弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年9月 7日

多賀城、焼けた瓦の謎

日本史(古代史)

著者:石森愛彦、出版社:文藝春秋
 アテルイが活躍していた時代の様子が絵で再現されています。イメージを豊にふくらませることができました。
 奈良時代の780年、伊治公呰麻呂(これはりのきみまろ)が朝廷に対して反乱を起こした。按察使(あぜち。長官)の紀広純(きのひろずみ)を取り囲んで殺害した。
 645年の大化の改新のあと、東北地方にも奈良朝廷の勢力が次第に拡幅していった。現在の新潟県の阿賀野川の河口に渟足柵(ぬたりのさく)がつくられ、次第に北上していった。今の仙台に近い多賀城がつくられたのは724年、秋田城は733年、伊治(これはり)城は767年。
 この朝廷の柵より北側に住む人々を「蝦夷」(えみし)と呼んだ。この蝦夷を中央集権国家に組み込むため、城柵(じょうさく)をつくった。だから、城柵には三つの役目があった。饗給(きょうきゅう)、斥候、征討というもの。饗給とは、物資や位を与え、朝廷へ恭順させること。
 このころ東北地方で砂金がとれるようになって、奈良の大仏を金で飾ることができた。金のとれる東北地方に朝廷はますます目を向けた。
 朝廷は蝦夷を征服すると、全国へ強制的に移住させた。九州にも776年に400人近くの蝦夷が送られている。ひゃあ、そうなんですか。九州にも蝦夷の血が混じっている人がいるのですね。
 圧迫され、隷従を強いられた蝦夷たちが反乱にたちあがり、多賀城が焼きうちされた。その後、なんと25年間も争いが続いた。
 789年3月、5万の朝廷軍が蝦夷を攻めた。ところが、アテルイやモレたちの反撃によって朝廷軍は大敗した。
 794年、今度は坂上田村麻呂は10万の兵とともに進撃し、ついにアテルイたち蝦夷軍をうち破った。アテルイとモレは降伏し、京都に送られた。坂上田村麻呂は助命を願ったが、2人は斬首されてしまった。
 『火怨』(高橋克彦。講談社)に描かれたアテルイの知略にみちた戦いを思い出しました。
 焼き討ちにあった多賀城の焼けた瓦が最近になって発掘されたのです。この本は、その発掘調査をふまえて、つくられました。
(2007年7月刊。1429円+税)

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