弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年3月 4日

エコノミック・ヒットマン

アメリカ

著者:ジョン・パーキンス、出版社:東洋経済新報社
 この本の序文に、次のように書かれています。エコノミック・ヒットマン(EHM)とは、世界中の国々を騙して莫大なお金をかすめとる、きわめて高収入の職業だ。EHMは、世界銀行やアメリカ国際開発庁(USAID)などの国際援助組織の資金を、巨大企業の金庫や、天然資源の利権を牛耳っている富裕な一族のふところへと注ぎこむ。その道具につかわれるのは、不正な財務収支報告書や、選挙の裏工作、賄賂、脅し、女、そして殺人だ。EHMは、帝国の成立とともに古代から暗躍していたが、グローバル化のすすむ現代では、質量ともに驚くほど進化している。
 EHMは、いったん仲間入りしたら、一生抜けられない。EHMは、汚い仕事をする特別な存在。どんな仕事をしているのか、誰に話してはいけない。妻に対しても・・・。
 EHMの仕事は、世界各国の指導者たちを、アメリカの商業利益を促進する巨大なネットワークにとりこむこと。EHMは、マフィアのヒットマンと同じく、まずは恩恵を施す。それは、発電プラントや高速道路、港湾施設、空港、工業団地などのインフラ設備を建設するための融資という形をとる。融資の条件は、プロジェクトの建設をアメリカ企業に請け負わせること。要するに、資金の大半はアメリカから流出しない。ワシントンの銀行から、ニューヨークやサンフランシスコなどの企業へ送金されるだけ。しかし、融資を受けた国は、元金だけでなく、利息まで返済を求められる。EHMの働きが成功したら、融資額は莫大で、数年たったら債務国は返済不能になる。そのとき、マフィアと同じように、厳しい代償を求める。たとえば、アメリカ軍の基地の設置など。もちろん、それで借金が帳消しになるわけではない。
 エクアドルは、EHMが政治的経済的にトリコ(虜)にした国の典型だ。エクアドルの産出する原油100ドルあたり、石油会社のとり分は75ドル。残り25ドルのうち4分の3は、対外債務の返済にあてられる。その大半は軍備などに充てられ、公衆衛生や貧しい人々への援助や教育に充てられるのは、2.5ドルほどでしかない。
 ウガンダ(アフリカ)の悪名高い独裁者だったアミン元大統領は、1979年に失脚し、サウジアラビアに亡命した。反体制派の国民を10〜30万人も虐殺したという暴君が、サウジアラビアの王族から保護され、車や召使いを与えられ、豪華な生活を過ごした。アメリカも、反対はしなかった。アミンは2003年、80歳で病死した。
 EHMは、エクアドルを破産に追いこんだ。何十億ドルもの貸付をして、アメリカのエンジニアリング会社に工事を依頼させ、もっとも裕福な人々の利益になるプロジェクトをつくった。その結果、この30年間で、生活困窮者の割合を示す公式な貧困線は50から70%へ、不完全失業者と失業者の割合は15%から70%へと大きく増えた。国家の負債は2億4000万ドルから160億ドルへと増加した。その一方、最貧層のために配分される国家予算の比率は、20%から6%へと減少した。
 今日、エクアドルは借金の支払いのためだけに、国家予算のほぼ半分をつかわなければならない。
 アメリカの実情を再認識させられました。サブ・プライムローン破綻で世界中をゆり動かしましたが、今のままでいくとアメリカの経済繁栄はいずれなくなってしまいますよね。でも、そのとき日本がどうなっているか、お互いにますます心配です。
 庭にミカンを半分に切っておくと、すぐにメジロが二羽飛んできて、ついばみはじめます。可愛らしいですよ。そこへヒヨドリが飛んできてメジロを追い払います。ジョウビタキもやって来ますが、ミカンは食べません。ジョウビタキは茶色で、尻尾が少しだけ長いスズメくらいの大きさの小鳥です。人の見えるところまで近づいてきて、鳴きながら尻尾をチョンチョンと下げて挨拶してくれるのが愛敬です。それよりもうひとまわり大きいツグミのような茶色の小鳥も庭にやって来るようになりました。図鑑をみて調べるのですが、アカハラに似て、それほど赤味はありません。もちろん、常連のキジバト、そしてわが家にすみついているスズメたちも庭中をかっ歩しています。ようやく春になりました。チューリップの咲くのも、もうすぐです。待ち遠しくて、しかたありません。
(2007年12月刊。1800円+税)

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2008年3月 3日

ホモセクシャルの世界史

社会

著者:海野 弘、出版社:文藝春秋
 ヒンズー教は同性愛を一般的に受け入れている。イスラム教徒キリスト教には同性愛の項目がない。ユダヤ教は、ゲイは一般に認めないが、このごろは認めようとする派もある。
 アメリカに渡った宣教師は、ネイティブアメリカンの部族の中に、女装して女の仕事をしている男がいるのを見て驚いた。女装した男たちは、部族の最高会議で助言者の役をつとめ、重大な決定は彼の意見を聞く。占い師、預言者、語り部、ヒーラーでもある。
 ギリシアのスパルタが軍隊組織を発達させたといっても、必ずしも男性社会だったわけではない。アテネよりも、むしろスパルタの方が女性の社会的地位は高かった。
 18世紀、ヨーロッパではホモセクシャル(ソドミー)を処罰する法律が次々に廃止された。とくに啓蒙君主のいた国で早かった。フリードリヒ大王のプロシア、レオポルト2世のオーストリア、エカテリーナ2世のロシアである。先進国のはずのフランスとイギリスは遅れた。フランスでは1791年に犯罪でなくなり、1810年のナポレオン法典で、それが確認された。しかし、ソドミーは犯罪ではなくなったが、差別意識は残り、警察はひそかに監視を続けた。
 イギリスでは男色による死刑は1861年まで残った。この年、それは無期懲役となった。エリザベス女王がつくった男色処罰法は、1967年まで残った。
 アメリカでは、2003年、ホモセクシャルを罰するテキサス州法を連邦最高裁が違憲とし、州刑法が廃止された。
 イギリスのオスカー・ワイルド(1854〜1900)は世界一有名なホモセクシャルであり、その典型だ。
 フランスのランボーとヴェルレーヌもホモセクシャルの関係にあった。ヴェルレーヌのそれは少年時代からだった。ヴェルレーヌもランボーも、圧倒的な母の庇護下にあったことが共通している。2人は、しばしばそこから逃れたが、また引き戻された。母から、女から逃れるため、2人はひかれあった。ヴェルレーヌは言葉を取り戻し、詩を書けるようになった。
 アンドレ・ジッド、プルースト、コクトーはいずれもホモセクシャルの作家である。ジッドは、そのことをもっとも明確に告白した。プルーストとコクトーは、内部では公然の秘密だったが、告白はせず、あいまいにし、言い訳もしなかった。
 ジャン・コクトーは隠れなきホモ・セクシャルであるが、多くの女性を愛し、一緒に暮らしたりもした。だが、結婚はせず、子どもはつくらなかった。人を愛することにおいて、男とか女とかの区別はしなかった。しかし、芸術的な美しさの点で男にひかれた。
 うむむ、なんということでしょう。私には、よく分かりません。
 アメリカ。ハリウッドでは、ホモセクシャルの人々をトワイライト・メン(薄明の人々)、ラヴェンダー・バディ(紫の兄弟)などと呼んだ。彼らは目立たないように暮らしていた。
 サマーセット・モームもキューカーもホモだった。ロック・ハドソンは、1959年から1964年まで、アメリカの人気ナンバーワンの男優だった。多くの女性は、結婚するなら、彼のような男と思った。しかし、ハドソンはホモセクシャルだった。
 YMCA!という歌は、アメリカのゲイ賛歌である。
 ニューヨークのゲイの領土はハーレムである。黒人街ハーレムが、白人たちのもっとも自由にふるまえる場所だった。
 FBI長官のフーヴァー、副長官のクライド・トルソンの2人とも独身であり、ホモセクシャルだと疑われていた。そのウワサを振り払うため、この2人はホモへの厳しい態度を示した。アカ狩りで名高いマッカーシーも、ホモセクシャル問題には深入りしなかった。というのも、彼自身、その疑いがあったから。
 この本を読むと、いかにホモセクシャルに生きる人々(ゲイの人々)に文化人が多いか、驚くべきほどです。いったい、これはどういうことなんでしょうか・・・。
(2005年4月刊。3200円+税)

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2008年3月31日

犬たちがくれた音

著者:高橋うらら、出版社:金の星社
 聴導犬誕生物語、というサブ・タイトルのついた本です。現在、日本で認定されている聴導犬は10頭あまり。
 補助犬には、盲導犬、聴導犬、介助犬の三つの種類がある。
 アーク(アニマルレフェージ関西)は大阪府の山の中にある。阪神大震災のあと、1年間で600頭の動物を預かった。たとえ雨の日でも、一人一日20頭の犬を散歩させる。
 聴導犬に向いているか、いくつかのチェックポイントがある。犬が、もし、おなかを上に向けたままだっこされたり、足をさわられたりしても怒らなければ、それは人間になついて、リラックスしている証拠だ。おもちゃを取りあげられて怒る犬は不向き。なんでも自分だけのものにしたがる犬は、聴導犬の仕事に集中できない。
 このテストに合格できる犬は、300頭に1頭ほど。
 盲導犬の場合は、子犬育てのボランティアをパピー・ウォーカー(子犬と一緒に歩く人)と呼ぶ。 聴導犬についてはソーシャライザー(人間の社会にあうように育てる人)と言う。
 ソーシャライザーになる条件は、1日3時間以上、犬を一人きりにしない、室内で犬を飼えること、ほかの犬を飼っていないこと、月1回のパピー・クラスに参加できること、協会の方針に従えること、人間の子どもを育てるように、甘やかさず、愛情をもって育てられること、があげられる。
 ソーシャライザーは、預かった犬に愛情をたっぷり与え、家族の一員としてかわいがる。人と一緒に暮らしたり、人のために働くことが好きになるようにする。
 犬の育て方の基本は、犬を決して叱らず、どんどんほめて、ものを覚えさせる。
 ソーシャライザーは、やさしい言葉をかけながら子犬の相手をし、子犬がいいことをしたら、それをほめて、やる気を出させる。
 しかし、犬をいつもかまっていると、犬は相手をしてもらえないとすねるようになる。そのため、わざと短い時間だけでも、犬を無視する時間をつくる。かまってやるときは、思いきりかまってやる。すると、少しの間待つように言われても、犬は安心してじっとしていられるようになる。
 トレーニングは犬が集中できる短い時間(せいぜい15分間)だけ行い、楽しい気分で終わらせることが大切。犬がトレーニングは楽しいものだと思えば、次も喜んで人の言うことを聞こうとする。犬は、もともと人にほめられるのが大好きなのである。
 生まれて1年のあいだに、犬は人間でいうと17〜20歳に育ってしまい、性格もどんどん変わっていく。聴導犬として育てる犬には、人と同じものは食べさせない。レストランで料理をほしがったりしては困るから。犬がいたずらして困ったときには、さわがないで無視し、かまわない。騒ぐと喜んでくれたと犬は勘違いしてしまう。
 ソーシャライザーは、育てる子犬を数ヶ月ごとにほかのソーシャライザーと取り換える。これは、さまざまな環境で育つようにするため。なーるほど、ですね。
 犬のことがよく分かる本でした。といっても、犬も人間も変わらないところがあるんだなと、つい思ってしまいました。
(2007年12月刊。1300円+税)

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2008年3月28日

オルガスムの歴史

世界(ヨーロッパ)

著者:ロベール・ミュッシャンブレ、出版社:作品社
 表紙に書かれていたヌードの絵といい、タイトルといい、みるからに怪しげ気な本ですが、書かれていることはきわめて真面目な本なのであります。
 王妃マルゴは、彼女の奔放さにほとほと手を焼いた兄のアンリ3世から追放されるまでの自身の生涯を才能豊かに語った。おそらく夫のアンリ4世から請求された離婚の交渉を、より有利に運ぼうとして筆をとったのだろう。離縁され、王座からはるかに遠ざけられた王妃マルゴは、自分にとってもっとふさわしいイメージを、自分自身に対して与えようとしたのだ。
 16世紀ころのフランスでは、どれだけ殴っても生命を危険にさらさない限り、妻に体罰を加えてよいという権利が夫の与えられていた。妻は何よりもまず、夫の「所有物」であった。
 強姦は、被害者のほうが、生まれつき持っている好色に身をゆだねたのではないかと疑われるので、法廷でこれを証明するのは、きわめて困難だった。
 イギリスでは、1597年、離婚後の再婚はいかなる場合にも認められないという教会法をイギリス国教会が発布した。このようにカトリックでは結婚は解消することができないとされた。これに対してピューリタンは、結婚をただの非宗教的な契約であり、救済に何の関係もなく、完全に当事者同士の合意にもとづくものであるとみなした。
 フランス革命期の1792年につくられた法令は、離婚権は個人の自由にもとづくものである。離婚は、夫婦相互の合意によって行われる。配偶者の一方は、性格不和を申し立てることのみによって離婚の言い渡しを求めることができるとした。これはすごいですね。今と同じです。
 イギリスの首都には、1750年から1850年にかけて、庶民のあいだに風変わりな離婚の形態があった。妻を競売にかけるのである。もっとも、取り引きは、あらかじめ決めてあった。
 19世紀のイギリスでは男の2重性が発達した。昼は良き家庭の父親であったのが、夜になると厚かましい売春宿通いに変身するのだ。だからこそ、ポルノ文学が隆盛を誇った。そして、この時期は、本能を抑えるように口やかましく説いてまわる啓蒙哲学が盛んだった。
 イギリスでは、マスターベーションは18世紀のはじめに正真正銘のタブーとなった。
 イギリスでは、19世紀のあいだずっと、夫婦生活の営みのとき全裸になるのはワイセツの極みと見なされていた。
 1700年のロンドンには、2万人以上の徒弟がいて、1万人以上の娼婦がいた。
 19世紀のパリとロンドンは、地方からやって来る娼婦であふれていた。ロンドンは 1801年の人口が90万人だったのに1901年には450万人となった。このとき街娼の人数は8万人から12万人だった。パリの娼婦も同じく12万人だった。
 1746年にフランスのトゥールーズで処刑されたプロテスタントの牧師の公開絞首刑には、4万人もの見物人が押しかけた。そのうち2000人は子どもだった。公開処刑は、熱狂的な見せ物だった。
 教科書に書かれていないような生活の真実をいろいろと知ることができました。
(2006年8月刊。3200円+税)

