弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2007年4月27日
空飛ぶタイヤ
社会
著者:池井戸 潤、出版社:実業之日本社
欠陥車のリコール隠しの罪と罰をテーマとした面白い小説でした。なかなか読ませます。たいしたものです。私も、いつかはこんな小説を書いてみたいと思ったものでした。次はどうなるのだろうと、ぐいぐい魅きつけられてしまうのです。見習いたい筆力です。
小さな運送会社を経営している。ある日、従業員がトラックを運転していてブレーキを踏んだ拍子にタイヤが飛ぶんです。歩道を歩いていた人にぶつかって即死させてしまった。なんということ・・・。
トラックの整備不良が、まず疑われた。しかし、整備不良でないことに運送会社の社長は確信をもった。では、何が原因か?トラック自体の欠陥ではないのか。でも、どうやってそれを立証できるのか。
2004年6月、公益通報者保護法が成立し、内部告発した社員は保護されることになった。しかし、現実は、そう甘いものではない。次のようなセリフが登場します。
内部告発したから解雇できたのは既に過去の話だ。解雇するのなら別な理由がいる。だから、本人にしてみれば許容できそうもないところへ異動させるんだ。必ず戦意喪失して退職を決意するような仕事に移すんだ。ただし、駐車場の整理係や受付などというあからさまなものはダメ。降格も許されない。もっとさりげないところへ、だ。
退職の理由は、あくまで自己都合でなければいけない。
なーるほど、ですね。この本でも、会社の「欠陥」隠しは徹底していて、警察も容易に、その尻尾をつかむことができませんでした。でも、そのとき勇気ある内部告発社員が登場してきたのです。逆にいうと、そんな勇気ある社員が一人でもいなかったら、真相は闇の中に隠されたまま、被害者となった人々も、ユーザーもみんな泣き寝入りせざるをえなかったというわけです。背筋がゾクゾクしてきますよね。いやな世の中です。まだまだ会社第一と考える会社人間が圧倒的なんでしょうね。
子犬のカイがやって来て
犬
著者:清野恵理子、出版社:幻冬舎
犬好きの人にはこたえられない本です。スソアキコの絵もまたいいんですよ。ワンちゃんが実に愛らしく生き生きしています。まさに、犬に笑い、犬に泣く本なのです。
イギリスからラブラドールの子犬が届きます。ひょろっとしていて、お世辞にも可愛いと言えない妙なおっさん顔。目は小さい。たちまち寝息をたてる天使のようなカイ。
ところが、初対面のカイが殊勝におとなしくしていたのは、長時間の空旅による疲労のせい。ぐっすり眠って、お腹いっぱい食べて元気を取り戻したカイのパワーは、予想をはるかに上まわった。
まあ、その腕白ぶりをこれでもか、これでもかと紹介していくことになるわけですが、それがまた犬好きにはたまらないんですよね。たとえば。防犯システムの特別なリモコンを見つけてガシガシかじったばかりに、パトカー6台が出動する騒動を起こしてしまう。
やんちゃ盛りの犬たちが日々繰り広げる悪戯に、ついついご近所に聞こえそうな大きな声も出す。そのたびにカイたちは、「大変なことをしてしまって、本当に申し訳ない」とばかりに、がっくりと首をうなだれ、殊勝な様子で尻尾を落とす。それでも、声を張り上げる飼い主の興奮がおさまるのを、しばらく我慢して待ちさえすれば、何事もなかったように甘えられることをちゃんと知っている。上目づかいで見つめられれば、それまですごい剣幕で叱っていた飼い主も、ついほっぺたが緩む。そうなると、カイたちの思うつぼ。あっという間に、ターボエンジン全開の腕白小僧に逆戻りしてしまう。
犬も人間の幼児のように、特定の縫いぐるみを気にいることがあるというのに驚きました。熊の縫いぐるみに執心したワンちゃんがいたのです。
著者は八ヶ岳のふもとに別荘をもち、冬と夏などを犬と一緒に過ごす。犬たちは生まれつき人間を友だちと思っているふしがあり、ためらうことなく体当たりで甘えてくる。
犬種による性格の違いはたしかにある。柴犬やハスキーはシャイで、少しだけ距離をとってこちらを観察している。時折、気が向けば遠慮がちにやって来て、人間に背中を向けてお座りし、なでてと健気な様子で催促する。眠るのは、リビングのソファーや部屋の隅においた座布団の上で、あくまでも慎ましさを忘れない。
しかし、「待て」をさせられていたレトリバー犬たちは、「よし」の号令で、ベッドに飛び乗ってくる。暗黙のポジション決めがなされているらしく、それぞれの定位置に落ち着くと、安心したように寝息をたてて眠る。掛け布団の上だから、40キロの体重の犬たちに囲まれて眠ると、からだ中に布を巻かれたミイラの状態で、寝苦しいことこの上ない。
犬たちは言葉こそ話はしないが、目や尻尾、からだ全部をつかって饒舌に思いのたけを私たち人間に伝えようとする。なかでも目がすごい。私たちを信じきった無垢なまなざしに勝てる術はなく、いつだって勝利をおさめるのは、彼ら犬たちである。
うーん、そうなんですよね。福岡の斉藤副会長も3歳のラブラドールを飼っていて、毎朝、早朝から海岸を散歩させているそうです。いいですよね。うらやましいです。
似せてだます擬態の不思議な世界
著者:藤原晴彦、出版社:化学同人
捕食されるための擬態が存在する。ええーっ、何のこと・・・?擬態って、捕食されないか、逆に捕食するためのものでは。ところが、もう一つ、別の擬態があったんです。取りの消化管に寄生する吸虫です。
鳥が排泄すると、その卵は外に出る。岸辺に住む巻き貝がその卵を摂取する。巻き貝の中で吸虫の卵はかえり、巻貝の中で発生し、最終的には巻貝の触覚の中に入りこむ。そして巻貝の触角の中で吸虫は周期的に動きまわり、巻貝の触角はまるで昆虫の幼虫のように脈動する。鳥たちは、それを見て、思わず巻貝の触角を、昆虫の幼虫と思って食べたいという欲求にかられる。吸虫は、鳥に自分を食べさせるために昆虫の幼虫に擬態して鳥をおびき寄せているのだ。鳥に首尾よく食べられた吸虫は、再び鳥の消化管に寄生する。
この本のユニークなところは、この擬態について、そのメカニズムを分子生物学からアプローチしたところです。擬態を制御している遺伝子の究明をすすめているのです。
ハナカマキリが、なぜあれほど精巧にランの花に似せられるのか?
無毒のチョウがまったく異なる種の有毒のチョウに、なぜ似せることができるのか?
これを分子生物学レベルで追究しようとするのです。でも、今のところ、何の手がかりもありません。それにしても、ホントに不思議ですよね。
広葉樹の葉に似せたコノハムシの写真などを見ているうちに、自然の偉大な神秘の前には人間社会の小さな秘密なんて、まさしくどうでもよくなります。
「それで、どうして、ここまで似せることができるのでしょう?」
「ええ、それはやはり大自然の神秘としか言いようがありません」
特定の標的遺伝子の変異というよりは、遺伝子ネットワークの組合せの変化が適応進化の本質ではないか。擬態のメカニズムを解明しようとすると、まさに自然の不思議の迷路のなかにさまようことになります。でも、そんな迷路でまようのも楽しいひとときです。
実に不思議な世界がたっぷりあることが分かります。
日本人になった祖先たち
著者:篠田謙一、出版社:NHKブックス
世界でも珍しいほど日本は下戸が多い。えーっ、そうなんですかー・・・。ちっとも知りませんでした。たしかに、飲めない人は私の周囲にもたくさんいますが、それが世界でも珍しいことと言われると、なんだかピンときません。
DNA分析と化石の研究から、現代人は20万年から10万年前のアフリカに誕生したと考えられている。人類はアフリカで誕生したんです。ですから、もっとアフリカに注目しましょう。人類、みな兄弟、というのは単なるスローガンではなく、本当のことだったのです。
現在60億人という巨大な人口をもつ現代人も、もとはごく少数の集団から出発した。それは恐らく子どもや老人をふくめ2万人ほどの集団だった。
最新のDNA研究によると、最初にアフリカを旅立った人数は150人ほどだった。ええーっ、そんなに少ないグループが世界各地へ展開していったんですかー・・・。
10万年前にアフリカを出て、中近東に6万年前にたどりつき、インドネシアあたりに5万年前、日本列島には4万〜3万年前に来たというのです。アメリカ半島へは、ベーリング海をわたり、アラスカから入りますので、ようやく1万5000年前に入ったのです。ここでもアメリカは新参者です。
ハワイは、人類が世界へ拡散して最後にたどり付いた地域。ハワイには世界中から人が集まり、現在のハワイには、実に多様な集団に由来する人々が生活している。ひぇーっ、そうなんですかー・・・。
日本人の骨格は歴史上、2回、大きく変化する。1回目は縄文から弥生時代にかけて、2回目は江戸から明治にかけて。いずれも日本人の生活様式が大きく変わった時期。一回目は狩猟採集社会から農耕社会への移行、2回目は西洋文明が受容された。
日本人は、旧石器時代人につながる東南アジア系の縄文人が居住していた日本列島に、東北アジア系の弥生人が流入して徐々に混血して現在にいたっているというのが主流の学説。
日本人の先祖集団の成立に際しては、大陸の広い地域の人々が関与したために、日本人のもつDNAは東アジアの広い地域の人々に共有されている。
なーるほど、日本人はやっぱり東アジアのなかの一員なんですね。やっぱり東アジアの平和共存が大切なわけです。お先祖様が同じだというんですからね。
2007年4月26日
人が人を裁くとき
アメリカ
著者:ニルス・クリスティ、出版社:有信堂
裁判員のための修復的司法入門というサブ・タイトルがついています。ノルウェーの学者による本です。ノルウェー事情も少し知ることができました。
日本とノルウェーは似ている。日本の人口10万人あたりの囚人は60人。ノルウェーは69人。いずれも極めて低い。ヨーロッパは通常、人口10万人あたり100人前後で、ロシアで569人という多さ。アメリカは、それよりもっと多くて、なんと763人。アメリカの刑務所人口を増やし続ける犯罪政策は、ナチスのホロコーストに類似していると厳しく批判しています。
ノルウェーでは、民事事件は、市町村における調停を経なければ裁判所に訴えることができないという調停前置主義がとられている。これは江戸時代の日本と同じですね。
ノルウェーでは、市町村ごとに刑事調停委員会がつくられており、主として少年犯罪を対象とし、一般市民から選ばれた調停員が斡旋することにより、加害者と被害者とが面談し、双方の合意が成立すれば起訴しないという刑事調停委員会が機能している。
アメリカでは囚人は210万人いる。このほか、保護観察や仮釈放など監視下にある人々が470万人いる。それを加えると680万人となり、これは10万人のうち2267人にもなる。これは人口の2.4%を占める。青壮年の男性(18〜44歳)に限って比率をみると、なんとその12人に1人が刑罰法令の監視下で生活している。
ロシアは囚人が減っている。2003年1月の囚人は86万人であった。
なぜ、アメリカでこのように爆発的に囚人が増えているのか。その原因の一つに、アメリカ中産階級の功利主義的な世論がある。
アメリカが犯罪が増加しはじめたのは1975年ころから。
アメリカでは、ここ15年間ほど、毎年1000人規模の刑務所が1000ヶ所ほど増設されている。それにともない、刑務所関連の建設・給食・警備などの刑務所依存産業が急成長し、それが囚人数増加への加力団体となっている。
