弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2007年7月 3日
赤軍記者、グロースマン
世界(ロシア)
著者:アントニー・ビーヴァー、出版社:白水社
大変面白い本です。いえ、単に面白い本だというと、顰蹙を買ってしまうでしょう。なにしろ、独ソ戦を、赤軍に従軍した記者として描いたグロースマンの生涯を追いかけて明らかにする内容ですので、ずっしりとした重味があります。戦争の悲惨さ、ユダヤ人迫害の実情を深く知ることのできる本です。
グロースマンは、ユダヤ人でした。スターリンの圧制下に、幸運にも辛うじて生き延びることができました。きっとグロースマンの書いた記事がソ連の民衆に評価されていることをスターリンも無視できなかったのでしょう。
独ソ戦の初期、スターリンの判断の誤りにより、ソ連軍は壊滅的な敗北を続けました。50万人ものソ連軍捕虜が出て、ドイツ国防軍から残虐な処遇を受けます。生き残った人々は、今度はスターリンから残酷な扱いを受けることになりました。
そのソ連軍連敗のまっただ中にグロースマンも従軍していましたから、リアルな描写となるのも当然で、読者の評判となりました。
グロースマンは、壕内の灯心ランプのもとで、野外で、ベッドに寝ながら、すし詰めの農家で、どんな悪条件のなかでも記事を書く特技を身につけた。ただ、筆は遅かった。
グロースマンは、スターリングラードの戦いにも従軍しています。
ドイツ軍は、防御陣地をなるべく居心地よく構築しようとした。それを見て、粗末な待遇に慣れていた赤軍兵士はいつもびっくりしていた。なにしろ、赤軍兵士は、零下35度の酷寒のなか雪の上で寝ていたのです。赤軍兵の多くが最大の執念を燃やしたのは、アルコールまたはその代用品の入手だった。
スターリングラードでは、赤軍兵士が前線から恐怖のあまり逃亡するのを阻止するため、NKVDとコムソモールの逃亡阻止部隊が活躍した。前線の赤軍兵士は、前方にナチス・ドイツ軍がいて、後方には阻止部隊の銃が待ちかまえるなかで戦争させられた。スターリングラード防衛を補強したのは、非情な軍紀だった。戦闘の5ヶ月間に1万 3500人もの赤軍兵士が処刑された。その大部分は初期のころであり、このころは士気が阻喪した兵士が多かった。脱走を試みた戦友を阻止・殺さなかった兵はすべて共犯とみなされた。銃殺されるか、懲罰大隊へ送られた。それは、実質的に死の宣告にほかならなかった。いつも一番危険な任務を与えられ、攻撃する部隊の戦闘に立って地雷原を通過させられた。懲罰大隊の死者は42万 2700人にのぼる。
その一方、スターリングラードでは女子高生が大活躍していた。女子高生の操作する高射砲隊はおどろくべき奮戦ぶりを見せ、37の砲座が戦車砲で全部破壊されるまでドイツ第16装甲師団の進撃をくい止めた。
若い女性衛生兵の勇敢さは、全員の尊敬の的となった。第62軍衛生中隊の隊員の大多数はスターリングラードの高校生か卒業生だった。負傷した若い女性がグロースマンの取材に応じた。
以前あたしが想像していた戦争は、すべてが燃え、子どもらが泣き、ネコがそこらじゅうを走り回るというものだった。スターリングラードに来てみると、すべてがそのとおりで、ただ、もっと悲惨なものだと分かった。
ただし、ソ連軍にはペペジェと言われる女性たちがいた。陣中妻のことである。高級将校たちは、看護婦や司令部勤務の通信兵や事務員などの女性兵士をメカケとしていた。
映画『スターリングラード』は狙撃手ザイツェフが主人公でした。グロースマンも狙撃手ザイツェフを取材しています。しかし、ドイツ軍の狙撃手が「ベルリン狙撃手学校」の指導者だったとか、数日間にわたって狙撃手同士の対決が続いたというのは、まったく宣伝バージョンのフィクションのようです。
ソ連軍の狙撃手が水を運ぶ兵士を片っ端から射殺するので、飲料水欠乏に悩むドイツ軍は一片のパンで現地住民の子どもを買収し、ヴォルガ川への水汲みに行かせた。狙撃手は理由のいかんを問わず敵に協力する民間人は、たとえ子どもであっても射殺せよとの命令が与えられていた。悲惨な話です。
ここでは数メートルの移動が通常の野戦の条件下での数キロメートルもの移動に匹敵する。隣の建物に立てこもる敵との距離は20歩ほどしかないこともある。師団司令部は、敵から250メートルの距離にある。各連隊や大隊の指揮所も、肉声で簡単に連絡できる。呼べば聞こえるし、そこからも肉声で大隊に伝達できる。
スターリングラードの息詰まる戦いが想像できます。
ソ連兵士は、一般に手足を失ったり歩行不自由になるのを死よりも恐れた。四肢を全部失った将兵はサモワールと呼ばれ、首都でうろつかれては見苦しいという理由で、一斉取締の対象となり、極北に移送された。傷痍軍人に対する戦後のソ連当局の処遇は信じられないほどひどいものだった。
ユダヤ人のグロースマンは、ナチスによるユダヤ人迫害の事実を当然のことながらニュースとして知らせようとしました。しかし、スターリンがそれを認めませんでした。ユダヤ人が被害者であるという発表は禁じられたのです。これにはウクライナ人がユダヤ人の迫害に一役買っていたという事情もありました。
1944年になると、赤軍派いつのまにか強大な戦闘マシーンと化していた。ソ連の装甲戦力は、ウラルの彼方から続々と送られてくる戦車で絶えず補充されていた。そして、アメリカから供給される車輌によって、赤軍はドイツ軍をはるかに上まわる機動力を獲得した。アメリカの援助は赤軍の急速な前進と中部ヨーロッパの制圧に大いに貢献した。これは今もロシアの歴史家の認めたがらない史実である。
ずしりと重たい500頁の大作です。読みごたえがあります。
著者のアントニー・ビーヴァーの『スターリングラード1942ー1943』、『ベルリン陥落、1945』もあわせて一読をおすすめします。
ヒトラーとスターリンについて知りたかったら、これらの本は必読だと私は思います。
2007年7月 2日
自販機の時代
社会
著者:鈴木 隆、出版社:日本経済新聞出版社
日本全国にある自動販売機の数は550万台。アメリカに次ぐ。人口一人あたりではアメリカの2倍、世界一の普及率。世界中、どこの街にも自動販売機があるわけではない。自動販売機は世界の中で、日本の特別なシステムだともいえる。
たしかにそうですよね。フランスでは全然見かけませんでした。駅の切符売り場などは自動化されていますが・・・。
自動販売機を通じて売られる飲み物やタバコ、切符などの総販売額は年間7兆円。コンビニの総売上とほぼ同じ。全国のデパートの売上げ総額に迫る。
コカ・コーラの普及と停滞の歴史は、自動販売機のそれと一致している。コカ・コーラは、日本に自販機を定着させる役割を果たした。
ところで、このコカ・コーラは、2005年末に、ニューヨーク株式市場で、時価総額においてペプシコーラに抜かれた。
三菱重工業、日立製作所、三洋電機は、この自販機メーカーであったが、今では撤退している。松下はまだ残っている。
富士電機と三洋電機とが自販機をめぐって激しく争い、富士電機が勝った。なぜか。
富士には「あと」がなかった。三重工場に働く1500人の労働者にとって生き残りをかけたたたかいだった。しかし、三菱にも日立にも三洋にも、「あと」どころか、手が回りきらないほど「未来」があった。
客の要望にこたえるべく富士電機家電は、設計の子会社をつくった。はじめ50人、やがて100人の大所帯となった。設計陣をそろえたことが富士の自販機躍進のキーポイントだった。
瓶から缶へ。瓶入りは瓶を製造元に送り返さなければならない。ツー・ウェイである。缶入りは消費者が缶を処理してくれるワン・ウェイであり、流通上の大きな革命であった。
このワン・ウェイは日本に大きな公害問題をひき起こすことにもなりました。ちまたにアルミ缶やペットボトルが氾濫し、その収集と処理は、消費者と自治体にまかされ、製造・販売メーカーは何の責任もとらず、負担もしなかったのです。便利なものには、深い落とし穴もあるという見本です。
1972年にホット・オア・コールド機が出来、1976年にホット・アンド・コールド機が出来ました。ホット・アンド・コールド機は、季節ごとに機械を置き換えなくてすんだ。ホット・アンド・コールド機では、一台で、同時にホットコーヒーもアイスコーヒーも提供できた。値段は40万円。コーヒー自販機中心に自販機が普及した。1971年の17万4000台から、1776年の31万5000台、1979年の51万6000台へと飛躍した。
私は今でも不思議です。あの大きくもない自販機が一台で、ホット缶もコールド缶もボタンを押すだけで手に入るカラクリが不思議でなりません。
1974年、自販機の普及台数は513万9000台と、500万台の大台に乗せた。出荷台数も1989年には73万5000台を記録した。しかし、これが頂点だった。
1991年ころ、酒店などの店頭にある自販機が道路にはみ出していることが全国的に社会的な大問題となった。たしかに歩道上に我が者顔で自販機がのさばっていましたね。
そこで、1992、1993年には、自販機をいかに薄型化するかについて、メーカーは激しく競争した。そして、1994年を境として、自販機価格は暴落の時代に入った。
自販機は、各国、文化によって好まれる設計・仕様がちがう。アメリカでは簡単・頑丈な機械が好まれ、日本では精巧・緻密な機械が普及した。
これからの問題は、中国に自販機が根づくかどうかだ。
また、ノンフロン対策の問題もある。松下はプロパン、富士は炭酸ガスをつかっている。炭酸ガスを圧縮するのにはプロパンより高圧が必要となり、その分コストが高くなる。
自販機を開発し、普及するまでの苦労話がよくまとめられています。欲を言えば、もう少しメカニズムについての初歩的な解説もいれてほしいところです。私はアンチ・コンビニ派ですが、アンチ自販機ではありません。よく利用しています。それにしても、夏を迎えた今、街頭にあるほとんどの自販機がコールド一色なのが不満です。熱いコーヒーを飲みたいことだってあるのです。幸い、弁護士会館内の自販機はいつもホット・アンド・コールド機となっています。デミタス・コーヒーを愛飲しています。
2007年7月31日
周恩来秘録(上)
中国
著者:高 文謙、出版社:文藝春秋
周恩来が1976年1月に死んだとき、多くの中国人が悲しみに沈んでいた。ところが、旧暦の大晦日(1月30日)、毛沢東は爆竹を鳴らして喜んだ。なぜか?
