弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2008年10月30日
小林 多喜二
社会
著者:手塚 英孝、 発行:新日本出版社
『蟹工船』ブームは単なる一過性のものではなく、現代日本の病根を反映したものとして、幸か不幸か、まだまだ続きそうです。
小林多喜二が小樽高等商業学校で第二外国語にフランス語を選択し、フランス語劇としてメーテルリンクの「青い鳥」に山羊に扮して出演したこと、このフランス語劇が一番人気をとったことを初めて知りました。私も大学でフランス語を第二外国語でとりました。そのころはストライキに入って授業もなくなっていましたし、外国語劇というのもありませんでした。ちなみに舛添要一厚労大臣は私と同じクラスで、そのころから右翼でした。弁護士になって、八王子セミナーハウスでのフランス語強化合宿に参加したとき、フランス語劇に出演したことがあります。このとき、私はセリフ覚えが悪くて、とても役者には向かないことを実感させられました。
小林多喜二と芥川龍之介とは同じ時期の作家だったのですね。初めて認識しました。芥川龍之介は自殺する二ヶ月前に小樽にやってきて、小林多喜二らの歓迎座談会に出席しているのです。1927年(昭和2年)7月のことでした。また、小林多喜二は、チャップリンの映画「黄金狂時代」を4回も繰り返し見たというほど熱心な映画愛好家でした。
『蟹工船』が書かれるまでの多喜二の丹念な取材状況も詳しく紹介されています。『蟹工船』のテーマとなった事件は、1926年に実際に起きたものです。
北洋漁業の蟹工船は、1920年から試験的に始められ、1925年には規模が大きくなって大型船になった。1500トン前後の中古船が多く、1925年に9隻、26年に12隻、27年には18隻となった。乗組員の漁夫・雑夫は4000人をこえた。生産高も25年の8万4000箱から、26年に23万箱、27年には33万箱にまで増大した。
小林多喜二は、銀行で仕事しながら土曜から日曜にかけて停泊中の蟹工船の実地調査をし、漁夫と会って話を聞いた。漁業労働組合の人たちからも多くの具体的な知識を得た。船内生活や作業状態の詳しい聞き取りもした。小林多喜二は、こうやって6ヶ月間の調査により、下書きとしてのノート稿を書き終えた。
この作品には、主人公というものがない、人物もいない、労働の集団が主人公になっている。多喜二は、このように手紙に書いた。『蟹工船』は発表されると、大変な反響を呼んだ。読売新聞で、29年度上半期の最高の作品としての評価を受けた。
そして、『蟹工船』は、帝国劇場で上演された。『蟹工船』は発売禁止処分を受けながらも大いに売れた。半年間で3万5千冊が売れた。北海道の書店では1日に100冊とか300冊も売れた。多喜二は、29年6月、小樽警察署に呼ばれて、取り調べを受けた。多喜二は「不在地主」の原稿(ノート稿)は、ほとんど銀行の執務時間中に書いた。同僚が協力してくれた。仕事のほうは、午前中のうちに素早く終えて、午後は、毎日、4枚から5枚の原稿を書いていった。
多喜二は、1929年7月に起訴された。天皇に対する不敬罪である。『蟹工船』のなかの、「石ころでも入れておけ、かまうもんか」という漁夫のセリフが対象となった。いやあ、ホント、ひどいですよね。こんなことで起訴されるなんて。
多喜二は、刑務所の中でバルザックやディケンズを読んだ。そして、多喜二の母は、読み書きできなかったが、息子のために一心にいろはを習い、鉛筆で書いた手紙を刑務所にいる多喜二に送った。
小林多喜二は、志賀直哉とも親交があった。志賀直哉は多喜二が警察によって虐殺されたことを知って、日記に、次のように書いた。
アンタンたる気持ちになる。ふと彼らの意図、ものになるべしという気がする。
小林多喜二は、1933年2月20日、スパイ三船留吉によって警察に逮捕された。その日のうちに拷問で死亡した。それは、ただの拷問ではなかった。明らかに殺意がこもっていた。
多喜二の遺体は、膝頭から上は、内股と言わず太腿といわず、一分の隙間もなく、一面に青黒く塗りつぶしたように変色していた。顔は、物すごいほどに蒼ざめていて、烈しい苦痛の跡を印している。頬がげっそりこけて眼が落ち込んでいる。左のコメカミには、2銭銅貨大の打撲傷を中心に5,6か所も傷跡がある。みんな皮下出血を赤黒くにじませている。そして、首にはひと巻き、ぐるりと深い線引の痕がある。よほどの力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっていた。よく見ると、赤黒く膨れ上がった腹の上には左右とも釘か錐かを打ち込んだらしい穴の跡が15,6以上もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。
さらに、右の人差し指は完全骨折していた。指が逆になるまで折られたのだ。歯も上顎部の左の門歯がぐらぐらになっていた。背中も全面的に皮下出血していた。
多喜二が警察に虐殺されたのは今から75年前のことです。多喜二の遺体解剖を受けつけてくれる病院もなく、葬儀すら警察に妨害されています。
『蟹工船』ブームのなかで、今の若者に、いえ、若者だけでなく多くの日本人に知ってほしい事実です。この事実を知らないと、多喜二の死にいたる苦しみは浮かばれないのではないでしょうか。著者は、多喜二と同世代の人です。
(2008年8月刊。1500円+税)