刑務所が民営化すると、刑務所の公共的機能よりも、事業収入が刑務所産業に対する事業評価の基準となる。できるだけ少ない人員、経費、設備で、できるだけ多くの囚人を収容し、それを効率的に管理することが刑務所産業の目標となる。囚人数の減少は経営を悪化させる。犯罪があるから刑務所があるのではなく、刑務所があるから囚人が増加する。判断基準となるのは、犯罪人を放任した場合の犯罪取締の費用と、それを刑務所に収容した場合の費用との比較なのである。犯罪は、もはや矯正の対象ではなく、戦いの対象となり、隔離すること自体が目標となっている。
犯罪処罰手続は効率化され、刑罰量定表がつくられている。そこでは刑罰を緩和する事情は一切考慮されず、逆に犯罪状況はすべて刑罰を加重する事情として考慮される。
アメリカには選挙権をなくした成人が390万人いて、そのうち140万人は黒人である。これは黒人男性の13%にあたる。彼ら貧困層は選挙権を行使できないため、政治に対する影響も行使することができない。
アメリカでもイギリスでも、自らを、あるいは自分の党を、犯罪と戦うリーダーであると誇示するための激しい競争がある。通常、政治家や政党は、お互いにより厳しい手段を主張しあうのが政策になっている。ほかに残っている見せ場がほとんどないからである。犯罪との戦いが政治家の正当性を主張するのに不可欠となっている。
アメリカは世界でもっとも富める国である。にもかかわらず、福祉の代わりに刑務所を用いる国である。たえず自由について語る国でありながら、世界最大の刑務所を有している国である。
アメリカみたいな国に日本をしてはいけないとつくづく思います。悪いことをした連中はどんどん刑務所に入れてしまえばいいんだ。こういう考えを持つ国民は多いと思いますが、それはすごく危険です。だって、みんないずれ出てくるんですよ。お隣さんが社会への復讐心に燃えていたらどうしますか。やっぱり、いろんな人がいるわけなんですから、それなりに折りあいをつけて生きていくしかありません。
わが家の庭のチューリップは終わりかけ、今はアイリスがたくさん咲いています。青紫と白がほどよく調和した心優しいアイリスのほか、元気溌剌な真っ黄色のアイリスも咲き出しました。ジャーマンアイリスもようやく咲きはじめました。青紫の気品のある花です。アイリスより一段と豪華な雰囲気です。福岡県弁護士会館の通用口のそばに咲いているのは、わが家の庭から持ってきたものです。今が見頃ですから、ぜひ見てやってくださいね。朝、自宅を出るときにはフェンスに咲くクレマチスに向かって、行ってきますと挨拶しています。赤紫色の花です。春はいろとりどりの花が咲いて、いい気分です。
2007年4月25日
チャップリン、未公開NGフィルムの全貌
世界(ヨーロッパ)
著者:大野裕之、出版社:NHK出版
大変な労作です。なにしろチャップリンの映画でNGになったフィルムを全部をみた人は世界に3人しかいないというのに、33歳の日本人がその一人だというのです。たいしたものです。この若さで日本チャップリン協会の会長だというのも当然の偉業です。2年間にわたってロンドンでNGフィルムを見たというのです。
チャップリンは台本なしに映画をとっていたといいます。台本を書くようになっても、現場でのひらめきや即興演技を何度もやり直すことによって作品を完成させていった。一人で監督・脚本・主演を兼ねていたチャップリンは、自らの演技をフィルムに収めて吟味し、何度も撮影をやり直した。
チャップリンは、あくまでギャグの論理性、必然性にこだわった。だから脈絡のないシーンは大胆にカットされていった。膨大なNGフィルムが残されていたわけです。
チャップリンはNGフィルムを焼却処分するように命じていた。しかし、スタッフがチャップリンの命令に反してスタジオに保管していた。良かったですね。今となっては大変貴重なフィルムですよ。
チャップリンは両親ともミュージック・ホールの歌手だった家庭に生まれた。だから、5歳のときに初舞台をふんでいる。その後、ずっと舞台芸人としてのキャリアを積んでいる。チャップリンの生まれたのは貧しい労働者街。そこでチャップリンは極貧の幼少時代を送った。弱者の味方チャーリーの原点は、この幼少期の体験にある。
労働者向けの娯楽として、ミュージック・ホールは、豪華絢爛な建築物だった。そこでは大英帝国の一員であることを自覚させられるような催し物が演じられていた。
なーるほど、そういうことだったんですか・・・。まるで、今の日本のテレビ番組ですよね。馬鹿馬鹿しいお笑い番組を見ているうちに、知らず知らずのうちに自民党政権の体質に同化させられ、反抗の牙が抜かれていくようなものですね。
チャップリンは、ちょっとしたレストランで演奏できるほどうまく楽器を弾けた。ピアノ、ヴァイオリン、アコーディオン、そしてチェロなど。
チャップリンの運転手に日本人がいて(高野虎市)、その誠実さからチャップリンは部下としてではなく、友だちとみていたといいます。すごいですね。
チャップリンはテニスを好んでいて、そのテニスコートはハリウッドの社交場だった。
チャップリンの最高傑作「街の灯」は600日間、4571テイクにわたって撮り直しが続けられた壮絶な撮影の成果なのだ。
うーん、さすがです。すごいですね。たしかに「街の灯」は空前絶後の最高傑作だと私も思います。
第二次大戦で戦勝国となったアメリカで、チャップリンの平和思想が問題とされ、反共主義のマッカーシー旋風が吹き荒れるなか、チャップリンは共産党シンパとして危険視された。
チャップリンを共産党だというなら、共産党のほうが断然正しいし、優れていることになりますよね。みなさん、そう思いませんか。少なくとも私は、そう思います。
素顔のチャップリンは、なかなかの美男子です。女性にもてたのも当然です。
それにしてもチャップリンの映画って、何度みても素晴らしいですよね。古臭さが全然ありません。いつ見ても新鮮で飽きがきません。至高の芸術作品を見せていただいているという気がします。
チャップリンは、あくまで万人が心から共感できる笑いを得るために苦闘を続けた。
そうなんです。あの天才チャップリンも、スランプに陥って兄にSOSを発したりしているのです。天才にも凡才のようなところもあったというわけです。でも、そんなことがあったことを知れば、ますますチャップリンに対する敬愛の念が湧いてきます。
2007年4月24日
我、自衛隊を愛す。故に、憲法9条を守る
社会
著者:防衛省元幹部3人、出版社:かもがわ出版
防衛庁は、いつのまにか防衛省に昇格してしまいました。教育訓練局長・小池清彦、官房長・竹岡勝美、政務次官・箕輪登の3氏が憲法9条の大切さを説いた貴重な本です。多くの日本の国民に読まれるべき本だと思います。150頁ほどの薄くて軽い本です(定価1400円)が、内容はぐっと厚味のある重たい本です。
憲法9条改正のねらいには、自衛隊の海外派兵を恒常化することにではなく、海外派兵の体制づくりにある。このことをぜひ知ってほしい。本の前書きで強調されています。まったく同感です。
もし平和憲法がなかったら、日本は朝鮮戦争(1950〜1953年)にも、ベトナム戦争(1965〜1975年)にも、湾岸戦争(1991年)にも、世界のほとんどの戦争に参加させられていて、今ごろは徴兵制がしかれ、日本人は海外で血を流し続けていたはずだ。平和憲法のおかげで、日本人は海外で血を流さずにすんでいると実感している。
日本の自衛隊がいまイラクへ行っているが、これは国際貢献ではなく、対米貢献である。対米貢献を国際貢献と言っているだけ。そんな対米貢献で、日本人の命を落としてはならない。
自衛隊がイラクでやっている兵站(へいたん)補給の支援というのは、戦闘行為のなかで一番大切な部分だ。
硫黄島に送られた2万人の日本軍将兵のうち半ばの1万人が死傷したとき、なぜ大本営は名誉の降伏を許さなかったのか。もし許されていたら、残る1万人は、戦後の日本で愛する家族ともども平和な人生を享受できたはずだ。
日本の有事とは、在日米軍を含むアメリカ軍と日本周辺国家との戦争に巻きこまれる波及有事のみ。万一にもアメリカ軍が一方的に北朝鮮を崩壊させようとしたとき、北朝鮮の200基のノドン・ミサイルが日本海沿岸に濫立する十数基の原子力発電所を爆破するかもしれない。たしかにその危険はあります。でも、そうならないようにするのが政治ですよね。
イラクに派遣された自衛隊は、武力行使が禁じられていることを理解され、オランダ軍やイギリス軍が心温かく守ってくれた。ところが、憲法9条が改正されると、自衛隊全体が軍隊そのものに変質する。
後藤田正晴氏は、「アリの一穴」を恐れ、猪木正道・元防衛大学校長も「私は護憲論者である。なぜかというと、これをいじりだしたら、とてつもなく右傾化してしまう。日本の軍国主義的性質は本当に恐い」と警告している。
戦後60年、日本が一人の外国人兵も殺さず、一人の自衛隊も殺されなかったという、世界に誇る名誉の看板は取りはずすべきではない。
いやあ、やっぱり憲法9条2項は絶対に守るべきです。
福岡ではイラクへ自衛隊派遣の差し止め裁判が起きていませんが、これは残念なことです。自覚したそれぞれの人々が、各々のやりやすいところで、憲法9条(とりわけ2項)を残したいと連携しあっています。あなたもぜひ、その輪に加わってください。
2007年4月23日
お父さんはやってない
司法
著者:矢田部孝司、出版社:太田出版
映画「それでもボクはやってない」のいわば原作ともいうべき本です。あの映画は弁護士の私からしてもとてもリアリティーがありましたが、興行的には「Shall we・ダンス」のようにはいかず、パッとしなかったようですね。残念です。
今の裁判の実情がよく理解できる、しかも身につまされながら楽しめる面白い映画ですので、一人でも多くの人にみてほしいと思います。幸い福岡では再上映がはじまっています。ぜひぜひ、お見逃しなく。
実際の事件のほうは映画と違って、妻と子ども2人をかかえるサラリーマンです。フリーターではありません。ですから、ますます深刻です。あやうく一家無理心中になってしまいそうなほどの極限状態に追いこまれてしまうのです。弁護士としても、理解できる状況です。やってもいない痴漢事件で刑務所行きだなんて、世の中信じられませんよね。
デザイナーが本業だというだけあって、留置場の房内の生活や電車内の再現図などはよく出来ています。さすがはプロの絵です。
まず初めにやって来た当番弁護士は、本人が否認していることを知ると、励まし、家族にちゃんと連絡をとってくれます。ところが、2番目に私選弁護人となろうとした弁護士は日本の刑事裁判で有罪率が高いという現実をふまえて、被害者との示談をすすめる口ぶりです。三番目の弁護士は複数体制で否認する本人を支えます。
前科のないフツーのサラリーマンがぬれぎぬで捕まり、留置場に入れられて2ヶ月も生活させられると、どうなるか。背中に入れ墨を入れ小指を詰めたヤクザな男が怖がるほど、顔から一切の感情が消えて無表情だった。
なーるほど、ですね。絶望感にうちひしがれていたわけです。
起訴されたあと、妻は日本国民救援会のアドバイスを受けて夫の知人や大学の同級生たちに応援を求めた。夫はそれを知って怒った。知られたくないことを知られてしまった。プライドがズタズタにされた。ふむふむ、その気持ちも分かりますよね。
接見禁止がついていないので、友人たちが次々に留置場に面会にかけつけてくれた。
逮捕されて3ヶ月以上たって、ようやく保釈が認められた。保証金は250万円。つとめていた会社のほうは既に自己都合退職ということで辞めさせられていた。
友人たちの力も借りて、ラッシュアワーの電車内を再現し、被害者の供述のとおりでは被告人が痴漢行為をするのは客観的に不可能だということをビデオテープにとった。
