弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2007年2月16日
蒙古襲来絵詞を読む
日本史
著者:大倉隆二、出版社:海鳥社
熊本の武将・竹崎季長(すえなが)が蒙古襲来のときの自分の戦功を鎌倉幕府に訴え、恩賞をもらうために絵師に合戦状況を再現するよう描かせ、この絵巻物をもって鎌倉まで出かけて直訴した。私も、いつのまにか、そう思いこんでいました。いわば証拠写真をもって政府にかけあったというイメージです。
ところが、それはまったくの誤解なのでした。むしろ、竹崎季長は、蒙古合戦における自分の働きや見聞したことを再現するだけでなく、この合戦で活躍しながらも、その後の鎌倉幕府上層部の内紛で非業の死を遂げた恩人たち、たとえば安達泰盛(季長の手柄を認めた)、菊池武房(二度の蒙古合戦で数々の武功をたてた)、河野通有(一緒に戦った)などを回想し、鎮魂の意味をこめて、この絵詞を絵師に制作させた。
文永11年(1274年)10月、元と高麗の連合軍2万3000が対馬・壱岐を襲撃し、10月20日に博多湾岸に上陸した。このときは1日だけの戦闘で、夜には元・高麗軍は軍船に撤退し、翌朝は、博多湾から姿を消していた。
弘安4年(1281年)5月、元・高麗連合軍4万(東路軍)と、南宋の降兵10万(江南軍)が押し寄せた。このときの戦闘は、5月から7月にかけて2ヶ月あまりに及んだ。閏7月1日の台風によって遠征軍は壊滅状態となり、日本の将兵は、逃げ遅れた遠征軍を掃討した。季長は文永の役のとき29歳、弘安の役のとき36歳だった。
季長の戦功を認めた安達泰盛と、その子盛宗は、弘安8年(1285年)の霜月騒動で滅ぼされてしまった。だが、正応6年(1293年)、旧泰盛派は復権した。
絵詞は、通説によると永仁年間(1293〜99年)に制作された。しかし、著者は、もっと遅く、正和3年(1314年)に制作されたとします。このとき、季長は69歳になっていた(死亡したのは79歳のとき)。
絵詞に、赤坂という地名が出てきます。日本の将兵が蒙古軍と戦った場所です。今の裁判所あたりの高台が蒙古合戦の舞台だったというのを知ると、なんとなく感慨深いものがあります。
絵師は京都で修行を積み、博多に住んでいた一派ではないかと著者は推測しています。一人ではなく、何人かの腕の良い絵師が分担して描いたというのです。
季長は少し離れたところ(たとえば肥後)に住んでいて、気に入らないところは絵師に手直しを求めていたようです。それもあって、いったん描かれた将兵の足や着物などが訂正されているのです。
全部の絵がのっているうえ、詞も原文だけでなく、現代語の訳文がついているのもうれしい本です。
レバレッジ・リーディング
社会
著者:本田直之、出版社:東洋経済新報社
読書とは投資活動そのもの。本を読むのは、自分に投資すること。そして、それはこのうえなく割のいい投資である。1500円の本で学んだことをビジネスに生かせたら、元がとれるどころか、10倍いや100倍の利益が返ってくる。
本を読まないから時間がないのだ。忙しくてヒマがないというのは事実に反している。
本当は、本を読めば読むほど、時間が生まれる。本を読まないから、時間がない。というのは、本を読まない人は、他人の経験や知恵から学ばず、何もかも独力でゼロから始めるので、時間がかかって仕方ないから。
ゲーテは、常に時間はたっぷりあるし、うまく使いさえすれば、このように言っている。
うーん、なるほど・・・、そうなんですよね。
できるだけたくさんの本を効率よく読むことが肝心。読書をしない一流のビジネスパーソンは存在しない。
本は自腹を切って買うこと。書きこみをし、よれよれになっても構わない。お金を出すと、元をとってやろうと真剣に読む。
著者は本を年に600冊ほど購入し、400冊を読む。本代は月に7〜8万円。私とあまり変わりません。私は年に500冊の単行本を読みます。本代も月に10万円ほどになります。ちなみに、夜の巷での飲み代はほとんどありません。ただし、接待・交際費はあります。後輩の弁護士や司法修習生と飲食をともにする機会は多いのです。
一つのテーマについて、たくさんの本を集中して読むこと。私は、たとえば一つのテーマについて30冊の本を読むようにしています。それは入門書でも何でもいいのです。これくらい読むと、大体のことが分かります。
著者は朝1番に早起きして風呂で本を1冊読むそうです。とてもマネできません。私はもっぱら移動中の電車や飛行機のなかです。周囲の騒音がほとんど耳に入らないほど集中して本が読めます。片道60分に本1冊というのが、私の標準的なペースです。ちなみに、この本は、電車のなかで15分ほどで読了しました。もちろん、たくさん赤エンピツを引きました。それをたどって、こうやって書いているのです。これを書くのに40分かかります。やはり、読む以上に書くのには時間がかかります。
速く読むといっても、問題意識をもって読むので、「ん?」と引っかかるところが出てくる。活字のなかで、そこだけ太く、濃く見えるというか、浮き上がって見えてくる。そこで、スピードを落とし、じっくり読む。
私は、赤エンピツを取り出して、アンダーラインを引きます。
著者はビジネス書ばかり読んでるそうですが、本当でしょうか。それでは人間の幅が狭くなってしまうんじゃありませんか。私は、いろんなジャンルに飽くことなく挑戦しています。
2007年2月15日
小泉規制改革を利権にした男・宮内義彦
社会
著者:有森 隆、出版社:講談社
現代日本の悪名高い政商の実像を暴いた本です。こんな男が規制改革の旗ふりをしているのですから、日本の前途が危ぶまれるわけです。
宮内は2002年の時点で、地方は切り捨てていいと高言していました。
東京23区の人口は800万人。これを2倍の人口が住める街に改造すれば大変効率が上がる。所得配分を自然にゆだねると、過疎地の人口は町村等の中心地に移動し、地方の中核都市がさらに発展していく。
ここには経済効率しか念頭にありません。なんと貧相な頭でしょうか。
宮内義彦自身は政商と呼ばれることを大変嫌っているそうです。でも、右手で規制緩和をすすめながら、左手でその分野に自らビジネスを拡大していったのです。これを政商と言わずに何と言うでしょうか。
宮内は公人と私人(企業人)の立場を実に巧みに使い分ける。公人としては参入障壁が高い分野の扉をこじ開け、企業人としては先頭に立ってその分野に新規参入する。政策を自己に有利な方向に誘導していくのだ。
規制緩和の大義名分の下で自らこじあけたドアから、真っ先に足を踏み入れるのが宮内の流儀だ。
宮内は、官営経済と統制経済を解体することが戦後最大のビジネスチャンスを生み出す、こう語る。官製市場の規制緩和によって、公的サービスを肩代わりして収益源に変える。その一つが医療分野の民間開放である。宮内がまず足を踏み入れたのは、高知県でのPFI病院。次いで、神奈川県で株式会社病院に参入した。
宮内のオリックスがリース時代から一貫して収益の柱としているのは、パチンコ店とラブホテル。大阪にはパチンコ店の店内専門の部署がある。パチンコ店の店内工事やラブホテルの内装を行う内装工事会社を子会社にもっている。
宮内は読売社主・巨人オーナーの渡辺恒雄(ナベツネ)と犬猿の仲だった。
宮内ごときと大読売が日本シリーズで対決だって? 穢れる。不愉快。オリックスなんて、まともな正業ではない。
宮内は、規制緩和のインサイダーではないのか。宮内は1996年に行政改革委員会規制緩和小委員会座長に就任して以来、規制改革委員会委員長、総合規制改革会議議長、推進会議議長と、組織の名称は変わっても、常に、そのトップの座に君臨してきた。
宮内辞任のカウントダウンが始まったのは、村上ファンド事件の発覚からだった。宮内は最大の後ろだてだった小泉純一郎が首相の座からおりたあと、後任の安倍には嫌われていたので、渋々、トップをやめざるをえなかった。
私は弁護士会の役員として東京にほぼ常駐していたころ、自民党有力議員の昼食セミナーに参加したことがあります。講師は八代尚宏教授ともう一人、女性アナリストでした。規制緩和すれば日本経済は回復するという強いトーンの講演内容でしたが、その一つとして駐車違反取り締まりの民営化があげられていました。ええーっ、そんなことまで民営化しようというのか、と大変驚いたことを覚えています。しかし、これは既に実現してしまいました。この取り締まりにあたっている民間企業は警察等の行政OBと何らかの関係があると思いますが、いかがでしょうか。
彼らのすることには、すべて裏がある。何かの利権につながっていると思わなくてはいけません。
でも、天下国家を論じているふりをして弱者を食いものにする男って、本当にサイテーですよね。これでいっぱしの企業人気取りで大きな顔をしているのですから、日本の財界も墜ちたものです。お客様は神様、とまでいかなくても、金もうけするにしても、もう少し社会的弱者へ目配りしつつ金もうけしてほしいものです。
2007年2月14日
NHKvs日本政治
社会
著者:エリス・クラウス、出版社:東洋経済新報社
NHK受信料を支払わない家庭が11万件。これは総契約数の0.3%。日本全国
3500万世帯がNHKと受信契約を結んでいる。支払い拒否は、10億円の収入減を意味する。実は、私もNHKの不祥事発覚以来、支払いを拒否しています。もっとも、私はテレビを見ることはまったくありません(ただし、ビデオで動物番組を見ることはあります。日曜日の夜に、1時間ほどですが・・・)ので、罪悪感はまったくありません。見てないのに、なぜ受信料を支払わなくてはいけないのか・・・、というわけです。今や成人してしまった子どもたち3人もテレビを見ないで育ちました。今の私と同じようにビデオだけは見ていました。じいちゃん(義父)が送ってくれていたのです。
NHKのニュースにおいては、驚くほど国家に注目し、よく登場する。政治的な話題のなかで最大の割合を占めているのが国家官僚機構の活動。官僚機構にやたらにたくさん注目するのがNHKの政治報道の特徴だ。逆に、NHKのニュースは、社会や市民個人についてはあまり報道しない。うむむ、なるほど、そう言われると、たしかにそうですよね。
NHKにおいて、国家は紛争を調整する人として描かれている。国家は、何よりもルールと意志決定の儀礼的な策定者として描かれている。国家は、国民の利益を守る、積極的な守護者として、社会の諸問題に対応する姿が描かれる。うーん、そうかー、それは片寄った見方ですよね。
日本の記者と取材源との関係で何より特殊なのは、記者クラブの存在。記者クラブは、日本新聞協会によって正式に認可され、規制されている。
記者クラブは、ジャーナリストを政治家や官僚たちとの親密な結びつきを生み出している。記者クラブの存在によって、政府からの自律というジャーナリストの職業規範は希薄になり、NHKの記者は組織の犬になってしまう。
記者たちの関係を調整する非公式の規制や規範があり、とても詳細だ。たとえば、番記者のルールに、質問は首相の腰が膝より低いときまでというのがある。つまり、首相が立ち上がったら質問は許されないのだ。
自民党の総務会の会合は、ドアが5センチだけ開いている。15分ごとに記者が交代して立ち聞きするという慣習がある。そうやってリークして、世論を誘導しようとする。
NHKのニュースは、昼のニュースについて午前10時に会議が開かれ、夜7時のニュースについては、午後4時の会議で最終決定がなされる。しかし、20人もの人が集まっては何もできない。これは芝居にすぎない。メインプロデューサーの決めたことを正式なものにする儀式が行われるだけのこと。
NHKはきわめて政治的に動く。たとえば消費税導入の前、世論調査の結果、国民の 46%が反対、賛成はわずか19%だけだった。このとき、NHKは、まったく無視して放映しなかった。