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名将・中山鹿之助

日本史(戦国)

著者:南原幹雄、出版社:角川書店
 私は中山鹿之助を絶対に忘れることができません。というのも、私が大学受験勉強をしているとき、中山鹿之助の言葉を私の机の前に大きく書き出して、それを自分への励みにしていたからです。当時、私は東京へ出たくてしかたがありませんでした。田舎の九州にいて、東京に出たら、きっときっといいことがある。自由の天地があると夢見ていました。ところが、東京は実際に行って住んでみると、まさに人、人、人、人の海なのです。人の波におぼれて沈みこんでしまいそうです。つかみどころのない超巨大な大都会でした。わずかに下町の商店街で安らぎを感じたものです。そして、東京は地震が多くて、いつ大震災に見舞われるかもしれません。丸々10年間、私は東京に住んで、福岡へUターンしてきました。自然を身近に感じ、四季の移り変わりを花や木とともに体感できる生活こそ自分の性にあっていると今では思っています。でも、それは私が年齢(とし)をとったということでもあります。
 江戸時代の豪商として名高い鴻池(こうのいけ)の先祖が山中鹿之助だというのを、この本を読んで初めて知りました。
 戦国の世に無類の英雄・豪傑として名を知られた山中鹿之助幸盛こそ鴻池一門の先祖なのである。その鴻池は毛利家の依頼によって大名貸しをするようになった。
 毛利家こそ、山中鹿之助の主家である尼子(あまこ)の宿敵だった。尼子が毛利家にほろぼされてから、鹿之助は強大な仇敵を相手に生涯、再興戦をいどみ続けたが、ついにむなしく敗れ去った。しかし、その長い復讐戦を通じて、鹿之助の不撓不屈、剛勇無双ぶりはあまねく人々に知れわたった。
 もともと、毛利元就(もとなり)は尼子の武将の一人であった。尼子は周防(すおう)の大内氏と長いあいだ戦っていたが、毛利元就はいつも尼子家の先鋒として奮戦し、功績があった。尼子経久は元就の器量を高く買い、大身の豪族なみに処遇してきたが、経久のあとを継いだ晴久が毛利を侮って強圧的な態度に出た。そこへ大内氏が好条件で元就を誘ったので毛利は寝返った。晴久は憤って毛利征伐に出たが、逆にさんざんな敗北を喫した。これが尼子と毛利の長い戦いのきっかけとなった。毛利は大内氏に代わって強大な勢力として急速に成長し、ついに昔の主家である尼子を脅かす存在となった。
 山中鹿之助は天文14年(1545年)に生まれた。山中家は出雲尼子家の弟の子孫である。願わくは、われに七難八苦を与えたまえ。よくこれを克服して武士として大成すべし。鹿之助はこのように念じた。
 尼子家の再興を願って、僧侶になっていた尼子勝久を捜し出し、還俗させて毛利に戦いを何度も挑む鹿之助です。 
 陣頭に立って指揮する大将は赤糸威(あかいとおどし)の鎧(よろい)、三日月の前立(まえだて)に鹿の角の脇立(わきだて)の兜(かぶと)をかぶった大男。それならば、まごうかたなく山陰山陽に隠れなき、山中鹿之助。
 山中鹿之助に長男が誕生し、遠くの親戚に預けて育ててもらいます。その子が鴻池家をつくり出すことになるわけです。
 何回となく尼子家の再興を目ざし、京都へのぼって織田信長を頼りにします。木下藤吉郎を頼りにし、秀吉が毛利征伐に乗り出すことによって、ようやくその先人として尼子軍は勝機をつかもうとします。ところが、秀吉軍は二正面作戦を余儀なくされ、あえなく尼子軍は見捨てられるのです。
 さすがの山中鹿之助も、ついに降参し、毛利のもとへ連行されます。ところが、その途中、甲部川で背後から切り殺されてしまうのです。
 強大な毛利家を相手に何度も執念深く尼子家の再興を図り、ついに無念のうちに倒れた山中鹿之助の一生を描いた本です。読みごたえがありました。
(2007年11月刊。1800円+税)

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風の天主堂

社会

著者:内田洋一、出版社:日本経済新聞出版社
 久留米にある聖マリア病院は国内最大規模の民間病院。その理事長で病院長だった井手道雄医師は、晩年になって天主堂巡礼に心血を注いだ。人工透析を受けながらの旅だった。フランスのピレネー山麓にある、有名な巡礼地のルルドにまで行ったというのですから、たいしたものです。
 『西海の天主堂路』(新風舎)には、この天主堂巡礼がまとめられています。といっても、本にまとめたのは道雄氏が亡くなられたあと、奥様でした。道雄氏は、福岡県三井(みい)郡大刀洗(たちあらい)町の出身。この大刀洗は南北朝時代の勇将菊池武光が合戦で勝利したあと、太刀を洗った川を太刀洗川と呼ぶようになったという故事にもとづく地名である。
 この大刀洗町には、江戸時代から隠れキリシタンが綿々と続いていた。ええーっ、どうして、と思います。道雄氏の奥様が、実は、私のフランス語の勉強仲間なのです。といっても、奥様は大阪万博で通訳をしたこともあるほどの語学力の持ち主ですから、語学音痴の私なんかとはレベルが違います。
 長崎、とりわけ島に残る隠れキリシタンの伝統と、明治になって建立された天主堂の美しさは思わず息を呑むほどのものです。
 明治12年に赴任してきたマルコ・マリ・ド・ロ神父は天主堂建設に取り組んだ。ここに鉄川与助という大工が登場する。与助自身は仏教徒であるが、ド・ロ神父の導きにより多くの天主堂を建設した。
 長崎から天草にかけて、こんなにも多くの天主堂が建てられているのかと思うと、信じられません。20もあるのです。それも、五島列島だけで8つの天主堂があるというのですから、驚きです。
 私は、弁護士になって一年目に、何も分からないまま、日教組弾圧事件の対策のために上五島に派遣されましたが、その奈良尾あたりにまで天主堂があるというのです。信仰の力の偉大さを思い知ります。
 たまに、このような本を読み、写真を眺めると、心の洗われる気がします。ありがとうございました。
(2008年3月刊。2000円+税)

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2008年3月27日

古典への招待

社会

著者:不破哲三、出版社:新日本出版社
 学生時代にマルクスやレーニンの本に出会ったとき、本当に世界が広がる思いがしました。ものの考え方が目新しく、天と地がひっくり返るというか、物事をここまでつきつめて考えることができる人がいるのかと、何度も感嘆したものです。私が学生時代以来ずっと読書ノートを書いているのも、その衝撃の大きさからだと思います。
 この本には、学生時代に読みふけったなつかしい本がたくさん紹介されています。マルクスなんて古い。死んだ本だろ。そう思わずに、ぜひ手にとって読んでほしいと思います。アメリカをみてください。資本主義、万歳!だなんて、今どき、誰か叫んでいる人がいますかね。サブ・プライムローンの破綻なんて、その実情を知れば知るほど、ひどいものですよね。お金のない人に高いローンを背負わせておいて、その高い金利でマネーゲームしていて、やっぱり破綻したということなんですね。行き詰まってしまった資本主義の最後の徒花(あだばな)でしかないようなものです。
 アメリカ全土の刑務所にいる囚人が230万人だという記事を先日読みました。人口が半分の日本では6万人くらいです。日本に120万人もの刑務所人口をかかえているようなものです。しかも、それだけ刑務所人口をかかえていて、アメリカの実社会は安全になったかというと、ますます危険な社会になったというではありませんか。
 150年前のマルクスが古いなんて言うのなら、2000年前のキリストはもっともっと古いのですよ。それでも、今も立派にキリスト教は生きているではありませんか。やはり、いいものは、いつまでたってもいいのですよね。
 今、アメリカでもヨーロッパでも、マルクスは生きていると言われ、雑誌で特集が組まれたりしている。100年以上も前の人々ではあるが、その著作は時間的な距離をこえて、読む者をひきつけてやまない魅力がある。先日も、ドイツでマルクスが見直されているという新聞記事を読みました。
 まずは、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』です。これは、1842年から44年までイギリスにいた青年エンゲルスが24歳のとき(1845年)、書いた本です。産業革命がイギリス社会をどう変えていったかを描きだした画期的な本です。
 川崎のコンビナート地帯で学生セツルメント活動を一生けん命やっていた私は、この本を何回となく読み返したものです。本当に大いに学ばされました。社会を見る目を養ったと言える本です。エンゲルスは、この本を、イギリス人のためでなく、ドイツ人のために、ドイツ語で書き、ドイツで出版した。うひゃー、そうだったんですか・・・。
 エンゲルスは、耐えがたい生活苦が多くの道徳的退廃を生むことをリアルに描き出した。同時に、同じ苦難が労働者階級をきたえ、知的に発展させ、成長させるバネとなっていることを明らかにした。実は、後者の解明と確信がセツラーである私の追究すべきテーマだったのです。道徳的退廃はすぐに分かりました。でも、知的発展とか成長とかいうと、それは対象の人々に相当深く食いこまないと見えてこないものです。
 資本主義社会における搾取と窮乏という苦難は、労働者をきたえ、この現状に抵抗し挑戦する階級へと成長させていく。
 ここらあたりが、学生としてなかなか確信のもてないところでした。たたかう労働者階級と言われても、目の前にいるのは、私と同じような欲望もあり、いかにも人間的な若者でしかありません。どうやって、何を学ぶのだろうと、正直いって悩みました。
 次の『ドイツ・イデオロギー』は、マルクス27歳、エンゲルス25歳のときの共同執筆の本です。この本にも、深い思いいれがあります。ともかく難しいのです。でも、ひきつけるものが、同時にあるのです。
 哲学者たちは、世界をさまざまに解釈しただけである。これはマルクスの言葉です。
 支配的階級の諸思想は、どの時代でも、支配的諸思想である。すなわち、社会の支配的な物質的力である階級は、同時にその社会の支配的な精神的力である。思考する者として、諸思想の生産者としても支配し、その時代の諸思想の生産と分配を規制する。意識が生活を規定するのではなくて、生活が意識を規定する。
 人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する。なーるほど、そうですよね。
 マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を書いたのは1848年。
 日本は第二次世界大戦前に、マルクス・エンゲルス全集が刊行された世界で唯一の国だった。しかし、その全集から『共産党宣言』だけは除かれていた。日本で、この本を自由に読めるようになったのは、敗戦後のこと。
 ひゃあー、ちっとも知りませんでした。大学生時代に、当然のことのようにして手にとり読んだものです。いまの大学生には、どれくらい読まれているのでしょうか。『宣言』は、マルクス29歳、エンゲルス27歳のときに書かれています。私は、ぜひ今の若い人にも読んでほしいと思います。
 共産主義者は、これまでのすべての社会秩序の強力的転覆によってのみ、自分の目的が達せられることを公然と宣言する。
 私の学生のころは、強力ではなく、暴力とされていました。すなわち、暴力革命を起こすべきだということです。すると、過激派(当時は全共闘と呼んでいました)のいうバリケード封鎖や街頭でのゲバ棒をふるう暴力を容認することになります。それでいいのかな、そうだったらいやだな、と思っていました。
 著者は、それはマルクスの時代には、まだ普通選挙が一般化していなかったことによる制約だと指摘しています。なーるほど、そういうことだったのですね。
 マルクスは女性に対しても参政権を認めることを要求しています。まったく当然のことです。だけど、当時は、当然のことではありませんでした。
 この本を読んで初めて知ったことですが、『共産党宣言』の書かれた1847年〜48年ころのドイツでは、社会主義とか共産主義というのに対して異様なほどの人気があったというのです。むひゃー、そうだったのですかー・・・。
 1848年、ヨーロッパの広大な地域が革命の波におおわれていた。2月にフランスで2月革命、3月にウィーンで蜂起、同じく3月にベルリンでも蜂起、そしてイタリアでの独立革命。そんな状況で、共産主義への期待が高まっていたわけです。
 経済状態は土台である。しかし、上部構造のさまざまな諸要因が、歴史的な諸闘争の経過に作用を及ぼし、多くの場合に、著しくその形態を規定する。これらすべての要因の相互作用であり、そのなかで結局は、すべての無数の偶然事をつうじて、必然的なものとして経済的運動が貫徹する。この指摘は鋭いと、いまも感嘆します。
 現代日本を分析するときに、140年前の古典の指摘は、こんなに役立つものなのです。古典は古いから、現代日本に生きる私たちにとって役に立たないなんて、とんでもない間違いです。
 今朝、庭に出て花の咲いたチューリップを数えてみました。29本でした。まだまだです。今年は例年より少し遅い気がします。紫色のムスカリ、あでやかな赤紫のアネモネ、白や紫のヒヤシンスが咲いています。あっ、純白のシャガの花も咲いています。色とりどりの花に囲まれていると、なんだか幸せな気分です。桜のほうは、まだ二分咲きから三分咲きです。ウグイスのホーホケキョという澄んだ鳴き声も春の情感を味あわせてくれます。田舎に生活するのもいいものですよ。
(2008年3月刊。1900円+税)

