弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2007年10月 9日
エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー
アメリカ
著者:前田詢子、出版社:角川選書
前に『エルヴィスが社会を動かした』(青土社)を紹介しました。その本の訳者だった著者による本です。エルヴィスプレスリーは、私より少し上の世代ですが、メンフィスにあるプレスリー邸を訪問したことがありますので、興味深く読みました。
あらかじめマテリアルが用意されることはなく、音を出しあって、あれこれやってみる。そして、これというサウンドが得られるまで試行錯誤を繰り返す。だから、どんなものが生まれてくるかは、誰にも予想がつかなかった。何もうまれてこないことがあったが、そんなときは、翌日か翌々日にまた同じことをやり直した。もしも、楽譜だけの、紙の上の作業であれば、このような思いがけないサウンドが生まれることは決してなかっただろう。
それは、黒人のブルースの上に白人のカントリーをのせたもの、逆に白人のカントリーの上に黒人のブルースを乗せた音の重ね方の問題ではなかった。それは、ブルースでもカントリーでもない、カラー・ラインが溶け落ちた危険な音だった。そして、それは何よりも、農村の音楽と都会の強烈なビートの融合だった。
なーるほど、だから、白人青年も黒人青年も、ひとしくエルヴィスに熱狂したのですね。まさしく危険な音楽をエルヴィスは広めたのでした。
1950年代のアメリカ人の生活にもっとも大きな変化をもたらしたのはテレビだった。1950年にテレビをもつ家庭は390万世帯。そのとき、ラジオ聴取者4000万人。1950年代前半にはアメリカ全世界の88%がテレビをもっていた。劇的な普及ぶりだった。
若者たちから絶賛され、大人たちから罵倒されたエルヴィスの独特のパフォーミング・スタイルは、ステージ用の振り付けとして学んだものではなかった。それは、エルヴィスが幼いころからなじんだ教会の牧師や、ゴスペル・シンガーたち、黒人ブルース歌手などを見て、自然に身につけてきたものだった。
エルヴィスは意識的な社会活動家ではなかったが、黒人を対等の人間として受容する勇気を持っていた。エルヴィスは尊敬する黒人に敬語をつかい、若い黒人ミュージシャンとは肩を組み、友人として平気でつきあった。
南部社会は、極貧の者に極貧の者の生き方があることを教えていた。エルヴィスは絶望的な貧困から彼ら一家を救い出してくれた神に心から感謝し、初めて手にする贅沢なモノに感動した。親孝行だったエルヴィスは、1956年9月、運転免許さえ持たない母親にピンクのキャデラックを贈った。キャデラックこそ、貧しい者にとって最高の富の象徴だった。
エルヴィスは、この世における自分の役割は何かという長年の自問に対して、ついに答えを見出した。エルヴィスのコンサートは、音楽の不思議な力を通して、人々の心に直接メッセージを送る場であり、アメリカの本源的な自由と希望、未来への可能性と期待を呼び覚ます場であった。
エルヴィスは1973年10月、妻と離婚した。そのことでエルヴィスは悲しみに打ちひしがれ、怒りで荒れ狂い、絶望あまり健康を害した。もともと過労がもとで内臓に複合障害があった。妻の行為は、エルヴィスにとって、夫である自分に対する重大な裏切りであり、男の威信を打ち砕く破滅的な一撃だった。
油断のならない取り巻きに囲まれて、エルヴィスは一人でいるよりもさらに孤独だった。強い照明とカメラのフラッシュで痛めつけられていた眼は緑内障を起こしていた。肝臓や腸、腎臓、心臓にも障害が見られ、慢性の低血糖症や高血圧、肥満があった。精神面でも極度のうつ状態に陥ることが多かった。
エルヴィスは、多量の処方薬を摂取することで症状を抑えて、コンサートを続行した。
1977年8月16日、エルヴィス・プレスリーは突然、この世を去った。バスルームに入って本を読んでいるところを心臓発作に襲われ、そのまま倒れた。救急車で運ばれ、蘇生処置がほどこされたが、その甲斐なく死亡した。解剖の結果、死因は不整脈による心不全と判定された。心臓は肥大し、肝臓や腸にも障害が見られた。遺体からは14種類の処方薬が検出され、鎮痛剤に関しては処方規定の10倍の量が測定された。薬物によるショック死も疑われた。
あまりに過重なコンサート・スケジュールをこなすため、体調の悪化を処方薬の大量摂取で切り抜けてきたことが遠因であることは明らかだった。
偉大な歌手も、コンサートの重圧には耐えられなかったというわけです。痛ましい事実ですよね。それにしても、まだ42歳の若さでした。同じように、フランスのエディット・ピアフは 47歳で薬づけの状態で亡くなりました。
札幌のススキノでシャンソニエに行きました。昔からお世話になっている藤本明弁護士の行きつけの「プチ・テアトル」というお店です。申し訳ないことに、お客はなんと、私たち2人だけでした。若い女性の伸びやかなデュエット、いぶし銀のようなママさんの歌を堪能して、夜のススキノの雑踏をホテルまで歩いて帰りました。ありがとうございます。
(2007年7月刊。1600円+税)