アナウンサーはジャーナリストではない。彼らは1分間に300文字というペースを守って読むだけ。ニュースを取材することはない。トーキングマシーンでしかない。あくまでニュースは台本に従って動いていく。
NHK会長を承認しているのは、現実には首相をはじめとする自民党の首脳たち。
NHK会長のポストは与党の人事決定によるもの。それは内閣のポスト配分とほとんど同じ。会長に選出されるためには、多くの場合、自民党内に支援者が必要となる。少なくとも、首相や自民党内の有力派閥の領袖を敵にまわさないように努力しなければならない。
日本とアメリカの記者の最大に違いは、アメリカの記者が独自の報道スタイルを発展させていくのに対して、日本の記者が書くものは比較的似ていること。日本の記者は基本的に企業人間であり同じ組織内部の人々と交流してきた。
NHKの局長クラスは臨時職員を雇う権限をもつので、政治家や有力者の家族や交際範囲を採用してきた。縁故採用者でも、2〜3年で正規採用のチャンスをもらえる。そのときの試験は、一般の入社試験に比べて、はるかにやさしい。
自民党の有力幹部は、みなこのNHKの裏口を利用してきた。
NHKは、自民党からときどき批判されることもあるが、NHKは自民党の支配に大きく寄与しているし、自民党もそのことを十分に意識している。
NHKは自民党の影響力に弱いし、官僚支配を揺さぶることは一切表現しない。
自民党が政権を握っている限り、NHKが完全に解体されることはないし、完全な商業化や民営化されることもないだろう。
NHKって、自民党営放送って名前を変えたほうがいいですよね。この本を読んで、私は改めてそう思いました。
2007年2月13日
救出への道
世界史(ヨーロッパ)
著者:ミーテク・ペンパー、出版社:大月書店
シンドラーのリスト・真実の歴史という副題がついています。あの有名な映画「シンドラーのリスト」は実話を素材としていますが、映画化のとき、多少は脚色されています。この本は、シンドラーと相協力した収容所所長書記(速記者)をつとめた囚人によって書かれた本です。
当時24歳だったユダヤ人青年のあくまで沈着・冷静な勇気ある行動が、シンドラーの大胆なユダヤ人1000人の救出作戦を可能にしたことが手にとるように分かります。映画「シンドラーのリスト」を見て感動した人に、その舞台裏を知るうえで必読の本として、おすすめします。
剣をもって戦う者は、剣をもって滅びる。ドイツ占領者に対して抵抗する途は、武器を取る以外にもあるかもしれない。著者は、このように考えました。もちろん、むざむざ死んでいくつもりもない。ほかの人々のためになることだけが大切だ。それ以外のことは、とるに足りない。著者の考えはすごいですね。
著者は、自分が晴れて自由の身になれようとは思っていなかった。所長のゲートは収容所が解放されそうになったら、その直前に口封じのため射殺するだろうと思っていた。
著者は、出来る限り透明人間のようになっていた。だから、いつもごく普通の縞模様の囚人服を着ていた。
収容所内で親衛隊と内通していたユダヤ人は、遅かれ早かれ、手の内を知った厄介者として親衛隊に始末されてしまった。本人は自分たちだけが戦争を生き延びると信じこんでいたのだが・・・。
ユダヤ人囚人が強制収容所司令官の速記者だったというのは明らかにナチスの規則に反していた。
所長のゲートは、あるとき、収容所の警報・防衛計画すら著者に立案するように命じた。極秘中の極秘のはずなのに・・・。それほどまで著者は信用もされ、かつ、有能だったわけです。所長のゲートとシンドラーは、同じ1908年生まれ。シンドラーは、限りなく楽天的な人生観、自由を求める意志、回転の速い知性をもっていた。
シンドラーは、誰とでも知りあいになりたい、誰からもすばらしいと思われたいという人だった。恐ろしく自信たっぷりだった。決して聖人ではない。とても人間味があり、軽はずみなところも多々あった。しかし、シンドラーは、決してユダヤ人を見捨てることはしなかった。
シンドラーは、カナリス提督のもとで、数年間、スパイとして働いたこともあった。
シンドラーは著者と会うと必ず握手した。これはドイツ人とユダヤ人囚人との間では異常なこと、いや処罰の対象となりうることだった。
シンドラーは、非凡な人間だったが、非凡な時代にしか通用しない人だった。波風たたない日常のなかで、シンドラーは挫折し、再起することなく、1974年にひっそりと死んでいった。生前に別れた妻も2001年に死んだ。しかし、シンドラー夫妻のおかげで助かったユダヤ人とその子孫が今では6000人もいる。
著者が助かった一つの原因として、所長のゲートが横領罪でナチス親衛隊予審判事に逮捕されたことがある。ユダヤ人のゲットーを解体したとき、勝手に私腹を肥やしたことが職権濫用とされたのです。これで、収容所が解体されたときに著者はゲートから射殺されなくてすみました。
もう一つの収容所では、シンドラーがその所長(ライポルト)をあおりたて、前線へ志願させて追い払いました。すごい策略です。シンドラーは、お金もつかいましたが、頭も相当につかったことが、この本を読むとよく分かります。
ポーランドのクラクフには、戦前、ユダヤ人が5万6000人住んでいました。戦後、戻ってきたのは、そのうち4000人のみ。そして、21世紀の今、200人しか住んでいないそうです。
シンドラーのリストがつくられていった過程も説明されています。ともかく、軍事上の重要性を強調し、この人たちでなければ優秀な砲弾はできない、シンドラーはそういった嘘をついて守り抜いたわけです。ところが、実は、つくった砲弾はナチス軍の役に立たない欠陥品だったのです。なんという離れ技でしょうか。
絶望は勇気を与え、希望は臆病にする。なんという文章でしょうか。普通に考えると、これは正反対だと思います。まさに極限の状況に置かれていたことがよく分かります。
ナチスのやることは完璧に近いが、それでも、ある程度の食い違い、不手際はいつもある。この悪魔のような絶滅のための万全の組織のなかにさえも、ある種の隙間と抜け穴がある。これをどうやって見つけるか、それが問題だった。うむむ、なるほど、すごい。
ユダヤ人は人の形をした劣等な生きものだと考え、気の向くままにすぐ殺してしまうような狂暴な所長のすぐそばに2年ほどもいて、それでもこれだけの冷静さを失わずに、所長をたぶらかし続けたというのです。理性の勝利とはいえ、たいしたものです。こんなことを考えつき、それを実行できるとは・・・。
写真でみる当時の著者の凛々しさは、神々しいほどです。
ポカポカ陽気の三連休でした。澄み切った青空の下で庭仕事に精出しました。いまは水仙畑のように庭のあちこちに白い水仙が咲いています。黄色の水仙も一群れだけあります。春のような陽気のせいでしょうか、クロッカスが黄色い小さな花を咲かせはじめました。ちょっと早過ぎる気がします。アネモネの橙色の花もふくらんでいます。驚きました。
紅梅・白梅は、今年はなぜかほとんど花を咲かせません。紅と白と一つずつ花が咲いているだけで、つぼみもチラホラしかありません。昨年は見事に咲いて、たくさんとれた梅の実で梅ジュースをつくったのですが・・・。どうしたのでしょう。今年は梅の花はお休みのようです。
夕方6時まで明るいので、花壇づくりがはかどりました。がんばり過ぎて右腕が痛くなってしまいました。何ごともやり過ぎはいけませんね。
2007年2月 9日
徴税権力── 国税庁の研究
社会
著者:落合博実、出版社:文藝春秋
新潟地検の検事正が、妻と義母の遺産相続について東京の税務署から2億数千万円の申告漏れを指摘されたことについて税務署長宛に抗議文を送りつけたことがありました。
1996年1月のことです。新潟地方検察庁の封筒をつかい、検事正の肩書をつけての抗議文でした。
自分は公益の代表者として調査を止めさせることが出来る。検察庁の立場から見ても不満が残る、と抗議文に書かれていました。驚くべき職権濫用です。検事正への処分が戒告処分にとどまったのが不思議でなりません。
国税庁は一般職員に決してノルマを課していないといいます。しかし、国税局や税務署では、各年度ごとに増差総額をまとめていますから、一線の調査官には無言のプレッシャーになっている。
国税庁は世論の動向にきわめて敏感な官庁である。中小企業には厳罰でのぞみながら、巨大企業はマルサの聖域となっている。マルサは一度も大企業に踏みこんだことがない。ところが、もし大企業をあげると、その効果は絶大なものがあります。ケタが違うからです。三菱商事がカリブ海のバハマにペーパーカンパニーをつくっている課税逃れを摘発されたとき、隠し所得はなんと110億円でした。
大企業の海外取引に国税当局がちょっと目をつけると、次のとおりの税額が回収できたのです。ホンダ117億円、京セラ127億円、船井電機165億円、武田薬品570億円、ソニー324億円、マツダ76億円、三菱商事22億円、三井物産25億円。
すごいものです。まだまだあることでしょう。これはほんの氷山の一角だと思います。
大新聞などのマスコミのほか、創価学会にも申告漏れないし課税逃れがあると著者は指摘しています。ところが、公明党が政権与党になって、国税庁は方針を変え、甘い姿勢を示すようになったといいます。権力は国税よりも強し、なのです。困ったことです・・・。
小泉純一郎も、地元の暴力団関係企業やゼネコンのために秘書が口利きをしたと厳しく糾弾されています。人生いろいろ、そんな言い逃れは許せません。
国税庁が警察や検察をしのぐ日本最強の情報収集力を本当にもっているのかは大いに疑問です。でも、アル・カポネが捕まったのは脱税によるものでした。金丸信自民党副総裁も脱税による逮捕で失墜してしまいました。国税権力は今後も時の権力者にしっかり目を光らせてほしい、納税者の一人として願っています。
ハーバードMBA留学記
アメリカ
著者:岩瀬大輔、出版社:日経BP社
東大在学中に司法試験に合格し、卒業したあとハゲタカ・ファンドと呼ばれるコンサルタント会社に就職し、それからハーバード・ビジネススクールへ留学した青年の体験記(ブログ)を本にしたものです。あのハーバードで成績上位5%の優秀性だったというのですから、すごい秀才であることはまちがいないのでしょう。それでも、そんなに優れた日本の著者が、ビジネススクールへ入っていかに金もうけをするかしか念頭にないかのように見えるのは残念なことだと、つくづく思いました。
社会的弱者の存在に温かい目を向け、その人たちとの連帯をどう考えていくのかを自らの課題とする。また、自然環境の保全に身を挺するなかで自分の生き甲斐を探る。そんな方向に日本の優秀な若者の英知を向けられないものなのでしょうか。
お金は所詮はお金。あればあるだけムダづかいするという人のなんと多いことでしょう。
前にアメリカのMBAは、実は企業にまったく役に立っていないと厳しく批判したMBA教授の書いた本を紹介しました。実は、私もまったく同感です。
アメリカのMBAについて私が反感を抱くのは、MBAを卒業して経営者として成功した人たちの報酬が、とてつもなく高いという点です。著者も、この点については、次のように批判しています。
それにしても、アメリカの経営者の報酬は高すぎる。社長が就任して数年たつと数千万ドルから1億ドルの報酬を普通に受けとっている。アメリカも決して昔からこうだったわけではない。アメリカの底辺労働者は日本と同等かそれ以下の給料しかもらっていない。それなのに、トップは100億円の報酬をもらっているなんて、これだけでもアメリカとアメリカのMBAが飢えた野獣を放置しているような野蛮な国だということが分かる。
著者は日米の医療サービスの質を次のように比較しています。
お金持ちにとっては、アメリカが圧倒的に上。しかし、普通の人や低所得層にとっては、日本は夢のような国だ。日本の医療は、全国津々浦々、所得に関係なく医療サービスを低コストで提供してきたという点で素晴らしい。
