弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2008年9月22日
源氏物語を読む
日本史(平安時代)
著者:瀧浪 貞子、 発行:吉川弘文館
紫式部が「源氏物語」を書き始めたのは、11世紀はじめ、一条天皇のころ(1007〜12年)というのは間違いない。
いやあ、なんと今からちょうど1000年前のことなんですね。驚きました。
当時は、摂関時代の全盛期で、藤原道長が左大臣・内覧として権勢をふるっていた。摂関家全盛の時代であるにも関わらず、「源氏物語」の主人公は藤原氏ではなく、賜姓源氏であり、しかも、その物語はその源氏の栄華を賛美した内容である。不可解だ。
紫式部が「源氏物語」を書くうえでもっとも意識したのは、清少納言の書いた「枕草子」であった。宮仕えについていうと、清少納言のほうが先輩であり、二人が宮中で顔をあわせたとは考えられない。清少納言の仕えた定子は、1000年に亡くなり、その後まもなく清少納言は宮廷を退いている。紫式部が出仕したのは、それから5,6年後のことだった。
「枕草子」に一貫するのは、定子を中心とする宮廷サロンや中関白家(なかのかんぱくけ)の賛美で、不幸や悲しみはほとんど書かないという姿勢である。現実に起きた中関白家の没落のさまは「枕草子」ではまったく排除されている。ひたすら中関白家の栄華に終始している。
これに対して、紫式部は事実を追究しようという強い姿勢を貫いた。藤壺や光源氏の人物造形は、紫式部の正確な歴史認識の上に立ってなされている。
源氏は、いかに器量の持ち主であっても、皇位とは無縁の存在であった。源氏は世間から「更衣腹」と蔑まれ、差別された(「薄雲」の巻)ことが親王になれず、臣下とされた理由となっている。
摂政とは、もともと上皇の権能に他ならなかった。上皇不在のとき、それに代わりその立場を踏襲する形で登場したのが摂政ないし関白だった。
紫式部は、摂関制を否定したのでもなければ、道長を批判したのでもない。事実はその逆で、摂関制が登場した道理を解き、むしろその栄耀を喝采したのが「源氏物語」であった。
ふむふむ、なるほど、そういうことだったのですね。
「源氏物語」の朱雀は、実在の朱雀天皇をモデルにしたものではない。
在位中は「帝」と呼び、譲位後は「院」と称して、それぞれの立場の使い分けをしている。
中宮は、慣習的に天皇の生母=国母の愛称とされ、皇后よりも重い扱いを受けてきた。『源氏物語』は、政治・社会・文化など、あらゆる分野にわたって史実が書かれている。
うひゃあ、そ、そうなんですか。単なるフィクションの宮中恋愛物語ではないのですね。
物語の享受者は女性であった。この時代の女性たちは、おおむね物語とともに育っていった。
当時の政治は、天皇を中心として父方の父院・皇部・源氏、母方の母后・摂関・外戚などといった、天皇の血縁・婚戚関係にある人々、つまり天皇のミウチが共同で行うものだった。ミウチ政治のもうひとつの特色は、公卿など高位高官の座を天皇のミウチが独占したこと。
摂関家の王家に対する外戚関係が断絶して外戚・母后が権威を失った結果、ミウチ政治は書いた医師、父院が天皇に対する父権を背景に権威を権力を独占する体制が生まれた。院は成人天皇を幼主に交代させることで、唯一の政治主体の地位を保った。その院の権威の源泉は天皇の父権にほかならない。天皇がわが子でないとすれば、院の権威は崩壊する恐れがあった。
上流貴族は、元服時かそれに近く、親の決めた相手と結婚する。だから男が自分で恋をしたいと思うころにはすでに「妻」(さい。嫡妻、正妻)がいる。だから、恋の相手はおのずから妻以外の女性である。しかし、親と親とが決めた結婚だから、容易に離婚はできない。妻とは原則として同居する。「通い婚」という婚姻形態があるのではない。妻以外の女性には「通う」以外に逢う手段がないだけのこと。愛人の女性とは、もともと「結婚」していないのだから、別れても離婚ではない。法的結婚以外の関係は、はじまるのも終わるのも現在と同じで、当人次第なのだ。
平安時代には一夫多妻が認められていたのではない。平安時代も一夫一妻制である。妻と妾とには、明確な区別がある。妻には法的な保護があるが、妾にはない。
ひえーっ、そ、そうだったんですか。初めて知りました。
恋愛物語としての「源氏物語」を動かす中心点は、嫡妻(正妻)の座にある。他に「妻」がいては、どんなに男から愛されていても、幸せとはいえない、というのが当時の一般的な考えだった。それほどに、「妻」の座は平安時代の女性にとって重い存在だった。
むむむ、な、なるほど、これはまったく私の認識不足でした。これでは、現代日本と大いに共通するところがあるではありませんか…。こんな衝撃的事実を認識できるから、やっぱり、速読はやめられません。
(2008年5月刊。740円+税)