ところが、本人が釈然としない思いがつのった。裁判所は信用できないところだという。それなら、そんな裁判なんか早く終わらせて人生を再建することが先決ではないのか。
なーるほど、被告人とされた本人の心の揺れ動きもよく分かります。
被害者の供述どおりでは痴漢行為は客観的に不可能だという点を立証するためには、被害者の供述調書を多くの人に読んでもらう必要がある。しかし、それは法律上問題があるということで、裁判官が弁護士に注意をしてきた。被害者の名前などを消して、その特定はできないように配慮しているのに、プライバシー保護をタテにとった「注意」だ。うむむ、難しいところだ。
被告人にされた本人の友人たちは、キミの幸せを取り戻すことに協力してるんだ。無罪を勝ちとるために生活そのものが無茶苦茶になったらしようがないよな。
なるほど、なるほど、そうなんですよね。実によく分かった人たちですね。
東京地裁の法廷には傍聴オタク族がいるようです。それも、わいせつ事件だけを傍聴するオタク族が。被告人は、つい切れて文句を言ってしまいます。
おまえは本当はやったんだろう。そんな罵声も浴びせられてしまいます。被告人が「もう生きていたって仕方がない」と何度も言っていたのを、ある朝、妻が起き上がれず同じセリフを口にすると、被告人が本当に子どもの首をしめはじめた。
「死ぬのなら一家で死なないと、私が死んだら残された子どもたちはどうなる」
妻は「やめて」と叫んで、夫を子どもから引き離した。大変な状況です。それほど追いこまれるのです。このくだりは弁護人の想像をこえるものです。
がんばってがんばってようやくたどり着いた判決。なんと、懲役1年2ヶ月の実刑判決。うーん、重い。実刑判決を言い渡した裁判官(秋葉康弘)は、証人として出廷した被告人の妻とは一度も目線をあわせなかった。
控訴審に向けて弁護団が大きく拡充された。元裁判官が3人も入った。弁護士というのはデザイナー以上にプライドが高く個人主義的なところがあり、被告はハラハラさせられた。9人も集まって、まとまらずに分裂してしまうのではないかと心配した。
元裁判官の一言がいいですね。
裁判官を飽きさせずに読ませる控訴趣意書をつくらなければ裁判は負ける。
なーるほど、ですね。これから注意します。
被害者が狂言ではなく、真犯人が別にいて、大人のオモチャでからかった。それを被告人がしたと間違って思いこんだ。そんな可能性が示唆されています。
被告人が無罪を主張したとき、その無罪を立証するのがいかに大変なことなのか。被告人とされた家庭の苦労とあわせて、よくよく語られています。弁護士にも必読の本だと思いました。
2007年4月20日
日本の裏金(下)
社会
著者:古川利明、出版社:第三書館
下巻は検察・警察編です。
検察庁には調査活動費、「調活」という裏金がある。これは戦前の司法省(思想検察)の機密費をダイレクトに受け継いでいる。検察庁ではナンバー2の次席検事が毎月、裏帳簿の決裁をする。しかし、「調活」はあくまでトップのポケットマネーである。
調活がなくなったら、検事正になりたいなんて言うヤツなどいなくなる。
これは佐々木成夫・大阪高検検事長が大阪地検の検事正だったとき、三井環元大阪高検公安部長に言った言葉だそうです。
加納駿亮元大阪地検検事正は、740万円の調活を受けとった直後の2000年3月、芦屋で5000万円ほどの自宅マンションを購入した。福岡高検の検事長にもなりましたが、今は大阪で弁護士です。大阪府の裏金問題についての調査委員会のメンバーにもなりました。自ら裏金を手にしていた人物が、どんな調査をするのか、マスコミが話題にしました。そうですよね、身につまされるところがないから引き受けたということでしょうが、本当に大丈夫ですか?
五十嵐横浜地検検事正が1年間に70回もゴルフコースに出れたのも、この調活費のおかげ。原田明夫元検事総長が法務事務次官のとき、銀座の高級クラブに頻繁に出入りしていたのも調活費によるもの。
警備公安警察の裏金はすごい。他の捜査部門より捜査費がふんだんに予算計上されている。警備公安部門では、幹部以上になると、途中でピンハネできる。それこそ「濡れ手に粟」のような裏金の恩恵に与ることができる。そのうえ、大企業からもみかじめ料みたいな形でお金をとっている。だから、警備公安では、課長クラスでも愛人がもてる。共産党を捜査対象としているからだ。いわば共産党のおかげで、警察庁長官以下、警察幹部は裏金の恩恵にあずかっている。
警視庁の本庁警備部の筆頭課ともなると、毎月、管理する裏金の総額が億円に達する。
警察組織での裏金使途の大半は幹部の私的流用である。
警察幹部には、毎月、茶封筒でヤミ手当が裏金から出る。大体の相場は、署長は本部課長で5〜7万円、本部の部長クラスで10〜13万円。県警本部長に対しては、月100万円という見方もある。
国松孝次警察庁長官が狙撃された自宅マンションの購入費は1億円のはず。これを担保設定もせず国松長官は購入している。借金せずに1億円の物件を買えたということは、それなりの資産(貯え)があったわけである。それが裏金だった。この狙撃事件は今もって解明されていませんが、国松元長官が即金で1億円のマンションを購入した点も追及したら、たしかに隠された面白い事実が出てくるのでしょうね。でも、今の日本のマスコミ(大新聞やテレビ局)に、そんな勇気のあるところはありますかね。残念ながらないでしょうね。
ブラックブック
ヨーロッパ
著者:ポール・バーホーベン、出版社:エンターブレイン
例年、裁判所の人事異動にあわせて何日間かの春休みをとるのですが、今年は残念なことに一日もとれませんでした。そのかわりに、平日の朝から、福岡の小さな映画館で見たのが、この映画「ブラック・ブック」でした。2時間あまりの大作なのですが、緊迫した場面が続き、身じろぎもせず、あっという間に見終わってしまいました。正直言って、深い疲労感が残りました。投げかけられた問題提起があまりに重いのです。美貌のユダヤ人歌手ラヘルを襲う悲劇とサスペンスは息つぐひまもありませんでした。
時代は第二次大戦末期のオランダです。ナチスに占領されています。アンネ・フランクが隠れていたのと同じ時期です。裕福なユダヤ人家族を国外へ逃亡させるレジスタンス組織があります。ところが、船に乗って逃亡する途中、突然ナチス・ドイツ軍に襲われ皆殺しにあいます。せっかくの貴金属類などが全部ナチスの手に渡ってしまいます。命からがら救われたラヘルは、レジスタンス組織に匿われ、オランダ人になりすまします。そして、ナチス・ドイツの情報部の将校に近づいていきます。
サスペンスたっぷりの映画でもありますから、これ以上は書きません。ぜひ映画を見てください。やっぱり、お茶の間ではなくて映画館に足を運んでほしいと思います。
主人公のラヘルを演じる女性の毅然とした知的な美しさ、その裸体の神々しさは目が魅きつけられてしまいます。女性のたくましさをよく演じています。
この本は、この映画が決して単なるフィクションではなく、あくまで事実をもとに組み立てたものだということを明らかにしています。
ユダヤ人にも同胞をナチス・ドイツに売り渡した人間がいました。レジスタンスにも、多くのスパイが潜入していたのです。誰がナチスのスパイか分からないうちに、次々にワナにかかっていく状況が描かれ、誰を信じていいのかゾクゾクしてきます。終戦後、みんながレジスタンスを英雄だとしてもてはやすようになった。しかし、そのレジスタンスにも、さまざまな人物がもぐりこんでいた歴史的事実が描かれています。スパイだった疑いをかけられたとき、そのぬれ衣を晴らす大変さもありました。
ナチスの本部にラヘルが盗聴器を仕掛けるシーンが出て来ますが、これも実話にもとづく話だそうです。ナチス・ドイツが降伏したあとも、ドイツ軍法会議によって裏切り者として銃殺刑を宣告されていた者について、銃殺刑の執行がなされた事実があるというのも驚きでした。本当に、事実は小説より奇なり、です。
この本の最後に、次のような言葉があります。本作におけるまことに信じがたい詳細な記述は、想像が介入する余地のない現実からきたものである。
まあ、それにしても、映画をみると、想像を豊かにかきたててはくれるものです。
杉野押花美術館コレクション〜パステルの風〜
著者:杉野俊幸、出版社:杉野押花美術館
炭都・大牟田にも美術館があったんですね。炭都といっても、三池炭鉱はとっくに消えてなくなりました。早いもので閉山から10年たっています。三井は中央資本だけに、すべてが東京志向であり、地元には美術館も博物館も何も残しませんでした。
そんな大牟田に美術館が出来ていることを知っても、あまり訪れる気はありませんでした。ましてや押花というと、なんだか、しおれた花の地味でくすんだ色あいしか連想できなかったからです。でも、まあ、ものはためし、だまされたと思って入ってみました。
なんと入場無料なんです。しかも、小ぢんまりした木造りの美術館にかかっている押花が、どれもこれも生き生きしています。しおれて、くすんだ押花なんかじゃありません。うれしいことに、一つ一つの作品に手書きで作者の思いを語る文章がついてます。読んでいると、なんだか心のあたたまるほのぼのとした気分になります。
私は群馬にある星野富弘美術館にも行ったことがあります。とても素晴らしい美術館でした。そこでも、一つ一つの絵に作者の思いが手書きされていて、絵を見て文章を読んで、生きる元気をもらったみたいにいい気分に浸ることができました。それと、まるで同じ気分です。
タダで全部みてまわり、申し訳ない思いから、この本を購入しました。「美しい桃の花」というタイトルの押花があります。そのコメントを紹介します。
「私の気に入った作品です。ピンクの花と黒い枝とバックの青色が協奏している。協奏は音楽での言葉であるが、絵画では響き合いと言うのであろうか」
淡いブルーのパステルがを背景にピンクピンクした桃の花が春らしいあでやかさを競うように一面に咲いた作品です。まったくくすんだところはありません。
いったいどうやってこんな作品をつくるのだろうと不思議な気持ちになります。そして巻末にその解答編があるのです。
バックはパステルを塗るのです。パステルの持ち方、塗り方まで写真つきで解説されています。色と色を混ぜて、新しい色をつくり出します。そして、その上に押し花を置いてみて、花や葉が美しく見える色を発見し、その色で描くのです。
押し花教室もあるといいます。
私は、美術館で押花作品を見終わって、隣の喫茶コーナーに入りました。1階で手づくりパンやベーコンのくん製などを買い、2階に上がりました。ちいさいけれど見晴らしのいい部屋があります。カウンターに腰をおろし、ロイヤルミルクティーをゆっくり味わいました。なかなかうまい味です。
よく晴れあがった春うららかな日曜日の昼下がり、至福のひとときでした。水曜日は休館です。
2007年4月19日
ITとカースト
インド
著者:伊藤洋一、出版社:日本経済新聞出版社
インド・成長の秘密と苦悩。こんなサブ・タイトルがついています。
インドの離婚率は1%。えーっ、ウソでしょ・・・。インドの結婚は、お見合いの比率が高く、80%に近い。インドでは結婚が神聖視されていて、未婚の男女に対する管理はとても厳しく、結婚前の男女関係は非常に保守的。結婚相手は基本的に親が決める。だから、ラブ・レターという言葉はインド社会では否定されている。
えーっ、そうなんですかー・・・。インド映画を見て、なんだか恋愛至上主義のような気がしていたのですが、まったくの誤解だったようです。
インドでは結婚後の浮気も、事実上不可能だという。たとえば、インド人の男女がホテルに泊まるときには、身分証明書を呈示して夫婦であることを立証しなければならない。
