弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2008年7月31日
ぼくは少年兵だった
世界(アフリカ)
著者:イシメール・ベア、出版社:河出書房新社
初めて戦争の巻き添えをくったとき、ぼくは12歳だった。
激しい内乱の起きていた西アフリカのシェラレオネで12歳から15歳まで少年兵士として戦闘に従事し、生き抜いた著者の体験記です。この本は「戦場から生きのびて」というのがメイン・タイトルになっていますが、この本を読むと、まさしく実感させられます。よくぞ戦火のなかを生きのびられたものです。大勢の友人・仲間が次々に銃弾で倒れていくなか家族をみんな失い、著者ひとり生きのびました。それだけ運が強かったのです。
戦争を賛美する人がいるが、戦争にロマンなどはなく、あるのは悲惨さだけ。人間を殺すことは、相手を非人間化させる行為だが、それは同時に自分の人間性もうしなわせてしまう。
シェラレオネでなぜ内乱が起きたのかは、この本を読んでもさっぱり理解できません。ルワンダのツチ族とフツ族のような争いという明確なものはなかったようです。政府軍と反乱軍との戦いとしか書かれていません。そして、反乱軍はデビル(悪魔)というべき存在でしかありません。
反乱軍に捕まった少年はすぐに兵士にされ、熱した銃剣で身体のどこかに反乱軍を意味するRUFを刻みつけられる。これは一生消えない傷痕になるばかりか反乱軍から絶対に逃げられないことを意味した。反逆者のイニシャルの刻印をつけて逃げるのは、殺してくださいと言っているようなもの。政府軍の兵士はそれを見たら一も二もなく殺すだろうし、好戦的な民間人だってそうするだろう。
歌と踊りが大好きだった著者たち6人の少年は、戦争から逃げようとジャングルの中をさまよったあげく、政府軍に組み込まれてしまいます。そして、わずかの訓練を受けると、たちまち本物の戦場へ駆り出されていきます。
戦闘行為の前に白いカプセルが渡される。それをのむと夜じゅう目がさえて眠れないのが一週間も続いた。そのうち、平気で銃をうてるようになった。
火薬とコカインを混ぜたブラウン・ブラウニと呼ぶものを吸引し、白いカプセルを大量に飲む。それがたっぷりのエネルギーをくれる。汗びっしょりになり、着ている服をすべて脱いでしまった。身体がふるえ、目はかすみ、耳も聞こえない。あてもなく村を歩きまわる。そわそわした気分になった。何に対しても無感覚になる。何週間も眠れなくなるほどの莫大なエネルギーを感じた。夜にはみんなで戦争映画をみる。『ランボー』や『コマンドー』だ。
ぼくらは獰猛になった。死という考えは頭をよぎりもしなかった。人を殺すのが、水を飲むのと同じくらい簡単になった。ぼくの頭は、初めて殺しの最中にぷつんと切れた。良心の呵責に耐えられないことを記憶するのをやめた。
ぼくらは2年あまり戦い続け、殺人が日常茶飯事になっていた。誰にも同情しなかった。
そんな元少年兵の社会復帰訓練センターに収容されます。収容所のなかで、元少年兵たちは元いた政府軍と反乱軍の2派に分かれて殺しあいもしてしまいます。
薬の助けを借りずに眠れるようになるまでに数ヶ月かかった。ようやく寝入ることができるようになっても、1時間とたたないうちに目が覚めてしまう。夢のなかで、顔のない武装兵がぼくをしばりあげ、銃剣ののこぎり刃でぼくの喉を切り裂きはじめる。ぼくはそのナイフが与える痛みを感じる。汗びっしょりなって目を覚まし、虚空にパンチをくり出す。それから外に飛び出し、サッカー場の真ん中まで走って行って、膝をかかえこんで身体を前後に揺らす。子どものころのことを必死で思い出そうとしても、できなかった。戦争の記憶が邪魔をするのだ。
樹皮に赤い樹液がこびりついている木のそばに行くと、捕虜を木にしばりつけて撃つという、何度も実行した処刑の光景を思い出す。彼らの血は木々を染め、雨期の最中でさえ、決して洗い落とされなかった。
著者は社会復帰訓練センターを経て、おじさんの家庭にあたたかく迎えいれてもらって社会復帰できました。ところが、シェラレオネそのものがまた内乱の危機におそわれ、ついに国外へ脱出することになるのです。
少年兵士たちのおかれている厳しい現実、そして少年兵士を社会復帰させることがいかに大変な事業であるかを理解させてくれる本です。
表紙にうつっている、いかにも聡明そうで、明るい笑顔からはとても想像できない過去をもつ元少年兵士です。
庭にある小さな合歓(ねむ)の木が花を咲かせています。紅い、ぽよぽよとした可愛らしい花です。
(2008年2月刊。1600円+税)
2008年7月30日
大量虐殺の社会史
世界史(現代)
著者:松村高夫・矢野 久、出版社:ミネルヴァ書房
アメリカのカーター大統領は、1976年にはバンコクのアメリカ大使館を通じてカンボジアの虐殺の事実をつかんでいながら、ポル・ポトのクメール・ルージュを支持し、ポル・ポト政権崩壊後も10年間にわたって国連代表権を認めた。
南米のチリ、アルゼンチン、グアテマラでの虐殺は軍事政権下で起こったが、これらも背後でアメリカのCIAや軍部が関与していた。
1984年のルワンダにおける80万人のツチ虐殺は、100日間にわたって1日あたり8000人のツチが虐殺されたことになるが、アメリカのクリントン大統領は、国連安保理への影響力を行使して、国連平和維持軍をルワンダから引き上げさせた。その結果、100日間にわたってアメリカをはじめとする外国からの干渉をまったく受けず、文字どおり自由自在にフツに虐殺させた。
これってルワンダで起きた大虐殺にアメリカは直接的に手を貸したと同じですよね。映画『ホテル・ルワンダ』には、国連軍としてフランス軍が頼りにならないけれど少しは頼れる存在として登場していました。アメリカは自分にとって利権のない国は見向きもしないわけです。日本はアメリカにとって大変な利権をうむ国ですから、やすやすと手放すことはしないでしょうが・・・。
この本を読むと、世界が人権意識に目覚めた20世紀のはずが、実は大量殺りくの絶えない「戦慄の20世紀」であったことがよく分かります。まったく、うんざりするほど、殺し合いにみちみちた世の中です。
でも、こうやってこの本を紹介しようとしているのは、お互いに現実から目をそらさないようにしようということです。だって、それが現実の人間社会なのですから。私の、日本国憲法9条2項には世界に広めるべき今日的意義があるという確信は、こんな本を読むとますます深まります。
1915年4月。トルコはアルメニア人80万人を虐殺した。これは自然発生的な行動ではなく、周到に準備され明白な計画的国家犯罪だった。
ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺は、ここでは紹介を割愛します。別の本で紹介することにします。
朝鮮戦争のさなか、1950年7月、アメリカ軍が避難民を老斤里で虐殺した事件が紹介されています。避難民に前線を越えさせるな、前線を越えようとする者は誰でも殺せ、という命令が出ていたのです。アメリカ軍は空爆で300人の避難民を殺した。これは、避難民のなかに朝鮮人民の兵士がまぎれこんでいるという情報にもとづいた行動でもあった。アメリカ軍は、直接的な虐殺を韓国でもしていたのです。
インドネシアでは9.30事件というものがありました。1965年9月からインドネシア共産党とその支持者が軍隊によって大量虐殺された事件です。その時点までインドネシア共産党は250万人の党員をかかえ、得票率16.4%で、国会に39議席を占めていました。その共産党が殺害者リストをもっているというデマ宣伝があり、殺される前に殺せといって、共産党とシンパ層が非合法に殺されていったのです。1968年6月までに殺された被害者は50〜100万人とみられ、正確なデータは今も不明のままとなっています。
事件に深く関与していたインドネシア国軍のなかには、真相究明に対して根強い抵抗があり、軍やイスラム勢力との強調を重視する政府は、思い切った政策がとれない。ともあれ、この大虐殺事件とその恐怖がインドシナ社会に与えた影響はとてつもなく深刻なものだった。
私もインドネシアの作家がこの9.30事件にふれて書いた本を2冊ほど読んだ記憶がありますが、深く重く沈んだテーマだと思いました。
この本は最後に次のように書いています。
21世紀に生きる我々に課せられたもっとも重要でかつ緊要な課題は、戦争と虐殺のない世界を創出することである。それは、20世紀に戦争と虐殺の被害を受け、犠牲となった人たちが現代に生きる者に発したであろうメッセージである。このメッセージを真摯に受けとめ、戦争と虐殺のない世界を構築するためには、国民和解をふくむ歴史和解が必要であろう。しかし、歴史和解はいかに達成されうるのか、その道筋は明確になっているわけではないし、また容易でもない。歴史和解を達成するためには、真相究明が必要不可欠であることについても疑いの余地はないであろう。
そうなんです。私たちは、もっともっと現実を知り、真相を探るべきだと思います。そして、軍事的報復に走る前に何をなすべきなのかを考えるべきだと思うのです。
ずっしり重たい本ですが、心ある人は読むべき本だと思いました。
7月の半ばに沖縄へ行ってきました。泊まったホテルがモノレール「おもろまち駅」から歩いたところにありましたが、あれっ、この地形はなんだか見たような気がすると思いました。前に紹介した『沖縄シュガーローフの戦い』(光文社)に写真つきで紹介されています。この「おもろまち駅」周辺は、まさに沖縄戦の最激戦地だったのです。
1945年5月12日から18日の1週間、この丘をめぐる争奪戦でアメリカ第6海兵師団は2000人をこえる戦死傷者を出した。日本軍は首里防衛戦にいた5万人の将兵のうち、無事に撤退できたのは3万人。残る1万5000人がアメリカ軍によって戦死させられた。今は平和で、のどかな沖縄市街地ですが、63年前は猛火に包まれて、人々は殺されていったのでした。無惨です。
残念なことに、当時をしのぶ説明板は駅周辺に見あたりませんでした。どこかにあって、私が見落としただけでしたら、すみません。
(2007年12月刊。4500円+税)
2008年7月29日
イラクは食べる
著者:酒井啓子、出版社:岩波新書
タイトルからすると、イラクの人々の食べ物を解説した本のようなイメージがあります。でも、読んでみると、イラクの社会と人々の生活、そしてアメリカによるイラク戦争の現実を知ることのできる本です。
2003年のイラク攻撃から、シリアに年20万人以上ものイラク人が流れこみ、シリア国内のイラク人は、100万人から170万人にものぼるとみられている。
ヨルダンに住むイラク人は75万人。これはヨルダン人口の1割になる。エジプトに 10万人、レバノンに4万人のイラク人がいる。国連の発表によると、国外へ脱出したイラク人は250万人にものぼる。毎月5万人のイラク人が国外へ流出している。250万人というと、イラク人口の1割だ。
イラクの中間層の40%が既に国外へ脱出した。だから、頭脳流出とも言える。バグダッドからの流出は100万人のうち8割にもなる。それは、主として治安上の理由から。2003年からの4年間に2000人もの医師と看護婦が殺され、同じ数が誘拐された。国内難民も220万人いる。毎月5万人が国内難民になっている。2006年に正式政権が成立してからのイラク国内の治安悪化は、シーア派政党同士の対立、民兵の扱いをめぐるイラク政府の対応の不十分さによる。そして、民兵をもった政党に権力を与える「民主化」をすすめたものこそ、アメリカのブッシュ政権なのである。
2500万人のイラク人口のなかの4割が日々1ドル以下で生活しており、3分の1が貧困層に分類され、100万人が最悪の貧困状態にあるとされている。インフレ率は60%、失業率は5割以上。国内、国外あわせてイラク人難民は450万人以上。その半数が身の危険を感じて故郷を離れた。
アメリカは2003年から2007年までに、わずか500人のイラク人しか受け入れていない。スウェーデンが2006年の1年間で8000人も受け入れたのと、対照的だ。
イラクの料理はイラン料理との共通点が多い。ご飯をよく食べるし、どちらも酸っぱい料理が好き。大鍋でご飯をたいて、鍋底のオコゲに、トマト味のシチューをかけるのが庶民の大好物。
フセイン元大統領が死刑判決のあと絞首刑にされる様子が映像で流れた。フセイン処刑の映像は、2005年以降のイラク政権が、まがうことなきイスラーム政権であり、イスラーム革命を志向する「革命政権」であることを、そして、そこで施行されている司法システムが「革命裁判所」であることを、これ以上ないほどに露呈した。
サドル潮流が与党内のゲームに加わったことで、統一同盟内の政党間関係は複雑な内部対立を生んでいる。移行政府の成立から現在に至るまで、サドル潮流が与党連合のなかでキャスティングボードを握ることになった。
マリキ政権において、サドル潮流は、6つの閣僚ポストを得て、最大派閥となった。
ファルージャは、イラク人にとってカバーブの美味しい街として有名だった。ところが今や、反米抵抗運動のシンボルとみられている。そこでのアメリカ兵の死者は1300人。全体の3分の1を占めている。
イラクでは、そもそも宗派で政党を形成するという歴史をもっていない。右も左も、欧米式のリベラル派もナショナリストも、党員がどちらかの宗派に偏ることはあっても、はじめからどちらかの宗派のみに支持基盤を限定して政党を結成したことはなかった。
スンナ派だから、シーア派だからといった理由でイラク人同士が殺しあうという状況は、建国以来なかった。
イラクの治安は、2006年に2月に宗派対立に火がつき、悪化の一途をたどっている。それは、ちょうど、スンナ派政治家の国政参加のすすむ時期でもあった。
外国から反米ムスリム義勇兵がイラク国内に入っているのは事実で、1年間にイラクでアメリカ軍が把握した反米義勇兵606人のうち41%がサウジアラビア人だった。
イラク復興のために開かれたマドリード(スペイン)で決まった330億ドルのうち、アメリカ200億ドルの次に日本の50億ドルが来る。破格の金額だ。
つかわれた復興資金の半分が警備や保険料などの治安費につかわれ、実際にイラク人の手に届くのは3割以下。世界の腐敗ワーストで、イラクは3番目にひどい。先日は88億ドルという使途不明金が発覚した。
イラクを軍事支配しようとすることがうまくいくはずもありません。アメリカにいつもいつも追随して、イラクに自衛隊を派遣するなんて、愚の骨頂です。
先日、新聞のコラムに、アメリカ人だったと思いますが、日本はアメリカにいつも追随しているので、まったく存在感がないという指摘がありました。本当に情けない状況です。フランスみたいに、もっと日本政府はアメリカにモノ申すべきだと、心底から私は思いますよ。
