弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2007年10月30日
松岡利勝と「美しい日本」
社会
著者:長谷川 煕、出版社:朝日新聞社
現職の大臣が自殺したというのは、終戦の日に陸軍大臣が切腹した以外にはない。なぜ、こんな人物(といっても国民から選ばれた代議士ではありますが)が大臣に任命され、また、安倍首相(当時)が最後までかばっていたのか、まるで分かりません。世の中のことに理解できないことは多いのですが、これもその一つです。
実は、私は農水省の地下にある売店を何回も利用したことがあります。先日、腕時計が止まったので、買いに行ったところ、地下の売店のほとんどがなくなっていました。本屋とコンビニはありましたが、農産物は扱っていませんでした。この本によると、肉も扱っていたようですが、それも一つの利権になっていたとのこと。びっくり仰天です。
今も理容店がありますが、その奥にある畳敷きの和室で、農水省の有力幹部が酒盛りして、人脈を形成していたというのです。いやあ驚きました。
業者の間だけでなく発注者の公共機関が主導するかそこに加わる「官製談合」は、林野庁の外部、天下り機関のみならず、林野庁自身で日常化している。
さまざまな事実が、林野庁自身の「官製談合」を指示しているとしか言えない状況がある。選挙支援もふくめて林野庁一家が担ぎ上げてきた林野庁出身の松岡利勝議員の命令によるいわば「命令談合」としか理解できない場合もあるし、松岡議員の意中を忖度(そんたく)した「忖度談合」もあった。
農水省は、法、道理、公正、倫理、あるいは常識といった、人間社会を成り立たせている基本原理に照らして運営されている組織ではない。松岡議員は、その環境に19年間いて、この役所の表裏をよく勉強した。
その典型例が1994年、村山内閣のとき、ウルグアイ・ラウンド合意への対策費として6兆100億円が支出されたということ。この6兆100億円は何のためにつかわれたのか、どの作物の生産性を高めたというのか、支出明細も効果も何ら公表されていない。官僚たちの手で、好き勝手に、どこかに6兆100億円は雲散霧消してしまった。
うむむ、なんということを・・・。とても信じられません。でも、そうなんでしょう。ひどい話です。まったく許せません。
奇々怪々。これは魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界です。
談合で受注したら、その会社は受注額の5〜10%を担当秘書に渡す。現金の直接手渡しで、領収書はない。金額は指示される。
建設業者が、どことこの工事が欲しいと頼みに来ると、松岡議員は初めに100万円単位の玄関代をとる。
死者にムチ打つようなことはお互いにしたくはありませんが、いやあ、これほどひどかったのか、改めて認識させられました。でも松岡代議士のあと、誰かが今も同じようなことをやっているのでしょうね。それまた許せません。プンプンプン、怒りがわいてきます。
土曜日に飫肥に行ってきました。宮崎から1両のワンマンカーに乗って1時間以上かかりました。飫肥駅の前には何もありません。飫肥城まで歩いて20分ほどです。秋晴れのいい天気で、暑いほどでした。
城下町なのに、なぜか道は真っすぐです。道端には大きな錦鯉が泳いでいました。藩主の私邸に入ると、庭にたくさんのメジロが群がっている大きな木がありました。少し大き目の赤い実を食べているのです。高さ5メートルもあろうかというキンモクセイの木があり、たくさんの黄色い花を咲かせていました。ところが、まだ例の甘い香りを漂わせていないのです。時期が早いのでしょうか。
喫茶の看板につられて、大きな邸宅に入ってひと休みしました。予約した観光客が座敷で食事をするところのようです。コーヒーを頼むと、可憐な草花が添えられて出てきました。
お昼はやっぱり飫肥天うどんです。熱々の飫肥天が出てきました。そして、有名な飫肥の厚焼き卵も頼みました。これが卵焼きとはとても思えません。まるでプリンです。帰りに、おばあちゃんが1人でやっている店に立ち寄り、大きな厚焼き卵をお土産に買って帰りました。
日露戦争後のロシアとの交渉やポーツマス条約締結で外相として活躍した小村寿太郎は、飫肥の出身です。
(2007年7月刊。1200円+税)
2007年10月29日
渥美清
社会
著者:堀切直人、出版社:晶文社
私が『男はつらいよ』を初めて見たのは、東大闘争(世界からは大学紛争と言われていますが、それに積極的に関わったものとしては、紛争と言いたくはありません)が終わった年(1969年、昭和44年)の5月祭のとき、法文25番大教室だと思います。窓まで学生が鈴なりでした。みんなで大笑いしました。でも、人間の記憶って、あてにはなりません。これも私の思いちがいかもしれません。私の脳裏にあるところではそうだ、としか言いようのない話です。
『男はつらいよ』を私も全部みたというわけではありませんが、その大半はみています。銀座の封切り館でみたときには、下町の場末の映画館のような観客のどよめきに乏しく、ああ、やっぱりこの映画は銀座じゃなくて、下町でみるものなんだと思ったことを覚えています。福岡に戻ってきて、飯塚の、それこそ場末の映画館で、弁護士仲間と一緒にみたこともあります。同じようなボロっちい旅館(ごめんなさい。老舗の高級旅館ではないという意味だと理解してください)が画面に登場して、それだけでワハハと大笑いしたこともありました。お正月は、実家に顔を出したあと、子どもたちと一緒に映画を楽しんでいました。だから、一家で夏にヨーロッパへ出かけようとしたときに渥美清が亡くなったことを知って、一家をあげて哀悼の意を表しました。これは本当のことです。
この本の著者は私と同じ生年です。私はテレビ版の『男はつらいよ』をみた覚えがありません。テレビの『男はつらいよ』が終了したのが1969年3月といいますから、そのときには私は大学2年生でした。学生寮に入っていて、東大闘争のさなかにテレビで放映されていたようですので、私が一度もみたことがないのも、ある意味では当然です。学生寮(駒場寮)では、どこかにテレビはあったと思いますが、6人部屋で友人たちとダベリングに忙しくて、また、それが楽しくてテレビなんか全然みていませんでした。その体験があるので、今もテレビなしの生活で何ひとつ不自由も不満も感じないのだと思います。
渥美清は1969年3月、41歳のとき25歳の女性と結婚したそうです。しかし、渥美清は、私生活を完全に隠し通しました。自分が死んだときにも、奥さんに雲隠れさせ、長男に対応させたというのですから、徹底しています。碑文谷に自宅があり、代官山のマンションを自分の部屋としていたそうです。日常生活から役者になりきるためには、いったん、その部屋に行って自分の身体に染みついた家庭人の匂いを消し去り、役者としての自分を取り戻し、車寅次郎になりきろうとしたというのです。すごいことです。68歳で死ぬまで、役者人生をまっとうした渥美清を心より尊敬します。というか、何度も何度も楽しませてくれたことに感謝したいと思います。
この本によって渥美清の実生活をいくつか知ることができました。
渥美清は昭和3年3月10日に東京の上野駅近くで生まれた。父親は若いころは地方新聞の政治記者をしていた。母親は高等女学校を出て、小学校の代用教員もしたことがある。宇都宮藩士の娘であることに誇りをもっていた。兄は秀才で、文学者を志望して小説やエッセイを書いていたが、25歳の若さで肺結核のため病死した。要するに、渥美清の家は東京の下町にあったが、地方出身者の夫婦を中心とするインテリ一家であった。
渥美清は小学校ではまったくの落ちこぼれ生徒だった。小児腎炎、関節炎で、それぞれ1年休学している。学業成績はいつもビリから2番目。しかし、そんな彼にもたったひとつ才能があった。人を笑わせることだった。渥美清の面白おかしい話の最初の聞き手は母である。母は内職の手を休めず息子の話を熱心に聞き、その話を心底楽しんだ。
やはり偉大なるもの。その名は母、ということです。
渥美清は中学にも大学にも行っていない。尋常小学校を卒業したあと、14歳で町工場に就職し、それから、古着屋、洋品店、本屋の店員、石けん工場・セルロイド工場の工員、倉庫番、行商などの職についたが、どれも長続きしなかった。一時期ぐれて、上野の地下道あたりをうろつき、酒と博打とケンカに明け暮れた。ヤクザ組織にも関わったことがある。テキ屋仲間に加わり、正式な盃こそもらっていないが、霊岸島枡屋一家に身を寄せ、その配下の者にくっつき、上野のアメヤ横丁の一角でタンカ売の手伝い、サクラをした。浅草で芸人になってからもタンカ売を実際にしたこともある。
ひゃあ、そうだったんですか。道理で、真に迫った口上だと思いました。下積み生活のときにはM・K子と同棲生活を続けていました。でも、渥美清が有名人になったとき、M・K子のほうが身を退いたという話です。
渥美清は、舞台に出る前に、強い焼酎を一気にあおった。酒が回ればまわるほど舞台での口調はメリハリがきいて、一般と歯切れがよくなり、アドリブが次々と飛び出してきた。
映画の『男はつらいよ』シリーズは、山田洋次と渥美清の共同作業によってつくり上げられたものである。山田洋次は、このシリーズのなかに、落語的な描写のセリフとテキ屋的な言葉のアクロバットを両方巧みに盛りこんだ。渥美清は、その両方を見事に語り分けた。うむむ、なーるほど、鋭い分析です。感心しました。
(2007年9月刊。1900円+税)
2007年10月26日
果断
司法
著者:今野 敏、出版社:新潮社
主人公はキャリア組の警察官。20代のとき若殿研修で署長になったが、46歳になって再び第一線の大森警察署長に就任した。その前は警察庁長官官房の総務課長だった。つまり、左遷されたわけだ。なぜか?
警察署長が一日に決裁する書類は700〜800。800もの書類を決裁するというのは、一日8時間の勤務時間内にはとうてい処理できない。内容の確認などせずに押印することになる。それでいいと言われている。手続き上、署長印がないと物事が完結しないというだけのこと。
現在の警察組織の実態では、警察署長は、指揮者ではなく管理者に過ぎない。だいたい副所長というのは署長をよく思っていないものだ。事実上、署内を統括しているのは自分であり、マスコミの対応もすべて自分がやっているという自負がある。
特別捜査本部が大がかりな指揮本部ができると、その年の署の予算を食われてしまう。柔道、剣道、逮捕術などの術科の大会で好成績をおさめても、祝賀会もできない。旅行会もなし。忘年会もひどく質素なものとなるだろう。
だから、署員は捜査本部や指揮本部を嫌う。公務員だけが公費で飲み食いをするのだ。
主人公は警察庁時代にはマスコミ対策も担当していた。だから、彼らがどういう連中かよく知っている。結論から言うと、彼らはペンを手にした戦士なんかではない。商業主義に首までどっぷり浸かっている。新聞社もテレビ局も、上に行けば行くほど、他社を抜くことだけを考えている。つまりは新聞を売るためであり、視聴率を稼ぐためだ。
言論の自由など、彼らにとってはお題目にすぎない。要するに、抜いた抜かれたを他社と競っているにすぎない。それは生き馬の目を抜く世界だと、本人たちは言っているが、何のことはない。彼らは単に楽しんでいるだけではないのか・・・。
小料理店に拳銃を持った男が押し入り、店主と店員を人質にとって立てこもります。さあ、どうしますか?