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2008年3月26日

オッペンハイマー(下)

アメリカ

著者:カイ・バード、出版社:PHP研究所
 日本に原爆が落ちたことを知ったアメリカ人は、ゴミ入れのふたなどを叩き鳴らしながら練り歩き、喜びをあらわした。そうなんですか・・・。ジャップは、黄色い猿であって、人間ではない。そう考えていたようです。映画『猿の惑星』に出てくる猿も、日本人がモデルだというのです。ご存知でしたか?日本人って、そう見られていたのです・・・。
 その一方、原爆開発にたずさわった科学者たちは、日がたつにつれて自己嫌悪感が高まり、戦争終結が爆弾の使用を正当化すると信じていた人たちにさえ、きわめて個人的な後ろめたさを経験させた。
 オッペンハイマーは、良心の呵責から不安と疲労を抱えた。
 原子兵器の使用を防止する適切で効果的な、いかなる軍事的対抗策も見つからない。それを可能にするのは、ただ一つ、将来の戦争を不可能にすることしかない。
 トルーマン大統領は、そんなことを言うオッペンハイマーについて、「原子力を発見したために手が血だらけ、とぬかした泣き虫科学者」と叫んだ。
 アメリカに外国からテロリストが核兵器を持ちこむのを見つけることができるか、と問われたオッペンハイマーの答えは?
 それにはネジ回しがいる。すべてのスーツケースを開けるための。
 つまり、核テロリズムへの対抗策はなかったし、今後も絶対にないということ。
 ふむふむ、なるほど、そうなんですよね。ましてや自爆攻撃するテロリストをくいとめる手だては何もないと私も思います。
 オッペンハイマーはFBIによって危険人物と見なされ、その電話は盗聴された。
 私の電話を盗聴するためにアメリカ政府がつかったお金は、ロスアラモスで私に支払った給料より多かった。そうなんですよね。いつの時代でも盗聴というのは、まったく割のあわない行為だと思います。
 オッペンハイマーの家庭生活は、この世の地獄のように思えた。最悪なのは、2人の子どもも必然的に苦しまなければならなかったことだ。
 なるほど、そうなんでしょうね。天才の子どもというのは辛いものがあると思います。
 1949年8月29日、ソ連がカザフスタンでひそかに原爆の実験をしたとき、アメリカ政府は誰もそれを信じたくなかった。
 トルーマン大統領は、ソ連に対する核優位を保つため、10年内に300の核弾頭から1万8000の核兵器をもつようになった。次の50年間に、アメリカは7万個の核兵器を生産し、核兵器プログラムに投入される予算は5兆5千億ドルになった。核生産競争の悪循環に陥ったのです。
 オッペンハイマーに対する聴聞委員会は1954年4月12日に開かれた。その容疑は、オッペンハイマーがアメリカ共産党の多くの前線(フロント)組織に加わったこと、共産主義者(共産党員)と判明している数多くの人々と新しい関係ないし交際したこと、原爆プロジェクト共産党員を雇ったこと、サンフランシスコで月150ドルを共産党に寄付したこと、だった。
 ええーっ、こんなことが罪になるのですか・・・。
 「自由」の国、アメリカの怖い、暗い本質がよくあらわれています。
 オッペンハイマーの妻(キティ)も証人席に座らされ、質問を受けた。共産党員としての過去があることを認めて、堂々と反論しました。
 5月23日、2対1の評決によってオッペンハイマーを忠実なアメリカ市民ではあるが、保安上の危険人物 であると見なされました。
 ところが、皮肉なことに、この裁判と評決の報道は、オッペンハイマーの名声を国の内外で高めた。かつては「原爆の父」とだけ知られていたが、今度は、もっと魅惑的な「ガリレオのように迫害された科学者」のイメージが加わった。ドレフェス事件のような扱いだ。
 オッペンハイマーの敗北は、アメリカ自由主義の敗北でもあった。オッペンハイマーが少しでも秘密を漏らしたという証拠はなかった。ルーズベルトのニューディール支持者の多くのように、オッペンハイマーはかつて広い意味での左翼であり、人民戦線運動を支持し、多くの共産党員とつきあいがあった。しかし、オッペンハイマー自身は、自分を反体制派とは考えていなかった。この評決のあと、オッペンハイマーは所長の座を維持できたが、以前のような機知と活気が失われた。オッペンハイマーは、1967年2月、62歳で病気(ガン)により死亡した。
 天才科学者を取り巻くアメリカの狂気を知ることができました。
(2007年8月刊。1900円+税)

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2008年3月25日

死都ゴモラ

著者:ロベルト・サヴィアーノ、出版社:河出書房新社
 タイトルからは何をテーマとしているのやら想像もつきませんが、イタリアの暴力団のすさまじい実体を潜入ルポ形式で暴いている本です。
 カモーラは、ヨーロッパでもっとも実体をそなえる犯罪組織である。シチリアの各加盟組織は5つの地方を握っている。ンドランゲータは8つの地方を掌握している。
 ナポリだけで、50%の商人がカモーラと関わりをもっていた。
 ディ・ラウロは麻薬取引だけで1日に50万ユーロを稼いでいる。密売にたずさわる者の数は厖大で、数千人に達する。麻薬の輸送には、ごみ運搬用のトラックをつかう。上には廃品やクズ、下には麻薬。ごみを積んで夜間走るトラックなんか誰も検問しない。
 2004年4月。全員が警察の制服を着ている奇襲部隊がホテル4階に潜んでいたカモーラのボスを襲い、ピストルで射殺した。
 12歳から17歳までの少年たちは組織に入るとすぐに、忠実な兵士に仕立てあげられる。その多くは、組員の子どもか兄弟、あるいは何らかの関わりをもつ家の子どもだ。組織にとって重宝なのは、人数が多いこと。少年1人あたりの給与は、地位の低い成人の組員の半分以下ですみ、家族を養う義務はなく、時間の制約もなく、決まった給与も必要とせず、何より好都合なのは、いつでも街頭に出ていられること。仕事は一様ではなく、責任もさまざま。手はじめに、軽い麻薬、ハッシッシの密売をさせる。
 カモーラによる死者は、1979年に100人1989年に228人、1998年に 132人、2004年に142人だった。1979年以来の死者の数は、なんと3600人にのぼる。これはシチリアのマフィアやンドランゲータ、ロシアのマフィアによる殺人よりも、はるかに多い。
 カモーラが丁重に殺そうと思ったら、頭か腹に1発うち込む。車に100発、人体に 40発の銃弾をうちこむときは、地上から相手をきれいさっぱり消し去ろうとする絶対的方法である。カモーラは、長い長い記憶力と無限の忍耐力をもっている。カモーラは、裏切った者を絶対に許さない。無惨な仕方で、それを抹殺する。マフィアは、反政府や反国家的なポーズをとるが、カモーラは利得と金銭のみを追求する。
 組織内の一人の独裁は、決して長くは続かない。もし一人のボスの権力が長く続けば、物価は高騰し、独占が定着し、市場は硬直化し、投資は常に同じ部門に行われ、新分野の開拓が滞り、事業へのブレーキとなる。そこで、一人のボスが権力を握ったそのときから新顔が現れ、自身の力を蓄え、自らその拡大に力を貸した企業のあとがまに座ろうとするだろう。怖いですね。ボスだって、いつまでもボスではありえないというわけです。
 1993年から2006年のあいだ、カモーラのビドニッティ一家は、有毒廃棄物市場に乗り出し、フリーメーソンと盟約を結んでいた。そして、不正規に、しかも有利な価格で有毒廃棄物を横流ししていた。
 これって、怖いイタリアの話であって、日本には関係ないよな。そう思ったあなたは、おめでたい日本人だというほかありません。いま、筑後地方で二大暴力団の対立抗争が起き、何人もの組長・組員が殺されていますが、これも本質的には筑後地方の公共事業の利権(甘い汁)をどちらが握るか、という争いだと私は考えています。いろんな本などで大銀行や超大企業と暴力団の癒着の構造が暴露されています。警察自体もいろんな意味で暴力団とのもちつもたれつ関係にあるという指摘がしばしばなされています。残念ながら、かなりあたっているように思います。日本は、アメリカのようになってはいけないだけでなく、イタリアのようになってもいけないと改めて思いました。
 今、チューリップが7本咲いています。赤いチューリップが1本、あとは黄色いチューリップです。フリンジのついたチューリップや八重咲きのチューリップなど、変わりチューリップもありますが、いろいろ試したあと、昔ながらのチューリップに戻りました。小学1年生のときの教科書に「咲いた、咲いた、チューリップの花が」とありましたよね。あの気分を味わっています。
(2008年1月刊。2200円+税)

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2008年3月24日

リーヴィット

宇宙

著者:ジョージ・ジョンソン、出版社:WAVE出版
 宇宙を測る方法、というのがサブ・タイトルです。オビには、夜空の彼方にまたたく変光星の輝きから、宇宙の広さを解く鍵を見つけ出した女性。彼女は紡績工場と大差ない時給30セントで働く天文台の一職員だった、と書かれています。
 リーヴィットはハーバード大学の天文台の職員として星の写真乾板を整理しているうちに、変光星を発見したのです。
 リーヴィットの仕事は、星の等級を測定し、記録する天体測光。長時間露出で星を撮影すると、明るい星ほどたくさんの乳剤の粒子に化学変化を起こし、乾板に大きな点となって写る。つまり、大きさが明るさを示す。
 リーヴィットは、変光星を探す調査を受けもった。違う時期に同じ夜空の場所を撮った2枚の乾板を重ねると、変化を起こしている星を見分けることができる。明るさが変わらないと、大きさも変わらないのでぴたり重なり、お互いを消しあって見えない。少しでも明るさが増している星は、点を縁どるリングの形で姿が残る。明るさが増した分だけ点が大きくなるからだ。
 リーヴィットは1904年、時を変えて撮影された小マゼラン星雲の写真乾板を比較して変光星を見つけた。翌年までに25個の変光星を発見した。1908年には、マゼラン星雲の1777個の変光星という論文を発表した。そして、そのなかで、明るい変光星ほど長い変光周期をもつ事実を指摘した。
 これは、変光周期から星の本来の明るさを判断できるということ。そうすると、見かけの明るさと比較して、星までの距離を推定することが可能になる。星の変光周期を測定すれば、その値から絶対等級が分かる。絶対等級が分かれば、見かけの明るさと比べて、星までの距離も分かることになる。空間を進む光は逆2乗の法則にしたがって拡散減少するから、距離の差を2乗すれば、明るさの差が求められる。ほかの条件が同じだとすると、9分の1の明るさの光は、3倍の距離の場所にある。距離の測定結果が得られている近くの星雲を選んで全体を標準光源にし、真の明るさを推定して、遠くの星雲もほぼ同じ光量を放出しているはずだと仮定し、逆2乗の法則で距離の計算を行う。
 距離が遠ければ、赤方偏移は大きくなる。光は、旅する距離が長いほど、エネルギー低下が起きて波長が引き伸ばされ、スペクトルが赤の方向へ偏移は物差しになる。たとえ観測対象がどんなに遠くにあろうと、光さえとどいていれば距離を測れるということだ。
 うーん、ここらあたりは難しすぎて、私にはよく分かりません。
 プリズムをつかえば、地球にいながら、1億5千万キロの距離にある太陽の化学組織を判読できる。
 アンドロメダ銀河は200万年光年の距離にあり、天の川の銀河の2倍の大きさであるらしい。もっとも大きな集団は2000あまりの銀河をもつ乙女座銀河団だ。これら全体で直径2億光年、数千の銀河を有する局部超銀河団を形成している。私たちの天の川銀河はここに属する。銀河は、太陽系から10億光年の範囲に限っても、数千万はあると考えられている。
 赤方偏移を利用して銀河や銀河団の後退速度を測定し、ハッブル定数で割って距離を算出する。視覚で確認されている宇宙は、100億光年の彼方まで広がっている。しかし、1920年代まで、多くの天文学者は、宇宙には天の川銀河だけしかないと考えていた。
 分からないことだらけの本でしたが、宇宙の広大さと、それに人間が挑んでいることを知って、うれしくもなりました。たまに宇宙の本を読んで、気宇壮大になるのもいいことです。いつも、人間のちっぽけで、かつ、大きな悩みにつきあわされている身としては、とくにそう思います。
(2007年11月刊。2400円+税)

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2008年3月21日

軍神

日本史(現代史)