先日、名古屋高裁は、きわめてまっとうな判決を出しました。久しぶりに胸のすく思いがしました。福岡高裁にも熊本のイラク派遣阻止訴訟がかかっています。たった1回で結審したそうですが、その判決を注目しているところです。
淡いピンクの朝顔が咲いています。朝、雨戸を明けるとまっ先に目に飛びこんできます。心が洗われる思いのするほど、すがすがしいピンクの朝顔です。やはり夏の朝は朝顔です。
(2008年4月刊。780円+税)
2008年7月28日
チャップリンを観る
社会
著者:吉村英夫、出版社:草の根出版会
読んでいるあいだにも、読み終わってからも幸せな気分に浸ることのできる本です。だって、あのチャップリンの映画をみたときの感動がまざまざとよみがえってくるのですよ。私は、この本を読んで、またまたチャップリンの映画をみたくなりました。何度みても、いいものはいいのです。とりわけチャップリンの映画って、見飽きることがありません。
『キッド』『街の灯』『ライムライト』こう並んだら、どれもこれも、すぐにまたみてみたいものばかりです。
私の尊敬する故諫山博弁護士は、現役を引退したあと、DVD三昧の日々を過ごしておられました。私も、ぜひそれにあやかりたいと思いますが、そのなかでも、チャップリンの映画は絶対に欠かせません。
私は30年近くも市民向けの法律講座を毎年開いてきましたが、はじめのころ、チャップリンの短編映画を客寄せパンダがわりに上映していました。短編映画をみてもチャップリンの笑わせ方は天才的だと思います。
でも、これらの長編映画は、レベルがまったく違います。比較になりません。言葉でいいようがないほどです。そして、この本は、そんなチャップリンの映画を今どきの大学生に授業としてみせたときの反応が紹介されているのですから、面白さが2倍にもなります。チャップリンの映画を大学の授業でみせられるなんて、そんな学生は幸せですよね。
私も大学生のとき、『男はつらいよ』第1作を大学の教室でみました。学園祭(五月祭)のときのことです。窓ぎわまで学生がすずなりになった教室で、みんなで大笑いしながらみたことを覚えています。ですから、チャップリンの映画だったら、拍手してほしいところなんですが、授業だというので、誰も拍手しなかったそうです。残念です。やっぱり、思ったことは少しでも行動にあらわすべきなんですよね。
学生の反応のなかには否定的なものや消極的なものもあります。やはり、そこが個性なんでしょうね。私だったら、特AとかスーパーAという評価を与える映画であっても、CとかDをつける学生もいますから、やはり世の中はさまざまです。
『キッド』も『街の灯』も泣かせますよね。もちろん、私も泣きました。すごいですよね。これも、チャップリンの不幸な生い立ちと無縁ではありません。
1889年4月16日生まれ。イギリスはロンドンの貧しい労働者街で生まれました。両親はミュージックホールに勤めていた芸人です。ヒトラーの生まれはチャップリンとほんと同じで、わずか4日後の4月20日生まれでした。
夫と離婚したチャップリンの母は必死に子育てしながらも、ついに精神病院に入った。母34歳、チャップリン12歳のときのことである。チャップリンは、母が亡くなるまで愛し、感謝の気持ちをもって母に接した。
チャップリンは、左利きのバイオリン演奏などもできる器用な人物だった。作曲もできた。チャップリンの映画は、ほとんどチャップリンが作曲している。
『モダン・タイムス』のラストシーンにミスがあるかどうかが問題になっています。ラストに2人が夜明けの道を朝日に向かって歩いていくと、はじめのうち著者は解説していました。しかし、現地まで出かけて実見してみた人によると、これは、夕陽になってもまだたどり着かずに歩いている2人を示しているのだというのです。希望への道のりはとてつもなく長く厳しいというわけです。
いやあ、これには、さすがの私もまいりました。映画のロケ地まで実際に行ってみて(今も、ほとんど変わらずに残っているそうです)、その時間差を考えたというのです。世の中、さすがに偉い人はいるものです。
チャップリンは、日本にも4回来ているそうです。その秘書は日本人で、高野(こうの)虎市という人だということは知っていました。5.15事件と同じときに、チャップリン暗殺計画まであったそうです。
アメリカ政府はヒトラー・ドイツとたたかうチャップリンを「アカ」だと決めつけ、事実上、アメリカから追放してしまったのでした。そんな馬鹿げたアメリカも、あとになって反省し、1972年にアカデミー特別名誉賞をチャップリンに授与しています。
さあ、みんなでチャップリンの映画をみましょうね。三重大学と愛媛淑徳大学の映画サークルのみなさん、これからも元気にがんばってください。
炎暑の夏日が続いていますが、サボテンがまたまた純白の花を咲かせてくれました。速く手入れしてやって、サボテンの子どもたちをきちんと地面におろして植えてやるべきなのですが、ともかく、この暑さでは手入れする気にもなれません。サボテンには申し訳ないのですが・・・。
(2008年1月刊。2200円+税)
2008年7月25日
死刑
司法
著者:森 達也、出版社:朝日出版社
死刑判決が急増している。2006年の1年間に出た死刑判決は、44件。地裁13人、高裁15人、最高裁16人。1980年以降、もっとも多い。地裁での死刑判決は3倍にも増加している。
アメリカでは死刑の執行は、通常、金曜日の午前2時。その週の火曜日に死刑囚は執行室隣の監房に移される。区画内は自由に出入りできるし、外部への電話も自由。処刑の日時は死刑囚の家族にも連絡され、最後の面会がある。
処刑の立会人は16人。公的立会人4人に加え、被害者遺族や死刑囚の親族の立会も可能。メディア関係者5人の枠もある。
日本では死刑存置の声が急増している。死刑廃止6%に比べて、81%。「どんな場合でも死刑廃止という意見に賛成か!」と問われると、賛成は16%弱で、反対は66%強である。日本は少し異常としか言いようがない。
すでに世界では死刑廃止が大勢である。死刑廃止国133ヶ国に対して死刑を実施する国は半数以下の64ヶ国。アジアと中東とアフリカの一部でしかない。ヨーロッパはみな死刑を廃止した。EU加盟の前提になっている。
カナダでは1975年に死刑を廃止してから、殺人事件が大幅に減少したというデータを政府が発表した。私も、この説です。死刑がなくなれば、かえって治安は良くなるのです。死刑を存続させているアメリカなんて治安が悪化する一方なのです。
死刑になりたいから人を殺す。犯罪大国でもあるアメリカでは、そんな実例がいくつもある。そうなんです。先日の秋葉原の連続殺傷事件もそうだったと思います。
私は誰がなんといっても死刑廃止派です。国家が人間を殺すなんて許されません。もちろん、人が人を殺すのを許すつもりはありません。でも、単純な報復主義がはびこる社会は悪い方向にすすむだけだと確信しています。カナダの実例があるわけです。
死刑について考えさせてくれるいい本だと思います。
今の法務大臣は私とまったく同世代です。これまで既に13人の死刑囚を処刑してしまいました。私は、せめて死刑執行を停止して、もっと真剣にそもそも犯罪をなくすにはどうしたらよいのか、報復主義を横行させていいのか、被害感情優先でいいのか、正面から社会全体で議論すべきだと考えています。目には目を、歯には歯を、では決して安心して生活できる社会を築いていけない、これは35年間の弁護士生活を通じた実感です。
(2008年1月刊。1600円+税)
のぼうの城
日本史(戦国)
著者:和田 竜、出版社:小学館
非常にユニークな時代小説とオビにかかれています。なるほど、そうでしょうね。戦国時代のお城の攻防戦を描いているのですが、とてもユニークな物語です。そして、それが史実をふまえているというから、余計に面白いわけです。
ときは戦国時代末期。秀吉の小田原攻めの最中に起きました。信長が本能寺の変で倒れる前、秀吉は毛利軍と戦っている最中でした。そのときとられた作戦は有名な備中高松城の水攻めです。
秀吉がつくった人工堤は、下底が12間(22メートル)、上底が6間(11メートル)の幅があるという、途方もない分厚さがあるものを、3里半(14キロメートル)という気の遠くなるような長大さをもっていた。
いやあ、これはすごいですね。北条攻めに動いた秀吉軍は総勢16万騎。そして、石田三成を総大将とする2万の大軍が忍城に向かった。忍城は関東7名城のひとつに数えられていた。忍城にいた成田長親は、周辺の百姓を城に呼びこみ、迎え入れた。
三成は、籠城は内より崩れることを知っていたので、それを止めなかった。無駄な数の籠城兵は、兵糧を喰い散らす。兵糧が減るにしたがって裏切りの噂が噴出して城内は疑心暗鬼となり、裏切り者とされた者はどんどん粛清されてしまう。やがて籠城方の大将は、この状態では開城やむなし、と城を明け渡す。すなわち、城内に人が多いと、ほころびも増すことになる。
やがて、忍城には3740人の籠城兵が充満した。ところが、城内には戦闘心旺盛で、士気は衰えなかったのです。
三成は緒戦で忍城の計略によって負けたので、水攻めに切りかえた。7里(28キロ)の堤をつくることにしたのだ。秀吉の堤の倍である。のべ10万人を5日間、昼夜兼業で働かせる。人夫に対し昼は永楽銭60文、夜は100文。それぞれ米一升をつける。夜だけでも夫婦2人が5日間働くと、家族4人が1年食べられる米が買える。なーるほど。
三成が人工堤の建設に着手したのは天正18年6月7日。数十万人が人夫として集まった。人工堤は、断面の台形の下底を11間 (20メートル)、上底を4間(7メートル)という厚さとし、高さを5間(9メートル)とした。秀吉のつくった備中高松の人工堤とほぼ同じ大きさ。三成は秀吉をはるかに上まわる長大な人工堤防を短期間のうちに完成させ、あわや忍城は落城寸前。ところが、アリの一穴が始まったのです。
本を面白さがなくなりますので、これ以上は紹介しませんが、奇策によって忍城は助かってしまうのです。これだけ面白く読ませるのですから、たいしたものです。さすがに大絶賛を浴びた本だけのことはあります。
三成は意外や意外、敗軍の将となってしまったのでした。
最後に、「のぼうの城」というのは、「でくのぼう」の「でく」をとった呼び名からきています。「でくのぼう」でありながら、民衆の心をつかんでいた殿様だったというわけです。
(2007年12月刊。1500円+税)
地獄のドバイ
世界(アフリカ)
著者:峯山政宏、出版社:彩図社
北大理学部を出た日本人の若者が海外で寿司職人となって一旗上げようと、いま世界最先端のドバイで渡って体験した悪夢のお話です。世の中、何ごとも表があれば裏があるというわけですが、このドバイの話は、ちょっといくらなんでもひどすぎる。そう思いました。ドバイは地獄だという英文タイトルのとおりです。大金持ちにとっては天国のような国なのですが・・・。
ドバイはアラブ首長国連邦(UAE)の一つ。いま大変な建設ラッシュのため、世界のクレーン車の25%が埼玉県ほどの面積しかないドバイに集まっている。ドバイの経済成長率は16%。いくらでも入れ替えのきく外国人労働者は奴隷のように扱われる。出稼ぎ労働者のために職場環境をよくしようという発想はない。高層ビル建築現場に働く外国人労働者の賃金は105ドル。一流ホテルの従業員であっても、月給3万円もあればいいほうだ。
著者は東京の江戸前寿司職人養成学校に入った。3週間で一人前にするというふれこみだ。受講料はなんと40万円。しかし、ドバイでは寿司職人にはなれませんでした。何のコネも紹介状もなかったからでもあります。やむなく肥料会社に入り、大金持ちの社長邸宅の芝生に水やりをする仕事につきます。水道管のパイプがよく詰まるのです。
外国人労働者の賃金をケチるから手抜き工事が蔓延し、結果的に水をロスすることになってしまう。そんな皮肉な現実があっても、大金持ちは、何とも思いません。すべてはお金で解決できるからです。
著者は肥料会社に勤めていた。パスポートもあり、3年間のUAEの居住許可証も労働ビザも持っている。そのうえ、日本に帰ろうとして飛行機も手配していた。にもかかわらず拘置所へ入れられた。ええーっ、なぜ、なぜ・・・?
勤めていた会社が閉鎖されたら、次の職場に移る前に拘置所に入れられることになっている。そんなバカな・・・!?
しかし、それがドバイという国の法律。うひょう、し、信じられませんよね、これって。
拘置所に入れられる。そのときスーツケースに拘置所の係官がわざと番号を間違える。荷物を行方不明にして巻き上げるため。な、なんと、そんなことが堂々とまかり通っているとは・・・。
そして拘置所内のひどい生活ぶり。読むだけで鼻の曲がりそうな汚濁にみちみちた雑居房に前科もない日本人が一人ほうりこまれるのです。心細いですよね。200畳ほどの部屋に300人をこえる囚人が押しこまれている。囚人には、くの字になって寝るだけのスペースしか与えられていない。新参者は悪習臭を放つトイレの側で寝るしかなかった。そして、1年以上も風呂に入っていない囚人たちの強烈な体臭が押し寄せる。
幸運にも、わずか4日間で出所できた著者による、この世の地獄ドバイだよりでした。あなたもドバイに行く機会があったら、その前にぜひ読んでみてください。
私の娘がドバイへ一人旅に出かけ、無事に戻ってきましたが、旅行中にこの本を読みましたので、それなりに心配したことでした。
(2008年5月刊。590円+税)
2008年7月24日
いつか春が
司法
著者:副島健一郎、出版社:不知火書房
佐賀市農協の組合長が背任罪で逮捕され、てっきりいつものような「汚職」事件かと思っていたら、なんと無罪となり、無罪が確定したというのに驚いた記憶があります。この本は、その組合長の実子による無罪判決を得るまでの苦難の日々を再現しています。
それにしても、取調べにあたった検察官の脅迫と悪口雑言はひど過ぎます。いったい検察庁はどんな内部教育をしているのでしょうか。大いなる疑問を感じてしまいました。「拷問」をするのは警官ばかりではないという典型的見本でもあります。そして、裁判官が、検察官の脅迫言動をきちんと認定して、その検察官が作成した調書を任意性なしとして排除したことを読んで救われた気がしました。これで裁判所が検察官をかばったら、日本の司法は、もうどうしようもないとしか言いようがありません。
検事は立ったままいきなり右手を頭上に上げた。
「何をーっ、こん畜生」
次の瞬間、「ぶち殺すぞおーーー」という怒声とともに、右手の手刀が目の前に振り下ろされた。
バンッ!
