弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2008年5月13日
無実
アメリカ
著者:ジョン・グリシャム、出版社:ゴマ文庫
上下2冊の文庫本です。いやあ、こんなことって、本当にあったのかと憤りを覚えながら重たい気分で読みすすめました。冬、寒いので厚着をしているところに、首筋から氷のカケラを投げ入れられた。そんなゾクゾクする、いやな思いをさせられてしまいます。でも、アメリカ・オクラホマで実際に起きた冤罪事件だというのですから、途中でやめるわけにはいきません。最後まで辛抱して読み通しました。いえ、面白くないというのではありません。面白いのですが、ノンフィクションだというので、どうしても、この世にこんなことがあっていいはずはないという思いが先に立ってしまい、頁をめくって次の展開を知りたい衝動にかられる反面、ああ、いやだいやだ、人間って、こんなにも無責任かつ鉄面皮になれるものかという底知れぬ不信感を抱いてしまうのでした。このときの人間というのは、無実の人間を寄ってたかって有罪(しかも、死刑執行寸前にまでなりました)に仕立てあげた警察官、検察官そして裁判官です。おっと、無能な弁護人も、それを助けたのでした。
これはオクラホマだけの問題ではない。その正反対だ。不当な有罪判決は、この国のあらゆる国で、毎月のようにくだされている。原因はさまざまでありながら、常に同じでもある。警察の杜撰な捜査、エセ科学、目撃証人が誤って別人を犯人だと断定すること、無能な弁護人、怠惰な裁判官、そして傲慢な警察官。大都市では科学捜査の専門家の仕事量が膨大になり、結果として、プロらしからぬ仕事の手順や方法をとってしまう。
アメリカの中南部のオクラホマ州にある人口1万6千人の町エイダで、1982年12月の夜、21歳の独身女性(白人)が殺害された。警察から犯人と目されたのは白人青年のロン。ロンは、社交性に欠け、社交の場では強い不安を感じる。怒りや敵意から攻撃的になる可能性がある。周囲の世界を危険きわまる恐ろしい場所と考え、敵対的な姿勢をとるか、内面に引きこもることで自分を防御する。ロンはかなり未成熟で、物事に無頓着な人間の典型だった。
小さなエイダの町では、数十年のあいだ、私刑(リンチ)を誇りとする伝統があった。いやあ、まるで、西部劇の世界ですね。裁判によらずに、町の人々が「犯人」を吊し首にするわけです。
「犯人」を逮捕したら、拘置所では密告競争が始まる。警察も大いに奨励する。重要事件の被疑者が犯行の一部始終なり一部なりを告白する言葉を耳にいれるか、あるいは耳にしたと主張し、それを材料として検察と旨味のある司法取引をするのが、自由への、あるいは刑期短縮への最短の近道だった。
ただ、普通の拘置所では、密告者がほかの囚人からの仕返しを恐れるので、それほど多くはない。しかし、エイダでは、この作戦の成功の多さから、さかんに密告があっていた。
場当たり的な貧困者弁護制度は問題だらけだった。あまりにも手当が少額のため、大半の弁護士は、そういう避けたがった。そこで裁判は、刑事裁判の経験が浅かったり皆無の弁護士を任命することがあった。そんなとき、弁護人は専門家を証人に呼ぶことや、お金のかかることは何もできなかった。
死刑の可能性のある殺人事件となれば、小さな街の弁護士たちの逃げ足は一段と速まった。多くの時間が費やされるという負担が重くのしかかり、小さな法律事務所なら実質的にほかの仕事はできなくなる。それだけの労力に対して、報酬はあまりにも少ない。そのうえ、死刑事件では上訴手続がだらだらと永遠に続く。
ロンが拘置所に勾留されていたとき、看守はソラジンの量を微調整した。ロンが独房にいて、看守がゆっくりしたいときには、薬を大量に投与した。これでみんな大満足だった。出廷予定のときは薬の量が減らされ、ロンがより大きな声を出し、より荒々しく好戦的になるよう仕組まれた。
ロンについた弁護人はベテランではあった盲目のうえ、一人だけだった。しかも、その盲目の弁護人は、ロンを怖がっていた。弁護人は、この裁判に大きな時間をとられ、ほかの、きちんとした弁護料を支払ってくれる依頼人にまわせる時間が削られていった。その弁護人は、被告人から突然おそわれないように、屈強な若者となっていた息子を机の横に待機させたほど。
毛髪分析では同一という言葉はありえないのに、「同一」という言葉が鑑定でつかわれた。毛髪鑑定はあまりあてにならないようです。
オクラホマの死刑執行は、致死薬注入による。まず、静脈を拡張させるために食塩水を注入し、最初はチオペンタルナトリウムを注入する。これで死刑囚は意識を失う。もう一度、食塩水を注入したあと、二つ目の薬品である臭化ベクロニウムを続いて注入する。これで呼吸が停止する。食塩水があと一回流しこまれて、3つ目の薬品である塩化カリウムが注入され、これによって心臓が停止する。
この方法による死刑が、最近、アメリカで相次いでいるという記事を読んだばかりです。
別の冤罪を受けたフリッツは刑務所内にある法律図書室で毎日午後、4時間ほども勉強した。そして獄中弁護士を自任している囚人に専門書や判例の読み方を教えてもらった。指導料はタダではない。フリッツは、タバコで、その料金を支払った。
生死のかかった裁判にかけられたら、街で最高の弁護士か、最低の弁護士を雇うべきだ。最低の弁護士の手抜き弁護によって、あまりの弁護のひどさによって再審が認められるこというわけです。
刑務所の看守たちの一部は、ロンをからかって多いに楽しんだ。
「ロン、わたしは神だ。おまえはなぜデビー・カーター(被害者)を殺した?」
「ロン、わたしはチャーリー・カーターだ。なぜ、わたしの娘を殺したのかね?」
ロンが叫びをあげて抗議するので、ほかの囚人にとっては苛立ちのもとだったが、看守にとっては格好の気晴らしだった。こんな面白いことがやめられるわけがない。
たまたま、裁判官が記録の洗い直しを命じ、矛盾点を発見してロンは助かりました。ただし、11年もたってからのことです。そのとき、DNA鑑定が役に立ちました。しかし、起訴した検察官と警察官たちは、最後で自分たちの非を認めませんでした。DNA鑑定にしても、それを隠したのは自分たちではないかのように知らぬ顔をしてしまいました。
ようやく無罪放免になったロンですが、エイダの町はあたたかく迎え入れるどころではなく、いぜんとして「殺人犯人」扱いでした。
ロンは、この長い絶望状態のなかで、心身ともに病みきっていました。冤罪事件の罪深さは、人ひとりの人生を大きく狂わせてしまうところにあります。
(2008年3月刊。762円+税)