若い元気な人なら、すぐに突入して人質を解放すべきだと考えるかもしれません。
SITは捜査一課特殊班のローマ字の略だ。刑事部内で、テロや立てこもり、ハイジャック犯などに対処するために組織され、日々訓練を受けている。
SATは、ほぼ同じ目的で警備部内で組織されている。こちらはドイツの特殊部隊などと手本にした突入部隊であり、自動小銃やスナイパーライフルで武装している。
この警察小説も推理小説ですから、ここで粗筋を紹介するわけにはいきません。なかなか面白い本だったというに留めておきます。
(2007年4月刊。1500円+税)
パンダ
著者:岩合光昭、出版社:新潮社
ウワー、パンダって、ホント、可愛い。世界の不思議のひとつですよね。
パンダは実によくヒトを見ている。誰もいないところでは、クマのような鋭い顔をしているのにヒトを見るなり、可愛いパンダに変身してしまう。パンダには、ヒトを惹きつける魔力がある。
現在、パンダは野生で生息しているのは、1000頭から1500頭。いつ絶滅してもおかしくない。いやあ、パンダを絶滅させてはいけません。
パンダの幼稚園の写真があります。10頭以上もの子どもパンダがブランコ周辺で固まって遊んでいる写真です。ぬいぐるみパンダより、もっともっと可愛いパンダたちです。
生まれてすぐのパンダの赤ちゃんは体重100グラムほど。丸裸で、ピンクの肌が見えています。
四川省にあるパンダ保護研究センターでは、パンダの繁殖に成功している。パンダの母と子の会話。子がクッワン、ミューミューと鳴くと、母はクゥーと一声鳴く。
パンダはヒトの声を鋭く聞き分ける。飼育係の声で全員集合。集合したら、食事の時間。たちまち30本のタケノコをたいらげる。大昔、タケを主に食べるようになって、パンダは生き残れた。
パンダの今後の生存は、人類の生存にもつながっていると考えるべきだと思います。日本も中国へ自動車を売りこむことばかり考えずに、生物保護のためにどうすべきか、両国は手をとりあって取り組むべきだと思いました。
(2007年7月刊。2200円+税)
花はなぜ咲くのか
生物(花)
著者:鷲谷いづみ、出版社:山と渓谷社
花の世界の不思議を解明する楽しい写真集です。ホント、花って不思議ですよね。わが家の庭にトケイソウがあります。その花は、まさしく時計の文字盤そっくりです。小さく折り畳まれていたツボミが、ぐんぐん開いていって、見事な大輪の花に変わっていくさまは、見事なものです。よくも間違って折り畳んでしまわないものです。
花は、虫たちに紫外線を反射してシグナルとメッセージを送っている。花が虫たちに蜜(みつ)のありかを教える標識をネクターガイド(蜜標)という。
植物たちが心待ちにしているのは、配偶相手と結びつけてくれる仲人、つまり花粉の運び手となる動物(ポリネータ)である。いかにポリネータを操って、よき配偶者と出会い、健全な子孫を残すのか。花には、そのための知恵が結実している。
花とその花粉を運ぶ動物との関係は、お互いに利益を得ることで成り立つ相利共生関係である。花は動物に花粉を運んでもらうことでタネを結ぶことができ、動物は蜜や花粉などのエサにありつける。お互いに利益を得ることで、相手を必要としている。
タンパク質やミネラルの豊富な花粉を報酬とするのは、植物にとっては相当な経済的負担となる。もっと安上がりにしたいと思って選ばれたのが甘い蜜。これは光と水さえ十分にあれば、二酸化炭素と水を材料として、いくらでも光合成でつくり出すことができる。そして、ポリネータに気に入ってもらえるように、蜜には糖以外の滋養分もほどよく混ぜこまれている。たとえば、アミノ酸。
早春に咲くザゼンソウのお礼は、暖かい部屋。つまり、積極的に発熱し、暖かい部屋を用意して虫たちを招き寄せる。
マルハナバチは、その個体それぞれに、蜜や花粉を集める植物の種類を決めて、同じ種類の花だけを選んで訪れるという性質がある。これを定花性という。同種の花だけを次々に訪れるため、植物からみれば、同種の花に効率よく花粉を送り届けてもらえるわけだ。だから、定花性をもつマルハナバチ類は、ポリネータとして花に絶大な人気がある。
ふむむ、なーるほど、そういうことだったんですか・・・。わが家の庭にもマルハナバチはよくやって来ます。丸っこいお尻が特徴の愛らしい姿をしています。
このほか、性転換する植物も登場します。テンナンショウ属マムシグサは性転換する。環境条件に応じた栄養成長と有性生殖の成功に応じて、オスからメスへ、ときにはメスからオスへと、ダイナミックに起きる。
大自然の奥行きの深さは尽きぬものがあります。
いま、わが家の庭には秋明菊の淡いクリーム色の花が咲いています。とても上品で、可憐な雰囲気の花なので、私は大好きです。黄色いリコリスの花も咲いています。ヒガンバナは終わりました。芙蓉の花も次第に咲かなくなりました。今年はキンモクセイの香りがしないと新聞のコラムに書かれていました。なるほど、わが家もそうです。たくさん花は咲いているのですが・・・。でも、そのうち例の甘い香りを漂わせてくれると期待しています。実は鉢植えのシクラメンが小さな花を咲かせています。去年の暮れにもらったものを今回はじめて生きのびさせることができました。
(2007年7月刊。1600円)
2007年10月25日
靖国問題Q&A
社会
著者:内田雅敏、出版社:スペース伽耶
この夏、私は知覧にある特攻記念館を久しぶりに訪れました。そこには、第二次大戦の最末期に特攻出撃して亡くなった若者たちの写真や遺書などが展示されています。広い講堂で、彼らの最期の様子を写真で示しながら語り部のおじさんの話も聞きました。見学した人びとが涙するところです。
でも、ここには、大西海軍中将が「統率の外道(げどう)」と批判した無謀な特攻作戦について、それを命じた軍指導者の責任を問うような展示も説明も見かけません。私はまだ行ったことがありませんが、靖国神社にある遊就館も同じだそうです。
戦争末期、軍幹部らは撃ち落とされることがわかっていながら、本土防衛のための時間かせぎ、国体護持のための温存という名目で、海軍兵学校、陸軍士官学校出の職業軍人には特攻をさせず、もっぱら学徒・少年兵を次々に特攻出撃させた。
それも速成で技量も十分でなく、しかも満足に飛べないような整備不良の飛行機で出撃させ、敵艦に近づく前にほとんどが撃墜された。
日本軍の残虐性を象徴しているのは、特攻だ。みんな志願して特攻にのぞんだと言われているが、上官に命令されたのだ。上官の命令は天皇の命令であり、志願しないとぶん殴られるから出撃する。
この本は、39の問いに対する答えを示すという問答方式によって靖国神社をめぐる問題点を実に分かりやすく解説しています。著者は日弁連の憲法委員会などで活躍している弁護士です。私も最近、知りあいになりました。
靖国神社は、国内法的に「戦犯」というものは存在しないという見解に立つ。しかし、このような見解は国際社会において容認されるものではない。
河野洋平衆議院議長は次のように語った。
「世代の問題ではなく、事実に目をつぶり、『なかった』と嘘を言うのは恥ずかしいこと。知らないのなら学ばなければならない。知らずに、過去を美化する勇ましい言葉に流されてはいけない」
まことにもっともな指摘です。
元軍人の遺族年金の支給については、いまなお「天皇の軍隊」の階級がそのまま生きているという指摘に驚かされました。まさに帝国陸海軍は現代日本に息づいているのです。1994年に、大将だった人の最高額は年間761万円。一般兵の最近は年104万円。7倍もの差がある。2004年に、大佐で年285万円、一般兵で59万円だった。ところが中国「残留」孤児に対しては自立支度金として、わずかな一時金(大人で32万円)。
後藤田正晴元官房長官は次のように言った。
「一国の総理(小泉首相のこと)が、今になって国会の答弁の中で、孔子様の言葉だと言って『罪を憎んで人を憎まずということを言ってるじゃないですか』なんて言うようではどうしようもない。それは被害者の立場の人が言うことで、加害者が言う言葉ではない。そういう意見が国会の場で横行するようになっては、日本という国の道義性、倫理性、品格を疑ってしまう」
そうですよね。小泉前首相に品格なんて全然ありませんでした。
中国との戦いに敗れたということを認めないまま総括を誤ってきたのが、戦後の日本であり、日本人の戦争観の根本的な問題がそこにある。
日本はアメリカとの戦いで164万人の兵力を投入した。しかし、同じとき中国にはそれより多い198万人もの兵力が配備されていた。このように中国戦線の比重は非常に大きかった。ところが、あの戦争はアメリカの物量に負けたと総括することで、日本の侵略に抵抗した中国やアジアの人々の存在を忘れることにしたのだ。
うむむ、これは鋭い指摘だと思います。私も大いに反省させられました。
中曽根康弘元首相は靖国神社に初めて公式参拝した。しかし、中国や韓国・朝鮮など近隣アジア諸国から厳しい批判を受けて、以後、参拝を取り止めた。
「やはり日本は近隣諸国との友好協力を増進しないと生きていけない国である。日本人の死生観、国民感情、主権と独立、内政干渉は敢然と守らなければならないが、国際関係において、わが国だけの考え方が通用すると考えるのは危険だ。アジアから日本が孤立したら、果たして英霊が喜ぶだろうか」
後藤田氏も中曽根氏も、まことにもっとも至極な考えを述べています。同感です。靖国問題について、保革いずれの支持者であるにかかわらず、勉強になる本だと思いました。
(2007年5月刊。1500円+税)
2007年10月24日
プロパガンダ教本
社会
著者:エドワード・バーネイズ、出版社:成甲書房
80年前(1928年、昭和3年)に書かれた本です。ちっとも古臭くなっていないのは、ギリシャ哲学、そしてマルクスやレーニンの書いた本と同じです。
ナポレオンは世論の動向を常に警戒していた。いつも人々の声、予想のつかない声に耳を傾けていた。ナポレオンは次のように語った。
なによりも私を驚かすものが何だか分かるか?それは、大衆に耳を傾けることなく、力づくでは何一つまとめることができないということだよ。
なーるほど、軍事の天才ナポレオンにして、そうなのですね。
万人の読み書き能力が、精神的高みのかわりに人々に与えたものは、判で押したように、画一化された考えだった。
うむむ、これは鋭い指摘です。知性と画一化とは両立しないはずなのですが・・・。
そもそもプロパガンダとは、国外伝道の管理と監督のために、1627年にローマで制定された枢機卿の委員会と聖者に適用されたものだ。
辞典によると、プロパガンダには四つの定義がある。その一は、国外伝道を監督する枢機卿の委員会。また、1627年にローマ教皇ウルバヌス8世によって、伝道師の司祭を教育するために創設されたローマのプロパガンダ大学。布教聖省の神学校のこと。
その二、転じて、教義や制度などを普及することを目的とした団体や組織。
その三、意見や方針に国民一般の指示を取りつけるための、系統立てて管理された運動。
その四、プロパガンダによって唱えられる主義。
このように、プロパガンダとは、本来の意味においては、人類の活動のまったく正当な形である。
私たちが、自由意思で行っていると考えている日常生活における選択は、強大な力を振るう実力者によって、姿の見えない統治機構による支配を免れない。
たとえば、人は自分の判断にもとづいて株式を購入していると何の疑問も持っていない。しかし、実際には、彼のくだす判断は、無意識のうちに彼の考えをコントロールする、外部から与えられた影響によって形づくられたイメージにもとづいている。
大衆というものは、厳密に言葉の意味を考えるのではない。厳密な思考ではなく、衝動や習慣や感情が優先される。何らかの決定をくだすとき、集団を動かす最初の衝動となるのは、たいてい、その集団の中での信頼のおけるリーダーの行為である。これが大衆にとっての手本となるのだ。
ある物をその人が欲しがっているということは、その物に備わっている本質的な価値や有効性のためではなく、無意識に別の何かの象徴、すなわち、自分自身では認めたくない欲求をその物の中に見いだしているからである。
人間は、ほとんどの場合、自分でもわからない動機によって行動している。
人間は、芸術や競争や集団や俗物根性、自己顕示欲という要素にしばられて生きている。
このバーネイズの著者は、ナチス・ドイツのヨゼフ・ゲッペルス宣伝大臣に愛読された。プロパガンダというと、ナチス・ドイツに本場があると思いがちだが、実はアメリカで生まれたもの。ユダヤ人を迫害したナチスのプロパガンダが、実はユダヤ人のバーネイスによって編み出されたというのは歴史の皮肉だ。
現在のテレビ番組がシリアスな内容を避け、お笑い番組だけを延々とゴールデンタイムに流し続けるのは、企業側に対する配慮である。
今の日本ではニュース番組までもがバラエティ番組化している。テレビは、書籍やインターネットと違って、ながら見ができるので、自然にものを考えないように大衆の脳がつくりかえられていく。
これって、ホント、恐ろしいことです。でも、多くの日本人がそれに気がつかないまま、無責任男の安倍首相から交替した福田首相の誕生を6割もの人が歓迎しているのです。こわい話です。
(2007年7月刊。1600円+税)
2007年10月23日
ワーキング・プア
アメリカ
著者:ディヴィッド・K・シプラー、出版社:岩波書店
アメリカの下層社会、というのがサブ・タイトルです。日本は相変わらずアメリカを手本として同じような社会になることを目ざしていますが、この本を読むと、アメリカのような社会になってはいけないと、つくづく思います。
アメリカは経済的に繁栄したあげく、富める者と貧しい者の格差は拡大する一方だ。上位10%では、世帯平均83万ドル以上の純資産があり、下位20%では、わずか 7900ドルしかない。アメリカの平均寿命は短く、乳児死亡率は高い。
アメリカ政府は大人1人と子ども3人の家族で年収が1万8300ドル以下の家庭を貧困と定義する。2002年には、その貧困率は12.1%となった。4240万人である。
アメリカで働くためには、ソフトスキル、つまり仕事に就くために必要な、簡単なスキルを教える必要がある。そのスキルに欠けている人々の脱落率は高い。
たとえば、バスの乗り方を知らないため、遅刻ばかりしている若い女性従業員がいた。時刻表が読めないし、バスに乗ったことがないため、バスの乗り方も知らなかったのだ。
アメリカの成人の37%は、計算器をつかっても、値段の10%引きの計算の仕方が分からない。同じく10%の人々がバスの時刻表を読めず、クレジットカードの請求額の誤りに関するクレームの手紙一本も書けない。
アメリカの大人の14%は預貯金入金票に記入した額を合計できないし、地図上で交差点の位置を探しあてることも、家電製品の保証書を理解することも、薬の正しい服用量を判断することもできない。
親のなかには、ただの一度も自分の子どもたちを一緒に遊んだことのない人たちがいる。そうした子どもたちが親になったとき、親に遊んでもらった経験がないため、自分の子どもたちと一緒に遊ぶことが重要な仕事とは気づかない。
私たちの大半は、親であるとはどういうことか、明確なレッスンなど受けることはない。私たちが知っていることは、すべて自ら少しずつ学んだ結果である。たとえば、両親から無意識のうちに吸収したり、ときには彼らと同じ失敗をくり返したり、ときには両親を反面教師にして彼らの過ちを逆手にとったりしている。
最貧困層においては、子育てという仕事は、多くの困難があいまに起こる破壊的な相乗効果のダメージにさらされやすい。
自分自身が愛に包まれていなければ、子どもにも多くの愛を捧げることができない。子どもたちを傷つけている親たちは、そうした状況にある。燃え尽きている。彼らは子ども時代に燃え尽きてしまった。人間として、親と良好な関係を築こうとしたにもかかわらず、親からあまりかわいがってもらえなかったからだ。だから、心を閉ざしてしまった。ストレスがたまりすぎていると、思考力が働かなくなってしまう。
アメリカ人は、所得と学歴が低くなればなるほど、投票が重要だと信じる割合が低くなっていく。個人生活の試練に疲れ、権力機構について冷笑的であり、選挙はつまらなく、政治家は信用できないと考えている。
アメリカ人は自分自身の階級的利害に即して投票しておらず、投票率が高まったときでも、貧しい人々は、階級的利害にそって投票はしない。
投票は、不満よりも願望によって動機づけられている。アメリカ人の19%は賃金労働のトップ1%に入っていると考え、次の20%は将来はそうなると思っている。
今の日本でも、年収300万円以下の労働者が全労働者のほぼ半数を占めている。貯蓄残高ゼロ世帯は1981年の5.3%から2003年の21.8%に増加した。
日本の貧困層の増大も深刻です。ところが、自・公政権は相変わらず医療費や福祉の予算を削っています。アメリカ軍がグアムに基地をつくるのに3兆円も出してやるという「気前の良さ」があるのに、日本人に対してはこれだけ冷酷になれる日本政府って、いったい何なのでしょうね。
(2007年1月刊。2800円+税)
2007年10月22日
神は妄想である
アメリカ
著者:リチャード・ドーキンス、出版社:早川書房
神が実在するのか、と考えたときに一番に思い浮かべるのはナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺です。神が実在するのに、それを防ぐことができなかったなんて、私にはとても理解できません。カトリックとプロテスタントの殺し合い、イスラム教徒とキリスト教徒との殺し合い、どうして、それぞれの神が止められないのでしょうか?
