弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年12月 5日

兵士と軍夫の日清戦争

著者:大谷 正、出版社:有志舎
 江戸時代の本百姓は戦時に武士の組織する軍団に付きしたがい、補給を担当する陣夫となった。日本は馬の数が少なく、在来種は体格貧弱で、かつ牡馬は去勢されず、蹄鉄(ていてつ)が不完全であった。 
 西南戦争と日清戦争までは、民間人を雇用して臨時の軍属、すなわち軍夫として、おもに大八車を引かせて補給業務を担当させた。近代陸軍というものの、後方は江戸時代の大名軍の小荷駄隊と大差なかった。
 日清戦争のとき海を渡った日本陸軍は、17万人あまりの正規の軍人と十数万人の軍夫から成っていた。戊辰戦争以前は武士と陣夫の戦争だった。西南戦争と日清戦争は兵士と軍夫の戦争で、義和団出兵後は兵士だけで戦争をたたかった。
 軍夫とは、過渡期の日本軍の補給業務を担当した臨時傭いの軍属のこと。軍夫には軍服も軍靴も与えられず、軍夫の雇用と管理は軍が直接におこなえず、軍出入りの請負業者が担当した。軍夫をまとめる小頭(こがしら)など、末端の実務者の多くは博徒だった。
 軍夫は国内では40銭、国外勤務のときは50銭の日給が支給された。しかし、軍夫の給金を請負人がピンハネし、また賭博で巻き上げられることが頻発していた。
 「文明戦争」をおこなうはずだった第二軍は、旅順攻略戦において、外国人の新聞記者と観戦武官の目の前で、伝統的な武士の軍隊らしく無差別殺人に走った。これが旅順虐殺事件として欧米のジャーナリズムから非難された。
 当時の日本では、旅日記をつける習慣は一般的であり、従軍日記も貴重だと考えられていた。日清戦争の当時、兵士たちは家族あてに、そして新聞社にあてて、部隊の移動や作戦目的までもあからさまに書いてきたし、新聞社側も伏せ字(×××)という自己規制をおこないながらも、兵士や軍夫の手紙を掲載した。明治時代、地方新聞は書き手が不足していたこともあって、積極的に投書を掲載していた。戦場からの手紙を紙面に掲載するのは、その応用だった。
 中国人に対する呼称も、当初の清国人から豚人、支那土人、チャンチャンという蔑称が普通となり、中国人の弱さと物欲を侮り、不潔・臭気を野蛮の象徴とみなすようになった。この戦場の兵士、軍夫たちの中国観は、また新聞報道や手紙を通じて故国日本の民衆に共有され、中国に対する蔑視観がかたちづくられていった。戦争が終わった後に人々の記憶に残ったのは、単純で一面的な清国蔑視観だった。
 新聞記事と戦場からの手紙には、具体的な戦争の実情が紹介されていた。
 戦時国際法を適用した「文明戦争」のはずが、日本軍はしばしば敗残兵を捕虜にせずに殺してしまった。兵站線が延びきって補給が追いつかず、兵士たちは食料を略奪し、ときには寒いなか民家を破壊して燃料を得て生きのびた。都市を焼き払うことは満州の戦闘で始まり、台湾植民地戦争では、予防的懲罰的な殺戮と集落の焼夷が普通の戦闘手段となった。そして、敵軍より恐ろしかったのは伝染病だった。
 日清戦争のころ、出征した兵士たちが故郷の新聞社に手紙を書いて、新聞がそれを競って掲載していたこと、それに戦場の実際がかなり紹介されていたことを知りました。それにしても、戦場は悲惨でした。
 先日、硫黄島のたたかいをアメリカ側から描いたクリント・イーストウッドの映画(第一部)をみましたが、戦場の悲惨は昔も今も変わらないのでしょうね。そして、戦争で肥え太る軍指導者と政財界の支配者という連中が安全な背後で笑っているという構図も・・・。

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