周恩来は、常に毛沢東の傍らにあって、毛沢東に誠実に付き添い、小心翼々と付和雷同した。
この「小心翼々と付和雷同した」という表現はかなりの異和感があります。しかし、この本を読むと、なるほどそうだとしか思えません。
毛沢東は、湖南省の片田舎の貧乏村の生粋の農家の息子だった。これに対して、周恩来は江蘇省の交通・文化の発達する古い町・准安で生まれた。生家は没落した封建時代の名家の子孫である。
毛沢東は独裁的・厳格粗暴な父親に抑えつけられ、幼いときから伝統に反抗し、権威を蔑視し、個性をふりまわす。反逆的な性格を養ってきた。これに対して周恩来は、文人の家柄の養母に育てられ、幼いときから穏やかな慈母の愛情に包まれて育ち、人となりは温良で慎ましい儒家的色彩を帯びていた。
周恩来は毛沢東より少し遅れて政治生活を始めたものの、以後は順風満帆で、毛沢東の上位に立っていた。ちなみに、周恩来は日本に留学したが、何度も試験に落第して面目を失った。それで仕方なく帰国して前途をはかった。
周恩来はフランスに留学し、命令を受けて1924年7月に帰国すると、国民党黄埔軍官学校の政治部主任に就任した。学校長は蒋介石である。この学校は、共産党の軍事方面の人材を養成するところであり、国共両党の高級将校は、みな黄埔軍官学校の出身で、周恩来と子弟の関係にあった。したがって、党内では周恩来は抜きんでた地位にあり、軍の創建者として、党中央の軍事部長をつとめ、軍内の多くの指揮官と深い関係を結んだ。
このことは、毛沢東が周恩来に依存せざるをえず、同時に、常に周恩来を警戒する原因となった。そして前記のとおり、8年のあいだ、周恩来は毛沢東の上司であった。
1932年10月、軍事作戦を話しあうために開かれた寧都会議において、毛沢東は軍権を剥奪され、周恩来がこれに代わった。毛沢東は、これによって「便所の踏み石」にされ、「幽霊も尋ねてこない」状態となり、周恩来を一生、恨みに思った。周恩来はあとで「生涯最大の誤り、罪科」と毛沢東に対して自己批判した。
ひゃあ、こんなことがあったのですね。それにしても毛沢東の執念深さは異常です。
長征の途上に開かれた遵義会議で毛沢東は全党の指導的地位を回復したと言われているが、それは事実に反する。たしかに、この会議で毛沢東は政治的に復活したが、党の指導中枢に参加しはじめたにすぎず、まだ周恩来の補佐役でしかなかった。このころの軍事三人組の中心は周恩来であり、毛沢東ではなかった。
毛沢東は、周恩来を自分の軍内での指導的地位に挑戦しうる相手とみて終始、警戒心を緩めず、常に攻撃した。しかし同時に、革命の大業を成し遂げるのに必要かつ依存せざるを得ない人物ともみていた。毛沢東は、死ぬまで周恩来に対する、この矛盾した心理的葛藤から抜け出すことはなかった。
この分析は、なるほど、鋭い。私はそう思いました。
毛沢東は党内が劉少奇一辺倒であることを知り、余裕を失った。
毛沢東からすると、劉少奇と勝負するうえで林彪とのみ手を組むのでは不十分であり、周恩来の支持少なくとも中立を保ってもらう必要があった。このように、毛沢東が文化大革命を発動したとき、周恩来は獲得し借用すべき力であった。
毛沢東は猜疑心が異常に強く、今のところもっとも親密な盟友である林彪もふくめ、たとえどんな人間に対しても警戒心を解かなかった。?小平は、あとで林彪ないし周恩来を始末する日が来るときに備えた一枚の切り札だった。だから、文革において、?小平に対する批判は、適当なところで止めるようにしておいた。
いやあ、本当でしょうか。こんな軽業みたいなことをして、毛沢東は中国政界を牛耳っていたのですか・・・。すごーい分析です。すごく勉強になりました。
2007年7月30日
逝きし世の面影
江戸時代
著者:渡辺京二、出版社:平凡社ライブラリー
文庫本で600頁の本です。東京からの帰りの飛行機のなかで一心に読みふけりました。なんだか、久しぶりに懐かしい人々に出会ったような、心温まる至福のひとときを過ごすことができました。
江戸末期から明治にかけての日本人が、おおらかに毎日を楽しく幸せな日々を過ごしていたことを、何人もの海外からの観察者が異口同音に記録しているのです。ホント、うれしくなります。いえ、それは決して都市上層の裕福な町民の生活のことでは決してありません。むしろ、その大半は社会の底辺に住む人々の生活の描写なのです。
日本人は落ち着いた色の衣服を好む。あらゆる階級のふだん着の色は黒かダークブルーで、模様は多様だ。女は適当に大目に見られており、その特権を生かして、ずっと明るい色の衣服を着ている。それでも彼女らは趣味がよいので、けばけばしい色は一般に避けられる。原色のままのものは一つもなく、すべて二色か三色の混和色の、和やかな柔らかい色調である。むしろ、裏に豪勢なものを着こなす。
日本人の健康と満足は、男女と子どもの顔に書いてある(ティリー。イギリス人)。
日本人はいろいろの欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる(オールコック)。
どう見ても、彼らは健康で幸福な民族であり、人々は幸せで満足している(プロシャ使節団)。
誰の顔にも陽気な生活の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌の良さがありありと現れている。何か目新しく素敵な眺めにあうか、物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めているとき以外は、絶えずしゃべり続け、笑いこけている(ヘンリー・S・パーマー。イギリス人)。
この民族は笑い上戸で、心の底まで陽気である。日本人ほど愉快になりやすい人種は、ほとんどあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして、子どものように、笑いはじめたとなると、理由もなく笑い続ける(ボーボワル)。
日本人は話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人には生まれつきそういう気質がある(オイレンブルク使節団)。
無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意思がある(ブラック)。
江戸庶民の特徴は、社交好きの本能、上機嫌な素質、当意即妙の才である。庶民の著しい特徴は、陽気であること、気質がさっぱりしていて物に拘泥しないこと、子どものようにいかにも天真爛漫であること(アンベール)。
人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがいい(ハリス。アメリカ人)。
日本の下層階級は、おそろしく見たがり屋、聞きたがり屋だ(ジェフソン・エルマースト)。
どうでしょうか。現代日本の社会に残念ながら失われてしまった雰囲気ではありませんか。人々が今よりもっとおおらかに毎日を暮らしていた、そういうことですよね。
家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやり方で行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使いにとっては美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならない。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。
日本では、夜に入って一家が火鉢のある部屋に集まって団欒するとき、女中もその仲間入りして、自分の読んでいる本の知らぬ字を主人にたずねることができる。
今どき召使いと言われてもあまりピンときませんが、会社員と置きかえたら、これって今も通用しているものでしょうか。私には、かなり疑問に思えます・・・。
離婚は、日本では異常な高率を示しているが、これは女性の自由度を示すものである。離婚歴は女性にとって何ら再婚の障害にはならなかった。その家がいやなら、いつでもおん出る。それが当時の女性の権利だった。
日本の女性は外国人に対して物おじしない。夫人の洋服を着たがり、自分の洋服姿に大満足だった。
江戸時代の女性は、たとえ武家であっても飲酒喫煙は自由だった。たてまえは男に隷従するというものであっても、現実は意外に自由で、男性に対しても平等かつ自主的であった。
日本人の性格の注目すべき特徴は、もっとも下層の階級にいたるまで、万人が生まれつき花を愛し、2、3の気に入った植物を育てるのに、気晴らしと純粋なよろこびの源泉を見いだしていることだ。
私の法律事務所では、幸いにして笑いが絶えません。深刻な相談に乗っているときなどには、笑い声が聞こえてくると場違いな雰囲気になって、相談者に申し訳なく思うことがあります。それでも、私にとってはストレス発散になって、ノイローゼから免れることができる利点があります。
2007年7月27日
粘菌、驚くべき生命力の謎
著者:伊沢正名、出版社:誠文堂新光社
ああっ、これはすごーい。こんな不思議な色と形の生命体がこの世にいたなんて・・・。ホント、世の中は広大無辺だと実感します。
粘菌の見事な写真のオンパレードです。ぜひ一度、この写真集をどこかで手にとって見てみてください。きっと、世界観が変わることと思います。
日本の粘菌分類学研究で有名なのは、昭和天皇と南方熊楠(みなかたくまぐす)である。昭和天皇は磯辺にすむ海洋動物の研究をしていたと思っていましたが、違うんですね。
粘菌は単細胞生物。彼らの住みかは朽ち木の中や枯葉の下の湿った土の中であり、そこでミクロなサイズで生きている。肉眼で見るのはむずかしい。ただ、ときに数センチほどに成長した変形体や1ミリほどの大きさをもつ子実体を見かけることもある。
朽ち木を壊した拍子に、血管網のようにびっしりと朽ち木に入り込んだ糸状の変形体が現れてびっくりすることもある。変形体は、このような網目構造をつくって活発に這いまわる。その網目構造は、環境や外部の刺激により劇的につくり変えられる。これは体形の変化であり、変形体の行動の一様式である。
粘菌の登場する映画がある。えっ、何?なんと『風の谷のナウシカ』なんです。宮崎駿監督による映画です。私は子どもたちと一緒に何回も見ました。すごく圧倒されるような映像です。そこに粘菌が登場します。
粘菌は、土鬼の科学者がトルメキアを倒すために種菌を特殊培養した植物兵器として描かれている。空中戦艦の中で爆発的に成長した粘菌は、艦を覆い尽くし、地に降りて土鬼の領地を浸食し、猛毒の瘴気をまき散らし、あっという間に直径数キロもの姿に変貌する。王蟲と粘菌を菌床に広大な領土は腐海に没し、土鬼帝国は崩壊する。
いやあ、すごーい写真集ですよ。この世の中に、こんな色と形の生き物がいたなんて、驚きです。みなさんも、ぜひ一度、手にとって眺めてみてください。
ヒトは、どのようにしてつくられたか
著者:山極寿一、出版社:岩波書店
チンパンジーは思考能力や認知能力をもっている。動物園や野生のチンパンジーは道具を製作し、使用する。そのうえ、仲間と政治的な取引もしている。類人猿は、「心の理論」すなわち、相手の考えを前提として行動している。類人猿と人間は思考方法がよく似ていて、道徳的な観念すら共通している部分がある。
果実食のチンパンジーを観察した結果、朝方は果実、日中は昆虫、夕刻は葉というように、時間によって食物を選択する傾向があることが判明した。朝方に果実から糖分を得て活力をつけ、日中にすばしこい虫を追いかけ、夜寝る前に消化に時間のかかる葉を食べるというように、食物の性質にあった食べ方をしている。
うむむ、そうなんですか・・・。合理的に生きているんですね。
ゴリラの生息密度は植林帯の違いにかかわらず、一定である。それは、果実が不足するとゴリラは葉や草や樹皮など繊維質の食物を多く食べるから。果実を食べるときより葉を食べるときのほうが遊動距離は短い。また、ゴリラのメスは、単独で遊動せず、群れ同士が出会ったときだけしか移動しない。つまり、群れ同士がテリトリーをもたずに混在するゴリラのコミュニティは、メスの移籍を左右する群れ同士の出会いを適当に保つように維持されている。ゴリラは、鉱物の果実だけでなく、他の食物を多くメニューに加えることによって、群れ内、群れ間の社会関係を壊すことなく、社会的に安定した生活を送るように進化してきた。