ホント、そうなんです。ところが、小泉・安倍と歴代の自公政権は日本の良さを破壊し、アメリカ並みに引き下げようとしています。本当に困った連中です。
この本は、日本の学校給食は世界に類のない素晴らしい制度だと絶賛しています。幼稚園でピザとコーラを食べているアメリカの食生活の貧しいことといったらありません。
アメリカでハリケーン・カトリーナが襲ったとき、真っ先に逃げ出したのは営利の病院スタッフであり、最後まで残って市民を介護し続けたのは非営利の病院だった。なーるほど、ですよね。
なんでもお金が万能。そんな生き方を礼賛するMBAって、本当に人間社会に必要なのでしょうかね・・・。
若者はなぜ3年で辞めるのか
社会
著者:城 繁幸、出版社:光文社新書
この著者の「内側から見た富士通・成果主義の崩壊」は大ベストセラーになりましたが、成果主義の虚像を事実をもって暴いた点に深い感銘を覚えたことを覚えています。
大企業の人事部は、たいてい通常の人事業務に加えて、結婚仲介的業務がある。
なーるほど、今でもそうなんですね。官庁のキャリア組についても同じ部署があると聞きますが・・・。
企業が欲しがっているのは、組織のコアとなれる能力と、一定の専門性をもった人材である。TOEICは、ちょっと前は500点そこそこだったが、今は600点代後半にまで上がっている。このように企業が学生に課すハードルは上がっている。
企業においては、権限は、能力ではなく年齢で決まる。技術者にとっては、事務系よりはるかに深刻だ。キャリアを重ねても、必ずしも人材の価値が上がるとは限らない。なぜなら、技術の蓄積よりも、革新のスピードのほうが重要になった業種が急速に増えているから。
日本の企業において、休暇は会社の温情によるサービスであり、労働者の権利とは認知されていない。もちろん、労基法では権利とされている。そんな無茶苦茶な労働環境の下で、黙々と働く日本人は、勤勉ではあるが、ヒツジの従順さのようなものだ。
ヒツジを逃がさないようにするには方法が二つある。一つは逃げられないように鎖でつなぐ。もう一つは、そもそも逃げようという気を起こさせないこと。
企業が体育会系を好むのは、彼らが主体性をもたない人間だから。徹底した組織への自己犠牲の精神、体罰さえも含む厳しい上下関係というようなカビの生えた遺物が、いまも多く体育会では脈々と受け継がれている。
彼らは、並の若者よりずっと従順な羊でいてくれる可能性が高い。つまり、つまらない仕事でも、上司に言われた以上はきっちりこなしてくれる。休日返上で深夜まで働き続けても、文句は言わない。彼らにとっては、我慢こそ最大の美徳なのだ。
他人より少しでも偏差値の高い大学を出て、なるたけ大きくて立派だと思われている会社に入り、定年まで勤める。夜遅くまで面白くもない作業をこなし、疲れきってはネコの額のような部屋に寝るために帰る。そして、日が昇るとまた、同じような人間であふれかえった電車にゆられて、人生でもっとも多くの時間を過ごす職場へ向かう・・・。
それこそが幸せだと教えこまれてきた。だが、少なくとも、それだけで一定の物質的、精神的充足が得られた時代は、15年以上も昔に終わった。
その証拠に、満員電車に乗る人たちの顔を見るといい。そこに、いくばくかの充足感や、生の喜びが見えるだろうか。そこにあるのは、それが幸福だと無邪気に信じ込んでいる哀れな羊か、途中で気がついたとしても、もうあと戻りできないまま、与えられる草を食むことに決めた老いた羊たちの姿だ。
著者は、若者はもっと自分の権利を主張すべきだ。自分の人生を大切にすべきだ。投票所に行って、きっちり意思表示すべきだ。こう強く主張しています。この点は、まったく同感です。
21世紀のマルクス主義
社会
著者:佐々木 力、出版社:ちくま学芸文庫
数学史を専攻すると同時にマルクス主義とりわけトロツキイの信奉者でもあるという著者がマルクス主義を現代に復権させようと主張している本です。
著者はコミュニズムを共産主義と訳すのは、若干アナクロニズムであり、賞味期限が切れているという印象を抱いています。共産というより共生というべきではないかと主張するのです。
著者は環境社会主義を説きます。この環境社会主義は、初版社会主義の解放目標を保持し、社会民主主義の軟弱な改良主義的目的と、官僚社会主義の生産主義的構造とを拒否する。エコロジー的枠組み内での社会主義的生産の手段と目的を再定義することを主張する。持続可能社会のために本質的な成長の限界を尊重する。
現代帝国主義は、自然に敵対する帝国主義である。とくに、核兵器は、現代帝国主義の政治的、モラル的矛盾の結節点である。
ソ連「社会主義」の一時的挫折、中国の市場原理の導入をもって、マルクス主義本来の社会主義プログラムの蹉跌とみるのは、あまりに早計である。
ソ連邦時代の公有財産は、彼らのもとで急成長した新興成金によって「強奪」されてしまった。かつての「労働者国家」ソ連邦が変貌した現在の資本主義ロシアでは、かつてのノーメンクラトゥーラである「デモクラトーゥラ」は国民の資産をかすめとって私物化し、さらに「強奪化」し、経済を混乱の極に陥れている。彼らを国際資本が助けている。
今日の大方の論者は、ソ連邦の崩壊をもって社会主義思想一般までも有効さを喪失したかのように喧伝しているが、レーニンとトロツキイは、ソヴィエト国家を社会主義をめざすべき政体と見なし、その意味で「社会主義的」政体と呼んでいたものの、マルクス主義的意味での本来的な社会主義体制であると断定的に名指ししたことはないのだ。
アメリカ型資本主義が勝利した。ソ連型社会主義は敗北した。マルクス主義なんて前世紀の遺物だ。そんな通説がいま根本的に疑われているのは確かです。なにしろ、アメリカ型資本の基盤の弱さには定評があります。その典型的例が治安の悪さです。人々が安心して暮らすこともできない社会にしておきながら、世界の憲兵として全世界を支配しようなんて、虫が良すぎます。
マルクス主義の復権がなるかどうかは別として、政治の光はもっと弱者保護に向かうべきだと私はつくづく思います。ところが、安倍政権の高官が先日、格差を云々することは社会主義をもとめているようなものだと強弁しました。現代日本で格差が加速度的に拡大しているのは現実です。その格差縮小を目ざすのが社会主義だというのなら、日本は社会主義を目ざすべきだということになります。
2007年2月 8日
天皇の軍隊と日中戦争
日本史(現代史)
著者:藤原 彰、出版社:大月書店
現代史・軍事史研究の権威であった著者は陸軍士官学校を出て陸軍将校として中国へ派遣され、決戦師団の大隊長となったが、陸軍大尉として無事に戦後、復員してきました。その体験をふまえての軍事史研究ですから、やはり重味が違います。
兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊の特徴だった。圧倒的勝利に終わった日清戦争をみてみると、日本陸軍の戦死傷者はわずか1417人。ところが病死者はその10倍に近い1万1894人。患者総数はのべ17万1164人であり、出動部隊の総人員17万3917人に匹敵している。これは軍陣衛生に対する配慮が不足し、兵士に対して苛酷劣悪な衛生状態を強いた結果である。
日露戦争のときには兵士を肉弾としてつかい、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。ベトンで固めた旅順要塞に対して、銃剣だけに頼る決死隊の総攻撃をくりかえして死体の山を築いた。
兵士の生命の軽視がもっとも極端に現れたのが補給の無視だった。精神主義を強調する日本軍には、補給・輸送についての配慮が乏しかった。武士は食わねど高楊枝とか、糧を敵に借りるという言葉が常用されたが、それは補給・輸送を無視して作戦を強行することを意味していた。
アジア太平洋戦争における日本軍の死没者230万人の半数以上が、餓死か栄養失調を原因とする病死である事実を直視しなければならない。
硫黄島の戦いを描いたクリント・イーストウッドの映画を2本ともみましたが、日本軍が兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に欠けていたという指摘は本当にそのとおりだと思いました。2万人いた守備隊のうち1000人ほどしか生還しなかったのです。栗林中将が自決したときにはまだ3000人の日本兵がいたというのに、降伏しないまま 2000人が死んでいるという事実は、実に考えさせられます。
兵士の自主性を認めず、その生命を軽視している日本の軍隊が、その存立の起訴として重要視したのは、軍紀を確立し、絶対服従を強制することだった。絶対服従が習慣となるまでに、兵営生活の中で習熟させた。
ただ、この点はアメリカ軍でも同じような気もします。ベトナム戦争を扱った映画「プラトーン」や「ハンバーガーヒル」「フルメタルジャケット」などに、新兵を殺人マシーンに仕立てあげていく様子がリアルに再現されています。
最後の支那派遣軍総司令官だった岡林寧次大将が戦後(1954年)に偕行社で行った講演が紹介されています。
日露戦争の時代には慰安婦は同行しなかったが、強姦もなかった。ところが、昭和12年になって、慰安婦を同行しても、なお多くの強姦する兵士が続出した。
1939年(昭和14年)、陸軍次官は、中国戦線から日本へ帰還した日本兵が中国での虐殺や強姦の事実をしゃべることのないよう取り締まれという通達(通牒)を陸軍の各部隊に発した。というのは、帰還兵たちが、たとえば半年にわたる戦闘中に覚えたのは強姦と強盗だけだ、と言っていたから。
著者は南京大虐殺を幻だとか捏造だと決めつけている論者を厳しく批判しています。
たとえ捕虜の撃滅処断1万6000、市民の被害1万5000としても、それは大虐殺である。中国側のあげる南京での30万人の大虐殺という数字は、白髪三千丈式の誇張であるとし、それを攻撃することで、南京大虐殺は捏造だと決めつけることが、日本人として取るべき態度なのか。捕虜の不能な殺害や市民に対する残虐行為が、正確な数は不明としても多数存在したことは、消しがたい事実なのである。数の多少を問題にするのだったら、範囲を広げれば、いくらでもその数はふえるのである。
日本軍が、軍紀の弛緩と中国人、アジア諸国に対する蔑視観とから、大規模な残虐行為を犯したことは遺憾ながら事実なのである。その事実を直視し、原因の追及と批判を行うことが、忌まわしい歴史を後世への教訓として生かすことになる。
私は、この指摘にまったく同感です。私の亡父も中国戦線へ一等兵として送られていました。幸いなことにマラリアなどの病気にかかって本国送還されて南京攻略戦には参加していませんが、侵略軍の一員であったことは事実です。その子どもとして、日本人は加害者であったという事実を直視しなければいけないと考えています。
2007年2月 7日
小泉の勝利、メディアの敗北
社会
著者:上杉 隆、出版社:草思社
小泉純一郎が首相になったときの内閣支持率は80%。5年たって辞めたときの支持率は60%近かった。なんという馬鹿げた現象だろうか。自民党ではなく、日本社会を徹底して破壊した男に対して、日本人がこんなにまで高く評価するとは・・・。
この本は、小泉政権発足を支えた功労者でもある田中眞紀子の虚像を暴くところから始まります。
眞紀子の実母への冷たい仕打ち、秘書や身近な者に対する冷酷さ。弱者に光をあてる福祉の実現を目ざすと眞紀子が言うとき、その言葉はむなしい。しかし、その虚像を知りながら、マスコミは眞紀子を天まで高く持ち上げてきたし、今も持ち上げています。その罪はまことに重大です。
小泉のメディア戦略は、首席秘書官の飯島勲によって立てられた。活字よりテレビ、一般紙より週刊誌。一般紙にちょこっと書かれるよりも、スポーツ新聞にドーンと書かれたい。
