弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2008年2月 6日
アジア・太平洋戦争
日本史(現代史)
著者:吉田 裕、出版社:岩波新書
太平洋戦争は真珠湾戦争で始まったものではない。その前の、1941年12月8日午前2時15分(日本時間)、日本陸軍は英領マレー半島のコタバルへ上陸作戦を開始した。その1時間後に真珠湾攻撃が始まった。
この事実は、なにより対英戦争として始まったことを示している。オランダに対して日本は宣戦布告せず、豊富な石油資源を有するオランダ領インドネシアを無疵で手に入れようとした。日本政府は、宣戦布告の事前通告問題の重要性をほとんど認識していなかった。
日本政府が太平洋戦争を始めたときの戦争目的は、明らかに「あとづけ」でしかなかった。1941年11月2日、昭和天皇は、東条首相に対して、戦争の大義名分をいかに考えるのかと下問し、東条は「目下、研究中」と奉答した。
むむむ、なんということ、「目下、研究中」の大義名分のために戦争を始めようとしたとは・・・。絶対に許されないことですよ、これって・・・。
12月8日午前11時40分の宣戦詔書では、「自衛のための戦争」となっていた。ところが、同じ日の夜7時30分には「アジアの解放のための戦争」となっていた。
日本政府のかかげた戦争目的は、「自在自衛」から「大東亜新秩序維持」と「大東亜共栄圏建設」とのあいだをゆれ動いた。
いやあ、これって、あまりにもいい加減すぎます。まるで信じられません。
日本軍がアメリカとの戦争を決意した理由は、臨時軍事費による軍備の充実だった。開戦時、太平洋地域では、日本の戦力はアメリカを凌駕していた。国策よりも、自らの組織的利害を優先するという海軍の姿勢があった。つまり、軍備拡充に必要な予算と物資とを確保するため、武力南進政策を推進する。しかし、十分な勝算のない対米英戦は、できれば回避したい、というのが海軍のホンネだった。ところが、海軍首脳が対米開戦反対を明言できなかったのは、海軍は長年、大きな予算をもらって、機会あるごとに海のまもりは鉄壁だ、西部太平洋の防守は引き受けたと言ってきた手前、今となってにわかに自信がないなどとはどうしても言えなかったということである。
対米戦争の主役は海軍である。このことは陸軍もよく理解していた。だから、海軍が本当に対米開戦を決意しているのか、あるいは対米戦に勝利する確信をもっているのかというのは、陸軍の重大関心事だった。
9月6日に開かれた御前会議の時点では、昭和天皇は、対米英開戦について確信をもてず、参謀総長などに対して、その勝算について厳しく問い正している。ただし、天皇が開戦に反対していたというわけでもない。勝算のない開戦には大きな危惧を抱きながらも、統帥部(軍部)の主張に耳を傾けていた。
11月5日の午前会議の時点では、天皇は木戸幸一内大臣などの宮中グループの助言を受けいれながらも、はっきり戦争を決意していた。『機密戦争日誌』には、「お上もご満足にて、ご決意ますます強固になっているようだ」と書かれている。
日本政府は、戦争瀬戸際外交をとっていたので、強力な言論報道統制と世論指導をした。
政府には内乱への恐怖があり、内乱を避けるために戦争を決意せざるをえないという転倒した論理が生まれていた。戦争瀬戸際外交は、国内的にも、日本政府をあともどりできない地点まで追いこんでいく結果となった。
アメリカの主力艦隊との艦隊決戦に備えて、まずアメリカの植民地であるフィリピンと米領グァム島を攻略したい海軍とは異なり、陸軍にとってアジア・太平洋戦争とは、何よりも日英戦争を意味していた。
アメリカのルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に知っていたという一次資料は存在しない。ルーズベルトは、通信諜報などによって、日本が戦争を決意したこと、東南アジアで軍事行動を開始したことは事前に知っていた。しかし、陰謀論は成り立たない。
素人の私も、そうじゃないかと思います。
真珠湾攻撃は、潜水艦部隊による攻撃としては、完全な失敗に終わっていた。真珠湾攻撃に際して5隻の小型潜航艇に2人ずつ乗り組み、戦死した9人の隊員(残る1人の将校はアメリカ軍の捕虜となった)を「九軍神」とたたえる大キャンペーンが展開された。
日露戦争のときの軍神は30代から40代の中堅将校であったが、今度は20代の「軍神」である。時代は若者の大量死の時代にふさわしい新しいヒーローを必要としていた。
うむむ、なるほど、なるほど、すごく鋭い指摘だと思いました。
東条首相は、陸相として陸軍省の機密費を自由につかうことができたという有利な立場にあった。東条首相の政治資金の潤沢さは鳩山一郎からも指摘されていた。東条は、アヘン密売の収益金10億円を鈴木真一陸軍中将から受けとったという噂があった。東条のもっているお金は16億円で、それは中国でのアヘン密売からあがる収益だった。
宮内省などに東条の人気が良かったのは、東条の付け届けが極めて巧妙だったから。たとえば、東条は、秩父宮と高松宮に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には、食物や衣服そして、万年筆などの贈り物をしていた。東久邇宮のところには、アメリカ製自動車が届けられた。いやあ、これって全然知りませんでした。東条が汚いお金で宮中などの要人を「買収」していただなんて・・・。ひどい話です。
東条首相が昭和天皇の信頼を得ていたのは、東条が天皇の意向をストレートに国政に反映させようと常に努力していたから。
1942年4月の翼賛選挙のとき、非推薦候補に対しては露骨な選挙干渉がなされたが、推薦候補に対しては1人あたり5千円の選挙費用が政府から交付された。この費用は、臨軍費から出ていた。ところが、激しい選挙干渉にもかかわらず。85人もの非推薦候補が当選した。そこには、翼賛選挙に対する国民の批判が一定反映されていた。
東条内閣の政治では、憲兵の存在を忘れてはならない。陸軍大臣を兼任していた東条首相の意を受けた憲兵政治がなされた。憲兵の私兵化だ。
また、東条は、メデイアを意識的に利用した最初の政治家だった。東条は絶えず国民の前に姿を現わし、率先して行動し決断する戦時指導者という強烈なイメージをつくり出そうとした。くり返しラジオに登場した。東条は最後までオープンカーにこだわった。国民の視線に常に自らをさらすというのが、一貫して姿勢だった。
東条の芝居がかったパフォーマンスは、識者の反撥と顰蹙を買った。しかし、一般の国民は東条を強く支持した。東条は、一般の国民にとって「救国の英雄」だった。うむむ、そうだったのですか・・・。ここで、つい小泉純一郎の姿が東条英機にかぶさって思われました。
陸海軍の兵力が急激に膨張したことは、精強さを誇ってきた日本軍が弱体化したことを意味する。幹部の質の低下である。指揮・統率能力が低く、体力・気力ともに劣る、兵士に対して押さえのきかない将校が増大した。同時に彼らは、一般社会の空気を吸い、一般社会での経験を積んできた将校でもあった。軍隊の地方化、市民社会がすすみつつあった。
1944年3月、日本軍は「玉砕」という言葉をつかわないようにした。玉砕という表現が逆に日本軍の無力さを国民に印象づける結果になるという判断にもとづいている。昭和天皇の弟である高松宮の日記(1943年12月20日)にも、「玉砕は、もう沢山」という表現がある。
1943年12月。民心は、東条内閣からもうまったく離れていると小畑中将が細川護貞に語った。東条の極端な精神主義への傾斜が周囲の顰蹙を買っていた。
大変勉強になる本でした。知らないことが、こんなにもあるなんて・・・。
(2007年8月刊。780円+税)