現代のヒトの女性は、類人猿に比べて出産間隔が短い。ゴリラは4年、チンパンジーが5〜6年に対して、ヒトは2〜4年。ヒトのほうが多産の傾向がある。
現代人の生活史を類人猿と比べてみると、大きな違いが三つある。子ども期がある、青年期がある、閉経後、何年も生きること。
ヒト以外にも閉経のある哺乳類はいる。シャチやコビレゴンドウである。メスのコビレゴンドウは40歳前後で繁殖を停止し、その後、60歳ころまで生きる。これらのクジラは母系の社会構造にあり、血縁関係のある複数の世代がともに暮らし、オスだけが分散する。
ボノボに対して餌を与えると、真っ先にオスがとんで出てくる。オスが強いからではない。むしろ、その逆である。オスがすっとんでくるのは、早く行って餌をとらないと、メスご一行様が来たら、もう取れないから。メスたちが餌を取るあいだ、オスたちは一位のオスもふくめて、周囲で待っている。
そして、オスがメスのご機嫌うかがいをするため、わざと餌の一部を落としたりもする。
ボノボのメスは、気に入らなければ相手が強いオスであろうが、ともかく断ってしまう。そして、気にいったオスと交尾する。
チンパンジーのメスは、1ヶ月の排卵期の前後に2週間の発情期がある。このとき、メスは積極的にオスにアタックする。100回以上の交尾をしている。チンパンジーのメスは、たった一回の妊娠の成功のために、数百回から1000回以上もの交尾をしている。ところが、何回と交尾しても、平均して半年かけないと妊娠しない。
人間とは何かが、この本のテーマです。それを考えるうえで、格好のテキストになります。
清冽の炎(第3巻)
社会
著者:神水理一郎、出版社:花伝社
全国で激しい学園紛争が起きていた1968年。この1年間を5分冊にして刊行する、その第3巻が出ました。朝日新聞の一面下に広告も出ていましたが、実はちっとも売れていないのだそうです。私は、みなさんに応援をお願いしたいと思いまして、ここでは第1巻のあらすじを紹介します。
1968年4月。猿渡洋介は一浪して東大に入学した。同じクラスには予備校仲間が3人もいる。駒場寮は6人部屋。二年生の沼尾とジョーのほかは一年生が4人だ。机とベッドがあるだけで、間仕切りもない大部屋での楽しい生活が始まった。単なるダベリングではなく、読書会をしよう。サークルノートを回覧しよう。寮生同士の交流が深まっていく。人生を語り、将来を模索する。
猿渡が暇そうにしていると、ジョーが声をかけて若者サークルのダンスパーティーに参加することになった。生き生きした若者に魅かれ、猿渡は北町セツルメントに入ることになり、そこで佐助というセツラーネームがついた。若者サークルは毎週土曜日に例会を開く。労働現場の様子が語られ、佐助の目が社会に開かれていく。
子ども会が活動しているのは、電車のガード下のスラム街だ。そこへ尚美は飛びこんでいき、セツラーネームをヒナコと名付けられた。
ベトナム戦争反対のたたかいが盛り上がるなか、駒場の自治委員長選挙で民主派が破れた。医学部で孤立した学同派が起死回生の一打として安田講堂を占拠し、これに対して安河内東大総長は時計台官僚の突き上げもあって機動隊の導入を決断する。
学生は猛反撥し、法学部を除く全学部が一日ストをうって安田講堂前広場に6000人が集まり、抗議の大集会を開いた。しかし、安河内総長は旧態依然とした対応に終始し、学生の不満が高まるばかり・・・。
佐助は、若者サークルの女性に憧れたが、早くも失恋する。しかも、自分のすすむべき専門の経済学について勉強する気も起きない。若者サークルで労働者と話しをするにつれ、将来に対する漠然とした不安は強まるばかりだ。
第1巻は2005年11月刊、1800円。第3巻は2007年7月刊、1800円。
ようやく梅雨が明け、遅れを取り戻そうとするかのように、連日、セミの大合唱が奏でられています。日曜日の夕方、庭を少し掘って枯れ葉と生ゴミを埋めこみました。枯れ葉はコンポストに入れています。生ゴミは大きなポリバケツに入れ、EM菌と混ぜあわせておきます。悪臭なく、ウジもわきません。ダンボールに生ゴミを入れてヌカなどを混ぜあわせると、生ゴミが消えてなくなるそうですが、わが家では庭づくりのためには消えてなくなるのは困りますので、EMぼかしをつかっています。
サボテンが子をたくさん産んでいますので、事務員さんたちに30個ほど引きとってもらいました。大きくなると白いきれいな花を咲かせます。
2007年7月26日
ジャパニーズ・マフィア
社会
著者:ピーター・B・E・ヒル、出版社:三交社
イギリス人の学者による日本ヤクザの研究書です。
ヤクザが商店やバーから金銭を引き出す方法は「みかじめ料」に限らない。おしぼり、つまみをヤクザが提供する。また、貸し絵画や観葉植物という方法もある。
神戸周辺のみかじめ料は平均してクラブだと月に10万円、パチンコ店で30〜50万円。東京・銀座の高級クラブだと月100万円。ソープランドで月500万〜700万円。これを必要経費として認めることを裁判で訴えた経営者がいたが、敗訴した。
佐川急便はビジネス上のトラブルを避けるため、稲川会に年20億円も支払っていた。総額で1000億円が稲川会に流れたと推定されている。
建設業界もヤクザへ支払っている。その標準額は麹総額の3%。20兆円の公共投資があるとして、少なくともその3分の1にヤクザが関与しているとすると、年間5000億円をヤクザは建設業界から得ている。
そうなんですね。だから自民党は昔も今も、大型公共事業がやめられないのです。
自民党の議員はほとんど右翼や暴力団と深いつながりをもっている。ところが、マイクの前に立つと、自民党議員は「暴力団、右翼はけしからん」と大声を上げる。
現在のヤクザは、日本の政財界にとって不可欠な存在になっている。イトマン事件においては、ヤクザ組織と合法的な企業との関係は完全に略奪的なものだったかもしれないが、いつもそうとは限らない。むしろ、政財界のエリートたちは、ヤクザ組織からの保護サービスを自ら求める消費者にもなっている。さらには、野村證券の例にあるように、大企業がヤクザ組織の疑わしいビジネス慣行の自発的な共謀者ともなっている。
皇民党の事件から見えてきたことは、自民党の大物政治家と日本の巨大犯罪シンジケートのトップとの深い関係だ。高級料亭で、ヤクザ相手にどちらが上座にすわるかを譲りあっているのが有力政治家の実像だとしたら、ヤクザの撲滅を口にする政治家の言葉をどれほど信用できるだろうか。
住友銀行の名古屋支店長がピストルで射殺された事件について、次のような解説がなされています。
住友銀行は犯罪シンジケートをつかって他の犯罪シンジケートに関連する債権回収をすすめた。住友銀行の債権回収の圧力によって会津小鉄の組長が自殺し、さらに東京で別のヤクザの組長も自殺した。そこで、自分が次のターゲットになるかもしれないと考えたヤクザが名古屋支店長を殺害した。この事件のあと、大蔵省は住友銀行に対して、税金対策としてヤクザ関連の5億円の不良債権の償却を認めた。
ホントに腹の立つようなひどい話ばかりで、嫌になってしまいます。ヤクザが現代日本社会に深く根づいているのは、想像以上です。こればかりは、知らぬが仏、というわけにはいきません。
2007年7月25日
思い出すまま
司法
著者:石川義夫、出版社:れんが書房新社
著者は、30数年前、私が司法研修所にいたころの民事裁判の教官の一人です。私は直接教えられたことはありませんので、写真を見ても、ああ、こんな教官がいたような気がするな、という感じです。でも、その名前は有名でしたので、覚えがあります。高裁長官の職をけって退官したということですので、それなりに気骨のある裁判官だったようです。
矢口洪一元最高裁長官を次のように痛烈に批判しています。ちなみに、初稿は矢口元長官が存命中に書かれたものだそうです。
矢口洪一人事局長は、裁判所の諸悪の根源は、歴代事務総長が最高裁判事に栄進することにあると繰り返し断言した。事務総長に練達の裁判官をさしおいて最高裁判事となることは、裁判に専心している裁判官たちの間に不満を醸成し、事務総局と現場の裁判官との間に抜きがたい不信感を生んでいる。だから、事務総長には総局メンバー以外の者を充てるか、いったん事務総長となった者は、最高裁入りをあきらめるかにすべきである。矢口氏の言葉をきわめて説得力のある正しい考え方であると受けとった。
ところが、矢口氏は、その舌の根も乾かぬうちに、事務次長、事務総長を経て、最高裁判事となり、ついには最高裁長官の席を冒すに至った。矢口氏の事務総長就任までの裁判所在職37年のうち、裁判実務経験は合計してもわずか6年あまりにすぎない。
いやあ、そうなんですかー・・・。ひどい話ですよね、これって。
矢口氏は、常に大げさな表現を口にするのが癖であったが、裁判実務オンリーの裁判官たちのことを、「度し難い愚か者ども」と嘲っていた。
いやいや、これにはあきれてしまいました。「度し難い愚か者ども」の親玉にすわって、いい気分を味わっていたようです。
矢口人事局長は青法協つぶしの先頭に立っていました。著者は、裁判所当局が良心的で勤勉な若手裁判官まで含めて青法協会員を目の敵にし、冷遇するのが気に入らず、夜間に矢口人事局長と電話で1時間以上、もっと平和的なやり方もあるのではないか、このようなやり方は将来の裁判所に禍根を残すのではないかと議論を重ねた。それ以来、著者と矢口元長官との緊密な信頼関係は急速に冷えていった。
矢口人事局長は司法研修所の田宮上席教官に対して、「研修所教官の方で、疑わしい連中の試験の成績を悪くしておいてくれれば、問題は解決するじゃないか。何とか考えてくれ」と言った。要するに、青法協所属の修習生の任官を人事局の責任で拒否することにしたくないので、研修所教官の責任で拒否しようというのである。著者は、この件について、矢口氏の名誉を慮って、今日まで他言しなかったが、目的のためには手段を選ばない矢口氏の手法を思うと、こんなことがあった、ともっと早い時期に公にすべきであったかと後悔している。
そうですよね。もっと早く言ってほしかったですね。でも、そうすると、任官拒否にあったI修習生が「成績不良」のため任官できなかったのはやむをえないという著者の主張も怪しくなると思うのですが・・・。
私のころ、少なくともクラスの3分の1ほどが青法協の会員でした。声が大きく、元気のいい修習生が多くて、若くて世間知らずの私も大きな顔をしていました。当時も私はモノカキでしたから、前期修習のときには日刊クラス新聞(「アゴラ」と名づけていました)を発刊していました。独身だったし、暇だったのです。最高裁による青法協つぶしの禍根は今も残っていると私は思います。裁判所内では自由闊達な議論が十分にできていないように思います。もちろん学説・判例の議論はしているのでしょうが・・・。といっても、当の裁判官に言わせると、裁判所ほど自由にモノが言えるところはないと自信をもって断言します。いやあ、本当でしょうか、私には疑問があります。
現在の最高裁の正面玄関は長官とそのほかの裁判官の出入時以外は常時閉鎖され、ガードマンが厳重に警備していて、一般人には近寄りがたい印象を与えているが、はなはだしい違和感を覚える。問題は建物の設計にあるのではなく、むしろ日常その管理にあたる官僚たちの思想にあるのではないか。最高裁がこの点に早く気がつき、明るく開放的で親しみやすい裁判所の姿が実現する日が来るように期待する。
私も、この点はまったく同感です。まるで石の棺のように死んだ建物をイメージさせます。単に近寄りがたいというのではありません。近寄るのを峻拒するという感じです。国民の司法参加をモットーとする裁判員裁判を始めようとするとき、そんなことではダメでしょう。
著者の主張に全面的に賛同するということはできませんが、共感を覚えるところも多々ある本でした。
2007年7月24日
巨大政府機関の変貌
アメリカ
著者:チャールズ・O・ロソッティ、出版社:財団法人大蔵財務協会
