んでいてただひとつの救いは、このひどい現状を改革しようとする中村弁護士がいることです。といっても、残念なことに、中村弁護士は京都市長選に立候補したものの、惜しくも当選できませんでした。
 桝本・京都市長が1996年に誕生してから12年間に、逮捕された京都市職員は94人。2006年には1年間に15人も逮捕された。逮捕された京都市職員の犯罪で多いのは覚せい剤の使用と譲渡容疑である。
 その原因について、桝本市長は次のように述べた。
「採用に当たり、社会正義の実現のために同和地区の出身者の優先雇用をするという現業の問題が構造的な問題と言える」
「採用時に、部落解放同盟や当時の全解連に優先雇用枠を与えた。その結果、任命権まで京都市から運動体の一部の人物に行ってしまった。そこにもっとも大きな問題があると考えている」
 そうですよね。市職員の採用が「一部の人間」の恣意によってしまったら、何が起きるか分かりません。犯罪者多発と公金横領の温床です。
 京都市で明るみになった同和補助金搾取事件は総額8000万円。大勢の市職員が関わって日常的に実行されていた。ところが、2003年7月に発表された処分は、対象となった57人のうち誰一人として免職にならず、せいぜい減給・戒告どまりだった。それどころか、当時の市教委総務部長は教育長に、人権文化推進部長は副市長に、もっとも多額の公金搾取を繰り返していた2支部に協力していた担当課長は局長へ昇進した。
 京都市政に巨額の損害を与えても、運動団体とのあつれきを避け、同和行政を「円滑」に進めたことが評価されたわけである。
 いやあ、これでは真面目に同和問題に取り組み、部落解放を目ざしてがんばってきた人は浮かばれませんよね。

(2008年9月刊。933円+税)

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2008年12月29日

40年のあゆみ

司法


きづかわ共同法律事務所

 大判の絵本スタイルです。表紙の絵は下町の人情味たっぷりの風情をよく描いていて親しみを持たせます。それほど厚くはない(160頁)し、手に取ったら、中をちょっとのぞいてみようかな、という気にさせます。
 そうなんです。本は、表紙、タイトル、それがとても大事なんです。この本はそこでまず優れています。
 さあ、ページを開いてみました。見開き2頁に一つのテーマが基本です。いわば読み切りスタイルです。しかも、写真があり、親しめる大きなマンガカットがあったり、事件関係者の一口コメントがあったり、いろんな工夫がされていて、とても読みやすくなっています。
 おっと、形式ばかりほめていてはお粗末な内容をカバーしているのかという、あらぬ誤解を招きかねません。いえいえ、決してそんなことはありません。読み切りの内容がまた素晴らしいのです。ともかく、弁護士たちの活動分野が実にバラエティーに富んでいるのです。感嘆してしまいました。
 今から20年も前に、少年事件の取り調べに弁護士たちが交代で立ち会ったというのには驚いてしまいました。そんなこと聞いたこともありませんでした(20年前に聞いたのかもしれませんが、すっかり忘れていました)。なりたての弁護士7人が毎日、午前と午後、交替で少年2人の取り調べに立ち会ったというのです。すごいですね。
 労働事件で、解雇通告を受けた労働者が相談に行ったときに弁護士から言われた言葉は……。
「私たちに何をしてほしいのですか。骨を拾えというのではあれば拾います」
 うひゃあ、す、すごいですね。この言葉を聞いて、その労働者は「えらいことに足を踏み入れた」と腹を固めたそうです。
 大阪事件で「肥後もっこす」という言葉が出てくるとは思いませんでした。集団就職で熊本から大阪に出て行って、整理解雇された組合員10人が、解雇無効・地位保全を求めて裁判を起こしたのです。正義感が強く、一度決めたらテコでも動かない。そんな熊本県民気質を反映して、地道な活動を展開していったといいます。お隣の県民がほめられると、私までなんだかいい気分になります。
 大阪の法律事務所なのに、なぜか東京地裁を舞台とした裁判にも果敢に取り組み、大きな成果をあげているそうです。たとえば、株主の信頼を裏切った西武鉄道に対して、株主としての損害賠償請求事件です。アメリカ航路の船長の過労死事件も、東京地裁、高裁の事件です。そして、株主オンブズマン訴訟にも取り組んでいます。すごいですね。
 この法律事務所は、正森成二代議士の出身母体でもありました。田中角栄と国会で堂々と論戦する共産党の正森代議士の歯切れ良い大阪弁の追及は、胸のすく思いがしたものです。540回も国会で質問したとのことですが、本当に惜しい人を亡くしてしまったものです。大変勉強になる冊子でした。

(2008年11月刊。非売品)