むしろ、宗教を強く信じている信者のほうが憎悪にみち、いや単に憎しみあうだけでなく、殺しあうのですから、一層たちが悪いのです。
そのような私の疑問を、この本は、あますところなく裏づけてくれます。だから私は、昔も今も、無神論者なのです。といっても、苦しいときの神頼みは今もしていますが。
ヒトラーは、カトリック教徒の家に生まれ、子どものころはカトリックの学校と教会に通っていた。スターリンは、神学校をやめたあと、ロシア正教を捨てた。しかし、ヒトラーは、自らのカトリック信仰を公式に放棄したことはなく、むしろ生涯を通じて信仰を持ち続けたのではないかと思われる。ヒトラーは、キリスト教徒としてユダヤ人を非難する長いキリスト教の伝統に影響を受けていただろう。
マルチン・ルターは、激烈な反ユダヤ主義者だった。すべてのユダヤ人は、ドイツから放逐すべきだと、議会で語ったことがある。
ヒトラーは、マルクスと聖パウロが二人ともユダヤ人であるとしつつ、イエス自身がユダヤ人であったことは頑として認めなかった。
宗教的信念が危険なのは、その他の点では正常な人間を狂った果実に飛びつかせ、その果実が聖なるものだと思わせることにある。
未遂に終わったパレスチナの自爆犯は次のように語った。
イスラエル人を殺すように自分を駆りたてたものは、殉教へのあこがれであり、復讐したいなどとは決して思ってはいなかった。私は、ただ殉教者になりたかっただけだ。
私は、もうすぐ永遠の世界に行くのだという気持ちのなかで、ふわふわと漂い、泳いでいた。何の疑問もなかった。
キリスト教、そしてイスラム教でもまったく同じことだが、疑問を抱かない無条件の信仰こそ美徳であると、子どもたちに教えこむ。
世論調査によると、アメリカの全人口の95%が自分は死後も生き続けるだろうと信じているという。もし本当にそう思っているのなら、年老いて、あるいは病気のため臨終を迎える人に対して、「おめでとうございます。これはすばらしい報せです。私もおともしたいくらいです」となぜ言わないのか。それは、本当は、死後について信じているふりをしているだけで、実は信じていないということを証明するものではないのか。
ホント、そうですよね。死後に永遠の平和な世界があると子どもたちに語り聞かせる大人は、もしそれが本当なら、自分こそ真っ先に「やるべき」でしょう。ところが、彼らは「卑怯にも」そんなことはしないのです。それは、彼らの「宗教心」が実はホンモノではないから、ということではありませんか。私は、この本を読んで、そのことにますます強い確信を抱きました。
(2007年5月刊。2500円+税)
2007年10月19日
世界を不幸にする原爆カード
アメリカ
著者:金子敦郎、出版社:明石書店
ルーズベルトはなぜ、原爆投下の目標を早い段階でドイツから日本へと転換させたのか。そこに人種差別があったことを否定することはできない。
トルーマンは、原爆投下を非人道的だと批判されたとき、野獣には野獣の扱いをしたと言い放った。結局のところ、日本への原爆投下が人種差別によるとか、あるいはその背景に人種差別意識があったと判断する材料はない。しかし、黒人差別が当たり前だった時代である。アメリカ指導者の意識の底流にそれがなかったとは言い切れないだろう。そこには報復・懲罰の意識もからんでいた。
原爆の威力を確認するためには、空からの目視と写真撮影が不可欠だった。そのため、原爆投下には晴天が条件になっていた。7月25日の原爆投下命令には、原爆の威力を観測、記録するため科学者を搭乗させることが盛りこまれていた。実際、広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」には科学者を乗せた観測機2機が同行していた。
皇居も原爆投下目標の有力な候補のひとつとして検討された。原爆投下が日本に対して最大限の心理的効果をあげること、最初の原爆使用を十分に「見せ場効果」のあるものにすることが委員会内で合意されていた。皇居は心理的効果は大きいが戦略的効果は一番小さいとして除外された。そこで、最終的には、目標を京都、広島、新潟の3都市に絞りこんだ。次いで、広島、小倉、新潟、長崎が目標となった。
小倉の上空が天候不良のため、長崎に目標が変更されたようです。
原爆投下は、軍事的にみて必要なかったし、アメリカ軍将兵の生命を救うという意味でも必要はなかった。アメリカ政府の首脳陣は、これを分かっていた。それでも原爆をつかった最大の理由は、ソ連を扱いやすくするためだった。原爆投下は軍事的というより、政治的な理由によって決まった。トルーマンがポツダム会談を引きのばしたのは、原爆実験の結果をもって臨みたかったからである。
アメリカは原爆の開発に20億ドルもの巨額の資金と資源を投入した。
アメリカが第二次世界大戦で兵器生産に投じた金額は120億ドルだった。
アメリカの軍事産業は、産軍複合体とも呼ばれ、アメリカが戦争をしかけるごとに肥え太っていきました。肥大する軍事産業のおこぼれにあずかるような会社とか、それに寄生するような法律事務所であってはならないとつくづく思いました。
(2007年7月刊。1800円+税)
ゆりかごは口の中
生きもの(魚)
著者:桜井淳史、出版社:ポプラ社
魚の子育てを追跡した楽しい写真集です。人類発祥の地として名高いアフリカ大陸の大地溝帯にあるタンガニーカ湖にすむ魚も登場します。そこには300種類もの魚がいて、口の中で子育てをする魚、何かにたまごを産みつけ、そこでたまごと稚魚を守る魚など、いろんな魚がいるのです。
著者はまず、自分の家の水槽でエンゼルフィッシュを飼い、その子育てを撮影しようとします。エンゼルフィッシュは南米のアマゾン川が原産地であり、オスとメスが協力して子どもを育てる、なかのよいペアは死ぬまで一緒に暮らします。ふむむ、すごーい。
エンゼルフィッシュは、シクリッドフィッシュと呼ばれる魚のグループ。シクリッドフィッシュは、アメリカ大陸とアフリカ大陸の熱帯地方の川や湖、海ぞいに1200種ほどいる。どの魚も面白い産卵の仕方であり、子育てが上手である。
エンゼルフィッシュを水槽で飼おうとして、適当な2匹を入れても、ケンカばかりして、とてもうまくいかない。エンゼルフィッシュは、実は、人間の都合によるお仕着せのカップルではダメで、自分で相手を選ぶ恋愛結婚でしかうまくいなかい。
ひゃあ、そうなんですか・・・。魚と思ってバカにしてはいけないのですね。
エジプシャンマウスブルーダーは、口の中に子どもを入れて子育てをする。その写真があります。信じられません。子どもたちを守り育てるのに一番安全な場所は、親の口の中だというわけです。子どもが口の中にいたら、親はエサを食べられませんよね。でも、そこもうまく解決しているようです。
親が子育てをしない魚では、たとえばマンボウは1回に3億個のたまごを産み、イワシは1回に10万個ものたまごを産む。その大半が食べられる運命にある。
しかし、親が子育てをする魚は、一回に産むたまごは、500個とか30個というように、とても少ない。
魚の子育てにも人間の子育てのような苦労があるということを知りました。
(2006年12月刊。950円+税)
越境捜査
著者:笹本稜平、出版社:双葉社
推理小説のような警察小説ですので、粗筋を紹介するわけにはいきません。千歳空港の本屋で買って、福岡までの飛行機のなかで読了しました。えーっ、警察署って、暴力団と同じ暴力的な体質の組織だったんだー、と思いました。警察内部の派閥抗争は邪魔者は消せということで、馳星周ばりのバイオレンス物の展開です。
背景にあるのは、警察のトップに君臨しているわずか300人ほどのキャリア組の高級幹部警察官による裏金分捕り合戦、そして、つけ足し的に東京の警視庁と神奈川県警のナワバリ争いが問題となっています。
あっ、もう一つありました。警察と暴力団幹部とが、実は裏でよく手を結んでいるという事実です。
いま、福岡県内では、北九州の暴力団制圧作戦が進行中のはずですが、見るべきほどの成果をあげているとは思えません。筑後地方の対立抗争事件では、一方の組長が射殺され、下部組織の組長2人が殺されているのに、警察は「自首」してきた組員以外、誰も捕まえてはいません。いったい、どうなっているんでしょうか。警察の捜査能力の低下は目を覆わんばかりのひどさだと語ってくれた知人がいましたが、まさにそのとおりです。
警察は、公安優先ではなく、もっと刑事・交通分野を優遇し、人々が安心して生活できるようにがんばってほしいと思います。
(2007年8月刊。1600円+税)
2007年10月18日
中国戦線はどう描かれたか
日本史(現代史)
著者:荒井とみよ、出版社:岩波書店
昭和13年(1938年)、林芙美子は日本軍の漢口攻略作戦に従軍作家として参加した。この作戦は、実は、とても従軍作家たちを招待できるような、余裕のある戦争ではなかった。長い行軍に疲れ果てた兵隊、大陸の熱暑と疫病で苦しむ兵隊、作戦の遂行もままならないありさまだった。相次ぐ戦病死者で部隊の体裁も保てない状態が続いていた。
だからこそ、日中戦争を続行するために銃後の人々の感情動員が求められた。
中国との宣伝戦は、もう一つの必死の戦さだった。従軍作家たちには、たぶん、その自覚はなかっただろう。
戦後、中国人学者が林芙美子を次のように批判しています。
林芙美子は、ペン部隊の数少ない女性作家として、武漢の前線で大いに頭角を現わし、侵略戦争の積極的な協力者であった。彼女にとってみれば、戦争がもたらしたのは、名声・栄誉と虚栄心の満足だ。敗戦は、逆に、これらかつての自己陶酔の一切を一瞬にして三文の価値もなしにし、あわれや糞土のごとくに変えてしまった。
なーるほど、と言うしかありません。侵略戦争に協力したペン部隊の作家として、次の人たちがあげられています。ええーっ、こんな人までが・・・、と驚きます。戦争って、本当に文化人まで根こそぎ動員するのですね。
佐藤春夫、古屋信子、小島政二郎、吉川英治、尾崎士郎、石川達三、深田久彌、藤田嗣治、西條八十、佐多稲子、丹羽文雄、豊田正子、そして菊池寛。
『一兵士の従軍記録』というものも紹介されています。歩兵上等兵、伍長、軍曹という地位にあった人の日中戦争従軍記です。
昭和13年7月から8月にかけて、部隊は南京経由で常州に入る。「支那の暑さ、盛夏となって味わうに、南の暑さは殺人的だ」という日々。
炎天下の行軍。大隊は、炎熱のため、落伍者はいうに及ばず、死者まで出す。一日かけて前進してきた道が間違っていたとの知らせで引き返す。フラフラの行軍。敵弾の飛びかう下での眠り。サイダー一本で蘇る歩兵たち。
やっと生き返ったのに、翌日になると、命令なく後退したという理由で、戦場へ戻れと言われる。なんと無理な命令だろうか。なんと軍人は辛いものか。
兵隊は赤紙で生まれるのではない。戦友の死、無理難題の作戦、飢えや寒さ、また炎暑に苦しむなかで、兵隊になっていくのである。
敵への憎悪は、戦闘のはじめの段階ではなかった。しかし、厭戦気分と裏表になった闘争心が徐々に肥大して彼らは兵隊になっていく。
出発時に194人だった部隊が、2年後、20数人になっていた。
実は、私の父も、この昭和13年(1938年)11月に応召し、中国大陸に1等兵として従軍しているのです。久留米の第56連隊(第18師団)に所属していました。武漢攻略作戦です。父は広東周辺にいたようですが、前線で危ない目にあったものの命拾いし、痔、脚気、マラリア、赤痢と次々に病気にかかり、ついに本国送還命令が出ました。1939年7月、台湾の高雄に上陸し、高雄と台北の病院で入院・治療を受け、1940年1月、本土に帰ってくることができました。