著者:山室建徳、出版社:中公新書
 日本で軍神と呼ばれる英雄が誕生したのは、日露戦役のあと。日清戦役のときには存在しなかった。
 著者は、ここで戦役という耳慣れない言葉をつかっていますが、それは戦争という言葉は、明治期には俗な表現にすぎなかったからです。そのころは、戦役と呼ぶのが一般的だったのです。へーん、そうだったのですか・・・。
 日露戦役のとき、乃木希典の率いる第三軍が遂行した旅順攻略は、それほど困難な作戦ではないと一般に思われていた。旅順はロシア本国からの補給の道を絶たれているし、その10年前の日清戦役のときには、簡単に攻め落とせたから。
 旅順港の攻防戦で戦死した広瀬少佐(死後、中佐に進級)、中国大陸の遥陽会戦で戦死した橘少佐(同じく、死後に中佐に進級)。海軍の軍神に対抗して、陸軍の軍神が誕生した。しかし、広瀬が戦死した明治37年3月から橘の戦死した8月までのあいだに戦死の意味が大きく変わっていた。広瀬のときには戦死者はそれほど多くはなかったが、5ヶ月後には一度の会戦で5000人をこえる戦死者が出るほどになっていた。
 この2人が日本国民に広く知れわたったのは、国定教科書にのったからである。
 このような広瀬中佐の銅像が明治43年、東京の万世橋に立ち、東京名物の一つとなった。ところが、16年たった昭和2年ころには、この銅像はかえりみられずに悲惨な環境に置かれていた。邪魔者扱いにされたのだ。しかし、さらに満州事変が始まると、一転して英雄をしのぶ場に昇格した。
 このような広瀬中佐の銅像の扱いの落差のひどさは、日本人の熱しやすく、また冷めやすい気質をよく反映しています。
 大正1年(1912年)、明治天皇が死んだとき、乃木希典夫婦が自宅で自死した。このことは世間にすぐさま知れ渡った。これを知った同時代の人間にとっては、とても信じがたい意想外のできごとだった。殉死など遠い昔に廃れたできごとであり、よもや高位高官の中から古式にのっとり切腹する者が出るなど、誰にも想像できない事態だった。
 乃木の自決は、最初から賛美一色で塗りつぶされたのではない。自殺という行為に対する反撥は、それなりの広がりを見せていた。常人離れした乃木の行動に反感をもつ人々も、間違いなくいた。新聞記者たちのホンネでも、乃木に対する崇敬の念などなかった。
 しかし、乃木の自決否認論は世間の支持を受けることができなかった。一般の読者の反撥が強かったので、乃木の死を突き放してとらえる論調は紙面を飾らなかった。
 乃木は自ら死を選ぶことで、キリストや西郷隆盛、楠木正成に匹敵する存在とみなされた。日露戦役において、東郷平八郎は輝かしい心ときめく快勝を象徴する存在だったのに対し、乃木は著しく悲しみにみちた死闘を思い起こさせる存在だった。
 しかし、日清日露の戦役は、日本の強さを世界に示し、日本人の誇りとなった。インテリの一部を中心に反撥する向きがあったとしても、期せずして乃木の死に共感する声が日本全体を包み込んだ。日本社会から湧き上がってきたのは乃木夫妻に対する深い同情と尊敬の念だった。それで、乃木夫妻の葬式には、20万人が参集した。
 日本における軍神の誕生のメカニズムと、それに対する世界各国の反応の違いが総合的に語られていて、大変勉強になりました。
(2007年7月刊。940円+税)

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団塊世代の2万2千日

社会

著者:江波戸哲夫、出版社:リベラルタイム出版社
 団塊世代の私にとっては、なつかしい話のオンパレードです。
 紙芝居なんて言っても、いまの若い人には何のことか分からないでしょうね。もっとも、最近、私の知人でもある政治家(まだ候補者でしかありませんが・・・)は、パワーポイントの映像を電気紙芝居だなんて言っています。
 近くの空き地に紙芝居のおっちゃんが来たとき、親の考えから小づかいをもたされなかった私は、買い食いを許されず、はるか遠くで眺めて指をくわえていたのでした。もちろん、紙芝居のおっちゃんはアメなどを買ってくれる子どもだけを対象にして紙芝居を演じたのです。「黄金バット」など、ハラハラドキドキの冒険物語が語られ、佳境に来たところ、ハイ、このあと次回のお楽しみ、となってしまうのです。よく出来ていました。
 わが家にテレビが登場した日もよく覚えています。それまでは、内風呂があるのに、近くの銭湯に出かけました。銭湯に入らないとテレビを見れないのですから、仕方ありません。大勢の子どもたちで満員盛況でした。「怪傑ハリマオ」とか「月光仮面」に胸おどらせました。
 高校に入り、そして大学では学園紛争の洗礼を受けました。『清冽の炎』(神水理一郎、花伝社)が、1968年の東大闘争を刻明に再現しています。なーるほど、そういうことだったのか、と思う状況の日々が詳細に語られているのですが、そんなことは思い出したくもないという人が意外に多いようで、さっぱり売れていないとのことです。
 でも、自分たちの通り過ぎてきたことを一度はふり返ってもいいんじゃないかしらん、と私は思います。もう、あれから40年たちました。既に現代史のなかに入った出来事なのです。
 この本を手がかりに、団塊世代が自分たちの生きてきた時代を大いに語ってもいいように思います。『清冽の炎』(神水理一郎、花伝社)について、先日、西日本新聞の書評ページに小さく紹介されていましたが、ぜひ、買って読んでみてください。
 庭のチューリップが1本だけ黄色い花を咲かせています。第1号です。これから続々と咲いてくれると思います。
 デパ地下でアスパラガスを買いました。珍しいことに佐賀産のホワイトアスパラガスもありました。アスパラガスを食べると春を実感します。わが家の庭のアスパラガスはまだ芽を出してくれません。
 登山用品店で登山靴を買いました。親切な店員さんから、靴のはき方、歩き方を教えてもらいました。かかとを地面につけてヒモを結ぶ。歩くときは地面に足を押しつけるように歩くということです。春ののやまを歩くのも楽しいですよね。
(2008年2月刊。1800円+税)

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不屈

日本史(現代史)

著者:瀬長亀次郎、出版社:琉球新報社
 こんな凄い政治家がいたのか。米軍統治下の沖縄で、常に大衆の先頭に立ち、平和と民主主義を求め続けたカメジローの闘い。これはオビに書かれた言葉です。本の表紙は、刑務所から出てくるカメジローの写真です。にこやかな笑顔で、右手を高く上げています。いかにも芯の強い人柄がにじみ出ています。この本は、カメジローの獄中日記からなります。
 日本にこんなすごい政治家がいたことを知って、誇らしく、また、うれしく思いました。序文に、琉球新報社の編集局長の次のような文章があります。なるほど、そうだよなと思いましたので、紹介します。
 日本の民主主義が未熟なのは、与えられた民主主義だからだ。こんな指摘がある。でも、沖縄については明確に否定できる。戦後27年間のアメリカ軍統治時代、沖縄では自由も人権も制限されていて、日本国憲法なるものは、はるか彼方の存在だった。そんな状況において、沖縄県民は為政者とたたかいながら、一つ一つ権利を手にしてきた。そのたたかいの先頭に立ったのが瀬長亀次郎だ。カメジローは、権力を恐れず、自らを犠牲にして立ち向かった。そうなんですね。沖縄のたたかいに日本人はもっと学ぶべきですよね。
 1952年4月、琉球政府発足式典で、立法院議員の瀬長は起立せず、USCARに対する宣誓を拒否した。
 沖縄人民党は、綱領の中に共産主義も社会主義もうたっていなかった。しかし、アメリカ軍は人民党を共産主義者の集まりとみた。
 1954年の人民党事件で、カメジローは、奄美出身の活動家をかくまったとして逮捕された。そして、その活動家が釈放されたのに、カメジローは収監されたままだった。
 そして、カメジローが刑務所にいるとき、刑務所で囚人による暴動が発生した。カメジローは、暴動を沈静化させた。受刑者大会では実力行使しないことが確認された。玉砕戦術は身をほろぼし、受刑者を不利にし、全県民の利益にもならないと述べてカメジローは受刑者たちを静かに説得した。
 当時、沖縄刑務所に収容されていたのは850人。女性や少年を加えると、950人で、これは定員(230人)の4倍以上。待遇改善を求めて暴動を起こして刑務所を占拠したのだ。このとき、50人が集団脱走した。結局、囚人側の要求の7割が受け入れられた。
 カメジローは、刑務所の独房で本ばかり読んでいた。法廷でカメジローは、次のように述べた。
 被告人瀬長の口を封ずることはできるかもしれないが、しいたげられた幾万大衆の口を封ずることはできない。瀬長の耳を聾することはできるだろう。しかし、抑圧された大衆の耳を封ずることは不可能である。瀬長の目をつぶすことは可能であろうが、不正と不義の社会の重圧をはねかえそうとして待機している大衆の眼をつき破ることはできない。瀬長を牢屋に叩きこむことは可能であろう。しかし、70万県民を牢屋に収容することは不可能である。
 いやあ、見事な弁論ですね。胸のすく思いです。
 刑務所における生活を単調にするか、内容ある生活をつくり上げていくかは、思想の力である。刑務所でのカメジローの仕事は闘病と独習だった。おかれた環境を十分に生かして人間革命の完成につとめた。獄中日記に出てくる本は80冊にのぼる。
 清潔にして、非衛生的環境を除く努力を集中する。房内において、身体と精神、生命力を維持し、きたえ上げ、みがき、将来のための準備工作をすすめる。カメジローは、自宅でも身のまわりをいつも清潔にし、きちんと整頓しておかなければ気がすまなかった。
 家族からの差し入れられる敷き布団の中に妻の手紙が隠されていた。ええーっ、信じられません。あまり検査しなかったのですね。もちろん、手紙はすべて検閲されていました。家族からの手紙もカメジロー本人には渡されず、沖縄県公文書館に保存されていて、発見された物がある。うむむ、なんということでしょうか。
 カメジローは、獄中で、体重が41キロにまで落ちてしまった。危ないところだったようです。1956年4月、カメジローは、刑務所から釈放された。満期出獄だった。1000人あまりの県民が出迎えたが、一緒に歩くとデモ行進禁止のアメリカ布令に反するので、人々は動かず、そのかわりにカメジローがひとり挨拶しながら閲兵するようにして歩いた。すごいですね。写真もあります。泣けてきます。
 出獄歓迎大会には、1万人をこえる沖縄県民が参加したといいます。
 200冊をこえる日記が残っているそうです。戦後日本の政治で忘れてはいけない出来事です。先日のアメリカ兵による少女強姦事件が、マスコミによる被害者バッシングにより告訴取り下げ、不起訴で終わったことに怒りを覚えます。もういいかげん、日本人も眼を覚ますときではないでしょうか。いつまでたってもアメリカの言いなりでは困ります。
 庭の桜の花が満開です。といってもソメイヨシノではありません。サクランボの桜です。花もピンクではなく、真っ白で、地味です。一気に全開となりました。5月の連休明けころに紅いルビーのようなサクランボをたくさんつけてくれることでしょう。チューリップも、もうすぐ咲きそうです。ヒヤシンス、クロッカスそしてアネモネが咲いています。
(2007年11月刊。1667円+税)

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2008年3月19日

巨乳はうらやましいか?

著者:スーザン・セリガソン、出版社:早川書房
 Hカップ記者が見た現代おっぱい事情、というサブ・タイトルのついた本です。男の私にはHカップと言われても、まったくピンときませんが、巨乳用なのでしょうね。
 Hカップに魅了されるのは人間ばかりではない。友人の飼う体重90キロの山羊は、著者が頭をなでると、右のおっぱいを夢中になってかみ、歯型を残した。ヒトと話しのできるメスゴリラのココは、おっぱいに目がなかった。女性トレーナーが訓練していると、ココは、しつこく乳首を見せろと身振りで女性に迫り続けた。
 人間のメスだけが動物王国のなかで唯一、乳房をもっている。ほかの哺乳類のバストは、妊娠したときと授乳しているときしか、ふくらまない。Hカップの巨乳は、類人猿のなかで突出している。巨乳は細身のからだを前提としている。
 よきにつけ悪しきにつけ、バストは女性であることをひと目で伝える器官であり、女らしさの象徴である。男性は女性の脚、目、お尻をほめて見とれる。しかし、男性の想像力のレベルを上昇させるインスピレーションを与えるのは、おっぱいである。
 最近の研究では、バストの大きさとウエスト・ヒップのバランスは、これは女の子を測る物差しと言われるが、つかう相手を探している男性が最重要事項として知っておかねばならないことだということが明らかになった。どの文化においても、それは真実で、流行にも左右されない。脂肪をたっぷり乳房に貯蔵している女性は男性にとって魅力的にうつり、彼女はもっとも食糧を得ることができた。栄養の行き届いた女性は、より多くの子孫を残すことができる。
 乳房という器官は、乳腺の束を脂肪で包みこんだものにすぎない。乳房の成長は、最大4年間にわたって続く。どれほど小さな乳房にも、乳腺葉と呼ばれる束が15〜20ある。乳腺葉には、ごく小さい腺房と呼ばれる粒が何千個とついている。
 腺房でつくられた乳汁を授乳期間中に乳首から出す。授乳期間中には、2ミリ以下の細い乳管に乳汁洞と呼ばれる小さな貯蔵場所ができることで、乳房は膨張する。乳房は乳房組織を保護するための脂肪と、それら全体を包みこむ皮膚の関連組織からできあがっている。それを胸部にくっつけているのが靱帯である。ほとんどすべての女性の乳房は左右非対称である。乳房の形は、遺伝子と体脂肪によって決まっている。
 アメリカだけでなく、世界中の女性が美容整形に夢中だ。美容整形手術の4分の1は世界30か国で行われていて、とくに豊胸手術に励む女性の多いのが、アメリカ、ブラジル、メキシコ、オーストラリア、フランス、ドイツ、ギリシャ、スペイン、そしてスイス。オーストラリアでは1日に100件の美容整形手術が行われていて、その大半が人工乳房を入れるもの。男の私からしても、その気持ちは分かります。
 豊胸手術は生理食塩水かシリコンを入れる。その合併症として、皮膜の拘縮として知られる、筋肉や結合組織の硬化。免疫反応が起きて、人工乳房を入れた疵痕組織周辺が収縮し、ときには岩のように固くなってしまう症状が出る。
 大半の豊胸手術は、生理食塩水を満たしたシリコンフォームをつかっている。3000ドルから6000ドルの費用がかかる。そして、年間6万人の女性が人工乳房を取り出している。副作用が出たら、やはり困りますよね。
 ところが、減胸手術もある。乳房が大きすぎて嫌だという女性もいるわけなんですね。この減胸手術は、完全に回復するまでに1年はかかり、かなりの苦しさをともなう。
 乳房は文化なのだ。たかが乳房、されど、乳房である。
 女性の気持ちが少しだけ分かったような気分になる本でした。
(2007年10月刊。1400円+税)

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君のためなら千回でも(上)

