弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年3月30日

徳川光圀

江戸時代

著者:鈴木暎一、出版社:吉川弘文館
 有名な「水戸黄門」の主人公の素顔を追求した本です。葵の印籠ですべてが解決するなんて、映画(ビデオ)のなかだったらいいのですが、現実にそんなものがあったら困りますよね。文句があっても、権力者の言いなりになれっていうことですからね。
 光圀は光国だったこと、少年時代はほとんど非行少年だったこと、隠居したあと側近を自ら手討ちした(殺した)ことなどを知りました。人生いろいろあるものなんですね。
 光圀は徳川家康の孫なんですね。知りませんでした。父の頼房は、家康の末子(11男)だったのです。父頼房も、壮年期になるまでは、豪気というより奔放・無軌道の一面があった。まだ戦国時代の風潮が残っていた。
 父頼房は光圀を世継ぎ(世子)と定め、気骨ある武人、武将に育てあげることに心を砕いた。しかし、光圀は勝ち気で強情な少年だった。馬術とともに水泳を得意とした。光圀は、17歳ころまで、父の期待を裏切ること甚だしい品行不良の少年だった。
 言語道断の歌舞伎人と評された。
 脇差しは前へ突出して差し、挨拶の仕方や殿中を歩く姿は軽薄・異様。着物はいろいろ伊達に染めさせ、びろうどのえりを巻き、長屋へ単身出かけて厩(うまや)番や草履取りとも気軽に色好みの話をし、三味線を弾いている。
 なーるほど、かなりの不良青年だったようですね。光圀が遊里から朝帰りするとき、酔っぱらいが刀をふりまわしているのにぶつかった。水戸家出入りの旗本の子だったので、一喝しておさめた。こんなエピソードも紹介されています。
 18歳になって、光圀はすっかり反省し、行状を改めました。それからは学問に精励したのです。
 光圀はなかなかの美男子で、もてたとのこと。色白にして面長、額ひろく切れ長の眼で鼻梁の高い美男だった。登城の日、その姿を見ようと大勢の人が押しかけ、人垣が崩れかかって騒動になったこともあるそうです。
 光圀はずっと江戸に住んでいた。36歳のときに初めて水戸へ下った。以後、10回、藩主として水戸に下っている。えーっ、そんなに少ないのですかー・・・。驚きました。
 光圀は生涯ほとんど旅行らしいものをしていない。水戸から鎌倉・江ノ島そして江戸へ17日間かけて旅行したのが、生涯唯一の旅らしい旅だった。要するに、「水戸黄門漫遊記」なるものは、まったく架空の話なのです。
 光圀はずっと光国でした。この圀という字は、唐の則天武后がつくった則天文字の一つです。ほかの字は廃されたのに、なぜか、この圀の字だけ日本に生き残ったのです。
 光国が光圀としたのは、56歳のときのこと。
 光圀は蝦夷地探検を試みた。苦しい藩財政に利益をもたらす目論見があったようだ。探検のため性能のよい大船(快風丸)を建造した。全長27間、幅9間。千石船をはるかにしのぐ規模の巨船だった。
 光圀67歳のとき、小石川の藩邸で能興行中に、腹心を手討ち(刺殺)した。かねがね、その高慢ぶりに注意を与えていたが、問答の末、もう堪忍なりがたく成敗した、というのです。やっぱり、殿様って怖いですね。
 光圀が大日本史の編纂にとりかかったのは30歳のとき。73歳で死んだときも、まだ完成はしていませんでした。歴史を書くというのは、すごく息の長い事業なんですね。

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