テレビは政治劇場と化していた。ワイドショーなどの情報番組は、特異なキャラクターをもつ政治家を頻繁に取りあげ、主に主婦層をターゲットに昼間の視聴率を競っていた。
役者はそろっていた。小泉純一郎、田中眞紀子、塩川正十郎、竹中平蔵の言動が連日テレビにのって伝えられた。司会者やコメンテーターは、彼らは政治を分かりやすくしてくれた立役者として高く評価し、くり返し、その映像を流した。
本当にこんなことでいいのでしょうか。この本は「メディアの敗北」といっていますが、私はメディアは「敗北」したのではなく、小泉と一緒になって国民を欺した共犯者だと考えています。視聴率至上主義で、世の中がどうなろうと自分たちの知ったことじゃないと無責任に走ったのです。「敗北」なんて、きれいごとですませてほしくはありません。
テレビには陥穽がある。画面に流れる番組の大半は事前に録画されたものであり、番組制作者の恣意がたやすく入ってしまう余地がある。都合のいい場面やコメントを切りとり、視聴者の求めていると思われる番組づくりを繰り返す。
テレビに限らず、実は、日本のメディアにはタブーが多く存在する。
暴力団、芸能界の腐敗、電通、皇室など。私は、ほかにもまだたくさんのタブーがあると考えています。
日本のメディアは、自己規制によって自らタブーをつくっている。
2005年夏の郵政解散・総選挙について、著者は、それをジャーナリズムにとっての「敗北の墓碑」だと断言する。メディアは、小泉の欺瞞を暴き、視聴者や読者の前に提示し、選挙中に選択の材料として提供することができなかった。つまり、権力監視というジャーナリズムの最大の仕事を全うできなかった。
この本で救われるのは、著者がこうやって反省しているのを知ることができることです。しかし、この反省は決してジャーナリズム一般に共通しているとは思われません。悲しいことです。いままた安倍首相の憲法改正論を当然のことのようにマスコミはたれ流しているではありませんか・・・。
2007年2月 6日
司法改革
司法
著者:大川真郎、出版社:朝日新聞社
日弁連の長く困難なたたかい。こんなサブ・タイトルがついています。読むと、なるほど司法改革とは日弁連にとって長く困難なたたかいであったことが、ひしひしと伝わってきます。
著者は元日弁連事務総長です。その交渉能力は卓越しています。一癖も二癖もあり、それぞれ一家言をもつ副会長によって激論となり、難行することもしばしばの日弁連正副会長会を見事に取り仕切り、理事会や日弁連総会で熱弁をふるって全国の弁護士を何度も黙らせ(いえ、心服させ)ました。稀代の名事務総長と言えるでしょう。
近年のわが国の改革は、政治改革(見事に欺されてしまいました。小選挙区制になって日本の政治は決定的に質が落ちてしまいました)、行政改革(省庁再編って、何の意味があったのでしょうか)、税制改革(たしかに、大企業と金持ち優遇税制に大きく変わりましたね)など、すべて政府がすすめた改革であった。しかし、司法改革だけは、日弁連が初めに提唱し、行動に立ち上がった改革だった。
それは、「2割司法」とまで言われるほどの国民の司法離れを直視することにはじまった。裁判件数が減っていた。
ところが、福岡県弁護士会が大分県弁護士会とほとんど一緒の時期に始めた当番弁護士制度が弁護士会の体質を変えた。それは国民のほうに弁護士会が一歩足を近づける取り組みだった。やがて、この当番弁護士制度には、裁判所・検察庁そして警察も協力するようになっていった。
日弁連では、正副会長会、理事会、総会などにおける民主的討議を経て、合意が形成される。そして、その前提として、ほとんど、専門の委員会で調査・研究・討議されてできあがった案が日弁連正副会長会に出され、そこで承認されると、理事会にかけられる。理事は単位会の会長を兼ねることも多く、その出身会での議論をふまえて意見を述べ、裁決のとき賛否を表明する。このように日弁連は官僚組織と異なり、下からの討議を積み上げて合意を形成していくのを基本とする。毎月の理事会は2日がかり、正副会長会のほうは毎週のように開催され、徹底的に議論します。これは私も一年間ほとんど東京に常駐して体験しました。膨大な資料の山と格闘しながらの討議です。もちろん、議題によっては関係する委員会の担当者にも議論に参加してもらいます。
この本には、福岡選出の日弁連副会長が何人も登場します。西山陽雄、森竹彦、国武格、前田豊副会長です。なぜか荒木邦一副会長の名前が抜けていて、惜しまれます。
司法修習生の修習期間を短縮するのを認めるのかどうか、日弁連で大激論となりました。私は今でも2年修習が本来必要だと考えていますが、時の流れが短縮化にむかっていました。司法予算を増やさないなかで司法試験合格者を増やすというのですから、必然的に修習期間を短縮せざるをえません。
司法制度改革審議会が設置されたのは1999年(平成11年)7月。小渕内閣のとき。このような審議会をつくるのを決めたのは橋本龍太郎内閣のときのことだった。日弁連から、中坊公平元会長が委員として加わった。事務局にも2人の弁護士が入った。日弁連が内閣の審議会の運営にかかわったのは前例のないことだった。
2002年2月、合格者を年間3000人とする中坊レポートが発表され、弁護士会内に激震が走った。なにしろ、当時は、年間1500人増を認めるかどうかで激しい議論をしていたのだから、その2倍の3000人なんて、とんでもないという雰囲気だった。
久保井会長は、日弁連にとって重い数字であるが、反対するわけにはいかないと述べた。 日弁連は、このころ司法改革を求める100万人署名運動に取り組んでいた。結果的には、なんと260万人の署名を集めることができた。
2000年(平成12年)11月1日に開かれた日弁連臨時総会は荒れた。午後1時から始まり、夜10時までかかった。執行部案に反対する会員が議長の解任決議を求め、壇上にかけあがって議事の進行を阻止しようとまでした。このときの裁決は賛成7437、反対3425で執行部案が承認された。
ここに、法曹人口は法曹三者が決めるのではなく、社会の要請にしたがって決めるという新しい枠組みがつくられた(確認された)。そして、ロースクール(法科大学院)についても前向きにとらえることになった。
最終意見書が発表されると、その具体化のために11の検討会が設置された。これにも日弁連は積極的に関わった。
司法改革は今、一応の制度設計を終わり、実行段階に入っています。いろんな分野で一斉になされるため、まだまだ細かいところが決まっていないというところもあります。たとえば、裁判員裁判です。
それにしても、この本を通読すると、日弁連が会内で激しい議論を重ねながら、まさしく紆余曲折を経ながらも、国民のための司法をめざしてがんばってきたことが分かります。
あえて難を言えば、著者の主観が極力排除されているため、エピソードが少なく、あまりにも淡々としているきらいがあります。あくまで冷静に冷静に、激動の司法改革の流れを振り返った書物なのです。
多くの国民、とりわけ若手弁護士に読まれることを心から願っています。
2007年2月 5日
私の夫はマサイ戦士
世界(アフリカ)
著者:永松真紀、出版社:新潮社
いやあ、いつの時代も日本の女性は元気バリバリ、勇敢ですね。実に、たいしたものです。まいりました。ひ弱な日本の男に目もくれないのです。トホホ・・・と、つい日本人の男の一人として愚痴りたくなりました。
カリスマ添乗員であり、マサイ戦士の第二夫人というのはどんな女性なのか。写真を見て、うむむ。文章を読んで、なるほどなるほど、ついつい唸りました。
添乗員といっても、並のガイドではありません。あの「沈まぬ太陽」の主人公のモデルとなった小倉寛太郎がもっとも信頼したガイドという肩書きがついているのです。これで私は、ますます畏敬の念を覚えました。
小倉寛太郎氏は残念なことに、2002年10月に肺がんで亡くなられました。私も一度だけ大先輩の石川元也弁護士の出版記念会のときに名刺交換をさせていただきました。あたたかい人柄がにじみでるような温顔でした。
福岡・北九州出身の女性がアフリカ、ケニアの地で活躍しているのを知るのも、うれしいことです。この本を読むと、ケニアとくにマサイ族の実情をかなり知ることができます。
著者はマサイ戦士にあこがれていました。ところが、マサイ戦士のほうも著者を見て、たちまちプロポーズ。第二夫人にならないかと声をかけてきました。あれよあれよの展開のうちに、結婚式にいたるのです。運命の出会いなんですね。
著者が、夫となるべき男性(ジャクソン)に出した条件は3つ。第三夫人をもらわない。女の子のとき、割礼は本人の意志にまかせる。仕事を続けることを認める。
今ではケータイをもつ人(上級青年)が9割ということですが、それでもマサイ族の伝統は十分に保持されているようです。
ケニアの人口は3240万人。マサイ族は30万人。マサイ族からも弁護士・医師・外交官・大臣が出ている。
マサイの人々は、儀式などのほかは肉を食べることはほとんどない。日常的には、牛乳か、牛乳に牛の血を混ぜたものを食べている。集落内で肉を食べることは禁じられている。
男は家畜の世話が主な仕事。女はタキギ拾いや水汲み。食事の準備、家屋の補修もする。
男と女は別々に生活する。夫婦でも食事は別。寝るのも別。水浴びにも一緒に出かけることはない。女の求める男からの愛情表現は、家畜をもらうこと。第一夫人と第二夫人に対しては、平等に家畜や財産を分け与えないと一夫多妻制も難しい。
この本にはセックスについても、かなりあけすけに書かれています。
マサイにとって、セックスは子どもをつくる行為であると同時に、男と女が愛をたしかめあうという双方向のものではない。女に快楽があることをマサイの男は知らない。だから、夫妻のあいだでも、スキンシップがない。
著者は夫にポルノビデオまで見せて教育しようとしたようですが、なかなかうまくいかなったといいます。
マサイの男が美人だと思う女性の条件は顔やスタイルではなく、身につけているビーズの多さ。女性の乳房にも興味を示さない。それは子どものためのもの。そもそもセックスについて話すのは、マサイだけでなく、ケニア人全般においてタブーとなっている。
マサイは一生のうち4回、名前が変わる。生まれたときにつけられる幼少期の名前、割礼直前にもらう少年期の名前、戦士時代の名前、そして最長老になったときの名前。それぞれの世代にふさわしい言葉を長老たちが選んで名づける。
マサイにとってもっとも重要なことは、年長者を敬うこと、モラルをもつこと、マサイの伝統文化を尊重すること。
長老は身体をつかう仕事ではなく、知恵をつかう。村では頻繁に長老会議が開かれる。儀式のこと、牛の病気のこと、ほかの氏族との争いごとをどう治めるかなど、実にいろんなことを話しあい、決める。
マサイにとって、人は生きているときがすべて。死んでしまうと、それは物体でしかない。墓地はない。森の中の適当な場所に埋めるだけで、墓標も立てない。お墓まいりの習慣もない。
結納金は牛4頭。嫁入り道具はひょうたん4つ。こんな文句がオビに書かれています。九州男児なんて何するものぞ。そんな自信と誇りにみちた著者の顔写真に迫力負けしてしまいました。
2007年2月 2日
朝鮮人戦時労働動員
日本史(現代史)
著者:山田昭次、出版社:岩波書店
朝鮮人が戦前、日本に渡ってきたのは自発的なものであって、強制されたわけではないという主張があるが、それは次のような調査結果からすると、まったく机上の観念論でしかない。
1940年から始まった穀物供出制度により、朝鮮の農民は自家の飯半分まで取り上げられたので、貧困は一層激しくなり、農民の離村は強められた。下層農民の衣服はボロ着で、着換えもなかった。農民の主食は粟・稗・高梁・どんぐり・草根木皮そして副食物は野菜と味噌だけだった。1939年と1942年の旱害のときには、餓死者や栄養不良による行路死亡者が多数発生した。