机が壊れるのでは、と思うほどの大きな音が炸裂した。
「この野郎、検察をなめるなっ!」
「お前には第二弾、第三弾があるんだぞ!」
検事の怒声は止まず、再び手刀が振り下ろされた。バンッ!
「嘘をつくなー!こん畜生、ぶち殺してやるーっ!」
ドーン。今度は机がガタンと鳴って大きく動いた。
検事の怒声は止まず、気が狂ったかのような大声でわめき続けた。
「法廷には、お前の家族も来るぞ。組合員も来るぞ。裁判官も言われるぞ。検察は闘うぞ。誰がお前の言うことなど信じるか!」
「この野郎!ぶっ殺すぞー!」
「なめるな、この野郎!嘘つくな、殺すぞー!」
「この野郎、顔を上げんか!顔を上げろっ!ぶち殺すぞ!」
「この野郎、否認するのかっ!こん畜生!」
バンッ!
「この野郎っ、署名せんかーっ!署名しろーっ!」
「こん畜生っ!否認するのか。刑務所にぶち込むぞー!」
署名したあと、組合長は皮肉のつもりで、「完璧ですね」と言った。
いやあ、まさかの言葉のオンパレードです。
ところが、この検事は法廷で次のように述べて、暴言を吐いたことを認めたのです。
「いや、腹立ったんで、ふざけんなこの野郎、ぶっ殺すぞ、お前、と、こう言ったわけです」
ええーっ、「ぶっ殺すぞ、お前」と言ったことを検察からの主尋問で早くも認めてしまいました。これにはさすがに驚きます。否認して、ノラリクラリ戦法をとらなかった(とれなかった)わけなのです。
そして、圧巻なのは、被告人がこの取調べ検事に質問するということで対決した場面です。さすがに迫力がありますよ。当の本人が再現したわけですからね。
裁判所は、この検事調べのあと、「調書は検察官が威迫して自白を迫ったもので、証拠能力が認められないので、検察官のつくった調書は証拠としてすべて不採用とする」と決定しました。
この本には、突然、被告人の家族とされて、社会から切り捨てられていく苦悩、被告人の精神的かっとう、そしてマスコミの警察情報たれ流し報道など、さまざまな問題点も紹介されています。惜しむらくは、弁護人の活躍ぶりにも、もう少し焦点をあてていただけたら、同じ弁護士として、うれしいんですが・・・。被告人と家族を支えて立派に弁護活動をやり通した日野・山口両弁護士に敬意を表します。
夏の朝は目が覚めるのも早くなります。あたりが明るくなると、蝉が鳴き出す前に小鳥たちのさえずりが聞こえてきます。小鳥の名前が分からないのが残念ですが、澄んだ鳴き声が聞こえてくると、心も安まります。午前7時になると、シャンソンが鳴り出します。10分ほどフランス語の聴きとりを兼ねて耳を澄まし、やおら起き上がります。
(2008年6月刊。1785円)
2008年7月23日
嘘発見器よ、永遠なれ
アメリカ
著者:ケン・オールダー、出版社:早川書房
嘘発見器は、今日もなお、容疑者の尋問や不正の摘発や核兵器の機密保持、テロとの戦いにつかわれている。しかし、アメリカ以外に、この方法を積極的に取り入れている国はない。
そのアメリカでも、嘘発見器は、刑事法廷から門前払いを受け続けているし、アメリカ科学アカデミーなどの一流科学者団体からも不信の目で見られている。いやあ、そうだったんですか・・・。日本でも、昔は刑事裁判手続のなかで嘘発見器の結果が出てきたことがあります。今では、とんとお目にかかりません。
嘘発見器が被験者の罪悪感を探知できた率には、大きなばらつきがある。成功率は55〜100%があって、どうみてもまちまちである。勘であてるのと大差がない。
にもかかわらず、アメリカではいぜんとして大々的に使われ続けている。なぜか?
法が頼りにならないとき、アメリカの伝統的な解決策には2つあった。1920年代のロサンゼルスでは、その2つともおこなわれていた。一つは群衆によるリンチ。人々は当然の報いを受けさせるために集まり、みずからの正義に酔いしれながら犠牲者を殺害した。もうひとつは、第三度(サード・ディグリー)。これは、警察官によるもので、リンチの代替手段として、警察署内でおこなわれていた。
1920年代のシカゴは、犯罪にひかれる者にとって、おあつらえ向きの町だった。世界一の殺人多発都市であり、ギャングや酒類密造者の新興都市であり、犯罪組織とその構成員のすみかだった。
警察は腐敗し、怠慢で、誰もが賄賂を要求した。警官は残忍で、検事は不誠実で、判事や看守は買収されていた。政治家は堕落し、犯罪組織のボスの意にかなう人物を判事や看守につけていた。うひゃあ、これぞまさしく、アル・カポネの『アン・タッチャブル』の世界ですね。
嘘発見器が容疑者の尋問や従業員の審査につかわれた。それはアメリカだけのこと。外国では、アメリカのいつもの怪しげな機械だとして相手にされなかった。
政治の舞台で嘘発見器が強力な武器になりうることを初めて見いだしたのは、リチャード・ニクソンである。ニクソンは嘘発見器の検査を実際におこなおうとおこなうまいと、新聞の大見出しになることに気づいた。な、なーるほど、そういうことだったのですか。
ラベンダーの恐怖。同性愛者への攻撃は、共産主義者を攻撃するときと、よく似た恐怖心を利用していた。すなわち、ラベンダーの恐怖というのは、赤の恐怖より多くの人々の生活を破壊し、アメリカの国内政治と外交政策を強硬右派のものへと変えるとき同じくらいの大きな役割を果たした。外交政策を決めるエリートたちが躍起になって男らしさを示そうとするあまり、アメリカをベトナム戦争へ導いたのである。
嘘発見器は科学から生まれたものではない。だから、科学では抹殺できない。嘘発見器のすみかは研究室でもなければ法廷でもなく、新聞印刷用紙であり、映画であり、テレビであり、大衆誌やコミックやSFである。嘘発見器は需要に主導されている。
政治の舞台では、嘘発見器はずっと出番を与えられている。2003年、アメリカ科学アカデミーは数十年にわたる嘘発見器の研究結果を分析し、これを職員の審査につかっても効果はなく、むしろ保守体制への過信を生んで国家の安全保障を損なうと警告した。
いまも昔も、ポリグラフの罠にかかるのは無実の人間であり、悪人は動揺しないことが多い。FBIはテロリストの疑いがある者を何人も嘘発見器にかけているが、必ずしも成果は出せていない。
ポリグラフは医療技術を利用した平凡な機械にすぎない。つかわれている生理学機器は、どの先進国でも1世紀前から入手できるもの。にもかかわらず、それに尋問という新たな目的を与えた国はアメリカ以外にない。
いやあ、この本を読んでも、アメリカっていう国は、つくづくいい加減な、野蛮な国だと思いました。そんな国に、いつもいいなりになる日本って、ホント、もっといい加減ですね。いやになってしまいます。
真夏の夜の楽しみは、ベランダに出て望遠鏡で月面をながめることです。真夏でも、さすがに夜は涼しいので身体のほてりを冷ますこともできます。遠い月世界のデコボコした地表面をみていると、いさかいにかこまれた毎日の生活が嘘のように思え、心のほうも静まります。
(2008年4月刊。2500円+税)
2008年7月22日
もの思う鳥たち
生き物(小鳥)
著者:セオドア・ゼノフォン・バーバー、出版社:日本教文社
鳥はバカな生きものではない。そのことがよく分かる本です。
人間に苦しめられている地域にすむカケスやカラスの群れには、ひとりひとりの人間を細かく観察する監視役ないし番兵がいる。監視役の鳥が、銃をもっている人間を見れば、群れはすぐにそのあたりから離れるし、同じ人物でも銃をもっていなければ、そのことをはっきり認識する。銃をもっている人間と棒をもっている人間とは、きちんと見分ける。
ハンターに撃たれて傷ついた一群のカラスは、ハンターたちが自分たちを撲殺しようと迫ってきたとき、激しい鳴き声をあげた。それを聞きつけた仲間のカラスたちは、現場に急行すると、ハンターたちを撃退した。
仲間が傷ついたとき、自分が撃たれる危険をかえりみることなく、哀しそうな鳴き声をあげながらそばに寄りそうという、自己保存本能とはあいいれない行動が目撃されている。
ボタンインコのつがいは、引き離されると、互いに相手を恋い慕い、思いがけず再会すると非常に喜ぶ。まるで人間と同じですよね、これって。
鳥類のオスもメスも、性格特徴や身体的特徴をみて相手を決める。基本的には人間と同じだ。いやあ、そういうことなんですね。
つがいを形成している鳥は、二羽がまるで会話でもしているかのようだ。語りかけられた側は、語りかけている鳥に注意を集中しており、同時に発声することは一度もない。多種多様の柔らかい抑えた音を出すのは、内輪の、親しい間柄にある相手のための、とっておきの声である。ふむふむ、鳥にも恋の語らいがあるわけです。
ひなのときに捨てられ、親切な家庭で育てられたコクマルガラスは非常に社交的だった。自分の気持ちや感情をはっきり伝えた。無礼な扱いをされると、カラスは相手の爪にかみついた。ただし、傷つけはしなかった。自分が尊重されるべき存在であることを相手に伝えようとした。な、なーるほど、です。
このカラスはテレビを観たし、はっきりした番組の好みをもっていた。特定の番組はいつも観ていた。気に入った曲(ジャズの一種)が流れると、激しく踊り狂った。自分の歌をうたい、その録音テープを聴くことを喜んだ。
ブルーバードと名づけられたセキセイインコの観察記録は、さらに驚くべきものがあります。
オスのブルーバードと一緒に生活するようになったメスのブロンディーは、ひと目ぼれの関係だった。これは、人間と同じく、セキセイインコにおいても、実はまれなことだった。ブルーバードとブロンディとは、陽気で喜びにみちあふれ、満足そうにみえる自然な性的関係を速やかに発展させた。いつも一時間ほど、前戯が長々しく続く。ブルーバードはブロンディに歌をきかせ、2羽は、愛の語らいにふけった。いやあ、すごいです。うらやましいです。
ブルーバードが死んだとき、ブロンディは落ち込んでしまった。何もせず、いつもよりたくさん食べて、眠ってばかりいた。ブルーバードの代わりにラヴァーという3歳のオス(セキセイインコ)を同居させてもブロンディは相手にしなかった。ラヴァーはブロンディに相手にされないので、鏡の前に行って自慰的行動をしていた。そして、ブロンディが死んだときには、なんと、「かわいそうなブロンディちゃん。かわいいブロンディちゃん」と、ブロンディを思いやる言葉をかけながら、ブロンディの遺体のそばを飛びまわったというのです。これは、想像で簡単につくりあげることのできない、本当の話だと私は思います。いかが、でしょうか・・・。
この本は、鳥にも人間と同じような感情があり情緒があると主張しています。私は、それを頭から否定するのは正しくないと考えています。
鳥たちには、人間とまったく同じように、美しいものに対する感覚、美的感覚というものがある。鳥は、自分で歌を作曲して歌うこともできれば、2重唱や5重唱で歌うこともできる。
私は、ある晴れた日の昼下がり、公園のフェンスに2羽の鳩がとまっているのを見たことがあります。鳩たちは、はじめは少し離れて止まっていたのですが、次第に近寄り、くちばしを重ねあい、やがて、いかにも濃厚なラブシーンを始めました。10メートルと離れてはいない人間の私がいることなど、まったく気にせず、ラブシーンは延々と続いていきます。人間でいうと、濃厚なフレンチキスの段階に至ったあと、鳩の一方が他方におおいかぶさり、交尾しました。その時間は長くはなかったように思います。2羽の鳩は、やがて何事もなかったように2羽とも仲良くフェンスから飛んでいってしまいました。
相思相愛の鳩の夫婦のむつみあい、そして交尾の瞬間を初めてじっくりと見せつけられたわけです。その間、少なくとも10分間以上はありました。
私は公園のフェンスの他方で、じーっと動かずに眺めていました。幸いにも、他の人間は誰も来ることがありませんでした。ある晴れた春の日に起きた、本当の出来事です。
(2008年6月刊。1905円+税)
そろそろ旅に
江戸時代
著者:松井今朝子、出版社:講談社
やじさん、きたさんで有名な『東海道中膝栗毛』の作者が十返舎一九というのは江戸時代や日本史に詳しくなくても、誰だって知っていることでしょう。初めの題は『浮世道中膝栗毛』というものでした。主人公は神田八丁堀あたりに住む独身男の弥次郎兵衛と居候の北八。ところが、シリーズの最後には、やじさんは弥二郎兵衛、きたさんは喜多八と表記が変わり、この二人はかつて男色の契りをかわしていたという設定になってしまった。
ひえーっ、驚きですね。
それはともかく、このコンビは、江戸を発って東海道を上りながら、出会った女を手あたりしだいにくどいてまわり、隙あらば他人に悪さを仕掛け、あげく失敗を重ねて箱根までの滑稽な珍道中をくり広げた。
街道のかごかき、馬士(まご)のおかしな言葉づかいに、旅籠(はたご)の様子、名物の食べ物などにはやたらに詳しい本である。駅々風土の佳勝、山川の秀異なるは諸家の道中記に詳しいので、ここでは省略する、こんな宣言をし、風景描写は皆無にひとしい。実に特異な旅行記であった。ところが、思いのほか好評のうちに迎えられ、翌年の第2編で大井川まで、さらに第3編、第4編と延びてゆき、ついには、第6、7編で京都、第8編で大坂の町を書きあげた。これで終わりかと思うと、出版元が許さない。なんと、20年にも及ぶ長旅になってしまった。
すごい、すごい。すごーい、ですよね。私も写真入りの旅行記を自費出版でたくさん出していますが、残念なことに、これほどの反響はありませんでした。
十返舎一九は、もともとは武士の身。同じように、武士出身で当時、活躍していたのが、山東京伝、滝沢馬琴、式亭三馬(浮世風呂)。そして、この本は、江戸時代の文化を支えていた、これらの文人たちの生きざまを彷彿とさせる楽しい読み物です。
実は、初めのころはあまり面白くないなあと思って読み飛ばしていたのです。ところが、中盤あたりから急に面白く思い、あとは一気呵成に読みすすめていきました。
十返舎一九が作家になるまでの苦労といいますか、遊里通いで放蕩する場面、そして、その心境が、ちょっとあまりにもデカダンス(頽廃)すぎて、ついていけなかったということもあります。