林芙美子の従軍日記で描かれているような日本軍の悲惨な状況は、父の置かれていた状況でもあったわけです。その子として、私も歴史の現実をきちんと受けとめ、私の子どもたちに伝えなければいけないと思いました。
(2007年5月刊。2400円+税)
2007年10月17日
ナガサキ昭和20年夏
日本史(現代史)
著者:ジョージ・ウェラー、出版社:毎日新聞社
GHQが封印した幻の潜入ルポというサブ・タイトルがついています。オビには、「マッカーサーに逆らい、被爆直後の長崎に命がけで一番乗りした米国人ピュリツァー賞記者。60年経て日の目を見た、歴史的ルポ」となっています。なるほど、そのとおりです。
1945年9月7日、長崎の惨状を著者が写真にとっています。荒れ果てた長崎は、まったくのゴーストタウンです。
原爆放射能が人体にもたらす恐るべき影響について無知だった著者は、長崎に入った第一日目の原稿には、「街には痛ましいという雰囲気はない」と書いていた。しかし、日がたつにつれて、病院で被爆者を見たり医師の話を聞いているうちに意識が変わっていった。はじめ外傷もなく元気だった人が、2〜3週間後あるいは1ヶ月後に急に全身状態が悪くなって、嘔吐、下痢、腸内出血など手の施しようもなく死んでいく。
ところが、このルポは、原爆の想像を絶する惨禍が世界に知られるのを恐れたマッカーサー司令部によって公表を差し止められた。
そして、私は、この本で大牟田にあった捕虜収容所について、写真つきのルポを読み、初めてその実情を詳しく知ったのです。
大牟田にあった第17捕虜収容所は1700人を収容する、日本最大の連合軍兵士捕虜収容所である。その多くは、炭鉱で毎日、8〜10時間も働かされていた。
彼らの何人かは、長崎に原爆を投下される状況を目撃した。
「大きなキノコのような白い雲がどんどんふくれ上がり、その中は真っ赤で、中心部分が地上まで届いているように見えた」
「初め白い煙が噴き出してキノコの形にふくれあがり、そして突然、内部で発火した。恐ろしかった。雲が発火したようだった」
「ぱっと光ったあと、白い雲が巨大なパラシュートの形に広がり、その中心にオレンジ色の光が輝いている。30分ほど、そのままだった」
「大きな火の玉が空に浮いていて、どんどん大きくなっていった。30分しても、まだそのままだった。新しいタイプのガスではないかと思った」
炭鉱で働かされていた捕虜たちは次のように語った。
「日本軍の処遇というのは、頻繁に行われる殴打と粗末な衣服、粗末な食べ物ということに尽きる。空腹のあまり盗みを働く者もいた。苛酷な冬だった」
「一番の困難は、坑内の湧水、低い天井の下で腰をかがめていること、重い材木を運ぶこと。いつも日本人の監督に殴られることだった」
連合軍捕虜収容所の隣に中国人炭鉱労働者収容所があった。2年前に中国を出発するときに1236人いたのに、日本に到着して300人が死亡した。現在、50人が重病。
この収容所では2年間に日本人衛兵により殺された者が70人を数え、加えて病死者が120人、現在の生存者は546人。生き残っている中国人の多くは骨と皮という状態である。
大牟田には、三井亜鉛工場で働く250人のイギリス人と、炭鉱で働く700人にのぼるアメリカ人と数人のイギリス人がいた。イギリス人のほとんどは、シンガポールとフィリピンで捕虜となった。
オーストラリア人が420人いて、うち300人は700人のアメリカ人とともに炭鉱で働いていたという記事もあります。
アメリカ人700人とその他の連合国人1000人という表現もあります。
700人のアメリカ人は、フィリピンで捕虜になったようです。バターンとコレヒドールで捕虜になったとあります。捕虜収容所にいた病人の多くはナチ収容所のユダヤ人と似た状態にありました。まさしく骨と皮のみの白人の若者の写真が紹介されています。
著者は飯塚にあった第7捕虜収容所にもまわっています。ここには、アメリカ人186人、オランダ人360人、イギリス人2人が炭鉱で働かされていました。
大牟田にあった第17捕虜収容所は日本最大の収容所であり、かつ、もっとも苛酷な収容所の一つだった。施設そのものは、ほかのところより多少よく、少なくとも年間、数ヶ月は水浴びができた。33棟の建物は、もともと三井鉱山が作業員宿舎として建てたもの、炭鉱は収容所から歩いて1.5キロメートルのところにあった。
33棟もの建物から成る捕虜収容所が大牟田のどこにあったのか、私はぜひ知りたいと思いました。あとで、三池港の近くにあったことが分かりました。中国人収容所や朝鮮人収容所も近くにありました。
捕虜収容所のフクハラ所長は、「収容所長として最も凶悪かつ非人間的な所長であった」ので、戦争犯罪人として有罪となり、1946年前半に絞首刑に処せられた。
このフクハラ所長を取り上げた本を以前に読んだような気がします。題名も何もかも忘れてしまいましたので、改めて見つけて読もうと思います。
(2007年7月刊。2800円+税)
2007年10月16日
官邸崩壊
社会
著者:上杉 隆、出版社:新潮社
自公政権のもろい内幕が赤裸々に暴かれています。こんな人たちに日本の国の前途をまかせているのかと思うと、鳥肌が立つほどの肌寒さを覚えます。
参院選のとき、演説会場での応援が終わるたびに、首席秘書官の井上義行は、安倍のもとに駆け寄った。そして車に乗りこむと同時に、こうささやいた。
総理、すごい人出です。私はこんな群衆を見たことがありません。総理の人気はホンモノです。移動中の電車内、飛行機の待ち時間、井上はあらゆる場所で安倍をほめたたえた。
首相側近は、たしかに自らの役割を果たした。どんなときでも安倍を不安にさせないこと。井上はこの重要な任務を完遂した。だが、残念なことに、本来の意味での仕事はしなかった。いかなるときでも首相に正確な情報を伝達するという仕事を。この意味で、井上は健全な任務を果たしたとは言い難い。
安倍の本『美しい国へ』は50万部をこえる売上げを誇った。これは、政治家本として、田中角栄の『日本列島改造論』、小沢一郎の『日本改造計画』に次ぐ売り上げだ。
その本のなかでうたいあげた憲法改正、とりわけ9条の改正の実現は、安倍の悲願である。安倍は2006年4月15日早朝、靖国神社に極秘のうちに参拝した。8月3日、NHKがそれをスクープ報道した。タイミングを見計らった安倍が、秘書官の井上と綿密に計画を練ったうえで、NHKと産経新聞のみにリークしたのだった。
ええーっ、安倍って、こんな姑息なことをしていたのですね。こんなこすっからいことをする人間なんて、首相の器じゃありませんよ。
次の2人の女性議員の経歴が紹介されています。テレビを見ない私には広告塔と言われても、もうひとつピンと来ません。彼女らの節操のなさは特筆されるべきでしょう。
山谷えり子(参議院議員)は、もとは産経新聞の記者で、民主党の比例議員だったが、のちに保守新党に参加し、カトリック信者でありながら靖国神社への参拝を強硬に主張する。夫婦別姓の推進論者だったのが、いつのまにか反対論者に変身した。
小池百合子(衆議院議員)は、細川護煕の日本新党の広告塔として活躍していたが、いつのまにか小沢一郎の新進党の顔になった。そして小泉純一郎のときには環境大臣になり、安倍首相の側近として国家安全保障担当補佐官となり、防衛大臣になった。小池は1992年の初当選以来、その政治生活のほとんどで、権力の中枢に身を寄せてきた恐るべき議員である。一言でいうと、人気とりだけはできる、嫌味な人間ということでしょう。戦国時代の武将にも、そういう人物がいましたね・・・。
やらせ問答で有名になったタウンミーティングに政府がかけた費用は、なんと9億 4000万円。電通が請け負っています。48回分ですから、1回あたり2000万円です。これを税金のムダづかいと言わなくて、どうしますか。でも、このような場合、住民訴訟のような制度は残念ながら、ありません。
塩崎官房長官と広報担当の世耕は、お互いに情報を秘匿しあい、個別に安倍に報告する。そこに秘書官の井上までからんで、複雑は一段と増した。安倍政権の二人の広報担当者は、官邸でわずか数十メートルしか離れていないが、意思の疎通がなかった。官邸内の情報は一本化されず、政権のプロデューサーを自任する井上は、施政方針演説をめぐってまで、世耕と対立していた。
広報担当の世耕は、自ら2度にわたって自分の仕事を自画自賛したことから、広報関係者の間での世耕の株価は一挙に暴落した。一夜にして切れ者から愚か者に墜ちた。
はじめ、井上は誰かれ構わず、怒鳴りつけていた。議員である塩崎や世耕に対してさえ横柄な態度をとるのは日常茶飯事だった。
キャリア官僚からすれば、ノンキャリア出身の井上に指示されること自体が耐え難いことだった。そうした空気を読まず、井上はこりずに官僚たちを怒鳴りつけた。同じことを自民党本部の職員にもした。井上の評判が悪くなるのは当然のことだった。
教育再生会議は、国家行政組織法8条によって設置された、いわゆる8条委員会である。より強力な権限をもち、答申を出す3条委員会とは違って、その結論はなんら拘束力をもたない。その事務局長が自民党の参議院議員になるなんて、ひどいものです。
安倍政権では誰もが友だち感覚で、小泉政権時にあった緊張関係は消えうせていた。
支持率の低迷する安倍政権を何とか支えていたのは警察中の漆間(うるしま)長官である。拉致問題一本で首相になった安倍にとって、漆間は頼りになる数少ない側近の一人だ。漆間は、政権内での発言力を背景に政治力を強め、外務事務次官の谷内とともに安倍に欠かせない官僚ペアになった。天下りが規制されてもっとも困る役所の一つは警察庁なのである。
フジテレビ、産経新聞、夕刊フジのフジサンケイグループは安倍政権の特務機関と言われていた。
いやあ、うすら寒いどころではありません。その馬鹿さ加減には、背筋が凍りついてしまいます。実にグッド・タイミングな本でした。それにしても、安倍のあとの福田首相の支持率が6割だなんて、日本人はいったい何を考えているんでしょうね。まったく同じ自公政権に期待する人が6割もいるなんて、私にはとても信じられません。
(2007年8月刊。1400円+税)
2007年10月15日
世界がキューバ医療を手本にするわけ
アメリカ
著者:吉田太郎、出版社:築地書館
キューバ憲法の第9条には「治療を受けない患者はあってはならない」と明記されているそうです。国民に医療を保証することを国に義務づけているわけです。すごーい。
キューバでは人々は医療費はタダ。医科大学もタダ。6年間の研修期間中の授業料、下宿代、食費、書籍代、衣服代のすべてを国が負担し、一切の経費がかからないうえ、毎月100ペソの奨学金が支給される。ただし、成績は求められる。全部の学科試験で平均 90点以上とらないと入学できない。それと、条件として、卒業したら、貧しい農山村や先住民のいるところで働くことを誓わなければならない。今、キューバの医科大学には世界の27ヶ国から、1万人以上の留学生が勉強している。そのなかには、アメリカのハーレム地区など、黒人もいる。学生の51%は女性である。はて、日本人の留学生はいないのでしょうか?