ヒンズー教では、生きている間はカーストで身分も職業も変えられない。しかし、現在のカーストでの人生の結果によっては、次の生など、来世で高いカーストに上がることができる。つまり現世の身分の低さは、最初からあきらめ、死後に希望がもてる仕組み。現在のカーストは過去の生の結果であるから、今の置かれている環境を受け入れて、人生を生きるべきだ。こうなる。
選挙のとき、現世で大地主に奉仕すれば、来世では良いカーストに生まれ変わると、今でも多くの人が信じている。これって、支配者にはものすごく都合のいいものですよね。
父親と母親とが違うカーストから出ている場合を含めて、誰がどの階級にいるのかと決めつけるのは実に難しい。
カースト以下の人々は一般にアンタッチャブルと呼ばれる。その人々は自分ではダリットと呼ぶ。ダリットとは、壊された民という意味で、2億人いる。
インドの最大の財閥はパルシーと呼ばれる。タダ・グループはパルシーのなかのグループ。パルシーとは、ヒンズー語で、プルシャという意味。
シーク教徒は、全人口の2%しか占めないが、インドでは、その存在感は大きい。
ヒンズー教徒は頭にターバンなど巻かないが、シーク教徒は頭髪やヒゲをそらない掟をもつため、ターバンを頭に巻く。シーク教はイスラム教の影響を受けてヒンズー教を改宗した宗教であり、カースト制を否定し、人間の平等を強く訴える教えをもつ。軍人や政界にシーク教徒は多いが、ビジネス・交通運輸の分野でも存在感は大きい。
インドはあれだけの人口(11億人)をかかえていながらオリンピックでほとんどメダルをとっていない。インドは個人競技に弱い。
たとえインド最下層の階級出身であっても、今までカースト制度では分類のなかった ITの分野には挑戦できる仕組みができあがっている。
アメリカにはインド系の人々が240万人いる。25歳以上のインド系の67%が大学卒以上の学歴を有し、世帯収入の平均は6万7000ドル。
インドでIT事業がすすんでいるのは、アメリカとの時差が12時間ほどあることもプラスしている。アメリカ人が寝ている間にコンピューターへのデータ入力や処理ができたら、朝までにアメリカに情報をふまえたアドバイスができるだろう。
インドのIT系新卒者は、日本人技術者の3分の1の給料で働いている。
インドって、ホント不思議な大国です。
2007年4月18日
労働弁護士の事件ノート
社会
著者:東京法律事務所、出版社:青木書店
会社の経営が苦しくなってきたことを理由として人員整理がはじまり、労働者が解雇されることがあります。そのとき、その解雇に客観的に合理的な理由があり、社会通念上相当といえるためには、次の整理解雇の4要件をみたす必要があります。これは、一応、確立した判例になっています。
? 人員削減の必要性があること
? 解雇を回避する努力を尽くしたこと
? 解雇される対象者の選定に合理性があること
? 解雇手続きが相当であること
これらの要件をみたしていないときには、その解雇は権利濫用として無効となります。
ある事件では、会社が解雇通告した同じ月に、次年度に20人の新規雇用を計画していることを、その解雇対象者がインターネットで見つけて、それが決定打となって解雇は無効となった。企業は、投資家への情報開示のために労働者には見せない財務情報をホームページに堂々と公開していることがある。なーるほど、こういう手もあったのですね。
「辞めろ、会社を。お前、いらん。迷惑かけてまで。どういう親や、顔も見たくない。辞表もってこい、辞表を」
「会社の都合を考えていないだろう。そんな考えだったらいらんちゅうの。辞めてくれや、言うの。お前に払っている給料で2人雇えるんだからな。明日から会社に来んでもええで」
これは損保会社で40代半ばの支店長が、50代前半の労働者を辞めさせようとして罵倒したときの言葉です。罵倒された労働者は録音テープを隠し持っていました。これが解雇無効につながりました。時と場合によって、相手の承諾なしでとった録音テープでも、裁判の証拠となりうるのです。
この事件では勝利的和解が成立し、解雇された労働者は職場に復帰することができました。逆に、さんざん罵倒していた支店長のほうが退職してしまいました。
労働者派遣が大流行しています。職場にいろんな種類の労働者がいて、団結することもできない労働条件のもとで、本当に生産効率は上がっているのでしょうか。私には疑問です。
労働者派遣とは、派遣元である事業主と、労働契約を締結している者が、派遣元事業主との間で労働者派遣契約を締結した派遣先事業主の指揮命令にしたがって派遣先の事業場で就労する働き方のこと。派遣社員は、雇用する事業主と、指揮命令する事業主とが違うところに特徴がある。
業務委託とは、一定の業務処理の委託を受けて、その業務を遂行し、それに対する報酬が支払われる働き方をいう。
業務請負は、一定の仕事の完成を約束して、その仕事の完成に対して報酬が支払われる働き方をいう。委託も請負も、仕事の方法について指揮命令を受けないで業務を処理するのが建前。たとえば、請負では、仕事をする人は、注文主の指揮命令は受けず、求められるのは仕事の完成という結果のみ。
首都圏青年ユニオン(労組)では、派遣労働者を組織して団体交渉を行った場合、派遣元企業から解雇を撤回させて復職させ、新しい派遣先を紹介させる、新しい派遣先が決まるまでの給料は派遣元企業が支払う、という内容で解決している例がある。
さすがに労働事件専門の弁護士をたくさんかかえた東京の法律事務所がつくった本です。いろいろ大変勉強になりました。福岡では労働裁判は激減したままの状況です。
2007年4月17日
ザ・取材
社会
著者:関口孝夫、出版社:華雪舎
日本共産党の機関誌である赤旗編集局長をつとめたベテラン記者が新米記者を前に語った講話が本になりました。さすが数々のスクープをものにした敏腕記者の話だけに、ついつい耳を傾けさせるものがあります。
戦後の日本の利権史に名を残す政治家の双璧は、河野一郎(河野洋平の父)と田中角栄だ。河野一郎は農林大臣として国有林処分に、田中角栄は大蔵大臣として国有地処分にそれぞれ辣腕を振るった。60年代、田中角栄が国有地処分で得た利権はざっと100億円と見積もられ、これを小佐野賢治と2人で折半したという「通説」があった。田中角栄が大蔵大臣のときの国有地払い下げは群を抜いていた。
田中角栄は鳥屋野潟の湖底地を買い占めた。その総面積は98ヘクタール。そのうちの干田化した13ヘクタールを、政治力で新潟県・市に買い値の2倍で売りつけた。これは買収総面積に相当する額だった。だから、残った湖底地85ヘクタールはただで手に入れたも同然。ところが、上越新幹線の開通で、その湖底地は新幹線駅前に位置するため、地価は一気に150億円へと高騰した。これを取材してまわったのです。
著者に会うのを渋ったキーマンを取材したとき、著者はキーマンに次のように言った。
「きょうは話を聞きに来たのではなく、私の話を聞いてもらいたいと思って来た。この問題については私なりに調べ、輪郭をとらえているつもりだ。ただ、この問題の真相をはじめて世に問うことになるだけに、活字にするにあたっては正確を期したいし、大げさな言い方をすれば歴史への責任もある。立場があるというのなら、私がしゃべる調査結果を聞いて、不正確なところを指摘してくれるだけでもいい」
さすがにこのように前置きされると、そのキーマンは、「そこは違う」「そう、そのとおり」と合いの手をいれはじめ、ついには、「ワタシが直接しゃべったということでなければ、書いてもいい。真相はこうなんだ」と語り出した。
田中角栄にしてやられた。あいつの方が一枚も二枚も上手だった。これがキーマンの弁だったというのです。さすが、すごい取材力ですね。
警察の手がける汚職事件は、地方政界の市長、せいぜい地方議員、地方公務員規模の贈収賄事件どまりが相場。高級公務員がらみの事件は皆無ではないが、あくまで例外。
警察の汚職捜査は、どちらかというと上に伸びず、下に伸びる傾向にある。
警察庁長官などをつとめた警察官僚が次々と自民党の国会議員に転身する光景に象徴されるように、自民党の一党支配が長期にわたった下で、日本の警察組織が長年にわたり政権与党へ形づくってきた組織と人脈構造癒着の産物である。いいかえれば、支配する政治勢力にもっとも左右されやすい番犬のような組織ともいえる。なーるほど、ですね。
新聞記者の心得。
○ 拾ってきたものを何もかも原稿用紙の上にぶちまけようとするな。何を拾うかではなく、何を捨てるか、だ。
○ 前文に力を注げ。ここに全体の3分の2の精力を注ぎこめ。そこで苦しめば、後は楽だ。前文の中に、整理記者が見出しに拾いたくなるような珠玉のことばを入れろ。
○ 120行以内で意を尽くせる記事しろ。それがスピード時代の読者の一読判断の基準だ。それを1時間で書きあげろ。
○ 筆がすすまないのは事実が少ないからだ。事実の薄さを修飾語や形容詞でごまかそうとするな。
○ 一つの記事に同じ表現を2度つかうな。文語調のもったいぶった表現はつかうな。接続詞はいらない。記事が短文の積み重ねだ。
体験にもとづく、なかなか含蓄ふかい講話でした。弁護士にとっても、現場に足を運んだうえで準備書面を書くのは大切なことです。読む人への説得力が格段に違います。
2007年4月16日
ミカドの外交儀礼
明治
著者:中山和芳、出版社:朝日新聞社
明治天皇が外国人に会ったときの状況を紹介した本です。なかなか興味深いものがあります。
明治天皇は、元服のとき(1868年1月15日)、童服を脱ぎ、冠をつけ、お歯黒をつけた。男がお歯黒をつけるなんて、聞いたことがありませんでした。気色悪いですよね。
天皇が外国人に初めて会ったときには、それに反対する者が多くて、大変だったようです。当時は、多くの日本人が外国人を異人と称して、「人間と少し違った種類で、禽獣半分、人間半分」であるかのように考えていた。天皇が外国公使と握手するなんてとんでもない。そんなわけで、それは実行されなかった。なーるほど、ですね。
フランス公使と会見したときの明治天皇の容姿は次のように描かれた。
14か15歳の若者だった。眉毛が剃られ、その代わりに額の真ん中に筆でなぞり画きされて、これがその顔を長めに見せさせていた。歯は既婚女性のように黒い漆で染められていた。
1869年(明治2年)、イギリスのヴィクトリア女王の二男・エジンバラ公が来日したとき、天皇が会見するかどうか政府部内でもめた。結局、会見することになった。ところが、天皇が会見する場から少し離れたところで、神官が清めの儀式を行った。イングランドからついてきたかもしれない悪霊を追い払うためのものだ。アメリカ代理公使のポートマンがそれを知ってアメリカ大統領へ報告書を書いて送った。外国人の物笑いの種になったことを知り、さすがに、この清めの儀式はその後はされなくなった。
1871年(明治4年)に、オーストリアの元外交官が天皇に謁見した。そのときのことを元外交官ヒューブナーは次のように書いている。
天皇は20歳だが30歳のように見えた。鼻は大きくて少しぺしゃんこ。顔色は青白いが、目は生き生きと光り輝いている。目は行儀良く、きょろきょろとはしない。江戸の町中でしばしば出会う顔と同じだ。
天皇は1871年(明治4年)、牛乳を飲み始めた。また、「肉食の禁」をやめ、牛肉や羊肉を常食とするようになった。
天皇は1872年(明治5年)6月に初めて一般の人々の前に洋服を着て姿を現した。
1873年(明治6年)3月、天皇はかき眉とお歯黒をやめ、さらに突然、断髪した。
天皇は写真が嫌いで、写真をとらせなかった。それで、お雇い外国人キョソーネが隣室から天皇をスケッチし、それにもとづいて肖像画を描いた。