著者:カーレド・ホッセイニ、出版社:早川書房
 残念なことに映画はまだ見ていません。テレビは見ない私ですが、映画のほうは、できたら月に1本は見たいと思っています。でも、なかなかそうもいきません。見たい映画を見逃してしまい、残念な思いをすることもしばしばです。先日は、朴大統領暗殺を描いた『有故』を見にいこうとしたら、タッチの差で終了していました。そんなときにはDVDででも見たいのですが、1回しか見ないのに5千円もするのはもったいない気がして、ついに見ないままということも少なくありません。かといって、500円で見れるDVD映画というのは著作権切れの古いものですから、困ってしまいます。
 アフガニスタンを舞台とした切ない小説です。パシュトン人とハザラ人との民族差別がからんでいて、泣かせます。
 私も本を書いて出版したことがあるのですが、私の本を読んだ東京の女性弁護士から、文章を書けることはよく判ったけれど、もっと読者を魅きつけてやまない小説を書いてほしいという課題を突きつけられてしまいました。私も、なるほどと思いました。と言うのも、私の読者に対して訴えたいことは山ほどあるのですが、それをうまく読者の心の奥底深くに届ける努力に乏しいというか、配慮に欠けていることを自覚せざるをえません。その点、この本は、恐らく著者の体験をベースにしつつ、読み物として昇華しているからこそ、多くの人々を魅きつけたのだろうと思います。
 前置きが長くなりました。少し、この本についても紹介します。ことは、アフガニスタンがまだ平和な独裁国家だったころから始まります。著者は1963年生まれ。「友だち」のハッサンは1964年冬に生まれた。
 ハッサンはハザラ人の召使いの子どもで、学校に通わず、字も読めない。著者はハッサンと一緒に仲良く遊びながらも、ハッサンを馬鹿にしている金持ちのボンボン。しかし、父親はそんな著者をたしなめる。
 凧合戦はアフガニスタンにおける子どもの遊びのなかでも最大のお祭りだ。1975年冬の凧合戦で著者は優勝できた。しかし、凧を回収するときに、著者は人間として許されない過ちを犯した・・・。
 このあとは書きません。
 本のオビに書かれている言葉を紹介します。「君のためなら千回でも!」召使いの息子ハッサンは私にこう叫び、落ちてゆく凧を追った。同じ乳母の乳を飲み、一緒に育ったハッサン。知恵と勇気にあふれ、頼りになる最良の友。しかし、12歳の冬の凧合戦の日、臆病者の私はハッサンを裏切り、友の人生を破壊した。取り返しのつかない仕打ちだった・・・。
 なぜ、こんなひどい仕打ちを主人公がしたのか、私には理解できません。
 ハッサンをいじめた少年がこう言っています。アミールというのは主人公のことです。
 アミールのために自分を犠牲にする前に、よく考えろ。アミールのところに客が来たとき、おまえがゲームの仲間に入れてもらえないのか不思議に思ったことはないか。アミールは、なぜ、ほかに遊び仲間がいないときしかおまえと遊ばないのか。なぜなら、アミールにとっておまえはただの醜いペットにすぎないからだ。退屈なときにからかう相手、腹が立ったときに八つあたりする対象なんだ。自分をごまかして、それ以上の存在だなんて、うぬぼれるんじゃない。
 これを聞いて著者は思わず声をあげそうになった。このとき言葉を発していたら、残りの人生はまったく違ったものになっていただろう。だが、結局、なにも言えなかった。麻痺したように身体が動かず、目だけがじっと釘づけになっていた。
 いやあ、すごく重たい小説です。子ども心というのも、なるほど、馬鹿にしてはいけません。私は弁護士として離婚騒動のとき、子どもの親権者をどちらがとるか争われているときには、せめて子どもの真意を大切にするようアドバイスするようにしています。
(2007年12月刊。660円+税)

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2008年3月18日

反米大陸

アメリカ

著者:伊藤千尋、出版社:集英社新書
 9.11と言えばアメリカ人も日本人も、2001年のテロ事件を思います。ところが、南米チリの人は、1973年の9月11日を思い出すというのです。そういわれると私も思い出します。チリのアジェンデ大統領が軍部クーデターのために殺された日です。そうです。あのピノチェトです。ピノチェトは後に大統領になりましたが、最近、殺害責任を追及されました。今の大統領は、軍部から迫害を受けた体験者です。
 中南米でアメリカの介入を受けなかった国はない。アメリカは中南米を「アメリカの裏庭」として、自国の勢力圏とみなしてきた。これらの国は、「天国からはあまりに遠く、アメリカにはあまりに近い」といわれる悲劇に泣かされてきた。うむむ、そういう表現があるのですね。日本も同じようなものですよね。
 「南米のABC」と呼ばれる主要3か国のアルゼンチン、ブラジル、チリをふくむ、南米12ヶ国のうち9ヶ国が左派政権となった。今や南米で明確な親米右派政権はコロンビアだけ。コロンビアは旧ソ連派ゲリラとの内戦が続き、アメリカから膨大な軍事援助を受けている。
 ベネズエラ、エクアドル、ボリビアと、キューバ革命が南に輸出されている。
 南米に反米政権が次々に生まれたのは、アメリカの圧力によって、中南米の各国で1990年代にすすめられた新自由主義の経済政策によるものだ。
 ボリビアでは、高地に住む先住民にとって、コカは高山病の症状をいやす薬である。高山病を防ぐためコカ茶を飲む。コカは化学精製して初めて麻薬になる。化学精製しなければ、まっとうな作物である。
 キューバにはアメリカのグアンタナモ基地が今もある。今から100年以上も前、キューバが独立するとき、アメリカが力づくで奪ったもの。アメリカの借り賃は年間4000ドルにすぎない。キューバ政府は、グアンタナモ基地の即時返還を要求し、小切手の現金化を拒否している。キューバ人は、はじめアメリカを解放者と思ったが、実は、支配者がスペインからアメリカに変わっただけだった。
 アメリカはパナマ運河の利権を維持するため、パナマの完全支配を目ざした。国家の経済政策に介入し、中央銀行の設立を許さなかった。そのため、パナマには、今でも通貨を管理する中央銀行がない。独立国として当然の独自の通貨をもたない。紙幣は米ドルがそのまま流通している。
 アメリカは、1946年に米軍アメリカ学校を設立した。年に1000万ドルにのぼる学校経費は、アメリカの国防費から出ている。米軍アメリカ学校は、年間1000人の中南米エリート軍人を集めて教育している。主眼は、国内の反政府派の鎮圧と弾圧である。心理作戦や尋問方法という科目があり、拷問法を教える。拷問の実際のビデオを上映しながら、アメリカ人医師が人間の神経系統の図を示し、身体のどこを、どう責めたら効き目があるのか教える。
 うひゃあ、ひどーい。むごい教育です。いえ、こんなのは教育とは言わないでしょう。
 アメリカがあとで捕まえたパナマのノリエガ将軍も、この学校の卒業生です。ペルーのフジモリ大統領とともに秘密警察の親玉として弾圧した張本人のモンテシノスも卒業生でした。この学校の卒業生は6万人にのぼります。「民主主義」を標榜するアメリカっていう国は、反民主主義を実践する国家だっていうことを、日本人の私たちも忘れてはいけませんよね。
 日曜日はポカポカ陽気でした。庭仕事の楽しい春となりました。庭のあちこちに土筆(つくし)が顔を出しています。アネモネがあでやかな紅、紫、白、ピンクの花を咲かせています。チューリップもぐんぐん伸びて、あと10日もしたら咲き出すことでしょう。アジサイを植えかえてやりました。増えすぎた水仙を泣く思いで掘り上げてコンポストに放りこみました。増えすぎても困るのです。これからジャーマンアイリスの移しかえ、梅の木の剪定などが待っています。
 庭仕事をして、しっかり汗をかいたところで早々と風呂に入って汗を流しました。湯船につかりながら、庭仕事をしているとき、一度もくしゃみをせず、目も痒くならなかったことに思いあたりました。あれっ、花粉症じゃなかったのかな・・・、と。でも、夜にはやはり鼻で息ができずに口を開けて苦しい思いをしました。
(2007年12月刊。700円+税)

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2008年3月17日

脳研究の最前線

著者:理化学研究所、出版社:講談社ブルーバックス
 脳科学総合研究センター編で上下巻あります。個人論文の寄せ集めですが、興味深い内容です。人間って、いったい何者なんだろう、と考えたとき、脳の作用を抜きに語ることはできません。ですから、私は、高校生のころに大脳生理学の研究をしたいなどと大胆不敵なことを妄想したこともあって、脳科学にはいつも関心をもってきました。このブログでも、何回も脳に関する本を紹介しています。ところで、高校3年に進級する直前、私は自分をふり返りました。能力と適性を考えたとき、数学的思考力がまったく乏しいことを自覚せざるをえません。幸いにして文章のほうだけは少々の自信がありましたので、それなら文系を目ざすしかない。そう決断したのでした。その決断は間違っていなかったと、40年以上たった今でも確信をもって断言できます。それでも、高校3年までは、一応、理系進学クラスにいて、数?まで履修しましたし、今でも、物理や化学そして生物系統の本は大好きです。ところが、数学については、からっきし苦手です。こればかりはどうしようもありません。久留米に、毎年の大学受験問題を解くのが趣味だという弁護士がいますが、すごいですね。私なんか問題文を新聞紙上で見るだけで尻ごみしてしまいます。
 アルツハイマー病は、全世界に2000万人の患者がいる。一番多いのはアメリカで 500万人。患者の増加速度が大きいのは、中国とインド。
 アルツハイマー病を発症すると、記銘力をふくむ認知能力が進行的に低下し、さらに、せん妄(意識混濁、幻覚、錯覚)などの精神症状を呈することがある。認知能力の低下は、通常、エピソード記憶(最近、自ら行ったことや見聞きしたことに対する記憶)の異常から始まり、言語能力や判断力が失われ、自分の居場所や家族の顔がわからなくなるほどに進行する。一般に、運動失調は少ないので、徘徊などの問題行動の原因になる。精神症状としては、性格の変化、うつ症状、異常な攻撃性、根拠なき嫉妬、妄想などが典型である。
 ほとんどの人間が、長生きしたらアルツハイマー病を発症する宿命にあることが判明した。65歳以上で1割、85歳以上で5割、100歳以上で9割が認知症を患っている。
 アルツハイマー病は、早期発症型と晩期発症型に分類される。早期発症型は、20代後半から60歳ころまでに発症する。60歳以降の発症は、晩期発症型。
 これを読んで、私の叔母もアルツハイマー病だったんだと思い至りました。同居していた甥が物を盗ったとか、あらぬことを口走るようになっていたのですが、単なる被害妄想とばかり思っていました。
 家族性アルツハイマー病患者は、正常に成長し、成人に達したあと、30歳ころから 60代にかけて発症する。生まれる前から原因遺伝子変異を有するのだから、潜伏期間が30年以上あるということになる。
 明確な遺伝性のないものを、孤発性アルツハイマー病と呼び、晩期発症型の大半が、これに相当する。
 アルツハイマー病が特徴的なのは、高齢者の罹患率の高さ。人類は、文明の進歩によって、予想もしなかった難問に直面した。孤発性アルツハイマー病の原因は、加齢にともなう脳内ネプリライシンの活性低下である可能性が強い。
 現在、アルツハイマー病治療のために世界でもっともつかわれている医薬品はドネベジル(製品名はアリセプト)。これはエーザイの杉本八郎博士が開発した、世界に誇る日本の成果。年商1000億円。
 脳を効率よく動かすには、「活性化」するだけではダメ。脳は、それぞれ異なる機能をもつ、たくさんの脳領域が協調して形づくっているシステム。だから、もし一部の脳機能だけを突出させることができたとしても、システムとしての全体のバランスを壊してしまい、脳機能は低下するだけになってしまう。脳というシステムをうまくつかうのに一番大事なのは、まずバランスを取ること。
 今の日本で、働けなくなってしまう病気というのは、トップ5のうち4つまでが精神疾患。うつ病、アルコール依存症、統合失調症、躁うつ病。精神科病院の入院患者の平均年齢は60歳。ということは、新たに入院する人は多くないことを意味している。
 統合失調症は、いわゆる遺伝病ではない。しかし、その発症に遺伝子が関係していることは間違いない。統合失調症は、その発症前から、ひきこもり、友人と遊べない、新しい環境に慣れにくい、動作がぎこちないといった行動特徴が認められる。
 統合失調症は、思春期以後に発症する疾患である。
 私のクライアントにも、これらの病名をもつ人が何人もいます。それから、最近はパニック障害だという人も少なくありません。どうして、こんなに増えたのでしょうか。
 揺れる電車の中で本が読めるのはなぜか。電車が揺れると頭が動き、それにつれて目もずれるから、見つめている活字がずれてしまう。しかし、頭が動くと、耳の奥にある三半規管が動きを感じて信号を脳に送る。この信号が小脳に伝わり、ここのニューロンの指令で、目の筋肉を反対方向に動かす。頭が動くと、ちょうどその分だけ目を反対側に動かして補正する。これが素速くできるので、揺れる電車の中でも、目は活字からずれない。これは、フィードフォワード制御で、正常の機械でなされるフィードバック制御とは違う。先回り制御というフィードフォワード制御である。  
 私は大学生のとき以来、電車のなかで本を読んでいますが、不思議なことに、目は悪くなりません。今でも近視のままですし、メガネをはずさないと本は読めません。
 人間の記憶は、コンピューターの記憶とは、まったく違う。コンピューターでは、記憶すべき事項は、そのまま記号の形で書かれ、記憶装置に蓄えられる。脳の記憶も、ある程度は局在していて、場所場所にちりばめられている。
 海馬は、大脳皮質と連携を保ちながら記憶を整理し、時間をかけて大脳皮質に長期記憶をつくり出す。大脳皮質では、情報を処理する場所に、それに関連する記憶が蓄えられ、記憶を用いた情報の処理が行われる。処理と記憶は一体となっている。
 人の記憶の特徴は、連想性にある。組みあわさった事項は、その一部から全体を思いさせる。一つの記憶事項から、芋づる式に、関連した事項を次から次へと思い出す。連想は、いろいろな飛躍をともなうことがある。創造性は、この飛躍から生まれる。
 脳の不思議さ、人体の神秘を考えると、この精妙なる存在である人間をもっと大切にしたいなと思います。
(2007年10月刊。1140円+税)