先日、チャップリンについて書かれた本を読んでいますと、「女たらし」とか「女性の敵」とか批判されているときのチャップリンのほうが芸術的には優れたものを生み出している。逆に、品行方正になったときのチャップリンの作品には面白みに欠けるという評価がなされていました。人間の才能というのは、ことほどさように評価が難しいものなのですね。
それにしても、この本は、江戸の文化、文政時代の雰囲気、つまりは、田沼時代のあと、松平定信の寛政の改革と、その後の社会の様子をよくぞ再現していると感心しながら、後半は一気に読了しました。さすがはプロの物書きです。
(2008年3月刊。1800円+税)
2008年7月18日
中堅崩壊
社会
著者:野田 稔、出版社:ダイヤモンド社
日本の中堅というべき階層が育っていないというのは重大な問題です。著者は次のように指摘します。
バブルミドルといわれるミドル層の弱体化を嘆く経営陣が、実は、その弱体化を招いた一連の政策変更の企画者であり、実行者であった。経営陣は、10年以上もしっかりした教育を受けさせず、目先の利益だけを追求することを求め、一つの場所に塩漬けにしてきた。ミドル層を責める資格はない。ふむふむ、そうなんですか。ということは団塊以上の世代に大きな責任があるというわけです。
評価制度には限界がある。評価制度に頼ると、評価する人間が無責任になる。できるだけ運用は柔軟にして、時間と人手をかけてアナログに評価するのが正しい。なるほど、そうなんですね。
部下を働かせないようにしようと思えば、次の3つを徹底すればいい。無視する。任せない。ほめない。これをしたら、人間は病気になるか、辞めてしまう。逆に、認めて、任せて、ほめるをやったら、みんな、一所懸命に働くだろう。
なーるほど、ですね。いいことを教わりました。
好奇心、こだわり、信念、柔軟性、楽観性そしてリスクをとる気概が必要だ。とにかく努力し続ければ、必ずチャンスは向こうからやって来る。没頭してやり続けていないと、そのチャンスは見えない。没頭する喜び、没入体験の醍醐味を一度でも経験したら、また没頭しようとするので、そこに努力のスパイラルが起こってくる。ところが、その体験のない人は、没入することを恐れてしまうし、労を惜しむ。だから、できるだけ早い段階で仕事への没入体験を与えてあげることが必要だ。いやあ、そういうことなんですか。私も実践してみます。
失敗してもいいからやってみろ、責任は私がとる。これを本気で言えるかどうか。これが、キーポイントだ。こうなると、やってみるしかありません。
今はそもそも負けん気の強い人が少ない。仕事は仕事と割り切り、言われたことはやるが、言われないことまではやらない。そこまでやっても何の得もないと考える。そういう人材を放っておいても伸びず、停滞してしまう。
コミュニケーション能力というか、姿勢が大切だ。自分から歩み寄り、関係する。いろんな関係者と話をする。聞く姿勢があって初めて、折衝能力とか調整力が生まれ、危機を察知することもできるようになる。
いろいろ参考になることの多い本でした。
私の法律事務所でも、既に3人の希望者をお断りしました。コミュニケーション能力にとても不安を感じたからです。忙しい私たちは、どうしても即戦力を求めたいのです。すみませんが・・・。
(2008年3月刊。1700円+税)
アフリカ、子どもたちの日々
世界(アフリカ)
著者:田沼武能、出版社:ネット武蔵野
著者が世界の子どもの写真を生涯のテーマーに決めたのは、今から40年以上も前の 1966年、37歳のとき。初めてアフリカの大地を踏んだのは1972年。
黒柳徹子はユニセフの親善大使となって毎年アフリカを訪問している。そのとき著者は必ず同行し、写真をとる。写真家は大変だ。撮影日時、難民キャンプの呼び名、キャンプの人口、子どもの名前、年齢、親の名前などなど。夜遅くまで撮ったフィルムと一緒にデータをきちんと整理し、次の朝を迎える。うひゃー、すごいんですね。
アフリカでは6000万人の子どもが貧困のために学校へ行けない。アフリカでは内戦と同じくらいにエイズが重大問題だ。世界の人口65億人のうち11%がサハラ以南に暮らす。その63%がエイズウィルスの感染者、エイズ孤児の80%がアフリカに集中している。
そんなアフリカに住み、生活している子どもたちですが、写真に登場しているアフリカの子どもたちの目はキラキラと輝いています。弟妹の守りをし、みんなと楽しそうに遊んでいます。
手製のギターを弾きながらコーラスに興じる子どもたちもいます。娯楽の少ない村では、著者の乗る車を子どもたちはどこまでも走って追いかけてきます。
サッカーで遊ぶ子供たちの写真もありますが、よく見ると、普通のサッカーボールではありません。古新聞を丸めて、ぼろ布で包み、ひもで巻いただけのものです。でも、そんなサッカーボールで一日中遊んで飽きません。女の子たちは民族衣装で踊ります。
水運び、市場での物売り、畑づくり。子どもたちはたくましく生きていきます。家造りだって手伝います。
学校で勉強もしたいのです。コーランを朗唱します。青空教室のこともあります。内戦犠牲者のカロン君は政府軍の少年兵となり、ゲリラに両腕を鉈(なた)で切り落とされてしまいました。栄養失調で死んでいく子どもも大勢います。その前にガリガリにやせ細ってしまいます。
1年間に世界の子どもの22%がアフリカで生まれ、5歳未満の子どもの死の49%がアフリカの子ども。50万人の女性が妊娠と出産に関連して亡くなるが、その大多数がアフリカでのこと。世界にいる1520万人のエイズ孤児の80%がアフリカの子ども。アフリカではHIV感染者の61%が女性。マラリアによる犠牲者100万人のうち、95%がアフリカの人々で、その大多数が5歳未満の子ども。
いやあ、アフリカを見殺しにはできませんよね。日本という国はいったいアフリカのために何をしているのでしょうか・・・。
(2008年5月刊。1900円+税)
ダラエ・ヌールへの道
著者:中村 哲、出版社:石風社
15年以上前に発刊された本ですから、少し古くはなりましたが、アフガニスタンのことを少しでも知るためには決して古すぎることはありません。福岡出身の中村哲医師がアフガニスタンで、どんな活動をしているのか、それにどんな意義があるのかを知るうえで今も貴重な本です。なにしろ、日本の一般マスコミの報道があまりにも少な過ぎます。
アフガニスタンに住むほとんどの人々にとって、西欧的な国民国家や民主主義など、想像もつかないしろものだ。それは、あたかも日本の源平時代や戦国時代の日本人に「近代国家」を強制しようとするに等しい夢物語でしかない。アフガニスタンの多くの人々には、もともと「国家」など頭の中にない。
これは、イスラム原理主義者についても同じことが言える。アメリカは、後になって手を焼くことになる「イスラム原理主義」に対し、軍事的に肥大させるよう援助した。アメリカは、「生かさず、殺さず」式の戦争を継続させ、ソ連の国力を消耗させる戦略をとった。
ダラエ・ヌール渓谷一帯は、いわゆるパシャイー族というヌーリスタン族の一部族が占め、戦争中もほぼ完全な自治体制をとって政治的利害から自由な地域だった。
ここの山人は、ほとんど自給自足なので、絶対的な必需品はマッチと岩塩くらいである。石油ランプをもつ家庭が多いので、灯油も取引品として大切であった。緑の畑が広がっている。よく見ると、ケシ畑だった。
中村医師は次のように断言します。
現地では、非武装がもっとも安価で強力な武器である。だから、診療所内での武器携行を一切禁止した。自分自身が丸腰であることを示したうえ、敵を恐れて武器を携える者を説得し、門衛に預けさせてから中に入る許可を与える。無用な過剰防衛は、さらに敵の過剰防衛を生み、果てしなく敵意・対立がエスカレートしていく。
私心のない医療活動は、地元民の警戒心を解き、彼らが著者たちを防衛してくれるようになった。渓谷のあらゆる住民が我々を必要として、その方針に協力するようになったのだ。アフガニスタンの膨大な水面下の人々にアピールしようとするなら、何も特別の宣伝はいらない。ひたすら黙々と誠実に仕事をしていたらいい。
日本国憲法9条2項がアフガニスタンで生きていることを実感させられます。
日本人の特性は、そのチームワークと勤勉さ、緻密さにある。だが、ペシャワールのようなところでは、これが裏目に出る。日本人は、一人で衝突をくり返しながら、現地の人々とのつきあいを切り開いていくたくましさに乏しい。
うむむ、なるほど、なーるほど、そうなんでしょうね。
アフガニスタンで今も医療活動を地道に続けている中村医師をはじめとするペシャワール会の活動に対して、日本人はもっともっと注目し、大きな声援を送るべきなのではないでしょうか。大喰いタレントやおバカキャラを笑いながらもてはやす前に、もっと真剣に考えるべき世界の現実があると私は思いました。
(1993年11月刊。2000円+税)
2008年7月17日
甘粕正彦 乱心の曠野
日本史(近代)
著者:佐野眞一、出版社:新潮社
いやあ面白くて、ぐいぐいと引きこまれてしまいました。よくもここまで調べ上げたと感嘆するほど、「主義者殺し」の烙印を負った甘粕憲兵大尉の事件との関わり、そして満州での暗躍ぶりと自殺に至るまでが迫真にみちみちて描かれています。
甘粕は、大杉栄一家3人虐殺の主犯として軍法会議で懲役10年の判決を受け、千葉刑務所に服役した。ところが昭和天皇の結婚による恩赦を受け、大正15年(1926年) 10月、わずか2年10ヶ月で極秘のうちに仮出獄した。そして翌1927年(昭和2年)7月にはフランスに渡った。さらに、1929年秋に満州に移住した。
甘粕正彦の長男は三菱電機の副社長を経て、現在は顧問。考古学者の甘粕健、社会学者の見田宗介、服飾デザイナーの森南海子は、みな近い親戚である。いやあ、有名人ぞろいですね。私も見田宗介の本は大学生のころ読みました。見田石介の本もです。
甘粕正彦は名古屋の陸軍幼年学校に入ったが、そこは6年前に大杉栄が入学し、あまりの不良少年ぶりに2年で放校処分を受けたところだった。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の当日、渋谷憲兵分隊長の甘粕正彦は麹町憲兵分隊長との兼務を命じられた。首相官邸などを警護対象とする麹町憲兵分隊は、文字どおり、憲兵あこがれのエリート中のエリートコースだった。
甘粕は帝都の治安を攪乱する不穏分子を摘発するエースだった。皇族の安寧を願い、帝都の治安維持に尽力してきた甘粕の目ざましい働きに対する論功行賞でもあった。
甘粕に対する軍法会議が始まると、減刑嘆願運動が在郷軍人会を中心として全国に広がり、65万人もの署名を集めた。しかし、これも、軍法会議が始まると、甘粕に対する同情の声はおさまり、むしろ非難する声が高まった。
大杉栄の虐殺が露見したのは、軍と警察の反目にあった。そして、その裏には、内務省と陸軍省のドロドロした暗躍劇がからんでいた。
死因鑑定書が発見された今、甘粕は殺害された宗一(子ども)ばかりか、大杉栄ら3人の死体が菰包みになったのを見て初めて殺害の事実を知ったという可能性も否定できない。いやあ、そういうことなんですか。驚きました。
軍法会議は、宗一少年を殺したとして自首してきた東京憲兵隊の3人を無罪にしたことに象徴される。この軍法会議は第1回が10月8日、6回の審理を経て、結審したのが11月24日。そして、判決は12月8日。審理に費やした期間は、わずか2ヶ月。しかも、甘粕に対する追及が厳しかった判士の小川法務官は途中で突然に解任された。
そもそも、甘粕には麹町憲兵分隊に所属する4人を指揮命令する権限はなく、そんな立場にもなかった。
赤坂憲兵分隊長の服部が麹町憲兵分隊に行ってみると、屋上に大杉栄が両手両脚を厳重にしばられ、コンクリートの上に筵(むしろ)を敷いて座らされていた。そばには、大杉の妻・野枝と子どももいた。こんな目撃談を部下が書いています。
死因鑑定書には次のように書かれている。「男女二屍の前胸部の受傷はすこぶる強大なる外力(蹴る、踏みつけるなど)によるものとなることは明白。・・・これは絶命前の受傷にして・・・」
つまり、大杉栄も野枝も明らかに寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受けた。虫の息になったところを一気に絞殺された。すなわち、集団暴行によるなぶり殺しが実態である。
おお、なんとむごいことでしょうか。許せません。そして、実行犯は、みな無罪放免となり、甘粕一人がわずか2年あまりで出所したなんて・・・。まさしく軍隊の犯罪としか言いようがありません。
甘粕が出所してすぐにフランスに渡ったのは、甘粕をスケープゴートとして自らの責任を逃れた憲兵司令部の後ろめたさと、口封じを感じざるをえない。そして、甘粕正彦は満州に渡り、満映の理事長となり、終戦直後に青酸カリを飲んで服毒自殺した。そのとき、今をときめく有名作家の赤川次郎の父親が甘粕の側で働いていた。
これは伝記ものの傑作の一つだと思います。なにしろ、歴史的事実を一つ発掘したのですからね。私は、東京行きの飛行機のなかで、一心に読みふけり、飛行の怖さを忘れてしまいました。あっという間に東京に着いてしまったのです。
(2008年5月刊。1500円+税)
2008年7月16日
ネゴ・スキル
司法
著者:弁護士・三四郎、出版社:文芸社
私は相手方との交渉がいつまでたっても苦手です。タフ・ネゴシエーターと呼ばれる人たちの縦横無尽の駆け引きを、いつもうらやましく思いながら眺めています。私の交渉のやり方は、ひたすら誠意を尽くすということです。もちろん、これでうまくいくこともあるわけです。でも、そんなことでは解決しないことも多いのです。
ちなみに、私は、商品を値切って買うことも好きではありません。定価で買うか、買わないか、です。そんなつまらないことで、精力を無駄につかいたくないという気分です。ですから、たいてい、あとになって後悔しないように何も買いません。海外旅行に出かけたときも、食事は別として、買い物にお金をかけることは絶対にしません。記念になる小物を買うだけです。家の中には必要最小限のものさえあればよいのです(もちろん、たくさんの本に囲まれて・・・)。
