弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年10月11日

大本襲撃

日本史(現代史)

著者:早瀬圭一、出版社:毎日新聞社
 戦前の宗教弾圧事件として名高い大本(おおもと)教弾圧事件の詳細を描いた本です。その苛酷な弾圧を初めて知りました。
 当局の大本教についての認識は次のようなものだった。
 明治25年のはじめ、綾部の町はずれで半農半行商を世すぎとして一家の生計を支えてきた57歳の老婆・出口なおは、その遺伝性素質がこの生活上の重圧の限界で発作を起こして、精神の異状を呈した。
 この狂女は、いくぶん平静さを取り戻すにつれ、土地の俗信である艮(うしとら)の金神(こんじん)や、従前の信仰であった天理教、金光教の教説をおりまぜて、独自の経文を口にし、病者に対しては、これまた一種の我流の施法をはじめた。医学的に後進地であった地方のため、新奇な物珍しさも手伝い、注目されるようになった。
 そこへ、上田喜三郎青年が助手として登場した。上田青年は、一度は排斥されたのち、再び、出口王仁三郎と名前を変えて迎えいれられた。
 開祖なおは文字を知らなかった。しかし、神が、「おまえが書くのではない。神が書かすのであるから、疑わずに筆を持て」と命じるので、近くにあった一本の古釘を手にとってみると、ひとりでに手が動き、文字を書きはじめた。紙に筆をおろすと、ひらがなで、スラスラと文字が書けだした。これが筆先のはじまりである。
 開祖なおは、大正7年に死ぬまで26年間にわたって、膨大な筆先を書いている。筆先で一貫しているのは、世の立替え、立直しということである。
 筆先は、すべてひらがなで書かれているため、意味が判明しやすいように漢字をあてたのが出口王仁三郎である。
 大正に入るころから、陸海軍の幹部クラスや岡田茂吉(後の世界救世教の主宰者)、谷口雅春(後の「生長の家」の主宰者)などが相次いで大本に入った。軍人たちの入信が当局に警戒心を強めた。小山内薫や尾上菊五郎、中村吉右衛門なども大正9年ころ、大本に入信した。
 このような大本教を治安維持法違反として検挙したのですから、いかにも国家権力の横暴きわまれりというものです。治安維持法では国体の変革を目的とする結社をつくれば2年以上の懲役・禁固に処せられます。
 三千世界一度に開く梅の花、梅で開いて松で治める
 これは大本の開教宣言の一句です。これが治安維持法にいう国体の変革を目ざすものと解釈されるのです。信じられません。まったく恐ろしいことです。狂気の沙汰とは、このことです。
 王仁三郎による教理が指向するものは、現在の統治の根本を否定し、代わって、自らがその地位を占有せんとするものであるから、明らかに国体を変革することを目的としている。
 ええーっ、これってウソでしょ。マジ、本気って、ありえないよね。そんな感じです。
 大本は、いわゆる宗教ではない。大本は神意を実行する団体である。単に教をしていて、人にいわゆる信仰心を起こさせるだけのところでなくして、神示(教典)をその機に応じて実地に活用する団体である。
 このようにこじつけて、当局は大本教の弾圧をはじめます。
 昭和10年(1935年)12月8日午前0時、臨時年末一斉警戒の名目で京都府警の警察官500人が京都御所に集結。大型バス18台と数台の普通車やトラックに分乗、各編隊に分かれた。遠い綾部へ向かう大隊は午前1時に、近い亀岡行きの大隊は午前3時に出発。途中で、警官に大本襲撃の目的が明かされた。同時に、大本は決死隊を結成していて、銃などの兵器も準備している。警官隊は皆殺しにあうかもしれない、などのウワサが飛びかい、はち巻きや下履きを配られた警官たちは必死の形相だった。
 もちろん、何ごともなく、教団側は無抵抗のまま大勢の信者が逮捕されます。教団の建物は全部が取りこわされてしまいました。
 綾部の大本総本部は300人の警官で包囲し、まず電話線を切り、午前4時半、突入した。信者は無抵抗だった。
 松江の大本別院にいた王仁三郎・すみ夫妻も逮捕された。大本教の幹部44人が検挙され、信徒1500人が取り調べを受け、うち300人が身柄を拘束された。
 警察当局は大本は妖教、邪教、怪教だというイメージをつくりあげ、大阪毎日新聞などが連日、センセーショナルに書きたてた。しかし、信者はきわめて冷静に対応した。
 取り調べは京都府警特高課があたった。竹刀(しない)、焼けヒバシ、水責めなど、あらゆる拷問の道具と手段を用いた。まったく、2年前に東京の築地署で小林多喜二が受けたのと同じ拷問だった。
 三年ぶり 慣れなじめたるボッカブリ、妻は無事なか、子らはふえたか。
 これは、教祖すみが、独房に入れられているとき、夫婦者のゴキブリを見つけて仲良くしていた情景をふまえた歌です。
 昭和11年3月。京都府知事は大本の建物について、すべて破却せよとの命令を出した。
 結局、昭和11年(1936年)の暮れまでに987人が検挙され、318人が送検された。その取調べ中(1年)に、自殺1人、拷問のあげく衰弱死2人、自殺未遂2人を出した。
 昭和12年、裁判が始まり、大本は清瀬一郎ほか、18人の弁護団を結成した。
 教祖すみは、裁判の日には人前に出るのだから、白粉くらいつけようと思い、白粉のかわりに白い粉状の歯磨き粉を顔に塗った。
 このころの教祖すみの写真がありますが、屈託ない笑顔を見せていて、驚きます。次の王仁三郎の言葉もすごいものです。
 人間というものは過ぎ去ったことをいくら悔やんでみたところで、絶対に取り戻せるものではない。また来ぬ日のことをいくら心配してみたところで、決して思うようにはならぬ世の中だ。人間の自由になるのは、今というこの瞬間だけだ。だからわしらは、今というこの瞬間をいかに楽しく、いかに有効に送るかだけより考えてはおらぬ。あとは一切神様にお任せしておけばよい。昨日、刑務所に入っていたことも考えなければ、明日、刑務所に入っていなければならぬと考えたこともない。そんな不可能なことで心配して自分の命を削るくらいばかなことはない。未決が1年だろうが、7年だろうが同じことじゃよ。
 ここにあります、人間の自由になるのは今というこの瞬間だけだ、というのに、私は眼をぐーんと開かされた思いです。
 大本教弾圧事件について、その時代背景ともどもよく知ることができました。
(2007年5月刊。1600円+税)

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