弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年1月15日

豪商たちの時代

著者:脇本祐一、出版社:日本経済新聞社

 団塊世代の日経新聞編集委員が書いた本です。さすがに新聞記者らしく、よく調べてあり、いろいろ勉強になりました。ただ、あえて難を言うと、少しゴテゴテと脈絡なしに盛り沢山になっていて、スッキリせず、読み難いところがあります。
 現代日本は世界有数の格差社会となり、金融資産を1億円以上もっている日本人が100万人いるということですが、江戸時代にもスーパーリッチの町人がいました。
 長者と呼ばれるには銀千貫、分限者は五百貫、金持ちは二百貫以上。銀を金に換算し、金1両を銀60匁とする。長者は1万7千両、分限者は八千両、金持ち三千両以上となる。 金一両を米一石、年貢は五公五民とすると、長者は三万五千石、分限者は一万五千石、金持ちは六千石に相当する。しかし、年貢米は籾を米にすると収量は半減するので、石高制にすると実質的に長者は七万石、分限者は三万石、金持ちは一万二千石の大名となる。
 こうやって具体的に数字をあげられると、江戸時代の大金持ちの町人というのは、並みの大名以上の存在だったということがよく分かります。
 江戸時代が外国に対して国を閉ざしていたと考えるのは大いなる誤認だ。著者のこの指摘に、私もまったく同感です。
 茶の湯で利休たちがお茶うけに使ったのは、シイタケやクリ、炒ったカヤの実だった。今日のような砂糖入りのお菓子になったのは江戸時代に入ってから。はじめ貴重な薬種として輸入された砂糖は、吉宗の国産化政策によって、讃岐や阿波で最高級品の和三盆が生まれた。
 1523年に中国の寧波で、堺が大内・博多連合と争った、寧波の乱というものがあったというのを初めて知りました。敗れた堺はやむなく南海路へ迂回せざるをえなくなりました。しかし、これによって種子島に鉄砲伝来したとき、堺にとってはかえってプラスに働いたのです。
 現代の華僑にあたる言葉を綱首と呼んだ。綱首は、13、14世紀に日宋貿易と博多の自治を担った。最初のチャイナタウンは長崎でも横浜でも神戸でもなく、博多だった。
 そうだったんですかー・・・。知りませんでした。博多にある妙楽寺の隣にイエズス会の教会もあった。うーん、なるほど・・・。
 江戸時代には、前半に人口爆発があった。江戸開府のころの日本人の人口は1200〜1500万人。100年後の元禄期末に2倍強の3000万人となった。そして、これは幕末までほとんど同じです。
 文化11年(1814年)、久留米藩と佐賀藩は米切手の不渡りを出してしまった。その額面は、なんと久留米藩は42万石、佐賀藩は20万石分にのぼった。ところが、両藩の大坂回米は、それぞれ最大でも年間7万石と6万石でしかない。
 町奉行所が仲裁して、切手を買った米問屋と蔵屋敷とのあいだで示談が成立した。久留米藩は100万石につき17万石を現銀で支払い、残りは20年の年賦とし、その間の利息は9年の年賦で返済する。佐賀藩は切手発行高の1割を毎年現銀で支払うが、そのうち35%を利息、65%を元本返済に充てるという内容。
 これは、実は米の販売を装った金融取引だった。久留米藩は空米切手事件を引き起こしたとき、堂島の米仲買から総計23万石という巨額の融資を受けていた。その多くは空米切手による借り入れだった。
 空手形の発行というのは、こんなに古くからあっていたのですね・・・。

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