そのような状況のなかで、ある農民は毎日ひもじい思いの生活を送り、妻子が栄養不足のために死ぬことを恐れ、1939年11月にすすんで募集に応じた。すると、就業する職場も告げられないまま、日本に連行された。
実は、私の亡父も三井の労務課徴用係として朝鮮に出向いたことがあります。京城の総督府に出頭すると、既に三井から連絡が行っていて、列車で500人ほどを連行してきたというのです。三井の職員9人で500人もの大勢の朝鮮人を日本へ連れてきたというのですから、なかには「自発」的な朝鮮人も少なくなかったと思います。亡父は、やっぱり朝鮮では食えなかったからね、と自分たちの行為を正当化していました。ところが、食べられないようにし向けたのは日本の政策だったわけです。
昭和14年(1939年)から昭和16年までの3年間に、日本へ渡航した朝鮮人は 107万人。「募集」制度によって日本へ渡った朝鮮人は15万人。
このように大量の出稼ぎ渡航者の存在と、強制連行者の併存が、戦時期の植民地朝鮮からの人口移動の実態だった。つまり、日本の責任は重いということです。
1939年に朝鮮に「募集」に言った人の体験談が紹介されています。
当時、朝鮮はどこへ行っても失業者ばかりで、「募集」への希望者が殺到して断るのに苦労した。
1941年2月、内務省警保局保安課長は、日本へ連れてきた朝鮮人が逃亡しないよう、家族も日本へ呼び寄せることを促進するよう命じた。日本の官憲や企業は、家族呼び寄せを朝鮮人の逃亡などの防止手段として利用した。その結果、特高月報によると呼び寄せた家族数は、1943年12月現在で4万158人になった。
貧しさという朝鮮人の生活条件の形成に日本が大きく関与していれば、朝鮮人の決断をそのような方向に導く条件をつくった日本の責任が問われねばならず、朝鮮人の対日渡航が自らの意志によると、単純に言えない。そして、農民の貧窮化の発端は、総督府による土地調査事業に出発している。
朝鮮人戦時労働動員は戦時下の植民地他民族抑圧の一つの形態だった。朝鮮を日本の植民地としていた。植民地下にあっても、朝鮮人は朝鮮人であって、日本人ではなかった。日本人は、きちんとした事実認識をもつべきである。
まったく同感です。亡父が強制連行に手を貸していたという一事をふまえて、私も自らがしたことではないとしても、朝鮮の人々に対して日本人の一員として謝罪すべきだと考えています。
鹿児島藩の民衆と生活
江戸時代
著者:松下志朗、出版社:南方新社
著者はあえて薩摩藩と呼ばず、鹿児島藩としています。鹿児島・島津家の所領は薩摩・大隅・日向の3ヶ国にまたがっていたからです。
そして、そもそも藩という呼称が行政上のものとして歴史に登場してくるのは、徳川幕府の大政奉還のあと、明治になってからのことなのです。
江戸幕府が藩の公称を採用したことは一度もなく、旗本領は知行所といい、1万石以上の大名の所領は領分と公称されていました。うむむ、さすが学者ですね。厳密です。
それはともかく、本書では領内の百姓の生活が史料にもとづいて紹介されています。
文化3年に志布志に近い井崎田村の門百姓たち11人が、志布志浦から船に乗って上方見物に出かけ、伊勢神宮に参拝して帰ってきた記録が残っている。98日間もの物見遊山を当時の農民たちはするほど生活のゆとりがあった。
江戸時代の農民がかなり自由に旅行をしていたことは、今ではかなり明らかになっています。当の本人たちが日記を残しているのです。日本人って、昔も今も本当に記録好きの人が多いのですよね。かくいう私も、その一人です。
鹿児島藩には、責任者としての名頭(みょうとう)がいて、その下に、名子(なご)がいました。
農民は、役人が勝手に新田を開発したと考えたときには、実力でその新田をうちこわすという過激な実力行動をすることがありました。これも百姓一揆の一種なのでしょうね。
飢饉のために貧農が飢えているときに藩ができないときには、村内の有徳者(豪農)に救済を依存していた。
隠れ切支丹ではなく、隠れ一向宗の門徒が藩内に大量にいた。村によっては900人近く、村民の8割が一向宗門徒だったところもあった。これだけ多いと藩当局は門徒全員を処罰することも出来ず、代表者を見せしめ的に切腹させて終わらせていた。
藩内で菜種栽培が盛んとなり、菜種油をめぐって商人が活躍するようになった。商業活動が盛んになると、当局へ訴訟が起こされ、また窮乏し欠落する農民が頻発するようになった。日本人は昔から裁判沙汰を嫌っていたのではありません。あれは明治中期以降の政府にによる誤った裁判抑制策にもとづく嘘に踊らされているだけなのです。
また、鹿児島藩は積極的な唐通事優遇策をとっていた。唐通事は漂着した唐船を長崎に回送するときの通訳の役目を担う人々のことで、数十人もいた。うち2、3人を長崎へ留学させていた。唐通事として功績をあげると、門百姓の子が郷士へ上昇することができた。
江戸時代の農民の生活の一端を知ることのできる本です。
ケータイの未来
社会
著者:夏野 剛、出版社:ダイヤモンド社
おサイフケータイをカギとして利用する分譲マンションが福岡市にある。カギとして利用するほか、電子メールをつかった合鍵新規発行、帰宅をメールで知らせる解錠通知、カギのかけ忘れを確認する、入退室履歴を参照する、などなどができるすぐれものだ。
先日の新聞に日本のケータイ・メーカーは中国市場から撤退したとのことです。欧米のメーカーに負けてしまったのです。ところが、日本のケータイは世界のなかで抜群に質が高いというのです。機能や商品としての完成度が格段に違うそうです。それでも欧米のメーカーに安さで負けてしまいました。世の中、むずかしいですね。この原因は日本人のプレゼン能力のなさだけではないでしょう・・・。
おサイフケータイは、クレジット産業との一層の提携を考えているようです。月1万円以下ならドコモが与信する。そのほか、20万円以上のクレジット・カードとも結びつける。
ドコモは5兆円、KDDIが3兆円、ボーダフォンも1兆5千億円。日本のケータイ事業者は、いずれも1兆円企業。3社あわせて10兆円近い売上げがありながら、経済界のリーダーにはなりえていない。
私のケータイが目覚ましにもつかえるというのを最近知りました。そして、この本によると、人間の耳には音として聞こえないけれど、不快な音でない目覚ましの役目を果たす音域のものが開発されているそうです。すごーい・・・。
先日、FAXをケータイに送ることができるということも聞きました。インターネットと結びついたIモード・ショックによってケータイの進歩はとどまるところを知りません。でも、ケータイでテレビを見たり、本を読んだりって、本当に必要なのでしょうか。私もケータイは持っていますが、カバンのなかにしまい忘れたり、一日一回もつかわなかったりという程度でしかありません。公衆電話が町になくなってしまったので、ないと困るのです。
クライエントに私のケータイ番号を教えることもしていません。たまに突然呼び出し音が鳴るので出てみると、間違い電話だということがよくあります。
2007年2月 1日
憲法は政府に対する命令である
社会
著者:ダグラス・ラミス、出版社:平凡社
日弁連会館で著者の講演を初めて聞きました。まさに目が洗われる思いがしました。著者は日本語ペラペラのアメリカ人です。津田塾大学で20年間、政治学を教えていました。退職後の現在は、沖縄に住んでいます。1960年にも海兵隊員として沖縄に駐留していました。1936年の生まれです。
著者は、日本国憲法が押しつけ憲法であることを否定するべきではないと主張します。
憲法とは、そもそも押しつけるものである。なぜなら、憲法は政府の権力・権限を制限するものだから。民衆が立ち上がって、政府の絶対権力を奪取し、それを制度化するために憲法を制定するというのが世界各地で起きたこと。
だから、問題は押しつけ憲法かどうか、なのではない。誰が、誰に、何を押しつけたのか、ということである。なーるほど、そういうことなんですよね・・・。
日本を占領・支配したGHQが憲法草案をつくって日本政府に渡したとき、ホイットニーは、日本政府がすぐに案を日本の民衆に公開しなければ、GHQが公開するぞ、と脅した。GHQは、日本の民衆が必ず憲法草案を支持するという自信があった。そして、その予測は当たった。日本の民衆は日本政府への新憲法の押しつけに参加したのである。
ところが、半年もたたずして、GHQのほうは日本の民衆を共産主義勢力ないし、そうなりやすい人々として敵意と恐怖心をもって見はじめた。そして、憲法施行してまもなくから後悔していた。
いま、憲法9条、とりわけ9条2項が問題となっている。交戦権とは、兵士が人を殺す権利である。侵略権なるものは、現在の国際法のもとでは、そもそも存在しない。
交戦権とは、侵略戦争をする権利ではなく、戦争自体をする根本的な権利である。交戦権は、兵士が戦場で人を殺しても殺人犯にはならないという特権だ。それは兵士個人の権利ではなく、国家の権利である。
国家とは、正当暴力を独占(しようと)する社会組織である。
自然権としての自衛権は、生きものに限って当てはまる。国家は生物でもなく、自然には存在しない人為的な組織である。したがって、国家が自然権の持ち主であるわけではない。自然権としての自衛権は国ではなく民衆が持っている。
日米安保条約によって、アメリカ政府が日本国の主権の一部をアメリカへ持って帰った。日本の外交政策の基本を決める権利はアメリカ政府が握っている。
著者は講演のなかで、日本の平和運動が安保条約反対を唱えることが少なく(小さく)なったことを不思議がっていました。なるほど、そう言われたら、たしかにそうですね。
日本の首都にたくさんの米軍基地があり、沖縄は基地の中に点々と町があって、日本人が住んでいるといった感じです。世界で何か紛争が起きるたびに、日本政府はアメリカ政府の指令のままに動く意志なきロボットの存在でしかありません。
世界中の笑われ者が日本という国です。そんな国が国連の安保常任理事国をめざすというのですから、ちゃんちゃらおかしいですよ。お金があれば、国連のポストだって買えると日本の支配層は錯覚しているのでしょうね。馬鹿げた話です。
日本の自衛隊は、軍隊の組織を持ち、軍服を着て、軍事訓練を受け、戦争のための武器をもっている。しかし、肝心の軍事行動はまったく出来ない。わけのわからない組織だ。これは歴史の産物である。これは、日本政府と日本民衆の平和勢力との矛盾なのである。しかし、このような矛盾した状況ではあるが、憲法ができてから現在までの60年間、日本の交戦権の下で、一人の人間も殺されたことはない、という事実がある。すなわち、一見すると死んだように見える憲法9条は、すっとこどっこい生きているということだ。
大変わかりやすく、日本国憲法がいかに今の世の中に必要なものか、アメリカ人が日本語で語った本です。一読を強くおすすめします。
2007年2月28日
会社とは何か
社会
著者:日本経済新聞社、出版社:日本経済新聞社
私は学生時代のちょっとしたアルバイト以外、会社で働いたことがありません。この本を読むと、つくづく会社に入らなくて良かったと思ってしまいました。人員削減、派閥抗争など、営利本位の企業という制約以上の悪弊が多くの会社にはあり過ぎるような気がします。もっと社会のための会社というのがあって良いように思うのですが、そんなことを言うと、現実の厳しさを知らな過ぎると叱られそうです。
アメリカを中心に、世界のファンドが企業買収に回せる資金の総額は100兆円を上まわる。時価総額トップクラスのゼネラル・エレクトリック(アメリカ)やエクソン・モービル(同)が40兆円ほどだから、買えない会社はないということ。
マイクロソフトは時価総額30兆円。2004年暮れには、3兆円もの配当を実施した。おかげで、アメリカの国民所得の伸び率がはね上がった。うーん、そうなんですかー。