キューバの人口は1126万人。100歳以上の長寿者が2800人以上いる。日本には2万8395人いるが、人口比ではキューバは日本と同じくらいの長寿国だ。
キューバは長寿国である。1960〜65年には平均寿命は65.4歳だった。1980〜 85年には73.9歳に、1995〜2000年には76.0歳、2006年には77.5歳にまで伸びた。
キューバでは、2000年9月に全小学校で20人学級が達成され、多くは15人学級になった。中学校でも15人学級だ。
医科大学の教授陣は、英語などを除いて、80%は第一線で働く医師である。医師になるには、知識とともに人格形成が必要だという考えによる。
うむむ、これはすごいことです。
キューバでは医師は特権階級ではない。キューバの平均月給は334ペソだが、医師のそれは575ペソ。
キューバの医療で重視されているのはファミリー・ドクター。ファミリー・ドクターが120世帯、700〜800人と、顔が見える範囲で各家族の健康状態をチェックし、増進することにある。2005年にはキューバの医師7万6000人のうち、3万4000人がファミリー・ドクターで、ほぼ同数の看護士とともに全国民をカバーしている。
これって、本当にいいですよね。安心して生活できますからね。
キューバがユニークな医薬品を開発し、外貨を大いに稼いでいることを初めて知りました。たとえば、PPGという抗コレステロール剤がある。その副作用とは、なんと性欲を高めてしまうというのです。ええーっ、すごーい。私もぜひ・・・。
1日1錠、5ミリグラムを飲むだけで、動脈硬化や心筋梗塞が治るうえ、性欲減退にも威力を発揮するというのです。ところが、アメリカが認定しないため、日本でも売られていません。損な話です。
キューバの医療を受けたいために、世界各国からヘルス・ツアーがやって来るといいます。マイケル・ムーア監督の最新作の映画『シッコ』にも、アメリカから、9.11の被害者がキューバに渡って高度な治療をタダで請け、安い薬を大量に買って帰るというシーンが出てきます。キューバで治療を受けようというヘルス・ツアーだけで、年間6000万ドルの外貨をキューバは獲得しているというのですから、すごいものです。
キューバの医師たちは、全世界に出かけて行って活躍しています。これまだ偉いものです。日本は、この面でもすごく遅れています。青年海外協力隊はありますが、医師を世界派遣するシステムはありません。
2005年現在、2万5000人のキューバ人医師が世界68ヶ国で働いている。人口1100万人しかいない国でこんなことが出来ています。日本ならその10倍の25万人の医師が海外で貧困者のために活躍しているということに相当します。
これから始まろうとしている日本の後期高齢者医療制度なんて、あれは本当にひどいものです。75歳以上の高齢者に医療費を負担させようという考え方そのものが間違っています。国は、お金がないから仕方がないと言いますが、ウソッぱちですよ。軍事予算はどうですか。アメリカ軍に巨額の思いやり予算を提供してますよ。大型公共工事なんて、ひどいものです。つくりはじめたとたんに沈みはじめた橋があります。あれって、医療費を削ってまで必要なものだと言うんですか?できたら赤字必至の九州新幹線の工事がすすんでいます。それでも、お金がないから、医療費負担を上げるのは仕方がないと言うんです。エエッ、ウソでしょ。もっと私たちは政府に対して怒るべきではないでしょうか。
(2007年9月刊。2000円+税)
2007年10月12日
犬と私の10の約束
犬
著者:川口 晴、出版社:文藝春秋
犬好きの人にはこたえられない感動本です。可愛らしいゴールデンレトリバー犬の仔犬の写真が入っていて、まるで実話の世界です。
犬の名前はソックス。友だちがつけた名前はタビ。たしかに、写真を見ると、右足の先っぽだけ白色になっていて、まるで靴下をはいているかのようです。
犬を飼うときには、犬と10の約束をしないといけない。それが守れないのなら飼ってはダメだし、飼っているあいだは、この約束をいつも思い出すこと。
1、犬語は分かりにくいかもしれないけれど、私と気長につきあってくださいね。
2、私を信じて。それだけで私は幸せです。
3、私にも心があることを忘れないで。
4、言うことをきかないときは、理由があります。
5、私にたくさん話しかけて。人のことばは話せないけれど、わかっています。
6、ケンカはやめようね。本気になったら私が勝っちゃうよ。
7、私が年齢(とし)をとっても仲良くしてください。
8、私は10年くらいしか生きられません。だから、一緒にいる時間を大切にしようね。9、あなたには学校もあるし、友だちもいるよね。でも、私にはしかいません。
10、あなたと過ごした時間を忘れません。お願いです。私が死ぬとき、そばにいてね。 どうか覚えていてください。私があなたを愛していたことを。
なーるほど、いい約束ですね。でも、人間って、すぐ自分の都合で動いて、こんな約束をしたことを忘れてしまうんですよね。
私が小学生のころ飼っていたのはスピッツ犬で、座敷犬でした。上も下もかまわず歩いていましたから、畳の上はいつもザラザラしていました。今なら、とてもそんなことは耐えられませんが、一家5人(そうです。子どもが5人もいて、私は末っ子なのでした。姉たちにおしめをかえてもらっていたそうですが、もちろん、そんな記憶は私にはありません)、だれも気にせず、平気で犬と同居していました。ルミ(オスのスピッツ犬なのですが、勝手にそう呼んでいました)は、私が大学に入って1年もしないうちに、家の前の道路で車にはねられて死んでしまいました。だから、私は死に目には会えませんでした。遠く、東京で泣きました。恐らく老衰して、足がよく動かなくなっていたので、モタモタしているうちに車にはねられてしまったのでしょう。
ゴールデンレトリバーも、大きくなるのはすごく速いんですね。大きくなったソックスの写真もあります。映画になるそうです。見てみたいですね。
朝7時すぎ、雨戸を開けると清々しい純白の芙蓉の花がこぼれんばかりに咲いています。夕方には赫い花になってしまう酔芙蓉がいま盛りです。下の田んぼの稲刈りが終わって、スッキリしました。ヒマワリを刈りとり、見通しのよい庭になりました。チューリップやアネモネなど、春の花を少しずつ植えています。土いじりは楽しい作業です。
(2007年7月刊。1143円+税)
悔いなき生き方は可能だ
社会
著者:村岡 到、出版社:ロゴス社
著者は40年前の東大闘争のとき、全共闘の活動家でした。
ときに周りをふり向くと、活動を持続している人が意外に少ないことに気づく。あのときの活動家が10分の1でも「生き残って」いてくれたら、そんな思いに駆られたことが再三ではない。なぜ、多くの青年が活動を継続できなかったのだろうか。それぞれに理由と事情があるに違いない。
ふと外の世界との接点で、自分の行ないをかえりみる機会を与えられ、気づいてみると、そこにある種の断絶を感じる。感じとるだけの常識を備えていると、ある場合には命がけで闘っていた課題と自分の生きざまとに微妙な落差・陰を感じることになったのではないだろうか。そういう問題を軽視して、組織が重要だとだけ説教する運動から離脱していったのだろう。
日本マルクス主義法学の創始者である平野義太郎の『マルクス主義の法理論』を一読すると、法律の問題はマルクス主義における空白をなしていたことがよく分かる。それはレーニンも同じことで、『国家と革命』には、法律は登場しない。
私は、この二つの本を何回も読みました。目が開く思いでしたが、法律が位置づけられていないというのを初めて知りました。
ロシア革命のなかでは、法律の無知をもって革命家の誇りとする風潮があったほどである。この風潮は、民主政府の伝統を欠如していたロシアの歴史に深く根ざしていた。ロシア革命を、法の精神なき革命だと大江泰一郎は特徴づけた。
レーニンは、革命の利益は、憲法制定会議の形式的権利よりも尊いという立場を断固として貫徹した。左翼における憲法の軽視の根底にはマルクスが『共産党宣言』で断言した「法律はブルジョア的偏見である」というドグマがある。
うーむ、なかなか鋭い指摘だと思いました。
東大闘争(1968年6月〜1969年3月)から40年近くが過ぎた現在、今なおそれを客観的な歴史として語れない、語りたくない団塊世代が想像以上に多いように思います。そこにはノスタルジーの世界ではなく、今の生き方を厳しく問いかけるものがあるからではないでしょうか。タイトルにありますように、お互い悔いなき人生を送りたいものです。もっとおおらかに人生と社会変革のあり方を語りあいたい。本当にそう思います。
著者とは、東京の河内兼策弁護士による、「昔、全共闘だった人も、民青だった人も、いま憲法9条を守るために」というテーマの集会で初めてお会いしました。団塊世代の参加者がとても少なくて、残念でした。このとき、関西地方からインターネットを見て参加したという人がおられました。安田講堂内にたてこもっていた人です。逮捕されて、執行猶予判決を受け、その後、企業に就職して何も社会活動はしてこなかった。妻にも自分の過去は言っていないとのことでした。まだまだ、団塊世代の人がこの種の集会に参加するためには心理的抵抗がとても大きいようです。
(2007年4月刊。2000円+税)
食糧争奪
社会
著者:柴田明夫、出版社:日本経済新聞出版社
この本を読むと、日本は、もっと食糧自給率を高めるべきだと痛感します。
日本では余剰感のあるコメだが、世界的にみると需給が引き締まり傾向にあり、将来、楽観視はできない。
現在、穀物メジャーは、伝統的な穀物商社のカーギルとバンゲ、搾油業や小麦製粉業などの食品加工業を由来するADM、コナグラの大手四社。
古いデータだが、1997年時点で、これら四社にコンチネンタル・ケレインを加えた大手五社の米国の穀物流通のシェアは、産地集荷段階で3割、内陸部の中間流通段階で5割、輸出段階で7割、一次加工段階では5割を占めていた。
世界に栄養不足人口は8億5000万人いると推計されている。
世界の穀物市場では、2000年を境に供給過剰から供給不足へと需給構造の転換がすすんでいる。旺盛な需要に供給が追いつかず、結果として、世界の穀物在庫が取り崩されているためだ。この背景には、中国やインドなどの人口大国が本格的な工業化の過程に突入し、猛スピードで日・欧・米の先進諸国へ追いつこうとしていることがある。
もはや世界経済を牽引しているのは、1990年代までの日・欧・米の先進国(人口8億人)ではなく、人口30億人のブラジル・ロシア・インド・中国である。
2003年時点で、遺伝子組み換え作物の栽培比率は、大豆で81%、トウモロコシで40%に達している。
日本の農家戸数は1980年の466万戸から2005年に293万戸へ4割も減少した。農地面積は546万ヘクタールが471万ヘクタール(2004年)へ14%減少した。農業就業人口は506万人から259万人(2003年)へと49%も減少した。
日本の食糧自給率は40%というが、実は、日本の畜産物はその飼料のほとんどを海外に依存している。だから、注目すべき自給率は穀物自給率の28%。これは他の先進諸国と比べて異常に低い。アメリカは128%、フランス142%、ドイツ122%である。イタリア62%、イギリスでも70%である。
これでは日本人は餓死寸前みたいなものではありませんか。この面でもアメリカ頼みでは日本人は将来を生きていけないのです。
イギリスはかつて日本並みに低かった。一時は400万ヘクタールだったイギリスの耕地面積は、1800万ヘクタールにまで拡大された。これによって食糧自給率が向上した。飽食・日本の将来を不安にさせる警告の書です。石油を食って生きていくことは出来ないのです。自動車をつくって外国に売り、食糧は外国からお金を出して買えばいいという発想は明らかに誤りだと思います。
先日、札幌に行ってきました。心の優しい岩本勝彦弁護士の紹介で行った小料理屋(「しんせん」)で、シャケの心臓(ハツ)の串焼きを初めて食べました。北海道は美味しいものがたくさんあります。やっぱり産地が分かっているものを安心して食べたいですよね。
(2007年7月刊。1800円+税)
2007年10月11日
大本襲撃
日本史(現代史)
著者:早瀬圭一、出版社:毎日新聞社
戦前の宗教弾圧事件として名高い大本(おおもと)教弾圧事件の詳細を描いた本です。その苛酷な弾圧を初めて知りました。
当局の大本教についての認識は次のようなものだった。
明治25年のはじめ、綾部の町はずれで半農半行商を世すぎとして一家の生計を支えてきた57歳の老婆・出口なおは、その遺伝性素質がこの生活上の重圧の限界で発作を起こして、精神の異状を呈した。
この狂女は、いくぶん平静さを取り戻すにつれ、土地の俗信である艮(うしとら)の金神(こんじん)や、従前の信仰であった天理教、金光教の教説をおりまぜて、独自の経文を口にし、病者に対しては、これまた一種の我流の施法をはじめた。医学的に後進地であった地方のため、新奇な物珍しさも手伝い、注目されるようになった。
そこへ、上田喜三郎青年が助手として登場した。上田青年は、一度は排斥されたのち、再び、出口王仁三郎と名前を変えて迎えいれられた。
開祖なおは文字を知らなかった。しかし、神が、「おまえが書くのではない。神が書かすのであるから、疑わずに筆を持て」と命じるので、近くにあった一本の古釘を手にとってみると、ひとりでに手が動き、文字を書きはじめた。紙に筆をおろすと、ひらがなで、スラスラと文字が書けだした。これが筆先のはじまりである。
