弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年2月 8日

天皇の軍隊と日中戦争

日本史(現代史)

著者:藤原 彰、出版社:大月書店
 現代史・軍事史研究の権威であった著者は陸軍士官学校を出て陸軍将校として中国へ派遣され、決戦師団の大隊長となったが、陸軍大尉として無事に戦後、復員してきました。その体験をふまえての軍事史研究ですから、やはり重味が違います。
 兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊の特徴だった。圧倒的勝利に終わった日清戦争をみてみると、日本陸軍の戦死傷者はわずか1417人。ところが病死者はその10倍に近い1万1894人。患者総数はのべ17万1164人であり、出動部隊の総人員17万3917人に匹敵している。これは軍陣衛生に対する配慮が不足し、兵士に対して苛酷劣悪な衛生状態を強いた結果である。
 日露戦争のときには兵士を肉弾としてつかい、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。ベトンで固めた旅順要塞に対して、銃剣だけに頼る決死隊の総攻撃をくりかえして死体の山を築いた。
 兵士の生命の軽視がもっとも極端に現れたのが補給の無視だった。精神主義を強調する日本軍には、補給・輸送についての配慮が乏しかった。武士は食わねど高楊枝とか、糧を敵に借りるという言葉が常用されたが、それは補給・輸送を無視して作戦を強行することを意味していた。
 アジア太平洋戦争における日本軍の死没者230万人の半数以上が、餓死か栄養失調を原因とする病死である事実を直視しなければならない。
 硫黄島の戦いを描いたクリント・イーストウッドの映画を2本ともみましたが、日本軍が兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に欠けていたという指摘は本当にそのとおりだと思いました。2万人いた守備隊のうち1000人ほどしか生還しなかったのです。栗林中将が自決したときにはまだ3000人の日本兵がいたというのに、降伏しないまま  2000人が死んでいるという事実は、実に考えさせられます。
 兵士の自主性を認めず、その生命を軽視している日本の軍隊が、その存立の起訴として重要視したのは、軍紀を確立し、絶対服従を強制することだった。絶対服従が習慣となるまでに、兵営生活の中で習熟させた。
 ただ、この点はアメリカ軍でも同じような気もします。ベトナム戦争を扱った映画「プラトーン」や「ハンバーガーヒル」「フルメタルジャケット」などに、新兵を殺人マシーンに仕立てあげていく様子がリアルに再現されています。
 最後の支那派遣軍総司令官だった岡林寧次大将が戦後(1954年)に偕行社で行った講演が紹介されています。
 日露戦争の時代には慰安婦は同行しなかったが、強姦もなかった。ところが、昭和12年になって、慰安婦を同行しても、なお多くの強姦する兵士が続出した。
 1939年(昭和14年)、陸軍次官は、中国戦線から日本へ帰還した日本兵が中国での虐殺や強姦の事実をしゃべることのないよう取り締まれという通達(通牒)を陸軍の各部隊に発した。というのは、帰還兵たちが、たとえば半年にわたる戦闘中に覚えたのは強姦と強盗だけだ、と言っていたから。
 著者は南京大虐殺を幻だとか捏造だと決めつけている論者を厳しく批判しています。
 たとえ捕虜の撃滅処断1万6000、市民の被害1万5000としても、それは大虐殺である。中国側のあげる南京での30万人の大虐殺という数字は、白髪三千丈式の誇張であるとし、それを攻撃することで、南京大虐殺は捏造だと決めつけることが、日本人として取るべき態度なのか。捕虜の不能な殺害や市民に対する残虐行為が、正確な数は不明としても多数存在したことは、消しがたい事実なのである。数の多少を問題にするのだったら、範囲を広げれば、いくらでもその数はふえるのである。
 日本軍が、軍紀の弛緩と中国人、アジア諸国に対する蔑視観とから、大規模な残虐行為を犯したことは遺憾ながら事実なのである。その事実を直視し、原因の追及と批判を行うことが、忌まわしい歴史を後世への教訓として生かすことになる。
 私は、この指摘にまったく同感です。私の亡父も中国戦線へ一等兵として送られていました。幸いなことにマラリアなどの病気にかかって本国送還されて南京攻略戦には参加していませんが、侵略軍の一員であったことは事実です。その子どもとして、日本人は加害者であったという事実を直視しなければいけないと考えています。

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