弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2007年10月29日
渥美清
社会
著者:堀切直人、出版社:晶文社
私が『男はつらいよ』を初めて見たのは、東大闘争(世界からは大学紛争と言われていますが、それに積極的に関わったものとしては、紛争と言いたくはありません)が終わった年(1969年、昭和44年)の5月祭のとき、法文25番大教室だと思います。窓まで学生が鈴なりでした。みんなで大笑いしました。でも、人間の記憶って、あてにはなりません。これも私の思いちがいかもしれません。私の脳裏にあるところではそうだ、としか言いようのない話です。
『男はつらいよ』を私も全部みたというわけではありませんが、その大半はみています。銀座の封切り館でみたときには、下町の場末の映画館のような観客のどよめきに乏しく、ああ、やっぱりこの映画は銀座じゃなくて、下町でみるものなんだと思ったことを覚えています。福岡に戻ってきて、飯塚の、それこそ場末の映画館で、弁護士仲間と一緒にみたこともあります。同じようなボロっちい旅館(ごめんなさい。老舗の高級旅館ではないという意味だと理解してください)が画面に登場して、それだけでワハハと大笑いしたこともありました。お正月は、実家に顔を出したあと、子どもたちと一緒に映画を楽しんでいました。だから、一家で夏にヨーロッパへ出かけようとしたときに渥美清が亡くなったことを知って、一家をあげて哀悼の意を表しました。これは本当のことです。
この本の著者は私と同じ生年です。私はテレビ版の『男はつらいよ』をみた覚えがありません。テレビの『男はつらいよ』が終了したのが1969年3月といいますから、そのときには私は大学2年生でした。学生寮に入っていて、東大闘争のさなかにテレビで放映されていたようですので、私が一度もみたことがないのも、ある意味では当然です。学生寮(駒場寮)では、どこかにテレビはあったと思いますが、6人部屋で友人たちとダベリングに忙しくて、また、それが楽しくてテレビなんか全然みていませんでした。その体験があるので、今もテレビなしの生活で何ひとつ不自由も不満も感じないのだと思います。
渥美清は1969年3月、41歳のとき25歳の女性と結婚したそうです。しかし、渥美清は、私生活を完全に隠し通しました。自分が死んだときにも、奥さんに雲隠れさせ、長男に対応させたというのですから、徹底しています。碑文谷に自宅があり、代官山のマンションを自分の部屋としていたそうです。日常生活から役者になりきるためには、いったん、その部屋に行って自分の身体に染みついた家庭人の匂いを消し去り、役者としての自分を取り戻し、車寅次郎になりきろうとしたというのです。すごいことです。68歳で死ぬまで、役者人生をまっとうした渥美清を心より尊敬します。というか、何度も何度も楽しませてくれたことに感謝したいと思います。
この本によって渥美清の実生活をいくつか知ることができました。
渥美清は昭和3年3月10日に東京の上野駅近くで生まれた。父親は若いころは地方新聞の政治記者をしていた。母親は高等女学校を出て、小学校の代用教員もしたことがある。宇都宮藩士の娘であることに誇りをもっていた。兄は秀才で、文学者を志望して小説やエッセイを書いていたが、25歳の若さで肺結核のため病死した。要するに、渥美清の家は東京の下町にあったが、地方出身者の夫婦を中心とするインテリ一家であった。
渥美清は小学校ではまったくの落ちこぼれ生徒だった。小児腎炎、関節炎で、それぞれ1年休学している。学業成績はいつもビリから2番目。しかし、そんな彼にもたったひとつ才能があった。人を笑わせることだった。渥美清の面白おかしい話の最初の聞き手は母である。母は内職の手を休めず息子の話を熱心に聞き、その話を心底楽しんだ。
やはり偉大なるもの。その名は母、ということです。
渥美清は中学にも大学にも行っていない。尋常小学校を卒業したあと、14歳で町工場に就職し、それから、古着屋、洋品店、本屋の店員、石けん工場・セルロイド工場の工員、倉庫番、行商などの職についたが、どれも長続きしなかった。一時期ぐれて、上野の地下道あたりをうろつき、酒と博打とケンカに明け暮れた。ヤクザ組織にも関わったことがある。テキ屋仲間に加わり、正式な盃こそもらっていないが、霊岸島枡屋一家に身を寄せ、その配下の者にくっつき、上野のアメヤ横丁の一角でタンカ売の手伝い、サクラをした。浅草で芸人になってからもタンカ売を実際にしたこともある。
ひゃあ、そうだったんですか。道理で、真に迫った口上だと思いました。下積み生活のときにはM・K子と同棲生活を続けていました。でも、渥美清が有名人になったとき、M・K子のほうが身を退いたという話です。
渥美清は、舞台に出る前に、強い焼酎を一気にあおった。酒が回ればまわるほど舞台での口調はメリハリがきいて、一般と歯切れがよくなり、アドリブが次々と飛び出してきた。
映画の『男はつらいよ』シリーズは、山田洋次と渥美清の共同作業によってつくり上げられたものである。山田洋次は、このシリーズのなかに、落語的な描写のセリフとテキ屋的な言葉のアクロバットを両方巧みに盛りこんだ。渥美清は、その両方を見事に語り分けた。うむむ、なーるほど、鋭い分析です。感心しました。
(2007年9月刊。1900円+税)