弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2008年1月 9日
アレクサンドル?世暗殺(上)
ロシア
著者:エドワード・ラジンスキー、出版社:NHK出版
1881年3月1日、ロシアのアレクサンドル?世が暗殺された。
専制、正教、国民性というこの3要素は、ロシアでは不滅の原理であった。スターリンも、ロシア国民には神と皇帝が必要であると言い、自らを皇帝とし神とすることで、スターリンはマルクス・レーニン主義を新しい宗教と化した。ロシアの急進革命家たちが建設したボルシェヴィキの帝国は、彼らが憎んだニコライ1世の帝国に驚くほど似ていた。
ロシアの上流社会はフランス語で会話し、宮廷の最有力メンバーは全員ドイツ系からなり、皇帝たち自身も90%以上、ドイツの血が混じっていた。
ドイツの諸公国は、久しくロシアの皇帝たちが妻を選ぶためのハーレムと化していた。昨日まで田舎の公女だった者たちが、貧弱な両親の宮殿を出て、野蛮な絢爛さでヨーロッパ人を驚かすロシアの宮殿に入っていった。花嫁候補のリストにあがっていたのはドイツの公女たちだった。
有名なフランス人作家キュスティーヌ侯爵はロシアを訪問して次のように書いた。
「これまで私は、真実は人間にとって空気や太陽のように不可欠だと思っていた。だが、ロシア旅行はそうした確信を揺るがせた。ここでは嘘をつくことが王座を守ることであり、真実を語ることは根幹を揺すぶることなのである」
こう書いたキュスティーヌの本は当然のことながらロシアで発禁となった。しかし、ロシアでは禁止ほど効果的な宣伝はない。キュスティーヌの書はロシアの全教養階級に読まれた。皇太子アレクサンドルも読んだ。
何もかも検閲によって圧殺された沈黙の国に、国外発信の暴露的な言説が響きはじめた。国外に自由ロシア出版所をつくり、非合法に国内にもちこまれたロシアの教養階級はひそかにこれを読んでいた。誰が情報を流していたのか。実は官僚たち自身だった。官僚の誰かが同僚を蹴落としたいと思ったとき、皇帝に密告しても効果はないが、国外に送れば直ちに皇帝の反応が得られた。皇帝が一番それをよく読んでいたからだ。
ロシアの軍隊は世界一偉大な軍隊とされたが、それを構成しているのは、一切の権利を剥奪された農奴階層の兵士たちであり、残酷きわまる体罰が横行していた。
ニコライ皇帝がヨーロッパ随一とみなしていたロシア軍はまたたく間に敗北した。なぜなら、ロシア軍はナポレオン1世時代の装備でナポレオン3世の兵士たちと戦わされていたからだ。
ニコライ皇帝が死んだとき、国庫は空っぽ、軍は孤立無援、軍備は時代遅れ、ロシア海軍には蒸気船もない。ヨーロッパでは、どこでも体刑は廃止されていたが、ロシアではいまも容赦ない鞭打ち刑が存在した。どこもかしこも不足と腐敗ばかり。農奴制が残存し、当事者不在のまま裁判が進行し、賄賂がすべてを決していた。
ロシアの皇帝は、何よりもまず厳しい存在でなくてはならなかった。
ロシアの皇帝って、残忍でなければ周囲から皇帝にふさわしいとは認められなかったそうです。そして、スターリンはそれに見習ったというのです。ちっとも知りませんでした。
ロシアの歴代皇帝はみな、農奴制廃止に経済的効果があることを理解しながら、結果としての政治的不利益を恐れていた。専制体制に立脚した帝国には調和が必要であった。
農奴制の存在のおかげで、国家は農民のための裁判所や多数の警察官をもつ必要がなかった。地主が農民の裁判官かつ警察官として、彼らを監督していた。
ロシアでは、すべてが隠されているが、秘密はひとつもない。
1861年3月5日、アレクサンドル?世は奴隷制を廃止した。これはアメリカ合衆国の奴隷解放よりも早かった。おまけに内戦も伴わなかった。ただし、どちらも、その解放者は暗殺された。
1864年、アレクサンドルは法の前で全国民が平等だと宣言した。にわかに出現した弁護士の中から、高名な雄弁家たちが排出し、国中にその演説が引用されるようになった。
1860年代にインテリゲンツィアという言葉が誕生した。この言葉はアレクサンドル皇帝による一連の大改革の産物なのである。
1866年4月4日、アレクサンドル2世は夏の庭園を出ようとしてピストルで撃たれた。しかし、皇帝は無事だった。ところが、ロシア皇帝の不可侵性はこれによって決定的なダメージを受けた。それまでもロシア皇帝は殺されてきた。ただ、それは宮廷の中で、秘密裡になされ、国民向けの公式発表では卒中などによる病死とされていた。ところが、民衆の目の前で銃で撃たれた。神聖なる皇帝の不可侵性というオーラが破壊されてしまった。
ロシア皇帝と、それをとりまくロシアの宮廷のおどろおどろしい内情がよく伝わってくる本です。
(2007年9月刊。2300円+税)