開祖なおは、大正7年に死ぬまで26年間にわたって、膨大な筆先を書いている。筆先で一貫しているのは、世の立替え、立直しということである。
筆先は、すべてひらがなで書かれているため、意味が判明しやすいように漢字をあてたのが出口王仁三郎である。
大正に入るころから、陸海軍の幹部クラスや岡田茂吉(後の世界救世教の主宰者)、谷口雅春(後の「生長の家」の主宰者)などが相次いで大本に入った。軍人たちの入信が当局に警戒心を強めた。小山内薫や尾上菊五郎、中村吉右衛門なども大正9年ころ、大本に入信した。
このような大本教を治安維持法違反として検挙したのですから、いかにも国家権力の横暴きわまれりというものです。治安維持法では国体の変革を目的とする結社をつくれば2年以上の懲役・禁固に処せられます。
三千世界一度に開く梅の花、梅で開いて松で治める
これは大本の開教宣言の一句です。これが治安維持法にいう国体の変革を目ざすものと解釈されるのです。信じられません。まったく恐ろしいことです。狂気の沙汰とは、このことです。
王仁三郎による教理が指向するものは、現在の統治の根本を否定し、代わって、自らがその地位を占有せんとするものであるから、明らかに国体を変革することを目的としている。
ええーっ、これってウソでしょ。マジ、本気って、ありえないよね。そんな感じです。
大本は、いわゆる宗教ではない。大本は神意を実行する団体である。単に教をしていて、人にいわゆる信仰心を起こさせるだけのところでなくして、神示(教典)をその機に応じて実地に活用する団体である。
このようにこじつけて、当局は大本教の弾圧をはじめます。
昭和10年(1935年)12月8日午前0時、臨時年末一斉警戒の名目で京都府警の警察官500人が京都御所に集結。大型バス18台と数台の普通車やトラックに分乗、各編隊に分かれた。遠い綾部へ向かう大隊は午前1時に、近い亀岡行きの大隊は午前3時に出発。途中で、警官に大本襲撃の目的が明かされた。同時に、大本は決死隊を結成していて、銃などの兵器も準備している。警官隊は皆殺しにあうかもしれない、などのウワサが飛びかい、はち巻きや下履きを配られた警官たちは必死の形相だった。
もちろん、何ごともなく、教団側は無抵抗のまま大勢の信者が逮捕されます。教団の建物は全部が取りこわされてしまいました。
綾部の大本総本部は300人の警官で包囲し、まず電話線を切り、午前4時半、突入した。信者は無抵抗だった。
松江の大本別院にいた王仁三郎・すみ夫妻も逮捕された。大本教の幹部44人が検挙され、信徒1500人が取り調べを受け、うち300人が身柄を拘束された。
警察当局は大本は妖教、邪教、怪教だというイメージをつくりあげ、大阪毎日新聞などが連日、センセーショナルに書きたてた。しかし、信者はきわめて冷静に対応した。
取り調べは京都府警特高課があたった。竹刀(しない)、焼けヒバシ、水責めなど、あらゆる拷問の道具と手段を用いた。まったく、2年前に東京の築地署で小林多喜二が受けたのと同じ拷問だった。
三年ぶり 慣れなじめたるボッカブリ、妻は無事なか、子らはふえたか。
これは、教祖すみが、独房に入れられているとき、夫婦者のゴキブリを見つけて仲良くしていた情景をふまえた歌です。
昭和11年3月。京都府知事は大本の建物について、すべて破却せよとの命令を出した。
結局、昭和11年(1936年)の暮れまでに987人が検挙され、318人が送検された。その取調べ中(1年)に、自殺1人、拷問のあげく衰弱死2人、自殺未遂2人を出した。
昭和12年、裁判が始まり、大本は清瀬一郎ほか、18人の弁護団を結成した。
教祖すみは、裁判の日には人前に出るのだから、白粉くらいつけようと思い、白粉のかわりに白い粉状の歯磨き粉を顔に塗った。
このころの教祖すみの写真がありますが、屈託ない笑顔を見せていて、驚きます。次の王仁三郎の言葉もすごいものです。
人間というものは過ぎ去ったことをいくら悔やんでみたところで、絶対に取り戻せるものではない。また来ぬ日のことをいくら心配してみたところで、決して思うようにはならぬ世の中だ。人間の自由になるのは、今というこの瞬間だけだ。だからわしらは、今というこの瞬間をいかに楽しく、いかに有効に送るかだけより考えてはおらぬ。あとは一切神様にお任せしておけばよい。昨日、刑務所に入っていたことも考えなければ、明日、刑務所に入っていなければならぬと考えたこともない。そんな不可能なことで心配して自分の命を削るくらいばかなことはない。未決が1年だろうが、7年だろうが同じことじゃよ。
ここにあります、人間の自由になるのは今というこの瞬間だけだ、というのに、私は眼をぐーんと開かされた思いです。
大本教弾圧事件について、その時代背景ともどもよく知ることができました。
(2007年5月刊。1600円+税)
2007年10月10日
イメージ、それでもなお
ドイツ
著者:ジョルジュ・ディディ・ユベルマン、出版社:平凡社
タイトルからは何も分かりませんが、サブ・タイトルに「アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真」とあり、これでようやく本の内容が推察されます。
いかにもフランス人の書いたと思われる難解な文章が続きます。著者の言わんとするところは、私には難しすぎてよく分かりませんでした。それでも、いくつか知らなかったことを大発見しました。やはり、人は自分のことを人に伝えようとする存在なのですね。
それは、アウシュヴィッツでユダヤ人の死体処理をしている状況をまさに隠しどりしたユダヤ人がいて、その写真が強制収容所の外へ運び出されていたということ、死体処理の作業にあたらされていたユダヤ人(ゾンダーコマンド)は、いずれ順番に消されていったのですが、その人たちが自分の目撃したことを書いて地中に埋めたりしたものが戦後、何年もたってから掘り起こされているということです。私にとっては、いずれも大きな衝撃を受けました。
最初のゾンダーコマンドがアウシュヴィッツで結成されたのは、1942年7月のこと。この日から、12の部隊があとに続いた。数ヶ月たつと、部隊は潰され、前任者の死体を焼くことが次の部隊にとっての通過儀礼だった。
彼らの恐怖の一部をなしていたのは、彼らの全存在が避けがたい部隊のガス室送りの日まで、完全なる秘密のうちに保たれていたということである。すなわち、ゾンダーコマンドのメンバーたちは、他の囚人といかなる接触も持ってはならず、ましてや、ありとあらゆる外部世界とはおろか、不案内なSSたち、つまり、ガス室や焼却棟の正確な役目を知らない者たちとも接触を断たれている。秘密裡に置かれたこれらの囚人たちは、病気でも収容所の病棟に入ることが許されなかった。彼らは完全なる従属と焼却棟
での仕事に対する感覚麻痺、ー アルコールは禁止されていなかった ー のうちにとどめ置かれていた。
ゾンダーコマンドの仕事は、彼らの同類の死を数千単位で処理すること、最後まで嘘をつきとおすのを強いられること。犠牲者たちに彼らの運命を伝えようとした者は、生きたまま焼却場の火に投げこまれ、他のメンバーは、その執行に立ち会わねばならなかった。
自分自身の運命を知りつつ何も語らないこと。男たち、女たち、子どもたちがガス室へ入るのを見届けること。叫び声や壁を打ち鳴らす音、最期のうめきを耳にすること。続いて、扉を開けると崩れ落ちてくる、筆舌に尽くしがたい人間の山積み。肉でできた、彼らの肉、われわれ自身の肉でできた「玄武岩の柱」を、まるごと引き受けること。死体をひとつひとつ引っぱり出し、服を脱がせること(これはナチスが脱衣所のトリックを思いつく前のこと)。
すべての血と体液、積み重なった血膿を、放水で洗い流すこと、金歯を「帝国」の戦利品として取り外すこと。死体を焼却棟の大かまどにくべること。非人間的なリズムを保ち続けること。コークスを供給すること。冷えるにつれて黒味を帯びる、溝から溢れ出す高熱の白っぽい不定形の物質という姿と化した遺灰をかき集めること。産業的破壊に対する身体の最後の抵抗である、人骨を砕くこと。
これらすべてを山積みにし、近隣の河川に投げ入れるか、収容所近くで建設中の道路の舗装材に用いること。巨大なテーブルで囚人が15人がかりで解きほぐす、150平方メートルの頭髪の上を歩くこと。ときおり脱衣所のペンキを塗り直し、カムフラージュ用の生垣をつくり、想定外のガス殺のために予備の焼却溝を掘ること。焼却棟の大かまどを清掃し、修繕すること。SSに脅かされながら、これらを毎日繰り返すこと。こうして期限の定まらない時間を、酒に酔いつつ、できるだけ早く終わらせようと憑かれたように走り回りながら、昼も夜も働きどおしで生きる続けること。
ゾンダーコマンドを目撃した囚人によると、彼らは人間の顔をしていなかった、あれは憔悴して狂った顔だった、という。
ポーランド・レジスタンスの指導部が1944年に写真を発注した。これを受けて一人の民間労働者が強制収容所にカメラをひそかに持ち込み、ゾンダーコマンドのメンバーに手渡すことに成功した。そして、4枚の写真がとられた。
囚人たちを写したビルケナウの写真を送る。一枚には屋外で死体を焼く火刑場の一つが写っている。焼却棟だけではすべてを焼ききれないのだ。火刑場の前には、これから投げ入れられる死体がある。もう一枚には、シャワーを浴びるためだと言われて、林のなかで囚人たちが服を脱ぐ場所が写っている。その後で彼らはガス室に送り込まれる。
これは1944年8月にとられた4枚の写真に添えられた文章です。
ガス室による死はおよそ10分から15分かかる。
もっとも、おそろしい瞬間は、ガス室を開けるときの、耐えがたい、あの光景だ。
人々の肉体は、玄武岩と言うのか。まるで石の塊のように凝固している。そして、そのまま、ガス室の外に、崩れ落ちてくる。
何度も見たが、これほど、つらいものはない。
これだけは、決して慣れることはない。不可能だった。
そうなのだ。想像しなければならない。
この文章を書き写している私の手は震えがとまりません。想像できない世界です。でも、でも、あえて想像しなければいけないのです。
そして、ビルケナウの地中から、ゾンダーコマンドのメンバー5人の手記が見つかりました。掘り出されたのです。1945年2月、1945年3月、1945年4月、1952年4月、1961年7月、1962年10月、1980年10月にそれぞれ発見されています。フランス語、イデッシュ語、ギリシア語で書かれていました。
実は、終戦後、近くのポーランドの農夫たちが、この死の収容所にユダヤ人の財宝が画されていると思いこみ、収容所を荒らしました。その難を逃れて発見されたものです。
自分が何を見たか、何をしたのか、いずれ殺されることが分かっていたユダヤ人たちは、なんとかして、外の世界へメッセージを送りたいと思い、苦労して、苦心して地中深く穴を掘り、ビンの中にメッセージを入れて埋めていたのです。この状況を今の私たちはしっかり想像すべきだと心の底から思いました。
(2006年8月刊。3800円+税)
2007年10月 9日
エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー
アメリカ
著者:前田詢子、出版社:角川選書
前に『エルヴィスが社会を動かした』(青土社)を紹介しました。その本の訳者だった著者による本です。エルヴィスプレスリーは、私より少し上の世代ですが、メンフィスにあるプレスリー邸を訪問したことがありますので、興味深く読みました。
あらかじめマテリアルが用意されることはなく、音を出しあって、あれこれやってみる。そして、これというサウンドが得られるまで試行錯誤を繰り返す。だから、どんなものが生まれてくるかは、誰にも予想がつかなかった。何もうまれてこないことがあったが、そんなときは、翌日か翌々日にまた同じことをやり直した。もしも、楽譜だけの、紙の上の作業であれば、このような思いがけないサウンドが生まれることは決してなかっただろう。
それは、黒人のブルースの上に白人のカントリーをのせたもの、逆に白人のカントリーの上に黒人のブルースを乗せた音の重ね方の問題ではなかった。それは、ブルースでもカントリーでもない、カラー・ラインが溶け落ちた危険な音だった。そして、それは何よりも、農村の音楽と都会の強烈なビートの融合だった。
なーるほど、だから、白人青年も黒人青年も、ひとしくエルヴィスに熱狂したのですね。まさしく危険な音楽をエルヴィスは広めたのでした。
1950年代のアメリカ人の生活にもっとも大きな変化をもたらしたのはテレビだった。1950年にテレビをもつ家庭は390万世帯。そのとき、ラジオ聴取者4000万人。1950年代前半にはアメリカ全世界の88%がテレビをもっていた。劇的な普及ぶりだった。
若者たちから絶賛され、大人たちから罵倒されたエルヴィスの独特のパフォーミング・スタイルは、ステージ用の振り付けとして学んだものではなかった。それは、エルヴィスが幼いころからなじんだ教会の牧師や、ゴスペル・シンガーたち、黒人ブルース歌手などを見て、自然に身につけてきたものだった。
エルヴィスは意識的な社会活動家ではなかったが、黒人を対等の人間として受容する勇気を持っていた。エルヴィスは尊敬する黒人に敬語をつかい、若い黒人ミュージシャンとは肩を組み、友人として平気でつきあった。
南部社会は、極貧の者に極貧の者の生き方があることを教えていた。エルヴィスは絶望的な貧困から彼ら一家を救い出してくれた神に心から感謝し、初めて手にする贅沢なモノに感動した。親孝行だったエルヴィスは、1956年9月、運転免許さえ持たない母親にピンクのキャデラックを贈った。キャデラックこそ、貧しい者にとって最高の富の象徴だった。
