弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年6月15日

南方熊楠

日本史(明治)

著者:飯倉照平、出版社:ミネルヴァ書房
 明治時代の巨人として有名な南方熊楠の伝記です。私はミナカタという読み方をずっと知りませんでした。ナンポウとかミナミカタと読んでいました。この本によると、ミナカタということですが、南方をナンポウと読ませる人もいるそうです。
 信濃守護についていた小笠原家に北方、南方、東方、西方という四家老がいて、その庶出の孫などが各地に分かれて南方を名乗ったということです。明治維新の前はみな小百姓だったが、のちに商家となったものもあり、その一人が父親の婿入りした南方家を起こした。もともと、あまり格の高い家ではない。このように紹介されています。
 熊楠の和歌山中学での成績は、とくに目立つような優等生ではなかったそうです。偉人にも昔から、そういう人っているんですよね。
 熊楠は博覧強記で有名ですが、そのもととなったのが、小学生のころから『和漢三才図会』でした。中学生のとき、原本105巻を借り受けて、最後まで全巻を書き写したというのです。15歳夏に写し終えました。これはすごいことです。さらに、中国の『本草網目』そして、『大和本草』まで書き写したのです。並の人間にはとても出来ません。
 熊楠は和歌山中学を卒業すると、上京して東京大学予備門に入学した。第一高等学校の前身です。明治19年(1886年)から熊楠はアメリカに留学します。
 さらに、イギリスに渡り、1898年12月までの3年半は、大英博物館に通い、さまざまな書籍を書き写しました。大英博物館は、一切が無料公開され、亡命者のたまり場となっていました。不遇な立場にある者や貧しい勉学者にも居心地が良かったようです。
 イギリスで熊楠は中国の孫文とも親しい交流がありました。夏目漱石は熊楠と入れ替わるようにロンドンに留学しています。漱石は国費留学生として月150円が支給されていました。熊楠は、日本の弟からの送金が月80円でしたから、生活は大変だったようです。
 熊楠は1900年(明治33年)10月に14年ぶりに日本に帰国しました。
 熊楠は1911年から1914年まで、大蔵経を抜書する作業に没頭しました。
 4000頁をこえる膨大な量の抜書があるそうです。これだけの努力をするのですから、博識になるのも当然ですよね。
 それにしても私が驚いたのは、大蔵経のなかに、おびただしい数の男女の愛欲や逸脱した性の態様、とくに禁じられた事例としての自慰、不倫、同性愛、近親相姦、獣姦などがあったということです。ええーっ、まさかー・・・とつい唸ってしまいました。経典というから、高邁な理論が述べられているだけと思っていましたが、そうではないのですね。
 熊楠の一世一代の晴れの舞台は、1929年6月に昭和天皇に対して進講したことです。粘菌について話したようです。
 熊楠を知ることのできる伝記でした。

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