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2008年3月14日

臥竜の天

日本史(戦国)

著者:火坂雅志、出版社:祥伝社
 伊達政宗の生涯を描く、スケールの大きな時代小説です。
 東北地方、出羽米沢城で生まれた伊達政宗は、生みの母から愛されなかった。母は次男を溺愛し、あばた面で独眼の政宗を遠ざけた。天然痘にかかって、右眼を失明したのである。政宗を支えたのは、父の輝宗。その輝宗が畠山勢に拉致されていこうとしたとき、政宗は、畠山勢に向かって鉄砲を打ちかけた。そして、輝宗はあえなく最期を遂げた。
 のちに、母の意志に逆らって行動しようとした政宗は母の招待宴で毒を盛られた。そこで、政宗は母はそのままにして、弟を自らの手で殺した。家中の政争の種を根絶したのである。ひやあ、すごい時代ですね。何も罪のない弟を刺し殺したというのです・・・。
 伊達家は、最上と争い、佐竹と争い、一進一退。そこへ秀吉が登場する。秀吉になびくのかどうか。政宗は秀吉に簡単になびく気はなく、遠ざかっていた。
 しかし、ついに北条討伐にやって来た秀吉のもとへ参上することにした政宗は、決死の白い陣羽織姿でのぞんだ。いやあ、たいした度胸です。恐れを知らない若者だからこそ出来たことでしょうね。
 もう一度は、蒲生氏郷に秀吉支配に反抗する一揆をあおった証拠を握られ、秀吉に申し開きができない状況に追いこまれたとき、再び白装束になった。こうやっても何とか生きのびいった政宗の運の強さはすごいものです。
 まだ20歳台の青年武将という気迫が秀吉に気に入られたようです。中央政界に面従腹背を続けた気骨の士だったことがよく分かる本でした。
(2007年11月刊。1900円+税)

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フクロウ

生き物(小鳥)

著者:石川 勉ほか、出版社:文一総合出版
 フクロウの生態を紹介する素敵な写真集です。
 フクロウは、メンフクロウとフクロウの2科からなる。
 最小のフクロウは、中南米にすむコスズメフクロウで、前身12センチ、重さ40グラム以下。最大のフクロウは、ワシミミズクなどで前身70センチ、体重も4キロをこえ、翼を広げると2メートル近い。
 フクロウの耳は、左右の穴の高さと向きが非対称のため、音源から左右の耳までの距離に差が生じ、両耳に達する音の時間差と音圧の差から音源を立体的に突き止めることができる。
 フクロウは森の忍者と言われるほど、音もなく飛ぶことができる。それは、身軽な体重であるうえ、幅広く丸みのある翼と体の羽毛には表面に細かく柔らかい毛が生えており、初列風切の外側がギザギザと鋸歯状に発達していて、飛行中に音がしないことによる。新幹線のパンタグラフや風力発電は、この構造をヒントに開発されていて、すぐれた消音効果を発揮している。
 フクロウの平均寿命は8年で、3〜4年目に初めて繁殖し、その後5年くらい繁殖を続ける。しかし、20年以上も生きる個体もいる。
 フクロウは、通常は一夫一婦で、つがいが分かれる割合は低く、どちらか死なない限り生涯、つれ添う。
 実は動物園でしかフクロウを見た覚えはありません。フクロウって、あまり身近な動物ではありませんが、なんとなくユーモラスな顔つきに魅かれてしまいます。
(2007年11月刊。1600円+税)

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貸し込み

社会

著者:黒木 亮、出版社:角川書店
 オビには、モラルなき銀行の実体を暴く超一級の経済ミステリ、と書かれています。脳梗塞患者への過剰融資、書類偽造、元上司の偽証・・・。濡れ衣を着せられた元行員が、組織悪に敢然と立ち向かう。
 いやあ、銀行マンって、ホント、大変な職業なんですね。バンカー、とも呼ばれますが、この本を読むと、なんだか気の毒になるほどダーティー・ワークをさせられるようですね。とりわけ、アンダーワールド(要するに暴力団、ヤクザ)とのつきあいは、大変だろうと思います。
 岩淵頭取は、周囲との調和を図るあまり、実行力に欠けた。個々の案件の問題点を指摘されると、妙に物わかりが良くなって、引き下がってしまうことが多かった。しかし、多少の波風を立ててでもリーダーシップを発揮してほしかった。頭取として成功しなかった理由の一つは、そこにあった。
 アメリカにはディスカバリー(証拠開示)という制度があり、訴訟を提起したら、原告は被告側の文書を広範囲に閲覧し、被告側の役員や従業員に対して質問する権利が認められている。ディスカバリーの対象は、企業の文書にとどまらず、従業員が別に保管している文書、Eメールや会議の非公式メモなど関連するすべての文書に及ぶ。
 しかし、日本には、このような制度はない。そのうえ、裁判官が、文書提出命令の適否が争われるのを避けようとして、提出命令をなかなか出さない。
 銀行がまともに対応してこないため、主人公は週刊誌や月刊誌にとりあげてもらって銀行の非を社会的に明らかにしようと決意します。しかし、銀行側も、お金の力もふまえて機敏に対応し、編集部に圧力をかけます。
 果たして、このあとどうなるのか、ハラハラドキドキの展開です。さすがプロですよね。読ませる本です。
 貸し込め。あらゆる理由を見つけて、貸し込むんだ。
 これは、実際にバブル前までの日本の銀行のモットーだったのでしょうね。恐ろしいことです。
(2007年9月刊。1400円+税)

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2008年3月13日

ネットカフェ難民と貧困ニッポン

社会

著者:水島宏明、出版社:日テレノンフィクション
 現代日本の青年を取り巻く状況を一語であらわす言葉、それがネットカフェ難民です。フリーターとかハケンとか言っているうちはまだ良かったのです。ネットカフェも、単なる流行語でしかありませんでした。ホームレスも中高年の話だと思っていました。ところが、青年たちがネットカフェで寝泊まりしている。社会のなかに定着できない青年が大量に存在する。そのことを、たったひとつの言葉であらわしたのです。衝撃的な言葉でした。私は、福岡・天神にあるネットカフェを、恐る恐るのぞいてみました。いえ、もちろん暴力団事務所をのぞくような怖さがあったわけではありません。夜10時ころでしたが、たしかに、若い男性も女性も次々に入ってきます。背広姿のサラリーマンもやって来るのです。ええーっ、まさか、帰るところがないはずはないだろうに、なんで、こんな夜遅くに、ネットカフェなんかにやって来るのだろう、不思議に思いました。なんとか全身を伸ばせるようなブースがいくつもあります。でも、こんなところで寝ても、安眠できないでしょうし、身体の節々がきっと痛くなることでしょう・・・。
 著者は、このネットカフェ難民という言葉をつくったジャーナリストです。テレビの世界で報道ドキュメンタリーの制作と、ロンドンとベルリンに9年あまり海外特派員をしていました。日本の東京で、1晩1000円で過ごせるネットカフェで暮らす人たちがじわじわと増えている現象は、なんだかおかしいぞという問題意識をもったのです。なーるほど、ですね。私も、日テレの特集番組はビデオでみましたので、この本に紹介されている写真は記憶があります。
 ネットカフェは、韓国に3万店ある。日本には、まだ4000店ほどしかない。東京・蒲田にある格安ネットカフェは、1時間100円。安くしたところ、店の回転率は上がり、客の入りは倍近くになった。200席ある店内の一日の延べ利用客は300人。ネットカフェを利用する人の食費は、1日1000円。チェーン店の牛丼380円。格安外食レストランのハンバーグ定食380円。ハンバーガー1個100円。赤飯弁当180円。弁当屋の豚汁120円。これを一度でなく、2回に分けて食べる。
 ネットカフェ生活は、アパート暮らしよりも効率が悪い。外食代、コインロッカー代、コインランドリー代、シャワー代など、アパート生活ではかからない費用がかさむ。
 さらに、新品の下着を使い捨てにしたり、意外に高くつくのがネットカフェ生活だ。ほとんど、その日暮らしの自転車操業状態になっている。
 徹底して、自尊感情がない。必死さがなく、無気力で、可愛げがない。できれば放っておきたいタイプ。怠情けとも目に映る。自分はダメな奴・・・、と思っている。
 いま、日本に起きているのは、一般社会の寄せ場化である。かつての山谷などで見られた光景が、いまや日本全国津々浦々に広がっている。それも、日雇い派遣という形をつかって、合法的に。しかも、ケータイ、メールをつかって現代的に・・・。
 専門的なスキルのないハケンが急増している。派遣の対象業種が拡大し、単純労働にまで派遣が恒常化している。日雇い派遣のように細切れで低賃金の労働では、何年やってもスキルの向上や経験の蓄積につながらない。
 1985年に労働者派遣法ができて、派遣は解禁された。1999年の労働者派遣法の改正によって、派遣は原則自由化された。2003年には、製造業への派遣も解禁された。
 そして、日本の大企業は空前の利益を得ている。4年連続で過去最高となった。景気回復にともなう企業業績は好調だ。人材派遣業は、2006年度は4兆351億円で、前年比41%増。01年度の2倍だ。
 働く者が、部品みたいに兵器で使い捨てされる社会。正社員も安心できないし、非正規だともっと人間扱いされない。一度落ちると、トコトン落ちてしまって、はいあがれない。ネットカフェ難民は、そんな社会の象徴だ。とくに若い人たちがボロボロにされている。こんな状態に無関心でいてよいわけはない。社会全体が意識して取りくんでいくべきだ。
 私もまったく同感です。お互い、できるところから、やっていきましょうよ。それにしても、日テレも、たまには、いい番組をつくるものですね。心から拍手を送ります。
 とりたての竹の子が届きました。シャキシャキとした歯ざわりで、美味しくいただきました。食べながら春を実感したことです。
 隣の家のハクモクレンの白い花が咲いています。朝、庭に出ると、ウグイスがあちこちで澄んだ声でホーホケキョと鳴くのが聞こえます。メジロの姿は見えますが、ウグイスのほうは、声はすれど姿は見えず、です。
 鼻づまり解消のため、鼻うがいを始めました。塩を入れると、そんなに苦しくはないのですね。昼間のポカポカ陽気はいいのですが、花粉症には悩まされます。
(2007年12月刊。952円+税)

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2008年3月12日

公認会計士VS特捜検察

司法

著者:細野祐二、出版社:日経BP社
 粉飾決算したとして無罪を主張しながら一審も二審も有罪となった公認会計士が、いまの司法制度を厳しく弾劾した本です。検察と裁判所だけでなく、弁護士までもが鋭く指弾されています。経理処理のあり方については分からないことだらけですが、著者の憤慨ぶりはよく伝わってくる本です。
 日本の司法は激しい制度疲労を起こしている。制度疲労は、検察官だけでなく、裁判所にも、そして弁護士にもある。
 報道記者は、なぜ真実を報道しないのか。司法記者クラブの存在、そして、99.9%の起訴有罪率のなかで、報道機関自身が本来の健全な批判精神を忘れ、逮捕すなわち有罪という予定調和に安住しているのではないか?
 検察官は取調の冒頭でこう言った。
 あなたには黙秘権がある。しかし、行使するな。黙秘権を行使することは、あなたのためにならない。今日の(任意の)取り調べについては、弁護士にも話してはならない。ところで、テープレコーダーなどを持ち込んでいないだろうな?
 否認すると・・・。
 いい加減にしろ。すべて分かっているのだ。いつまで、ふざけた態度をとっているのだ。検事の声は怒りに震えている。立ったまま大声を出し、足を踏み鳴らしながら、机の上から身を乗り出すようにして、まくし立てる。自分の大声で興奮し、その興奮で、また怒りが加速される。
 著者は高血圧のため常に水分を補給しなければ血液の循環障害が出るので、医師からはこまめに水分を補給するよう注意されているのに、飲むことが許されない。ところが、取り調べにあたった検察官は、大きな湯飲み茶碗でお茶を飲みながら取り調べをした。
 検察官は、こう言った。
 検察官面前調書は、被疑者の言うことをそのまま書くものではない。被疑者と検察官の合作なのだ。したがって、調書には検察官も署名する。
 特捜検察は時流に乗った事件の立案を求める。公認会計士の責任がマスコミをにぎわしているので、本件は立件された・・・。
 著者の勾留期間中の取り調べは、21日間、合計95.5時間にわたって行われた。190日後に、やっと保釈された。逮捕の翌日から最初の日曜日までの6日間は、徹底した脅迫で痛めつける。その後は、罵声や恫喝による脅迫は止む。その後の10日間は、シナリオにあわせた論詰に変わる。最後は、昼に自白調書への署名を説得し、夜になると強要するというパターンだ。
 21日間の勾留期間中の取り調べで、何度も、「もうダメだ。署名するしかない」と観念した。それを踏みとどまったのは、弁護士の励ましがあったから。
 判決は、検察官の論告をそのまま認め、求刑どおりの懲役2年、執行猶予4年だった。即日、控訴した。
 弁護人は、アリバイ証明のための証拠請求をしてくれなかった。
 どうせ、請求しても、検察官が開示するかどうか分からない。裁判官が証拠開示命令を出してくれるかどうかも疑問だ。弁護人は、こう言った。
 でも、やってみないと分からないではないか。著者は、こう批判します。もっともです。でも、私も、ときどき同じようなことを言うことがあります。
 日本の弁護士は、どうせ有罪に決まっているという日本の司法の予定調和のなかで、多かれ少なかれ検察官となれあい、裁判官に対する執行猶予おねだり型の弁護活動しか行わない。容疑を全面否認して検察官と全面対立する被告人の弁護においても、弁護人は裁判所の心証を良くするなどと非論理的な理屈を言い立てて、やはり無罪判決おねだり型の弁護活動を行ってしまう。これでは、検察官も裁判官も、弁護士なんか怖くない。だから弁護士は、検察官からも裁判所からも軽んじられる。なぜ法の正義と被告人の人権を全面に打ち立てた弁護活動をしないのか?
 検察官は、証人尋問の前にリハーサル(証人テストという)をやる。そして、証言が終わると、検察官の部屋で反省をする。これは、前もって証言のあと検察官の部屋に来るよう証人はクギを刺されることによる。検事の手直しを受けたうえ、丸暗記させられた。 40回ものリハーサルをやらせられた。
 要するに、この事件は、著者が捜査段階で公認会計士としての守秘義務を理由に供述調書への署名を拒否したことから、捜査当局が不当な私憤を抱き、その私憤の上に強制捜査を行ったところ、たまたま机の引き出しから100万円の現金が発見されたことから、証拠にもとづかないで逮捕したことによる免罪事件だ、と主張しています。
 著者の怒りが迫力をもって伝わってくる本です。裁判員裁判を批判する人が少なくありませんが、私は今の職業裁判官による裁判に任せていいとは思えませんので、裁判員裁判を地道にすすめていき、少しでもより良いものに改善していったほうが良いと考えています。
(2007年11月刊。1800円+税)