相手から脅されたとき、どうするか。まず、心を強くもつ。人は交渉相手の手強さを過大評価するものだ。冷静になり、簡単には引き下がらないと決意する。そのうえで、相手に向かって「脅しはなしにしましょう」と静かに告げる。すると、たいてい相手は脅しをやめてしまう。
それでも脅しが続いたときには、相手の話を黙って聞き続ける。そのうち、だんたん言葉の勢いがなくなり、とうとう脅しの理由を説明しはじめ、ポロリと自分の弱点をもらす。そこで出番が来る。怒る気持ちは分かる。脅しのようなことは今後やめよう。そう言って休憩をとる。コーヒーとクッキーを出す。雑談をし、ジョークを飛ばす。すでに、相手には当初の勢いはなくなっているはずだ。
脅しが本物か、ブラフかを見定めるのが必要。それには質問をする。質問を繰り返しながら、相手の表情、態度を見る。答え方と声のトーンを聞く。経験を積んだら見抜くことができる。ブラフは軽くあしらい、軽くいなす。
手強いとみた相手との本格的な交渉は2人でやることだ。脅しに対抗するとっておきの手は、聞こえないふりをする、おバカなふりをすること。
聴き方の4原則は、第1に、相手の目を見る。第2に、微笑む。微笑みは、相手を受け入れているというサインである。第3に、うなずく。これは話を聴いているというサインだ。第4に、相槌をうつ。これで話の流れをよくする。聴くとは、忍耐でもある。
相手を説得しようとするときには、相手の言葉をつかう。人は、他人の言葉よりも、自分自身の言葉によって説得されるものだ。
人は対面する相手の顔から55%、声から38%、そして言葉から7%の割合で情報をつかむ。
嘘をつくとき、人は手を隠す。手の動きから心を読まれるのを恐れるから。嘘をつくとき、人は手で顔をさわる。嘘を隠そうと思って、口を押さえているのだ。嘘をつくとき、人は何度も姿勢を変える。この場から早く逃げ出したいという無意識の欲求がそうさせる。嘘をつくとき、人は目だけで笑う。不安を隠すためだ。
嘘をつくとき、男性は視線をそらす。女性は相手を凝視する。男は、嘘をつく罪悪感にさいなまれて視線をはずす。女性は嘘がバレたかバレなかったかを確認しようとする。
上手に交渉を締めくくる方法がある。相手を評価し、ほめること。相手がプロであっても。勝ってもうれしい顔を見せず、相手が負けていても勝利感を分け与える。
交渉下手の私にとって、すごく勉強になりました。
先日の仏検(一級)の結果が届きました。これまでで最低の34点でした(120点満点)。昨年は45点でしたし、その前には70点とったこともありました(合格点は90点以上)ので、受け初めて10年以上になりますが、最悪です。体調が不良だったという言い訳はしません。頭の中がフランス語モードになっていなかったとしか言いようがありません。やはり1ヶ月以上前から試験に向けて頭のなかを切り換える。具体的には朝晩、フランス語を聞いて書く。過去問にあたる。こんなことを怠ったからです。
8月にフランスへ行く予定ですので、いささか心配になる結果でしたが、臆することなくフランス語を話してくるつもりです。
(2008年3月刊。1200円+税)
2008年7月15日
戦争の心理学
アメリカ
著者:デーヴ・グロスマン、出版社:二見書房
怖い話が多いのですが、人間とは何かを知ることもできる本です。そして、子どもたちを取り巻く環境がひどく危険なことに警鐘を乱打しています。耳を傾けるべきです。
恐怖を感じるとアドレナリンが増える。生き残りの確率を高めるために増加する物質にコルチゾールがある。これが増えると、血液の凝固速度が上昇する。
すごいですね、人間の身体って、本当によく出来ています。
第二次大戦に出たアメリカ兵の4分の1が尿失禁の経験があり、8分の1が大失禁を経験した。激戦を経験した兵士の場合には、半分が尿をもらし、4分の1が大便をもらした。
多大なストレスのかかる生きるか死ぬかの状況に直面したとき、下腹部に荷物が入っていたら、それは放り出される。膀胱がどうした?括約筋なんか知ったことか、と身体が言ったわけだ。全身のあらゆる資源が、ただひとつ、生き残りのためという目的にふり向けられる。な、なーるほど、そういうことなんですか・・・。
継続的な戦闘状態が60昼夜も続くと、全兵士の98%が精神的戦闘犠牲者になる。
スターリングラードの戦いに参加したソ連軍の復員兵士は40歳前後で死亡した。この戦いでは、長く苛酷な6ヶ月間、1日24時間たえまないストレスにさらされていたからだ。
2003年のイラク侵攻のとき、アメリカ軍は兵士にストレス過重の徴候があらわれたら交代させ、シャワーを浴びたり軽い休養をとったりできる場所へ送ったのち、すぐにまた元の部隊に戻すという方針をとった。
精神的なストレスから回復するのに睡眠は特効薬となる。逆に、ストレスの犠牲になりたければ、物理的に一番簡単なのは睡眠時間を削ること。睡眠不足は、精神衛生に悪影響を及ぼし、がん、かぜ、抑うつ、糖尿病、肥満、心筋梗塞の誘因となる。
24時間、一睡もしないと、生理状態も心理状態も、法的に酒酔いとされるのと同じ状態に陥る。ベテラン兵士は寝られるチャンスは絶対に逃さない。眠りの甘さを知っているのは兵士だけ。そうですよね、あのウトウト感って、たまりませんよね。いい心もちです。
心拍数が高まると、微細運動の抑制と近視野が失われる。落ち着いているときは簡単に思えることでも、ふだんから練習しておかないといけないのは、このためだ。そして、深い腹式呼吸をすると、心拍数が下がる。
耳は聞こえ、目は見えていても、生き残るという最大の目標に集中していると、その目標に無関係と思われる情報は、大脳皮質が意識からはじいてしまう。感覚刺激を遮断してしまう。たとえば、戦闘中には銃声が聞こえなくなる。
似た例として、私は列車内で読書に夢中になっているときには、車内アナウンスがまったく聞こえません。そのときは、本に大あたりして、はまっているのです。
アメリカでは10代の青年による大量殺人がしばしば起きている。これは歴史はじまって以来のこと。この大量殺人を可能にしているのは大人であり、親であり、ゲーム業界である。子どもたちが遊んでいるゲームは大量殺人シミューレーターである。画面の人物を残らず殺し、高得点をあげるように日々、訓練されている。犯人たちはコンピューターゲームの狙撃シミュレーターをつかって、殺人に対する心理的障壁を取り除いていた。
もちろん、暴力的なゲームで遊ぶ子どもが、みな大量殺人者になるわけではない。しかし、なる者もいるのだ。
アメリカの学校で銃乱射事件を起こした生徒たちはみな、規律の厳しい団体活動には参加したがらず、逆にメディアの暴力表現に耽溺していた。暴力的なテレビや映画、そしてとくにコンピューターゲームが子どもに多大の影響を与えた。
暴力的なメディアの影響は、子どもにとっては新兵訓練のようなものだ。子どもたちはテレビの前に何時間もすわり、暴力は善であり必要なものだと学ぶ。それを見、それを経験し、そして信じる。暴力という成分はいやというほど浴びているのに、規律はかけらも与えられない。テレビで見る映像は、子どもにとっては現実なのである。血や殺戮や復讐を見ると、世界はそんなところだと学習することになる。
暴力的なメディアにさらされ、精神的に傷を負い、残酷な行為に慣らされたとしても、ほとんどの子どもは暴力をふるうことにはならない。しかし、抑うつと恐怖に悩むようにはなる。
文字で書いたものが幼児に影響することはない。しかし、暴力的な映像は早くも生後 14ヶ月で完全に処理できる。幼児のみる映像は、目からまっすぐ感情の中枢に入り、そのこの世界観に直接の影響を及ぼす。いやあ、これって、ホント、怖いことですよね。
コンピューターゲームに影響された新世代の殺人者は、爆弾を仕掛けたあと、すぐに立ち去らない。目標は全員を殺すこと、なのだから。
メディアの暴力にひんぱんに接した子どもの脳は、論理的な部分の活動が減少する。事後にストレス障害を予防する決め手は、事後報告会をおこない、感情と記憶とを切り離し、喜びを掛け算し、苦しみを割り算することである。
なるほど、よくよく日本人の大人も考えるべき指摘だと思います。ゲーセンでは「人殺し」がありふれています。多くの若者がそれに没頭している光景はおぞましいものです。
銃で撃たれたら、まず第一にパニックを起こさないこと。撃たれたと分かるのは生きている証拠であり、これは良い徴候だ。非常に強烈な警告の一発を受けたと考えよう。最高の状態じゃないが、最悪でもない。自分にそう言い聞かせる。目下の目標は、2発目を浴びないこと。そうなんですか。こう考えるといいのですね。
送りこまれる兵士のうち100人に10人は足手まといだ。80人は標的になっているだけ。9人はまともな兵士で、戦争をするのは、この9人だ。残りの1人が戦士で、この1人がほかの者を連れて帰ってくる。敵によって殺された兵士より、ストレスで戦えなくなった戦闘員のほうが多かった。
白兵戦のさなかの兵士は、たいてい文字どおり正気を失うほどおびえている。矢や弾丸が飛びかいはじめると、戦闘員は人を人たらしめている脳である前脳で考えるのやめ、思考過程は中脳に集中する。中脳は、脳のなかでも原始的な部分であり、ほかの動物の脳とほとんど区別がつかない。
戦場における人間の行動と生理面を分析したこの本を読み、人間というものを少し理解しました。それにしても暴力的メディア(とくにコンピューターゲーム)の怖さを再認識させられました。
(2008年3月刊。2400円+税)
2008年7月14日
松本清張への召集令状
社会
著者:森 史朗、出版社:文春新書
松本清張の本は私もかなり読んでつもりですが、その著書が750冊もあると言われると、その何分の1を読んだのだろうかと不安になります。まあ、それでも私は2割くらい読んだように思うのですが、自信ありません。
清張が作家としてデビューしたのは41歳のとき。『点と線』『眼の壁』によってベストセラー作家となり、社会派推理小説の草分け的存在となったのは48歳のとき。1992年に82歳で亡くなるまでに、著書750冊を出した。まさに驚異的な巨匠です。
清張は、34歳のときに招集され、1家6人の家族を残して朝鮮に出征した。
実は、清張は、20歳のときの徴兵検査で身体虚弱のため、第二乙種補充となり、兵営入りを免れた。そして、昭和18年秋に教育招集されたが、そのときの入営期間は3ヶ月だった。
ところが、昭和19年6月に再び召集令状が届いて、朝鮮半島に送られた。すでに朝鮮海峡もアメリカ軍潜水艦によって日本軍の輸送船は次々に沈められていた。対岸の朝鮮半島にたどり着くのも生命がけの時期だった。
この本は、なぜ34歳の妻子をかかえた第二乙種補充兵が召集されたのかを追求しています。どうやら、ここに社会派・清張の原点があるようなのです。
清張の学歴は、尋常高等小学校卒。朝日新聞西部本社広告部意匠係の嘱託から正社員に昇格したばかり。広告の版下を書く職人だった。
19歳の石版工・清張は、思想犯として特高警察に検挙された。文学仲間にまわっていた非合法雑誌『戦旗』をまわし読みする一員になっていた。
この『戦旗』は80年後の今、ブームを呼んでいる小林多喜二の『蟹工船』が掲載されたりする全日本無産者芸術連名の機関誌であった。
清張が貫いた反権力の姿勢は、特高警察によって十二分にいたぶられた体験と決して無縁ではない。
清張は徴兵検査の結果、第二乙種補充兵だった。虚弱な体質だった。
最長に2度目の召集令状が来たのは、昭和19年6月28日のこと。すでに34歳。兵隊では老兵である。なぜ、こんな中年兵が招集されたのか? 清張は疑問に思った。
在郷軍人会の教練にあまり出なかった男性に対する懲罰的な意味あいが込められていた。それを「ハンドウを回す」という。反動を回すとは、大砲を撃ったときの砲身の反動から来た言葉であり、ものごとが行き過ぎた場合に逆方向に戻すという意味。
軍隊で受けた理不尽な私的制裁は、清張を終生、強い反軍傾向をもつ人間としたのです。当然のことでしょうね。
清張は、東大の井上光貞教授と張り合ったようです。井上光貞教授と言えば、私が大学受験生のころは、まさに日本史の権威でした。その教科書をバイブルのように大事にして暗記したものです。井上光貞教授は、清張を学者ではない単なるアマチュアとしてしかみなかったようです。それで官学ぎらい、権威ぎらい、反権力の清張はカチンときた。
転向した反共文筆家としてもてはやされた平林たい子が清張について、共産主義者の秘書に資料を集めさせて、その資料で書くだけだから、いわば人間ではないタイプライターだと根拠なく非難したことがあった。
しかし、清張は取材記者をつかったことはない。あくまでも独自に取材し、豊富な人脈をつかって広く資料収集につとめていた。
実は、私も清張は何人もの調査員を雇っているとばかり思い込んでいました。
清張は神田の古本屋(たとえば)「一誠堂書店」)に、関連する資料をごっそり注文して受けとっていた。
清張は、多作のため、やがて書痙(しょけい)を患った。やむなく、口述筆記とした。そのため、速記者を雇った。執筆量は月に700〜800枚。昭和30年代半ばまでは 1000枚をこえていた。さすがに書きすぎるとの批判が寄せられた。
清張は文壇づきあいは、あまりしていない。社交嫌いで、酒の飲めない体質だった。清張は、既成文壇に対しては辛辣だが、後進の新人作家には、一転して心優しき先達だった。
文士とは小説家っていうのは、自信とうぬぼれを栄養にしていないとやっていけない。だから、普通の人間にない、鼻持ちならぬ嫌な種族だろう。
これは清張と対談した大佛次郎の言葉です。うむむ、そうなんですか。私は、とても、そこまでは・・・。
清張は作品タイトルの名人だ。『点と線』『ゼロの焦点』『砂の器』『張り込み』など、すごいものです。清張は巨匠すぎて、及びもつきません。でも、最近の若い人は読んでいるのかな・・・?