エルヴィスは、この世における自分の役割は何かという長年の自問に対して、ついに答えを見出した。エルヴィスのコンサートは、音楽の不思議な力を通して、人々の心に直接メッセージを送る場であり、アメリカの本源的な自由と希望、未来への可能性と期待を呼び覚ます場であった。
エルヴィスは1973年10月、妻と離婚した。そのことでエルヴィスは悲しみに打ちひしがれ、怒りで荒れ狂い、絶望あまり健康を害した。もともと過労がもとで内臓に複合障害があった。妻の行為は、エルヴィスにとって、夫である自分に対する重大な裏切りであり、男の威信を打ち砕く破滅的な一撃だった。
油断のならない取り巻きに囲まれて、エルヴィスは一人でいるよりもさらに孤独だった。強い照明とカメラのフラッシュで痛めつけられていた眼は緑内障を起こしていた。肝臓や腸、腎臓、心臓にも障害が見られ、慢性の低血糖症や高血圧、肥満があった。精神面でも極度のうつ状態に陥ることが多かった。
エルヴィスは、多量の処方薬を摂取することで症状を抑えて、コンサートを続行した。
1977年8月16日、エルヴィス・プレスリーは突然、この世を去った。バスルームに入って本を読んでいるところを心臓発作に襲われ、そのまま倒れた。救急車で運ばれ、蘇生処置がほどこされたが、その甲斐なく死亡した。解剖の結果、死因は不整脈による心不全と判定された。心臓は肥大し、肝臓や腸にも障害が見られた。遺体からは14種類の処方薬が検出され、鎮痛剤に関しては処方規定の10倍の量が測定された。薬物によるショック死も疑われた。
あまりに過重なコンサート・スケジュールをこなすため、体調の悪化を処方薬の大量摂取で切り抜けてきたことが遠因であることは明らかだった。
偉大な歌手も、コンサートの重圧には耐えられなかったというわけです。痛ましい事実ですよね。それにしても、まだ42歳の若さでした。同じように、フランスのエディット・ピアフは 47歳で薬づけの状態で亡くなりました。
札幌のススキノでシャンソニエに行きました。昔からお世話になっている藤本明弁護士の行きつけの「プチ・テアトル」というお店です。申し訳ないことに、お客はなんと、私たち2人だけでした。若い女性の伸びやかなデュエット、いぶし銀のようなママさんの歌を堪能して、夜のススキノの雑踏をホテルまで歩いて帰りました。ありがとうございます。
(2007年7月刊。1600円+税)
2007年10月 5日
かけ出し裁判官の事件簿
司法
著者:八橋一樹、出版社:ビジネス社
ヤフーブログに現役の若い裁判官が書いているのだそうですね。私は読んだことがありませんが・・・。
この本は、その裁判官が一つの刑事裁判に関わった裁判官の物語を書いてみた、というものです。ですから、まったく架空の創作です。
でも、身近にいる裁判官の日常をそれなりに知る者としては、ああ、そうそう、こんなんだよね、と思いながら、ほとんど違和感なく読みすすめることができました。フツーの市民の参加する裁判員裁判が始まろうとするいま、こんな読み物がもっと広く市民に読まれたらいいな、そう思って、この本を紹介します。
裁判所のなか、3人の裁判官が合議(議論することをこう言います)する状況が詳細に描かれています。要するに、会議室で、「さあ、今から合議しましょう」と始まるのが合議ではなく、立ち話の片言隻句も合議のうち、なのです。
事件は、恐喝そして強盗致傷事件が成立するかどうか、というものです。オヤジ狩りをした青年たち、コンビニ付近でたむろしている青年たちの行動が問題とされています。とったお金が分配され、それが共犯行為にあたるものなのか、ということも問題になっています。
先日、司法研修所の教官だった人から聞いた話によると、証言を表面的にしか理解できない修習生が増えているということでした。分析力が身についていないというのです。悲しいことです。人間の言葉は、ただ文字面だけをもってそのとおりだと理解すると、とんでもない間違いを犯すことがあります。その点は訓練が必要なように思います。
軽く、さっと読め、そして裁判官の世界を身近なものに思わせてくれる、いい本です。
(2007年8月刊。1300円+税)
全記録・炭鉱
社会
著者:鎌田 慧、出版社:創森社
かつて日本には至るところに炭鉱があった。炭鉱で働く労働者は1948年に46万人、1957年にも30万人いた。2007年の今では釧路炭田(釧路コールマイン社)に 500人ほどしかいない。
私は一度だけ、閉山前の三井三池炭鉱の坑内に入ったことがあります。有明海の海底よりさらに何百メートルも下、地底深くの切羽(きりは。石炭掘り出しの最前線です)にたどり着くまで、坑口から1時間以上もかかりました。周囲はすべて真っ暗闇のなかです。厚いゴム製のマンベルトに乗って、石炭のひと塊になった感じで昇ったり降りたりしてすすんでいくのです。暗黒の地底に吸いこまれそうな恐怖心を覚えました。
炭鉱夫が生き抜くのは、ひとえに運と勘である。そうなんです。運が悪ければ死、なのです。いつ落盤にあってボタ(石炭ではない岩石)に圧しつぶされるか、いつガス爆発で殺されるか分からない、まさに死と隣りあわせの危険な職場です。
北海道にあった北炭夕張炭鉱では、7年ごとに死者数百人という大事故が発生しており、死者20人未満の事故など、数えきれないほど。もちろん、天災というのではなく、安全無視、生産優先による人災です。
そして北炭夕張炭鉱が閉山になって、人口10万人いた夕張市は、今では人口3万の都市になってしまいました。
北海道の炭鉱の労務管理は三つの型に分類できる。三菱系は警察型労務管理。三井系は物欲的労務管理。北炭系は精神的労務管理。
うーん、そうなんですか・・・。三井系も、けっこう警察に頼った労務管理をしていたように私などは思うんですが・・・。
夕張には3人の市長がいると言われてきた。鉱山の所長、炭労出身の地区労議長、そしてホンモノの市長は、いわば三番目の市長。初代市長は北炭の労務課長出身だった。
大牟田にあった三池炭鉱が閉山して、既に10年がたちました。いま、大牟田に炭鉱があったことを思い出させるのは、海辺にある石炭科学技術館くらいのものです。映画『フラガール』で見事に再現されていた2階建ての炭鉱長屋もまったく保存されていません。そういうものは、きちんと歴史的遺産として残すべきだと私は思うのですが・・・。
(2007年7月刊。1800円+税)
川の光
著者:松浦寿輝、出版社:中央公論新社
この本を読んでいるうちに、昔、子どもたちが小さかったころに読んだ覚えのある『冒険者たち。ガンバと十五ひきの仲間』(斎藤惇夫、岩波書店)を思い出しました。その本にはドブネズミのガンバを主人公とした勇気あふれる物語が描かれています。奥付を見ると、1982年11月の発刊ですから、今から25年も前の本でした。子どもたちと一緒になって夢中で読んだように記憶しているのですが、実は、読んだらサインをしたはずのサインがありませんでした。もう一度(?)、読んでみることにします。
この本も、幼い子どものころにかえったような気分でワクワクドキドキしながら読みすすめました。たまに児童文学を読むのも気分がリフレッシュし、気分が若返って、いいものですよ。昔々、司法試験の受験生だったころ、『天使で大地はいっぱいだ』という児童文学の本を読んで頭をスッキリさせたことを再び思い出しました。
この本は、なんと、読売新聞の夕刊に1年近く連載されたものを本として刊行したことを知って驚きました。私も高校生のころに、新聞の連載小説をよく読んでいました。源氏鶏太や獅子文六のサラリーマン向け小説を読んだ記憶があります。ちょっぴり大人向けの内容でしたので、少し背伸びした気分で読んでいました。
この本の主人公は、ドブネズミではなく、川辺の土手に穴を掘って生活するクマネズミです。ひとまわり体の大きいドブネズミも登場しますが、ドブネズミのほうは帝国をつくっていてクマネズミの侵入を決して許しません。町のなかを貫いて流れる川が暗渠化される工事が始まって、主人公のクマネズミ一家は出ていかなければなりません。ところが、クマネズミの敵は至るところにたくさんいます。地上にはイタチやネコ、そしてドブネズミがいます。空からはカラスやノスリなどにも狙われます。
窮地に立ったクマネズミ一家ですが、ゴールデンリトリバーの心優しい飼犬や古い洋館に老婆と住む猫に助けられます。そこらあたりが小説です。ほかにも、スズメの子どもを助けてやったため、それに恩義を感じた親スズメに何回も助けられたり、まさにクマネズミ一家の脱出行は波乱万丈です。
いやあ、いいですね。こんな話をたまに読むのもいいですよ。
本のオビに「空前の反響を呼んだ新聞連載」とあります。かなり誇張されているとは思いますが、なるほど読み手の心をうつ連載だったろうと思います。
日経新聞で連載していた渡辺淳一のセックス満載の小説(『愛の流刑地』。私は読んでいません)よりは、よほど健全だし、明日に生きる元気を与えてくれる本であることは間違いありません。
(2007年7月刊。1700円+税)
2007年10月 4日
せめて一時間だけでも
ドイツ
著者:ペーター・シュナイダー、出版社:慶應義塾大学出版会
ナチスの支配するドイツの首都ベルリンで、ユダヤ人音楽家が活動して、無事に戦後まで生き延びたという感動の記録です。ナチス・ドイツのなかでも、ユダヤ人だと知ったうえで、ユダヤ人を生命がけで助けていたドイツ人がいたのです。映画『シンドラーのリスト』に出てくるシンドラーだけではありませんでした。ベルリンで地下潜伏生活をしてユダヤ人 1500人が生きのびたとみられています。相当数のドイツ人がそれを助けました。
1500人が生きのびたといっても、戦前のベルリンに住んでいたユダヤ人は、実に 16万人いたのです。その半数は外国に逃れました。残る8万人は、強制収容所で生命を奪われました。
ユダヤ人の夫を持つドイツ人の妻たちは、夫の即時釈放を求めて、数百人の女性が一週間にわたってデモ行進した。収容所の入り口を封鎖し、一歩も退かなかった。ナチの手先はドイツ女性に対して発砲できなかった。とうとう、ゲシュタポは、逮捕したユダヤ人の夫たち全員を釈放した。すごーい。すごいですね。やはり、女性の力は偉大です。
ユダヤ人のコンラート・ラテは、キリスト教会のオルガン奏者になり、ひっぱりだこだった。天職に向かって自己を完成させたいという意思が、いつ捕まるかもしれない不安感を上まわり、日々、ベルリン中を動きまわる原動力になっていた。
1人のユダヤ人を救うためには、7人の援助者が必要である。しかし、この推計は控えめすぎる。彼らを行動に駆り立てたものは、危険に対する無謀さなどではなかった。まず追い詰められたユダヤ人の苦境が目に入り、次に支援にともなう自らの危険を察知した。誰も、はじめから生命を失うことを覚悟して行動に出たわけではなかった。しかし、みんなすすんで、同情の念から、自尊心から、危険を引き受け、その後で危険を最小限にとどめようとした。
ユダヤ人を生命がけで助けた一人のドイツ人の女性が戦後、インタビューを受けて、次のように語りました。
毎朝、鏡のなかで自分の顔をきちんと正視したいからですね。
うむむ、なんという崇高な言葉でしょう。
私はドイツ人です。ヒトラーの時代にドイツで起きたことを、私は心底から恥ずかしく思っていました。それを埋めあわせることはできませんでした。ましてや同調するなんて、考えられないことでした。
うひゃあ、こんなドイツも少なからずいたのですね。このとき、日本人はどうだったんでしょうか・・・。
ナチス政府から死刑宣告を受けた政治犯を刑の執行まで拘禁しておくテーゲル刑務所のペルヒャウ牧師は、反ナチの人々をかくまう抵抗グループの一員でもあった。
うむむ、これもすごいことですね。
コンラートは、自分がユダヤ人であることを正直に話して救いを求めた。突然のことなのに、それにこたえてくれる人がいたのです。とても危ない日々を過ごしていたわけです。あらためて、人生を考えさせてくれました。
(2007年7月刊。1800円+税)
2007年10月 3日
中世のうわさ
日本史(中世)
著者:酒井紀美、出版社:吉川弘文館
おぼしきこといはぬは、げにぞ、はらふくるる心ちしける。かかればこそ、むかしの人は、ものいはまほしくなれば、あなをほりては、いひいれ侍りけめ。
これは、平安時代の歴史物語『大鏡』の序文です。まことに、人間は、思っていることを自分ひとりの腹のうちにためておくことを大の苦手とする生き物ではあります。「ここだけの話だけど・・・」という話は、またたくまに、大勢の人に伝わっていくものです。
なま身の人間の口や耳を通して伝えられ広がっていく「うわさ」には、それにかかわった膨大な人々の意識、願いや望み、心配や恐れ、それらがないまぜになって、何層にも重なり合って刻みこまれていくことになる。それは、まるで多くの人間の手仕事によって織りあげられた織物のようである。
中世社会は自力の世界だったと言われる。たとえば、殺害事件が起きたとき、他の第三者にその捜査や解決をゆだねるのではなく、事件の被害者の血縁者や同じ場に生活している集団が、いちはやく動き出し、事件の状況把握につとめ、犯人を捜査し、さらにはその処罰までをも実行するというやり方が、中世社会では普通だった。これを自力救済という。
何ごとも自分たちの手の届く範囲で解決していこうという姿勢は、中世の人々のもっていた強い集団への帰属意識を軸にしてはじめて実現できるものであった。
中世の日本社会では、「国中風聞」が物証に匹敵するような地位を占めていた。切り札として「国中風聞」が扱われていた。
ええーっ、単なる「げなげな話」が物証に匹敵していたなんて・・・。ホントのことでしょうか?
