弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年3月 5日

民主化の韓国政治

朝鮮(韓国)

著者:木村 幹、出版社:名古屋大学出版会
 戦後の現代韓国政治の変遷の本質がよく分かる本だと思いました。
 現在の韓国は第六共和国体制と呼ばれている。1987年6月に民主正義党の廬泰愚が大統領に当選した。韓国の民主化は、民主化を求める国民の激しい闘争と、熱狂と絶叫と希望に満ちた大統領選挙の末、結局、民主化以前の軍事政権における与党の流れをくむ、そして、わずか7年前に人々の民主化への思いを押しつぶしたクーデターの首謀者の一人を大統領に選び出して幕を閉じるという皮肉な結果に終わることとなった。
 しかし、重要なことは、惜敗した野党をふくめて、韓国の人々が、この選挙結果と第六共和国体制を受け入れたことにある。
 1948年の大韓民国建国以後、1987年に至るまで8回の憲法改正を経験した韓国において、第六共和国は、一度も憲法改正がなされず20年間も続く最長の安定した共和国なのである。
 「第六共和国」の前、人々は選挙結果を信用せず、選挙に敗れた勢力も、その結果を受け入れようとはしなかった。それがなぜ変わったのか、という点を本書は解明しています。
 朴正熈の1961年の軍事クーデタと1972年の維新クーデタは質的に異なっている。1961年のとき、朴正熈らクーデタ勢力は、クーデタ直後の体制はあくまで暫定的な体制であるという前提のうえに将来の民政移管をちらつかせ、自らの正統性を確保し、野党勢力を懐柔しようとした。
 しかし、1972年には、かつてのような「民主主義」的体制へ戻ろうとはしなかった。自らの新体制を正統化しようとする試みを完全に放棄した。思想・宣伝活動を展開することもなかった。
 「言葉」を失った朴正熈は、「説明」を断念し、「説明」なくして自らの体制を維持しようとした。しかし、それは、朴正熈にとって、出口のない大きな落とし穴でもあった。皮肉なことに、以前よりもさらに強力な政治体制を敷いた結果、はじめて国会議員選挙において得票率において野党に敗北を喫した。この状況を少しでも改善すべく、朴正熈は、政府をしてさらなる野党弾圧へと向かわせた。そのなかで1979年10月26日に側近であった金載圭中央情報部長により暗殺されてしまった。
 金大中と金泳三という二人の政治家はいずれも第三共和国期において、代表的な野党内「穏健派」の「中間ボス」であった。ところが、「40代旗手論」を契機に、二人とも、あたかもそれまでの経歴が嘘であるかのように、急速に強硬論へと傾斜し、野党内における代表的な対政府強硬論者となっていった。
 それは状況の方が変化したからであった。朴正熈政権の側が、二人の本来の活躍の場を奪ってしまったからである。「維新クーデタ」の勃発は、二人の行動を見事に正統化した。「維新憲法」の下、国会の権限が剥奪され、大統領選挙を儀式化された彼らには、もはや「強硬派」に転じる以外の選択肢はなかった。二人が「転向」したのではない。変わったのは状況の方である。二人とも、ただ前と同じように自らが活躍することを求めていたに過ぎない。
 「維新クーデタ」は、韓国内における政府・与党の言説の信頼性を損ない、逆に野党にこれを攻撃する絶好の口実を与えた。以後、野党新民党の多数は強硬派によって占められ、政府・与党への対決姿勢を明確にしていった。金泳三は、この政府・与党に対する「鮮明野党」路線の主唱者であり、政治活動を封印された金大中は「民主化」の象徴的存在となった。
 これに対して朴正熈は力で抑えこむことを選択して緊急措置を連発する。そこには、国民に対して自らの体制を論理的に説明することを事実上放棄した政府・与党があった。
 政治、社会、そして教育面の大きな変化に何回となくさらされた近代以降の朝鮮半島によって、人々の受けた教育の程度や内容が大きく異なる。朝鮮王朝期の科挙受験のための教育を受けた世代と、日本統治下に近代教育を受けた世代、そして解放以後の独立韓国において教育を受けた世代が、現実社会に対する認識を異にするのは当然である。
 1940年代には大学生の数は少なく、彼らが力をもって政局を主導することは考えにくい。1960年代の韓国では、学生の数的増加を背景として学生運動は社会的に大きな意味をもった。そして1960年から70年までの10年間に、それは劇的に変化した。1960年代半ば、韓国の大学生は10万人をこえていて、毎年2万人以上もの卒業生が社会へ送り出されていった。
 うむむ、なーるほど、ですね。こういうのを、まさしく歴史の弁証法というのではありませんか。
(2008年1月刊。5700円+税)

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