1泊2日の人間ドックから明るいうちに帰宅すると、庭で蝉の飛ぶのを見かけました。7月11日のことです。やがて蝉の鳴き声も聞こえてきました。蝉が鳴くと夏本番の到来です。
(2008年3月刊。890円+税)
2008年7月11日
アトミック・ゴースト
アメリカ
著者:太田昌克、出版社:講談社
いま、地球は核爆発5分前です。なぜなら、今もアメリカとロシアが依然として2万6000発もの核兵器を保有し、うち1000発以上が即時発射態勢にある。そのうえ、今や軍のコンピューターへのハッカー侵入による偶発的核戦争が始まる恐れさえある。うへーっ、怖いですね。冷戦後も、さまよい続けるアトミック・ゴーストが人類の「終末」を2分だけ早めたわけなんです。一刻も早く、核兵器を文字どおり全廃すべきです。問題は北朝鮮のチャチな核製造能力だけではありません。
1969年1月。大統領に当選したニクソンは、次のような核戦略の説明を受けた。
アルファ作戦で先制攻撃用につかわれる核兵器は合計1750発。全標的を先制核攻撃するなら、合計3018発。さらに全面的な核戦争をソ連に仕掛けたときには、ソ連の全国民の40%、最大9000万人が死ぬ。・・・・
むひょう、これはひどい・・・です。レーガンとゴルバチョフが冷戦に引導を渡した 1988年の段階で、アメリカの核兵器は2万3000発もあった。ソ連の崩壊した 1991年には1万7300発。その後、ブッシュ大統領のときまでに1万5000発にまで減った。それでも、まだ、とんでもなく多いですよね、これって。
核実験をしないまま、核兵器の信頼性をどう保つのか、も問題となっているようです。 ソ連が冷戦中に製造し、世界各国に輸出したウラニウム(HEU)は判明分のみで 2245キログラムある。これは核兵器90発分に相当する。同じように、アメリカ産のHEUは合計7335キログラム。実に290発以上もの核兵器を製造できる核分裂物質が各地へ輸出されている。
今年も、核兵器をなくそうという平和大行進が始まろうとしています。日本各地、隅々から、核兵器を一刻も早く地球上からなくしてしまおうと呼びかけて歩く行進です。まったく同感です。
(2008年4月刊。1800円+税)
モーターサイクル南米旅行日記
アメリカ
著者:チェ・ゲバラ、出版社:現代企画室
チェ・ゲバラというと、キューバのカストロ前首相を連想し、てっきりキューバ人だと思いますが、実はアルゼンチンの人です。裕福な家庭に生まれ育ち、医師の資格を得て、南米旅行に出かけます。
この本は、いかにも冒険好きの若者らしい、旅先で遭遇した数々の出来事を日記のように書きつづった日記をまとめたものです。
チェ・ゲバラのとった写真と、とられた写真が何枚も紹介されています。とてもハンサムであり、なにより目の輝きがすごいです。ゲバラは、キューバ革命に成功したあと、アフリカにも渡り、次いでボリビアに潜入して政府軍と戦っているうちに負傷して捕まり、射殺されてしまいました。39歳でした。世界は、実に有能な人物を失いました。
それはともかくとして、ゲバラ青年はオートバイで、気のあった仲間(男性)と2人で、あてのない旅に出ます。そのうち、そのオートバイは故障して走れなくなってしまいます。
1952年6月14日。土曜日。貧乏な僕は、24歳になった。
こんなくだりが出てきます。24歳のとき、私は何をしていたんだろう・・・。私は、司法研修所にいて、せっせと青法協(青年法律家協会)の活動にいそしんでいました。そのときの仲間は今も私にとって貴重な「財産」になっています。
チェ・ゲバラの演説が紹介されています。キューバに学ぶ医学生の前で話したことです。
戦争に備えるための仕事や、そのために投資される資本は、すべて無駄な仕事であり、捨て銭だ。戦争に備える者たちがいるばっかりに、ばかばかしいことに、我々もそうせざるを得ないのだが、私の誠心誠意と、兵士としての自負を込めて言うが、国立銀行の金庫から出ていくお金で一番わびしく思えるのは、破壊兵器を購入するために支払われるお金である。
なーるほど、そうなんです。まったく同感です。
いま、改めて南アメリカの各地でチェ・ゲバラが見直され、評価されているそうです。39歳で凶弾に倒れた前途有望な青年政治家をしのび、世界の平和のために、我々は今何をなすべきか考えるのも悪くないように思いますが、いかがでしょうか・・・。
(2004年9月刊。2200円+税)
戦争が遺したもの
社会
著者:内田雅敏・鈴木茂臣、出版社:れんが書房新社
前に『半世紀前からの贈物』(れんが書房新社)という本を紹介しました。1958年12月につくられた小学校2年生の文集『いつつぼし』を復刊したという本です。著者の一人は私より3歳年長の弁護士で、いま日弁連憲法委員会でよく顔をあわせます。この本は、前の本の反響を紹介する本でもあります。内田弁護士(さん)の出版意欲には、さすがの私もほとほと呆れるほどです。私も負けずにがんばります。
内田さんたちの恩師が元気なころに語った録音テープが反訳され、紹介されています。恩師79歳のときの話です。
ご主人を昭和20年6月9日の空襲によって亡くしておられます。1トン爆弾の直撃を受けたのです。その後、2人の子どもをかかえて小学校の教員となり、65歳まで勤めあげたのです。恩師は次のように語っています。
戦争で有望な大勢の若い人たちが無惨にも散ってしまい、本当に残念に思います。二度と戦争の悲惨さを味わってはならない。平和な世界をみなさんで築いていただきたいと願っています。
この願いに私たちはこたえなければいけません。
久子先生(恩師の先生です)は、とにかくお優しく、いつもニコニコしていらしたという思い出が紹介されています。
昔の先生は、今より心に余裕があったのでしょうか。今は上からのしめつけが私たちの想像する以上に厳しいようですね。学校の先生はもっと大切にされなければいけないと思います。子どもたちを立派に育てるという大切な仕事をしている教師を粗末に扱ったら、子どもに、そして、日本に未来はありませんよね。
内田先生、ありがとうございました。日本と世界の平和を守るために、これからもがんばりましょう。
(2008年5月刊。700円+税)
2008年7月10日
限界自治・夕張検証
社会
著者:読売新聞夕張支局、出版社:悟桐書院
夕張支局の女性記者が追った600日、というサブ・タイトルのついた本です。夕張市が破綻していく実情を現地からリポートしていますので、迫力があります。
ただ、国や企業の責任を追及しようとしていないのが気になりました。そこは、「右派」ヨミウリの弱点なのでしょうか・・・。
ゆうばり、という地名は、アイヌ語のユーパロ、つまり鉱泉の湧き出るところ、に由来する。夕張市は、南北に細長い。そうなんです。一度だけ行ったことがある私も、奇妙な町だと思いました。奥行きはあるけれど、ほとんど幅のない町なのです。
夕張市の65歳以上の高齢化率は42%。これは全国トップだ。夕張市は最盛期の1960年には人口11万7000人だった。市内に17の炭鉱があり、1万6000人の労働者が働いていた。最後の炭鉱となった三菱南大夕張炭鉱が閉山したのは1990年のこと。
夕張市が財政再建団体になったのは、福岡県の赤池町が1992年に指定を受けてから、2番目。赤池町の負債は32億円で、2000年度に再建を終了した。ところが、夕張市の負債はケタ違いの何百億円にのぼる。
ゆうばり映画祭が始まったのは1990年のこと。ふるさと創生資金1億円を活用した。それ以来、夕張は映画の町として知られるようになった。毎年の運営費は1億円。市が7割を補助した。中田元市長の観光政策のもので、1991年に観光客が1991年に230万人も来た。しかし、それがピークで、あとは減るばかり。
1979年度から2005年度にかけて、夕張市の財政破綻の要因となった観光事業に施設整備費だけで150億円近くが投じられた。そのうち、国の補助が22億円ほどあった。そうなんです。夕張市の財政破綻に国も手を貸していたのです。
夕張市は財政再建団体になるまで、財政のつじつまあわせをしてきていたから、市の広報誌で発表される決算は、ずっと黒字だった。市民はだまされ続けたのである。
夕張市の6400世帯の半分近くは公営住宅に住み、民間アパートは少ない。4000戸の公営住宅の1300戸が空き家だ。公営住宅の多い夕張市では、不動産屋は商売にならないので、市内には不動産屋がない。ひえーっ、これには、さすがの私も驚きました。町にコンビニがないというのと同じほどのショックです。もっとも近い隣の地区のコンビニまで来るまで15分かかるという地区もあります。うひゃー、ですね。
夕張市の再建のバロメーターが人件費削減の割合だった。それが、やる気を示すバロメーターとなった。目安となったのが島根県海士(あま)町の削減率28%だった。
夕張市は、12人の部長、11人の次長の全員が退職した。32人いる課長職も、3人しか残らなかった。管理職のほぼ全員がやめて、行政機能は維持できるのか?
夕張市と職員260人を126人と半減した。管理職57人を15人に減らした。夕張市長の給料は86万円から25万円と、全国最低になった。
市議会は18人の定数を9人とした。議員報酬は42%減の18万円となった。これまた全国最低だ。
1960年ころ、夕張市内にあった小学校は22校で、中学校は9校あり、3万人いた。現在は、わずか600人でしかない。
15歳未満の年少人口は7%。これまた全国の市のなかで最低。年間出生数は50人。市営住宅に入居すると4000世帯のうち、家賃を滞納する世帯が20%をこえる。3億3400万円もの滞納額となっている。
うひゃあ、夕張市の再建って、これでは本当に大変だなあ、とつくづく思いました。
(2008年3月刊。1600円+税)
2008年7月 9日
ハロー、僕は生きてるよ
アメリカ
著者:カーシム・トゥルキ、出版社:大月書店
イラク戦争が始まったのは、私が弁護士会の役員をしていたときですから、もう5年以上前のことになります。アメリカ軍がイラクに侵入する直前に弁護士会の役員としてベルリンに飛びました。9.11のあとでしたから、どんなテロがあるかも分からないと脅され、決死の覚悟でした。国際刑事裁判所を国際司法裁判所とは別に設立する必要がある。そのとき、弁護士は弁護人としての職責を果たすために何をするべきか、という国際会議でした。日本のなかにも東澤靖弁護士のように、ほとんど手弁当で国際司法(刑事)分野で活躍していることを知り、頭の下がる思いをしたことでした。
この本は、元イラク兵だった著者が高遠菜穂子さん(例の人質事件の1人であり、多くの心ない日本人からひどいバッシングを受けた人です)たちと連携しながら、イラクの平和のために非暴力主義でがんばっている様子を伝えるブログを活字にしたものです。
先日、アメリカ映画『告発のとき』を見ました。小さな小さな映画館でした。イラク戦争の戦場に駆り出されたアメリカの青年の心身がボロボロになっていることが見事に描かれていました。人を殺すことが何でもなくなったとき、それは仲間同士でも殺しあいがありうるという衝撃的な事件をふまえて、アメリカ軍を告発する映画です。これ以上は書けませんが、一見の価値はあると思いますので、ぜひ映画館へ足を運んでください。イラクでアメリカ軍がしている非道な行状も画面で少し紹介されます。やはり、戦争は狂気を生み出します。
この本は、そんな状況をイラク人の立場から描いています。毎日毎日、罪なき市民がアメリカ兵や、その下のイラク兵に殺されています。その仇をうつためにテロリストを志願する人を、どうして止められるでしょうか。
ぼくたちにとっての唯一の敵は、アメリカ軍戦車とアメリカの狙撃兵なんだ。みんな、どこが安全な通り道か分かっているし、危険を避ける術も身につけている。ところが、バグダッドでは安全なはずの場所で犯罪が多発している。犯罪者はやりたい放題。しかも、警察が犯罪者と収入を分かちあっている。
アメリカ軍は、ザルカウィのグループはアンバール州に潜伏していると言って掃討作戦をしている。そういうことにしておけば、アメリカ軍がいくらアンバール州の住民を殺したり、建物を破壊しても誰も気にしない。アメリカ軍がやっていることからイラク人の目をそらすいい方法だ。占領に抵抗するラマディの人々を殺しているなんて絶対に言えないから、言い訳が必要だ。だから、ザルカウィというテロリストがアンバール州にいることになっている。なーるほど、ですね。そういうことなんですね。日本の警察が暴力団とか反共右翼を泳がす理由と同じですね。ときどき世間の耳目を集めるような悪いことをやらせたりする理由もよく判ります。
このように、殺し、殺されが日常化しているもとで育つ子どもたちの心はどうなんでしょうか。未来は子どもたちのものです。そのとき、家族や友人が殺し、殺されて平然としていいなんてことを身につけたとしたら、日本はそれこそ、お先まっ暗でしょう。
日本のマスコミがアメリカ軍発表という「大本営」発表と同じことしかしない、つまり現地のイラク人民衆の立場からの情報発信をしていないとき、この本はイラクに住むイラクの人々の実感の一端をうかがい知る貴重な本だと思います。
日曜日、ようやく梅雨が明けましたので、庭に出て、少し手入れをしました。雨が降り続いたためか、ライラックやサザンカの木が枯れていました。グラジオラスが終わりかけています。ヒマワリはまだ咲きません。半畳分を掘り上げ、コンポストの枯れ草や生ごみを埋め、その上に日々草やカスミ草などを植えました。サボテンもたくさんの子をつくって親は死にかけていますので、整理してやらなければいけません。代替わりの季節です。何ごとにも、何物にも寿命があります。諸行無常の響きあり、です。蛇もチョロチョロしていますので、用心しながら庭仕事をしました。といっても、蛇は、我が家の守り神様です。
(2008年4月刊。1500円+税)
市民と司法の架け橋を目ざして
司法
著者:本林 徹(編)、出版社:日本評論社
