弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年4月13日

遙かなる江戸への旅

江戸時代

著者:永井哲雄、出版社:みやざき文庫
 江戸時代、参勤交代は250年ものあいだ厳しく守られてきた。日向国にある四つの藩から江戸まで350里(1400キロ)を、毎年、200人以上の集団で、片道1ヶ月以上もかかる陸と海の旅を休むことなく往来した。
 この本は、その実情を当時の記録をもとに探っています。 寛永12年の武家諸法度以後、参勤交代は江戸到着日が決まっていたので、出立日は、それから逆算してきめられていた。飫肥藩は3月1日、佐土原藩も同じ。日向路は陸路、細島から船で大坂まで行き、大坂から大坂から東海道を陸路で江戸へ向かう。江戸に着くと、1年の在府。
 翌年の4月から5月に帰国の旅につく。真夏に辛い旅をする。国元には約10ヶ月しかおれない。
 役にある限り、生涯歩き続けるのが江戸時代の大名領下の役人である。幕末の飫肥藩の上士川崎一学は、55年間になんと14度の江戸御供をしている。人生の半分を旅に過ごしたことになる。
 参勤交代を守らないときには、大名改易の理由となった。
 大名が参勤交代の往返に耐えることができなくなったら、家督を譲る理由となる。
 大名の妻のうち、正室は幕府に認められた婚姻を結んだもの。夫がまだ家督をついでいないときには御新造様、当主になると御奥様、当主が隠居すると大御奥様、夫が死去すると院と呼ばれる。側室については、さまざまに呼ばれる。御部屋様、御召仕、奥御女中、御妾、奥御奉公人。
 正室と嫡男の江戸と国許の往来は厳しく禁ぜられているが、側室の方は往来自由となっていた。江戸藩邸は、上屋敷であれ、中屋敷、下屋敷であれ、藩主の私有物ではない。幕府からの貸与物である。いつ屋敷交替を命ぜられるも分からない。
 高鍋藩の場合、江戸藩邸詰の人数は、徒士(かち)以上は家老・用人・留守居各1人、者頭6人、給人・家嫡25人、中小姓24人、徒士52人、医師など3人、合計113人。このほかに足軽から小人(こもの)まで同数がいた。そのとき、国許には、徒士以上は  220人いた。
 つまり、藩主が江戸にいるときには、上、中家士のうち3分の1が江戸に詰め、残り3分の2が国許で城を守り、治世にあたっていた。
 高鍋藩の参勤交代の絵がある。1月前に先触れが通過する諸大名や幕府御料所に挨拶のため先行する。前日には、宿割りの一行が先行して、休憩・宿泊の準備をする。絵図に百数十人が描かれているが、実際には、これよりかなり多くなる。これが公高3万石前後の大名の供揃えである。大変な旅行だったんですね。

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