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2008年3月11日

南京事件論争史

日本史(現代史)

著者:笠原十九司、出版社:平凡社新書
 日本人として、読んでいるうちに、思わず襟を正される思いのする本です。「南京事件の幻」とか、「南京での30万人大虐殺なんて中国政府のデッチ上げだ」という本が書店で山積みされている日本の状況は、本当に異常だと思います。ナチスによるユダヤ人のホロコースト(大虐殺)なんてなかったと叫んだ人がドイツにもいましたが、ちゃんと有罪になりました(と思います)。ところが、現代日本では依然としてマスコミで堂々と通用しており、教科書にもその悪影響が続いています。ほんとうに、日本には懲りない面々があまりにも多いと思います。
 日本人は南京事件を忘れても、世界は忘れない。日本人がなかったことにしても、世界はなかったとは認めない。世界各国は、忘れてはならないし、なかったことにしてはいけないと考えている。なぜなら、このような非人道的な行為が二度と繰り返されてはいけないからだ。南京大虐殺論争は、日本の今日の民主主義にかかわる深刻な問題なのである。
 これには私も、まったく同感です。南京事件、つまり、南京で大虐殺があったことは日本の当時の支配層も認めていたことです。
 前に紹介しましたが、昭和天皇の弟である三笠宮崇仁の『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)にも、「日本軍の残虐行為を知らされました」と書かれています。三笠宮は1943年に南京にいたのです。岡村寧次(やすじ)中将(のちに大将)も、「南京攻略時に4.5万に大殺戮、市民に対する掠奪・強姦、多数ありしことは事実なるごとし」と書いています。
 田中新一・陸軍省軍事課長は「陸軍内部における多年の積弊が支那事変を通じて如実に露呈せられた」としています。当時の日本政府も軍部上層部も事実を知っていたものの、国民に対しては隠してしまったのです。
 南京事件は、南京攻略の過程で起きたことではなく、12月17日の南京入城式のあと、兵士たちの休養期間に多発している。南京事件でもっとも犠牲者数が膨大だったのは、中国軍の投降兵、捕虜、敗残兵の殺害であった。そして、違法行為であるとの自覚のもと、徹底して証拠隠滅が図られた。
 南京事件は、戦後の東京裁判で審理の対象となった。それは、発生したときに外交筋や報道関係者を通じて世界に報道され、国際的な非難を巻き起こし、日中戦争における日本軍の残虐事件の象徴として世界に知られていたから。
 南京占領後の1937年12月17日の時点で、南京城にいた憲兵は、わずか17人にすぎず、司令部には法務部もなかった。松井石根・中支那方面軍司令官は、その軍紀・風紀を取り締まるための軍編成をまったく考えず、軍中央の統制を無視し、補給輸送体制も無理なまま、上海戦で消耗した軍隊に南京攻略を強行させたことが南京事件の直接的な原因になった。
 東京裁判において、日本人弁護団も規模はともかくとして、南京事件があった事実は認めていた。インドのパール判事も、日本軍が南京で残虐行為があった事実は認定している。
 南京事件否定論者たちは、すでに東京裁判の審理において否定された弁護側の主張を相も変わらず、くり返しているにすぎない。
 南京は人口100万人とみられていて、日本軍占領下に20〜25万人が残留していた。つまり、大虐殺を免れた住民が20〜25万人いたということである。それを虐殺前の南京の人口としてはいけない。
 文科省(文部省)の歴史教科書検定で、南京事件の記述をさせまいとする姿勢は現在にいたるまで一貫している。
 南京事件を否定する田中正明は、資料の改ざんを平然におこない、原文にない文章を自ら加筆までしている。いやあ、これって、ひどいことですね。許せません。
 「偕行」に南京事件の特集をしたとき、編集者の意図に反して、虐殺した事実が明らかになった。そこで、次のように謝罪した。
 不法殺害1万3千人はもちろん、少なくとも3千人とは途方もなく大きな数字であり、この大量の不法処理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった。
 これこそ、日本人のとるべき態度だと私も思います。
 いやあ、日本人って、本当に過去の歴史に学ぼうとしない民族なんですよね。それでも、山田洋次監督の映画『母べえ』を150万人の日本人が見たそうですから、まだあきらめたわけではありません・・・。
(2007年12月刊。840円+税)

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2008年3月10日

神なるオオカミ(上巻)

中国

著者:姜 戎、出版社:講談社
 うひょー、すごい本です。圧倒されてしまいました。著者は、私より少しだけ年長ですが、同じ団塊世代です。文化大革命のときにモンゴルの草原に下放されました。その苛酷な体験をふまえた、世にも珍しい小説です。
 著者は、北京の知識青年として、志願して内モンゴル辺境のオロン草原に下放され、 1979年に中国社会科学院の大学院試験に合格するまで11年間、過ごしました。
 草原の人間は決してオオカミの毛皮を敷き布団になんかしない。モンゴル人はオオカミを敬っている。オオカミを敬わないのはモンゴル人ではない。草原のモンゴル人は、たとえ凍え死んだって、オオカミの毛皮をつかわない。オオカミの毛皮の敷き布団で寝るようなモンゴル人は、モンゴルの神霊をけなしている。
 オオカミは草原を守る神だ。天は父で、草原は母だ。オオカミは草原の害になる生き物しか殺さない。だから、天がオオカミをかばわない理由はない。
 草原の遊牧民の視力はよいが、オオカミの視力にはかなわない。しかし、単眼鏡をつかうと、オオカミの視力に近づける。
 オオカミとは命がけで戦うだけでは無理だ。根気もなければならない。根気よく地面に伏せておかなければいけない。
 新鮮な黄羊の焼き肉は、モンゴルの代表的なごちそうだ。とくに、猟が終わってから、狩り場で火をおこして焼きながら食べるのは、古くはモンゴルのカーン(汗)や王侯貴族が好んだ楽しみであり、草原の狩人たちにとっても逃してはならない愉快な集まりである。
 オオカミはモンゴル人の命の恩人だ。オオカミがいなかったら、チンギスカンもいないし、モンゴル人もいなかった。草原では、オオカミの餌を食べない人間は、本物のモンゴル人ではない。
 モンゴル人は天葬する。草原へ使者を運び、オオカミに食べてもらう。死者を牛車にのせて草原へ運び、牛車から死者が揺れて落ちたところが、死者の魂が天へ昇る地である。死者を裸にして草原のうえで、仰向けに寝かせる。この世にやってきたときと同じように、無一物で平然とした姿である。死者はすでにオオカミのものである。もし3日後に死体がなくなって、骨しか残っていなければ、死者の魂は天のところへ昇っていったことになる。天葬のあとは、必ず、その場所を確認しなければならない。
 うひゃあー、チベットの鳥葬のようなことが、モンゴルでもあっていたのですね・・・。草原で、もっとも辛抱強くチャンスを探すのはオオカミである。チャンスを待つ戦争の神、それがオオカミなのである。
 モンゴル草原では、オオカミにとって、牙が命である。オオカミのもっとも凶悪で残忍な武器は、上下4本の鋭い牙である。牙がなければ、オオカミの勇猛、果敢、知恵、狡猾、凶暴、残虐、貪婪、傲慢、野心、抱負、根気、機敏、警戒、体力、忍耐などのすべての品性、個性、性格は、一切がゼロになる。オオカミの世界では、片目が失明しても、足を一本ケガしても、耳が二つなくても生きられる。しかし、オオカミは牙をもたなければ、草原での殺生与奪の権を根本から剥奪されることになる。殺すことと食うことを天命とするオオカミにとって、牙がなければ、命がないのも同然だ。
 馬の放牧は、草原でもっとも困難で危険な仕事なので、体が丈夫で、大胆で、機敏で、聡明で、警戒心が強く、飢えや渇き、寒さや暑さに耐えられるようなオオカミか軍人の素質がなければ馬飼いとして選ばれない。
 馬飼いは、オオカミと生きるか死ぬかの戦いの第一線に身を置いているので、オオカミに対する態度が矛盾している。草原では、牛の放牧は一番楽な仕事とされる。牛の群れは朝早く出かけて、夜遅く帰り、草地も家も覚えている。
 馬の群れは、近親相姦を容赦なく取り除くことによって、種の質と戦闘力を高める。
 夏になり、3歳の牝馬が性に目ざめると、牡馬は慈しむ父親の顔をがらりと変えて、自分の娘を冷たく群れから追い出し、母親のそばにいることを決して許さない。狂ったように暴れ出す長いたてがみの父親は、オオカミをかんで追い払うように自分の娘をかんで追い払う。牝の子馬たちは泣いたり騒いだり、懸命にいななき、馬の群れががやがや騒ぎたてる。やっとのことで母親のそばに逃げこんだ牝の子馬を、まだひと息つく間もなく、凶暴な父親が追いかけてきて、けったりひっかいたり、いささかの反抗も許さない。それぞれの家族が娘たちを追い出す騒ぎが一段落すると、もっと残酷な悪戦、つまり新しい配偶者の争奪戦が続く。それがモンゴルの草原の、ほんものの雄性と野性という火山の爆発である。
 牡馬は草原で覇をとなえている。オオカミの群れが、自分の妻と子どもを攻撃してくるのを恐れる以外、世のなかにはほとんど怖いものがない。
 モンゴルの大草原の厳しい掟をかいま見る思いのする、いかにもスケールの大きい小説です。下巻が楽しみです。
(2007年11月刊。1900円+税)

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2008年3月 7日

グーグルとの闘い

アメリカ

著者:ジャン・ノエル・ジャンヌネー、出版社:岩波書店
 アメリカのグーグル社が、6年間で、1500万冊、45億ページをデジタル化すると発表した。2004年12月14日のこと。
 英語(アメリカ語)が他のヨーロッパ言語のほとんどすべてを犠牲にして、いっそう優勢になる。果たして、それでいいのか。著者は鋭い警鐘を鳴らします。
 グーグルは検索者と広告主のニーズを的確にとらえた。グーグルの検索エンジンに占める広告のウェイトは大きい。これまで、本は広告を含まない唯一の情報媒体だった。これは大切なこと。
 グーグルは羽振りの良さの陰にもろさを隠している。もし、グーグルが破産したら、そこでデジタル化された遺産は誰のものになるのか。グーグルの計画の弱点の一つは、長期的な保管・保護について明らかに無関心なこと。これは、商業的な計画に隠された短期性による。投資は何があろうと早々に回収されなければならないからだ。
 英語は多くの国でつかわれているものの、アメリカの影響力が強い。情報ソースがアメリカに集中する可能性が強い。情報ソースの集中は、知らず知らずのうつにアメリカ的な発想へと誘導する。しかし、文化には多様性が不可欠である。
 フランス国立図書館は、1300万冊を収容し、8万点をデジタル作品を所蔵している。フランス文化省によると、国内30の図書館がデジタル化に乗り出している。
 インターネットによって、本の効用がなくなることはない。本は必ず生き残る。インターネット利用者も、結局は、古典的な本の文化に戻る。ウェブは、確実に、書架の奥に埋もれていた作品に光を当てるようになる。
 アメリカが世界を支配しようとしているとき、アメリカはどんな国なのか。改めて確認しておく必要がある。死刑制度が存続する。200万人もの刑務所人口がいる。選挙では、お金が決める。京都議定書を拒否する。人道に対する罪を裁く国際刑事裁判所を拒否する。アメリカ軍はイラク戦争でバクダッドに進駐すると、文化施設ではなく、石油省を保護した。
 アメリカ(ライス長官)は、自由こそがすべての幸福そして平和を保証する手段だという考えを振りかざした。しかし、フランスでは、昔から、自由にも代償があると理解されてきた。
 あのグーグルの言いなりになったら世界の文化の多様性が失われてしまう、そんな危機感をひしひしと感じました。さすがはフランス人です。私もフランス語を勉強し続けて良かったと思いました。
(2007年11月刊。1600円+税)

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母べえ

日本史(現代史)