1883年(明治16年)、2階建ての様式建築「鹿鳴館」が完成した。この鹿鳴館で、日本人が熱心に舞踏に励んだ。しかし、外国人は、日本人の努力を笑っていた。
皇后が洋装するためにドイツに注文した大礼服は13万円もした。鹿鳴館の総工費が18万円であるのに比べても大変高い。ちなみに総理大臣の年俸は1万円、他の大臣は 6000円だった。
1889年(明治22年)2月11日に、憲法発布式典が挙行され、このときの祝賀パレードで、天皇と皇后が初めて同じ馬車に乗った。
そんな様子を東京府民が見るのは初めてのこと。皇后も天皇と結婚したことによって天皇と同じ社会的地位に引き上げられたことを天皇自身が認めたということ。それまで、天皇は、玉座が皇后の座と同じ高さにあるということをどうしても納得できなかった。
明治天皇の実像の一端をよく知ることができました。
2007年4月13日
日本の裏金(上)
社会
著者:古川利明、出版社:第三書館
首相官邸・外務省編とある上巻です。内閣の機密費のルーツは、皇室の内帑金(ないどきん)にあるということを初めて知りました。
敗戦時点(1945年)、皇室の財産は当時のお金で37億円を有していた。三井や三菱でも3〜5億円であったから、その10倍以上だったわけである。内閣機密費は、天皇家から下賜されていた。そして、この機密費は会計検査院の検査の対象外であることが法で明記されていた。
戦前の機密費は、内閣と外務省については戦後、予算名目上は報償費と交際費とに分割されて今日まで命脈を保っている。
2000年度予算における機密費の額は、外務省56億円、内閣官房16億円、防衛庁2億円、警察庁1億円。
官房長官のつかう毎月1億円の官房機密費は領収書が一切いらない。しかし、この月1億円の機密費というのも、実はオモテの予算枠にすぎない。いわばオフィシャルな裏金である。すごいというか、ひどい話です。みんな血税なんですよ、これって。
戦後、ある時期まで、自民党政権を支えていたのは、CIA資金をはじめとするアメリカからの財政援助だった。CIAは、1955年に自民党が結成されたとき資金援助をしたが、その後も年間100〜150万ドルを援助していた。池田内閣のとき、アメリカからの資金提供を断ったら、本当にお金がこなくなった。
1968年11月の沖縄主席の初の公選のとき、CIAは、72万ドルを東京の自民党本部を経由して、沖縄自民党副総裁に流れた。ところが、それだけの裏金を投入しても、革新の屋良朝苗が3万票差で当選した。
消費税を導入するときにも、この官房機密費5億円が動いている。公明党と民社党を抱きこんだのだ。道理で、今でも自公政権なんですね。
1998年11月投票の沖縄県知事選のときには、現知事陣営でかかった選挙費用のトータル4〜5億円のうち、自民党から来た分が2億円から3億円であり、うち、官房機密費からの分が1億円をこえていたという。
ホント、世の中いやになってしまう話のオンパレードです。それにしても、街中をメルセデス・ベンツに乗っている人が本当に多いですね。どうやってそんなにもうかっているのでしょうか。裏金のおこぼれにあずかった人はどれだけいるのでしょう。選挙を通じて田舎にも少しは流れてきているのでしょうか・・・。
擬態、だましあいの進化論(2)
生き物
著者:上田恵介、出版社:築地書館
魚類に限らず一般に、体の大きな雄は小さな雄よりも競争に強く、より繁殖場所を占有したり、多くの雌を独占したりして高い繁殖成功を得ることができる。では、小さな雄は繁殖から締め出されているのかというと、必ずしもそうではない。小さな雄は小さいなりに、さまざまな手段を駆使して繁殖成功を上げようとしている。その手段のひとつが雌への擬態である。なわばりをつくらずに雌に擬態している雄は、なわばり雄よりも小さく、年齢も若い。このような雄は体色などが雌にとても似ているので、なわばり雄からさかんに求愛を受ける。ときには誘われるまま巣の中に入って、なわばり雄と産卵行動にいたってしまう。そのとき、雌擬態している雄は、もちろん卵を産むわけはなく、あくまで産卵しているふりをしているだけ。そして、本物の雌が巣にやってきて産卵しはじめると、そこへ割り込んで精子を放出し、本物の雌が生んだ卵に授精する。産卵後、雌擬態している雄は雌とともになわばりから去っていき、残された卵は、なわばり雄が面倒をみる。つまり、雌擬態している雄は、なわばり雄に対して、巣の維持や雌の勧誘などの面で寄生しているだけでなく、子の保護まで寄生している。
小さなオスの魚がメスのふりして、大きなオスの魚をだましてちゃっかり自分の子孫を増やすのに成功してるなんて、面白いですよね。
ランの花、オフリスは、ハチをだまして誘いこみ、受粉の手伝いをさせている。
オフリスの賢いところは、まだ本物の雌バチが発生する前に花をつけて雄バチを誘うこと、偽交尾はさせるものの、本当の交尾(射精)まではさせないこと。 したがって、ハチは性的興奮状態を保ちながら、次なる花を求め、次々に他花受粉させていく。
うーん、植物の花がハチをだますなんて・・・。
チャバラニワシドリの鳴き声を聞いてみよう。建築現場からの実況中継だ。ベルトコンベアーか何かの機械がまわり、ガラゴロと建材が運びこまれ、何かが組みたてられているような音や、現場で働く大工たちの話し声や合図のような音まで聞こえてくる。まるでトランジスターラジオが勝手に鳴りだしたかのようだ。
カッコウのヒナも同じようなだましの音をたてている。
カッコウのヒナは、ヨシキリのヒナと同じ「シッ」というねだり声を出すが、鳴き方はまばらに繰り返すのではなく、「シシシシシ・・・」と詰めて、まるでたくさんのヒナがいるかのように鳴く。つまり、カッコウのヒナは、たった一羽でも十分に食べて成長できるように、そのねだり声をヨシキリ一巣分のねだり声に擬態させる仕組みを生み出し、宿主の行動を操っている。これは前提として、カッコウのヒナが、ヨシキリのヒナを巣から全部け落としてしまい、巣の中は自分一人だけで占有しているということがあります。あつかましくも、ヨシキリの親をだまし続けるわけです。
残念なことに、私はまだこれらの小鳥の鳴き声を聞いたことがありません。ぜひ一度聞いてみたいものです。それにしても、これって、大自然の神秘そのものですよね。
遙かなる江戸への旅
江戸時代
著者:永井哲雄、出版社:みやざき文庫
江戸時代、参勤交代は250年ものあいだ厳しく守られてきた。日向国にある四つの藩から江戸まで350里(1400キロ)を、毎年、200人以上の集団で、片道1ヶ月以上もかかる陸と海の旅を休むことなく往来した。
この本は、その実情を当時の記録をもとに探っています。 寛永12年の武家諸法度以後、参勤交代は江戸到着日が決まっていたので、出立日は、それから逆算してきめられていた。飫肥藩は3月1日、佐土原藩も同じ。日向路は陸路、細島から船で大坂まで行き、大坂から大坂から東海道を陸路で江戸へ向かう。江戸に着くと、1年の在府。
翌年の4月から5月に帰国の旅につく。真夏に辛い旅をする。国元には約10ヶ月しかおれない。
役にある限り、生涯歩き続けるのが江戸時代の大名領下の役人である。幕末の飫肥藩の上士川崎一学は、55年間になんと14度の江戸御供をしている。人生の半分を旅に過ごしたことになる。
参勤交代を守らないときには、大名改易の理由となった。
大名が参勤交代の往返に耐えることができなくなったら、家督を譲る理由となる。
大名の妻のうち、正室は幕府に認められた婚姻を結んだもの。夫がまだ家督をついでいないときには御新造様、当主になると御奥様、当主が隠居すると大御奥様、夫が死去すると院と呼ばれる。側室については、さまざまに呼ばれる。御部屋様、御召仕、奥御女中、御妾、奥御奉公人。
正室と嫡男の江戸と国許の往来は厳しく禁ぜられているが、側室の方は往来自由となっていた。江戸藩邸は、上屋敷であれ、中屋敷、下屋敷であれ、藩主の私有物ではない。幕府からの貸与物である。いつ屋敷交替を命ぜられるも分からない。
高鍋藩の場合、江戸藩邸詰の人数は、徒士(かち)以上は家老・用人・留守居各1人、者頭6人、給人・家嫡25人、中小姓24人、徒士52人、医師など3人、合計113人。このほかに足軽から小人(こもの)まで同数がいた。そのとき、国許には、徒士以上は 220人いた。
つまり、藩主が江戸にいるときには、上、中家士のうち3分の1が江戸に詰め、残り3分の2が国許で城を守り、治世にあたっていた。
高鍋藩の参勤交代の絵がある。1月前に先触れが通過する諸大名や幕府御料所に挨拶のため先行する。前日には、宿割りの一行が先行して、休憩・宿泊の準備をする。絵図に百数十人が描かれているが、実際には、これよりかなり多くなる。これが公高3万石前後の大名の供揃えである。大変な旅行だったんですね。
2007年4月12日
「闇の奥」の奥
世界(アフリカ)
著者:藤永 茂、出版社:三交社
ベトナム戦争を描いた有名な映画に「地獄の黙示録」があります。ヘリコプターがワグナーの「ワルキューレ」の音楽を最大ボリュームで響かせながら地上のベトナム人をおもしろ半分に虐殺していくシーンは有名です。
この映画「地獄の黙示録」(フランシス・コッポラ監督)のシナリオは、ジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」をもとにしている。この「闇の奥」は中央アフリカのコンゴ河周辺を舞台としている。そこでも、ベトナム戦争と同じように現地住民の大虐殺があったのです。初めて知りました。
1900年ころ、中央アフリカのコンゴ河流域の広大な地域がベルギー国王レオポルト2世の私有地になっていた。そこで先住民の腕が大量に切断された。レオポルド2世は 1885年からの20年間に、コンゴ人を数百万人規模で大量虐殺した。
1880年当時、コンゴ内陸部には2000万人から3000万人という大量の黒人先住民が住んでいた。そこを人口希薄の土地と想像するのは誤りである。
このコンゴ地域には天然ゴムがとれた。1888年にコンゴで産出された原料ゴムは 80トン。それが1901年には6000トンにまで増大した。
コンゴでのゴム採取の強制労働のため、レオポルド2世は公安軍をつくった。1895年には兵員総数6000人のうち、4000人がコンゴ現地で徴集された。1905年には、白人指揮官360人の下、1万6000人の黒人兵士から成っていた。
公安軍の白人将校たちは、単に射撃の腕試しの標的として黒人の老若男女を射殺してはばからなかった。 強制労働のあまりの苛酷さに耐え切れず、作業を捨てて黒人たちが密林の奥に逃げ込むのを防ぐのが公安軍の任務だった。銃弾は貴重なものだったから、白人支配者たちは小銃弾の出納を厳しく取り締まるために、つかった証拠として、消費された弾の数に見合う死者の右手首の提出を黒人隊員に求めた。銃弾一発につき切断した手首一つというわけである。えーっ、そんなー・・・。
2人のイギリス人宣教師にはさまれた3人の先住民の男たちが写っている写真があります。男たちは、右手首をいくつか手に持っています。ぞっとします。
レオポルド2世はコンゴ自由国という名前の私有地をもち、公安軍という名前の私設暴力団を有してコンゴの現住黒人を想像を絶する苛酷さの奴隷労働に狩りたてていった。その結果、コンゴの先住民社会は疲弊し、荒廃し、その人口は激減した。1885年から20年のあいだに人口は3000万人か2000万人いたのが800万人にまで減少してしまった。
ところが、レオポルド2世はアフリカに私財を投入して未開の先住民の福祉の向上に力を尽くす慈悲深い君主としてヨーロッパとアメリカで賞賛され、尊敬されていた。
なんということでしょう。まさに偽善です。
