弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年6月 5日

ポル・ポト

東南アジア

著者:フィリップ・ショート、出版社:白水社
 不気味な響きのする人名です。あの忌まわしいカンボジア大虐殺を起こした張本人です。
 ポル・ポトは、いろんな名前を持っていました。サロト・サルは本名です。「サルの有名な微笑み」という言葉があります。この本の表紙にもなっていますが、会った人を自然に信用させるにこやかな笑顔です。これで多くの人が結果的に騙されたわけです。
 フランスから戻ってきたサロト・サルは私立学校(高校なのか大学なのか分かりません)で歴史とフランス文学を教えていました。生徒たちは親しみやすい、この教師(サロト・サル)のとりこになったというのです。
 人口700万人のうち150万人がサロト・サルの発想を実現しようとして犠牲になった。処刑されたのはごく少数で、大半は病死、過労死または餓死だった。自国民のこれほどの割合を、自らの指導者による単一の政治的理由による虐殺で失った国は他にない。お金、法廷、新聞、郵便、外国との通信、そして都市という概念さえ、あっさり廃止されてしまった。個人の人権は、集団のために制限されるどころか、全廃されてしまった。個人の創造性、発意、オリジナリティは、それ自体が糾弾された。個人意識は系統的に破壊された。
 サロト・サルは、フランスにいて、最後までフランス語を完全には身につけられなかった。サロト・サルがパリに到着した1949年10月1日は、毛沢東が北京の天安門に立ち、中華人民共和国の設立を宣言した日でもあった。
 サロト・サルは、フランス共産党に加入した。そこでは、元大工見習いで、学歴の低いことが、むしろ評価の対象となった。
 1953年1月に、サロト・サルは帰国した。サロト・サルたちは、みな共産党員のつもりだったが、どの共産党かは分からなかった。インドシナ共産党はベトナム人が支配していた。クメール人民革命党にかわるカンボジア共産党の再結成をめざした。そこで、自称として党ではなく革命組織(アンカ・パデット)と叫んだり、ただアンカ(オンカーとも訳されます)と叫んだりしていた。
 クメール語で「統治」とは、「王国を食いつぶす」という訳になる。シアヌークは、大臣、役人、廷臣、昔なじみ、彼らの汚職をやめさせることも、まして解雇することもできなかった。
 マルクス主義の書物をクメール語に翻訳するという真剣な取り組みがなかったのも、クメール文化が口承に重きを置いていたため。
 シアヌークが失脚してからの2年間、地方におけるクメール・ルージュの政策が人目をひいたのは、主として、その穏健さのため。
 革命への反対は死を意味していた。革命に反対を示した人は、地域の司令部に召喚されたきり、帰ってこないことがほとんどだった。
 革命からそれた人間は、みな害虫だから、それにふさわしい扱いをすれば足りる。これは中世キリスト教の教義に通じるものがあった。
 カンボジア人は、もともと極端なことに魅力を感じる。フランス革命を途中でやめるべきではなかったというクロポトキンの言葉は、パリで学生生活を送っていたポル・ポトに強い影響を与えた。毛沢東さえもクメール・ルージュの水準にまでは至らず、賃金と知識と家庭生活の必要性を認めていた。カンボジアの共産主義者たちは、だれも到達したことのない領域へ進もうとしていた。
 あの人もゼロ、あなたもゼロ。それが共産主義だ。キュー・サムファンは述べていた。財産が有害であるという思想は仏教の天地創造神話に由来している。
 うひゃあ、そんなー・・・。これって、人間の幸福って何かということをまったく考えていない思想ですよね。信じられません。
 1975年の時点で、カンプチア共産党の存在はまだ秘密にされていた。謎に包まれた「アンカ」が、実は共産主義組織かもしれないと公式に匂わされるまでには、さらに1年を要した。国内の党員数は1万人以下だった。
 生かしておいても利益にならない。殺したところで損にならない。
 むひょう、こんな言葉がポル・ポト時代のカンボジアで通用していたのですか・・・。
 人は耕した土の面積で、その価値が測られた。人々は見習うべき雄牛と同じく、エサと水を与えられ、飼われて働かされる消耗品だった。
 人々は、「わたし」ではなく、「わたしたち」と言わなくてはならなかった。子どもは親をおじとおばと呼び、それ以外の大人を父か母と呼んだ。すべての人間関係が集団化された。個体を区別する言葉は抑圧の対象となった。
 1976年以降、ポル・ポト1人が決断を下していた。集団指導体制ではなかった。ポル・ポトは一挙両得をねらっていた。疑いのある分子をすべて抹消した。不純物のない純粋で完璧な党を手に入れると同時に、来るべきベトナムとの闘いに備えて全人口を団結させたいと考えていた。
 1979年1月に民主カンプチアを崩壊させたのはポル・ポトが秘密主義にこだわったから。どうしてもカンボジア国民に事態を告げることができなかった。
 ポル・ポトは、9月からベトナムの侵攻が時間の問題だと知っていた。しかし、非常事態計画を策定しなかった。不信が慣行となったポル・ポト政権が人民を、軍隊でさえ、信用することはありえなかった。ポル・ポトの中枢以外は、誰も十分な情報を与えられなかった。
 日曜の朝までにポル・ポトら民主カンプチアの統治者たちはひそかに首都プノンペンを去り、放棄した。4万人の労働者と兵士たち、そして周辺に駐留していた軍の部隊は指導者もなしに取り残され見捨てられた。メンバーを失っても、指導部を維持すれば、引き続き勝利をおさめることができる。一般人は使い捨てにできるという定理はクメール・ルージュの慣行だった。
 1979年1月の時点では、圧倒的多数のカンボジア人にとって、ベトナム人は救済者に見えた。代々の敵であろうとなかろうと、クメール・ルージュの支配があまりにもひどかったために、それ以外なら何でもましだった。しかし、人々の感謝は長続きしないものだった。数ヶ月のうちに、ベトナム人は感謝されない存在になってしまった。
 ポル・ポトが死んだのは1998年。心不全のために就寝中に死んだ。現在のカンボジア政府の最高権力者のフン・センとチェア・シムは、いずれも元クメール・ルージュだ。
 まったく無慈悲で冷酷で人間的な感情をもちあわせていないと評される人物である。
 ポル・ポトはカンボジアの招いた究極の設計者だ。しかし、単独行動したわけではない。カンボジアの最高にしてもっとも聡明な知的エリートの多くが、ポル・ポトの示した抗争を受け入れたのだ。
 読んでいるうちに大変気分が重たくなる本です。700頁もの大部な厚さがあります。
(2008年1月刊。6800円+税)

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