室町時代の裁判のことが紹介されています。日本人は昔から裁判が嫌いだった、なんて俗説は、まったくの誤りです。日本人は昔も今も(もっとも、今のほうがよほど裁判が少ない気がします)、裁判大好きな民族なのです。そして、それは、日本人が健全な民族であったことを意味する。弁護士生活も33年を過ぎた私は、そのように考えています。
この本に室町時代の土地争いが紹介されています。有名な東大寺百合文書には、折紙銭、礼物、会釈などという、裁判に要した費用の名目と金額が記録されていました。
当時、三問三答というルールで裁判は運営されていました。そして、口頭で弁論して、相手を言い負かした人に感状が与えられたのです。
「器用の言口」(きようのいいくち)とは、相論対決の場で、自分たちの主張を理路整然と展開することのできる力、相手方の矛盾を的確に突き、それを論破する力のことを言います。今の私たち弁護士にも同じものが求められています。私などは、弁護士を長年やっていても、残念ながらなかなか身につきません。いえ、文章のほうは書けるのですが、口頭での対決・論争に自信がないということです。裁判員裁判が始まると、これまでより以上に口頭で論破できる能力が求められることになります。
風聞(ふうぶん)と巷説(こうせつ)と雑説(ぞうせつ)とを並べてみると、巷説と雑説の方は、その内容に信頼度が低く、風聞のほうが信憑性が高いと考えられていた。
物言(ものいい)というのは、まだ起こしていない事件についての予言的なうわさを言う。「国中風聞」という事実が、殺害事件の真実に迫る重要な証言とされるのも、人口(じんこう)に乗ることが悪党である徴証のひとつにあげられるのも、落書起請(らくしょきしょう)で犯人を特定する際に実証と並んで風聞にも一定の席が用意されているのも、すべて、中世のうわさに付与されていた力、神慮の世界との密接なかかわりによる。
同時に、うわさされている内容をくつがえそうとするときには、やはり神慮を問うための手続きが必要とされていた。そのひとつが、精進潔斎したうえで、神前に籠もり、起請文を書いて一定の期間内に「失」があらわれるか否かを問う「参籠起請」であった。
うむむ、こうなると、中世の日本人と現代の日本人とは、同じ日本人であっても、全然別の人間かなと一瞬思ってしまいました。でも、よくよく考えてみると、今の日本人でも神頼みする人はたくさんいるわけですので、あまり変わっていないのでしょうね。
(2007年3月刊。2600円+税)
2007年10月 2日
顔のない男
ドイツ
著者:熊谷 徹、出版社:新潮社
東ドイツの最強スパイの栄光と挫折というサブ・タイトルのついた本です。東ドイツのスパイ・マスターの実像を追跡しています。
東ドイツには悪名高いシュタージ(国家保安省)がありました。シュタージは、国内の反体制勢力の監視と摘発を主たる任務とし、東ドイツ社会の隅々にまで目を光らせていた秘密警察です。
シュタージは、ソ連のKGBと同じく軍隊組織だった。この本の主人公であるマルクス・ヴォルフは、陸軍大将の階級を与えられていた。
東ドイツは盟主ソ連をしのぐ、世界最大の秘密警察国家だった。シュタージの正職員は、ベルリンの壁が崩壊した1989年秋の時点で、9万1000人いた。これは、東ドイツ市民180人に1人の割合で秘密警察職員がいたことを意味する。ナチスのゲシュタポが7000人だったことを考えても、はるかに多い。
職員のほか、17万4000人の東ドイツ市民が非公然職員(IM)として登録し、情報を提供していた。その数はのべ60万人にのぼる。
ヴォルフの率いるHVAが利用していた西ドイツ在住のスパイは、1988年の時点で1553人。のべにすると、6000人という推定、また2〜3万人にのぼるという推定もある。
ヴォルフのつかったスパイのうち、もっとも有名な人物にブラント首相の側近(補佐官)として活躍していたギョームがいる。ただし、ギョーム事件は諜報作戦がうまく行き過ぎると、政治的な利益をそこなうことがあるという失敗例でもある。
このギョームは、資本主義社会の現実に接しても、自分の使命を固く信じ、社会主義の理想を失わず、性格的にも実直であった。
西ドイツの対外諜報機関BNDに潜入し、女性として幹部職員となり、その優秀さを買われて、ソ連情勢分析部の副部長にまで出世したスパイもいた。
HVAにリクルートされた秘書スパイの半分以上はボーイフレンドがいなかった。 1949年からの38年間に、西ドイツの捜査当局が摘発した秘書スパイは58人にのぼる。誰かに愛されたい。もう独りぼっちはたくさんだと悩む女性の心につけいった。
西側の人間がヴォルフのスパイになった動機は三つある。政治的な信条、恋愛関係、そしてお金。西ドイツの憲法擁護庁の対スパイ課員たちが次々にヴォルフのスパイになっていった。それは、給料や昇進に関する不満が高まっていたことによる。
西ドイツの諜報機関BNDは、1925年以来、東ドイツの諜報機関を率いていたヴォルフの顔を20年以上も特定できなかった。このため、ヴォルフは、西側のスパイ機関から、「顔のない男」と呼ばれていた。それが発覚したのは、スウェーデンで不審な旅行者団をうつした写真のなかで発見されたため。1979年3月のこと。
ヴォルフはHVAを隠退して、1989年にベストセラー作家としてデビューした。『トロイカ』という本を出版して、ベストセラーになった。
その後、ヴォルフは東西ドイツの統一のあと、国家反逆罪で起訴され、一審では有罪となったものの、連邦憲法裁判所において、国家反逆罪は成立しないという勝訴判決を得ている。
ドイツの検警当局は、統一したあと、2303人のHVA職員に対してスパイ活動などの疑いで捜査したが、そのうちの98%は嫌疑なしとして起訴されなかった。有罪判決を受けたHVA職員は12人にすぎない。
HVAのスパイとして登録されていた1553人の西ドイツ人に対して捜査をはじめたが、そのうち有罪判決を受けたのは181人にすぎない。全体のわずか12%。2年をこえる禁固刑の実刑判決を受けたのは66人だけ。残り115人は、2年以下の禁固刑か、執行猶予または罰金刑だった。
ヴォルフが亡くなり、HVAが消滅したあとも、統一ドイツはスパイの影に怯えている。
HVAが西ドイツに送りこんでいたスパイの半分以上は10年以上も諜報活動に従事していた。なかには40年近くも東ドイツにスパイとして協力していた者がいる。
うむむ、すごいことですね、これって・・・。
映画『エディット・ピアフ』をみました。2時間20分、彼女の歌声に聞きほれ、至福のひとときを過ごしました。フランス語を勉強して良かったと思いました。もちろん、全部ではありませんが、今ではかなり会話そして歌詞が聞きとれます。
(2007年8月刊。1300円+税)
2007年10月 1日
パール判事
日本史(現代史)
著者:中島岳志、出版社:白水社
日本の戦争責任を裁いた東京裁判において、敢然と「日本無罪」論を主張したインド出身のパール判事の実像を描いた貴重な労作です。パール判決が「日本無罪」を主張したわけではないことを改めて認識しました。小林よしのりをはじめとする右翼の論者にぜひ読んでもらいたい本です。
パール判事は1886年の生まれ。インドはカルカッタ出身というのではなく、今のバングラデシュのベンガル地方の小さな農村に生まれた。陶工カースト出身で、父親が急死して経済的にも貧しかった。それでも、村の小学校を優秀な成績で卒業したため、奨学金を得て、カルカッタ大学に入ることができた。
パールは、熱烈なガンジー信奉者だった。
東京裁判の判事に就任するまで、パールはカルカッタ大学の副総長であった。東京裁判に判事を派遣できるかどうかは、インドの国際的地位と名誉に関わる重大な問題であった。宗主国のイギリスを味方につけ、アメリカに圧力をかけて、インドはようやく判事の地位を獲得することができた。
東京裁判は1946年5月3日に開廷した。遅れて着任したパールが法廷に初めて姿を現したのは5月17日のこと。だから、パールは東京裁判の正当性をめぐる弁護人の意見を聞くことができなかった。
ブレークニー弁護人は、戦争は犯罪ではない、もしそれが犯罪とされるのなら、原爆投下によって広島・長崎で罪なき市民を大量虐殺したアメリカの戦争犯罪の責任が問われないのは不公平だと指摘した。
パールは、原爆投下について、残虐で非人道的な行為であり、決して許すことはできないとしつつ、しかしながら、「人道に対する罪」が国際法として成立していなかった以上は、この罪で裁くことはできないと判断した。
さらに、日本軍による南京大虐殺について、パールは法廷に提出された証拠や証言には問題があることを鋭く指摘しつつ、それでもなお南京虐殺の存在を証明する証拠は圧倒的であり、この事件は事実あったと認定した。すなわち、南京虐殺は実際に起こった事件であり、個別的なケースはともかくとして、その存在自体を疑うことはできないと断言した。
パールは、検察官の起訴した事実について無罪としたが、それはあくまで国際法上の刑事責任において「無罪」としただけで、日本の道義的責任までも「無罪」としたわけではない。パールは次のように述べました。
日本の為政者はさまざまな過ちを犯し、悪事を行った。また、アジア各地で残虐行為をくり返し、多大なる被害を与えた。その行為は鬼畜のような性格をもっており、どれほど非難してもし過ぎることはない。当然、その道義的罪は重い。しかし、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であり、そもそも国際法上の犯罪として確立されていないため、刑事上の「犯罪」に問うことができない。
パールは、再び日本にやって来たとき、広島の原爆慰霊碑の碑文を読んで憤りの声明を発表した。
原爆の責任の所在をあいまいにし、アメリカの顔色をうかがう日本人。主体性を失い、無批判にアメリカに追随する日本人。東京裁判を忘却し、再軍備の道を突きすすみ、朝鮮戦争をサポートする日本人。
そうなんです。パールはアメリカの意向を至上の価値として仰ぐ戦後日本の軽薄さに憤ったのです。戦争に対する反省の仕方を誤り、再び平和の道を踏み外そうとする日本に苛立ったわけです。
パールは、東京裁判の判決書において、あくまでも「A級戦犯の刑事責任」のみを対象としていた。パールはB級戦犯の刑事上の責任は認めており、日本の行為のすべてを免罪にしたわけではない。
パールは、判決書の中で、東条一派は多くの悪事を行った、日本の為政者、外交官そして政治家はおそらく間違っていた、みずから過ちを犯したのであろうと明言した。
パールは決して「日本無罪」と主張したわけではない。「A級戦犯は法的には無罪」と言っただけで、指導者たちの道義的責任までも冤罪したわけではない。ましてや、日本の植民地政策を正当化したり、大東亜戦争を肯定する主張など、一切していない。
なーるほど、やっぱり、そうなんですよね・・・。
(2007年8月刊。1800円+税)
2007年10月31日
自衛隊裏物語
社会
著者:後藤一信、出版社:バジリコ
自衛隊は、総計24万人にも達する日本最大の国家公務員組織である。
任期2年の一般陸上自衛隊員の中で、ホンモノの手榴弾を触ったことのある者はほとんどいない。演習でつかうのは、模擬手榴弾であって、いくら乱暴に扱っても決して爆発しない。爆薬が入っていないから。
だから、日本の自衛隊は真の意味で軍隊ではない、軍隊もどき、でしかないのだと言った人がいます。同感です。幸いにも殺し、殺されることのない「軍隊」なのです。まあ、それでいいじゃありませんか。私は本心からそう思います。
自衛隊員の武器使用の要件は警察官職務執行法第7条に定められているとおり、防衛のものに限定されている。先制攻撃は許されない。
この本は、日本が自己完結した戦力を保有したとき、本当に日本の危機が減少するのか、という根本的問題を提起しています。私も、同じ疑問をもっています。武力をもてば自分の身を守れるというのではないことは、アメリカ社会を見れば証明十分です。そこでは殺人も強盗も日常茶飯事です。人々は平気で銃をもっているにもかかわらず、です。
防衛大学校生に支払われる毎月の学生手当は10万6600円。このほか、年2回の賞与もある。防大を卒業するときに任官を拒否する者が毎年30人ほど必ずいる。
自衛隊員には、抗命権、抵抗権が与えられていない。自衛隊は絶対階級社会である。しかし、虐殺などの人道に反する命令に対して、兵士が軍務を拒否できる抗命権を認めているフランスやドイツのような国がある。そのときには、抗命権の行使が正当であったか否か、軍事法廷で審議される。しかし、日本には憲法により軍事裁判所の設置が禁じられている。そして、自衛隊法によれば、敵前逃亡罪は7年以下の懲役または禁固刑でしかない。死刑になることはありえない。自衛隊を脱走する者は3〜5%。自衛隊の歩哨は実弾を一発ももっていない。その警備は丸腰のセコムに頼っている。
自衛隊員の自殺者は、1995年度に44人、98年度75人、99年度62人、00年度73人、1年度59人、02年度78人、03年度75人、04年度94人、05年度は93人だった。
自衛隊の自殺率39.56人は世界2位のロシアより高い。その多い原因は、いじめだ。
イラクに派遣された自衛隊の自殺者は陸自が6人、空自が1人の計7人。派遣された 5500人のうちの7人だから、きわめて高率だ。
自衛隊員は、日々、受動的な生活を送るため、指示がないと何もできない人間になってしまう。そして、自衛隊員の趣味は、圧倒的にギャンブル関係が多い。
タイトルに反して自衛隊の実情を知ることのできる、マジメな本です。
私は、憲法9条2項を廃止しようという自民党の提案には反対です。だって、アメリカの言いなりになって、ホイホイとイラクやアフガニスタンへ出かけて行って、世界と日本の平和と安全に役立つなんて、まるで嘘っぱちなことは明らかではありませんか。それにしても、自衛隊の現実を、弁護士会でもきちんと議論すべきだと思いました。
(2007年8月刊。1200円+税)