IRS、アメリカ合衆国内国歳入庁を民間実業界出身者が長官として乗り込んで大改革していったという話です。
アメリカの税制は、すべての市民が自ら支払うべき税金を計算して納付するという、自発的意志に依存している。市民がそうしないときにはIRSが介入することになる。
個人の確定申告書の調査において、およそ4分の1は是認される。
1999年には、本来納付されるべき税額のうち、2770億ドルが納付されなかった。IRSはこれを追跡して、そのうちの17%を徴収することができたが、残り2300億ドルは徴収されずに残った。このような巨額の未納額は年々増加している。
IRSは、富裕層への調査を減らし、貧乏人を調査する傾向がある。不正行為に対するIRSの警告にもかかわらず、富裕層は税金の調査を回避している。IRSについて、このような評価が定着していました。まるで日本と同じです。日本も巨大企業には大甘の税法と税務調査がまかりとおっています。日本の活力を保全するためという論法です。
税金を「合法」的に回避するためのタックスシェルターが大企業から裕福な個人にまで広く流行している。
もっとも富裕な所得階層に属する納税者は、そのほとんどが大企業の全部または一部の所有者である。100万ドルをこえる所得のある個人納税者層は、大企業上位1000社の合計とほぼ同じくらいの額の税金を納めていたが、大企業上位1000社のほうが
100%毎年調査を受けているのに対し、所得100万ドル超の個人納税者については、提出された申告書の2.5%しかIRSは調査していなかった。
そこで、2002年2月、IRSの優先順位を変更した。10万ドル超の所得のある個人納税者の調査により多くの調査スタッフをふり向け、そのなかでもとくに100万ドル超の所得のある納税者の調査にはさらに手厚くふり向けることにした。
日本でも、このようにしてほしいものです。ところが、現実に日本の税法改正は超富裕層を温存する方向ですすめられています。重い税負担感から金持ちが日本を逃げ出さないようにするため、という口実です。
いま、私の周囲では市県民税が2倍いや3倍になった、給料が1万円以上もダウンしたという悲鳴ばかりです。与党である公明党が提唱して実現した定率減税廃止のための増税です。空前の好景気が続いているというのに、その大企業のための法人税減税のほうは廃止されずに続いています。おかしな話です。富める者がますます富める社会、貧乏人は野垂れ死にしてかまわない。それが安倍首相のうたう「美しい国」の内実です。ホント、許せません。
消費税にしても、導入するときも、税率をアップするときも、選挙で争点にしたわけではありませんでした。別のことが争点となっていて、勝った自民党が信を受けたと称して実施したものです。今また、参院選の争点とせず、秋に消費税を7%へアップする方針をうち出すというのです。こんな国民を馬鹿にしたやり方をいつまでも続けさせてはいけません。納税者はもっと怒りを声に出しましょう。私たちが主権者であるのは選挙での投票行動をすることのみであらわすしかないからです。マスコミの予想によると、民主党の一人勝ちのようですけど、それでいいのでしょうか。「2大」政党はまやかしではありませんか。とても大切な憲法改正問題について、この「2大」政党は、どちらも基本的に同じ考えですし・・・。
2007年7月23日
李白と杜甫
中国
著者:荘 魯迅、出版社:大修館書店
著者は10歳のときに文化大革命が始まり、苦難の道を歩むことになりました。そのとき、ギターと書物に救われたのです。
人を助ける、人の心を助ける力があるものとして、文学はそこに厳然と存在している。
著者は李白は皇族の一人だと主張しています。そして、杜甫は外戚なので、李白と杜甫は血縁だというのです。
李白は人を殺したことがある。李白の奔放な表現は、すべて失意の表現なのである。
ときは唐の時代。玄宗皇帝は楊貴妃を寵愛していた。そこへ、安禄山の反乱が始まる。
書を読みて 万巻を破り
筆をおろせば神あるが如し
私も本はたくさん読んでいますが、筆をとっても神様の手のようには思うように動きません。
黄鶴楼(こうかくろう)にて孟浩然(もうこうねん)の広陵にゆくを送る
故人(こじん)、西のかた黄鶴楼を辞し、煙火(えんか) 三月 揚州に下る
孤帆(こはん)の遠影 碧空(へきくう)に尽き
ただ見る 長江の天際(てんさい)に流るるを
私も黄鶴楼にはのぼってみました。今は大きなコンクリート製の建物です。昔はどうだったのでしょうか・・・。
静夜思
牀前(しょうぜん) 月明の光
疑うらくはこれ 地上の霜かと
頭(こうべ)をあげて 明月をのぞみ
頭(こうべ)をたれて 故郷を思う
まことにふるさとは、遠くにありて思うものです。
早発 白帝城
朝辞白帝彩雲間
千里江陵一日置
両岸猿声啼不往
軽船己過萬重山
私も長江下りをしたことがあります。そのとき、白帝城をはるか下から遠くに見上げました。たしか船中泊で早朝だったような気がします。白い小さな砦のような建物が霞のなかに浮かびあがっていました。
春望
国破山河在
白春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪
やはり、たまには漢詩を読んでみるのもいいものです。また中国に出かけたくなりました。この本は李白と杜甫の漢詩を紹介しながら、小説タッチで二人の出会いと別離を描いています。
2007年7月20日
ブッシュのホワイトハウス(下)
アメリカ
著者:ボブ・ウッドワード、出版社:日本経済新聞出版社
いまイラクに駐留するアメリカ軍は13万人。当初の計画では、3万人ほどにするということであり、最大でも6万人のはずだった。ところが激しい武力衝突が絶えないため、アメリカは減らすことができない。1ヶ月にアメリカ軍が攻撃される件数は500件もある。2003年9月は750件、10月には1000件になった。1日に30件以上の武力衝突が起きている。
イラクに大量破壊兵器があるか調査していた調査団のケイ団長は、公式に発言した。
私自身を含めて、我々は間違っていた。イラクで大量破壊兵器の備蓄が発見されると考えられる根拠は何もない。過ちを認めることが大切だ。イラクは、あたかも大量破壊兵器を保有しているかのようにふるまっていただけ。
そうなんです。ことは明白です。アメリカのイラク侵攻に何の根拠もありませんでした。ところが、ブッシュ大統領も日本政府もいまだに自分の誤りを認めていません。ひどい国際法違反です。
アメリカ政府の高級スタッフがイラクに派遣されて見たものは、次のとおりです。
イラクは、見た目も雰囲気もまさに戦場だった。攻撃は一ヶ月に1000件。アメリカ軍の食堂が迫撃砲で攻撃を受けたこともあった。ヘリコプターで移動するときには、常にドア銃手が機関銃を下に向けていた。スタッフは抗戦ベストを着用した。
2004年8月から、攻撃を受けるのは月に3000件になった。
2003年5月にブッシュ大統領がアメリカ軍の輸送機で到着し、大規模な戦闘は終わったと宣言した時点と比べると、武力衝突は10倍に増えている。
2005年9月、アメリカ政府の高級スタッフがイラクを視察した。反政府勢力がイラクの大部分で自由に作戦行動できるのに、アメリカ軍は兵力を分散して、手薄になっていることを知った。武装勢力は、従来よりも殺傷性の高いIEDを使用し、それがアメリカ軍将兵多数の死因となっている。
3年のあいだにイラク人3万人が死んだ。イラクの人口がアメリカの15分の1だということを考えると、この3年間、毎週、9.11同時多発テロの被害者と同数の死者が出ていることになる。9.11が毎週くり返されたら、アメリカの社会にどれほどの心理的打撃を与えるか、想像できる。イラクの社会にもそういう打撃を与えているわけだ。
いやあ、本当です。この指摘はあたっていると私も思います。
世論調査によると、スンニー派の50%が反政府運動に賛成している。スンニー派は、人口の20%を占めているので、イラク国民の10%、つまり200万人が武力抗争に賛同していることになる。
ブッシュは、景気のいい楽天的な発言をするばかりで、イラクの陥っている状況について、アメリカの国民大衆に真実を伝えていない。
これは、ちょうど安倍首相が貧困層が日本に増大している現実を無視して美しい国・日本を愛しましょうという美辞麗句を並べたてているのと同じことです。
江戸の躾と子育て
江戸時代
著者:中江克己、出版社:祥伝社新書
江戸の親たちは、子育てに熱心だった。その証拠に、じつに多くの育児書や教育書が出版され、さまざまなことが述べられている。
赤ん坊が笑い、話すような仕草をするときは、乳人(めのと)やまわりにいる人がその都度、赤ん坊に話しかけるようにすれば、赤ん坊もよく笑い、その人の真似をして話すような仕草をするものだ。このようにすれば、言葉を話しはじめるのが早いし、人見知りをせず、脳膜炎などの病気になることもない。
これには私もまったく同感です。子どもたちが赤ん坊のころ、私もせっせと話しかけたものです。おかげで、表情が豊かになったと私は考えています。
江戸時代の子どもたちは、たいそう本好きで、子ども向けの本も数多く出版された。部数はよく分からないが、当時の日本は出版王国といってよいほどで、江戸時代に6万点から7万点の本が出版された。
文化年間(1804〜1817)のころ、京都に200軒、江戸に150軒の出版元がいた。その多くは、出版と卸・小売を兼業していた。当時は1000部も売れるとベストセラーだった。それだけ読書人口が多かった。庶民の識字率が高く、知的好奇心も強かったことによる。
子ども向けの本は赤本と呼ばれた。表紙が赤色だったからで、中身は挿絵と短い文章を添えた絵本だった。値段は安く、宝暦年間(1715〜63)で5文(125円)、享和年間(1801〜03)には10文(250円)した。当時、屋台のかけそばは一杯16文 (400円)だから、はるかに安い。
識字率は、江戸市中では男女ともに70〜80%、武士階級は100%。幕末期の江戸には1500の寺子屋があった。享保6年(1721)には、800人の師匠がいた。生徒が200人いたら、師匠は俸禄20石の下級武士並みに生活できた。教科書は「往来物」と呼ばれ、7000種類もあった。うち1000種は女子用である。
農民の子どもたちは、「農業往来」「百姓往来」「田舎往来」によって農業を学んだ。
漁村用には「浜辺小児教種」船匠用には「船由来記」があった。
すごいですよね。江戸時代の人々って、現代日本人とあまり変わらないっていう気がしますよね。ところで、いわゆる大検(大学入学のための検定試験)がなくなったそうですね。私の知人の塾教師から教えてもらいました。これまでは大検受験のために勉強している高校を中退した若者などを相手に教えていたのが、大検がなくなったので、その分野の生徒が来なくなって困っているということでした。高校卒業の認定で足りるようになったけれど、予備校が高校認定を受け、レポート提出で足りるという運用をしている、とのことでした。本当にそんなんでいいのかな、と不安に思ってしまいました。
いま、我が家の庭に咲いているのは、黄色いカンナ、モヤモヤとしたピンクの合歓(ねむ)の木、ヒマワリ、淡いピンク色と白のエンゼルストランペット、そして、淡紅色のサルスベリです。台風で少し倒れたせいもあって、キウイの雌の木を大きくカットしました。その足元にひ弱なキウイの雄の木があります。雄の木はこれで5代目です。今度こそ大きくなってほしいのですが・・・。
薩摩スチューデント、西へ
江戸時代
著者:林 望、出版社:光文社
あのリンボー先生による初めての長編時代小説です。「小説宝石」に2004年5月から2年にわたって連載されていました。
明治維新の前夜、まだ海外渡航が禁止されていた時代、薩摩藩は、前途有為な若者たち15人を、ひそかにイギリス留学へ旅立たせた。藩としての秘密使節4人が同行した。
外国への渡航は死罪にあたる国禁であったから、発覚したときには藩上層部の責任が問題になるのは必至である。しかし、海外との密貿易をすすめて財を得ていた薩摩藩は、巨額の資金とともに若者たちを送り出した。
若者たちは、全員脱藩の扱い。出発するのもこっそり。長崎のグラヴァーが迎えの船を用意し、乗り込む。最年少の長沢はまだ13歳。次に15歳、そして19歳が2人いて、大半は20台前半の若者たちである。