2005年(1〜7月)に日本企業が決めたM&Aは1500件をこえた。M&Aは、今や、めったにない非日常の出来事ではなく、あらゆる企業が成長のテコとして使いこなす時代となった。
ボーダフォンはソフトバンクに買収されたが、このとき、負債の山と引きかえに顧客 1500万人をそっくり手に入れた。
会社法が改正され、一定の条件をみたす非上場企業なら、取締役は1人でいいことになった。そこで、新日鉄化学は、グループ会社にいた69人の取締役を7人に減らした。ええーっ、そんなことができるのですか。ちっとも知りませんでした。
法改正で委員会等設置会社というシステムが導入された。しかし、この委員会制を導入した電機大手会社は、みな経営不振となり、導入していない自動車会社は快走している。日本には、経験豊かな社外取締役の層が薄いところに問題がある。そうはいっても、日本の主要企業2000社の半分以上に社外取締役がいる。
ソニーのトップは外国人(ハワード・ストリンガー)。彼は、自宅がロンドン近郊、そしてニューヨークに常駐する。東京の本社には、月に1〜2回通う程度。ソニーグループの社員の6割は外国人。利益も海外で稼いでいる。
今や、インターネットによる取引が個人の株式売買の8割を占める。
世界には創業200年以上という長寿企業がある。しかし、それはアメリカには1社もない。長寿の秘訣は、環境に敏感、強い結束力、寛大さ、保守的な資金調達にある。
日本全国のコンビニ4万2000店の7割が脱サラなどによる「持たざるオーナー」である。
日本では、過去30年で、新入社員の入社動機が変わった。1971年では、将来性があるというのが3割でトップ。現在は、個性を生かせる、仕事が面白い、自分らしく仕事ができて手早く結果を出せる職場に人気が集まる。
三井物産は13年ぶりに独身寮を新設した。今なぜ同じ釜の飯が重視されるのか。寮生活を通じて若いうちに人間関係を存分に培ってもらい、人を育てたいというのだ。今こそ人材だ。
大卒者の2割が職に就かず、入社して3年間のうちに3割が離職する。
うむむ、なかなか大変な状況ですよね。
2007年2月27日
警察庁から来た男
著者:佐々木 譲、出版社:角川春樹事務所
「うたう警察官」に続く、道警シリーズ第2弾です。北海道警察に警察庁から監査が入ります。東京からやってきたのはキャリアの監察官です。いったい、今度は道警の何を問題にしようというのか。道警本部は戦々恐々です。
北海道には管区警察局がない。行政域の広さが他の地方の管区ほどもあるので、とくに管区警察局は置かれず、直接、警察庁の監督のもとに入っている。この点は、警視庁に似ている。
私の大学時代の同級生の一人が警察庁に入り、県警本部長や首相秘書官(?)などを歴任したあと管区警察局長をつとめ、まもなく退官し、いまは天下りして公団理事をしています。管区警察局長はキャリア組の上がりのポストの一つになっているのです。
道警本部では、有名な警部の不祥事のあと、生活安全部を強化すべく部長を警察庁から派遣されたキャリアになった。ところが、そのキャリア部長が自殺してしまったので、道警本部がポストを奪い返し、今では道警本部採用の準キャリアが部長になっている。
ファイル対象者とは、私生活や素行に問題があると見られる警察官のこと。いったんファイルが作成されると、その警察官がどこの所轄署や部局に異動になろうと、ファイルそのものもついてまわる。上司は対象者に対し、必要に応じ、監督と指導を行う。
ススキノ交番は、4階建て。勤務する警察官は50人。いわば小さな城塞だ。
監察の対象となった事件は2つ。一つは、タイ人の若い女性が売春させられているところから逃げ、交番に走りこんだのに、交番の警察官が追ってきた暴力団に何ごともなかったように身柄を引き渡した件。もう一つは、ボッタクリ・バーでトラブった客が不自然な転落死をした件。二つの事件のどこに共通項があるのか・・・。
推理小説(最近は、警察小説と言います)ですから、もちろん、ここで、そのタネ明かしはできません。なかなかよく出来た本だという感想を述べるにとどめます。
警察官にとって、退職後どうするのかは、職業人生の半ばを過ぎたあたりから、昼も夜も頭を離れない大問題となる。警察と関係の深い自動車学校や交通安全協会の役員は幹部の指定席。ウェイティングリストまである。
大部分の警察官は、退職後は自力で再就職先を探し、現場労働者として働いて年金給付年齢がくるのを待つ。つまり、ほとんどの退職警官は、何の専門性も生かせない民間企業に再就職し、慣れない仕事で苦労して、たちまちのうちに老けていく。
キャリア組は違う。天下り先に事欠かず、困ることもない。
警察でも団塊世代の大量退職が始まりました。老後をいったいどう過ごすのかは深刻です。釣り三昧などで悠々自適をしはじめると、とたんに亡くなってしまいます。そのため警察共済は、黒字だといいます。在職中にひどいストレスを受けて、それと共生してきていたのに、そのストレスから突然解放されると、今度は燃え尽き症候群のようになって、まもなく生命の炎が消えてしまうというのです。
先日、「あるいは裏切りという名の犬」というフランス映画をみました。ジェラール・デパルデューも出演する警察映画です。デパルデュールは団塊世代です。私と生まれた月まで同じ(1948年12月)というのを初めて知りました。この映画では、野心満々、権力欲だけがギラギラしている警視の役まわりを演じています。
フランスの警察には日本と違って労働組合があります。ときにはストライキをし、デモまですることで有名です。ところが、そんなフランスの警察はかなり高圧的で強暴なことでも定評があります。そして、暗黒街との癒着もあるようです。この映画には、そんな実話を下敷きにしています。寒々とした展開です。フランス映画の例にならって、どんな結末なのか、最後まで予想できませんでした。見終わったとき、重い疲労感が残りました。
日本の警察もフランスと同じで、内奥まで入っていくと決して清潔とは言えないことを、この本は背景にしています。
先日、名古屋の読者の方から、言葉づかいについて配慮が足りないというご指摘を受けました。私としてはズバリ本質をついた表現だと一人悦に入っていましたが、なるほど、そのような懸念もあるのだと反省し、早速、訂正しています。
誰か読んでくれているのかなあ、なんて思いながら書いていますので、こういう形で反響があること自体は、とても手ごたえを感じるものです。今後とも、どうぞご愛読いただきますよう、よろしくお願いします。
2007年2月26日
サルの子どもは立派に育つ
サル
著者:松井 猛、出版社:西日本新聞社
高崎山のサルを30年間観察してきた人の本です。大変勉強になりました。なにしろ2500人のサル(最近は、匹などとは言わず、人間と同じく、人と呼んでいると思います)を全部、見分けることができるというのです。たいしたものです。どう見ても同じような顔をしていると思うのですが・・・。でも、日本人もアメリカ人からすると、みんな同じような顔に見え、まったく見分けがつかないという話を聞いたことがあります。
母サルは母乳だけで育てる時期は、赤ん坊がお乳を欲しがると、いつでも飲ませる。生後3ヶ月すると、赤ん坊たちは遊びに飽きると母ザルの元に戻って、お乳を飲もうとする。
赤ん坊のしつけに一番効果があるのは、授乳拒否。赤ん坊は泣きつかれると、母ザルはつい赤ん坊の背中に手をかけてしまう。これが授乳許可を出したサインとなる。
母ザルは授乳拒否に時間をかける。これによって、それまで赤ん坊のペースにあわせてきた子育てが、次第に母ザルのペースに変わる。赤ん坊は、授乳拒否を経験して、お乳を飲みたくなっても、そーっと乳房に手を伸ばし、母ザルの反応を気にするようになる。
母ザルは授乳拒否するとき、赤ん坊の目をのぞきこんで叱る。赤ん坊は母ザルから目をそらそうとするが、母ザルは赤ん坊の後頭部を握って正面を向かせ、お母さんの目を見なさいとばかり、荒々しくふるまう。このとき、母ザルは自分の気持ちを赤ん坊に伝えようと真剣、一生懸命だ。
母ザルは赤ん坊にお乳は与えるが、それは、餌を与えることは絶対にない。餌のある場所に連れていって、見守るだけ。野生の世界で生きていくには、食べ物を与えないことこそが愛情なのだ。
赤ん坊が手に入れたイモを母ザルが奪う。それは母ザルが奪わなくても、必ずほかの大人ザルから奪われる。そのとき、かみつかれて、大ケガしてしまうかもしれない。こうやって子ザルはイモを奪われないようにしてから食べることを学ぶ。
ニホンザルの妊娠期間は人間の半分、5ヶ月半。6月が出産のピーク。母ザルは、2〜3年に1回、出産する。赤ん坊は出産当日から1ヶ月内が一番危険。赤ん坊が母ザルとはぐれると、ほとんど死んでしまう。
双子が生まれる確率は低い。1万回の出産で9組のみ。そのうち2人とも1歳まで育ったのは3組だけ。
サルの母と娘の上下関係は、死ぬまで母親の立場が強い。サルは母子家庭。メスザルの出世は血筋で決まる。母ザルは、子どもたちが兄弟ゲンカしたときは、必ず年下の側を応援する。だから、弟や妹の方が威張っている。
メスザルは、一生のうちに10〜12人の赤ん坊を出産する。オスは4〜5歳のとき、故郷を離れる。
ボスザルはもてない。メスザルと関係して生まれた娘たちを交尾する危険があるから。だから、群れに入ったばかりの血縁のない若いオスザルがもてもてになる。
写真がたくさんあって、楽しい本です。中学生のとき、修学旅行で高崎山に行きました。餌場で右手をサルにがぶりとかまれて痛い思いをしました。私は、すぐ近くのサルにまず餌をやったのですが、次に今度は遠くのサルに餌をやろうとしたのです。それを見て、近くにいたサルがどうしてそんなことをするのかと怒ったのです。私としては、サルに公平に餌をやりたいという善意の気持ちからしたことでした。その痛みで、サルと人間の常識の違いが身をもって分かりました。
2007年2月23日
ぼくの村は戦場だった
著者:山本美香、出版社:マガジンハウス
今年40歳になる日本人女性のフリージャーナリストが世界各地の戦場をかけ巡った体験レポートです。本当に勇気ある女性です。私なんか一ヶ所だって行く勇気がありません。
彼女が行った国は、この本で紹介されているだけでも、アフガニスタン、ウガンダ、チェチェン、コソボ、イラクなのです。一つだけでも、ぞっとします。そこへ彼女は重いカメラ機材などを運びこみながら取材してまわったのです。うむむ、すごーい。
タリバン支配下のアフガニスタンで、秘密の勉強会を取材します。大学生が、友人の家を転々としながら勉強していたのです。そこでは、女性にブルカを強制するのに対して、次のような怒りの声が上がります。
私たちはズダ袋じゃない。頭から足先まで隠せなんて、女性の自由を奪うもの。イスラム法にそんな定めはない。
アフガニスタンでは、ほとんどがお見合い結婚だ。子どものときに親同士が許嫁(いいなずけ)を決め、適齢期になると結婚する。親と親、家と家の結婚で、本人たちの意志はあまり反映されない。
一夫一妻が認められている。4人まで妻を娶(めと)ることができる。ただし、妻には平等の生活を保障することが条件となっている。だから、実際には金持ちでないと無理。 ウガンダでは、子ども兵士の存在が深刻だ。LRAゲリラは、草木が生い茂る4月と収穫期の10月に子どもたちの誘拐と食糧の調達のために北部に侵入してくる。これまでに拉致された子どもは2万人以上、避難民は160万人。
ロシアでは、何をするにも当局から賄賂を要求される。ウィスキーから現金まで、やる気の度合いをモノで証明しなければならない。
チェチェンで死んだロシア兵は、政府発表によると4000〜5000人。実際にはもっと多く、1万人を超えるとみられている。
