弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年12月25日

西海の天主堂路

著者:井手道雄、出版社:新風舎
 久留米にある大きな病院の理事長兼病院長として活躍してこられた著者は、病を得て 2004年7月に亡くなられました。この本は、著者が生前書きためていた天主堂めぐりの紀行文を、その妻が整理して単行本にしたものです。長崎、佐賀、熊本など、九州西北部にあるキリスト教の教会を歴訪し、写真つきで紹介されています。旅行記としても、またキリスト教の歴史についても貴重な読みものとなっています。
 長崎県に生月島がある。いま生月島のカトリック信者は250人。ところが、ほかに1000人ほどの隠れキリシタンが今もいる。キリスト教から次第に土俗化し、先祖が信仰してきた教えを守り続けているだけなのだろう。キリシタンの暦は守っても、祈る内容には現世利益を願う意向が強い。自らを古(ふる)キリシタン、旧キリシタン、納戸神と称した。五島列島では、元帳や古帳ともいう。
 同じく長崎県の馬渡島にも隠れキリシタンがいた。葬儀のときは、仏式の葬儀のあと、見張りを立てて改めてキリシタン式の葬儀を行った。また、祈りや集会などのときにも、番人を立てて常に見張り、警戒を怠らなかった。
 唐津藩のほうでも潜伏キリシタンであるとはうすうす気づいていたが、僻地ではあるし、検挙すると逆に宗門改め不行き届きで幕府より咎められるので、知らぬふりをしていた。潜伏キリシタンの島民は宗門改めの絵踏みのときには拒まず、島に戻って神に謝罪の祈りを捧げていた。
 五島列島にも多くの潜伏キリシタンがいた。五島藩は、江戸時代には藩の経済上の問題もあって、見て見ぬふりをしていた。しかし、幕末から明治初期には、長崎の「浦上四番崩れ」と同じように、五島各地で「五島崩れ」と呼ばれる激しいキリシタン弾圧が繰り返された。
 明治元年のキリシタン人別調べのとき、多くの潜伏キリシタンが堂々と信仰宣言をした。200人以上もの人々が飢えと寒さのなかで拷問を受けた。
 久賀(ひさか)島の潜伏キリシタンは、190人も捕まり拷問を受けている。そのうち72人が20歳以下であり、10歳以下も45人いる。1歳の幼児までいた。
 福江島では、今でも町の野外放送で教会のお知らせが放送されている。ここでは、日常生活が教会を中心に動いている。
 実は、五島は32年前に私が弁護士になったとき、日教組への刑事弾圧事件が起きて弁護人として派遣された思い出の地です。弁護士になってすぐのことで、まだ弁護士バッジも届いていませんでした。警察へ面会に行くときにバッジは不可欠ですので、先輩弁護士のバッジを借りて出かけました。中学校の体育館に日教組の組合員が200人ほど集まっているところで挨拶させられました。まったく経験もなく、労働法も刑事訴訟法もよく分かっていない弁護士ホヤホヤの私でしたから、今考えても冷や汗一斗の思い出です。ともかく、お魚の美味しかったことだけはよく覚えています。
 この本を読んで最大の驚きは、久留米の大刀洗町今村に多くの潜伏キリシタンがいたということです。大刀洗というと、なにしろ筑後平野のド真ん中ですので、長崎のような離れ小島とは違います。
 16世紀公判から17世紀初めにかけて、福岡県南部の筑後地方つまり、久留米、柳川、今村、秋月、甘木に多くのキリシタンがいた。もっとも教会堂が多かったときには、久留米に二つ、柳川は一つ、今村に一つ、秋月に二つ、甘木に一つの教会堂があった。
 1605年(慶長10年)には、久留米から秋月に至る地方に8000人のキリシタンがいた。いまの筑後地方のカトリック信者の総数は2900人でしかない。当時のキリシタンがいかに隆盛であったか、よく分かる。
 今村の潜伏キリシタンは、仏教とを装いながら、祈りや教会暦を正しく継承し、純粋にキリシタン信仰を保ってきた。
 なーるほど、そういう歴史があったのですね。きっと、これも筑後藩大一揆の一つの要因となっていたのでしょうね。人民、おそるべし、です。

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