レオポルド2世は奴隷制度反対運動の先頭に立つ高貴な君主として広く知られていた。
アフリカ大陸にひしめく黒人たちは、人間ではあるが、決して自分たちと同類の人間ではないとヨーロッパの白人は考えていた。黒人が人間として意味のある歴史と生活を有する人間集団であると考える白人は少なかった。
しかし、個々の白人の病的な邪悪さや凶暴さが問題ではなかった。問題は、現地徴用の奴隷制度というレオポルド2世が編み出したシステムにあった。うむむ、そういうことなんでしょうか。
1960年6月、コンゴ共和国は独立し、35歳の元郵便局員であるパトリス・ルムンバが初代首相に選ばれた。しかし、ルムンバ首相がソ連から軍事援助を受け入れたので、アメリカのCIAはルムンバ首相を抹殺することにした。コンゴ国軍参謀長のモブツを買収し、クーデターを起こさせ、ルムンバを拉致して銃殺した。このルムンバの処刑にはモブツの部下とともに、ベルギー軍兵士たちが立会していた。
2006年7月、ルムンバを首相に選出した1960年から46年ぶりにコンゴで第2回の総選挙が行われた。いやはや、アフリカに民主主義が定着するのは大変のようです。しかし、それはヨーロッパ「文明」国が妨害してきた結果でもあるわけですね。
アフリカの政治が混沌とした原因にヨーロッパとアメリカの責任があることを強烈に告発した本でもあります。
2007年4月11日
日本一ベンツを売る男
社会
著者:前島太一、出版社:グラフ社
この本を読むと、日本は本当に格差社会になってしまったことが実感できます。
今、六本木や麻布の交差点で信号待ちしていると、まわりの車がメルセデスだらけということがある。メルセデスは、もう大衆車だ。かつては、メルセデスに乗っているというのはステータス・シンボルだった。家にプールがあったり、クルーザーをもっていると同じ感覚。
メルセデスというのはベンツのことです。ヨーロッパでは日本と違って、ベンツと呼ばずにメルセデスと言います。
この本で紹介されているベンツのセールスマン吉田満は、10数年にわたって年間に100台以上のベンツを売り続けてきた。しかも、ベンツのなかでも1000万円以上の高級車ばかり。1ヶ月に22台(1996年)、年間に160台(2000年)という記録を出している。セールスを始めて20年間に、ベンツの累計販売台数は2000台をこえる。すごーい。信じられない台数です。
吉田満のお客の7〜8割はリピーター。吉田満のお客は、メルセデスを妻や恋人へのプレゼントにすることが多い。
吉田満のケータイの1日の着信数は120件。ケータイ通話料は月4〜5万円。多いときは月17万円だった。吉田満の頭のなかに、お客の電話番号が150件も入っている。ケータイの電話帳を見ることなく、電話がかけられる。これも記憶力を訓練した。
お客と、ベンツの値段を話はあまりしない。2000万円のベンツを買う客は、吉田満のすすめるまま車を買い、お金を払う。ここには2000万円が2万円ほどの感覚で動いている世界があるわけです。
発注から納車まで、最短4日。普通なら、商談に1週間、納車まで1ヶ月というのが常識なのに、この早さ。吉田満はお客のオーダーをきく前に自分の責任で事前にオーダーしておく。商談の勝負は一度だけ。会った瞬間、相手の目を見ただけで買うかどうか、ある程度わかる。1〜2分でも会話をすれば、買うかどうかの判断はつく。
一流のサービスとは、痒いところに手が届くサービスではなく、痒くなりそうなところをかいてやること。お客がほしいと求める前に、その要望に完璧にこたえた車を仕入れておいて、届ける。
洋服は自分のスタイルを活かすための必須アイテム。TPOを考えたうえで、少しでも客の予想をこえたものを提供する。これがサプライズ・サービスだ。
メルセデスを買うというのは、満足を買っているわけなので、売る人間(セールスマン)も大切なファクターになっている。だからスーツはいわば戦闘服。こいつから買ったら安心かも、と分かってもらいやすいから、良い服を着ている。客に対して、どれだけ印象深い人間になれるか、それだけを常に考える。客から一目置かれる存在になる。そのためには自分を背伸びさせても自己投資する。
メルセデスというクルマは、頭を下げてまでして売るような商品ではない。うーん、そうなんですか・・・。ちっとも知りませんでした。
日本もアメリカと同じ恐ろしい世界になってしまいましたね・・・。
2007年4月10日
「聖断」虚構と昭和天皇
日本史(現代史)
著者:纐纈 厚、出版社:新日本出版社
戦前のジャーナリズムには、天皇、革命、セックスという三つのタブーがあった。このうち、戦後に残ったものは天皇のみであった。
たしかに、革命なんて今どきありふれた言葉になっていますね。もっとも、それは社会主義革命というものではなく、単なる変化をオーバーに言ったに過ぎないつかわれ方のようですが・・・。セックスなんて、どこまで隠されているのか、今やまったく分かりません。では、天皇タブーは続いているのか。
毎週のように週刊誌では今も雅子さんバッシングが続いていますよね。病気になった雅子さんを、もっと温かく見守ってやったらいいと私なんか思うのですが、毎回毎回、容赦なく暴きたて、叩いています。あれって、女性天皇、女帝を認めないためのキャンペーンだという指摘がありますが、まさしく意図的なものですよね。皇室が自分の意のままに動かないときには断乎許さないぞという右翼の一潮流のキャンペーンなのでしょう。これも、やはり天皇タブーの変形の一つなのでしょう。
このところ、昭和天皇の「聖断」によって軍部の独走を抑えて終戦にもちこむことが出来た。昭和天皇は平和を愛する平和主義者だったのだという論調がマスコミの一部にすっかり定着した感があります。しかし、それって本当でしょうか・・・。
この本は天皇の「聖断」なるものが、まったくの虚構であることをしっかり暴き出しています。格別目新しい事実ではありませんが、昭和天皇を平和主義者とあがめる昨今の風潮に水を差すものであることは間違いありません。
昭和天皇がしたことは、「聖断」でも英断でもなく、国体護持つまりは自己保身のために不決断を繰り返したということ。これが本書の結論です。この本を読むと納得します。
アジア太平洋戦争は、天皇の戦争として開始された。天皇とその周辺によって、その最初から最後まで、統制された戦争であった。天皇の意思と命令によって開戦し、天皇の意思と命令によって「終戦」、つまり敗戦した。ただし、終戦決定過程における天皇の不決断は、大いなる戦争犠牲者をうみ出した。
昭和天皇は敗戦後の回想において、東條英機の「憲兵政治」について、「軍務局や憲兵が東條の名において勝手なことをしたのではないか。東條はそんな人間とは思わぬ。彼ほど朕(ちん)の意見を直ちに実行に移したものはない」
東條は数多くの高級軍事官僚のなかでも、天皇への忠誠心が際だって厚く、その東條に昭和天皇は最後まで深い信頼感を抱いていた。
東條に日米開戦時の戦争指導内閣を担わせ、この忠実な軍事官僚であった東條を通じて政治指導および戦争指導を進めてきた昭和天皇は、最後まで東條に未練を残していた。昭和天皇は、原則的には明確な戦争維持論者であり、これまでと同様に東條内閣の下で進められることを期待していた。
昭和天皇は、レイテ海戦における海軍特攻機の投入とその過大に伝えられた戦果について、「そのようにまでせねばならなかったのか。しかし、よくやった」と感想を述べた。
昭和天皇は、特攻機による攻撃など、捨て身の戦法までつかって米軍に一撃を与え、少しでも有利な「終戦」工作条件づくりのなかで戦争終結にもちこもうとしていた。
米軍が沖縄に上陸したあとの4月3日、昭和天皇は、参謀総長に対して、「現地軍はなぜ攻勢に出ないのか。兵力が足らなければ逆上陸もやってはどうか」と、持久戦法ではなく、積極攻勢に出るよう要求した。
昭和天皇が終戦工作に関心をもち始めたのは、5月に入って、沖縄で日本軍の敗北が決定的となり、5月7日にドイツが連合軍に無条件降伏してからのことである。
「聖断」のシナリオは、日本の国土と国民を戦争の被害から即時に救うために企図されたものではない。ただ、戦争における敗北という政治指導の失敗の結果から生ずる政治責任を棚上げにするために着想された一種の政治的演出にすぎない。
もし国民のためだったのなら、即時の戦争終結が実行されてよかった。日本政府は、国体護持の確証を得ようとして、その一点だけのために2ヶ月以上の時間を費やした。
昭和天皇の「聖断」が8月13日ではなく、もっと早くされていたら、4月1日の沖縄への米軍上陸と沖縄戦はなく、「鉄の暴風」と呼ばれた壮絶な戦いのなかで15万人もの死者を出すことはなかったはず。昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと」と周囲からの終戦のすすめを一蹴してきたのだった。昭和天皇の戦争責任は重い。
私は、今の平成天皇は昭和天皇の戦争責任を十分に自覚しているのではないかと受けとめています。しかし、周囲がそのことを率直に認めさせないようです。
2007年4月 9日
アガワとダンの幸せになるためのワイン修業
社会
著者:阿川佐和子、出版社:幻冬舎
いつものことながら、この二人のおばさん(おっと失礼しました)、二人の妙齢の佳人の語り口には、ついつい引きこまれてしまいます。
このところあまり美味しいワインにめぐりあっていませんでしたが、この本を読んで、またまたボルドーワイン(サンテミリオンに行ってきましたので・・・)を、いやブルゴーニュワイン(ボーヌにも行って来ましたので・・・)を、飲んでみたくなりました。
ボルドーは熟成したときの優雅さとしなやかさが女性的なのでワインの女王として、ブルゴーニュはきっぱりとした風味の強さや味わいが男性的なのでワインの王と言われている。
ところが、私には、いつも反対のように思えてなりません。ブルゴーニュのワインの方が優雅でしなやかだし、色あいも深味のある赤のような気がしてなりません。初めてブルゴーニュをボーヌで飲んだときの初印象が今も尾を引いているのでしょうね。ボーヌのホテルで食前酒として飲んだキールの美味しさは今も忘れられません。
苦い香り、甘い香り、酸っぱい香りというありきたりの表現は、ソムリエには禁止されている。そうなんですよね。それじゃあ、素人そのままですからね。じゃあ、何と言ったらいいのでしょう。
まずはグラスを回さずに匂いを嗅ぐ。空気を入れると、発酵が熟成からくる香りで見えにくくなる。果実からくる本来の香りを嗅ぐためにはグラスを回さないほうがいい。
そのあとグラスを回し、空気を入れた香りを嗅ぐ。こうやって二段階で香りを楽しむ。
ふむふむ、グラスをすぐに回すのではなく、回す前に匂いを嗅いでみるんですかー・・・。知りませんでしたね。
ワインは、熟成がすすむと、果実香が少なくなり、ミネラル、枯葉、キノコ、土になっていく。渋味がとれて、溶けたときに、腐葉土のような香りが出てくる。
熟成してくると、タンニンは減ってきて、今度はグリセリンのねっとりした感じが出てくる。酸味と渋味のバランスが少し落ちて、アルコールのもっているボリューム感が残る。それがコクにつながる。
なるほどなるほど、このように表現するのですね。
白ワインはキリリとした感じがあるが、これはリンゴ酸のせい。青リンゴやレモンなどにも含まれる酸味と同じ成分がブドウの中にも含まれている。しかし、赤ワインには含まれていない。
おいしいシャンパーニュには一つの原則がある。口の中にいれた瞬間は元気のいいクリーミーな泡がわっと広がるけれど、喉を通っていくときには泡が溶けてやさしい味わいになる。