船中で英語を学び、船酔いに苦しみ、慣れない洋食に悪戦苦労していく様子が描かれていきます。文明開化を取り入れた先達の苦労が偲ばれます。
この本で圧巻なのは、日本の若者たちがヨーロッパ文明に圧倒されながらも、気後れするだけでなく、すすんでその技術を身につけようとする様子です。好奇心旺盛な彼らは、ヨーロッパ文明をひとつひとつ自己のものにしていきます。それは、科学・技術だけでなく、商売の点でもそうですし、工場運営などについても大いに学んでいくのです。
その2年前に薩摩藩はイギリス軍と鹿児島湾内で戦い、圧倒的な武力の差に惨敗し、町を焼き払われています。わずか2年後に敵国イギリスに若き俊英をひそかに送りこんだわけです。その大胆な発想の転換には驚かされます。
イギリスで薩摩藩使節たちは最新式の武器を大量に購入しました。今のお金で22億円相当というのですから、なんともすごいものです。小銃2300挺などです。
かつての日本の若者の意気の高さを、現代日本に生きる我々は見習いたいものだと思いました。
雨の多い梅雨でした。蝉の鳴き声をずっと聞くことができませんでした。朝、雨が降っていないのに蝉が鳴かない日は、やがて雨が降るということです。どうやって蝉は地上の天気を知るのでしょうか。このままずっと雨が降り続いたら、地中の蝉は来年の夏を待つことになるのか、心配していました。朝から元気よく鳴き蝉の声を聞くと、うるさくもありますが、やっと夏が来たという実感に浸ることができます。
2007年7月19日
武田信玄と勝頼
日本史(中世)
著者:鴨川達夫、出版社:岩波新書
タイトルだけからすると、信玄と勝頼という戦国大名の親子の葛藤を古文書にもとづき再現・分析した本のように思えます。しかし、本の中味は、文書にみる戦国大名の実像というサブ・タイトルのとおりです。そして、それはそれなりに面白い内容です。
私は、ひやあ、そうだったのか、知らなかったなあ、と思いながら、とても興味深く読みすすめていきました。くずし字の古文書を著者のようにスラスラと解読できたら、どんなに世界が広がるかと、私には著者がうらやましくてなりません。
文書は手紙系の書状と書類系の証文とに大別できる。書状には年紀をつけない。相手が家臣や近隣の大名であるときは、堅切紙(たてぎりがみ。通常の紙を縦に半分程度に切ったもの)が、遠隔の大名のときには切紙(きりがみ。横に半分に切ったもの)が多く使われる。
証文は、信玄や勝頼が決定した施策や確認した事項を、公式に通達する文書である。各級の家臣や寺社、商工業者や郷村の人々まで、領国内の諸階層に幅広く与えられていた。中身は多岐にわたるが、土地の領有を新規にまたは継続して認めたもの(充行状・あてがいじょう、安堵状・あんどじょう)、各種の義務の免除など何らかの特権を認めたもの、戦場における功績を確認したもの(感状)などが目立つ。体裁は必要な事柄を事務的に記したうえで、「仍って件の如し」(よってくだんのごとし)という文言で結ぶのが原則。そして、年紀が必ず記入される。
信玄は永禄9年(1566年)夏ころ、証文のつくり方を変えた。それまでは折紙(おりがみ。紙を横に二つ折りにしてつかう)をつかっていたのを、堅紙(たてがみ。紙の全面をつかう)に改めた。また、信玄自身の名義で出すものと、当該案件の担当奉行名義で出すものとに二分し、前者には花押を書き、後者には龍の朱印を捺(お)すことにした。そこで、信玄名義で花押のあるのを判物、奉行名義で朱印のあるものを朱印状と称する。身分の高い相手や重要な案件については判物、それ以外の大半の案件については朱印状というのが原則であった。つまり、朱印状より判物のほうが格が高い。
出馬と出陣とは違う。出馬は一軍の大将が出動するときにつかう。大将がどこかに滞在することを馬を立てるといい、行動を終えて帰還することは馬を納めるという。大将の下にいる将兵が出動するときには、出陣という。
信玄の直筆の手紙からすると、信玄には気の小さい、臆病なところがあったと解される。しかし、その一方、きわめて強気な態度を示すこともあった。
信玄は、遠江・三河を攻めたとき、そのまま京都に攻め上り、天下を取ろうとしたのだという通説に対して著者は疑問を投げかけています。
信玄の標的が岐阜であり、信長を主敵と考えていたことは間違いないとしても、それは必ずしも本意ではなかった。朝倉義景や本願寺など、当時、信長に圧倒されていた勢力によって反信長陣営に主将として引っぱり出されただけ。
なーるほど、そうかもしれません。戦国大名の統治形式と心理をうかがい知ることのできる手がかりが得られる本です。
2007年7月18日
イラクの混迷を招いた日本の選択
社会
著者:自衛隊イラク派兵差止訴訟全国弁護団連絡会議、出版社:かもがわブックレット
イラクでは毎日のように自爆攻撃がくり返され、大勢のイラク人が殺されています。日本の新聞では小さく報道されますが、テレビで報道されることはほとんどありません。あまりに毎日おきて、あたかもルーティンワークのようになってニュース(目新しいもの)にならなくなってしまったからです。
そんなイラクで日本の自衛隊が今なおアメリカ軍の下働きをしています。航空自衛隊です。200人の自衛隊員がイラク内で輸送業務に従事しています。
アメリカ軍兵士を輸送する航空自衛隊C−130H輸送機は「アメリカ軍の定期便」と言われている。C−130H輸送機は、乗員は6人で、最大輸送人員92人、完全武装兵でも64人を乗せることが可能。搭載量は20トン。ジープや大砲、装甲車も運べる輸送機だ。
撤退した陸上自衛隊はイラク・サマワで何をしていたのでしょうか。日本のマスコミはテレビも新聞も、本当のことをまったく伝えませんでした。
当初は、たしかにサマワ市民への給水活動を多少なりともしていた。しかし、2006年2月からは給水活動は何もしていない。治安が急激に悪化したため、自衛隊は郊外にある宿営地から出ることができなくなった。そして、給水活動をしていたとき、実はサマワ市民とあわせてアメリカ軍やオランダ軍への給水活動もしていたのではないか。砂漠地帯では、兵器は水冷ディーゼルエンジンで動いている。水がなければアメリカ軍は戦うことができない。日本の自衛隊はアメリカ軍の下支えとしての給水活動をしていたと思われる。このように、サマワの自衛隊は、広大なイラク南部砂漠地帯の占領政策を遂行する多国籍軍に、軍隊にとっての「命の水」を安定的に供給するという後方支援活動、つまり軍事活動を担っていた。
なーんだ、そういうことだったのか・・・。またまた日本人は日本政府から欺されてしまったのですね。
イラクにいるアメリカ兵は15万人。これまで3600人ものアメリカ兵が戦死した。しかし、イラク市民の死者はケタが2つも違う。65万5000人と推計されている。さらに、家族を失い、家を破壊されるなどして国外に難民として流失した人々が200万人国内避難民は170万人。イラク戦争が始まったときのイラクの人口は2700万人。3年間でイラクの人口の一割が減少したことになる。
ですから、イラク人女性の次のようなブログ上の発言には、つい、そうだよな、と同感せざるをえないのです。
この4年でアメリカ兵が3000人死んだんだって。本当? それはイラク人の一ヶ月の死者の数にもみたないじゃない。アメリカ人には家族がいた? それはお気の毒さま。でも、それはイラク人にとっても同じことよね。イラクの道ばたの遺体や遺体安置所で身元確認を待っている遺体たちもね。アメリカ兵の命は私たちのいとこの命よりもっと大切だって言うの? 私はそうは思わないわ。
愛する家族や友人を奪われた人々の心の中に憎しみが生まれてくるのも当然です。報復の連鎖はどこかで止めるしかありません。
日本のマスコミは、イラクで日本の自衛隊が何をしたのか、いま何をしているのか、自衛隊が後方支援しているアメリカ軍がイラクで何をしているのか、もっと事実を正しく報道すべきです。
いったい、今、イラク国内に日本のジャーナリストはいるのでしょうか。どこに何人いるのでしょうか? 私は、ぜひ知りたいです。こんな基本的なことも明らかにしないで、日本を「美しい国」だなんて、言わせません。
2007年7月17日
ティムール帝国支配層の研究
世界史
著者:川口琢司、出版社:北海道大学出版会
チンギス・ハンのあとに中央アジアに広大な帝国をうちたてた有名なティムールとその帝国についての研究書です。本格的な内容ですので、難しいところも多々ありました。
ティムール帝国の時代は、空前絶後の領土を有したモンゴル帝国が解体したあとに到来した。このころ、日本は室町幕府、足利尊氏から義満にかけての時代。中国では明帝国の前半の時代。ヨーロッパでは、百年戦争やバラ戦争を経て、大航海時代に入ったころ。ロシアでは、モスクワ大公国が力をつけ、モンゴル支配の桎梏から自立しようとしていた。
ティムール帝国は、中央アジアのモンゴル国家チャガタイ・ウルスの領域に成立し、中央アジアから西アジアに及ぶ広大な領域に、6代140年間にわたって続いた。
ティムールは、青年時代に右手と右足に終生の傷を負い跛者となったが、その類いまれな才覚と人望により、祖先の名望や所属部族の力をあてにすることなく、一代で広大な大帝国をうちたてた。1360年代、ティムールは、旧来の部族に頼らない新しい家臣団を組織しながら、有力部族たちを巧みに味方につけ、宿敵フサインとの権力闘争を制し、1370年、ついにサマルカンド政権を樹立した。
ティムールは、チンギス・ハンを意識し、モンゴル帝国の再興を目ざしていた。
ティムール自身はチンギス・ハンの子孫ではない。バルラス部族の出身である。しかし、当時の中央アジアでは、チンギス・ハンの子孫でなければ君主になれないというイデオロギー(チンギス統原理)が生きており、支配の正当性の根拠となっていた。
そこでティムールは、チンギス・ハンの子孫を実権のないハンとして擁立し、チンギス・ハンの子孫の女性と結婚して婿(キュレゲン)の地位を獲得することにつとめた。モンゴルの権威を利用して支配の正当性を得ようとしたわけである。
ティムールは、チンギス・ハンの子孫である4人の女性と正室とした。しかし、その正室から生まれた嫡子は次男のみで、長男も三男、四男もみな側室を母とする。ところが、この4人の息子たちは、いずれもチンギス・ハンの子孫にあたる女性と結婚している。
ティムール帝国では、明確な後継制度が定められていなかったため、実力で君主位継承争いに勝利した者が新しい君主になる場合が多くみられた。ティムールの遺言は無視された。
ティムール帝国では、チュルク・モンゴル的な要素とイラン・イスラーム的な要素が融合し、きわめて高度なイラン・チュルク・イスラーム文化が花開いた。ティムール朝の人々はイスラーム教徒であった。
ティムールは積極的な建築活動を展開した。そこで、チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した、と言われた。
ティムール帝国の末期には、北方のキプチャク草原からウズベグ族が侵入し、1507年にティムール帝国は崩壊した。1991年、ウズベキスタンが独立すると、ティムール帝国を滅ぼしたウズベグ族の子孫たちが、ティムールを英雄視し、自分たちの文化的系譜をティムール帝国にまでさかのぼらせている。
ティムール帝国についての本格的な研究書です。素人にも分かるところだけを飛ばし読みしました。
梅雨空の晴れ間に蝉があわてたように鳴いています。このところ例年より雨が多くて、蝉の出番がなくて、焦っている気がしました。庭にサルスベリのピンクの花が咲いています。お隣の家には、合歓の木が二度目の可憐な花を咲かせています。梅雨明けが待ち遠しいこのごろです。
2007年7月13日
ダイナスティ
社会
著者:デビッド・S・ランデス、出版社:PHP出版社
ファミリー企業とは、創業者あるいはその家族によって所有され経営されている企業のこと。同族経営と言われると、マイナス・イメージもある。
