弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年9月28日

西南戦争従軍記

日本史(明治)

著者:風間三郎、出版社:南方新社
 明治10年(1877年)の西南戦争に病院係として従軍した久米清太郎(25歳)の7ヶ月間の日記を読みものにした本です。西南戦争の悲惨な実情がよく伝わってきます。
 著者は久米清太郎の子孫です。久米清太郎は幸いにも生きのび、屋久島に渡って、製糖事業をおこしました。
 2月14日、大雪のふるなか、大将・西郷隆盛の前に1万をこえる兵士たちが勢ぞろいした。一大隊は10小隊から成し、一小隊は200人の兵士からなる。したがって、一大隊は2000人規模。小隊の中心的存在は、城下士。郷士は、城下士の絶対的統率に従わねばならない。
 清太郎は大砲隊二番隊病院掛役を命じられる。砲隊は200人を二隊に分け、保有する砲は山砲28門、野砲2門、臼砲30門であった。
 2月15日、一番大隊長の篠原国幹以下4000人が先陣を切って出発した。
 2月19日、前日から降り出した雪は大雪となった。薩軍兵には制服はなく、大半が着物に草履と脚絆を巻いただけの軽装だった。大砲を引いての雪中行軍は遅々として進まない。
 山門砲や臼砲などの重装備を人力で運搬せざるをえなかった薩軍は雪を甘くみていた。これは誤算だった。
 2月22日、午前4時から熊本で戦争が始まった。
 3月7日、薩軍の大砲が一斉に熊本城へ向かって撃ちこまれた。
 3月10日、田原坂での激戦が続いていて、負傷者が次々に運ばれてきた。田原坂では17日間も決死の闘いが繰り広げられた。
 3月19日、官軍の別働隊が八代に上陸した。官軍の新鋭艦「春日」「鳳翔」「清輝」などが八代湾に入港し、4000人が上陸した。黒田清隆の考えた作戦である。
 4月21日、官軍は3万人にふくれあがり、薩軍は人吉に逃げた。御船で激戦となった。
 5月27日、薩軍は人吉城跡地で、住民の手もかりて、一日2000発の鉛弾をつくった。
 5月29日、清太郎の弟(18歳)が戦死した。この日の清太郎の日記には何も書かれていない。空白は弟の死を哀しむ気持ちのあらわれだろう。
 そのあと、清太郎たちは宮崎県の都城へ逃げた。都城でも、薩軍は追ってきた官軍に大敗した。近代装備を施した官軍2万の前に、心意気だけで戦う薩軍に勝ち目はなかった。
 8月11日、清太郎は、西郷隆盛の息子、17歳の西郷菊次郎に会った。母親の愛加那に似て、目の大きい彫りの深い顔立ちをしていた。
 8月15日、西郷隆盛が和田越の決戦のとき初めて戦場に立った。率いる兵は3500。対する山県有朋の率いる官軍は5万。午後2時、薩軍は全軍が敗走を始めた。菊次郎も官軍に捕らえられた。この菊次郎はその後どうなったのでしょうか?
 清太郎は、8月13日の官軍の延岡総攻撃のとき捕まっていた。
 9月24日、西郷隆盛は49歳で自決した。別府晋介が西郷の首をはねた。
 この日、薩軍の戦死者160余人、降伏した者200余人だった。
(1999年6月刊。1800+税)

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