著者:野上照代、出版社:中央公論新社
 ベルリン映画祭で惜しくも受賞できませんでしたが、山田洋次監督の映画『母べえ』は、実に良い映画でした。見終わったあと、胸のなかに温かい湯たんぽを抱えたような気分にずっと浸っていました。観客150万人突破という宣伝文句が出ていますので、興行成績もまずまずのようで、うれしい限りです。まだ見ていなかったら、今すぐどうぞ映画館に足を運んでくださいね。反戦・平和のためには、今すぐ足を動かすことが求められています。
 山ちゃんが兵隊にとられて南方戦線へ輸送船で運ばれていくシーンがあります。薄っぺらな船です。護送艦隊もないのですから、アメリカ軍の潜水艦に狙われ、魚雷をうち込まれたら、ひとたまりもありません。またたくまに、海のもくずと化していきます。今回、初めて、そのシーンをビジュアルなものとして見ることができました。
 ああ、こうやって、前途有望な多くの日本人青年が無念の死に追いやられたのだなと思うと、それだけで胸が一杯になりました。戦死といっても、まるで意味なく殺されただけなのです。それは、アメリカ軍に殺されたというより、軍上層部の無謀な戦争指揮によって死なされただけ。そうとしか思えませんでした。
 吉永小百合は、私より少し年長なのにもかかわらず、相変わらず凛々しい美しさを保持していて、畏敬の念にかられました。まさに信念の女性ですよね。反戦・平和の志を常日頃から表明しているのにも敬意を表します。
 著者の父親(父べえ)は、1926年に日本大学予科教授に就職し、執筆活動していたところ、治安維持法にひっかかっりました。日大を追放され、1940年から拘置所に入れられた。そのときの家族との往復書簡集がノートに書き写されて残っているのです。
 山田洋次監督の序文のかなに紹介されている詩を紹介します。
 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 遠い他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもいないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こいびとの眼や
 ひょんと消ゆるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や          (竹内浩三、「骨のうたう」)
 戦争反対です。私は、どんな口実であっても、戦争に反対します。
(2007年12月刊。1100円+税)

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虚栄の帝国 ロシア

ロシア

著者:中村逸郎、出版社:岩波新書
 プーチンのロシアからは目を離せません。どうやら景気はいいようです。
 高騰する原油価格に支えられるロシアは、近年、石油バブルの様相を呈している。2006年の世界主要都市の生活費ランキングで、モスクワが前年の4位から一気にトップに躍り出た。3年連続して首位だった東京は3位に転落した。
 世論調査によると、82%の回答者がロシアでの生活を気に入っていると答え、この5年間で収入が36%上昇したという。
 1970年代から80年代までのモスクワに長期滞在するソ連邦構成国の出身者は5万人だった。いまや、250万人の出稼ぎ労働者がいる。旧ソ連構成国で外国への出稼ぎを希望する人の75%がロシアに来る。その90%が不法就労者であり、ロシア社会の闇の部分に囲いこまれている。彼らは家族を故郷に置いて単身赴任でやって来る。家族への毎月の平均的な送金額は100ドルほど。
 出稼ぎ労働者はロシア経済に貢献している。しかし、その働く場所は、たとえば建設現場のように危険と隣りあわせ。もし災害で負傷したらどうなるのか。
 転落死亡事故が起きて遺体の処理に困って、建物の壁のなかに埋めこまれ、あとで悪臭に気がついた入居者が遺体を発見したケースもある。
 うむむ、これってポーの『黒猫』でしたか、同じような話がありましたよね。
 ロシア全土の警察署で姿を消す外国人が急増しているという噂がある。警察に抗議して消された人は、永久に遺体が発見されることはないだろう。
 モスクワ市警察が正式に確認した外国人の合法就労者は10万人にみたない。300万人の外国人労働者の3%ほどでしかない。
 警察官は抜きうち検査にやって来て、お金を徴収する。警察官の規律の乱れはひどい。社会秩序の再生は、警察官の犯罪をいかに取り締まるのかにかかっているとさえ言われている。警察官たちの大規模な犯罪集団が形成されている。
 タジキスタン大使館は、自国民がモスクワの警察官に不当な暴行などを受けたときの心得を新聞にのせている。モスクワの警察官による傷害事件が後を絶たないために、その未然防止策と、暴行を受けたときの対処法を示しているわけだ。そのいくつかを紹介します。
 自分が取調室にいた痕跡を残す。机の裏に何かを書き記し、殴られたときの血痕を残す。暴行を受けたら、医師の診察を受ける。殴った警察官の特徴をよく覚えておく。同情的な警察官がいないか、見つけておく。
 ところが、この対処法は形ばかりで、ほとんど効果はあがっていない。大使館は、ロシアに抗議することができないでいる。
 ロシアにも外国人嫌いのスキンヘッドが台頭している。
 いやあ、ロシアの闇の深さは恐ろしいものがありますね。
(2007年10月刊。2600円+税)

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2008年3月 6日

画文集・シベリア抑留1450日

日本史(現代史)

著者:山下静夫、出版社:東京堂出版
 シベリア抑留の実情を初めて目で見ることができました。これまで書物としてはいくつも読んでいましたが、この本によって初めてビジュアルなものになりました。
 著者はシベリアから帰国して25年後の1974年春、抑留されていた4年間を日記風に書きはじめ、10ヶ月間で書きあげた。その過程で挿画を入れ、7年のうちに400枚あまりの画になった。
 B6ケント紙に黒のボールペンで、ペン画のスタイル。経験したものだけを、現場でカメラのシャッターをきった写真のように忠実に描写することを心がけた。
 いやあ、本当によく描けています。シベリアの酷寒の大自然と、抑留されていた日本兵、そして監視していたロシア兵の人間性がよくぞ描けています。感心してしまいます。
 著者は1945年(昭和20年)夏、抑留されたとき27歳でした。昭和18年に召集されて満州に渡り、佳木斯(チャムス)で敗戦を迎えた。輜重兵聯隊の主計軍曹だった。著者は商家の息子で都会っ子、小柄な身体で体力的にも劣っていたが、不屈の気力と日本人の誇りを胸に仲間に助けられながら、収容所で中隊長となり、肺炎・赤痢・マラリアにかかり、膝にケガをしながらも、昭和24年9月に日本に帰国できた。
 日本軍捕虜のシベリア抑留はスターリンによる1945年8月23日の極秘指令、日本軍捕虜50万人をソ連に移送せよという指令にもとづく。
 抑留者は60〜65万人。抑留中の死亡者は6〜9万人。
 戦争により2500万人という膨大な犠牲者を出して国土が荒廃したソ連は、復興のためノドから手の出るほど労働力を必要としていた。
 比較として、ソ連の捕虜になったドイツ軍人は320万人で、そのうち110万人(34%)が死亡した。ドイツの捕虜になったソ連軍人は570万人で、そのうち330万人(58%)が死亡した。この死亡率の高さは独ソ戦の苛酷さを意味している。
 これに比べると、日本軍人の捕虜の死亡率が1割程度ですんだというのは、まだましだったことになります。驚くべき数字です。
 著者が4年のシベリア抑留のあと日本(舞鶴港)に帰ってきたとき、日本政府の高官は、「ながらく御苦労様でした」と挨拶することもなく、ソ連の内情はどうだったか、スパイまがいを強要した。このことに著者は怒っています。なるほど、そうですよね。
 著者がようやく日本に帰れることを知ったとき、ロシア人たちは、「よかった、よかった。達者でお帰り」と喜んでくれたというのです。そして、きみたち日本人のおかげで住みやすい町になった、ありがとうという感謝の言葉をかけられたといいます。
 ひゃあ、そんな感じだったのですか・・・。
 シベリアの極寒の地を日本人捕虜が大変な苦労をして切り拓いていったことが、画と文章によって、ことこまかに紹介されています。
 シベリアでは冬にマイナス25度の日が続くと、今日はぬくい日だなあと喜び、防寒外套を脱ぎ、素手で作業することがあった。日本でマイナス27度と言えば、大変な寒気で異常事態といえるが、常時マイナス30度のシベリアでは服装もそれにあわせてあるため、むしろ暖かさを感じるほど。
 シベリアに日本人捕虜を抑留して多くの犠牲者を出したのは、第1に、日本軍の将校、下士官の横暴をソ連が黙認し、利用したことによる。食糧も公平ではなかった。第2に、作業遂行にノルマを強制し、将校、下士官に追求したため、作業兵を死においやった。第3に、なれない作業への無知のため発生した犠牲者がいる。第4に、生活環境が改善されず、もっぱら野外作業にかり出され、凍死者さえ出た。
 日本軍捕虜は、経費のかからない安い労働力とみられ、限られた期間内に精一杯つかいまくる、ソ連は消耗品視していた。
 木の枝にとまっている三羽のヤマバトをソ連の兵士が一羽ずつ長い歩兵銃で撃ち落としていったというウソのような話も紹介されています。
 シベリア抑留の実情を少しでも知りたい人には欠かせない本だと思いました。
 陽も長くなり、いっそう春めいてきました。それは良いのですが、花粉症に悩まされて困っています。鼻づまりがひどく、夜、口を開けて寝ていたらしく、朝、起きたときに舌がザラザラして嫌な感じでした。涙目になり、目が痛痒いのも困ります。もっとも、こちらは目薬で何とかなります。夜、寝る前に、鼻のあたりに温湿布をあてて温めています。すると、少しは鼻づまりがやわらぎます。黄砂で車体が黄色くなっていて驚きました。いろいろあるのも春なのですね。
(2007年7月刊。2800円+税)

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2008年3月 5日

民主化の韓国政治

朝鮮(韓国)

著者:木村 幹、出版社:名古屋大学出版会
 戦後の現代韓国政治の変遷の本質がよく分かる本だと思いました。
 現在の韓国は第六共和国体制と呼ばれている。1987年6月に民主正義党の廬泰愚が大統領に当選した。韓国の民主化は、民主化を求める国民の激しい闘争と、熱狂と絶叫と希望に満ちた大統領選挙の末、結局、民主化以前の軍事政権における与党の流れをくむ、そして、わずか7年前に人々の民主化への思いを押しつぶしたクーデターの首謀者の一人を大統領に選び出して幕を閉じるという皮肉な結果に終わることとなった。
 しかし、重要なことは、惜敗した野党をふくめて、韓国の人々が、この選挙結果と第六共和国体制を受け入れたことにある。
 1948年の大韓民国建国以後、1987年に至るまで8回の憲法改正を経験した韓国において、第六共和国は、一度も憲法改正がなされず20年間も続く最長の安定した共和国なのである。
 「第六共和国」の前、人々は選挙結果を信用せず、選挙に敗れた勢力も、その結果を受け入れようとはしなかった。それがなぜ変わったのか、という点を本書は解明しています。
 朴正熈の1961年の軍事クーデタと1972年の維新クーデタは質的に異なっている。1961年のとき、朴正熈らクーデタ勢力は、クーデタ直後の体制はあくまで暫定的な体制であるという前提のうえに将来の民政移管をちらつかせ、自らの正統性を確保し、野党勢力を懐柔しようとした。
 しかし、1972年には、かつてのような「民主主義」的体制へ戻ろうとはしなかった。自らの新体制を正統化しようとする試みを完全に放棄した。思想・宣伝活動を展開することもなかった。
 「言葉」を失った朴正熈は、「説明」を断念し、「説明」なくして自らの体制を維持しようとした。しかし、それは、朴正熈にとって、出口のない大きな落とし穴でもあった。皮肉なことに、以前よりもさらに強力な政治体制を敷いた結果、はじめて国会議員選挙において得票率において野党に敗北を喫した。この状況を少しでも改善すべく、朴正熈は、政府をしてさらなる野党弾圧へと向かわせた。そのなかで1979年10月26日に側近であった金載圭中央情報部長により暗殺されてしまった。
 金大中と金泳三という二人の政治家はいずれも第三共和国期において、代表的な野党内「穏健派」の「中間ボス」であった。ところが、「40代旗手論」を契機に、二人とも、あたかもそれまでの経歴が嘘であるかのように、急速に強硬論へと傾斜し、野党内における代表的な対政府強硬論者となっていった。
 それは状況の方が変化したからであった。朴正熈政権の側が、二人の本来の活躍の場を奪ってしまったからである。「維新クーデタ」の勃発は、二人の行動を見事に正統化した。「維新憲法」の下、国会の権限が剥奪され、大統領選挙を儀式化された彼らには、もはや「強硬派」に転じる以外の選択肢はなかった。二人が「転向」したのではない。変わったのは状況の方である。二人とも、ただ前と同じように自らが活躍することを求めていたに過ぎない。
 「維新クーデタ」は、韓国内における政府・与党の言説の信頼性を損ない、逆に野党にこれを攻撃する絶好の口実を与えた。以後、野党新民党の多数は強硬派によって占められ、政府・与党への対決姿勢を明確にしていった。金泳三は、この政府・与党に対する「鮮明野党」路線の主唱者であり、政治活動を封印された金大中は「民主化」の象徴的存在となった。
 これに対して朴正熈は力で抑えこむことを選択して緊急措置を連発する。そこには、国民に対して自らの体制を論理的に説明することを事実上放棄した政府・与党があった。
 政治、社会、そして教育面の大きな変化に何回となくさらされた近代以降の朝鮮半島によって、人々の受けた教育の程度や内容が大きく異なる。朝鮮王朝期の科挙受験のための教育を受けた世代と、日本統治下に近代教育を受けた世代、そして解放以後の独立韓国において教育を受けた世代が、現実社会に対する認識を異にするのは当然である。
 1940年代には大学生の数は少なく、彼らが力をもって政局を主導することは考えにくい。1960年代の韓国では、学生の数的増加を背景として学生運動は社会的に大きな意味をもった。そして1960年から70年までの10年間に、それは劇的に変化した。1960年代半ば、韓国の大学生は10万人をこえていて、毎年2万人以上もの卒業生が社会へ送り出されていった。
 うむむ、なーるほど、ですね。こういうのを、まさしく歴史の弁証法というのではありませんか。
(2008年1月刊。5700円+税)

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