しかし、このところ欧米ではファミリー企業は再評価されている。『フォーチュン』誌の選んだ世界のトップ500社のうちの3分の1をファミリー企業が占めており、EU(ヨーロッパ連合)では国民総生産と労働市場の3分の2をおさえ、あなどりがたい勢力となっていて、その優位性は明らかである。日本では、245万社ある企業の94%は同族企業で、上場企業でも4割はファミリー企業である。
この本は、世界のトップ巨大企業のうちのファミリー企業の内情を描いたものです。ファミリー企業は、一族が多産かどうか、その生命の再生産能力にかかわるところが大きい。
また、風習や文化によっては、直系の男性だけを後継者とみなし、女婿はおろか実の娘でさえも会社に参加させず、彼らを部外者としてしまうファミリー企業も多い。反対に、トヨタ自動車のように、血統については寛大で、姻戚だけでなく、養子縁組でもよいとする文化もある。
銀行業は二つの理由からファミリー企業向きである。銀行業で成功するには、基本的に人間関係が大切で、誰と知りあいで、誰を信頼し、誰から信用されるかというコネクションである。しかも、生産企業と違って銀行では絶えず発達する技術にそれほど依存することもない。一年単位でも技術革新に対応できるような有能な技術者は必要としない。つまり、家族以外の人材に頼る必要性に乏しい。
ダイナスティ(王朝)は、愚者であっても支配でき、また、しばしば愚者が支配した。
ユダヤ教の習慣では、おいとおばとの結婚は禁じているが、おじとめいの婚姻は認めている。ロスチャイルド家の孫たち18組の結婚のうち16組はおじとめいかいとことの結婚だった。一族のなかの婚姻は、社会的にも文化的にも利点があった。習慣や秘密を外部から守ることができた。
逆境のなかで不屈であることこそ、ダイナスティを支える力である。ロスチャイルド家は外部からの支援は受けたが、その核心はあくまでも一族だった。
フォードは反ユダヤ主義者で、ナチスから堂々と勲章をもらった。そして、ニューディール政策をとったルーズベルト大統領を毛嫌いした。工場内の労働組合をつぶすために暴力団に頼んで殺させることもした。
アイアコッカは、フォード社でめざましい成果をあげた。会社の経営は好転し、社会でのフォードのイメージは定着した。アイアコッカが社長になってもおかしくなかった。しかし、彼は一族でなかった。精力的で野心家で、家族の手に負えなかった。強大になりすぎたため、アイアコッカはフォード社から排除されてしまった。
ファミリー企業の継承は世界各国でも必ずしもうまくはいっていないようです。偉大な父親の下では虚弱な息子が生まれがちなのは、世の東西を問わないからです。
知られざる水の超能力
著者:藤田紘一郎、出版社:講談社α新書
高校生時代、恥ずかしながら、喜んでしていた、あのフォークダンス、「マイム・マイム」の意味を初めて知りました。
マイム、マイムとは、水、水という意味のヘブライ語である。砂漠地帯で水を掘りあてた人々が喜んでいる様子をあらわしたイスラエルの民謡なのである。だから、この「マイム・マイム」は、キャンプファイヤーではなく、水を囲んで行うのがふさわしい。
今どきフォークダンスなんて流行らないのでしょうが、お目当ての女の子の手をしっかり握れる貴重な機会でしたね。
下痢したとき、下痢止めを飲むのはすすめられない。逆に、水を飲んで排出を促進するのがいい。ぬるま湯をこまめに与えることが大切。このときは、軟水のミネラルウォーターが最適。
人間が本当に渇きを覚えると、ほしくなるのはジュースでも酒でも牛乳でもない。ただの水である。
たしかにそうです。私は、中国の奥地のウルムチからトルファンに行ったことがありますが、そのときは冷たいミネラルウォーターがまさに「命の水」だと本心で思いました。それ以来、ビールを飲みたくなくなり、ミネラルウォーター派に私は転向してしまいました。
お酒を飲む前に、この酒にはビールも含む、とりあえず水を飲むこと、これが大事なのだ。ビールは強力な利尿作用をもっている。どんどん体内の水分が奪われていく。だから、水分の補給が必要になる。
水道水を安全にする方法は、決して煮沸することではない。
私は、これを読んで、ひっくり返りそうになりました。沸騰したら安全な水になるとばかり考えていたのです。
水を沸騰させると、たしかに塩素は飛ばせるし、殺菌効果もある。しかし、水道水に熱を加えると、塩素と有機物が化合しやすくなり、温度が上がるとともに、発がん性物質であるトリハロメタンの量は増えていく。つまり、煮沸によって、毒物トリハロメタンを増やしている。ええーっ、そうなんですか・・・。本当なんでしょうけど、信じられません。
寝る前に水を飲むのはいいそうです。朝一杯のコンブ水を毎日のんでいますが、これからはコンブを煮沸水に入れるのはやめることにします。
水をめぐる話を満載した面白い本です。
メディアと政治
社会
著者:蒲島郁夫、出版社:有斐閣
日本のテレビ報道の特性は5つ。
1.一つの事柄が視聴率をとれるとなれば、各局ともそれに話題を集中する洪水報道化すること。
2.時間的制約があるため、善玉・悪玉の二項対立で番組をつくる傾向があること。
3.視聴者に提供される情報はカメラがとらえた映像に限られるため、制作者の意図に誘導しやすいこと。
4.テレビは映像が命であるため、映像のない事柄はニュースになりにくいこと。
5.放送は一定の時間内に終わらせなければならないこと。
これらの制約をのがれて番組を制作することは、物理的な事情もあって難しい。そのうえ、民法では、ある程度の視聴率が見込めない番組はつくることができない。
そうなんですよね。テレビのワイドショーをふくめて、ある時期に一つのテーマに集中して報道し、しばらくすると、さっぱり取り上げなくなる。その後、どうなったのか、後追い記事(報道)はほとんどされません。私も、その点がすごく不満です。いろいろ多角的な視点からの報道をしてほしいものです。
大嶽秀夫・京大教授は日本におけるポピュリズムの特徴について、次の3点をあげる。
1.新聞のテレビに対する批判姿勢が弱く、テレビの人気を新聞が増幅する傾向をもつ。2.メディアの横並び体質と、視聴者にこびる性質がとくに強い。
3.テレビでの意見表明は大きな権威をもっており、無批判に受けいれられる傾向がある。 テレビをまったく見ず、新聞を丹念に読んでいる私にも、この指摘はまったくあたっていると思います。一般紙がテレビ報道を批判することは、まずありません。
新聞で社説は社論である。これを執筆しているのは論説委員。これは、経営にはしばられない社長直属の独立機関である。論説委員は、記者歴20年以上で、専門性が高く、各部から複数選ばれる。トップである論説委員長(論説主幹)の下に、デスクワークもする論説副委員長が数人いて、総勢20人はいる。結論は全会一致が原則。どうしても意見がまとまらないときは、論説委員長が最終判断を示す。重大な決断は主筆(社長)が下すが、そこに至るケースはめったにない。
政治改革(小選挙区制の導入)のとき、郵政改革のとき、マスコミが誤った方向に世論をリードしていった責任は重大だと私は考えています。
情報戦の時代
社会
著者:加藤哲郎、出版社:花伝社
著者の個人ウェブサイト「加藤哲郎のネチズンカレッジ」は、累計100万件近いアクセスを記録しているそうです。
IT技術が、それ自体として分権化をうながし、ネットワーク型コミュニケーションをもたらすというのは幻想である。むしろ、市民による活用と抵抗がないならば、地球的規模での独占・集積化も可能である。
つまり、インターネットや携帯電話のような個人単位のコミュニケーション手段が広がることで、一方でさまざまな個性のネットワーク型結合が可能になると同時に、他方で、その大元を押さえ、個人情報や私的コミュニケーションまで集権的に管理し支配しようとする動きも現れる。
私も、そのとおりだと思います。インターネットは大変便利なものですが、情報統制する怖いものでもあると思います。
改憲論議は、世論レベルではムードが先行しており、賞味期限を論ずるよりも、まずは立憲主義と現行憲法の中身を知る知憲こそが国民的規模で必要なのだ。逆に言うと、護憲勢力の主張も、「昔の名前で出ています」風の保守的イメージでしか浸透していない。
新聞の調査で「改憲」についてのイメージを問いかけたところ、現実的29%、未来志向28%、自主独立14%、軍拡10%、復古的8%という回答だった。
このように、かつての護憲=恒久平和、改憲=軍拡・復古という構図では、今日の改憲ムードの流れは変えられないのである。
うむむ、そうなんですか・・・。いろいろ考えさせられる本でした。
6月17日に受けた仏検(一級)の結果を通知するハガキが届きました。45点でした。自己採点は50点でしたから、5点も下まわりました。合格基準は90点ですから、とてもとても足りません。ちなみに、150点満点です。今回はいつも以上に難しかったのですが・・・。めげずに毎朝フランス語を勉強しています。仏和大辞典を愛用しています。ボキャブラリーを増やし、なんとか用例を覚えて仏作文も少しはできるようにがんばりたいと思います。
2007年7月12日
敗者から見た関ヶ原合戦
日本史(中世)
著者:三池純正、出版社:洋泉社新書y
関ヶ原合戦の首謀者は、当時の日本を訪れていた朝鮮使節には毛利輝元だと見えていた。その毛利が所領を4分の1に減らされただけで何の処罰も受けることもなく、その配下の石田三成が首謀者として処刑されたのが不思議だと思われていた。
石田三成は近江佐和山城主19万5千石の大名の一人で、豊臣政権を支えた奉行の一人でしかない。しかも、その奉行の身分は、関ヶ原合戦の直前に徳川家康によって剥奪され、表面上は何の権限も持っていなかった。
関ヶ原合戦は、石田三成を首謀者に仕立て上げて処刑することで、その責任のすべてを三成に一方的に押し付け、その幕を閉じた。
私は関ヶ原古戦場跡に2度行ったことがあります。やはり百聞は一見に如かずです。
この本では、各将が合戦当時に陣取っていた位置を重視しています。毛利軍が陣を布いた南宮山からも、長宗我部のいた栗原山からも合戦場となった関ヶ原はまったく見えない。2万6千という西軍の大軍は、合戦当日、遠くに鉄砲の轟音やときの声を聞いて、黒煙を覆う光景は見えても、両軍が戦う姿は最後まで見えなかった。
たしかに、関ヶ原の現地に立つと、意外に狭いことに驚かされます。西軍の有力な軍隊が隠れるようにいたというのは、それなりの思惑があったのでしょうね。
通説は石田三成について典型的な文人官僚であり、軍事に疎い人物だとしている。しかし、果たしてそうだろうか。三成は官僚である前に、何より軍人であり、武将であった。秀吉のそばにずっといて、合戦についての大局的観点や陣城の構築などを学んでいた。つまり、三成が軍事的に疎い、戦下手(いくさべた)などと考えるのは、不自然なのである。
朝鮮の役についても、文禄・慶長の役を通じ、三成は一貫して兵站・補給力をふくめて国力全体を見通した戦略を構築し、無理な戦いを避けようとした。三成の戦略視点の高さが朝鮮の役で表れている。著者はこう見ます。
徳川家康は関ヶ原合戦のとき、いくつもの不安材料をかかえていた。安心して合戦にのぞんでいたわけではない。福島正則ら豊臣系大名を味方につけていたが、それは「三成憎し」という感情や、その場の雰囲気からであって、もし大坂城にいる秀頼が毛利輝元に擁されて出陣してくれば、どう心変わりするか知れない。
会津の上杉の動きも心配だった。上杉と三成が連携し、上杉が佐竹とともに攻め込んできたら、前後からはさみ撃ちされる心配があった。
頼みの伊達政宗も、その家臣団は一枚岩ではなく、すべてが家康寄りではなかった。だから、家康は江戸を動けなかった。それで家康は全国の諸将に書状を書きまくった。何と160通にものぼる。そして、肝心の徳川本軍3万8千は、信州の真田昌幸の攻城に予想外に手間どり、関ヶ原合戦には間に合わなかった。ことは重大であった。
東軍は西軍の移動を察知することが出来ず、西軍を関ヶ原に着陣させるという失態を演じた。しかしながら、南宮山に陣取った毛利隊は戦う気がないのを東軍に見抜かれていた。長宗我部も同じで、合戦を放棄していた。
三成は松尾山城を重視し、西軍にとって錦の御旗となるべき城と考えていた。そこに三成は毛利輝元を入れるつもりだった。ところが、そこにもっとも警戒していた小早川秀秋が入りこみ、三成の計画は頓挫してしまった。