日本司法支援センター(法テラス)のスタッフ弁護士は現在100人ほどが全国で活躍しています。2006年10月の第1期生は24人。そのうち13人が手記を載せています。それがすごいんです。若さ一杯でがんばっています。心から拍手を送ります。
埼玉の法テラスで活動している谷口太規弁護士は先日、福岡でも講演しましたが、聴いた福岡の弁護士は口々に感動した、実にいい仕事をしていると評価していました。
埼玉は東京のすぐ近く。弁護士も400人からいる。しかし、そこでも十分なリーガルアクセスは保障されていない。そこで、谷口弁護士は、ケースワーカーとともに、ホームレスの人たちの自立支援宿泊施設へ無料法律相談会に出かけた。すごいことです。むかし、私の学生のころ、セツルメント法律相談部が似たような活動をしていました。今は、それを税金をつかって弁護士がやっているのです。
ホームレスになった原因が借金をかかえていることにあった人の相談を受け、谷口弁護士が計算してみたら、なんと800万円もの過払いだったことが判明し、東北にいる妻子のいるところに戻ることができた、なんて話も紹介されています。
もう一つは、高齢者の問題です。父親の年金を精神的な病いをもつ娘がつかいこんでいたというケースです。いやはや、こんなときには弁護士ひとりではどうしようもありませんよね。みんな年齢(とし)をとっていくわけですけど、年寄りに冷たい社会ですね。
壱岐の浦崎寛泰弁護士も頑張っています。
ある寒い冬の土曜日の早朝、携帯電話で目が覚めた。土日、祝日にかかわらず、365日「当番」弁護士だ。呼ばれたら当番弁護士として出動せざるをえない。ひき逃げで捕まった若い女性。身に覚えはなく、すぐに釈放された。しかし、マスコミに報道されたら職を失う危険は強い。そこで、地元マスコミにFAXを送って、事情を話す。なんとか実名報道をくい止め、失職を免れることができた。
な、なーるほど、ですね。やっぱり離島にも身近な弁護士が必要だということがよく分かります。浦崎弁護士は1年半で450件の相談を受け、うち250件は多重債務にかかわるもの。壱岐では、多重債務と弁護士がイメージとして結びついていなかった。まあ、これは全国どこでも、ほとんど同じことなのでしょう・・・。
高知県須崎市にある法テラスで働く山口剛史弁護士の話もすごいのです。一家4人全員に知的障害が認められ、周囲からいいカモにされてきた。この状況をネットワークによって、なんとか救済できたといいます。
支援を必要とする人は、地域で孤立している。家族と公的機関のほかには支援者がいないというのが残念ながら地方の実情である。山口弁護士は、このように指摘しています。うむむ、たしかにそうなのです。
人口6万人の佐渡島に弁護士が1人しかいなかった。2人目の弁護士となったスタッフ弁護士は富田さとこ弁護士。開設して1年たって、相談を受けるのは3週間待ちの状態。だから仕事の優先順位をつけざるをえない。第一に借金、第二に高齢者。いやあ、これって、よく分かります。ホント、そうなんですよね。たしかにこの順番でしょうね。
鹿児島の鹿屋にできた法テラスの藤井靖志弁護士は1年間に811件の相談を受け、 334件を受任した。今も月に40件の相談、15件を受任している。すごーい。すごいです。よくまわりますね。身体をこわさないようにしてくださいね。
鳥取県の倉吉市の5人目の弁護士となった一藤剛志弁護士も似たような状況です。1年間に受けた相談が350件。債務整理が6割、離婚・相続などの家事が2割。受任したのは150件。シングルマザーにからむ事件が多いという特徴がある。
一藤弁護士は自己破産事件で私と同じやり方をしているようです。つまり、自己破産の申立自体は可能でも、その後の収入を確保できる見通しが立たないうちは、申立てを先延ばしにして依頼者の生活状況を見守ったほうがよい場合がある。そうなんです。自己破産申立は早ければいいというのは幻想でしかありません。私は、以前から、それを「一丁あがり方式」と呼んで揶揄してきました。
旭川の神山昌子弁護士は暴力団が背後にいる事件の処理の難しさを強調しています。そうなんです。これは実に難しいのです。一体、なんのために何をやったのか、あとで苦い思いをすることもしばしばです。それにしても、旭山動物園で有名な旭川に暴力団が根づいているというのは意外でした。旭川って何か利権があるのでしょうか・・・?
京都の藤浦龍治弁護士の取り組みには頭が下がりました。刑務所まで出かけて、出張法律相談をし、受任して成果をあげているというのです。
また、埼玉の村木一郎弁護士が国選刑事専門弁護士としてがんばっている状況も紹介されています。なんと、毎月10件というペースで国選弁護事件を引き受けて担当しているというのです。信じられません。
茨城県下妻市の萩原慎二弁護士も常時10件ほどの国選弁護事件を抱えているが、そのうち4件は外国人が被告人だということです。その苦労たるや、莫大なものがあると思います。
こうやって法テラスのスタッフ弁護士の奮闘記を読むと、法テラスが法務省のまわし者だなどと非難する人に、ぜひ実情を知ってほしいとつくづく思ったことでした。
とてもいい本です。弁護士の原点を教えてくれました。ありがとうございます。
(2008年6月刊。1500円+税)
2008年7月 4日
ティーガー戦車・戦場写真集
ドイツ
著者:広田厚司、出版社:光人社
第二次世界大戦中、ドイツのティーガー戦車と呼ばれる重戦車は連合軍を次々に撃破し、鋼鉄の虎と呼ばれ、恐れられました。その実像に迫った写真集です。
いやあ、ともかくでかいです。これぞまさしく重戦車と呼ぶのにぴったりです。
1949年7月のクルスク大会戦は史上最大の戦車戦(チタデル戦)でした。ソ連赤軍とドイツ国防軍の双方で1000両以上の装甲戦闘車両が10数キロの幅で激突したのです。このとき、ティーガー戦車は115両も参加しました。400両もの赤軍戦車を撃破したとされています。
ティーガー戦車は1943年から45年にかけて1800両ほど生産された。
ティーガー戦車の時速は実際には20〜25キロ。
ティーガー戦車は1943年夏には履帯の故障が続出した。
昼間は時速10キロで走り、最初の5キロ地点に第1の修理所があり、次いで10〜 15キロごとに修理班が待機し、メンテナンスを行いつつ集結地に向かった。
大戦後半のティーガー戦車の稼働率は68〜70%だった。パンター戦車(62%)よりは良かった。40〜45両のティーガー戦車を運用するのに、実に1000人ほどの大隊要員を必要とした。
ティーガー戦車は、赤軍のT34戦車を距離1400〜1500メートルで撃破するのを最適距離とした。重量56トン。全長8.45メートル、前面装甲は100ミリ厚。そして強力な8.8センチ戦車砲を装備していた。ただし、非常に高価で、多くの製造工程を必要としたので、大量生産が難しかった。
訓練不足の要員と悪い保守管理が重なると、長所を生かすことができなかった。とくに履帯の交換方式は実用的でなく、燃費も1.6キロ走行あたり12.5リットルを必要とし、航続距離は140〜150キロと短かった。砲手と車長が操作する油圧と主導のいずれも砲塔回転速度が遅く、戦闘時、目標を捕捉するのに影響を与えた。
エンジンの短命さと変速機の信頼性も不足していた。
生産テンポが遅かったため、当初考えられていた戦車師団に重戦車大隊を配備する計画を実行することはできなかった。広大な戦線にばらまかれたティーガー戦車は少ないままだった。
1944年12月から始まったドイツの最後の反撃戦(バルジの戦い)に、ティーガー戦車123両が参加した。作戦稼動数は64%の79両だった。しかし、決定的な燃料の枯渇により、多くの戦車が放棄され、アルデンヌ攻勢はついに失敗した。
赤軍の重戦車であるスターリン戦車は、近距離ではティーガー戦車との交戦を避けようとしたが、距離2000メートル以上だと砲力優勢により積極的となった。
ティーガー戦車は、遠距離砲撃では、スターリン戦車の前面装甲を貫通できなかった。
史上最強という伝説のあるティーガー戦車なるものの実体を、写真とともに知ることができました。
(2008年4月刊。1900円+税)
裁判員制度が始まる
司法
著者:土屋美明、出版社:花伝社
もともと社会の病理を映し出すのが犯罪なのだから、新しい制度に変わったからといって、刑事裁判が、突然、夢のようなバラ色になるはずもない。日本国憲法との整合性に疑問をなげかける違憲論、刑事手続の重大な欠陥を指摘する反対論が根強く聞かれるのも、ある意味では当然だ。制度の行く末には、大きな期待とともに、懸念も抱かざるをえない。
法学部出身で共同通信の論説委員をつとめる著者の指摘は、なるほどと思います。
今なぜ、一般国民を引っぱり出す面倒な新しい司法制度を始めることになったのか。それは日本国憲法に主権が国民に存すると明記し、立法・行政・司法という国家の三つの権力のうち、司法だけには主権者であるはずの国民の本格的な参加がなかった。司法が国民参加と縁遠くて、果たして国民主権の国家と言えるだろうか。主権者であるはずの国民が、実は、ほとんど主権者らしくふるまえない状況がこれからも続いていって良いのか。日本の社会に、自分の住む社会のあり方を他人まかせにすることなく、自らすすんで公共の利益のために奉仕する精神がもっと育ってほしいものだ。
刑事裁判への国民参加は、世界80ヶ国で行われている。日本の裁判はイタリアの重罪院と同じ構成。つまり、裁判官3人と裁判員(市民)6人。フランスの重罪院は裁判官3人に参審員9人だ。そうなんです。市民の司法参加は欧米ではあたりまえのことなんです。 裁判員裁判の対象事件は、強盗致傷(1110件)、殺人、放火、強姦致死傷、危険運転致死などで全体の3%、3629件になる(現在におきかえると)。
市民が裁判員にあたる割合は、毎年2800人に1人程度。
戦前の日本でも欧米のような陪審裁判があっていた。1923年に成立した陪審法によって、1928年から1943年に停止されるまで、全国で484件、年平均30件の陪審裁判があっていた。このように刑事司法への国民参加は、既に日本でも戦前の陪審裁判の経験がある。昭和の人々にできたことが、今の日本人にできないわけがない。日本人は、思慮深く、遠慮がちだが、まじめで優しい国民性だ。裁判員制度もきっとうまくいくはずである。
市民が裁判員に選ばれると、その法的地位は公務員になるので、職務に関して金品を受けとると、収賄罪が成立する。
日本では控訴審には裁判員が関与することはない。フランスでは重罪院の判決に対する控訴審については、別の重罪院が参審員を9人から3人ふやして12人とする。
著者は裁判員裁判に反対する意見について、次のように批判しています。
裁判員裁判を延期あるいは廃止して残るものは何か。それは、これまで多くの法曹関係者と市民が批判してきた従来の刑事裁判そのものではないか。議論の出発点として、これまでの刑事司法があまりに技巧的で精緻にすぎ、どこの国でも、こんな裁判はしていないという事実があった。
私は著者の真面目な人柄と豊かな見識を高く評価しています。なるほど、と思わせる指摘です。少しダブリがあったり、市民向けの本だとしたら不要ではないかと思われる記述もありました。それでも、全体としては裁判員裁判をとても分かりやすく解説した本です。
(2008年6月刊。2000円+税)
負け組の戦国史
日本史(戦国)
著者:鈴木眞哉、出版社:平凡社新書
戦国時代がいつ始まり、いつ終わったとみるべきか。
著者は、応仁の乱の始まった1467年から、大坂落城の元和(げんな)元年(1615年)までとみるべきだと主張します。江戸時代から、元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれていたのは理由のあることで、戦国時代は150年以上も続いた。
応仁の乱は、日本全体の身代の入れ替わりであり、その以前にあった多くの家がことごとく潰れて、それ以後、今日まで継続している家は、ことごとく新しく起こった家だ。このような説があるそうです。なーるほど、ですね。
著者は、今川義元の死について、天下に手をかけようとして敗死したのではなく、つまり上洛の途上で死んだのではなく、単に隣国との国境紛争の過程で起きたことに過ぎないと主張します。織田信長が謀略で殺されたという説も著者は否定しています。足利義昭黒幕説というものもあるそうですが、それは完全な誤りだと強調しています。
足利義昭は、豊臣秀吉の天下統一が確実になったころ、ようやくあきらめ、秀吉の傘下に入って出家し、1万石の捨て扶持を受けることになった。もっとも、その前、秀吉が征夷大将軍になりたくて猶子(義子)にして欲しいと頼んできたときには、さすがに拒否した。その程度の誇りは残っていた。
義昭と秀吉は同年齢だが、義昭のほうが1年早く病死した。
織田信長には、分かっているだけでも11人の息子がいた。長男・信忠は信長と同じ日に二条御所で明智勢と戦って死んだ。次男信雄(のぶかつ)と三男信孝が成人していた。三男の信孝は柴田勝家と結んで抵抗し、敗れた翌年、再び挙兵したが、自殺に追いこまれた。信雄の方は、秀吉が小田原攻めで天下統一をなしたあと、突然、追放されてしまった。
信長のあとの子どもたちは、豊臣家に仕えたが、病死したり、関ヶ原で戦死したりした。
結局、信長の息子の血統としては、信雄の子孫が徳川大名として幕末まで続き、最終的には出羽天童2万石の身代だった。ほかに、七男信高、九男信貞の系統が江戸幕府の旗本として残った。
秀吉は信忠の遺児である3歳の幼児(後の秀信)を家督に押し通し、信孝を後見役とした。そうなると、兄の信雄がおさまらない。無能な人間であったが、野心だけは人並み以上にもちあわせていた。なんとか信孝に対抗したい信雄と、本音では信孝よりも丸めこみやすい信雄と組みたい秀吉の利害が一致して、二人は提携した。秀吉はなにごとも信雄を表面に押し立てて、自分の野心の隠れみのにしていた。
戦闘では、たしかに信雄・家康側が勝利した場面もあったが、戦争としては秀吉側が完全に押していた。信雄・家康側は、次第に追い詰められていった。