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2008年12月28日

悩めるアメリカ

アメリカ

著者:実 哲也、 発行:日経プレミアシリーズ

 アメリカの国民は、いま3つの大きな不安を抱えている。
 一つは安全に対する不安。9.11同時テロ以来、大きな不安が消え去らない。国民は、どう対応していいのか分からないもどかしさを感じている。
 二つ目は、暮らしの不安。失業や病気になっても病院に行けない、マイホームも値上がりしない。この不安の背景には、急成長する中国やインドが経済大国としてのアメリカの立場を危うくしてしまうのではないかという脅威認識もある。
 三つ目は、社会の変容に対する不安。不法移民を含む移民の増加に対する警戒感である。
 アメリカでは借金を支払えなくなって破産する人が多いが、その半分は治療費が支払えないため。だから、病気になっても医者にかからない人が増えている。それには、医療費の高騰と無保険者の増加がある。
 テキサス州ヒューストンは、世界でも最高レベルの病院が集まっている。しかし、ヒューストンでは無保険者の比率が3割をこえている。テキサス州に中小企業が多いことが、無保険者を作り出している。
 イラクに派遣されているアメリカ軍の3分の1は、パートタイム兵士である。つまり、予備役や州兵である。予備役と州兵の総数は130万人。これは、正規軍140万人とほとんど同数である。
 イラクのアブグレイブ刑務所の虐待事件に関わり処分された女性兵も、予備役だった。大学費用稼ぎが予備役志望の動機になっている。お金にゆとりのない家庭の若者たちが人員募集のターゲットになっている。アメリカの若者にとって、軍隊に入るのは、非常に現実的な選択肢なのである。その意味で、戦争は遠い存在ではない。
 国務省にいたときには、公式答弁から外れることのなかったアメリカの外交官たちは、退官した時に、口をきわめてブッシュ政権の外交を批判する。
 アメリカでは、大学教育さえ受けていれば所得が落ち込む心配はないという時代は遠い昔になってしまった。
 差し押さえによって、せっかく手にしたマイホームを失う人は、2007年は前年比5割アップの150万件、2008年には250万件に達する見込みだ。
 アメリカ発の金融危機が世界の経済を直撃し、日本でも次々に首切り旋風に見舞われています。でも、日本では、まだ赤字になってもいないのに、早々と労働者の大量首切りを断行しようとしています。まさに、大企業は社会的存在ではなく、目先の利益ばかりを追う私企業にすぎないわけです。そんな大企業に対して、税制面で手厚く優遇しているなんて、許せません。

(2008年10月刊。850円+税)

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2008年12月27日

JRのドン葛西の野望を警戒せよ

社会

著者:樋口 篤三、 発行:同時代社

 葛西敬之(かさいよしゆき)は、JR東海の社長そして会長になり、国家公安委員をつとめる大物財界人です。
 葛西は1980年代の国鉄分割民営化にあたって「改革三人組」の一人と言われた。国鉄職員局次長として「労組とのつばぜりあいの前線指揮官だった」と本人が自らを振り返っている。
 そして、この20年間、松崎明打倒、JR総連解体を執拗に追求してきた。葛西は、その直系のJR連合に、国労をふくめてJRの全労働者を吸収することを目標としている。
 私には、この本に書かれていることが真実なのかよく判断できません。しかし、国鉄を分割して民営化して本当に良かったのかについて、私は根本的な疑問を抱いています。サービスが良くなったとも思いませんし、何より、日本の労働組合全体が決定的に弱体化させられてしまいました。ストライキが死語になって、日本の民主主義を支える基盤の一つがなくなったも同然です。企業・財界が異常に強くなりすぎました。いま、問題になっている非正規雇用の問題についても、労働組合の弱体化と裏腹の関係にあります。なんでも資本の思う通りというのでは、日本の若者から職を奪い、それでは健全な日本の将来がないことは、今の事態が見事に証明しています。
 JR総連を指導してきた松崎明については、本人も革マル派だったことを認めています。しかし、今は革マル派とは関係ないとしています。著者もそれを認めています。
私は何年か前、憲法改正手続法が成立する前の福岡での公聴会のとき、久しぶりに革マル派という大きな旗とヘルメット集団を見て、あれっ、まだいたの、と思ってしまいました。学生時代はよく見かけましたが、その後、内ゲバで他党派との殺し合いをして、ほとんど捕まらないうちに姿を消したとばかり思っていました。
 革マル派には三大拠点があった。早大、沖縄、そして動労。JR内の革マル派は、1992年から93年にかけて全員が脱退した。沖縄の革マル派は、2000年ころに脱退した。そのころ、人間関係を含めてJR内の人間は革マル派と完全に切れた。今あるのは、動労を率いてきた松崎明の周囲に集まった松崎組のようなもの。
 ところが、警察はその実体をよく知りながら依然として、JR総連内に松崎の率いる革マル派が相当数いると国会などで公式答弁を繰り返している。
「週刊現代」は2006年7月から24回にわたって、松崎・JR総連たたきの記事を連載した。テロリスト、労組の革マル派による暴力支配、公金横領など……。
 しかし、公金横領について、2007年12月27日、検察は不起訴とした。
 これは一体、どうなっているのでしょうか。国鉄(いまのJR)には、なんだかドロドロしたものが昔も今もたくさんあるようで不気味です。これでは安心してJRを利用できません。
 私の身近な人に国労争議団のメンバーがいます。とても気のいい方です。資本が労働者をモノとして使い捨てしていいという風潮だけは絶対に改めるべきだと思います。国鉄時代の労使紛争が今も解決していないなんて、日本社会の恥ではないでしょうか。

(2008年12月刊。510円+税)

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