三成の作戦は決して場当たり的なものではなく、以前から用意周到に考えられ準備されたものだったのだ。三成、恐るべし、である。
小早川秀秋は周囲を東軍に固められていて、西軍に味方することなど不可能だった。要は、東軍につくタイミングだけの問題だった。
関ヶ原合戦について、新しい視野がぐんと広がる、そんな気にさせる面白い本です。
2007年7月11日
おいしいハンバーガーのこわい話
社会
著者:エリック・シュローサー、出版社:草思社
毎日、アメリカ人の14人に1人がマックを食べている。毎月、アメリカの子どもの 10人のうち9人がマックにやって来る。アメリカ人は年間130億個のハンバーガーを食べている。地球を32周できる量だ。1968年にマクドはアメリカにしかなく、1000店だった。今は、世界中に3万1000店ある。
1900年代のはじめのアメリカではハンバーガーは、貧しい人の食べもので、不潔な、安全ではないものと考えられていた。次のように言われていたのです。
ハンバーガーを食べるなんて、ごみ入れの肉を食べるようなものだ。
2007年の今、私は、今こそ、マックって、そんなものだと叫びたい気分です。
マクドナルド社は、新しい店の用地を選ぶとき、セスナ機に乗って学校を探し、その近くに店を出した。そのうちヘリコプターをつかい、校外の広がる方向を割り出し、道路沿いの安い土地を探した。今は、宇宙からの衛星写真をつかっている。
マックのマニュアルは1958年当時は75ページだった。今は、その10倍、重さが2キロもある。これは、一人ひとりの社員の能力をたたえることはせず、ひたすら取りかえのきく従業員を求めるということ。すぐに雇えて、すぐにクビにできて、すぐに取りかえられる人間をマックは求めている。一般にファーストフードの店員は3〜4ヶ月でやめるかクビになる。賃金がひどく低いからでもある。
内容がつまらなくて、賃金が低くて、手に職のつかない仕事を、マックジョブという。辞書には、マックジョブとは、賃金が低くて、出世の機会がほとんどない仕事だと書かれている。マックジョブとは、将来性のない仕事のことだ。
マックは労働組合がない。ただし、日本では2006年5月にマック労組ができた。ケンタッキーフライドチキンにも2006年6月に労組ができた。
マックのフライドポテトは店にとって割がいい。生のジャガイモの代わりに冷凍ポテトをつかったので、コストが下がった。ハンバーガーより、ずっと割がいい。
アメリカの冷凍フライドポテト市場の80%を巨大な三つの会社が支配している。仕入れた値段の20倍で売っている。しかし、生産農家はもうかっていない。
フライドポテトの味を左右する大きな要素は、揚げ油だ。大豆油7、牛脂93の比率で混ぜた油だフライドポテトを揚げる。
加工食品をピンクや赤・紫色に染めるためのカルミンは、ペルーなどでとれる小さな虫の死骸からつくられている。
アメリカの公立高校1万9000校、これは全国の高校の5つに1つにあたる、で特定ブランドのファーストフードが売られている。学校が金もうけの土俵となっている。売上げの一部を学校が受けとるのだ。
30年前、アメリカのティーンエージャーは清涼飲料の2倍ほど牛乳を飲んでいた。今では、牛乳の2倍の清涼飲料を飲んでいる。清涼飲料の缶1本に含まれる砂糖の量は茶さじ10杯分だ。
現在、アメリカでもっともたくさん牛肉を買っているのはマックだ。精肉業界の大手4社で、市場の84%を占めている。そのため、個人牧場主は生計を立てるのが難しくなった。
チキンマックナゲットは牛肉と同じ不健康な脂肪を多く含んでいた。牛脂で揚げていたからだ。
牛を処理するスピードは、1時間に400頭の牛を処理するというもの。ファーストフード・チェーンに供給するための精肉システムは、病気をまき散らすのにも有効なシステムだ。アメリカでひき肉にされる牛のうち4分の1は乳の出なくなった乳牛。その乳牛は病気にかかっていることが多い。マックはひき肉の多くを乳牛から得ている。割合に安くて、肉の脂肪が少ないからだ。
私の自慢は、20年以上もマックを口にしたことがないということです。コーラも飲みません。赤坂の交差点にあるマックに若い人たちが群がって買い求めているのを見るたびに、彼らの口とその精神の貧しさに哀れみを感じてしまいます。だって、マックって、いかにも人工的な美味しさでしょ。子ども時代、マックに口が慣らされてしまうと、素材の良さなんか分からなくなってしまいます。
2007年7月10日
岐路に立つ日本
社会
著者:後藤道夫、出版社:吉川弘文館
明仁(あきひと)天皇は、即位したあと靖国神社に一度も参拝していない。ええーっ、そうだったんですか。そう言われたら、聞いたことありませんよね。父親である昭和天皇が靖国神社に参拝したのは1975年(昭和50年)11月21日が最後で、そのあと1978年にA級戦犯が合祀されたからは一度も行っていない。
宮内庁は、議論の分かれているところには行かれないと説明する。なーるほど、ですね。
明仁天皇は1996年に栃木県の護国神社に参拝したことがあるが、そのときも、事前にA級戦犯が合祀されていないことを確認したうえのこと。
このように、A級戦犯の合祀は、天皇と靖国神社、護国神社との関係を切断する結果をもたらしている。
明仁天皇は戦後的価値観をそれなりに身につけている。たとえば、昭和天皇時代と異なり、天皇単独の行幸(ぎょうこう)が減り、天皇と皇后はそろって行幸啓(ぎょうこうけい)が増え、皇后の役割の増大が目立っている。記者会見を受けるときにも、天皇と皇后が並んで坐り、記者の質問も「両陛下にうかがいます」となっている。天皇と皇后はまったく平等に扱われている。
また、1999年11月の在位10年記念式典の際に民間代表として選ばれたのは、阪神・淡路大震災の被災者(女性)と、障害者スポーツの代表(女性)だった。
明仁天皇は、韓国のノテウ大統領が訪日したときの宮中晩餐会で次のように発言した。
「わが国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛恨の念を禁じ得ません」
この発言は、右派のナショナリストに大変なショックを与えた。このあと、彼らは天皇を政治の局外に置くべきだと主張しはじめ、天皇の天首化を主張することはしなくなった。
世論調査によると、若年層は皇室に親しみを感じず、無関心層が分厚く存在している。尊敬20%、好感41%、無感情36%となっている。
女性週刊誌がこのところ一部に雅子さんバッシングを相変わらず書いていますが、あまり皇室の提灯記事を見かけないのは、このことの反映でもあるのでしょうか。
小沢一郎はアメリカと日本財界の意向を受けて、日本の軍事大国化を目ざした。そのためには社会党をつぶすか変質させなければならない。そこで、小選挙区制を導入することにした。中選挙区制ならともかく、小選挙区制で社会党が生き残るには共産党でなく民主・公明党と組むしかない。そうなると、社会党は安保・外交政策を転換させる必要がある。小選挙区制が導入されたら、社会党は少数政党へ転落するか、変質するか、どちらかを選ばざるをえない。いずれに転んでも障害物としての社会党は消える。この小沢の狙いはあたった。
いま、その小沢一郎は民主党の代表です。自民党と民主党と名前の違いこそあれ、政策的にはまったく同じ。憲法改正をすすめる点も違いありません。いつだってアメリカ言いなりです。にもかかわらず。マスコミは相変わらず、あたかも違いがあるかのように二大政党制をもちあげるばかりです。いやになってしまいます。
日本人のなかにも多種・多様な考えがあることをふまえて、少数野党の言い分をきちんと報道するのは公器としてのマスコミの責任ではないでしょうか。
まやかしの二大政党論は、もううんざりです。
2007年7月 9日
犬も平気でうそをつく?
犬
著者:スタンレー・コレン、出版社:文春文庫
犬の鼻は、よく見ると、こまかい畝ができている。この模様と鼻孔の輪郭で構成される鼻紋は、人間の指紋のように個体によって違い、一つとして同じものはない。
犬は人間より積極的に臭いを集める。左右の鼻孔を別々に動かして、臭いがどの方向から来たかを探る。そして、一瞬、息をとめて臭いを嗅ぐ。犬の鼻がいつも冷たく濡れているのは、匂いの分子を集めやすくするため。鼻の中には、こまかい毛のようなものがあり、それが匂いの分子を鼻腔へと送りこむ。この毛状のものが溶けた匂いの分子を内側へ押していき、匂いを感じとる特別な細胞の近くに分子を集める。この仕組みを常に効果的にはたらかせるためには、大量の粘液が必要になる。
人間の嗅細胞は500万個しかないが、ジャーマン・シェパードは2億2,500万個ももっている。最高はブラッドハウンドで3億個。だから、1グラムの酪酸を10階建のビルの中で蒸発させても犬は嗅ぎ分けることができる。
これに反して、犬の視力は、最高で0.26しかない。犬は飼い主が動いているときは1.5キロ離れても見分けることができるが、動かないとわずか90メートルしか離れていなくても見分けられない。ただし、犬の視界は270度ある。
犬は人間ほど味にこだわらない。犬の味蕾(みらい)は、人間の5分の1しかない。犬は塩分をほしがらないし、敏感でもない。それは肉食だから。肉にはナトリウムが含まれている。犬は慣れ親しんだ味より、新しい味を好む。新しいもの好きだ。
犬のヒゲが切られると、犬は不安になり、ストレスを感じる。そして、自分の周囲を十分に感じとれなくなる。
犬は、人間と違って痛みを表現せず、じっとガマンする。群れの仲間から襲われないためだ。だから犬が痛みをあらわすのは、身を守るためのガマンを限界を超えたということ。
犬は抱かれることをいやがる。動きを制限され、拘束されたように感じるからだ。
犬が生まれて3週目から12週目までの期間内に人間にふれあうことが大切で、それによって子犬は人間との関係に自信をもつ、知らない人を怖がらなくなる。生まれて8週間きょうだいと一緒に育った子犬に比べて、すぐに引き離された子犬は、相手を強くかんでしまう傾向がある。
生後10週目までにまったく罰を受けずに育った子犬は、ほとんど訓練不可能な犬になる。犬に罰を正しく与えるのは、非常に難しい。不適切な懲罰は、犬に非常にマイナスの心理的影響を与え、飼い主と犬とのきずなを完全に壊してしまう。
10歳以上の犬の62%に認知症の症状があると推定されている。認知症でない健康な老犬でも、加齢によって頭の働きは鈍ってくる。
うちの犬は、自分を人間だと思っている。この考えは間違っている。犬は、私たち人間を犬だと思っている。二本足で歩く、妙な姿をした犬。犬的な行動に完全に反応できない、あまり頭の良くない犬。こう思っている。
犬は人間について、擬犬化をしている。だからこそ、犬は、ほかの犬にするように人間に向かって尾をふり、前脚をのばして遊びに誘うおじぎをし、人間の匂いをかいでいるのだ。
最後に、この本のタイトルにあるとおり、犬はほかの犬も人間に対してもうそをつくことができます。だますのもゲームのうちなんです。
古くからの人間の良き友、犬についてまたまた認識を深めることのできる本でした。
雨の少ない梅雨になりそうだというので、水不足の夏になるのかと心配していましたが、このところ大雨が降っています。蝉の鳴き声を7月2日に一度だけ聞きましたが、その後は、雨のため地上に出てこれないようです。実は鳴き声を聞く前、まだ雨の降らない6月末(6月30日だったと思います)に蝉の死骸が路上に落ちているのを早くも見つけ、えっ、今年は早いなあと思ったものでした。参院選も今週から始まります。世の中をいい方向に変えたいものですよね。
2007年7月 6日
公明党VS、創価学会
社会
著者:島田裕巳、出版社:朝日新書
公明党は2005年9月の衆院選挙で900万票近くとった。2000年6月には 776万票だったので、120万票も伸ばしている。しかし、創価学会の会員が100万人も増えたという事実はない。この120万票は、自民党との選挙協力によるものである。
