弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年12月 6日

近代ヴェトナム政治社会史

著者:坪井善明、出版社:東京大学出版会
 ヴェトナムが現在の姿になったのはここ2世紀のこと。西山党の光中帝(グエンフエ)が200年以上に及んだ鄭(チン)氏と阮(グエン)氏の対立に終止符を打ち、国を事実上統一した。中越国境からシャム湾までを名実ともに政治的に統一したのは、阮朝の初代皇帝・嘉隆(ザロン)帝(在位1802〜1820年)。
 中国が統治した時代が1000年以上も続いた。10世紀に中国から独立し、中国にならって君主政体を採用した。そして、19世紀前半まで、チャム人やカンボジア人を犠牲にして南に勢力を伸展させ続けた。チャム族は、現在は10万人にみたない少数民族にすぎない。しかし、2世紀末から、現在のヴェトナム中部のクアンナム・ダナン省を中心として強力な王朝をうちたてていた。インド文化を取り入れた社会を形成し、海上貿易を富の源泉とした。中国人は、この国を「林邑」と呼んだ。
 16世紀末に、ホイアンに日本町もうまれた。
 ヴェトナムと中国との関係は政府間の交渉関係にとどまるものではなかった。中国人は、何世紀も前から商人としてヴェトナム、とくにトンキンとコーチシナに定住していた。それに加えて、中国の海賊は米を運ぶヴェトナム船を頻繁に襲った。また、中国の海賊は、また沿岸地方に上陸し、食糧や女子どもを強奪した。このようにヴェトナム民衆は日常的に中国人と接触していた。
 阮(グエン)朝は独特の世界観をもっていた。ヴェトナムは中国と同じで、自らを世界の中心に位置すると称し、中国と兄弟であり、対等の国家とみなしていた。そこで、ヴェトナムの用語では、中国は「北朝」、ヴェトナムを「南朝」と呼んでいた。ヴェトナムの君主たちは、中国の皇帝と全く同じく、皇帝という称号を自ら使用していた。大南国皇帝と名乗った。しかし、フエ宮廷の使節は、北京の中国皇帝の前では「越南国王」の代理人としてひざまずいた。
 ヴェトナムは阿片を中国から密輸入した。これは、中国への米の不法な輸出と結びついていた。阿片と米が交換されていた。ヴェトナム人が阿片を吸う習慣は、19世紀初頭からまずコーチシナの華僑のあいだに広まり、その後、少しずつヴェトナム社会に浸透していった。フエの宮廷は定期的に阿片常用禁止令を発布した。が、効果はなかった。常用も密売も、なくならなかった。
 11月末から5日間、ベトナムへ行ってきました。その活気に圧倒される思いでした。かつてアメリカがベトナムに侵略・支配してベトナム人民と10年以上にわたって激しい戦争を展開していた爪跡はまったく残っていませんでした。いえ、博物館はあります。そこには教師が生徒を引率してきていて、生徒たちは真剣にメモをとって学習していました。しかし、終戦後30年たって、どこもかしこも平和に繁栄しているのです。町のなかはオートバイの洪水です。中心部にわずかに信号があるだけですので、通りを横断しようにも、決死の覚悟が必要です。ともかくゆっくり、走らないこと。バイクと車のあいだをゆっくりゆっくり、縫うようにして歩いていくのです。
 有名なクチに行って、そのトンネルにもぐってきました。アメリカ軍の支配を許さなかった集落です。サイゴン(現ホーチミン)からわずか60キロしか離れていないところに解放軍の確固たる拠点があって、そこを維持し続けたというのです。すごいものです。地下3層からなるトンネル構造のほんの100メートルほどを中腰ですすみました。おかげで翌日から膝のあたりがガクガクしてしまいました。真っ暗闇のなか、狭い狭い通路です。もちろん真っ直ぐではありません。曲がりくねり、下におり、上にあがりする通路です。平地でアメリカ軍とたたかうことの困難さの、ほんの一端は身をもって体験しました。でも、このちょっとした体験で初めて、ベトナム全土が30年前まで戦場だったことを実感することができました。
 今、ベトナムは大変化の真最中です。これからどう変わっていくのか、引き続きウォッチングしていきたいと考えています。
 一緒に旅行した仲間の皆さんに感謝します。とりわけ、企画した大塚弁護士、そしてクチ・ツアーを実現した伊達・黒木両弁護士にお礼を申し上げます。旅行会社の添乗員である今里氏には、またまた大変お世話になりました。

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー