弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年3月 9日

雷神の筒

日本史(中世)

著者:山本兼一、出版社:集英社
 織田家鉄炮頭(てっぽうがしら)橋本一巴(かっぱ)の物語。
 火縄銃が種子島に伝来して11年。織田鉄炮衆は200挺もそろえていた。先日読んだ本によると、火縄銃が種子島に初めて伝来したのか、本当のところは確証はなく、そのころ、九州各地に一斉に鉄炮が伝来してきたのではないかということでした。要するに、海の彼方から西洋製の鉄炮が伝来してきたというわけです。種子島の沖には川より流れのはやい黒潮があり、それに乗れば種子島から堺までわずか4日。種子島は海の宿場町。奄美・琉球はもとより台湾、福建、浙江はては呂宋やポルトガルの連中までやってくる。
 先日の新聞に、種子島では、この新説に対して大いに異論を唱えており、近くシンポジウムを開くとのことです。
 この本では鉄炮となっています。鉄炮一挺の相場は10年でずいぶん下がって、銭50貫文。米にして百石(こく)。武具というより、珍奇な玩具のたぐい。そんな高価な鉄炮を集めて喜んでいるのは、九州の大名のほかは足利将軍義輝くらいのもの。九州では実戦に鉄炮がつかわれ、大隅国では鉄炮による初の戦死者も出た。
 日本人は器用ですから、伝来してきた鉄炮を分解して、たちまち大量生産をはじめました。近江の国友村は、琵琶湖の北東にある小さな村だが、数十軒の鉄炮鍛冶がある。この国友村こそ、鉄炮製造の一大メッカだった。さまざまな大きさと形の鉄炮が試作されていった。
 世界で最初に黒色火薬を発明したのは、おそらく10世紀の中国人。硝石に硫黄と炭を粉にして混ぜると、すばやく着火、燃焼する。
 火薬をつくるうえで欠かせない塩硝は尿にふくまれる硝酸アンモニウムと珊瑚を焼いた炭酸カリウムを硝化菌というバクテリアのはたらきで硝酸カリウム(硝石=塩硝)に変成させた。
 鉛玉がそろえられないため、陶製の玉(陶弾)をつくった。土を選び、釉薬を加減して硬く焼きしめると鉛玉と同じように発射できた。甲冑(かっちゅう)への貫通力もある。
 織田軍と武田軍の長篠の戦いのとき、三段撃ちは実戦と違うという指摘がなされています。鉄炮は、設楽原に1000挺、鳶ヶ巣山を襲った別働隊に500挺。あわせて1500挺と推測しています。
 ただ、この本は従来の通説にしたがって今川義元が敗死した田楽狭間(でんがくはざま)について、狭い谷としていますが、これは間違いと思われます。実際には小高い丘の上に今川義元の本陣はあり、織田軍は、そこへ正面突破をかけたのです。小説であっても歴史物を書く以上、学説の動向をきちんとふまえておかないといけません。
 日本は明に日本刀を輸出した。一振(ふり)、二振の単位ではなく、束にして一把(ぱ)、二把の単位で数えた。値のいいときは、日本で一振八百文から一貫文の刀剣が明では五貫文で売れた。享徳2年(1453)から天文16年(1547)までのあいだに、113万8000振の日本刀が中国に輸出された。
 鉄炮伝来以来の戦(いくさ)の変容と、それを担った鉄炮衆の存在に目が見開かされる面白い小説でした。

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