イラクのサマワに日本の陸上自衛隊がいたとき、宿営地をぐるりと囲むように設置された9ヶ所のコンテナハウスを拠点にして、イラク人警備兵が24時間体制で警備にあたっていた。その数300人。無線はない。日本軍である自衛隊をイラクの民間人が自動小銃で守っていた。彼らは月給200ドルをもらっています。そして、今や失業してしまいました。
サマワから自衛隊が撤退するときは、正門に地権者が補償を求めて押し寄せていたので、裏門から逃げるようにして出た。サヨナラ・パーティーも開かれなかった。
先日の新聞に、サマワに行った自衛隊幹部が、日本には憲法9条があって戦争できないことになっているとイラク人に説明して安心してもらっていた。だから、憲法9条は大切だ。そう語った記事がのっていました。私も、まさしくそのとおりだと思います。
著者の今後のご無事を心よりお祈りします。あまり無理しないで下さいね。
S−1誕生
社会
著者:白坂哲彦、出版社:エビデンス社
国産初の世界レベル抗癌剤の開発秘話というサブ・タイトルがついています。実に20年以上かけて有効な抗ガン剤を開発したという話です。いやあ、たいしたものです。その地道な苦労に頭が下がります。
抗ガン剤開発に携わる人間にもっとも必要とされる要素は、好奇心と執念。この仕事はケタ違いにスパンが長く、根気のいる仕事を毎日続けなくてはいけない。
抗ガン剤の開発が感染症などの治療薬の開発に比べてはるかに難しいのは、標的となるガン細胞が体外から侵入してきた外敵ではなく、自分自身の体の一部だから。
ガンの場合、ガン細胞は自分の体の正常細胞が異常増殖を始めたものなので、ガン細胞と正常細胞との間には、ヒトと病原部生物の細胞間にみられるようなはっきりした違いはない。
抗ガン剤であるマイトマシンやプレオマイシンのルーツは、関東地方や九州で採取された土中の微生物にある。同じくアドリアマイシンもアドリア海の砂からみつかった微生物にルーツがある。
いやあ、どこに貴重品がころがっているのか、世の中って本当に分からないものですね。
会社というものは、誰もが成功に一役買いたいと考えるような、きれいごとの世界ではない。なかにはアラ捜しをして点数稼ぎをする者もいるし、やっかんで足を引っ張ろうとする者も出てくる。
著者が開発したS−1は、基礎研究に15年、臨床試験に6年4ヶ月、承認の申請から承認まで1年3ヶ月、合計22年6ヶ月かかりました。すごい歳月です。
著者たちは、ご飯が食べられるガン治療を目ざしたのです。ガン患者から生きる力を奪うのは、悪心、嘔吐、食欲不振、下痢、口内炎、全身倦怠感という副作用。たしかに、これらがあったら生きてる気がしませんよね。
S−1は、外来通院でQOLを保ちながら、長期間投与することが可能。抗ガン剤の特徴は、はっきり効果が認められたものは、世代を超えてつかわれ続けることにある。
20年後、日本も世界も、ガン治療は外来主体になっている。著者はこのように予測しています。果たして、そうなるのでしょうか。
S−1は、進行・再発胃ガンの治療薬として承認され、その後、応用範囲が広がっているということです。このような地道な研究・開発をすすめておられる研究者に対して心より敬意を表します。
まさに平和産業の最たるものです。もっと世の中の光をあてていいように思います。
三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国
日本史
著者:石野博信、出版社:新泉社
三角縁神獣鏡は、単なるおまじないの鏡だったという説が紹介されています。驚きです。古墳のなかに置かれていた位置と数からして、本当に値打ちの高い良い鏡だったか疑問だというのです。うーん、そう言われても・・・。
この本では邪馬台国・九州説がコテンパンにやっつけられています。福岡県南部に生まれた私としては、もちろん昔から心情的には九州説なので、大変悲しいことです。山門郡のある瀬高(女山。ぞやま)あたりだという本居宣長(もとおりのりなが)の説に共感してきました。しかし、瀬高だったら船で30日かかる距離ではないし、遺跡も多くはないとバッサリ切り捨てられています。
それでは、最近有名な、あの吉野ヶ里ではどうでしょうか・・・。これもダメというのです。民家が密集しているようなところは、広大な王宮と矛盾するとされています。
そして、戸数5万戸あるという投馬国が九州説ではどこに位置するのか、説明されていない。ここが最大の弱点だと指摘されています。
著者は、投馬国は吉備国(今の岡山)、邪馬台国は大和だとしています。大和国山辺郡を想定しています。
奈良盆地には、古くから山辺(やまのべ)の道と上(かみ)つ道がある。そこらあたりに邪馬台国はあった。私も、この2本の古道を現地で歩いてみたいと考えています。
卑弥呼は魏王から銅鏡100枚を贈られました。このとき倭国使節団は、別に2000〜3000枚もの鏡をつくらせて倭国へ持ち帰ったと著者は推定しています。
三角縁(ふち。えん)神獣鏡は日本に500面が見つかっているが、中国では一枚も見つかっていない。そうなんですよね、なぜなのでしょうか・・・。
「卑弥呼以死」とあるのを、卑弥呼は殺されたとする新しい解釈が提起されています。そして、卑弥呼は、自分の生きているうちに墓(寿墓)をつくっていたのだ、というのです。松本清張が言い、それを支持する学者もいるそうです。「以死」というのは自然死のときには使わない用語だというのです。
前方後円墳というのは、幕末の勤王志士・蒲生君平(がもうくんぺい)が名づけたもの。しかし、長突円墳と呼ぶべきだとの主張が紹介されています。そして、これは壺の形に似せてある。蓬莱山をあらわしているというのです。
最新の学説の状況が分かる面白い本です。
2007年2月22日
修身教授録
社会
著者:森 信三、出版社:致知出版社
戦前の昭和12、13年、教師養成期間である師範学校の生徒を対象として修身科の授業をした、その講義録です。生徒に口述したものを書き取らせるという授業のやり方でした。修身の国定教科書をまったく使わず、独自に口述したのです。異例なことでした。
中味は、こうやって70年後に復刻されるだけの価値があります。とても高度で、濃い内容の授業です。倫理・哲学の講師であった著者42歳のときの渾身の授業です。
われわれの日常生活の中に宿る意味の深さは、主として読書の光に照らして、初めてこれを見いだすことができる。もし読書しなかったら、いかに切実な人生経験をしていても、真の深さは容易に気づきがたい。書物を読むことを知らない人には、真の力は出ない。
読書は、われわれ人間にとっては心の養分なので、一日読書を廃したら、それだけ真の自己はへたばるもの。一日読まざれば、一日衰える。
人間は、読書しなくなったら、それは死に瀕した病人がもはや食欲がなくなったのと同じで、なるほど肉体は生きていても、精神は既に死んでいる証拠だ。ところが、多くの人々は、この点が分かっていない。心が生きているか死んでいるかは、何よりも心の食物としての読書を欲するか否かによって知ることができる。大丈夫です。これを読んでいるあなたは、今、しっかり生きています。
本を読むとき、分からないところがあっても、それにこだわらずに読んでいく。そして、ところどころピカリピカリと光るところに出会ったら、何か印をつけておく。ちなみに私は、すぐに赤エンピツでアンダーラインを引くようにしています。
人を知る標準に五つある。第一には、その人が誰を師匠としているか、第二に今日まで何を自分の一生の目標としているか、第三に今日まで何をしてきたか、第四に愛読書は何であるか、第五に友人は誰なのか、ということ。
人間の知恵は、自分で自分の問題に気がついて、自らこれを解決するところにある。人間は、自ら気づき、自ら克服した事柄のみ、自己を形づくる支柱となる。単に受身的に聞いたことは、壁土ほどの価値もない。自分が身体をもって処理し、解決したことのみが、真に自己の力となる。
人間が学校で教わることは、ちょうど地下工事にあたる。その上に各人が独特の建物を建てる。その建物のうち、柱は教えであって、壁土は経験である。
性欲の萎えたような人間には、偉大な仕事はできない。みだりに性欲をもらす者にも、大きな仕事はできない。人間の力、人間の偉大さは、その旺盛な性欲を、常に自己の意志的統一のもとに制御しつつ生きてくることから、生まれてくる。
人生は、ただ一回のマラソン競争みたいなもの。この人生は二度と繰り返すことのできないもの。この人生は二度とない。いかに泣いてもわめいても、われわれの肉体が一たび壊滅したら、二度とこれを取り返すことはできないのだ。したがって、この肉体の生きている間に、不滅な精神を確立した人だけが、この肉の体の朽ち去った後にも、その精神はなお永遠に生きて、多くの人々の心に火を点ずることができる。私がモノカキとして精進しようとしているのも、ここに理由があります。
一時一事。人間というものは、なるべく一時(いっとき)に二つ以上のことを考えたり、あるいは仕事をしないようにしたほうがいい。ある一時期には、その時どうしてもなさなければならない唯一の事柄に向かって、全力を集中し、それに没頭するのが良いのだ。
いろいろ考えさせられることの多い修身授業ではありました。やはり、国定教科書を押しつけるなんて、ダメなんですよね。「心のノート」なんて、まったくうわべだけのものと思います。
2007年2月21日
プーチンのロシア
世界(ロシア)
著者:ロデリック・ライン、出版社:日本経済新聞出版社
エリツィンは共産主義打倒に全身全霊で打ち込んだ。そしてある程度の成功を収めた。その後も共産党はロシアの政界で相当の組織力を維持している。しかし、1996年の大統領選挙でエリツィンがジュガーノフに勝ってからは、ロシアが共産主義イデオロギーや計画経済に復帰する可能性はなくなったようだ。
共産党の幹部や議員は、政権を黙認することで特典にありつける現状に満足しているようだ。
エリツィンが共産主義に対する勝利を得た代償として、民主主義と経済は犠牲にされた。1996年にエリツィンが再選されたのは、ごく少数の財界人たち、のちに新興財閥(オリガルヒと呼ばれる)による資金援助とテレビ支配のおかげだった。
プーチンはチェチェンに対するロシアの反撃を指揮した。それは長い屈辱の日々の終わりかと思え、その効果によって、国民のあいだにプーチンについて、強固な意志と実行力を兼ね備えた人物だというイメージが生まれた。
プーチンの個人的人気こそ、プーチンの二大資産の一つだ。もうひとつは、大統領という地位そのものにある。
ロシアでは、下院の議席は多くの議会人にとって実入りのいい収入源と化していた。下院の独立性は次第に失われていった。
ロシアは理想にはほど遠い状態にある。今なお組織犯罪や契約殺人が頻発している。それでも、他の過渡期にある国や新興国に比べると、公正で迅速な裁判が受けられると考えられるようになった。
ユコス事件で経営者が逮捕されたことから、プーチンに対して本気で挑戦する者は容赦されないことが明らかになった。見せしめとして狙い撃ちされたのだ。
プーチンの「統一ロシア」は3000万人の党員確保を目ざしている。旧ソ連の共産党員は2200万人だった。
男女あわせると100万人をこす軍人がいるし、退役軍人も数百万人いる。
かつて軍は権力装置のひとつであり、国の誇りであり、社会の中心的な支柱だった。しかし、現在の軍には、その面影はない。徴兵者の大部分は入隊を拒み、実際に入隊した若者はひどい虐待を受け、軍とは関係のない建設現場で働かされたりする。
ロシア国内には400をこえる大規模犯罪グループが存在し、およそ1万人が関わっており、国家的脅威となっている。
実際の法執行はきわめて弱く、末端レベルでは贈収賄が横行している。
ロシアの人口は1億4300万人。1993年から500万人も減った。今も、毎年 70万人ずつ減り続けている。2010年からは年に100万人ずつ減っていくと予測されている。えーっ、それはすさまじいことです。
