弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年10月26日

駆け抜けた人生

司法

著者:松本 洋一、 発行:記念誌刊行委員会

 10月半ばの土曜日、室見川ほとりの小料理屋で、故松本洋一弁護士をしのぶ会が開かれました。よく晴れた秋の日の昼下がりです。故人の遺影を前に、故人をさかなにして大いに談笑しました。ともかく「大勢集まってワイワイガヤガヤ陽気に」やることが、故人のもっとも喜ぶところだということで、参加者一同、何の異議もありません。この日は、とりわけ故人と同じ法律事務所で働いていた島内正人弁護士の独演会のようなものでした。私も久しぶりに涙が出てくるほど腹を抱えて何度も笑ってしまいました。きっと故人も「おまえら、どうしようもないやっちゃのー」と苦笑していることでしょう。ゴメンなさい!
 この本は、1991年10月21日に亡くなった故松本洋一弁護士をしのんで、翌1992年10月に発刊されています。私は、しのぶ会に向けて読み直したのです。
 以下、故松本弁護士を、生前のように松本さんと呼ばせていただきます。
 松本さんは、炭鉱で掘進夫として3年間働いた経験があります。朝鮮から引き揚げて18歳から21歳までのことです。そのあと九大法学部に入り、卒業後に福岡市役所につとめたあと、司法試験に合格します。修習13期でしたが、病気のため14期として卒業します。福岡第一法律事務所に入り、三池争議のほか、下筌ダム事件などを担当します。蜂の巣砦の攻防戦に弁護士として参加し、身体を持ち上げられて排除された経験があります。
松本さんは、今ではまったく信じられないことですが、北九州(当時は小倉)部会長に3度立候補して、ついに当選できませんでした。革新系ということで、保守系ボスの指示によってそのたびに対立候補が出てきました。3回目は、ついに同数まで追い上げたのですが、同数のときには年齢の上の者を当選者とするという、かつて自分が幹事として作った規約で敗れてしまいました。
 また、53歳のときに、北九州市長選挙に革新統一候補として立ち、接戦となりましたが、当選できませんでした。その次の選挙にも出ましたが、やはり当選には至りませんでした。
私が松本さんと一緒の弁護団になったのは、三井山野鉱ガス爆発の損害賠償請求訴訟事件です。松本さんは団長でした。このとき、松本さんは、遺族・原告団に対して「この裁判は3年で終わらせる」と約束しました。ええっ、そんなこと言っていいのかしらん。私は正直言って心配しました。しかし、本当にそうなったのです。団長としての松本さんのがんばりは、相当なものがありました。ともかく、豪快にして細心なのです。そして、弁護団会議は楽しいの一言でした。弁護団合宿のとき、みんなで映画『男はつらいよ』を見に行ったら、泊まった旅館と同じ名前のオンボロホテルが出てきて、大笑いしたこともありました。
 松本さんの会社側証人に対する反対尋問は、硬軟とりまぜ、緩急よろしく、ツボをおさえた見事なものでした。私など、ひらすら感心して見ておりました。
 松本さんは、61歳で早々と亡くなってしまいました。いやはや、本当に惜しい人を亡くしてしまったものです。16年前の本ですが、紹介するに値すると思って書きました。 
(1992年10月刊。非売品)

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