創価学会の会員数は実数で256万人。有権者数でいうと220万人。学会員は選挙になると、F取りによって会員一人あたり外部から2.5票をとってくる。220万に2.5をかけると550万で、それに会員数の220万を足すと770万になる。これは、連立以前の参院選での公明党の得票数。
このようにして、創価学会は「てこの原理」をつかうことによって、実際の力以上の政治力を発揮している。
「F取り」とは、公明党の票をとってくること、「Kづくり」とは、活動していない創価学会員に働きかけて活動家にすること。
公明党の議員のなかに、いわゆる二世議員はほとんどいない。
公明党は、独自の経済政策というものを持っていない。公明党が独自の経済政策を提唱したことはなく、連立以降は、経済政策にかんして、自民党に任せきりになっている。公明党選出の大臣は、現在、経済政策を決定するうえで重要な役割を果たしている経済財政諮問会議のメンバーに入っていない。
創価学会の多様化がすすむことは、公明党を支持する会員が減っていくことを意味する。創価学会は現世利益の実現を説くことで巨大教団に発展したが、皮肉なことに、その目標を達成すると、公明党の支持者から外れていく可能性が出てくる。実際、学会員だからといって必ず公明党に投票するわけではない。
創価学会にはエリートに力をもたせない仕組みが備わっている。エリートが幅を利かすことは難しい仕組みだ。エリートにとって創価学会は居心地の悪い組織である。学会はエリート会員を組織に引きとどめることに躍起になっている。
学会員にとってもっとも重要なものは本尊でもなければ、教義でもなく、学会員同士の人間関係である。与党である公明党と創価学会の関係について、鋭い分析がなされている本だと思いました。
いま政権与党として我が世の春を謳歌しているように見える公明党もいろいろと大きな矛盾をかかえていることがよく分かる本です。
エリカ、奇跡のいのち
ヨーロッパ
著者:ルース・バンダー・ジー、出版社:講談社
柳田邦男氏が推薦していた絵本です。絵はとても写実的です。きれいに整いすぎている感じすらします。
1944年のことです。1933年から1945年までの12年間に、600万人ものユダヤ人がヒトラー・ナチスによって虐殺されました。600万人といっても、まったくピンときませんよね。でも、福岡県の全人口より多いし、東京都民の半分というと、少しは想像できるようになります。殺されていった一人一人に語られるべき人生があったのですよね。600万人という数字だけで片づけられてはたまりません。
そのとき、わたしは生まれてやっと2ヶ月か3ヶ月の赤ちゃんでした。父や母と一緒に、牛をはこぶ貨車に押しこめられ、立ったままぎゅうぎゅう詰めで動くこともできなかったでしょう。列車がある村をとおるとき、スピードを落としたので、母は「今だ」と思って、貨車の天井近くにある空気とりの窓から、外にわたしを放り投げてしまいました。
すぐ近くの踏み切りで、村の人が汽車の通り過ぎるのを待っていて、貨車から投げ出される赤ちゃんを見ていたのです。
母は、自分は死にむかいながら、わたしを生にむかって投げたのです。
村人がわたしをひろいあげて、女の人に預けました。ユダヤ人の赤ん坊を預かるなんて、生命にかかわることでしたが、家族の一人として大切に育ててくれました。
まさしく奇跡が起きたのですね。
先日、福岡の小さな映画館で「それでも生きる子どもたちへ」という映画を見ました。少年兵として殺し、殺されの毎日を生きているアフリカの男の子、両親からエイズをうつされ、学校でいじめにあうアメリカの女の子、空き缶ひろいなどをしてたくましく生きているブラジルの兄と妹・・・。
中国の大都会で捨て子として育った女の子は、金持ちの子が両親の不和から大切にしていたお人形さんを投げ捨てたのを拾ってもらって、大切に世話しています。でも、頼りにしていたおじいさんが交通事故で死んでしまうのです。
たくましく生きていくこどもたちの姿に、何度も目がウルウルになってしまいました。
春の日の別れ
社会
著者:長瀬佳代子、出版社:手帖舎
著者は岡山に住む元ソーシャルワーカーです。私が30年前まで関東にいたときに知りあいました。もう永くお会いしていませんが、古希を迎えられたそうです。その記念に作品集を一冊の本にまとめられました。自分で装丁を考えられたそうですが、とても上品な味わいある本です。
岡山文学選奨賞に入選した「母の遺言」など、12篇の随筆を思わせるような淡々とした展開を示す作品が掲載されています。
長く地方自治体の職員として働いてこられただけに、その職場での体験を生かした情景の描きかたが迫真的でみごとです。人情の機微をよくとらえていると感心しました。
----- ぼくには福祉の仕事が向いていないんです。
----- みんな、そう言うな。本当は嫌なんだよ。考えてみりゃ、福祉って他のことが面倒な比べて仕事に比べて面倒なことが多いからな。それに最近は厚生省の指導が厳しいし、仕事がやりにくくなって嫌気がさすのも無理はないが・・・。
------- 長く続けてするのは大変ですが、でも、勉強にはなりました。
------- そうさ、社会の縮図を実際に見られるのだからな。役所の仕事をしていくうえでは、絶対、福祉現場を体験しなくちゃいけないんだ。ところが、だいたい三年でさよならしてしまう。福祉に生き甲斐をもって仕事しようという人間なんかほとんどいない。役所の仕事に上下なんかないのに、福祉というと低くみるんだ。おかしいと思わんか。
------- 分かりません。
------- お前なんか、まだ先のことと思っているかもしれんが、おれたちの年齢の者が考えてるのはポストのことばかり。今度は誰があのポストにいくか、自分は出世コースに乗ったか、はずれたか。そんな話を、飲みながら探りあうんだ。
ホントに今夜もこんな会話が、全国にある市役所近くの一杯飲み屋で、かわされているのでしょうね。著者の今後ますますの健筆を祈念します。
2007年7月 5日
捜査指揮
著者:岡田 薫、出版社:東京法令
私と同世代の元警察キャリアの人が刑事警察官の身につけるべきポイントを本にしたものです。私の知らなかった言葉をいくつか知りました。
賞詞・・・警察職員として多大な功労があると認められる者に対する表彰。ランクが高く、特別昇給を伴うことも多い。
賞誉・・・表彰の一種で、賞詞よりランクが下がる。
手口原紙・・・犯罪手口の分析が犯人割り出しに有効と考えられる罪種=手口犯罪(強盗、窃盗、詐欺、性的犯罪、殺人等)の被疑者を検挙したときに、作成する被疑者の手口に関する情報を記載した原紙。今はコンピューター化されているので、手口記録と呼ぶ。
可惜身命・・・あたらしんみょう。誘拐事件捜査などでは被害者の命の安全が最大の目的である。一番に被害者を無事に救出しなければならない。そのうえで犯人を逮捕する。
牛の爪・・・元から割れている事件のこと。
組織では、上司よりも部下のほうが、その担当分野の専門家であり、精通しているということはよくある。そういう時期をどう乗り越えるかが勝負の分かれ目である。そのときには、その人より多く働くことしかない。その人たちに、あの警部は、ど素人だけども、少なくともオレよりは仕事をしている。オレよりは努力をしていると思わせるようにしなければ誰がついてくるだろうか。
なーるほど、たしかに、そのとおりでしょうね。努力して乗りこえるしかありませんよね。
著者は打つ手に困ったときにどうするか、次のことを提起しています。
情報を見直す。何回も何回も見直すと、何かのヒントが出てくる。
常識的になっていることを疑う。ただし、捜査資料をよく読みこまないと疑いというのはなかなか出てこない。
多角的な目で捜査資料を見る。捜査資料を別の発想で見ていくことが大切である。
ポイント(流れ)をつかむ。
実は、この本を読んで、一番、私の心に響いたのは次の指摘でした。
決断の本質というのは捨てることにある。捨てられない人は決断できない。
うーむ、なかなか含蓄のある言葉ですよね、これって・・・。
決断力があるといって、何でも捨ててしまう人は困る。あまりにも思い切りがよすぎてもいけない。最高幹部にとって、もっとも重要な資質は簡単に決断しないことだ。
さらに、常識的な知識・経験があったうえで、固定観念にとらわれないことが大切だ。
さすがに、25万人もいる警察という巨大な官僚組織のトップに立った人の言葉には深みがあり、感心しました。
2007年7月 4日
雇用融解
社会
著者:風間直樹、出版社:東洋経済新報社
液晶テレビ「アクオス」をつくるシャープ亀山工場では、総就労者2800人のうち、少なくとも200人の日系ブラジル人が請負労働者として働いていた。ところが、彼ら日系ブラジル人の社会保険未加入が発覚したため、今では、外国人労働者はゼロになったという。しかし、これはシャープ工場内だけのこと。隣接する関連・下請企業には相変わらずブラジル人などが働いている。その一つ、日東電工には1700人の就労者のうち 1000人が請負労働者であり、そのうち800人が日系ブラジル人である。ほかにフィリピン人労働者も別の工場で働いている。
亀山市はシャープを工場誘致するため、前代未聞の45億円もの巨額の補助金を交付した。別に三重県も90億円の補助金を拠出している。この補助金は固定資産税の9割相当を15年間にわたって交付するというもの。交付限度額が45億円ということである。
では、シャープは地元に雇用効果をもたらしたか。
2006年6月、シャープの正社員は2200人。非正規雇用は1800人。その内訳は請負労働者1100人、派遣労働者700人。正社員は、よそから来た社内異動組であり、三重県内出身者で新規に正社員として雇用されたのは、のべ130人のみ。亀山市に増えたのは、他県や南米出身者で、この地に定住することのない請負労働者だった。
これでは地元に批判が高まっているというのも当然ですよね。地元住民の福祉の向上にこそ地方自治体のお金はつかわれるべきですからね。
請負労働者は1日12時間拘束勤務。それで年収は300万円。正社員の半分以下でしかない。さらに問題は、何年はたらいても、正社員ではないので昇給することなく、この低賃金にずっと固定されるということ。これで果たして結婚し、子育てすることが可能だろうか。
業務請負業として有名なクリスタルはグループ全体の従業員が7〜8万人いる。創業したのが1974年で、2002年度の売上高は3590億円。
『週刊東洋経済』はクリスタルについて報道したところ、クリスタルから名誉毀損として訴えられました。請求額は10億円あまり。2006年4月25日、東京地裁は一部の記事取消と300万円の賠償を認める判決を下しました。ところが、控訴審で、和解が成立し、クリスタルは訴訟を取り下げて終結しました。自信がなかったのでしょうね。
業務請負会社の活用にもっとも積極的なのがソニーだ。正社員と請負社員とが同数いて、全工場で同じく製品を正社員ラインと請負社員ラインの両方でつくらせて、生産性を競わせている。
ええーっ、これって、なんだか露骨すぎる労務管理ですよね。そのあまりに前近代的なセンスを疑ってしまいます。
厚労省の労働政策審議会の労働条件分科会委員であるザ・アールの奥谷礼子社長は次のように言い切りました。
はっきり言って労働省も労働基準監督署もいらない。ILOというのは後進国が入っているところ。ドイツもアメリカも先進国はほとんど脱退している。下流社会だと何だの、これは言葉の遊びでしかない。社会が甘やかしている。結果平等というのは社会主義のこと。社会主義に戻すなんて、まったくナンセンス。何のために規制改革をやり、構造改革をやろうとしたのか。昔と違って、今の時代は労使は対等だ。むしろ、労働者のほうが対等以上になっている。経営者は、誰も過労死するまで働けなんて言ってない。過労死をふくめて、労働者の自己管理の問題だ。
ええーっ、いくらホンネの放談とはいえ、信じられないほどのひどさです。経営者の優越感に酔って、過信しているとしか思えません。こんな頭の人が労働条件を考える審議会のメンバーだというのですから、労働条件はひどくなるのも当然です。
いま日本経団連会長を出しているキャノンも請負・派遣労働者に大きく頼っています。
日本の労働現場の問題を鋭く告発する本です。