弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年7月 3日

子どもの貧困

社会

著者:浅井春夫ほか、出版社:明石書店
 日本政府は1965年(昭和40年)に公的な貧困の測定を打ち切った。私が大学に入ったのは1967年でした。そのころは、まだ絶対的貧困と相対的貧困との異同が多少は問題となっていました。でも、それは、はっきり言ってかなりマニアックなテーマでしかありませんでした。
 現代の日本では、貧困というと、「飢え死にするかどうか」という基準でしか見ない、つまりホームレスとして路上生活をしている人々は貧困とは考えない人々が多い。私は、駅や公園に生活している人々こそ、現代の貧困を体現している人と思います。でも、今日の日本人の多くは、そうは思っていません。実に不思議です。
 相対的貧困とは、その社会の構成員として、あたりまえの生活を営むのに必要な水準を欠くということである。人とのつながりを保てる。職業や活動に参加できる、みじめな思いをすることのない、自らの可能性を大きく奪われることのない、子どもを安心して育てることのできる生活、つまり、ぜいたくではないが望ましい生活を営むには、一定の物的。制度的な基盤が必要なのである。
 貧困のもたらすものは、可能性の制限である。子どもの貧困の本質は、それによる発達権の侵害である。家族の経済的「ゆとりのなさ」は、子どもの活動と経験を制限する方向に作用し、同時に、親の社会的な孤立を招いている。
 子どもには、「負の経験」を回復するためにも、支えられる環境での「失敗する自由」が必要である。社会的な自立の困難は、それが奪われているところにある。
 「失敗する自由」とは、さまざまな可能性を試みること、自己の選択と決定を尊重できること、試行錯誤のなかで育つ時間を準備できること、それらの試みを支える人と制度が存在すること、などが含まれている。
 いやあ、この私的には目がさめる思いでした。子ども時代に、たくさんの失敗をして、それが許されるって、すごく大切なことなのですね。子どもの失敗をあたたかく大人が見守るという雰囲気が今の日本では薄れている気がしてなりません。ギスギスしてますよね、なんだか。
 貧困が問題なのは、単に欲しいものが買えないというのではなく、人生の機会と可能性を狭め、活動への参加を制限し、人を社会的に孤立させるからである。将来への見通しを奪い、誇りをもった人生を奪う。
 貧困は、個々の人生としあわせを壊す。そして、貧困が壊すものは個人の人生だけではない。貧困は、家族形成と子育ての困難を招き、少子化の要因となる。また、貧困は、人の可能性を制限する。子育て家族の貧困は、子どもの育ちの不利を招き、結果として貧困が世代をこえる固定的なものになる。世代にまたがる可能性の制限は社会を分断し、社会をすさませる。社会的公正を欠いた社会は、もろい。貧困は個人の自由と尊厳を奪うだけではなく、長期的にみれば社会の持続性も損ねる。
 児童虐待は、1990年に比べると、34倍の3万7000件である。これは2000年に比べても2倍だ。
 日本は、欧米に比べて大学の授業料が高い。日本で大学生活を送るためには、年に  200万円かかる。このうち170万円を学生本人が負担する。スウェーデンでは、学生の本人負担は6万円でしかない。
 日本は授業料が高いのに、奨学金は安い。日本の自公内閣は、「子どもの貧困」を減少、緩和するものではなく、むしろ増加させるものとなっている。
 大学の入学金・授業料についてみると、フランスやドイツは、ほぼ無償となっている。アメリカでも年に47万円ほど。
 奨学金が貸与だけだというのは日本のみ。EUでは無償ないし給付制をとっている。
 いま、東大をはじめ、いくつかの大学で低収入世帯の授業料を免除する動きが出ているようですが、大学に入るのときの入学金も授業料もタダにする、そして学生の生活費も親に頼らなくてもいいくらいに大幅な補助をするべきだと思います。日本人の知的レベルを上げたら、日本の産業も発展していくわけですから、税金の有効なつかいかただと私は思います。いかがでしょうか。
 子どもを大切にする国にするためには、思い切った財政の転換が必要です。道路や新幹線という大きな目に見えるものではなく、地道な人材育成にこそ税金はつかわれるべきだと、つくづく思ったことでした。
 論文集ですので、決して読みやすい本ではありませんが、この本に指摘されていることはすごく大切なことだと思います。多くの人に一読をおすすめします。
(2008年4月刊。2300円+税)

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