弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年8月20日

占領期の朝日新聞と戦争責任

日本史(近代)

著者:今西光男、出版社:朝日新聞社
 まったく面識はありませんが、経歴をみると私とまったく同世代のようです(正確には、1月に既に定年退職したということですので、1学年だけ上のようです)。
 終戦時、「朝日」社主の村上長挙は51歳。「朝日」の主筆などをつとめていた緒方竹虎は57歳だった。いずれも、今の私の年齢より若いわけですが、すごい権威と権力をもっていました。
 終戦直後に東久邇宮が首相に任命されたわけですが、この首相が児玉誉士夫を内閣参与に任命したというのを初めて知りました。児玉といえば右翼の親玉ですが、旧日本軍の軍需品を流用・私物化して巨萬の富を得た男です。児玉は、そんな汚れた資金をもとに自民党の黒幕として戦後ながく君臨していくわけです。私が右翼を忌み嫌うのは、いかがわしい新興成金体質にみちみちているからでもあります。福田内閣のメインである自由民主党は、児玉が日本陸軍からかすめとった財宝を資金(もとで)として結成されたものです。これが平和・民主主義の日本の七不思議の一つです。汚れたお金で結成された政党による政権が、戦後60年以上たっても、連綿として続いており、若い保守政治家が自民党と名乗るのに何の恥も感じていないというのです。いやあ、気の弱い私なんか、それだけでも自民党の議員になるなんて恥ずかしくて、よう言えませんが・・・。
 そして、朝日新聞は、戦時中に、日本帝国海軍「徴用」という名目によって少なからぬ特典・特権を享受したというのです。これでは戦争批判など、しようと思ってもできるものではありません。
 1945年9月29日、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問したときの写真が公表された。黒いモーニング姿で小柄な天皇が正面を向いて直立しているのに対して、頭一つ長身の元帥は襟元のボタンをはずし、両手を腰にあてリラックスした姿だった。
 会見に同席したのは通訳の外務省情報部長一人。元帥が30分間にわたって、とうとうと話し、天皇はごくわずかしか話さなかった。天皇は、このときマッカーサーを下手に怒らせて戦争責任を追及されるのが怖かったのです。
 東久邇宮首相と緒方竹虎書記官長は、内閣の基盤を強化するため、これまで野党あるいは反体制側だった無産政党や労働運動、農民運動などの政権参加が必要だと考えた。そして東久邇宮は、在日朝鮮人組織の指導者と会見(10月2日)するなど、左翼陣営や諸団体との協力を模索し、場合によっては共産党との連携も検討していた。ひえーっ、本当ですか、これ・・・。
 ところが、閣内の2人の大臣がとんでもない発言をした。山崎内相は、反皇室宣伝をする共産主義者は容赦なく逮捕する。共産党員は拘禁を続けると言い切った(1945年 10月5日)。岩田宙造法相も、政治犯の釈放は考えていないと高言した。これを聞いたマッカーサーは怒り、「自由の指令」を発した(10月4日)。これで東久邇内閣は発足して50日で総辞職した。後任は、73歳の幣原元外相が就いた。そして、近衛文麿は  1945年12月16日、マッカーサーから切り捨てられ、青酸カリを飲んで自殺した。
 1945年2月、近衛は昭和天皇に対して、「ここまで来ては、敗戦そのものより、その後に来たる共産革命が深刻だ」と述べ、さらに10月4日にはマッカーサーに対して「軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実はマルキストである」を述べていた。
 ええーっ、近衛の歴史認識って、こんなにひどいものだったんですか・・・。
 日本に進駐したGHQは、情報局総裁を兼務していた緒方書記官長を呼び、「占領政策に反する新聞をつくらない、米ソ関係を紙上でコメントしない、この2点に違反しない限り、日本の新聞の存続は認める」という方針を伝えた。同じ敗戦国のドイツ・イタリアの新聞は廃刊に追いこまれたのに、日本については、すべての新聞が戦前と同じ題号で発行を続けることが認められた。
 朝日、毎日で経営陣が退き、従業員の選出による新しい執行部が誕生するなか、読売新聞では正力松太郎がそのまま社長室に君臨していた。
 「この社はオレの社だ。勝手なことはさせない」
 自分の戦争責任につながる社内の動きは絶対に認めない。それが正力の強い決意だった。正力は、内務警察官僚として共産党弾圧の張本人の一人であり、また、ナチス・ドイツを崇拝する記事を読売にのせていた。
 その正力に対して労働者の怒りが爆発した。そのころ、日本共産党書記長になったばかりの徳田球一が読売新聞の実権を握るようになった。ところが、正力は依然として、半分近い株主を保持していた。これが復帰のバネとなった。
 鳩山の追放に成功したことによって、GSにとって皮肉なことに、鳩山より手ごわい吉田が登場した。吉田はGHQ内の反共派を代表するG2に近く、民主化最優先・容共派のGSにとっては不倶戴天の敵のような存在だった。
 やがてマッカーサーは、「共産党をキックアウトしろ」と言い、民主化を主導してきたコーエンらGS幹部を相次いでアメリカ本国に帰国させた。こうしてGHQ内の容共派は駆逐された。
 1947年の2.1ストにからみ、読売と毎日はゼネストを批判したが、朝日は、民主戦線結成と吉田内閣の打倒をうち出し、組合寄りだった。そこで、GHQは朝日打倒に乗り出した。GHQはゾルゲ事件と朝日を結びつけようとした。ゾルゲー尾崎秀実ー田中慎次郎ー笠信太郎というラインを浮かび上がらせ、朝日の論説を容共的なものとしてクレームアップしようとした。
 1950年7月28日、レッドパージが始まった。NHK119人、朝日104人など、報道8社で336人が解雇された。レッドパージされた労働者は2万人にのぼった。
 1949年に150万人を組織していた産別会議は、50年には、わずか4万7000人の少数派に転落した。
 朝日新聞の運営は経営が資本に対して優位を保つ形で続いているが、戦前戦後にわたって新聞人・緒方竹虎が苦悶した資本(村山家)と経営(執行部)との対立構図そのものは解消されていない。
 かつて日本の良識とも言われた朝日ですが、今や右翼のサンケイ・ヨミウリと大同小異の記事も多いように思われ、残念です。
(2008年3月刊。1400円+税)

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