秀吉は徹底して西に目を向けていた。当時、海外との通商拠点の多くは九州にあった。したがって、九州全土を支配する者は大変な力をもつことになる。信長は、それを阻止するとともに、自らが巨大な利権を手中にするつもりだった。
信雄については、健在なうちから、阿呆かと罵られている。彼に対する周囲の評価は、そういうものだった。
この戦国時代の一般の武士には、二君に仕えずという観念は、そもそもない。
著者の本は、いくつも読みましたが、そのたびに、目を開かされる思いでした。ところが、今でも、武田軍団(騎馬隊)は織田・徳川軍からも千挺の鉄砲を3段撃ちするなかを無理矢理に突撃して全滅したという「通説」がまかり通っています。恐るべきは「思いこみ」ですよね。
歴史を見る目が変わる貴重な一冊です。
(2007年9月刊。760円+税)
2008年7月 3日
子どもの貧困
社会
著者:浅井春夫ほか、出版社:明石書店
日本政府は1965年(昭和40年)に公的な貧困の測定を打ち切った。私が大学に入ったのは1967年でした。そのころは、まだ絶対的貧困と相対的貧困との異同が多少は問題となっていました。でも、それは、はっきり言ってかなりマニアックなテーマでしかありませんでした。
現代の日本では、貧困というと、「飢え死にするかどうか」という基準でしか見ない、つまりホームレスとして路上生活をしている人々は貧困とは考えない人々が多い。私は、駅や公園に生活している人々こそ、現代の貧困を体現している人と思います。でも、今日の日本人の多くは、そうは思っていません。実に不思議です。
相対的貧困とは、その社会の構成員として、あたりまえの生活を営むのに必要な水準を欠くということである。人とのつながりを保てる。職業や活動に参加できる、みじめな思いをすることのない、自らの可能性を大きく奪われることのない、子どもを安心して育てることのできる生活、つまり、ぜいたくではないが望ましい生活を営むには、一定の物的。制度的な基盤が必要なのである。
貧困のもたらすものは、可能性の制限である。子どもの貧困の本質は、それによる発達権の侵害である。家族の経済的「ゆとりのなさ」は、子どもの活動と経験を制限する方向に作用し、同時に、親の社会的な孤立を招いている。
子どもには、「負の経験」を回復するためにも、支えられる環境での「失敗する自由」が必要である。社会的な自立の困難は、それが奪われているところにある。
「失敗する自由」とは、さまざまな可能性を試みること、自己の選択と決定を尊重できること、試行錯誤のなかで育つ時間を準備できること、それらの試みを支える人と制度が存在すること、などが含まれている。
いやあ、この私的には目がさめる思いでした。子ども時代に、たくさんの失敗をして、それが許されるって、すごく大切なことなのですね。子どもの失敗をあたたかく大人が見守るという雰囲気が今の日本では薄れている気がしてなりません。ギスギスしてますよね、なんだか。
貧困が問題なのは、単に欲しいものが買えないというのではなく、人生の機会と可能性を狭め、活動への参加を制限し、人を社会的に孤立させるからである。将来への見通しを奪い、誇りをもった人生を奪う。
貧困は、個々の人生としあわせを壊す。そして、貧困が壊すものは個人の人生だけではない。貧困は、家族形成と子育ての困難を招き、少子化の要因となる。また、貧困は、人の可能性を制限する。子育て家族の貧困は、子どもの育ちの不利を招き、結果として貧困が世代をこえる固定的なものになる。世代にまたがる可能性の制限は社会を分断し、社会をすさませる。社会的公正を欠いた社会は、もろい。貧困は個人の自由と尊厳を奪うだけではなく、長期的にみれば社会の持続性も損ねる。
児童虐待は、1990年に比べると、34倍の3万7000件である。これは2000年に比べても2倍だ。
日本は、欧米に比べて大学の授業料が高い。日本で大学生活を送るためには、年に 200万円かかる。このうち170万円を学生本人が負担する。スウェーデンでは、学生の本人負担は6万円でしかない。
日本は授業料が高いのに、奨学金は安い。日本の自公内閣は、「子どもの貧困」を減少、緩和するものではなく、むしろ増加させるものとなっている。
大学の入学金・授業料についてみると、フランスやドイツは、ほぼ無償となっている。アメリカでも年に47万円ほど。
奨学金が貸与だけだというのは日本のみ。EUでは無償ないし給付制をとっている。
いま、東大をはじめ、いくつかの大学で低収入世帯の授業料を免除する動きが出ているようですが、大学に入るのときの入学金も授業料もタダにする、そして学生の生活費も親に頼らなくてもいいくらいに大幅な補助をするべきだと思います。日本人の知的レベルを上げたら、日本の産業も発展していくわけですから、税金の有効なつかいかただと私は思います。いかがでしょうか。
子どもを大切にする国にするためには、思い切った財政の転換が必要です。道路や新幹線という大きな目に見えるものではなく、地道な人材育成にこそ税金はつかわれるべきだと、つくづく思ったことでした。
論文集ですので、決して読みやすい本ではありませんが、この本に指摘されていることはすごく大切なことだと思います。多くの人に一読をおすすめします。
(2008年4月刊。2300円+税)
2008年7月 2日
君の星は輝いているか
アメリカ
著者:伊藤千尋、出版社:シネ・フロント社
星よ、おまえは知っているね。
これは、福岡県の生んだ偉大な作曲家・荒木栄のつくった歌です。私も、これをタイトルとする本を書きました(花伝社)が、残念なことにさっぱり売れませんでした。私が大学生時代に没頭した学生セツルメント活動の楽しく切ない思い出を書きつづった本です。まだ売っています。良かったら、買って読んでみてください。
この本は、もっとストレートに君の星は輝いているか、と問いかけます。思わず、ドキリとさせられます。著者は私とほとんど同世代の朝日新聞記者です。でも、海外滞在がすごく長いので、九州の片隅でうごめいている私なんかとは比べものにならないほどの、まさに文字どおりの国際派ジャーナリストです。その記者が見た映画について、それこそ縦横無尽に語り尽くされています。私も、ここで紹介される映画の多くはみていましたが、ここまで背景を掘り下げされると、とてもかなわないと頭を垂れるばかりです。
この本で取りあげられ、私がみた(と思う)映画のタイトルをまず紹介します。
『華氏911』『チョムスキー9.11』『フリーダ』『JSA』『二重スパイ』『ボウリング・フォー・コロンバイン』『蝶の舌』『レセ・パセ』『戦場のピアニスト』『この素晴らしき世界』
9.11テロ事件のあとにアメリカで起きた現象は興味深いものです。たとえば、サンフランシスコの金門橋(ゴールデンゲイト・ブリッジ)が爆破されるという噂が広がり、完全武装した州兵が出動した。街中がアメリカ国旗の洪水となったので、交差点に立って数えてみた。すると、1割でしかないのに10割という錯覚に陥っていたことが分かった。
刑務所では、囚人に食べさせる食事代がなくなったので、刑期の軽い囚人を大量に釈放した。いやあ、すごいことですね、これって・・・。
アメリカのチョムスキー教授は次のように指摘する。
アメリカは、自分が被害を受けると悲しむが、自分は他人にどんな迷惑をかけてもいいと思っている。同じように、アメリカはイスラエルかレバノンで2万人を殺しても何にも言わないが、イスラエルがちょっとでも被害を受けると、残虐だと言ってパレスチナを非難する。
ブッシュ政権がなぜ「悪の枢軸」という言葉をつかうのか。それは、国民を服従させるのに一番いいのは、恐怖を利用することだからだ。
そして、エジプトの監督は次のように言う。
アメリカは他の文明を破壊している。代償を払うのは、いつも他の国民だ。アメリカ以外の国の人々なら死んでもかまわないのか。そうなんですよね。この地球上で大切にされるべきなのはアメリカ人だけなんていうことは絶対にありませんよね。
ブラジルのカーニバルが、実は日本でいうデモ隊のようなものだということを初めて知りました。一つのサンバチームだけで2千人から4千人いるが、カーニバルは単なる乱痴気騒ぎではない。それぞれのチームが、その年のテーマを決めて、テーマに沿って衣裳も曲もつくる。たとえば、テーマは「民主化の喜び」「黒人奴隷解放」「報道に自由を」「対外債務の重圧」などの硬派のテーマも目立つ。単に、お遊びだけで踊っているのではない。カーニバルは、それ自体がデモ行進なのだ。政治的、社会的な主張を踊りという形で訴えるのだ。「報道に自由を」のチームは、ペンの格好をした帽子をかぶるなど、それなりの工夫をしていた。
観客席には5万人がいる。その人々も、ただ黙って見ているのではない。観客もリズムにあわせて踊りながら見る。同じリズムで踊るから、コンクリートの観客席がユサユサ揺れる。踊りの幕開けは土曜の夜8時で、翌日曜日の昼前まで延々と続く。
うひゃあ、す、すごーいエネルギー、ですね。かないません。単に裸体を売りものにしたエロチックな祭りかと思っていました。まったく違っているようです。そういえば、ブラジルのルラ大統領も反米左派政権の一角を占めていますね。いつまでたってもアメリカのいいなりになっている日本人も、そろそろ目を覚ますべきときだと思います。アメリカ本国で「黒人」大統領が誕生しそうなほどの地殻変動が起きているのですからね・・・。
久しぶりに雨の降らない日曜日になりましたので、庭に出て手入れしました。雑草が伸び放題でしたので、徒長枝も切ったりスッキリさせて見通しよくしました。今、黄色い花が庭に目立ちます。ヘメロカリス、カンナそしてフェンスのノウゼンカズラです。グラジオラスの花が何本も倒れていましたので、切り花にして玄関を飾りました。ピンクや赤そして白色の花で一気に華やかな雰囲気の玄関となりました。
(2005年11月刊。1600円+税)
2008年7月 1日
光州の五月
朝鮮(韓国)
著者:宋 基淑、出版社:藤原書店
映画『光州5.18』が上映中です。先に紹介しましたように、私は東京で見てきたのですが、韓国で大ヒットしたこの映画が日本では観客が少ないということです。残念です。いい映画ですので、決して楽しい映画ではありませんが、ぜひ映画館まで足を運んでみてください。それだけの価値は十分にあります。
本のオビには、こう書かれています。
「あの光州事件は、まだ終わっていない。1980年5月に起きた現代韓国の惨劇、光州民主化抗争(光州事件)。凄惨な現場を身を以て体験し、抗争後、数百名にのぼる証言の収集・整理作業に従事した韓国の大作家が、事件の意味を渾身の刀で描いた長編小説」
まさしく、そのとおりです。光州事件は、まったく終わってなんかいません。私は日本にいて、日々、手に汗を握る思いで、軍隊に向かって立ち上がった勇敢な市民や学生に声援(だけですが)を送っていました。
この本は現代韓国の日々に生きながら、1980年5月の光州事件をフラッシュバック形式でふり返るという体裁をとっています。それだけ、現代韓国人にとっても光州事件は思い意味があるのです。
M16を担いでいた者は光州市民軍の中でも特殊な存在だった。それを手にする方法は戒厳軍(攻守団)から奪う以外なかった。一般市民は、予備軍や警察の武器庫を襲撃して武装したから、銃はすべてM1かカービン銃だった。M16は、当時、現役軍人だけに支給されたもの。光州市民軍に6000丁に及ぶ銃が出まわっていたが、M16は少なかった。
攻守団は、路地に逃げた者をとことん追いかけ、家の中まで、しらみつぶしに探した。一帯の商店はほとんど閉めていたので、喫茶店や旅館、民家をあさり、人を見つけ次第、こん棒でたたき、銃剣の先で突き刺した。はじめは光州出身の軍人が配置されたが、彼らは市民に対して銃を向けることを拒んだ。そこで、韓国でもっとも暴力的な空挺部隊の全斗煥司令官が、自分の部隊を投入した。全斗煥は、1ヶ月間、厳しい訓練を課した。共産主義者を殺せ、アカを殺せ、と来る日も来る日も洗脳した。この兵士たちはもはや人間ではなく、ロボット、いや虐殺ロボットだった。
「市民のみなさん、後退は止めましょう。一歩たりとも退いてはダメです。私たちの兄弟や息子が何の罪もないのに無惨に殺されました。光州市民のみなさん、私たち市民の偉大な力を見せましょう。私たちも、この場で、死をともにしましょう。あの殺人鬼どもを、私たちの手で追い出しましょう」
すみわたる女性の声が市内に鳴り響いた。聞く者の身体を奮いたたせた。アパートの窓から目だけ向けていた傍観派市民も、布団の中に潜って縮こまっている人々も、この声を聞いたら、飛びださずにはおれなかった。
朝9時、MBC放送局が燃やされた。根拠のない戒厳令発布だけを繰り返し放送したからだ。昼には税務署にも火が放たれた。国民の税金で食っている軍人に、国民をここまで虐殺させるのかという叫びとともに火がつけられた。
デモ隊の市民に向かって銃口が向けられた。それでも、はじめは、銃口は空中に向いていた。
我々は大韓民国の国民だ。お前らは、どこの国の軍隊なのか?
そのような疑問の叫びが軍隊に向かって発せられたが、銃口の前に若者たちは倒れていった。
光州市民の中に、抗戦派と退去派が生まれた。やがて、抗戦派が退去派を追い出して決着した。
市民軍の総数は600人。道庁に250人。光州公園に100人。ハク洞に200人など。機動打撃隊は志願者30人にしぼられた。道庁にいた指導部は戒厳軍に全員虐殺された。そして、捕まった者は、焼き鳥、水攻め、爪に錐刺しなど、ありとあらゆる拷問で夜が明け、日が暮れた。拷問時の唯一の望みは、このまま息絶えることだった。
攻守団にいた軍幹部は、次のように言って開き直った。
光州事態は、証拠をあげられなかっただけで、北韓のスパイと政府にたてつく不順分子の衝突が原因で起こった事件だとはっきりしている。
すさまじい映画でしたが、真実はさらにすごい惨劇だったようです。何の罪もない市民を全斗煥の軍隊が10日間にわたって何千人も虐殺したのです。目をそむけるわけにはいきません。日本人だって同じです。
(2008年5月刊。3600円+税)