弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年2月22日

枢密院議長の日記

日本史(現代史)

著者:佐野眞一、出版社:講談社現代新書
 大変な労作です。日本人が世界に冠たる日記好きの民族とはいえ、主人公のつけた日記は群を抜いています。なにしろ、26年間に297冊の日記をつけていたのです。ひと月にノート1冊分のペースです。1日あたり、400字詰め原稿用紙で50枚をこえることもある。26年分の日記をすべて翻刻したら、分厚い本にして50冊はこえる。すごーい。
 ところが、この日記は死ぬほど退屈なもの。といっても、その恐ろしく冗長な日記のなかに、ときに歴史観を覆すような貴重な証言が不意をついて出現する。
 主人公は、久留米出身の倉富勇三郎。嘉永6年(1853年)、久留米に生まれ、東大法学部の前身の司法省学校速成科を卒業したあと、東京控訴院検事長、朝鮮総督府司法部長官、貴族院議員、帝室会計審査局長官、枢密院議長などの要職を歴任した。
 この本は、その膨大な日記のうち、大正10年と11年に焦点をあてて紹介している。
 宮中某重大事件が登場する。昭和天皇の妃に内定していた良子女王の家系に色盲の遺伝子があるとして、婚約辞退を迫られた事件。婚約辞退を主張した急先鋒は、枢密院議長だった元老の山県有朋だった。山県をバックとする長派閥と、良子の家(久邇宮家)をバックアップする薩閥の対立に発展した。
 貞明皇后と良子女王のあいだには、まだ結婚前なのに、すでに穏やかならざる空気が漂っていた。ちょうど、いまの皇室の危機と同じように・・・。
 主人公の日記には、警視総監が久邇宮家の意を体した壮士ゴロの金銭要求をなんとか飲んでくれないかと言ったという話がのっている。これは内務大臣も了解ずみで、久邇宮家が皇后の座をお金で買ったことを認めているのも同然。
 うむむ、そういうことがあったとは・・・。
 倉富勇三郎には、恒二郎という2歳年上の兄がいた。この恒二郎は福岡から上京して官界を目ざした弟の勇三郎とは反対に、明治維新後、福岡で自由民権運動に加わり、福岡日日新聞社の創刊者の一人となり、最後は、同社の社長となった。福岡県弁護士会史(上巻)によると、明治24年8月に41歳で亡くなっていますが、久留米で代言人をしていました。自由民権運動で活躍し、死ぬまで県会議員でした。
 倉富の風貌は、村夫子(そんぷうし)そのもの。その春風駘蕩然とした表情には、緊張感がまったく感じられない。官僚のエリート街道をこの顔で登りつめたのか不思議なほど。
 倉富は、超人は超人でも、スーパーマンではなく、たゆまぬ努力によって該博な法知識を身につけた超のつく凡人だった。
 柳原白蓮と宮崎龍介の騒動も紹介されています。2人のあいだに生まれた子は、早稲田大学にすすみ、学徒出陣で鹿屋の特攻隊基地で、敗戦の4日前にアメリカ軍機の爆撃を受けて戦死しました。白蓮女史は昭和42年2月に83歳で亡くなり、夫の宮崎龍介は4年後の昭和46年1月に80歳で死亡しています。
 主人公は日記をつけるために、下書きのメモまでつくっていた。そして、ヒマさえあれば読み返していた。まさに寸暇を惜しんで日記を書き続けた。
 いやあ、こんな人がいるんですよね。膨大な日記をこうやって読みやすい新書にまとめていただき、ありがとうございます。お疲れさまでした。
(2007年10月刊。950円+税)

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