イタリアワインには土壌の土臭みがある。クリーンなんだけど、必ず土壌からくる何かの香りがあって、酸味が多少ある。それがイタリアワインの基本。タンニン、土臭さ、ほどよい酸味。最初に腐葉土の香りを楽しみ、飲むと酸味がちょっとくるブルゴーニュ系、そして最後に黒胡椒のような刺激がある。
ワイン好きは違う。ワイン好きは、いつも前を向いている。いつ、どんな機会に、あのワインを飲もうかって、ワクワクしている。
うーん、いい言葉ですね。私もいつも前向きに生きていきたいと思っています。
この本に登場してくるソムリエが、長崎出身、熊本出身(2人)、福岡出身と、半数も九州の人なのにも驚きました。偶然のことなんでしょうが・・・。
私はワインは赤と決めています。あの渋味というかコクのある色あいにもほれこんでいます。白をいただいたら、知りあいに譲ってしまいます。なんたってワインは赤です。
2007年4月 6日
清華大学と北京大学
中国
著者:紺野大介、出版社:朝日選書
中国で有名な大学と言えば、当然、北京大学とばかり思っていました。違うんですね。お隣にある清華大学がナンバーワンの大学なんですね。ちっとも知りませんでした。北京大学には一度、構内に入ったことがあります。広い広い構内でした。カリフォルニア州にあるUCLAにも行きましたが、UCLAも広大なキャンパスをもっていました。
中国では政府が大学のランキングを公表している。第1位が清華大学、第2位が北京大学、第3位、南京大学、以下、復旦大学、西安交通大学、浙江大学と続く。
中国共産党の中央政治局常務委員会のメンバー9人のうち実に4人を清華大学OBが占めている。北京大学出身者は政治局常務委員にも政治局委員にも一人も入っていない。中央政府の高級官僚においても清華大学出身者の占める率は高く、それは北京大学の5倍。
清華大学は、1911年、アメリカ義和団事件の賠償金の返還金をもとに清王朝末期に創設された。
清華大学卒業生の4分の1は毎年アメリカに留学する。アメリカのハーバード、プリンストン、コーネル、エール大学などの学長が北京に来て学生をハンティングする。学生は、TDEFLの試験は免除、授業料も宿舎費用はすべてアメリカ持ちと優遇される。
アメリカに渡った学生の多くは中国に戻らず、カリフォルニアのシリコンバレーなどを支え、頭脳面でアメリカをしっかり支えている。
清華大学出身者が、北京大学の教授になることも多い。その半分を文化大革命のとき、清華大学付属中学の紅衛兵が運動の中核となった。造反有理のスローガンも、ここから始まった。1966年5月からのことである。
清華大学のキャンパスは404ヘクタール。学生3万2000人。教授陣8000人。そのほか、施設で働く人々が1万人。計5万人が学び、生活している。
清華大学は頭脳明晰だが、その反面、非常に堅くて保守的。時の体制に従順。それに対して、北京大学は自由な振る舞いが伝統。
清華大学の入試合格点が出身地によって異なるという仕組みには驚きました。しかも、北京出身者の方が低く(上海はもっと低い)、地方のほうがより高い点数をとらないと合格できない。そこで、子どもと一緒に「高考移民」しようとする親が続出するといった社会現象が見られる。ただし、このインチキがバレると、合格を取り消されてしまう。
うーん、すごい大学なんですね・・・。
実は、この本は私の敬愛する大阪の石川元也弁護士から推薦されて読みました。石川弁護士の娘さんが留学されていたそうです。
パンダの育児日記
生き物
著者:中国パンダ保護研究センター、出版社:二見書房
子どもパンダが、あっちゴロゴロこっちゴロゴロ。ウヒャー、可愛い。パンダって、こんなに愛らしかったんだー・・・。パンダ好きのあなたに必見の写真集です。安い値段(1400円)で、至福のひとときをあなたは手にすることができます。まさに、パンダは地球自然の至宝の一つです。
パンダの初乳は緑色。免疫力があって、栄養もたっぷり。初日から4日間は黄緑色で、5〜9日間は薄い緑色。10〜11日にクリーム色となり、12日から乳白色となる。それでも笹を食べるから緑色になるということでもない。これもパンダの神秘の一つ。
一時期、中国のパンダは1000頭にまで減ってしまったけど、今は1600頭に回復した。それでも絶滅の危機にある。
パンダの飼育は試行錯誤を経て、今では、なんと100%の成功率。しかも2005年には16匹のパンダの赤ちゃんが誕生して、全部、無事に育っている。ワー、良かったー・・・。2007年には、さらに17匹の赤ちゃんが誕生。飼育員にだっこされて勢ぞろいしている姿の可愛らしいことったら、ありません。パンダ幼稚園があり、盛大な入園式まであるんです。すごいですね。現地に行って本物を見てみたいですね。
ところで、日本書紀には、唐の女帝・則天武后が685年に生きた雌雄の白熊(ペアのパンダ)を日本の天武天皇に贈呈したと書いてあるそうです。ちっとも知りませんでした。本当でしょうか。
ちなみに、今、日本では、和歌山のアドベンチャーワールドにパンダが8頭もいるそうです。ぜひ見に行かなくっちゃ。あと、上野動物園に1頭、神戸の王子動物園に2頭。合計11頭のパンダが日本にいる。
パンダの妊娠期間は平均5ヶ月。出産は夏の7月から9月にかけて。生まれた赤ちゃんは100〜200グラム。肌は全身ピンク色で、白い体毛におおわれている。口を開けて鳴き声は大きいが、臭覚もなく、目も見えない。
1ヶ月たつと白黒の模様がはっきりしてくる。2ヶ月たって、やっと目が見えるようになる。前足で上半身を支えることができるようになり、遊びはじめる。
パンダは人間の子と同じように、とても繊細な感情をもっている。人によくなついてじゃれるし、すきを狙って報復したりする。
細やかな感情を表すように、パンダの鳴き声は11種類もある。羊の声、鳥の声、犬の声、牛の声、泣き声、叫び声、呻き声、舌打ち、呼吸の音、鼻を鳴らす音そして吠え声。
パンダは大人になるまで木登りが大好き。幹に抱きついて、枝を上手にお尻にはさんで、じっとしている。お昼寝タイム・・・。
ひゃー、えかった、えかった。かわゆーい、パンダのオンパレード。たんのう、たんのう。
不都合な真実
アメリカ
著者:アル・ゴア、出版社:ランダムハウス講談社
地球環境は人間が悪化させていることを視覚的に訴えた写真集のような本です。アル・ゴアはクリントンが大統領のときの副大統領で、現ブッシュ大統領と接戦の末、当選できなかった人物です。アメリカの団塊世代の一人でもあります。
映画も公開されましたが、私は見ていません。世界的に評判になったあと、アメリカでは、ゴアも自宅ではエネルギーの無駄づかいをしていると問題にしたグループがいました。事実かもしれませんが、アル・ゴアが告発している資源の乱費、そして地球環境の悪化は事実だと思います。みんながライフスタイルを見直すべきだというのは、まさにそのとおりです。
ただ、アル・ゴアはアメリカ保守層のチャンピオンとしての限界があるせいなのか、マックなどのファースト・フードそして世界的大企業が環境悪化を加速させている促進要因であることを問題にしていないのが残念です。
地球の温暖化の例証として、写真がいくつも紹介されています。キリマンジャロの山頂に山岳氷河がなくなってしまった。スイス・アルプス、アラスカなどの氷河がすっかり消えたり、大きく後退している写真には息を呑みます。
巨大ハリケーンが次々に発生してアメリカを襲った。
地球全体の降水量は20世紀に20%増加した。しかし、逆にアフリカのサハラ砂漠などでは降水量がひどく減っている。
温暖化のため、北極も南極も氷が減っている。
南極の皇帝ペンギンを描いたドキュメンタリー映画「皇帝ペンギン」は実に感動的でしたが、実はこの50年間に70%も減ったという。恐ろしい。
地球を夜、衛星からとった写真が紹介されています。日本は夜でも明るい。もちろん、北アメリカも明るい。ところが、アフリカや南アメリカなどでは、火が燃えて赤くなっている。森林の破壊がすすんでいることを意味している。
アメリカは京都議定書を今なお批准していない。先進国ではアメリカとオーストラリアのみ。アメリカの我がまま勝手は許せませんよね。
庭に植えているタラの木の芽を初めて食べました。昨年は、芽がぐんぐん伸びているのを、あれよあれよと見守っていて食べ損ないました。タラの芽を天プラにして食べたのですが、柔らかくてとても美味でした。少しばかりえぐみも感じましたが、それがかえって春を感じさせてくれました。アスパラガスもついでに天プラで食べてみました。わが家の庭のチューリップは相変わらず毎朝、目を楽しませてくれます。2週間はたっぷり楽しめます。
2007年4月 5日
その記者会見、間違ってます
司法
著者:中島 茂、出版社:日本経済新聞出版社
記者会見のすすめ方を具体的に手ほどきする実践的な本です。経営者や税務担当そして弁護士も読んで役に立つ内容になっています。
危機管理広報において世間に仕えるべきポイントは三つ。謝罪と原因究明と再発防止。このなかで原因究明がもっとも大切。
危機管理広報で最大の注意を要するのが、ウソをつかないこと。
間違った報道をされたときには、間違った記事を書いた記者に対してきちんとした説明を尽くすこと。
取材には極力応じること。記者も人の子、広報担当者が汗だくで必死に説明している姿には心打たれる。どのような状況でも、人間の誠実さは伝わるもの。
訴訟が起こされたとき、訴えられた会社が「訴状をまだ見ていないのでコメントできない」というのはよくない。「訴状はまだ受けとっていないが、法に従って管理してきたものと考えており、そうした点をご理解いただくために誠実にお話し合いを続けてまいりました。それだけに今回の提訴に至ったことは残念です。今後は、以上のような当社の立場を法廷で主張してまいりたいと考えています」こんなコメントが望ましい。
うむむ、なるほど、このようにしたらいいんですね・・・。
記者会見には企業のトップが出るのが原則。弁護士は記者会見に同席すべきではない。早くも法的責任が問題になっているように誤解される恐れがある。
記者会見の前にはリハーサルをする。練習に勝る不安解消策はない。想定問答集をつくる。記者が一番ききたいのは何かを考えて問いをつくること。
記者会見の場所はゆったりと余裕のあるスペースとする。狭いところでは、緊迫した精神状態になりやすい。会場には記者と別の出入り口をもうけておく。
答弁するとき、メモは最小限とし、Q&A、想定問答集がカメラでとられないようにする。説明するテーブルにはテーブルクロスをかけて足元は隠す。
記者会見では見てくれが成否を決める。入場する前に身だしなみをチェックしておくこと。ダーク・スーツ、落ち着いた柄のネクタイ、スーツのボタンはかけておく。高級腕時計はしない。
記者会見の模様は会社もVTRでとっておく。記者団を軽く見てはいけない。
謝罪するときは、お辞儀した姿勢で5秒間は静止する。会見場に3人で出るときには、一斉に頭を下げる。101、102、103、104、105と100をつけて心の中で数えると、5秒間になる。お辞儀の最後で笑わない。最後まで緊張感をもつ。
複数の会見者がいるときには、質疑のなかで、絶対にお互いの顔を見合わせない。万一、確認したいことがあっても、堂々と正面を向いたままいう。
机の上でいろいろ手を動かさない。低い声でゆっくり話す。会見者は、どんな窮地に立たされても、いやな質問を出されても、誠実な話し方を崩してはいけない。自分たちの都合で、記者会見を途中で打ち切ってはいけない。