男性の平均寿命は59歳となった。1980年代初めは65歳だったのに・・・。自殺は5万9000人。殺人による死は4万7000人。アル中による中毒死は6万7000人。
ロシアの軍需生産の5割以上が輸出向けで、年平均10億ドルもの兵器を購入する中国が最大の輸出国。
ロシアでは政治的自由がしだいに制限されていっている。KGBの後継機関(FSB)が息を吹き返し、法と説明責任をこえて活動している。
私は、もともと旧ソ連に社会主義なるものがあったとは思いません。そこには社会主義に名を借りた封建主義があったと思います。そして、今は、資本主義の名のもとにとんでもない自由放任主義、すなわちお金と力(暴力)をもつものが社会にのさばっている現実があるとしか言いようがありません。
ロシアの現実を知ると、「社会主義はダメだ。資本主義、万歳」だなどと叫ぶ人の気がしれません。
2007年2月20日
「特攻」伝説
日本史(現代史)
著者:原 勝洋、出版社:KKベストセラー
第二次大戦中に、日本軍のカミカゼ特攻隊がアメリカ軍の艦船に体当たりしていった事実はよく知られています。この本は、アメリカ・メリーランド州にあるアメリカ国立公文書館?にある太平洋方面における戦闘記録と写真を掘り起こした写真集です。
日本軍の陸海軍機がアメリカ軍の艦船に体当たりしていく状況をとらえた写真360枚が紹介されています。まさしく迫真の状況です。
アメリカ軍は、カミカゼ特攻機が飛来し、爆弾を抱いて突入する姿、艦に体当たりする瞬間、被害箇所を克明に撮影し、記録していたのです。
61年前の若い日本人青年たちが、体当たりの一瞬に人生のすべてを燃焼させていった記録写真です。彼らの出撃前のあどけない顔写真もあわせて紹介されています(こちらは日本軍がとった写真です)。
この本によると、特攻機の命中率は語られていた以上に良かったようです。アメリカ軍の作成した資料によると、1944年10月、特攻機の命中率は42%、至近弾として損害16%で、合計58%。これによる損害として、命中した艦船は17隻、沈没したのは3隻。1944年10月から1945年3月までの間に、特攻が356回実施され、命中したのが140回で39%、命中と至近弾損害をあわせると56%にもなっている。命中した艦船は130隻で、沈没したのは20隻。沈没した船は1944年12月に11隻だったが、1945年に入ると、1月3隻、2月1隻、3月にはゼロとなっている。
著者は、この写真と記録を見て、平和の時代に生きて良かったと実感させられたと述べていますが、私も本当にそう思いました。あたら有能な青年の前途を奪った戦争をくり返させてはなりません。
アメリカ軍艦船「イントレピッド」の飛行甲板に突入した体当たり機操縦の特攻壮士の遺体写真について。人間の生命を犠牲とすることを前提とする特攻。この現状を知ってなお、「特攻攻撃は操縦する特攻壮士の崇高な意志を信頼してはじめて成立するもの」などと言えるだろうか。遺体写真のキャプションとして、著者は、このようにコメントしています。同感です。
特攻は特別攻撃隊の略語であり、これは確実な死を意味していた。まだ一縷の生還の望みがある決死隊とは、まったく違うもの。
それにしてもよく撮れたと思える写真です。はるか上空にいる日本のカミカゼ特攻機。艦に体当たり寸前の特攻機。本当に鬼気迫るものがあります。見上げるアメリカ軍兵士の顔が恐怖でひきつっているのまで判読できます。
この特攻攻撃の自己犠牲は、アメリカ海軍の将兵にとっては理解のできない、身の毛もよだつ行為だった。アメリカ軍の検閲当局は、体当たりカミカゼによる被害関係情報を一切禁止した。
出撃直前の特攻隊士の集合写真のなかには笑顔の青年も認められます。緊張した顔つきの兵士が大半ですが、それほど自己犠牲を当然視できていたのでしょう。教育の効果とは本当に恐ろしいことです。
この本にはアメリカ側の記録だけでなく、日本側の出撃記録によって、いつ、どこから、誰が出撃していったのか、その氏名も明らかにされています。ですから、この写真にうつっているカミカゼ特攻機にのっているのは誰だろうという推測も書かれています。
亡くなった日本人青年の冥福を祈ると同時に、こんな時代(事態)を再び招かないためにも、平和憲法を守り抜きたいと決意したことでした。
いずれにせよ、手にするとずしりと重たい写真集です。
2007年2月19日
コトの本質
社会
著者:松井孝典、出版社:講談社
中学時代の著者は、色浅黒く、剣道がやたら強いだけの少年だった。高校生になってからは、とくに際だつところも見られなくなった。学校の成績もトップレベルではなく、とくに目立つところは何もなかった。
ええーっ、と思う紹介文です。著者は東大理学部に入り、今も東大教授をしています。アメリカやドイツで大学教授もしているのですよ。そんな人が、中学・高校時代に目立つ成績ではなかったなんて、とても信じられません。
でも、この本を読むと、その秘密がなんとなく解けてきます。
毎日が楽しい。ゴールがはっきりしているから。何のために生きているかそれがはっきりしているから。自然という古文書を、読めるだけ読んで死んでやろう。そう思って生きている。
私の楽しさは、どう生きたいか、というところに根源がある。自分の人生なのだから、思うように生きてみたい。せっかくの人生だから、悔いがない形で、やりたいことはみなやって生きる。そう思っている。
うーん、まったく同感です。私は、人間というものを知りたい、知り尽くしたい、そう思っています。本を読み、人の話を聞くのも、みんなそのためです。
私の歓(よろこ)びは、考えるということと結びついている。考えていなければ、ひらめくことはない。それも四六時中、考えて考えていなければ突破できない。考えるということは、私の仕事。四六時中、考えに考えている状態。それが、まさに自分の望んでいた人生そのものなのだ。
考えるべきことは、頭の中に全部ある。混沌として霧に包まれた状態のなかにあるが、解くべき問題としてはきちっと整理されている。頭が澄み切っていて、何でもことごとく分かるように思える。そういう日が一年のうちに10日くらいある。
残念ながら、私にはそのような体験はありません。でも、今が一番、頭が澄み切って、冴えている。そんな気はします。少しは世の中のことが見えてきました。ですから、酔っぱらってなんかおれない。今のうちに、たくさん書いておこうという気になっています。
過去と未来を考えて生きているのは人間だけ。人間という存在は、時間的にも空間的にも、限りなく広い領域で、その果てを絶えず求めている。そういう存在なのだ。脳の中の内部モデルとしては、果てというものはない。したがって、我々はそれを永遠に追い求めていく。
やりたいことは、際限もなく出てくる。何でも興味があるから。
この世に生まれてきたということは、どういうことなのか。それは、その間だけ、自分で好きなように使える時間を得たということだろう。その時間こそ自分の人生そのものなのだから。それを100%自分の意志のままに使いたい。それこそが最高の贅沢で、至上の価値だろう。
自分の時間を人に売ってカネをもらうというのでは、何ともわびしい。自分の人生であって、自分の人生ではないようなものではないか。自分の時間を人に売り渡さず、考えることだけに没頭したい。
うんうん、良く分かります。本当に私もそう思います。
自分の知っている範囲のことをすべてだと思いこみ、あたかもそれが正論であるかのように、堂々としゃべる。そんな風潮が目につき過ぎる。そういう人たちには謙虚さがない。いまの日本は、限りなくアマチュアの国になりつつある。
私とは何なのか、そもそもそれを考えたことのないような人たちが、平気で我を語り、我を主張している。
問題がつくれない人は、エリートではない。解くべき問題を見つけるまでが大変なのだ。問題が立てられれば、解くのはある意味で簡単だ。
学問の世界では、自分で問題がつくれなければ、プロとして本当の意味で自立することはできない。
分かるということは、逆に言うと、分からないことが何なのか、ということが分かること。分かると分からないとの境界が分かること。
自分の身体は自分のものと考えているかもしれないが、本当は寿命のあいだだけ、その材料を地球からレンタルしているだけ。死ねば地球に戻るもの。生きるというのは、臓器とか神経系とかホルモン系とかの機能を利用することであって、物質は、その材料にすぎない。物質は、その機能を生み出すために必要なものにすぎない。
うーん、よく考え抜かれていることに、ほとほと感心してしまいました。さすがですね。すごい人がいるものです。私よりほんの少し年上の人だけに、つい悔しくなってしまいました。まあ、これも身のほど知らずではありますが・・・。
きのうの日曜日、庭に出るとウグイスが澄んだ声でホーホケキョと鳴いていました。いつもは初めのころは鳴きかたが下手なのですが、今年は、初めから上手に鳴いて感心しました。梅にウグイス。もうすぐ春ですね。気の早いチューリップは、もうツボミの状態になっています。庭の隅の侘び助に赤い花が咲いていました。
2007年2月16日
電話はなぜつながるのか
社会
著者:米田正明、出版社:日経BP社
私は、地下鉄のホームで携帯電話をつかって話している人を見かけるたびに、不思議でなりません。どうしてコンクリートの固まりの地下で電波障害を起こすこともなく、地上の人と話ができるのでしょうか・・・。
小さな細い電話線しかないのに、何万人、いや何百万人もの人々が一斉に電話をかけて混線しないのはなぜなのか。これまた理解できずに悩んでいました。この本を読んで、少しだけ理解がすすみました。もちろん、まぜ全部を理解したというわけではありません。本当に、この世は不思議なことだらけです。
電話ネットワークは、電話交換機のつながり。電話交換機同士は、1000本以上の線を束ねた太いケーブルでつながっている。これは、1000車線の道路でつながっているようなもの。
電話網を電話の動脈だとすると、共通線信号網は神経にあたる。共通線信号網がないと、電話交換機同士はお互いにメッセージを交換できない。
電話線の長さは、平均2.2キロ。
電話の音声は電気信号として電話線の中を進む。その速さは、真空中の60〜70%で、秒速18〜21万キロ。ポリエチレン絶縁体をつかうため、光速より少し遅くなる。
電話の声は、1秒間に300〜400回往復運動する音(周波数300Hzから3400Hz)を扱う。
電話の音声は、1秒あたり8000個の数値で表す。それぞれの数値は0〜255とする。この256段階の音を0か1で表すと、8ケタ(8ビット)が必要となる。だから、1秒あたりの音は、800×8ビットで6万4000ビットとなる。これを64キロビット/秒という。
人間の聴覚は小さい音の変化は敏感に感じとるが、大きな音量になると、音の変化に鈍感になる。そこで、耳が敏感な小さな音はなるべく細かく、耳が鈍感な大きな音は大ざっぱに数値化している。
複数の回線を一つの高速な伝送路に時間的に区切って束ねる。これを時分割多重という。光ファイバーをつかうと64ビット/秒の電話回線を2000本多重できる。
音を波形グラフで表し、これを刻々と高さの目盛りを読みとり、すべてデジタル情報に置き換えるのです。
要するに、音を電波に乗せるということは音波の速度ではなく、光速(正しくは、その6〜7割)ですすむので、1秒間に地球を7まわり半するだけの長いヒモがあり、そこに、0か1の数をたくさん並べても、並べ切れないほどになるという仕掛けです。
それでは、いったい、どうやってその長いレールにうまく乗せ、また、それから降ろす(取り出す)というのでしょうか。そこが分からなくなりました。
それにしても、電話がつながる根本のところが、この本を読むといろいろ図解してありますので、素人にもそれなりに分かります。