私も弁護士会の責任ある立場にいたとき、記者クラブに一人で出かけて謝罪のための記者会見をしたことがあります。日頃、顔なじみの記者もいましたが、うって変わって厳しい質問が相次ぎました。私なりに精一杯こたえるようにしましたが、詳しい事情が私には分からないことも多く、そういうときには、すみません、その点は分かりませんとはっきり言いました。なかなか記者は解放してくれませんでしたが、私のほうから席を立つことだけはしまいと思い、幹事社の記者が終わりましたと言ってくれるまで、じっとカメラのライトに照らされて坐っていました。2回とも一人で45分も集中砲火をあび、終わったときにはさすがにぐったり疲れました。
2007年4月 4日
ネパール王制解体
アジア
著者:小倉清子、出版社:NHKブックス
本場の中国では、今や毛沢東を崇拝している人なんていません。昔は日本にもいましたが、今では聞きませんよね。ところが、ネパールでは、今も毛沢東主義を信奉し、武装革命を目ざす人々がいて、全土の8割以上を実効支配しているのです。なぜ、でしょうか。
最新のニュースによると、毛沢東派も内閣に入って大臣を送り出したとのことです。内戦状態が終結すればいいですね。
国王とマオイスト。世界のほとんどの国で既に過去の産物とみなされている二つの勢力が、ネパールでは21世紀に入って国家の土台を揺るがす存在にまで力をもっている。
マオイストは、2006年3月の時点で、1万5000人をこす兵力をもつ人民解放軍と、さらに、ほぼ同じ規模の人民義勇軍をかかえ、国家の土台を揺るがすほどの勢力に成長している。
ネパールには、右から左まで、さまざまな共産主義が存在する。国王の側近となり、王室評議会の会長にまでなった王室コミュニストさえいる。
1949年にインドのカルカッタ(コルカタ)で創設されたネパール共産党は、何度も分裂・合併をくり返し、大小の政党を生み出した。1990年の民主化後に制定された新憲法でもヒンドゥー教を国教とし、国民の8割がヒンドゥー教徒だと言われながらも、宗教を認めない共産党がネパール政治に重要な役割を果たしてきたのは興味深いこと。
ネパール共産党・毛沢東主義派ことマオイストが1996年2月に人民戦争を開始した当時、この小さな政党が8年足らずのうちに国土の8割を支配するほどの勢力になろうとは、誰も予測していなかった。
2001年6月1日。ネパールの歴史を変えたナラヤンヒティ王宮事件が起きた。ネパールの第10代国王ビレンドラ一家五人全員をふくむ王族10人が殺害された。「犯人」の皇太子も2日後に死亡した。
与党のネパール会議派も最大野党のネパール統一共産党も、真実を公にしない王室に抗議せず、逆に真相を求めて街頭行動する市民を抑えようとした。そんななかで、陰謀説を主張して国民の真情をひきつけたのがマオイストだった。
王室ネパール軍がマオイスト掃討をはじめた結果、二つの勢力の全面対決が決定的となった。その結果、犠牲者が急増し、2006年はじめまでに1万3000人をこえる死者を出し、何十万人にも及ぶ人が村に住めず、国内難民となり、またインドへ脱出していった。
マオイスト武装勢力のメンバーでは、女性が3割を占め、最低位カーストのダリットやマガル族などの割合が高い。マオイストは、国のため、あるいは党のための犠牲を最上のこととして教えられる。そのため、しっかりした思想があれば、死ぬのも怖くはない、と考えている。
ネパールの山岳地帯に住む人々の多くは、モンゴル系民族だ。そのひとつマガル族は、全人口の7%を占める。民族の問題はマオイストが自分の体内にかかえる爆弾でもある。マオイストの党首プラチャンダもトップ・イデオローグのバッタライも、インド・アーリア系の最高位カーストであるバフンの出身。党幹部の構成をみると、今も高位カーストのバフンやチエトリの男性が大半を占めている。その点では、他の政党と変わりがない。
ネパールの王室は陰謀を包みこんだ風呂敷。ネパールが統一されてから、1846年にラナ家による独裁政治が始まるまで、首相として国王に仕えた人物で自然死した人は一人もいない。
1962年に始まったパンチャーヤト制度では、王室がコミュニストの増殖を促した。それは何としてもネパール会議派をつぶしたい王室の意図が背後にあった。
日本はネパールの主要な援助国になっています。そのネパールの実情の一端を知ることのできる貴重な本だと思いました。
著者は今年50歳になる東大農学部出身のジャーナリストです。日本女性はネパールでもがんばっているのですね。
2007年4月 3日
プロ弁護士の思考術
司法
著者:矢部正秋、出版社:PHP新書
一度もお会いしたことはありませんが、国際弁護士として活躍中の著者の本は、いつも大変学ばされる内容であり、感服しています。
考えることは戦いである。自主独立の気概があれば、難問も必ず解決できる。自分で考えるためには、どんな場合でも、まず事実を確認し、根拠を吟味することが大切である。
ときに近くを見て、ときに遠くを見る考える遠近法こそが、自由自在に考えるために必要である。うーん、なかなか鋭い指摘ですよね。
すべての契約には個性がある。契約は一回的である。依頼者の立場、売主か買主か、貸主か借主か、ライセンサーかライセンシーかなどを考慮し、依頼者に有利なように契約をつくりあげるのが弁護士の役目。契約は、しばしば書類のたたかいと言われる。
インターネットでサンプル契約を集め、適当に取捨選択して契約をつくる若手弁護士が多い。これでは自分の考えがない。検索上手だが、考え下手の弁護士が増えている。ビジネスとオフビジネスのメリハリをつけた生活をすると、仕事のストレス感は減るし、簡単に気分転換ができるようになる。何よりも、オフ・ビジネスの楽しみがあると、仕事中も忙しいと感ずることが少なくなる。
ビジネスの世界は利害打算を基本とする。いわば灰色一色のモノ・トーンの空間である。一日中、仕事に密着していては、伸びきったゴムのようにもろくなり、切れてしまう。
弁護士の重要な資質のトップとして、オプションの提案力があげられる。オプションの有無は仕事の品質に決定的影響を与える。日本の弁護士は伝統的に一つの正解を依頼者に提示してきた。しかし、外国の依頼者は、そのような考えを嫌う。弁護士は最低三つのオプションを提示すべきだ。弁護士はあくまで選択肢を提供し、経営者はその是非を検討して方針を決める。
オプションが多いほどビジネス交渉では強い立場に立つことができる。選択の自由があるとき、人は最大の自由を得ることができる。自由はオプションの中にしか存在しない。オプションは自由を意味する。うむむ、これにはまいりました。私も伝統的なやり方でやってきました。考え直さなければいけないようです。
常識的なオプションだけでは、ほとんど役に立たない。必ず極論も考えることが必要。極論は、大胆な発想をするための突破口となる。極論を考えるのは、現実から一歩身を引き、現実を冷静に観察するよい方法である。極論を考えられないというのは、権威や権力に迎合し、伝統・因習・常識に毒されているからだ。これらは、思考を暗黙のうちに束縛している。
多くのものにあたって失敗し、その中からよいものを見つける。試して失敗したときは、失敗の原因を考え、あとに役立てる。日々の生活のなかで小さな実験と小さな失敗をくり返し、成功への法則性を見いだす。失敗から学ぶ習慣を身につけると、失敗を恐れなくなるという大きな副産物を得ることができる。
法律家は、新人から中堅、ベテランになるにしたがって、権威や常識に対して健全な懐疑心をもつようになる。権威や常識を疑うかどうかが、法律家の成熟度を示す目安だ。疑うときに疑わず、疑うべきときに疑うのが若手に共通する欠点だ。
天の邪鬼は小うるさく扱いにくいが、みずからの目で時代を分析する創造性と可能性をはらんでいる。異質の意見こそ社会にとって貴重だ。
そうなんですよね。まあ、私自身も天の邪鬼だと周囲からは思われているのでしょうね。テレビは見ないし、ゴルフもカラオケもしないし、芸能界ともスポーツ界とも、とんと無縁の生活を送っていますからね。でも、本人は、いたってまともな人間のつもりなんですが・・・。
上申書とは、上級の官庁や上役に意見を申し述べること。弁護士と裁判官は上下関係にないから、おかしなタイトルだ。私も、ずいぶん前から上申書というタイトルはつけないようにしています。
まじめな弁護士は紛争の解決がたいてい下手。法律家は、美徳の中に悪徳を見い出し、悪徳の中にも美徳を見い出す複眼が必要だ。
ふむふむ。なーるほど。大いに勉強になりました。
2007年4月 2日
マイナス50℃の世界
世界(ロシア)
著者:米原万里、出版社:清流出版
江戸時代、大黒屋光太夫は伊勢の港から江戸へ向かう途中、嵐にあってアリューシャン列島に流されてしまいました。そこからカムチャッカにわたり、当時のロシアのペテルブルグ(今のサンクトペテルブルグ)に向かい、そこで女帝エカテリーナに会って帰国の許可を得ました。大黒屋光太夫が大変難儀した冬の旅程をTBSが再現しようとしたのに著者が通訳として同行したのです。
ヤクーツクの冬は、日照時間が一日4時間ほど。太陽は午前11時に顔を出したかと思うと、午後2時には隠れてしまう。18時間の夜と6時間のたそがれ時からなっている。
マイナス40度になると居住霧が発生する。人間や動物の吐く息、車の排気ガス、工場の煙、家庭で煮炊きする湯気などの水分が、ことごとく凍ってしまってできる霧のこと。冬には風は吹かない。この霧が出ていると、視界はせいぜい4メートルほどになってしまう。前を走る車の排気ガスのため、1メートル先が見えなくなる。怖いですね。
地表面は凍土が凍ったり溶けたりするので、建物は土台からねじれひん曲がり、どんな建物でも50年ともたない。
しかし、最近のビルは4〜5階建てのコンクリート住宅。凍解をくり返す層よりさらに深い15メートルほど杭をうちこみ、地表面から2メートルほどの高さの杭にビル本体の基礎を置く。つまり高床式のビルをつくるわけ。基礎の杭を固定するには、塩水を隙間に流すだけ。すぐに凍って杭をしっかり支える。
マイナス50度の戸外で働く労働者は40分間、外で作業すると、20分間はあたたかい室内に戻って身体を温めるというサイクルで仕事をする。
ヤクートは、世界有数の鉱物資源大国。トンネルや鉱山などの坑道は、掘るのは大変だが、ひとたび出来たら凍結しているので、支えは不要。落盤事故もない。
氷上で釣りをする。魚がかかったら引きあげる。ピクッピクッ。そして三度目にピクッとする前に魚は凍ってしまう。10秒で天然瞬間冷凍になる。
マイナス50度の野外ではスキーやスケートはできない。寒いと氷はすべらない。あまりに寒いと、まさつ熱では氷がとけないので水の膜もできないから、スケートもスキーもできない。
現地の人の家は三重窓の木造平屋。マイナス50度でも、洗濯物は外に干す。トイレは室内になく、すべてこちこちに凍るので臭気はまったくない。うーん、困っちゃいますよね。お尻をマイナス70度にさらすなんて・・・。
ビニール、プラスチック、ナイロンなどの石油製品はマイナス40度以下の世界では通用しない。ひび割れ破れ、パラパラと粉状になってしまう。現地の人は人工繊維は一切着ない。帽子も手袋もオーバーもブーツも、全部毛皮。下に身につけるのも純毛と純綿。毛皮はぜいたく品ではなく、生活必需品。酷寒のヤクートで育った獣たちの毛皮は、毛並がたっぷり豊かで、密。現地の人がはいている膝まである毛皮のブーツは、トナカイの足の毛皮で作るに限る。
こんな寒い国に生きている人々なのにロシア第二の長寿国だ。不思議なことですね。
著者は昨年5月、がんのため亡くなられました。愛読者の一人として、その早すぎた死が惜しまれてなりません。この本は、著者がまだ30代の元気ハツラツな女性だったころに小学生向けに書かれた紀行文をまとめたものです。文才があることがよく分かります。おかげでマイナス50度の驚異の世界を知ることができました。